特選情報(2004年)

● 唐招提寺の金堂建立は鑑真没後(2004年12月25日)

 奈良市西ノ京の唐招提寺の金堂の軒部材に781年伐採のヒノキが使われており、鑑真の死後、奈良時代末ごろの建立であることがわかった。
 屋根の裏板を支える地垂木に樹皮が残っており、3本を年輪年代法で調べたところ、最も外側の年輪がいずれも781年を示し、金堂はその数年後に完成したと考えられる。
 唐招提寺は中国の高僧鑑真が759年、天武天皇の皇子の新田部親王の邸宅跡を与えられ、戒律の道場として開かれ、760年ごろ、平城宮にあった東朝集殿が講堂として移築された。
 これに対し、金堂は、寺伝では鑑真とともに中国から来日した弟子の如宝が建てたとされるが、建立年代については、鑑真の伝記に金堂の記述がないことや建築様式などから、鑑真没後から810年代までとする諸説があった。
 今回の調査で、金堂は鑑真の死後、天平文化が終わる奈良時代末ごろに建てられたことが裏付けられた。
 通常は最初に本尊をまつる金堂と塔を建てるの普通であるが、鑑真は戒律の道場として講堂を重んじて金堂や塔は造らず、金堂は鑑真の没後、寺の格を上げるために造られたと考えられる。

 

● バーミヤン遺跡で3〜5世紀の寺院跡発見(2004年12月19日)

 アフガニスタンのバーミヤン遺跡で3〜5世紀の寺院跡や彩色した多数の仏などの塑像の頭部が見つかった。
 寺院跡は東西2つあった大仏立像のうち、東側大仏の南東で見つかった。土器片の分析から、大仏立像が造られる以前の3〜5世紀のものとみられ、一部は2世紀にまでさかのぼるという。
 仏や菩薩などの頭部は、赤色などに彩色されており、ガンダーラ美術の特徴を伝えるものやインド北部のクシャン朝の塑像に似るものもあるという。
 また、長さ約300m、幅約30mの基壇を発見。基壇の上には粘土の塊も見つかり、七世紀初めにバーミヤンを訪れた玄奘が「大唐西域記」に記録した巨大な涅槃仏が乗っていた可能性がある。
 バーミヤンで地上の建造物を発掘したのは初めて。

 

● バーミヤン大仏の制作年代を特定(2004年12月18日)

 アフガニスタンの世界遺産バーミヤン遺跡で、2001年にイスラム原理主義政権タリバーンによって破壊された東西2体の巨大仏が、放射性炭素年代測定法により、いずれも6世紀代に制作されたと見られることが分かった。
 文化財研究所・ユネスコが行っている保存修復で、ドイツチームが両大仏の足元に残された複数の残骸の中に含まれるわらや木片などを採取し、放射性炭素年 代測定法で分析した結果、東大仏が紀元507±12年、西大仏が551±15年という年代が得られた。
 バーミヤン大仏は、7世紀の中国僧、玄奘が残した「大唐西域記」に記載されているが、文献記録がほとんどなく、制作年代は美術史的な様式などから諸説あり特定されていなかった。

 

● 五重塔の大型模型による公開振動実験(2004年12月16日)

 防災科学技術研究所で12月16日、五重塔の大型模型による公開振動実験が実施された。
 古代の塔の耐震性の謎を解き明かすために、五重塔の歴史や地震被害の歴史・研究史の基調講演の後、約600枚の設計図をもとに、米ヒバ材で造られた法隆 寺五重塔の5分の1の模型(高さ約6.7m)を使って実際に振動実験を行なわれた。今後、実験結果の考察を行い、詳しく分析する予定だという。

 

● 京滋などの美術館、博物館が共通パスを発行(2004年12月13日)

 京都、滋賀、大阪など関西の美術館や博物館など約50施設が連携し、全施設の入場券、割引券をセットにした関西初の共通券「ミュージアムぐるっとパス・関西2005」来年4月から発行されることが決まった。
 パスは1冊50枚つづりで1000円、各施設で1枚ずつ利用する。京都国立博物館、京都国立近代美術館、国立民族学博物館など国立6館を含む14施設はパス代金のみで鑑賞でき、他の36施設は数百円程度の割引券となる方針。
 関東地方では、既に東京都内の44施設の共通入館券「ぐるっとパス2004」が発行されている。

 

● バーミヤン壁画の制作時期を特定(2004年12月11日)

 アフガニスタン・バーミヤン遺跡の仏教壁画の制作年代が、5世紀半ばまでさかのぼることが判明した。
 壁画は、麦わらなどを混ぜた土で石壁を下塗りし、しっくいを塗り重ねた上に描かれていたが、名古屋大博物館と東京文化財研究所が壁画の断片が残る27の 石窟で、壁土内のわらなど39点を採取し、壁土の中のわらの繊維に含まれる炭素の放射性同位体の濃度を測定し制作時期を特定した。壁画は、作風などから 6〜8世紀ごろの制作とされていたが、5世紀半ばから9世紀半ばにかけてほぼ400年にわたって壁画制作が続いたことが分かった。

 

● 滋賀・今津町住居跡や石器の遺物、多量に出土(2004年12月10日)

 滋賀県今津町の弘川佃遺跡と弘川宮ノ下遺跡で縄文時代後期から鎌倉時代にかけての住居跡や石器などの遺物が多量に出土した。
 縄文時代後期の川跡から狩猟のための落とし穴状土坑(どこう)、住居跡などのほか、石斧や石皿、祭事用石棒、及び大量の土器片が見つかった。
 さらに古墳時代後期の直径11mの円墳1基、飛鳥から平安時代にかけての竪穴住居跡や掘立柱建物跡、土器棺墓などが出土。鎌倉時代の掘立柱建物跡や土壙墓なども確認された。
 過去の調査でも公的な施設の遺構が集中して見つかっていることから、この地域は若狭と北陸を結ぶ古道が交わる重要な位置にあったと考えられる。

 

● 文化審議会が登録有形文化財(建造物)を答申(2004年12月10日)

 文化審議会は10日、近代建築物の保護を目的とする有形文化財(建造物)に199件を登録するように答申した。
 文化審議会の答申内容は次の通り。

北海道、東北地方

○ニッカウヰスキー北海道工場事務所棟など9件(北海道余市町)
○武山米店店舗および主屋(宮城県気仙沼市)
○森長旅館本館など3件(秋田県男鹿市)
○佐藤又六家住宅主屋、文庫蔵(秋田県増田町)
○赤川家住宅蔵(秋田県大森町)

関東地方

○奥順見世蔵など4件(茨城県結城市)、○結真紬見世蔵、主屋(同)、○小西見世蔵(同)、○赤荻本店見世蔵(同)、○秋葉糀味噌醸造見世蔵(同)、○鈴木紡績見世蔵、主屋(同)、○中沢商店見世蔵および主屋(同)
○武石家住宅主屋(茨城県大洗町)、○幕末と明治の博物館聖像殿、別館(同)
○巖華園主屋など7件(栃木県足利市)
○東照宮武徳殿(栃木県日光市)

 東照宮武徳殿は、大正4年(1915)に徳川家康没後三百年に際して建築された参拝人休憩所が前身。1931年の増改築に伴い「武徳殿」と名称を変更、主に武道場として利用されている。周辺の歴史的建造物群と調和し、日光における近代和風建築の一例となっている。

○所沢郷土美術館主屋など3件(埼玉県所沢市)
○大野屋旅館(千葉県成田市)
○第一KSビル(東京都千代田区)、○山本歯科医院(同)
○玉置文治郎ビル(東京都中央区)
○芦葉家住宅倉庫、門(東京都文京区)
○位田家住宅主屋(東京都大田区)

北陸地方

○ギャラリー十三代目長兵衛(新潟県柏崎市)
○旧横尾義智家雪室(新潟県安塚町)
○五徳庵主屋など4件(石川県加賀市)
○武生市公会堂記念館(旧武生公会堂=福井県武生市)

中部地方

○日本クレーン協会長野支部博物館(旧池田警察署庁舎=長野市)
○旧山一林組製糸事務所、守衛所(長野県岡谷市)、○旧岡谷市役所庁舎(同)
○湯田中駅旧駅舎(長野県山ノ内町)
○旧徳善院本堂(極意家神殿)、庫裏(極意家宿坊=同県戸隠村)
○旧美濃町産業会館(岐阜県美濃市)、○旧名鉄美濃町線美濃駅本屋、プラットホームおよび線路(同)
○竹の丸(旧松本家住宅)主屋、離れ(静岡県掛川市)
○眠雲閣落合楼住居棟および廊下、応接棟(静岡県伊豆市)
○料亭河文主屋など5件(名古屋市)、○旧川上貞奴邸主屋、蔵(同)
○九重味淋大蔵(愛知県碧南市)
○真野家住宅主屋など4件(愛知県犬山市)、○磯部家住宅主屋など5件(同)、○小島家住宅主屋など7件(同)、○遠藤家住宅主屋(同)、○伊藤家住宅主屋、蔵(同)
○滝川家住宅主屋など3件(愛知県新城市)
○実成寺本堂、山門(愛知県甚目寺町)

「張 州府志」などによれば、元応2年(1320)日蓮聖人の弟子である、日妙聖人の創建と伝えられている。現存の本堂は当時の十如堂(鎌倉時代の絵図によると 『大御堂』と記されている)と称した護摩堂であったが、清須城主織田敏定公など代々の修理を加えており、初期日蓮門徒の堂宇としての様式を伝える貴重な例 といわれている。

近畿地方

○麻吉旅館本館など5件(三重県伊勢市)
○西川家住宅主屋、土蔵(京都市)、○瀬川家住宅主屋、土蔵(同)、○重森三玲邸書院・茶室(同)、○家辺徳時計店(家辺家住宅)店舗、主屋(同)、○旧京都市立有済小学校太鼓望楼(同)○京都市学校歴史博物館(旧京都市立開智小学校)正門、石塀(同)
○カタシモワインフード貯蔵庫(大阪府柏原市)
○神田家住宅洋館(兵庫県加古川市)
○土田家住宅旧魚橋郵便局舎など3件(兵庫県高砂市)
○日本聖公会橋本基督教会旧礼拝堂(和歌山県橋本市)
○旧和歌山県議会議事堂(和歌山県岩出町)
○泉家住宅座敷(和歌山県広川町)

山陽山陰地方

○南門脇家住宅旧僧侶用座敷など4件(鳥取県大山町)
○奥野本家住宅主屋など5件(島根県安来市)、○山本家住宅主屋など7件(同)、○奥野省吾家住宅主屋など4件(同)
○三野浄水場第一水源取水口など3件(岡山市)、○半田山配水地一号配水池など6件(同)、○京橋水管橋(同)

四国九州地方

○万福寺本堂、蔵、鎮守堂、鐘楼の4件(徳島県相生町)

  万福寺は平安時代の創建と伝え、現在の本堂は茅葺と瓦葺を組み合わせた民家風の造りが特徴で、江戸時代末期の建立。蔵は江戸時代末期の建立で、火事の延焼 を防ぐため屋根と漆喰の壁の間に空間がある珍しい遺構をもつ。鐘楼は江戸中期、鎮守堂は1889年の建立になる。いずれも那賀川流域の寺社を代表する貴重 な遺構として評価された。

○小豆島食品(旧岡醤油醸造所)醤油佃煮蔵、事務所(香川県内海 町)、○山善醤油醤油蔵など4件(同)、○島一照下家住宅主屋など4件(同)、○キッコ石石井家住宅主屋など6件(同)、○キッコ石石井家内浜長屋 (同)、○やます坂下家住宅主屋など3件(同)、○山吉山本家住宅主屋など10件(同)、○正金藤井家住宅主屋など3件(同)、○正金醤油石井別邸(同)
○大曲公家住宅主屋、石段および石垣(長崎県平戸市)、○内野家住宅主屋など4件(同)

 

● 称徳天皇の大嘗宮を発掘(2004年12月10日)

 奈良市の平城宮跡で称徳天皇(在位718〜770年)の大嘗宮が明らかになった。
 大嘗宮は、天皇即位後、その年に収穫した穀物を神前に供える大嘗(だいじょう)祭の際だけに使用される仮宮殿で、これまでの調査では、儀式の際に天皇が 湯で身を清める「廻立(かいりゅう)殿」のほか、悠紀院の稲を脱穀する「臼(うす)屋」、米を炊いて配膳する「膳(かしわ)屋」とみられる建物の遺構が確 認されていた。
 今回新たに、儀式を行う「正殿」(東西約5m、南北約12m)と手洗いの「御厠(みかわや)」(東西、南北とも約2.5m)、建物群を囲む垣根のものとみられる柱穴跡が検出された。

 

● 唐招提寺盧舎那仏が展示会のために搬出(2004年12月9日)

 奈良市西の京の唐招提寺で本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像を東京国立博物館で開催される「唐招提寺展」に出品するための搬出作業が行われた。
 同寺では2000年から金堂の大修理に伴い、仏像も境内の作業所で表面のはく落止めなどが行われていた。
 「唐招提寺展」は、来年1月12日から3月中旬まで行われるが、本尊が外部へ出るのは奈良時代の創建以来初めて。

 

● マルコ山古墳は六角形(2004年12月6日)

 奈良県明日香村真弓のマルコ山古墳の墳丘はこれまで円墳と考えられていたが、周辺の調査の結果六角形の可能性が強いことが判った。
 調査区を拡大したところ、墳丘すそは直線で約140度に屈曲する部分が確認された。昭和52年に検出された北側のすそにも角とみられる部分があり、地形などから六角形と判断した。二つの頂点を結んだ一辺の長さは約12m。推定の対角長は約24 mになる。
 六角形の古墳は、今までに兵庫県安富町の塩野六角古墳(七世紀中ごろ)と岡山市の奥池3号墳(同)の二例しか見つかっていない(対角長約7m)。マルコ山古墳は、六角形に削った地面を基礎にした二段構造で上段も六角形の可能性が強い。

 

● 法隆寺若草伽藍で日本最古の壁画が出土(2004年12月1日)

 奈良県斑鳩町の法隆寺境内で、聖徳太子が607年(飛鳥時代)に建立したと伝わる若草伽藍西側の谷跡から、彩色がある壁材の破片約60点が出土した。
 破片は、 最大で縦4cm、横5cmで、壁土に白土を薄く塗った下地に赤褐色や鉛色、肌色、くすんだ緑色などの彩色を施してあった。全体の絵柄は不明だが、衣装やハスの花の一部とみられる図柄もあり、金堂か塔の壁を飾った仏画の一部とみられる。
 国内最古の寺院壁画は、浄土世界が描かれた現法隆寺(7世紀後半〜8世紀初め)のものと神将像などを描いた上淀廃寺(鳥取県淀江町)の例があるが、これらを半世紀以上さかのぼる画期的な発見となる。
 破片は1000度以上の高温にさらされている他、焼けた状態の若草伽藍の瓦なども見つかり、これまで火災を確実に裏付ける考古遺物は見つかっていなかったが、日本書紀にある670年の法隆寺炎上を裏付けるものとして注目される。

