特選情報(2003年)

● 院派の仏師院春の像を初めて発見(2003年12月30日)

 三重県亀山市の遍照寺の勢至菩薩立像(県文)が、鎌倉時代の院派の仏師、院春の作であること判った。
 この像は、本尊の両脇侍の一体で像高45.6cmの寄木造。一昨年、亀山市教育委員会が修理のため解体して調べたところ、胎内の胴の部分に「建長四年十 一月十□日/法眼院春」と記された墨書銘が見つかり、建長四年(1252)に院春により制作された像であることが確認された。

 院春は、弘安7(1284)年、京都・長講堂の仏像を造った功績で、法印の称号を賜ったことが、鎌倉時代の藤原兼仲の日記「勘仲 記」に記されているが、生没年等未詳で遺品も確認されていなかった。しかし、仏師の最高位である法印を受けていることから院派の有力な仏師と見られてお り、今後鎌倉彫刻史の研究が一段と進むことが期待される。

 

● 研究者が厳選した2003年奈良の文化財十大ニュース(2003年12月21日)

朝日新聞が挙げた「研究者が厳選した2003年奈良の文化財ニュース」は、下記の通り。

1位 巣山古墳から前例ない出島などの遺構
2位 高松塚・キトラ両古墳でカビ発生、その対策
3位 石神遺跡で最古の暦の木簡出土
4位 藤原京跡で「中ツ道」を発掘
6位 酒船石遺跡、南斜面にも石垣
7位 唐古・鍵遺跡で直径80センチの柱
8位 飛鳥京苑池遺跡が国史跡・名勝に指定
9位 曲川遺跡で縄文晩期の大集落跡
10位 飛鳥の離宮か、ホラント遺跡

奈良には、地下にしか文化財がないのか?

明日香村が、六市町村合併に参加しなかったことを一位に挙げる意見もあったとか。

当サイトが選ぶ十大ニュースは、追ってトピックスで

 

● 紫香楽宮遺跡から釣鐘の鋳型を復元(2003年12月19日)

 滋賀県信楽町の鍛冶屋敷遺跡から出土した釣鐘の鋳型を基に、釣鐘を作る際に使った鋳型の中子(なかご)が復元された。
 出土したのは、釣り鐘の内側の鋳型の一部で、約1m四方、厚さ約30cm。
 釣り鐘の鋳造跡の規模をもとに復元した中子は、底部の直径が約1.5m、高さ約2mとなり、釣鐘の大きさは直径約1.5〜1.8m、高さ約2.1mになる。
 鍛冶屋敷遺跡は奈良時代の紫香楽宮に関連する鋳造工房跡と考えられており、当時、奈良・東大寺に現存する釣鐘(直径約2.7m、高さ約3m)に次ぐ大きさの鐘が作られたと見られる。

 復元した中子は、12日から滋賀県安土町の県立安土城考古博物館で展示される。

 

● 守山市勝部の安楽寺が本堂をマンションに改築 (2003年12月17日)

 守山市勝部の安楽寺が本堂を取り壊してマンションを建設し、6階部分をお寺として使用する計画をたて、本尊千手観音立像(重文)をマンション完成まで(栗東市小野)に寄託することになった。
 栗東歴史民俗博物館では、来年6月、同寺の室町期以前の仏像15体とともに公開する予定。

 

● 唐招提寺金堂須弥壇の下から新たに瓦敷きの遺構発見(2003年12月14日)

 奈良市五条町の唐招提寺金堂で、仏像を安置する須弥壇の下から創建当初の須弥壇と考えられる瓦敷きの遺構が見つかった。
 現在の須弥壇は金堂を大改修した鎌倉時代ごろに創建当初の須弥壇の上に造り替えたとみられ、来年1月から奈良県立橿原考古学研究所が金堂の基壇下を発掘する予定。

 

● 快慶の平均的面相の変化をコンピューターで検証(2003年12月13日)

 国際日本文化センターの山田奨治氏が、快慶作の七体の如来像の面相部をコンピューターに取込み中期、後期の平均的な面相を作成した。
 データは、1194〜1206年頃に作成された中期の3体と、それ以降の後期の4体で、目や口などの位置データを取り込んで中期、後期別に平均的な面相を合成した。
 これによると、後期の顔は幅が狭くあごがとがっており、鼻の幅も狭く高くなっているという。
 高知女子大学助教授・青木淳氏によれば、京都・遣迎院や岡山・東寿院の阿弥陀如来立像の胎内から、快慶と法然のつながりを示すの文書が発見されており、 快慶の後援者であった東大寺重源上人が建永元年(1206)に死去した後、浄土教と関係を深め作風も変化したと考えられるとしている。 
   

中期の平均面相        後期の平均面相

 

(所感)

変化の顕著な初期の面相についても検証してくれないかなぁ〜。

 

● 醍醐寺五重塔の内部壁画を復元模写(2003年12月10日)

京都市伏見区の醍醐寺で五重塔の壁画の復元模写が行われる。

醍醐寺五重塔は、天暦5(951)年の建立で、京都府では最古の建物とされており、初層内部の柱や長押、天井などに、両界曼荼羅の諸尊や真言八祖像、宝相華文様などが描かれている。模写は、来年1月中旬まで行われる。