 現地説明会は4、5両日の午前10時〜午後3時。

 

● キトラ古墳石室内部を報道陣に公開(2004年11月26日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳石室の内部が初めて報道陣に公開された。
 壁画のはぎ取り作業が一段落し情報公開の一環として報道陣に公開した。 報道各社の担当者頭から足まで包む白いつなぎ服を着用し、エアシャワーで除菌した後、3分間ずつ南壁の盗掘穴から石室をのぞいた。

 

● 相国寺境内で飛鳥期の役所跡確認(2004年11月26日)

 京都市上京区の相国寺境内で、飛鳥時代の公の建物と見られる掘っ建て柱建物跡1棟と、それ以前の竪穴住居跡20棟などが見つかった。
 同寺境内の美術館増設に伴い調査したもので、建物は、南北6.3m、東西4.8mの規模だったらしい。
 また竪穴住居はいずれも一辺3〜4mの方形で、床面からは製鉄の際にできる鉄滓が多数出土したほか、火をおこすための鞴(ふいご)の羽口や鉄器を作るための砥石も見つかった。
 周辺は奈良時代、出雲郷という村があったと伝え、今も出雲路橋などにその名を残しており、鉄器生産に関与した出雲(島根県)から移住した人々の集落と考えられる。

 

● 新たに史跡、名勝、天然記念物を指定(2004年11月20日)

 文化審議会は、新たに史跡、名勝、天然記念物に指定するよう文部科学相に答申した。新たに指定されるものは計16件、また史跡などの追加指定や名称変更21件。
 これにより史跡は1549件、名勝は329件、天然記念物は972件となる。
 文化審議会の答申内容は次の通り(かっこ内は所在地)。

【史跡の新指定】

○カリンバ遺跡(北海道恵庭市)

○達谷窟(岩手県平泉町)
 達谷窟は、平泉の南西約6キロに位置し、岩壁に磨崖仏と窟毘沙門(いわやびしゃもん)堂を構える。12世紀からの存在が確認されており、平泉での宗教施設の実態を理解する上で価値が高い。

○骨寺村荘園遺跡(同一関市)
 骨寺村荘園遺跡は奥州藤原氏の栄華を伝える中尊寺の所領。当時の絵図に記された寺社や水田区画などの景観がそのまま残る。 史跡指定の骨寺村荘園遺跡 は、中尊寺のために写経した僧侶が褒美として与えられた所領。達谷窟は「吾妻鏡」の中で平泉を滅ぼした源頼朝が立ち寄ったと記されている。

○井野長割遺跡(千葉県佐倉市)

○鎌刃城跡(滋賀県米原町)
 典型的な戦国時代の山城で、国境警備の機能を果たしていたとされる。一五七四年には織田信長の直轄となった。発掘調査で城域全体が石垣によって築かれていることが判明した。

○西求女塚古墳(神戸市)

○八上城跡(兵庫県篠山市)
 室町期から戦国時代にかけ、奥丹波地方を支配した波多野氏が、高城山と法光寺山に築いた山城跡。明智光秀らをしばしば敗走させた難攻不落の城として知られる。

○山陰道蒲生峠越(鳥取県岩美町)

○大廻小廻山城跡(岡山市、岡山県瀬戸町)
 総延長約三・二キロの城壁や水門を伴った石のとりでなどが確認された。

○津屋崎古墳群(福岡県津屋崎町)

○唐原山城跡(同県大平村)
 7世紀中ごろから後半に造られ古代の山城跡の一つで、当時の東アジア情勢を含めた政治動向を知る上で貴重な遺跡。

○野津古墳群(熊本県竜北町)

○角牟礼城跡(大分県玖珠町)  
 玖珠盆地北側の角埋山にある中世の山城跡。島津氏が豊後侵攻した際も退け、要害堅固の城として名をはせた。

【名勝の新指定】

○イーハトーブの風景地・鞍掛山、七つ森、狼森、釜淵の滝、五輪峠、種山ケ原(岩手県花巻市、雫石町ほか)
 宮沢賢治がイーハトーブ(理想郷)と呼んだ岩手県の中で、賢治とゆかりの深い6カ所。今回、初めて特定の作家にちなんだ土地が名勝に指定された。

○旧観自在王院庭園(同県平泉町)
 旧観自在王院庭園は、藤原基衡の妻の居所と言われる。現在の庭園は73年からの修復・調査で復元。石組みの「舞鶴が池」と庭園の独特の構造が評価された。 

【天然記念物の新指定】

○田光のシデコブシおよび湿地植物群落(三重県菰野町)

【特別史跡の追加指定】

○熊本城跡(熊本市)  

【特別史跡および特別天然記念物の追加指定】

○日光杉並木街道附並木寄進碑(栃木県今市市)  

【史跡の追加指定および名称変更】

○王塚・千坊山遺跡群(富山県婦中町)

○北条氏邸跡(円成寺跡=静岡県韮山町)
 北条氏邸(円城寺跡)は平安時代末期から鎌倉時代にかけての執権北条氏の邸宅跡と、跡地に建立された円城寺跡に当たる遺跡。1996年の指定、2001 年の追加指定に続き、その後の発掘調査で確認された寺跡の遺構部分が追加指定されることになった。名称も「円城寺跡」が付け足されることになった。

○豊前街道・南関御茶屋跡、腹切坂(熊本県南関町、三加和町)

○大友氏遺跡(大分市)
 大友氏館跡は、北部九州最大の戦国大名だった大友氏の守護館があった場所。今回は、大友氏の菩提寺であり、当時の日本を代表する禅寺の一つであった万寿寺跡と周辺の中世の豊後府内町跡を含む地区が追加指定される。

【史跡の追加指定】

○鹿島神宮境内附郡家跡(茨城県鹿嶋市)

○小山氏城跡(鷲城跡、祗園城跡、中久喜城跡=栃木県小山市)
 室町時代から戦国時代にかけて小山氏が本拠地とした祇園城趾の南端地区の一部が追加となる。

○下野国分寺跡(同県国分寺町)
 南大門前面を中心とする地域が追加指定される。

○下布田遺跡(東京都調布市)▽武蔵国分寺跡(同国分寺市、府中市)

○斐太遺跡(新潟県新井市)

○九谷磁器窯跡(石川県加賀市、山中町)

○高天神城跡(静岡県大東町)
 戦国時代に遠江の支配権をめぐって武田氏と徳川氏が争った中世の山城。測量調査で遺構が確認された丘陵の一部が追加される。

○紫香楽宮跡(滋賀県甲賀市)
 奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮の遺構であることが判明した甲賀市信楽町宮町の「宮町遺跡」が追加される。
 宮町遺跡は、70年代後半に奈良時代のヒノキの柱根が3本見つかって以来、旧信楽町教委が本格的に調査を進め、94年に「造大殿所」と書かれた木簡が出 土、同宮の位置が確定した。その後、朝堂院の西脇殿や東脇殿など中枢施設の遺構も見つかり、本格的な都だったことが判明した。
 現在の紫香楽宮史跡は1926年の指定であるが、その後の調査で、同宮そのものではなく、聖武天皇が建てた甲賀寺跡とする説が有力となっており、仏教で国家の安泰を図ろうとした点で同宮と不離一体のものと考えられている。

○難波宮跡附法円坂遺跡(大阪市)

○土塔(大阪府堺市)
 土塔は、神亀4年(727)に行基によって創建されたと伝える大野寺の境内にある。
 発掘調査により、1000点を越える知識衆である寄進者の名前を刻みつけたものと思われる文字瓦が発見されており、なかでも「神亀4年」銘のある軒丸瓦の出土は、土塔の完成時期をめぐる論争に決着をつける画期的な発見であった。

○法華寺旧境内(法華寺境内、阿弥陀浄土院跡=奈良市)
 奈良市法華寺町の史跡・法華寺旧境内のうち、光明皇后ゆかりの阿弥陀浄土院跡(奈良時代)が追加指定される。
 阿弥陀浄土院は761年光明皇后の一周忌法要のために特別に造営されたことが「続日本紀」などに記録されている。法華寺周辺の住宅開発のため、所在不明であったが、2000年に浄土庭園跡を発掘され特定された。

○石見銀山遺跡(島根県大田市、温泉津町、仁摩町)

○穴観音古墳(大分県日田市)

○指宿橋牟礼川遺跡(鹿児島県指宿市)

 

● 大津で造東大寺司関連の建物跡出土(2004年11月12日)

 滋賀県大津市の関津遺跡から9棟の掘立柱建物跡が出土した。今年9月には、中世の港の護岸施設跡とみられる遺構が同遺跡で見つかっており、東大寺や石山寺の造営に建築材を供給したとされる田上山作所の関連施設と見られる。
 万葉集には、藤原宮造営に田上山の材木をいかだに組んで流した情景が詠まれるなど、一帯は古代から水運の拠点だったと推定され、今回の建物跡も山作所を含めた、炭焼きや製鉄などの官営事業全体を統括した組織の施設だったのではないかと見られる。

 

● 宇治市街遺跡で古墳中期の溝跡、韓式土器が出土 (2004年11月10日)

  京都府宇治市街遺跡で古墳時代中期初頭(5世紀初め)の溝跡や朝鮮半島で出土する韓式土器が見つかった。発見した土器は約80個で、このうち7割が朝鮮半 島南部で出土する韓式土器と模様や形などが一致、5世紀初めのものと見られる。渡来人が生産した最古の須恵器と似た土器もあった。
 古墳時代の渡来人の初期段階の遺跡は、近畿地方では大阪湾周辺に見られるが、内陸部では珍しく、渡来人が朝鮮半島から瀬戸内、淀川、宇治川をさかのぼり、宇治の地に住み着いたことを示すものとして注目される。

 

● 大安寺旧境内西塔基壇を確認(2004年11月12日)

 奈良市東九条町の大安寺で西塔跡の基壇が1辺21mの大規模なものであることが確認された。
 今までの調査で、塔の威容を示す銅製の露盤の一部や塗金の残る風鐸片が出土していたが、今回、基壇のほぼ東半分を発掘調査した結果、階段部や周囲を取り 囲む石など、基壇の形態を示す遺構が検出された。この結果、塔初層が12メートル四方であったことを再確認。また、基壇は1辺21mの大規模なもので、直 角形に加工した切石を規則正しく積む壇上積基壇だったことも追認された。
 塔の高さはとされる東大寺の東西両七重塔(高さ約100m)に次ぐ約70mの古代屈指の七重塔だったと推定されている。

 

● 島根県での木造仏手が出土(2004年11月6日)

 島根県益田市の浜寄・地方遺跡から、平安時代末期から鎌倉時代のものとみられる制作途中の木造仏手が見つかった。
 仏手は国道工事に伴う発掘調査で出土したもので、全長は接合部を含めて17.3cm、幅約6.7cmの左手先。親指と中指で輪をつくり、中指は第1関節 から先が欠けている。手首には、未完成ながら腕釧が彫られている。、菩薩像に、その一部は。補修用の部品としてつくられた可能性もあるという。
 指が細く、手のひらが肉厚な表現は鎌倉時代前後の作風とほぼ一致している。削り方などの技巧が成熟しておらず、地方仏師の作と考えられるという。

 

● 坂田寺跡で建物基壇発見(2004年11月5日)

 奈良県明日香村阪田の坂田寺跡で、奈良時代の建物基檀が良好な状態で見つかった。
 基壇は土を層状に突き固める版築工法で築かれており、外側に高さ65cm、幅75cm以上の凝灰岩の板石を化粧張りしてあった。
 基壇の周囲は幅約50cmの石敷き(犬走り)で、外側に人頭大の石を組んだ雨落ち溝が残っていた。また、約2.4m離れて南面回廊の礎石と雨落ち溝があり、建物との間はバラス敷きだった。
 調査地は回廊に囲まれた伽藍の西南隅。平成10年にも同じ建物の一部が見つかっており、今回の調査で、この建物が東西約17.5m、南北約15mと推定できた。
 坂田寺は飛鳥大仏を造った鞍作氏の氏寺で、日本書紀では五大寺の一つに挙げられた。奈良時代には、住職の信勝尼が東大寺大仏殿に東脇侍を献納するなど、隆盛を誇った。

 

● 刀の柄は古墳期に中国式に統一 (2004年10月30日)

 古代の鉄剣や鉄刀に付けた木製の柄が3世紀半ば、日本各地で一斉に中国式に変化・統一されたことが、奈良文化財研究所の研究で分かった。

木 製柄の造りは、弥生時代後期(1−2世紀)から邪馬台国・卑弥呼の時代に当たる終末期(3世紀前半)までは、近畿や瀬戸内地域では柄に穴を開けて刀剣の根 元を差し込むタイプ主流であったが、山陰・北陸では造りがやや異なるほか、関東では縄文時代以来のシカ角製の柄を使うなど地域差があった。

 それが3世紀半ばを過ぎると、柄に溝を刻み、刀の根元を横からはめ込むという中国式に統一され、剣の様式も一本化されたという。

 

● 出雲の墓からガラス製腕輪出土(2004年10月29日)

 島根県出雲市大津町の西谷墳墓群西谷2号墓からガラス製の腕輪が見つかった。

 腕輪は直径約7cm、材質は鉛ガラスで色はエメラルドグリーン。2つの破片に分かれていた。埋葬施設があった中央付近から土器などとともに出土し、被葬者と一緒に埋められたとみられる。

 中国で作られたと推定され、福岡県前原市の二塚古墳出土のガラス製腕輪と同一材質で、製作地が同じとみられる。全国で4例目という。

 

● 三井寺で開祖円珍しのぶ法要 (2004年10月29日)

  滋賀県大津市園城寺町の園城寺(三井寺)で29日、開祖の円珍(智証大師(ちしょうたいし)、814−911)の命日にあたる29日、円珍をしのぶ法要 「御正忌会(おしょうきえ)」が営まれた。 年に一度、この日だけ開帳される智証大師坐像(国宝)の前で、献茶式があった。

 法要に合わせ、三井寺金堂では11月16日まで、吉祥天立像(重文)などを展示する宝物展が開かれている。

 

● 長谷寺本堂が国宝、百済寺本堂は重文に 文化審議会が答申 (2004年10月15日)

 文化審議会は、長谷寺本堂(奈良県桜井市)を国宝に、旧津島家住宅主屋(青森県金木町)など12件の建造物を重要文化財に、篠山保存地区(兵庫県篠山市)など2地区を重要伝統的建造物群保存地区にそれぞれ指定するよう答申した。

【国宝】

 長谷寺本堂(奈良県桜井市)

 長谷寺本堂は間口約26m、奥行き約27もある巨大な建築で、1650年の完成。江戸時代の寺院・神社の中でも特に優れたものと認められた。

【重要文化財】

 百済寺本堂(滋賀県愛東町)

  湖東三山の一つ、百済寺の本堂で正面中央に唐破風が付いた入り母屋造りの木造平屋。慶安3(1650)年の建築で、幅16.9m、奥行き17.3m。堂内 は天台宗の中世寺院形式を受け継ぎ、内陣、外陣、後陣に区分される。内外陣境に格子状の引き違い戸があり、天井に薄板を張り合わせて梁を見えなくするな ど、随所に近世の建築様式を取り入れる。

 京都府庁旧本館(京都市上京区)

旧 本館は庁舎と議事堂が一体化したルネサンス様式の洋風建築で、1904(明治37)年に完成。れんが造り2階建て延べ6099平方メートル。内部には木製 の格(ごう)天井など和風の意匠も見られる。議事堂は1969年まで、知事室は71年まで使われた。現在も行政委員会事務室や資料室などとして使われてい る。都道府県庁舎の重文指定は4例目。83年に府の第一号有形文化財(建造物)に指定された。

 旧津島家住宅主屋(青森県金木町)

 斜陽館の名で知られる作家太宰治の生家

 梅小路機関車庫(京都市下京区)
 旧朝倉家住宅(東京都渋谷区)
 旧松坂御城番長屋(三重県松阪市)
 吉香神社本殿ほか(山口県岩国市)
 旧小野田セメント製造竪窯(同県小野田市)
 赤木家住宅主屋ほか(宮崎県都農町)
 遺愛学院本館と建設関係文書(北海道函館市)
 高橋家住宅米蔵・味噌(みそ)蔵などと建設関係文書(青森県黒石市)
 長谷寺本堂の棟札などと建設関係資料

【重要伝統的建造物群保存地区】

 篠山保存地区(兵庫県篠山市)
 豆田町保存地区(大分県日田市)

 

● 法隆寺で救世観音像厨子の屋根発見 (2004年10月15日)

 奈良県斑鳩町の法隆寺で、夢殿本尊・救世観音像を納めていた厨子の天井部材が同寺の古材倉庫から見つかり、復元された。
 見つかったのは夢殿が造られた奈良時代の厨子の格子天井(2.4m四方)と天井板のほか、平安時代に天井の上に乗せられたみこし形の屋根の部材。
 厨子は奈良〜平安時代の制作とみられる。夢殿の解体修理が行われた1937〜9年の調査で、平安、鎌倉、江戸時代の3回にわたり改造されたことなどが判明したが、調査終了後、屋根の部材だけが行方不明になっていた。
 同博物館は平安時代の優美な姿に復元して、12月11日から来年1月23日まで特別陳列する。

 

● 宇治市大鳳寺跡で建物跡発見(2004年10月13日)

 京都府市莵道藪里の大鳳寺跡で、寺の西側に付属建物の跡が見つかった。
 同寺は白鳳期の7世紀後半に建立され、今までの調査で金堂と塔跡が確認されていたが、寺域の西側の7m離れた場所から、南北方向に直径約30cmの掘立柱の穴が7カ所検出され、近くから大鳳寺跡の瓦と同時期の軒丸瓦が大量に見つかった。
 古代寺院の伽藍の外側に付属建物が見つかった例は少なく、僧坊や倉庫の跡ではないかと見られている。

 

● 千葉で七重塔の瓦塔が2基出土(2004年10月2日)

 千葉県印西市平岡の馬込遺跡から1997年に出土した破片を復元した結果、奈良時代末から平安時代に造られたとみられる七重塔の瓦塔2基であることが判明した。

 瓦塔は、焼き物で造られた塔で、奈良時代末から平安時代にかけての遺品が、とくに関東地方を中心に多く知られているが、そのほとんどは、寺院跡から出土しており、著明なものとしては埼玉県東山遺跡出土、静岡県摩訶耶寺出土のものがある。
 多くは総高さ1.5から2mぐらいの五重塔で、木造建築の塔を模して各重の軸部・組物、屋根、相輪が別々に造られて組み立てるようになっている。組物や屋根瓦などの細部を造り出している点は石造よりも木造塔に近いが、総体に細長いプロポーションをもつ。

 今回公開された瓦塔は、七重塔でありながら実際の木造塔に近いバランスを持ち、木造建築構造の細部まで表現された精巧なものである。
 また、一ケ所から二基出土することも珍しく、双塔の形式を現したものとして注目される。
 千葉県立中央博物館(千葉市中央区)で11月3日まで一般公開される。

 

● CO2で文化財の害虫を駆除(2004年9月26日)

 東京文化財研究所は、高濃度の二酸化炭素(CO2)で文化財に付いた害虫を駆除する方法を開発、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像に初めて実施し成功した。
 阿弥陀如来坐像の台座と光背を大きなテントの中に入れ、60%濃度の二酸化炭素を満たして2週間保管したところ、害虫が駆除でき台座と光背の状態も良好という。
 国内の博物館や美術館などでは約20年前から臭化メチルなどの殺虫剤を使って害虫駆除を行っているが、臭化メチルは人体への影響が指摘されているほか、 オゾン層破壊の原因となる物質として、2004年末で使用を全面禁止することになっており、代替法の開発が急務となっていた。

 

● 高松塚古墳、本格発掘へ(2004年9月25日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で10月、墳丘の発掘が始まる。
 石室に雨水が浸入、壁画にカビが発生した原因を探るのが主眼だが、極彩色壁画が発見された1972年の調査以来、石室の保護を最優先して調査はされておらず、本格的な発掘は32年ぶりとなる。構造の解明なども期待される。

 

● 平等院阿弥陀如来坐像、光背金具にも金(2004年9月24日)

 京都府宇治市宇治の平等院鳳凰堂本尊阿弥陀如来坐像の光背は、取付金具にまで金が施されていたことが分かった。
 光背は、高さ3.3m、幅2.6m。 X線で成分を分析した結果、光背本体だけではなく、制作当初、光背を固定する鉄製の取付金具も金で覆われていたことが確認された。金具は普段は本尊の陰に 隠れて見えないが、像の隅々まで華麗な装飾がゆき届いていることが確認され、藤原道長が目指した、極楽浄土の一端を感じさせる。
 修理を終えた光背は「平成大修理関連」特別企画展の一環として、12月5日まで境内の平等院ミュージアム鳳翔館で展示している。

 

● 明日香村石神遺跡で漆つき高杯や漏斗形土器を出土(2004年9月20日)

 奈良県明日香村飛鳥の石神遺跡で、7世紀前半に川や沼を埋め立てた土木工事跡が見つかった。
 今回の調査で初めて飛鳥時代の地層の下を発掘したところ、古墳時代の河川や沼地を埋め立てた跡がみられ、6世紀末に始まった都づくりで整地したとみられる。
 沼地には近隣の古墳を壊して埋め立てに使ったらしく、土砂には埴輪片など5世紀の古墳の遺物の他、ガラスや鉄製品の工房で使われたと考えられる鋳型やふ いごの羽口、多量の漆が付着した須恵器の高坏、宮廷で使われたとみられる漏斗の形をした土器(直径約20cm)やつまみが付いた蓋状の土器など、5〜7世 紀の多彩な遺物が出土した。

 

● 京都福田寺の重文売却めぐり対立(2004年9月14日)

 京都市左京区花背別所町の福田寺が、金銅毘沙門天立像(平安時代 重文)などを売却すると檀家に通告し、反対する檀家と対立している。
 売却が計画されているのは、大正から昭和初期に同町内の山林で出土し土地所有者が寺に寄進した、「山城国花背別所経塚群出土品」で、仁平3(1153) 年の銘がある銅経筒や金銅毘沙門天立像など33点で構成される。1938平安時代の経塚遺跡出土品の代表例とされ、昭和13年に重文に指定された。
 宗教法人法によると、資産売却には責任役員の承認が必要だが、住民は役員に入っておらず、檀家や住民の同意がなくても売却可能な状態となっている。

 

● 府中市熊野神社古墳で七曜文の大刀の鞘発見(2004年9月14日)

 東京都府中市の武蔵府中熊野神社古墳から、七曜文文様のある大刀の鞘(さや)尻が 見つかった。
 鞘尻は 石室の床面から見つかり、長さ約4.1cm、幅約3.6cmで、心葉形と呼ばれるU字型をしていることなどから7世紀中ごろに作られたとみられる。
 七曜文は、中国の陰陽五行思想で太陽や月など7つの星を表現した文様とされ、鉄の地金に銀を流し込む象眼の技法で描かれていた。

 

● キトラ古墳朱雀、玄武もはぎ取りへ(2004年9月14日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳保存活用を検討する文化庁の調査研究委員会は、四神図の朱雀や玄武、天井の天文図など壁画をすべてはぎ取り石室の外で修復する方針を了承した。
 文化庁はこれまで、文化遺産の原状保存を重視し、壁画は石室で一体的に保存するのが基本としていたが、漆喰の剥離の進行や、高松塚古墳の壁画の劣化が問題となったことから、国内の古墳で初めてキトラ古墳の白虎や青竜などの壁画の剥ぎ取りを行った。
 一旦はがした壁画を石室に戻すのは技術的に難しく、また玄武図は乾燥して亀裂が拡大、朱雀も剥離が進んでいることなどから、剥離していない壁画を含め、全面剥ぎ取りこととなった。

 作業は数年かかるとみられるが、明日香村などで公開する考えも示した。

 

● 彩色像の年輪を測定(2004年9月9日)

 奈良文化財研究所は、X線CT(コンピューター断層撮影装置)を使った年輪年代法の新技術を世界で初めて実用化した。
 表面が彩色された木造美術品は年輪が見えないため、年輪年代法による制作年代の判定が不可能であったが、X線CTで内部の断層画像を読み取ることにより、木材の表面に凹凸や劣化があったり、金箔など彩色で表面が見えなくても年輪幅を計測できる。
 CT装置は、医療用の装置を応用して開発したもので、解析度は医療用の50〜100倍で幅0.01mmの年輪まで読み取ることができる。
 この測定方法は、文化財を損傷する恐れもなく、彩色された仏像や漆器、小型建築部材などへ応用が期待される。

 

● 高松塚古墳今度は男子群像に白いカビ(2004年9月9日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳極彩色壁画(国宝)の男子群像の上や四神図の青竜の周囲に白や暗緑色のカビが今月6日の定期点検で見つかった。
 直ちにエタノールを噴霧した後、筆先で慎重に除去したが、青竜の周囲は暗緑色のしみが残ったという。
 高松塚古墳では、女子群像の近くなどに黒いカビが発生し、西壁の白虎や四神図の青竜にもカビが原因と見られる劣化が見られることや、当初は見られなかった虫の発生があることから、原因の解明のため周囲状況を発掘調査を始めている。

 

● キトラ古墳白虎胴部をはぎ取り(2004年9月8日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、石室西壁に描かれた白虎の胴部を取り外した。前足部分はしっくいが硬化してもろくなっているため、樹脂で強化した後、十分固まってから剥ぎ取る。
 石室から運び出された壁画は、四神の青竜と白虎、獣頭人身12支の戌、卯(推定)の四つとなった。
 玄武や朱雀など、現状剥離が進んでいない壁画については、14日に奈良市内で開く同古墳の調査研究委員会で協議する。

 

● 京都国立博物館の文化財450点、HPで公開(2004年9月7日)

 日本写真印刷は京都国立博物館と提携し、博物館で保有する国宝文化財を中心に、絵画や刀剣、染織など約450点の所蔵品のデジタル画像をHPで公開する。
 利用者は、検索画面で欲しい画像を探して閲覧することが出来、商用利用する場合は、許諾手続きをネット上で済ませば、CD-Rでデジタルデータを郵送で受け取ることができる。
 今後、伊能忠敬の地図や台湾の故宮博物院の展示品なども順次掲載する予定。

 ホームページのアドレスは、http://www.artize.net

 

● 藤ノ木古墳の馬具損傷-福岡市博物館(2004年9月1日)

 福岡市博物館で開かれた「秘められた黄金の世紀展」で展示していた藤ノ木古墳出土の馬具3点が損傷した。

 損傷したのは「金銅鏡板付轡(くつわ)」と「鉄地金銅張杏葉」及び「金銅杏葉」。「金銅鏡板付轡(くつわ)」は、金メッキの一部が固定用のビニールに張り付いてはがれ、「鉄地金銅張杏葉」及び「金銅杏葉」は、展示台表面布の赤い繊維が張り付いた。

この展示会は、その後、香川県歴史博物館(高松市)と京都府京都文化博物館(京都市)を巡回するが、損傷した3点の展示は取りやめになった。

 

● 道成寺の釣鐘420年ぶりへ里帰り(2004年8月27日)

  和歌山県川辺町の道成寺の釣鐘が、所蔵されている京都市の妙満寺から約420年ぶりに一時里帰りすることになった。この釣鐘は、歌舞伎安珍清姫の物語で知 られているが、当時のものは焼けたとされ、現在のものは14世紀に豪族が寄進した2代目で、高さ約110cm、重さ約250kg。
 1585年、豊臣秀吉の紀州攻めの際、釣り鐘が戦利品として持ち去られ京都に運ばれたという。

 歌舞伎俳優の中村富十郎さんらによる鐘供養を経て寺内に安置し、11月27日まで一般公開される。

 

● 故末永雅雄さんが語る発掘ものがたり出版(2004年8月27日)

 奈良県立橿原考古学研究所の初代所長で国内を代表する考古学者の一人、故末永雅雄さんが生前に残した肉声テープが「末永雅雄が語る大和発掘ものがたり」として出版された。
 内容は、昭和58年から翌年にかけて、末永氏が「考古学を勉強する人間に伝えておきたいことがある」と、門人である網干善教・同大名誉教授や石野博信・ 香芝市二上山博物館長らに、発掘した遺跡の思い出や考古学に対する姿勢など話したもので、カセットテープ約20本分。
 昨年の13回忌の際、同研究所付属博物館の河上邦彦館長が出版を企画し、原稿化して出版した。聞き手との対話形式で、京都大学の研究室から県に派遣されたころの思い出や門下に掲げた「士規七則」も含まれる。

 「末永雅雄が語る大和発掘ものがたり」438ページ 橿原考古学協会発行
 問い合わせ先:同研究所付属博物館の情報コーナー(電話0744−24−1185)
 送料のみ(500円)で配布する。

 

● 東山・泉涌寺で「伽藍の変遷」展(2004年8月23日)

 京都市東山区の泉涌寺で「泉涌寺伽藍の変遷」展が開かれる。
 泉涌寺は嘉禄2年(1226)に俊ぎょう(しゅんぎょう)律師が開山したが、度重なる焼失と再建を経ている。今回の展示では、創建時の古伽藍図や江戸初期の再建を描いた新伽藍図など各時代の境内の様子が分かる資料を中心に紹介する。
 また、月蓋長者像(重文)と韋駄天像(重文)のほか、伽藍神像や、国内最大級の胎蔵界曼荼羅図など、初公開の貴重な資料も多い。
 8月24日から12月26日まで。

 

● 石部・長寿寺で寺宝の掛け軸虫干し(2004年8月24日)

 滋賀県石部町の長寿寺で「観経変相図(かんよへんそうず)」(重文 鎌倉時代)などの掛け軸約100点が虫干しされた。この他、「聖観音曼荼羅」(県文 鎌倉時代)や「十王図」(室町時代)などを次々と虫干しした。

 

● 蘇我馬子邸宅跡 新たに柱跡発見(2004年8月22日)

 奈良県明日香村で、蘇我馬子の邸宅群跡とされる島庄遺跡から新たに建物の柱列跡が出土した。
 柱跡は、3月に出土した馬子邸とされる三つの建物跡の北東約30mの場所で計3本見つかった。直径はいずれも約20cmで、中心の間隔が2.4mで並ん でいた。この柱跡の東側ではこれまで同時代の建物跡は出土しておらず、馬子邸宅群の東端にあたるとみられる。
 今回の出土現場の東約150メートルには、馬子の墓とされる石舞台古墳がある。

 

● 青竜も無事はぎ取り-キトラ古墳(2004年8月12日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、東壁に描かれた青竜の壁画も無事剥ぎ取りに成功した。
 剥ぎ取ったのは青竜とその周辺部で縦約50cm、横約45cmと面積も大きかったが、問題なく剥がせたという。
 今後、西壁の白虎を取り外す予定で、剥ぎ取り後、奈良市の奈良文化財研究所で保存処理に着手する。

 

● 唐招提寺金堂基壇から押出仏、三彩軒平瓦などが出土(2004年8月10日)

 奈良市五条町の唐招提寺の金堂解体修理に伴う発掘調査で、押出仏、三彩軒平瓦などがみつかった。また、創建当初の基壇が現在の基壇より一回り大きかったことも分かった。
 また基壇外周の凝灰岩列せん列の外側から瓦片などが多数出土。元禄期基壇化粧裏込土中から大量の遺物が出土した。
 創建当初の基壇は、現在とほぼ同じ高さまで版築し、基壇の規模は平面規模が東西36.4m、南北23.0mで、現在の基版に比べて一回り大きかったこと が判った。また、東西南北に取り付く階段の平面規模は現段階とほぼ同じで、金堂両脇には腹廊形式の回廊が取り付けてあったことなどが明らかとなった。
 基壇外周の凝灰岩列せん列の外側から瓦片などが多数出土したほか、元禄期基壇化粧裏込土中からも大量の遺物が出土した。主な出土物は押出仏、三彩壺(つ ぼ)、三彩軒平瓦などで、基壇上面の遺構からは金箔の残るせん仏、金属製の荘厳具などが見つかったほか、類例の少ない貴重な粘土捏ね場遺構出土の未焼成瓦 や須恵器、土師器、瓦器、瓦が出土した。

 

● 喜光寺楼門再建へ(2004年8月7日)

 奈良市菅原町の喜光寺(菅原寺)の楼門が再建されることになった。
 喜光寺は奈良時代養老五(721)年に寺史乙丸(てらのふひとおとまる)が邸宅を行基に寄進し、行基開基によって創建されたと伝える古刹で、本堂(重要 文化財)は東大寺大仏殿10分の1相当の雛型として行基が試作したものといわれ、「試みの大仏殿」とも呼ばれている。行基が亡くなった場所ともされる。菅 原の里にあることから菅原寺とも呼ばれる。
 再建される楼門は高さ13m、幅12m、奥行き9m、屋根は行基葺きで、平城遷都1300年の平成22年までの完成を目指す。再建予定地は、昭和44年3月の発掘調査で本堂基檀と門跡を確認、奈良時代後期の軒瓦などが見つかっている。

 

● 親鸞の御真影の修復完了(2004年8月5日)

 京都市下京区の浄土真宗本願寺派本山、西本願寺の宗祖親鸞の木像「御真影」の修復が完了した。
 御真影は、鎌倉時代の作とされる高さ約80cmの坐像。ヒノキの寄木造で、表面の漆に亀裂が生じたため、美術院が約2カ月かけて、損傷部分に漆や樹脂を注入するなど、修復をほどこした。
 御真影は、御影堂の修復工事が終わるまで、阿弥陀堂に安置される。

 

● キトラ古墳壁画はぎ取り成功(2004年8月5日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、西壁に描かれた獣頭人身の「戌」を壁面から剥ぎ取った。  
 作業は前日、表面をレーヨン紙で補強した戌の絵の部分を縦25センチ、横40センチの範囲にひび割れに沿ってカッターナイフで切り、慎重にはがした。
 剥落(はくらく)防止用のレーヨン紙を切り離すのに時間がかかったものの、しっくいは表面に粘りが残り、取り外しに耐えることがわかった。
 今後、引き続いて東壁の「青竜」、西壁の「白虎」も剥ぎ取る。

 

● 鉄舟寺で鐘楼を全焼(2004年7月15日)

 静岡県静岡市清水の鉄舟寺で火事があり、本堂脇の鐘楼が全焼した。幸い本堂などには延焼せず、重要文化財の仏像、寺宝などは無事だった。
 鉄舟寺では、先月にも境内の神社が放火により全焼しており、火災警報を設置して警戒を強めていた矢先の出来事だった。

 

● キトラ古墳2日から壁画はぎ取り(2004年7月15日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳は8月2日から壁画のはぎ取り修復を行うことになった。はぎ取るのは四神の「青竜」「白虎」と12支の「戌(い)」で、9月上旬までに作業を終える。
 はぎ取りには表具技術を応用し、接着液をつけたレーヨン紙で壁画の表打ちを行い、しっくいの亀裂を利用してはがす。国内では、京都市伏見区の法界寺で阿弥陀堂壁画を同様の手法ではぎ取ったことがあるが、古墳壁画のはぎ取りは初めて。

 

● ドイツで重文の展示品が落下し破損(2004年7月15日)

 ドイツ・マンハイム市のライス・エンゲルホルン博物館などで開かれる「日本の考古−曙光の時代−」に出展される予定だった「三重県縄生廃寺塔心礎納置品」のうち、三彩飾蓋など7点が展覧会の出展準備作業床に落下して破損した。
 作業中、展示ケース内の作品を取り出していたところ、ケースが床に固定されておらず、前に開いたガラス扉の重みでケースが傾き、中にあった作品が床に落ちたという。
 文化庁は、破損した作品を展示から除外し、日本に持ち帰って修復する方針。

 

● 法隆寺堂塔建立は非再建か(2004年7月15日)

 奈良県斑鳩町の法隆寺西院伽藍は、年輪年代測定法による調査の結果、最も新しい物でも668―669年ごろに伐採された木材が使用されており、金堂、五重塔、中門の順に建てられたとみられることがで分かった。
 法隆寺の西院伽藍は、607年ごろ聖徳太子が創建したとされ、日本書紀の記述にある天智九(670)年の火災以降に再建された説が有力だが、今回の大規 模な年輪年代調査の結果、創建当時の部材は見つからない一方で、金堂には火災があったとされる670年以前に伐採された木材が使われていることが分かっ た。このため、金堂は火災以前の建立という可能性が浮かび、明治以来の再建・非再建論争が再燃しそうだ。
 年輪年代調査は、金堂、五重塔、中門の三つの建物に使われている部材と、修理などで取り換えられて倉庫で保管されていた古材計107点を調べた。
 この結果、昭和24年の火災で焼損した金堂外陣の天井板の伐採年代が668〜669年と判明。ほかに、軒を支える雲肘木など3点は、最も外側の年輪が650〜661年で、伐採時期はいずれも670年より古いと推定した。
 また、五重塔は二重北西の雲肘木に、673年ごろの伐採木材が使われていることが判明、中門は初重の大斗に685年ごろに伐採された木材が使われ、金堂を除く二つの建物は670年以降に再建された可能性が高くなった。
 しかし、五重塔の心柱は、平成13年の調査で594年ごろの伐採と判明しており、今回の再建とする結果と食い違うため、古材転用説も浮上しそうだ。

 

● キトラ古墳の被葬者は熟年〜老年(2004年7月13日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、床に堆積した流入土から、十数点の骨片や歯が出土し、被葬者は、熟年から老年の成人であると見られることが判った。
 見つかった骨は、いずれも頭がい骨で、歯がついたままの骨片もあり、歯の摩耗度から年齢が推定された。現段階で性別は不明であるが、年齢が絞りこまれたことで、被葬者論が加熱しそうだ。

 

● キトラ古墳壁画はぎ取り修復決断(2004年7月13日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、しっくいの傷みから崩落が危ぶまれていた問題で、文化庁は石室に描かれた壁画のうち、四神の「青竜」と「白虎」をはぎ取って修復することを決めた。
 壁画の修復方法については、

(1) 浮いた部分をもとに戻す
(2) はく離部分をはぎ取って修復する
(3 石材を解体して保存処理
の三案があったが、四神の「青竜」と「白虎」は全身が浮き上がり、天文図は筆で触れるだけでもしっくいの粉が落ちる状態であることから、「青竜」と「白虎」についてはぎ取りを決めた。
 発見から20年あまり。高松塚古墳に匹敵する国宝級の壁画は、「現状保存」という進路を大きく変更することになった。

 

● キトラの鉄片は、金象眼の大刀飾りの一部(2004年7月9日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室発掘中に見つかった鉄片は、金の象眼をした大刀飾りの一部と分かった。
 鉄片は長さ3.5cm、幅1.7cm。鞘(さや)に付けた帯執金具とみられる。エックス線撮影で、金で象眼したS字文様を2列確認。帯に下げるため布を通す穴が中央にあって、銀板をはめ込んでいたらしい。通した布も残っていた。
 この他、木棺金具4点も新たに発見され、6月に始まった発掘は終了した。
 大刀は身分を示す副葬品であることから、同時代の類例と比較して、被葬者解明に繋がるものと期待される。

 

● 大谷探検隊の遺品、龍谷大に寄贈(2004年7月9日)

 仏教遺跡調査などを目的に1910年からインドを訪ねた第3次大谷探検隊が現地で収集、日本に持ち帰った仏坐像など17点が、龍谷大に寄贈された。
 寄贈されたのは、1912年から翌年にかけてインドのコルカタ周辺を訪れた探検隊隊員、故藤谷晃道さんが収集したもので、信者が寺院に寄進した仏塔のミニチュア版「奉献小塔」(8〜9世紀)や、砂岩製の仏坐像(5〜6世紀)など。
 大谷探検隊の収集品は、探検隊を指揮した西本願寺の第22代大谷光瑞門主が失脚した後、多くが散逸していた。

 

● バーミヤンで新壁画発見 2例目の仏塔も(2004年7月8日)

 アフガニスタンのバーミヤン遺跡で花びらや菩薩の一部などが描かれた仏教壁画を発見した。また、同遺跡では2例目のストゥーパ(仏塔)も確認した。
 壁画は東大仏から東約800mのダウティー地区の石窟内で見つかった。青地に白いレンゲの花や菩薩の頭部が確認できた。新たな壁画の発見は64年の名古 屋大学隊の調査以来。石窟に人が住んでいたため傷みが激しいが、2001年にイスラム原理主義政権タリバーンによって多くの遺構が破壊されただけに、現存 する貴重な資料となる。
 また、ストゥーパは東大仏の南東1.5kmに位置し、大仏前面にあるものに次いで2例目。南北24m、東西16mの楕円形で、高さ2.5mが残っていた。 バーミヤンの仏教遺構の範囲や時期的な広がりを知る上で重要な資料となる。

 

● バーミヤンでゾロアスター教徒の墓地発見(2004年7月7日)

 アフガニスタンのバーミヤン遺跡で、ゾロアスター教徒のものとみられる古い墓地を発見した。  タリバンに破壊された東大仏の東方の山の斜面にあるザルギャラーン地区の墓地から、現在は盗掘されていたものの、もとは人骨一式がつぼに納められており、埋葬形態からゾロアスター教徒の墓と推定されるという。
 三蔵法師として知られる玄奘が7世紀に記した「大唐西域記」には、太陽神を中心にすえたゾロアスター教がバーミヤンで信仰されていたと記されており、ゾロアスター教徒のものと確認されれば、記述が裏付けられることになる。

 

● 縄文期の漆樹液採取跡を発見(2004年7月8日)

 東京都東村山市の下宅部遺跡で、縄文時代後期に川底に打ち込まれた杭から、幹の部分に樹液を採取する漆掻きの跡とみられる傷の付いたウルシの木が多数見つかった。
 ウルシ約30本に、幅1mm未満、深さ1 mm未満の鋭い石器で付けたような傷が、幹を一周するように断続的に付けられていた。
 杭の中のはクリやクヌギなどもあったが、傷があったのはウルシだけで、樹液の採取が終わった後、杭に転用されたとみられる。
 下宅部遺跡は、今までに飾り弓などの漆塗りの遺物の他、漆の採取、精製、塗布といった一連の製作過程で使用した土器や石器も出土しているが、縄文時代の漆掻きが確認されたのは全国で初めてである。

 

● 平等院鳳凰堂の扉は創建当初は黒かった(2004年7月5日)

 京都府宇治市の平等院鳳凰堂の正面扉が、創建時には黒く塗られていた。
 平等院鳳凰堂は、1053(天喜元)年に藤原頼通が創建した寺であるが、1670年に改修された際に取り外され、平等院に保管されている当初の正面扉を調査したところ、当初の黒の塗装が残っており、創建時には正面の木製扉が黒く塗られていたことが分かった。
 極楽浄土をイメージした鳳凰堂は朱が基調となっており、正面の扉も朱色に塗装されていたと考えられていたが、頼通が思い描いた極楽浄土の形や宗教観がしのばれる貴重な発見といえる。

 

● 紀伊山地霊場が世界遺産(2004年7月1日)

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は、三重、奈良、和歌山3県にまたがる「紀伊山地の霊場と参詣道」を世界遺産に登録することを決めた。「紀伊山地」は「吉野・大峰」「熊野三山」「高野山」の3霊場と、それらを結ぶ参詣道から成っている。
 また、北朝鮮の「高句麗古墳群」も北朝鮮初の世界遺産となった。

 

● 北壁中央に接ぎ目-キトラ古墳(2004年7月1日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で北壁が、2枚の石材を継いで造られていることが分かった。
 これまでの想定では、玄武の描かれた北壁は1枚の板石で構成、東西壁面はそれぞれ3枚の板石を並べて造ったとみられていたが、北壁は床面近くに5cmほ どの継ぎ目があり、中央で左右2つに分かれることがわかった。玄武は継ぎ目の真上に描かれており、ヘビの首からカメの甲羅にかけて縦にひび割れがある。
 また、東壁は真ん中の1枚が床から50cmほどの所に横の目地が通り、上下に継いであることが分かった。西壁で目地は確認されなかった。
 高松塚古墳やマルコ山古墳など、「兄弟古墳」といわれる4つの古墳で東西壁面を上下に継いだのはキトラ古墳だけ。マルコ山古墳は北壁が左右2枚で共通性がある。石材の供給事情や造った人物の力関係などの理由があったとも考えられる。

 

● キトラ古墳の壁画、はぎ取り保存も検討(2004年7月1日)

 明日香村阿部山のキトラ古墳で、壁画の保存方法について、文化庁がはぎ取りも視野に入れるべきと指摘し、現地保存を基本に検討されてきた壁画保存は、根本的に見直される可能性が出てきた。高松塚古墳では壁画の劣化が判明し、文化庁の管理体制のあり方が問題視されていた。

 

● 高松塚古墳壁画をカメラ使って無人監視(2004年6月30日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、壁画の劣化が進んでいる問題で、文化庁は石室内にカメラを設置し、壁画を自動で撮影する監視システムを導入することを決めた。
 同古墳では現在、3週間に一度、石室内の立ち入り点検をしているが、人の出入りによる環境変化が壁画の劣化の原因との指摘もあることから、10月から石 室内に動画撮影機能付きのデジタルカメラを数台設置し一日一度壁画全体を撮影することにした。画像は自動で文化庁や東京文化財研究所、奈良文化財研究所に 送信され、前日の画像と比較して、違いがあれば異変とみなして警報が鳴るシステム。

 

● 女子群像や青竜も劣化か(2004年6月25日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、「白虎」の劣化が問題となっているが、新たに、女子群像や、四神図の青竜も汚れや劣化があることを、発見当時発掘を担当した網干善教関西大名誉教授らが最新の写真を基に指摘していることが分かった。

 

● キトラ古墳でこはく玉出土(2004年6月25日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳石室で、こはく玉2点と鉄片や木棺金具、被葬者とみられる人骨2片などが見つかった。
 こはく玉は直径9.3〜9.5mm。チョコレート色で、ひもを通すための直径1.8mmの穴がある。
 木棺金具は花形で、既に見つかったのと同じ木棺に使われた金具とみられる。
 平安時代の文献に、三位以上の皇族や高官がひもに通した玉を腰に下げる玉佩を身に着けたとあることから、被葬者特定の手掛かりになる可能性がある。

 

● 山科・大宅廃寺跡で瓦積み基壇跡を発掘(2004年6月24日)

 京都市山科区大宅の大宅廃寺跡で、瓦積みの基壇跡が見つかった。
 大宅廃寺は白鳳時代(7世紀)に創建されて平安時代まで続いたとされる寺で、奈良・興福寺の前身の山階(やましな)寺の候補にも挙げられている。
 基壇は石の上に瓦が6〜7層に約30cm高さで積まれており、基壇の外側も縁を3層の瓦で幅約1m、高さ約15cmにわたって基壇風に飾られていた。基壇上には、直径約2mの柱穴跡が見つかり、塔の水煙の一部とみられる破片も近くから出土した。。
 大宅廃寺では既に、今回の調査地の北側に3棟の建物跡が見つかったほか、南側には中心伽藍を取り囲んだ築地塀に関連したと考えられている雨落ち溝跡の一 部が見つかっていることから、今回の発掘結果と併せて、この付近が伽藍の主要部であることがさらに確実になった。

 

● 白虎、17年前すでに劣化-高松塚壁画(2004年6月23日)

 奈良県明日香村平田の高松塚古墳で生じている四神壁画の「白虎」の劣化について、昭和62年に文化庁が写真撮影した段階で既に、輪郭がぼやけるなど不鮮明になっていたことが分かった。
 同古墳で極彩色壁画が発見されたのは昭和47年で、その後昭和62年に報告書が発行されているが、当時の報告書に掲載された虎の写真は、既に今回撮影さ れた写真とほとんど変わらない程度に劣化していることがわかった。顔の輪郭はこの時点でほぼ消えており、舌や唇はわずかに赤色を保っていたものの、カビの ような黒いシミが全身見られ、発掘時点とは比較にならない状態になっていた。

 高松塚古墳の発掘当時は壁画をはがして保存することも検討されたが、文化庁は現状での非破壊保存を決定し、墳丘に保存施設を設け て監視を続けてきた。文化庁では、壁画の状態は安定していると強調していたが、今までもカビや虫の発生などが見られており、あらためて管理体制のあり方が 問われることになる。

 

● 白虎の輪郭、不鮮明に-石室の環境32年で変化(2004年6月22日)
 奈良県明日香村平田の高松塚古墳で、石室に描かれた極彩色壁画のうち、西壁の白虎の輪郭が32年前の発見当時よりかなり不鮮明になり、劣化が進んでいることが分かった。
 昭和47年の発見から30年を機に東京文化財研究所が平成14年9月から15年4月にかけ撮影した結果、劣化が判明した。
 最新の写真と発見当時の写真を比較すると、四神図の白虎は顔やたてがみなどの描線が薄くなり、口や前脚のつめの朱色が消えかかっており、全体に灰色のカビのような汚れが付いている。
 劣化は発掘や壁画修復のため人が出入りし、石室内の環境が変化したことが原因とみられ、墳丘や壁画の抜本的な保存対策を再検討する必要があると考えられる。
    

今回の撮影した写真          発見当初の写真

 

● 長岡京の建物基礎発掘(2004年6月23日)

 京都府向日市寺戸町梅ノ木の長岡京で、長岡京時代の建物の基礎と見られる版築基壇を発見した。
 発掘場所は、長岡京の宮域北端に当たる、大極殿の中央を通る宮内道路に沿った場所で、現在の地表面より1〜1.5m掘り下げた地層から8世紀末、長岡京時代の遺構が出土した。
 この遺構は宮廷や寺院など礎石建物を築く際に用いられる土を薄く敷いてはつき固めるという版築工法が用いられていた。周囲には石が敷き詰められており、 また、」近くから造成地の地下水位を下げるための埋め戻し溝も出土したことから、地層の状況から古くは地下水位の高い地域だったことも分かった。

 

● キトラ古墳で人骨と歯、木棺の金具発見(2004年6月18日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で、被葬者とみられる人骨と歯計10点、木棺の一部とみられる金具1点が見つかった。
 骨や歯を分析すれば性別や年齢が推定可能で、キトラ古墳の被葬者の重要な手掛かりになる。
 人骨は頭部とみられる7片で、最大で3−4センチ四方。歯は4本見つかった。
 金具は6枚の花弁を持つ直径3.7cmの花形銅製品で、エックス線撮影で3カ所に穴があり、木棺の金具と見られる。

 

● 高松塚古墳の壁画は赤色顔料使い分けて彩色(2004年6月12日)

 奈良県明日香村高松塚古墳の極彩色壁画は、場所によって複数の赤色顔料を使い分けていることがわかった。

 同古墳の赤色は、女子の上着や唇、帯のほか、東壁に描かれた青竜の舌などに使われており、発掘直後に行われた分析では、水銀朱、ベンガラ(紅柄)、鉛丹の3つが赤色の成分と推定されていた。
 今回の調査で、古墳の石室に蛍光X線分析装置を持ち込み測定した結果、女子像の鮮やかな唇には水銀朱が使われていたが、女子像の上着からは水銀朱やベンガラ、鉛丹は検出されず、染料植物のスオウを原料にした植有機系の顔料だった可能性が強まった。

 また、既に四神図の玄武や青竜のうろこ、東西の壁に描いた男女群像の上衣やスカートなど青や緑に見える部分には、西アジアで産出するラピスラズリが使われていることがことが判明していた。

参考:顔料の種類

 

● 滋賀県・蜊江神社で天平時代の吉祥天像発見

 滋賀県守山市笠原町の蜊江(つぶえ)神社から、奈良時代後期の制作と見られる天部立像が見つかった。
 本像は、同神社境内の毘沙門堂に安置されていたもので、像高73cmの一木造、尊名は台座部分の形式や服制から吉祥天と見られる。全体に磨滅が激しいが、面相部は乾漆か塑土で目鼻立ちを仕上げていたと思われる。
 天平時代の吉祥天像は、東大寺、法隆寺、薬師寺等、奈良地方にしか現存しておらず、吉祥天信仰の伝播を考える上で貴重な発見となる。

 本像は、6月12日から20日まで、同市服部町の市立埋蔵文化財センターで展示される。

 

● 静岡鉄舟寺敷地の神社が全焼(2004年6月4日)

 静岡市清水村松の鉄舟寺に隣接する熊野十二社神社から出火し、社殿を全焼した。
 同神社は普段は無人で、扉は鎖でふさがれているが、鎖が切断されていた。
 国宝の法華経や仏像、源義経が愛用した横笛など多数の文化財を収蔵している鉄舟寺には延焼はなかった。

 

● 東大寺旧境内で奈良時代の七重塔の相輪鋳造遺構発見 (2004年6月2日)

 奈良市雑司町の東大寺旧境内で、奈良時代の鋳造遺構が見つかった。
 鋳造遺構は大仏殿の北にある空海寺の敷地内に、一辺約2.9mの正方形で、深さは1.3m。中央にガス抜き用とみられる直径約1mのくぼみがあった。同 時に見つかった木簡に「人作露盤伏鉢樋八枚形」などと書かれており、相輪の伏鉢部分の受け花8枚の鋳型を作ったと読めることから、平安時代に焼失した七重 塔の相輪を鋳造したとみられる。
 東大寺旧境内で鋳造遺構が見つかったのは、戒壇院東側に釣り鐘を造ったとされる遺構に次いで二例目である。

 

● 唐招提寺金堂の鴟尾を公開(2004年5月30日)

 奈良市五条町の唐招提寺で金堂鴟尾の公開が始まった。
 天平の甍で知られるの唐招提寺金堂の屋根を飾っていた、創建当初の西側の鴟尾(高さ120.4cm)と鎌倉時代の制作である東側の鴟尾(高さ117.5cm)が並べて展示されるのは初めてとなる。
 鴟尾は金堂の解体修理のため、屋根から下ろされていたが、傷みが激しいため修理後は新しい鴟尾を上げ、現在の鴟尾は同寺で保管することになっている。

 

● 石山寺の如来立像は飛鳥仏でなく、渡来仏 (2004年5月25日)

 一昨年、滋賀県大津市の石山寺の本尊像内から発見された4体の小金銅仏のうち、飛鳥時代の仏像とされた像が、北魏や百済などで作られた像である可能性が出てきた。

  この像は、2002年8月、石山寺本尊の木造如意輪観音(平安時代)を調査中に、像内から納入の経過を記した厨子とともに発見された像高26cmの如来立 像で、X線撮影の結果、鋳土が像内に残ったままであることや、足にほぞをつけて台座に立てる方式であることから、従来考えられていた飛鳥時代の作ではな く、北魏や百済などで作られた渡来仏とみられる。
 石山寺は、寺伝によれば8世紀中ごろに聖武天皇の勅願により東大寺初代別当良弁が東大寺大仏の造立に際し、鍍金用の金の産出を祈願して如意輪観音をまつる一宇を建てたのが始まりとされ、本尊の胎内に小仏が納入されていると言い伝えられていた。
 この像は、創建された石山寺の当初の本尊だった塑像・観音菩薩像の像内に納められていたが、平安時代の1078年に火災に遭って本尊が損壊したことか ら、火災後に作られた現本尊に改めて納められと考えられ、石山寺の創建伝承を裏付けたことで注目を浴びていた。本像が、渡来仏であるとすれば、大仏建立に 当たって尽力した渡来系の人々の活躍を改めて示したものと考えられる。

 

● 奈良国立博物館研究紀要第5号が公開

奈良国立博物館研究紀要『鹿園雜集』 第5号(平成15年3月)がPDFで公開されました。

奈良国立博物館 → 情報検索サービス → 奈良国立博物館研究紀要

以前、訪れ帖で運慶作の新発見として話題となった、高野山正智院の阿弥陀如来坐像についての論文が掲載されています。

〈論文〉
奈良国立博物館所蔵普賢十羅刹女像について 増記 隆介
東大寺前身寺院に関する試論 高橋 照彦

〈作品研究〉
高野山正智院の阿弥陀如来坐像 岩田 茂樹

 

● 武蔵国分寺の七重塔、創建当初の新たな遺構発見(2004年5月22日)

 東京都国分寺市の武蔵国分寺跡で、創建当初の塔基壇とみられる新たな遺構が発見された。現在の七重塔跡の54m西側を地中レーダーで探査した結果、基壇に似た反応があり、約20m四方、厚さ約3mに亘って、何層も土を突き固めて重ねた版築土層の存在が確認された。
 武蔵国分寺は天平宝字年間(757〜765)に創建されたが、「続日本後紀」によると承和2年(835)に落雷で焼失、9世紀後半に再建された。
 1964年の発掘で現在の七重塔跡から焼けた瓦が交じった粘土や礎石を据え変えた跡などが見つかったことから、創建時と同じ位置に再建されたと考えられ ていたが、今回発見された場所が創建時の七重塔跡である可能性が高まった。7月から年代判定のために礎石を抜いた跡や焼土の痕跡の有無などを調べる。
 同国分寺跡の史跡整備は、七重塔の位置が創建当時から変わっていないとの前提で進めてきたが、整備計画を根本から見直すことになる。

 

● 長屋王邸宅と同型瓦片が瓦窯跡から出土 (2004年5月18日)

 奈良県河合町の瓦窯跡で、奈良時代初めの宰相・長屋王の邸跡で出土したのと同型の瓦片が多数見つかった。
 見つかった多くの瓦片のうち21点から、同邸跡で出土した瓦と同じ型で作った唐草文様などが確認された。
 瓦窯跡は同邸跡と約14キロ離れているが、邸跡から出土した木簡には、この地域から農作物を調達していたことが記されており、瓦も供給していたことがわかり、長屋王の経済基盤を知る手がかりになるという。
 5月20〜30日に同町池部の町中央公民館で調査結果を公開する。

 

● 正倉院・伎楽面の顔料に貝殻胡粉を使用(2004年5月14日)

 正倉院宝物の「伎楽面」(8世紀)の白色顔料に、貝殻を焼いて粉末にした胡粉が使われていたことがわかった。
 正倉院の約150点の宝物をX線解析装置で分析した結果、うち19点から白色顔料である炭酸カルシウムが見つかった。さらに走査電子顕微鏡により、迦楼羅の面など3点の伎楽面にカキの貝殻で作った胡粉が使われていることがわかった。
 奈良時代(8世紀)に使われていた白色顔料は、これまで白土や鉛白など数種類が知られているが、今まで胡粉は日本では瀬戸内海で牡蠣の養殖が始められた 室町時代以降に本格的に用いられるようになったと考えられており、600年以上遡って使用されていたことが確認されたことになる。

 

● 三仏寺蔵王権現像は平安時代の作(2004年5月12日)

 鳥取県三朝町の三仏寺の本堂に安置されていた蔵王権現像が、平安時代に作られたもので蔵王権現立像としては国内最古級あることがわかった。
 蔵王権現立像は像高約75cmで、厚く施された彩色などから江戸時代のものとみられており、文化財には指定されていなかった。今回、修理のため表面の彩 色を落としたところ、宝冠の様式などが12世紀の作とされる投入堂本尊と似ていることがわかった。また、年輪年代測定を実施した結果、ヒノキの最も外側の 年輪から伐採年が最大で1002年までさかのぼることが分かった。
 投入堂には、ほかに平安時代の蔵王権現像7体(いずれも重文)があり、現在は宝物殿に安置されているが、2001年の年輪年代法による調査で、このうち 2体の伐採年が1025年と1165年、残りも平安時代の10〜12世紀の制作であることが明らかになっている。

 

● 唐招提寺の瓦敷き遺構は創建当初の須弥壇(2004年5月8日)

  奈良市西の京・唐招提寺で昨年金堂の須弥壇の石敷きの下で見つかった瓦敷き遺構は、瓦を熱ルミネッセンス年代測定法で年代測定した結果、創建当初の8世紀 のものであることが分かった。 また、中央部の南側と北側の瓦は、金堂大修理が行われた鎌倉時代(13世紀)のものと判明。大修理の際、これら瓦敷きの上 に、現在の石敷きの須弥壇が造られたものと考えられる。

 

● 高松塚壁画の青の顔料はラピスラズリ(2004年5月3日)

 奈良県明日香村高松塚古墳の極彩色壁画のうち、人物群像のスカートなど彩色に、ラピスラズリを使った可能性が高いことが分かった。
 東京文化財研究所が、古墳の石室に蛍光X線分析装置を持ち込み測定した結果、四神図の玄武や青竜のうろこ、東西の壁に描いた男女群像の上衣やスカートなど、青や緑に見える部分の蛍光反応が、ラピスラズリと一致することが判明した。
 ラピスラズリはアフガニスタンなど西アジアで産出する深い青色をした貴重な鉱石。紀元前のメソポタミア文明から装身具に宝石として使われ、正倉院にもラ ピスラズリで飾った革帯が伝わっており、中国・敦煌の壁画などで顔料として使用されているが、国内ではこれまで顔料として使用は確認されていない。

 

● 石山寺の如意輪観音坐像は10世紀の作(2004年5月3日)

  滋賀県大津市の石山寺の収納庫に保管されていた如意輪観音坐像が、平安時代中期の作であることが判った。如意輪観音坐像は六臂像で高さ56.4cm、材質 はサクラ。昭和中頃に金箔修理されており、江戸時代の作とみられていたが、滋賀県立琵琶湖文化館で修理のため金箔をはがしたところ、本来の面相や木地が確 認され、10世紀頃の制作であることが判った。

 

● 敦煌の遺跡をデジタル技術永久保存(2004年5月3日)

 中国甘粛省の敦煌石窟遺跡を、デジタル技術を駆使して永久保存する計画が、中国の敦煌研究院などによって進められている。
 敦煌の参観者は年間約30万人で、今後参観者増によって洞窟内の温度や湿度が変化し、壁画の保存に影響が出ることが懸念されていることから、デジタル技 術によって遺跡を保存公開し、遺跡損壊の心配をせずに、壁画の細部まで鑑賞出来るようにする。敦煌研究院は1998年から、莫高窟で壁画などのデジタル撮 影を開始し、これまでに計22の洞窟で測量、撮影と目録作成の作業を終えた。 同研究院では洞窟、壁画、塑像などすべての文化財をデジタル画像化するとともに、世界各地の敦煌文書や研究成果もデジタル処理し、電子記録にまとめる。

 

● 法華寺で講堂跡など発見(2004年4月29日)

 奈良市法華寺の境内から、創建当時の講堂基壇跡や僧坊跡とみられる柱列が見つかった。
 防災工事に伴い、境内の3カ所を調査したところ、現在の本堂の南側から8世紀半ばの三棟の建物跡が見つかった。柱穴には、礎石を支えた根石が残っており、創建当初の僧坊跡か食堂跡と見られ、今回の調査で創建当初の伽藍配置がほぼ確定した。
 さらに現在の南門付近から講堂基壇の地覆石と見られる凝灰岩が出土し、その下層からは直径約1メートルの柱穴も見つかった。

  法華寺は、かつての藤原不比等の旧邸宅跡で、720年に不比等が没した後は娘の光明皇后の宮、745年に同皇后の宮寺となり、天平19(747)年ごろ、 光明皇后の発願で法華寺としてと創建されたと考えられているが、最下層の柱跡は、藤原不比等の邸宅跡の可能性もあるという。

 

● キトラ古墳の壁画の赤外線写真を紹介(2004年4月30日)

 明日香村奥山の奈良文化財研究所飛鳥資料館に「キトラ特設コーナー」が新設され、赤外線撮影されたキトラ古墳の獣頭人身像を写真パネルで展示する。文化庁が撮影した獣頭人身十二支像の赤外線写真など、キトラ古墳の壁画写真を紹介する記念特別展が始まった。

  特別展では、東壁に描かれた獣頭人身十二支像の寅が2点と四神の青竜1点。この他、公開済みの南壁の朱雀や天文図などの壁画写真、石室内の様子を写した大 型カラー写真や四神のアップなど、計14枚を展示する。さらにトラなど獣の頭で文人の衣装を着た中国・唐代の俑(よう)(土製人形)や朝鮮半島の統一新羅 の蝋石(ろうせき)十二支像を撮影したパネル写真も展示している。

 特別展は期間を設けず当面公開され、5月から始まる石室内で壁画の修復や床面の発掘等の最新情報を写真などで順次紹介する。

 

● 文化庁が文化遺産オンライン試行版を公開(2004年4月26日)
    (http://bunka.nii.ac.jp/jp/index.html)

文 化庁が全国の博物館・美術館・関係団体を含む国や地方の有形・無形の文化遺産に関する情報を積極的に公開すること等を目的とする「文化遺産オンライン構 想」の一環として、「文化遺産オンライン」試行版を一般公開した。今後、文化遺産オンラインの利用者の意見を踏まえながら、平成18年度には1,000館 程度の博物館・美術館・関係団体等の参加を実現し、文化遺産に関する情報の集約化、及び国や地方の文化遺産をインターネット上で公開することを目指す。

現在公開される情報は限られているが、国や地方の指定文化財の写真や解説をを、名称や作者名、時代などで検索することが可能となっている。

 

● 「奈良公園シルクロード交流館」が新装オープン(2004年4月24日)

奈 良市雑司町の奈良公園館が名称を改め、「奈良公園シルクロード交流館」として4月23日新装オープンした。新装に当たっては、考古学者で故人の江上波夫さ んが奈良県に寄贈したユーラシア大陸の遺物など江上コレクションの展示のほか、シルクロード学研究センターの研究成果や発掘調査結果を広く紹介する。

 

● 最古級の法隆寺式伽藍発見(2004年4月23日)

奈 良県香芝市尼寺(にんじ)の尼寺廃寺南遺跡で、法隆寺式伽藍の基壇跡が見つかった。尼寺の創建は出土した瓦から飛鳥時代の7世紀中ごろとみられ、初の官営 寺院「百済大寺」とされる奈良県桜井市の吉備池廃寺跡(7世紀中頃)と並び、法隆寺式伽藍の最古級である。約200m離れた尼寺廃寺北遺跡でもほぼ同時期 の寺院跡が見つかっているが、二つは僧寺・尼寺の関係にあったとみられ、同じ飛鳥時代の飛鳥寺、斑鳩寺(現・法隆寺)に並ぶ本格寺院だったと考えられる。

 また、年代や規模から、近くに墓があったとされる敏達天皇の孫で、天武天皇の祖父にあたる、茅渟(ちぬ)王とその一族が建立した般若寺(片岡寺)とみられる。

 

● キトラ古墳十二支の獣頭人身像を確認(2004年4月15日)

  奈良県明日香村阿部山の国特別史跡キトラ古墳(7世紀末-8世紀初め)で行われていた壁画の調査で、四神の壁画の下に、東壁の北寄りに手に矛を持った寅 (トラ)と、北壁の中央に手に矛を持った子(ネズミ)の獣頭人身像が描かれていることが確認され、四方の壁面に三体ずつ十二支として配置されていることが わかった。

 獣頭人身像の十二支は、十二支の獣の頭部と人間の体を組み合わせたもので、中国の隋代に作られた傭や墓誌などに文官の服装の彫刻があり、朝鮮半島では、8世紀の統一新羅の王陵などに、武器を持ってよろいを着た武人の十二支像のレリーフが見られる。

 着物の襟は、今の和服とは逆の「左前」で、高松塚古墳の人物壁画と同様、右前に統一された養老3(719)年以前に描かれたものとみられる。

  また、トラの右手の線、左の袖口、襟の一部に、へらで跡をつけた輪郭線が見られ、下絵を壁に写す際に、原本を壁に押しあてへらで絵の輪郭をなぞって壁に転 写、彩色する「へら描き」という描写技法が新たに確認された。この手法は高松塚古墳では確認されておらず、火災で焼損した法隆寺の金堂壁画も(7世紀後 半)にはみられることから、法隆寺の金堂壁画の制作年代と近いことをうかがわせる。

 キトラ古墳の獣頭人身像は、手に武器を持ち、また着物の袖をラッパ状に広げる表現が、十二神将像の表現に近いことが指摘される。十二神将像の例としては、日本では法隆寺の金堂壁画に描かれた壁画が現存最古である。

 前回確認されていた四神の内、東壁の青竜は壁面に付着した土と鉄さびで、顔の先端しか確認されていなかったが、今回1600万画素のデジタルカメラで行った赤外線撮影により、目、角、肩から後方に流れる羽毛、伸ばした前脚と鋭いつめ、腹部や脚が鮮明に映し出された。

 

● 香芝・下田東遺跡で最古級の馬具出土(2004年4月10日)

 香芝市下田東の下田東遺跡の川跡から 5世紀中頃以前の馬具の鞍の背もたれ部分にあたる後輪(しずわ)がほぼ完全な形で見つかった。
 後輪は、幅41.2cm、高さ20.2cm、厚さ1〜3cmのサクラ系広葉樹材製で、部材の中央部に飾りをつける四角の穴が二つあり、片面が炭化していることから、焼け焦げた後、捨てられたらしい。
 馬具については、馬や馬具の製作に携わった集団とともに5世紀代に日本列島に渡来したと考えられている。古墳時代の出土品はこれまで全国で16例あるが、その中でも最古級と考えられる。

 今回見つかった後輪は4月10日から18日まで香芝市藤山1丁目の二上山博物館で展示される。

 

● 金剛峯寺で不動明王像から胎内仏発見(2004年4月1日)

 和歌山県高野町の金剛峯寺で不動明王立像の中に、同時代の作とみられる胎内仏の不動明王立像が納入されていることがわかった。

 不動明王立像(重文 像高259cm 平安時代後期)の内部をファイバースコープにより調査したところ、胸から腹部に当たる部分に「蓮意母往生極楽」などと書かれた紙が留められ材木に固定された、像高34cmの不動明王立像が発見された。
 全身に灰色の顔料が塗られており、本体像の発願主である高野山の行者、蓮意上人が亡母の遺灰を顔料に混ぜて塗って納入した、類例のない胎内仏ではないかと考えられる。

  本像は、高野山千手院観音堂に不動明王立像と共に安置されていたもので、現在は霊宝館に移されているが、毘沙門天立像(重文 像高269cm 平安時代後 期)の方は、2003年2月に解体修理された際、白檀製の毘沙門天立像(像高44.4cm 平安時代後期)の胎内仏が発見され取り出されている。

 不動明王立像本像の写真は、

Yahoo! news(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040401-00000003-maip-soci)へ 

 毘沙門天立像及び胎内仏の写真は、

高野山霊宝館 (http://www.koyasan.or.jp/reihokan/index.html)のホームページから → トピックス → 毘沙門天立像修復完成 へ

 

● 金色堂諸像、藤ノ木古墳出土品など4件が国宝に指定(2004年3月20日)

文化審議会が新たに国宝4件、重要文化財46件、有形文化財99件を文部科学相に答申した。

■ 国宝(美術工芸品)

絵画

 ◎雪舟筆紙本墨画淡彩慧可断臂図(愛知県常滑市・斉年寺)

雪 舟の人物画の代表作。禅宗の初祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、恵可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示し たところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面である。画面全体に息苦しいまでの緊張感を生み出している。署名から明応5年(1496)、雪 舟が77歳の制作であることが分かる。

 ◎絹本著色五大尊像(岐阜県大野町・来振寺)

截金や金銀泥などの多彩な技法を用いて、五大明王と脇侍や使者を表したもので、寛治2年(1088)及び4年の墨書銘を持ち、平安時代の仏画基準作例として貴重なものである。
 

慧可断臂図                 五大尊像        

彫刻

 ◎金色堂堂内諸像及び天蓋(岩手県平泉町・中尊寺)

天 治元年(1124)の造立になる中尊寺の創建当初の唯一の遺構である。四本の巻柱や長押しなどに螺鈿細工・透彫金具・蒔絵等を駆使した、藤原清衡・基衡・ 秀衡三代の遺体を収める三基の須弥壇に、それぞれ阿弥陀如来三尊、六地蔵、二天像を安置する。天蓋は以前から工芸品として国宝に指定されていたが、美術工 芸品に所属を変更して仏像とともに新たに指定し直された。

考古資料

 ◎奈良県藤ノ木古墳出土品(文化庁)

1985〜88年に発掘され、未盗掘だった石棺から金銅製の冠、沓、大帯、飾り金具、銀とガラスのおびただしい玉類、刀剣などが出土した他、ゾウなどの動物意匠が透かし彫りされた馬具の金銅製鞍金具が見つかった。
 

金色堂堂内諸像及び天蓋       藤ノ木古墳出土金銅製鞍金具  

 

■ 重要文化財(美術工芸品)

絵画

 ◎紙本白描不動明王図像(奈良国立博物館)

鎌倉時代。18種の不動明王と2種の八大童子など計31図が巻物型式で描かれている。顔が4面に腕が4本など珍しい不動明王が多い。

 ◎紙本著色歌舞伎草紙(名古屋市・徳川美術館)

 ◎紙本著色四季花鳥図(京都国立博物館)

 ◎絹本著色日吉山王宮曼荼羅図(奈良国立博物館)

南北朝時代。比叡山西麓の日吉山王21社の景観を描き、上に21社の本地仏を描く。繊細な筆致の風景画としても貴重。

 ◎絹本著色五大尊像(岐阜県大野町・来振寺)

 ◎絹本著色法華曼荼羅図(奈良県斑鳩町・法隆寺)

絹地に着色してあり、法華曼陀羅としては最古の平安時代の作品。穏やかで優雅な描写が特徴。

 ◎絹本著色星曼荼羅図(同)

星曼荼羅は密教の北斗法本尊。円形と方形の2系統あるうちの円形の曼荼羅で、平安時代の優品とされる。

彫刻

 ◎木造阿弥陀如来立像(静岡県熱海市・MOA美術館)

 ◎塑造金剛蔵王立像心木(大津市・石山寺)

 ◎木造大威徳明王像(京都市・醍醐寺)

 ◎木造毘沙門天立像(京都市・弘源寺)

 ◎木造阿弥陀如来立像(京都府城陽市・極楽寺)

 ◎木造獅子(岡山県津山市・高野神社)

 ◎木造倶利迦羅竜剣(大分県山香町・小武寺)

 ◎木造傅大士・二童子像(京都市・大報恩寺)

工芸品

 ◎丸壷茶入(東京・根津美術館)

 ◎黄釉銹絵梅樹文大瓶(東京国立博物館)

 ◎紫地葵紋付葵葉文様辻が花染羽織・浅葱地葵紋散文様辻が花染小袖(徳川美術館)

 ◎朱漆輪花天目盆(根津美術館)

 ◎黄地蝶梅文様繍狩衣・黄地牡丹文様繍狩衣(岐阜県郡上市・白山神社)

 ◎金銅密教法具(奈良市・西大寺)

鎌倉時代。金剛盤、五鈷鈴、独鈷杵、三鈷杵、五鈷杵の5点がそろった皆具。

 ◎彩絵鼓胴(奈良市・手向山八幡宮)

舞楽や雅楽で使われる鼓の胴部。群青などで花弁を描いている。康平4(1061)年の墨書銘があり、制作年がわかる鼓胴としては最古で、基準作として貴重。

建造物

 ◎長林寺本堂、開山堂(栃木県足利市)

 ◎天仲院本堂(同県総社市)

古文書

 ◎師守記(国立国会図書館)

 ◎三箇院家抄(国立公文書館)

 ◎湯浅景基寄進状(京都市・真宗大谷学園)

 ◎車図(京都市・陽明文庫)

 ◎立花家文書(福岡県柳川市・柳川古文書館)

書跡・典籍

 ◎晋書列伝巻第五十一零巻(文化庁)

 ◎継色紙「よしのかは」(東京都三鷹市・個人)

 ◎色紙阿弥陀経(愛知県岡崎市・満性寺)

 ◎物語類并注釈書(京都市・冷泉家時雨亭文庫)

 ◎前十五番歌合(大阪府箕面市・大阪青山学園)

 ◎四十番歌合(同)

考古資料

 ◎北海道有珠モシリ遺跡出土品(文化庁)

 ◎奈良県黒塚古墳出土品(同)

1998年に発掘され、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面などが出土。三角縁神獣鏡の中には、他の古墳から出土した鏡と同じ鋳型で作られた兄弟鏡(同笵鏡)の関係をもつものが多数含まれ、当時の豪族の勢力関係を知る手がかりになるとされる。

 ◎北海道有珠モシリ遺跡出土品(北海道伊達市)

 ◎京都府奈具岡遺跡出土品(京都府埋蔵文化財調査研究センター)

 ◎広島県草戸千軒町遺跡出土品(広島県立歴史博物館)

 ◎福岡県隈・西小田遺跡群出土品(福岡県筑紫野市・市歴史博物館)

歴史資料

 ◎身幹儀(広島大学)

 ◎蘇言機(国立科学博物館)

 ◎今井八九郎北方測量関係資料(東京国立博物館)

 ◎箱館奉行所文書(北海道立文書館)

 ◎鷹見泉石関係資料(茨城県古河市・古河歴史博物館)

 ◎壬申検査関係ステレオ写真ガラス原板(江戸東京博物館)

主な登録有形文化財

 ◎亀屋商事本館ほか(茨城県古河市)

 ◎平安女学院明治館(京都市)

 ◎竹瓦温泉(大分県別府市)

 

● 東寺両界曼荼羅図を修復初公開 (2004年3月19日)

 空海が唐から請来した持ち帰った曼荼羅の転写本である両界曼陀羅図(甲本)(重文)が、4年がかりの修復を終え、3月20日から5月25日まで東寺宝物館で公開される。

 両界曼陀羅図(甲本)は建久2年(1191)に描かれたもので、大きさはともに縦約4.3m、横3.9mと日本最大級で、空海が請来した曼荼羅の転写本(弘仁12年-821-転写、空海の請来原本と共に現存せず)を、さらに写した第二転写本に当たる。

 1954年に、二枚とも下部3分の1が欠損し、バラバラの状態で発見されたが、2000年から京都国立博物館文化財保存修理所で絵の具のはく離止めや補絹、裏打ちなどの修復を行っていた。

 

● 観世音寺で創建当時の伽藍跡を発見(2004年3月17日)

 福岡県太宰府市の観世音寺で、創建当初のものとされてきた講堂の礎石の下から、さらに古い時期の講堂や回廊の基礎部分が見つかった。
 観世音寺は天智天皇が、白村江の戦いの際、九州への遠征中に急逝した母斉明天皇の菩提を弔うために発願し、天平18年(746)に完成した寺院で、正面奥に講堂、左に金堂、右に塔が向かい合う観世音寺式伽藍を持つ。
 出土したのは、講堂や回廊の柱の礎石の下に敷かれた根石で、回廊は講堂の両側から金堂や塔を取り囲む壮大な規模だったとみられる。
 講堂は、平安時代と江戸時代に建て替えられと考えられていたが、今回の発見で創建時のものとされていた礎石が平安時代以前の建て替え時のものであることがわかった。

 

● 運慶の大日如来像発見(2004年3月11日)

 鎌倉時代の仏師、運慶の作とみられる大日如来像が、確認された。
 この大日如来像は、金剛界大日如来坐像で、像高66.1cm、ヒノキ製で漆箔が施されている。東京国立博物館で像の内部をエックス線で調査したところ、 五輪塔の形をした木札や心月輪(しんがちりん)と呼ばれる水晶珠と仏舎利容器と見られる水晶製の五輪塔が納められていることが判明した。
 木札は、静岡・願成就院の諸像などの胎内に納められていた運慶の制作の経緯を伝える木札と同型であり、水晶製の五輪塔も運慶独特の像内納入品と共通点が多い。
 また、理知的な面相や鋭い髪の彫り方など栃木県足利市の光得寺の大日如来坐像と極めて似通っている。

 光得寺像は、源頼朝のいとこであり義兄弟でもある、鎌倉時代初期の有力御家人、足利義兼が運慶に作らせたと伝える像高30cmの小さな像で、後に義兼が鑁阿と号し諸国巡歴の際、自ら背負っていたものと伝え、明治初年、排仏毀釈で法界寺址(現 樺崎寺跡)から移されたものである。文献によると、法界寺には義兼の娘たちの菩提を弔うために、建久4(1193)厨子に入った三尺の大日如来像が安置されたといわれ、今回確認された像は、大きさからこれにあたる可能性がある。
 建久4(1193)頃は、運慶の壮年期で、これまで作品が知られていなかった空白の時期であった。

 この大日如来像は、東京・上野の同博物館で4月6日から6月30日まで、光得寺像とともに平常陳列で公開される。

  

      大日如来坐像            X線写真        願成就院の五輪塔型木札

     下から顔の中心まで五輪塔型の木札がたつ
    胸の部分に水晶珠と五輪塔が見える

 

● 蘇我馬子の邸宅跡発見(2004年3月11日)

 蘇我馬子の墓とされる奈良県明日香村の石舞台古墳の西約200mの島庄遺跡で、飛鳥時代の大型建物跡群が見つかった。
 島庄遺跡は飛鳥川沿いにあり、大小9棟以上の掘っ立て柱建物跡が重なって出土した。 このうち最大の建物跡は柱が2.4m間隔で4×6本並び、床面積は約100平方mで、1972年に北約40mの場所で出土した勾の池跡と平行であるという。
 日本書紀は、626年に亡くなった馬子を「飛鳥川のほとりに家を建て、庭に小さな島のある池を造る。人々は島大臣と呼んだ」と記述しており、この記述と 合致することや、当時の宮殿に匹敵する規模であること、また出土した土器などから7世紀前期の馬子邸と見られる。
 蘇我氏が大化改新で失脚した後、蘇我邸は王室領として没収され、草壁皇子の島宮となるが、その当時の建物跡も同時に出土した。

 

● 「武人埴輪が左手に握る大刀」が再現(2004年3月7日)

 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の大刀形の埴輪が、新庄町で発掘された武人の手の埴輪片と割れ目が合致し、接合すると「武人埴輪が左手に握る大刀」が再現された。
 この埴輪は、新庄町「寺口忍海D27号墳」(5世紀末)から出土した武人の形をした人物埴輪の一部で、1975年に県内の考古学愛好家が両端の欠けた大 刀を発見し、橿考研付属博物館出保管していた。また、10年後に町教委が古墳を発掘調査した際、大刀の両端部分と何かを握った手を見つけたが、接合できる 破片が無く、それぞれ保管されたままだったという。
 ところが今年初め、博物館側で、町教委側の図面を確認、合わせたところ破断面がつながり、大刀を握る左手であることが判明した。

 3月6日から同博物館で開かれている特別陳列「葛城の埴輪」で公開されている。

 

● 大型石室を発見 豪華な馬具も出土(2004年3月3日)

 静岡県駿東郡長泉町の原分(はらぶん)古墳で、県東部で最大クラスの石室が発見された
 同古墳は、直径約20mの円墳で、飛鳥時代の六世紀末から七世紀後半にかけて、この地域を治めた首長の墓とみられる。石室は全長10mあり、石室は五枚の天井石すべてが構築時のまま残り、家型石棺が安置されていた。
 内部からは、被葬者の人骨及び土器約四十点、馬具や武具などの金属製品約二百点、玉類など装身具約二十点が副葬品として出土した。馬具の多くは金メッキが施された金銅製品で、東海地方屈指と言われる静岡市の賤機山古墳に次ぐ豪華さという。

 

● 東大寺で平安時代後期の四天王像発見(2004年3月3日)

 奈良市東大寺で、収蔵庫の中から見つかった四天王像の一体が立体画像で復元された。
 この像は、一昨年に開かれた「東大寺のすべて」展の準備中、収蔵庫の唐櫃の中から見つかった天部像で、平安時代後期の四天王像の一体とみられる。
 発見された時は、頭部と身体、足など十数個の部材に分解されていたが、彩色が残っており、面相や体躯の抑揚感などから平安時代後期のものと思われる。左腕のひじから上部が失われているほか、頭部の鼻と口がノミのようなもので削り取られている。
 立体画像は、早稲田大学奈良美術研究所が、各部材をCTスキャンで解析し、立体画像として組み合わせた姿を復元した。復元された像は、像高は約110cmであった。

(写真:早稲田大学奈良美術研究所)

 

● 大壁建物と石組みオンドルが出土(2004年3月2日)

 奈良県高取町の観覚寺遺跡で、7世紀前半〜中ごろの大壁建物跡と床下のトンネルに煙を通す暖房施設「オンドル」らしき石組み遺構が出土した。
 大壁建物は、方形の溝に直径20〜30cmの柱を数cm間隔で何本も立て、竹などで編んだ補強材を入れて土を塗り込んだ厚さ40cmほどの土壁を造る建 築工法で、少なくとも2〜3棟の大壁建物があったと見られる。また、建物の床下に石組みの溝があり、暖気を通す石組みのオンドルとみられる。
 大壁建物と石組みのオンドルが出土したのは、大津市の穴太遺跡(7世紀)に次いで全国2例目。古代の朝鮮半島からの渡来系集団「東漢氏(やまとのあやうじ)」の拠点集落だったと見られる。
 東漢氏は渡来系氏族で、先祖の阿智使主(あちのおみ)は応神天皇の時代に渡来、居住地に定められた桧前は観覚寺遺跡に近い、現在の明日香村桧前付近と考えられる。
 なお、オンドルを伴う大壁建物跡は約1km離れた清水谷遺跡でも見つかっている。

 

● 東大寺でお水取り始まる(2004年3月2 日)

 春の訪れを告げるといわれる東大寺二月堂の「お水取り」(修二会)の本行が1日始まり
 修二会は大仏開眼と同じ752年から毎年続く伝統行事。練行衆と呼ばれる11人の僧が、二月堂の本尊十一面観音に天下泰平や五穀豊穣を祈り、前行を含めて約1カ月間修行する。
 長さ約6メートルの大たいまつ10本に導かれた練行衆が石段を上って入堂。赤く燃え盛るたいまつを振るたびに、舞台から火の粉が激しく飛び散った。
 たいまつは14日まで毎日燃やされ、12日に一段と大きい籠たいまつが登場、クライマックスを迎える。

 

● 雪の中、若狭から東大寺にお水送り(2004年3月2 日)

 福井県小浜市の神宮寺で、東大寺「お水取り」に合わせて、東大寺に清水を送る神事「お水送り」が行われた。
 たいまつを手にした白装束の僧侶を先頭に、約2000人の参拝客が神宮寺から1・8キロ上流の遠敷川の鵜の瀬へ向かい、降りしきる雪とホラ貝の音色が響 きわたる中、住職が竹筒から香水を遠敷川にゆっくり注いだ。香水は若狭から地下を通り、10日間かけて東大寺「若狭井」に届くとされる。

 

● 日本最古のほうき出土(2004年2月29日)

 奈良県橿原市の西新堂遺跡で、古墳時代中期(5世紀後半)の河川跡から小枝を束状に縛った「ほうき」が出土した。これまで最古とされていた正倉院宝物の「子日目利箒(ねのひのめとぎほうき)」(8世紀中ごろ)を約300年さかのぼる。
 京奈和道建設に伴う調査で、1500年以上前の河川跡から見つかった。サクラ等の広葉樹系の小枝を数十本束ねたもので、枝の先を細くそろえ、2カ所をワラ状のひもで縛ってあり、長さ45cm、直径3cmだった。
 ほうきは、古くから産物の出来を占い、豊作を願う呪具とされ、文献では古事記に「帚持(ははきもち)」として登場する。正倉院宝物の「子日目利箒」は、 孝謙天皇が758年の正月に蚕室を掃く神事に使ったといい、2本現存し、長さは共に65cm、直径約4cm。
 今回のほうきは先端が減っていることから日常的に使われたとの見方もあるが、多数の須恵器や農具などが一緒に出土したことから、繁栄と豊作を願う水辺の祭祀に使われた可能性があるとみられる。

 

● 聖嶽洞穴遺跡のねつ造疑惑報道 控訴審も遺族側勝訴(2004年2月24日)

  週刊文春による大分県聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡のねつ造疑惑報道に抗議して自殺した賀川光夫別府大学名誉教授の遺族が、出版社の文芸春秋に、同誌への謝 罪広告掲載と損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が23日、福岡高裁であり、文芸春秋側に920万円の支払いと謝罪広告の掲載を命じた。
 判決理由で裁判長は「記事は賀川氏が遺跡のねつ造に関与した疑いがあると誤信させる内容で、掲載に相当の理由はない。掲載に当たっては十分な裏付け調査 が要求される」と指摘し、特に、賀川氏が自殺する直前に掲載された記事について、「賀川氏に敵対感情を抱いていると容易に知りうる人物からの一方的な取材 に基づいて執筆したことは、報道機関としては著しく軽率」と文芸春秋側の報道姿勢を批判した。
 原告弁護団は判決後、「ねつ造報道が賀川名誉教授に対する名誉棄損に当たることを明確に認めた画期的な判決。記事内容が虚偽であると認めただけでなく、 根拠の薄弱さを断罪したことは高く評価できる」と、判決を評価した。一方、文芸春秋側は「容認しがたい判決であり、即刻上告する。小誌は聖嶽遺跡への疑問 を記事にしたのであり、事実、その後すべての教科書から聖嶽遺跡の記述は消えることになった」とのコメントを出した。

 

 <聖嶽洞穴遺跡のねつ造疑惑>

 聖嶽洞穴は40年前の1962年に、賀川教授が責任者として調査し、約一万二千年前の後期旧石器時代の石器と人骨が出土したことから、国内で唯一旧石器時代の石器類と人骨が共伴した例として教科書に掲載されるなど注目された。
 その後、1999年、再び発掘調査が行われ、当地では見られない材質の石器が含まれる他、人骨についてはフッ素年代測定法で中世の人骨である可能性が高いなど、いくつか不自然な点がみつかった。
 これに対し、週刊文春が2001年1月25日号で「『第二の神の手』が大分『聖嶽人』周辺にいる!?」との見出しで、藤村新一(東北旧石器文化研究所副 所長)氏の旧石器捏造事件に関連付けて、あたかも賀川が遺跡を捏造したかのように報じ、2月1日号でも告発記事を掲載した。
 別府大側は、1月29日に「聖嶽問題検討委員会」を設けて、内部調査を始めると共に、検討委と賀川教授の依頼で考古学者グループが聖嶽洞穴の石器を再検 証した。3月6日に発表された報告では、人骨や石器が発掘された地層は、複数の時代の遺物が混じる「かく乱層」と判明し、遺跡の評価は揺らいだが、賀川教 授は「学問は時代によって変わる。最新の技術で真実を見極めてほしい。新しい事実が分かったのは喜ばしい」とコメントしていた。
 しかし、週刊文春は追い討ちをかけるように、3月15日号(3月8日発売)に3報目、「『聖嶽遺跡』は別の四遺跡から集められていた」とのタイトルで、 「別府大関係者の証言」などから、「聖嶽洞穴1次調査で出土した旧石器について、石材の黒曜石の原産地が聖嶽から遠く隔たった佐賀県伊万里市などである点 や、年代的に差があるとされる様式の石器が一緒に見つかった点を挙げ「『第二の神の手』によっていつの時期かに、持ち込まれたとしか考えられない」という 記事を掲載した。
 賀川教授は、この記事に対し、「私の生涯すべてを辱める悪質な讒言(ざんげん)と報道に対して死をもって抗議します。学問を『白石の如く』大切にしてきた、学者の誇りがあるからです」という遺書を残して3月9日の夜、自宅で首を吊って自殺した。
 週刊文春は、さらに、自殺後にも記事の正当性を強調し、遺族の神経を逆なでするような記事を掲載していた。
 裁判で、遺族側は「記事は一般読者に賀川教授が遺跡をねつ造したと読まれ、賀川教授を苦悩させた上で自殺に至らせたことは明らか。遺跡が教授のねつ造で あるとの疑いをかけられる余地はない」と主張したのに対し、文芸春秋側は「記事は遺跡の問題点を報じたもので、賀川教授がねつ造したとは報じていない。仮 にそのように理解されたとしても、その内容は真実か、真実と信じる相当の理由があった」と反論していた。

 この事件に関して、考古学者の森浩一氏は次のように発言している。
 「発掘から時間が経つとその間に学問が進歩して評価が変わるということは考古学の宿命で、聖嶽洞穴の問題は捏造とは全く関係ない。賀川さんは、本当にお気の毒でした。」

 

● キトラ古墳に金メッキ銅製品 (2004年2月19日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室南壁外側の土砂から、木棺の一部とみられる漆片のほか、金メッキされた金銅製品の破片や銅製金具が見つかった。
 金銅製品の破片は約1mm。錆びていたがたが、顕微鏡と蛍光エックス線を使った分析で、銅地に金メッキしてあるのが確認された。高松塚古墳では、精巧な 透かし彫りを施した金銅製の棺飾り金具や円形の飾り金具が出土しており、高松塚古墳と同様の木棺に使われた飾り金具の一部とみられる。

 

● 親鸞の「御真影」を修復 (2004年2月18日)

 京都市下京区の浄土真宗本願寺派本山、西本願寺に伝わる宗祖親鸞の木像、御真影が、6月から修復される。
 御真影は高さ約75cmセンチの坐像で、ヒノキの寄木造。史料から鎌倉時代の作とされ、これまでに修復された記録はないという。修復は美術院国宝修理所で約2カ月かけて行われる。

 

● キトラ古墳で漆塗り木棺の木片を発見(2004年2月6日)

  文化庁が発掘調査を進めている奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室南壁の盗掘穴の外側から、黒漆や赤漆の被膜が付いた木片が見つかった。高松塚古墳でも漆 塗り木棺の木片が発見されたことから、キトラ古墳の被葬者の木棺も漆塗りであった可能性が高いと考えられ、漆の成分などを分析して確認する。
 また、盗掘穴回りの土を除去した結果、開口の寸法は縦75cm、横35cmと予想より狭いため、盗掘坑周辺の漆喰に応急処置を施した上で中に入る方針。

 

● 人物像刻む6世紀前半の大刀が出土(2004年2月5日)

 奈良市高畑町の奈良教育大学構内にある吉備塚古墳から、木棺2基が出土し、このうち6世紀前半の木棺の中から、龍や虎、人の文様が象嵌された三累環頭大刀(さんるいかんとう)(全長約93cm、幅約3cm)が見つかった。
 大刀は鉄製で、柄(つか)に当たる環頭は3つの三日月型がつながった「三累」と呼ばれる形で中心に、金銅製の人物像(長さ2.7cm)がはめ込まれていた。
 象嵌は、X線写真の分析二より、刀身の表側の面には、烏帽子形の冠をつけ羽と尾をもつ仙人のような姿の人物像(全長4.2cm)と後ろを振り返り火を吐 く龍、裏面には、荷物のようなものを背負った姿の人物像(同3.9cm)と天空を飛翔するかのような虎などが描かれている。(X線写真では、裏表の像が重 なっている)
 象眼された鉄剣としては、埼玉県・稲荷山古墳から出土したワカタケル大王(雄略天皇)の名が記された鉄剣(5世紀末、国宝)が著名であるが、竜虎の文様 がある象眼大刀は、奈良県橿原市の新沢千塚327号墳(6世紀中ごろ)で出土した大刀に次いで2例目、人物像が描かれた太刀は初めてで、滑らかな描線の技 術は一級品という。
 埋葬施設内からは、鉄刀や挂甲(けいこう)なども出土したほか、周辺から轡(くつわ)や雲珠(うず)などの馬具も見つかった。

 

● 井手寺跡で釉薬3色のたるき先瓦発見(2004年1月30日)

 京都府井手町の井手寺跡から主要建物と回廊の遺構、及び花弁模様を線刻し彩色したタルキ先瓦の破片などが見つかった。
 主要建物の柱の間隔は約3.6mで、規模は興福寺の金堂にほぼ匹敵する。また、建物を囲む回廊跡も見つかり、そこからタルキ先瓦の破片が発見された。破片には花の模様が線刻され、うち1点は、緑、白、黄の3色の釉薬で彩られていた。
 タルキ先瓦は建物の屋根板を支えるたるきの先端に装飾として取り付けられたもので、釉薬を施した瓦は、官営寺院の大安寺や西大寺などで出土例があるが、 彩色のタルキ先瓦は全国初の出土例という。このことから建物の規模と、伝承通り、当時の政権最高位の左大臣、橘諸兄(684〜757)が奈良時代中期に創 建した氏寺である可能性が高まった。
 橘諸兄は、聖武天皇のもとで平城宮から恭仁宮への遷都や国分寺の造営などに携わり、井手寺跡のある南山城で勢力を持っていたとされるが、井手寺は、古絵図や室町時代の文書などに登場するだけで、創建者や創建時期などについては、はっきりしていなかった。

 

● キトラ古墳 朱雀・白虎鮮やか(2004年1月28日)

 明日香村阿部山のキトラ古墳は、漆喰の剥落もなく無事である事が確認された。
 小型デジタルカメラで、朱雀や白虎、青竜、玄武の四神図を確認したところ、カビもなく、朱雀の羽の上にのびる無数の木の根も二年前と殆ど変わらない状態だった。
 今後、南側を埋めている土を取り除き、2月上旬には盗掘穴を開けて肉眼で石室内を観察した後、高性能デジカメを使った本格撮影に入る予定。

 

● 明日香・キトラ古墳 26日から発掘調査(2004年1月25日)

 四神などの壁画が見つかった明日香村阿部山の国特別史跡・キトラ古墳で、壁画を保存処理するための発掘調査が26日から始まる。
 今までは、カメラでの確認しか行われておらず、今回は、初めての肉眼による確認となる。盗掘坑の大きさや流入している土砂の量等も不明で、盗掘坑からの出入りが困難な場合、南壁をはずすことも考えられる。
 今回の調査では、盗掘坑から1600万画素の高性能デジタルカメラを挿入して四神などの壁画を撮影し、内部の計測行った後、石室に入って壁画の保存処理を行う。

 

(所感)

 キトラ古墳は、昭和58年に内部の壁画が発見されて以来、高松塚古墳の保存技術を参考に、壁画保存を最優先に調査が行なわれてきた。2001年に撮影された朱雀の雄姿は衝撃を与えたが、今回はより鮮明な映像が期待される。

 デジタルカメラの飛躍的な進歩は、文化財の調査に大きく貢献している。
 因みに、キトラ古墳内部を撮影した時期とカメラの解像度は、次のようになっている。

1983年 ファイバースコープ(アナログ)
1998年 40万画素
2001年 330万画素
2004年 1600万画素

 

● バーミヤン遺跡で巨大涅槃仏の埋蔵場所を発見か(2004年1月22日)

 文化財研究所が、世界遺産のアフガニスタン・バーミヤン遺跡で地下広範に仏教遺跡の存在を確認した。
 文化庁の委託を受けた文化財研究所が昨年10月に、2つの大仏や石窟群があるがけの前面の東西1.7km、南北100〜300mの範囲を、レーダー装置 で地中探査し、帰国後探査データを解析した結果、深さ1.5〜2mの土砂の下に、ほぼ全域で遺跡が存在する可能性が確認された。特に、西大仏の南西部と、 東大仏の南西部の2カ所で強い反応があった。
 中国僧・玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が663年に著した「大唐西域記」によれば、東西の仏像の間に巨大な涅槃仏があり、またさらに西には王城がある と記されているが、記述に照らし合わせると、東西両大仏の間、東大仏の南西部に涅槃仏があると推測でき、王城は、西大仏の南西地下が該当する可能性がある という。
 文化財研究所では今後、遺構の確認された区域の詳細なレーダー探査と、試掘調査を行う方針。

 

● 平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像の修理開始(2004年1月19日)

 京都府宇治市の平等院鳳凰堂本尊の阿弥陀如来坐像と頭上を飾る天蓋の修理が始まり、本尊の魂を移す撥遣式などが行われた。

 2月に堂内から運び出し、堂の隣に設けた仮設工房で金箔の剥落防止の樹脂加工を施す。また、来秋以降には、坐像の頭上にある天蓋も約100年ぶりに修理される。

 本尊の修理が完了する2005年8月末までの間、鳳凰堂内部の拝観は中止される。

 

● 出雲市・青木遺跡で最古型式の四隅突出型墳丘墓発見(2004年1月15日)

 出雲市東林木町の青木遺跡で、弥生時代中期後葉(紀元前一世紀)ごろの最古型式の四隅突出型墳丘墓が発見された。
 突出部が見つかったのは、南北方向の一辺で、辺の長さ約17m、高さ約1m。墳丘斜面は20〜50cmのへん平な自然石で貼石(はりいし)が施され、南西側のコーナーに長さ50cmの突出部が設けられており、20〜40cmの踏み石が七個並べられていた。 被葬者を埋葬した主体部はすでに削り取られたとみられる。
 これまで四隅突出型墳丘墓は中国地方では、弥生時代中期後葉まで遡るものは、三次市の陣山墳墓群(国史跡)など三次盆地でしか確認されていなかったが、今回の発見により、同形式の墳丘墓が出雲も含め多元的に発生したことが考えられる。

 

過去の特選情報

2002年

2003年

 

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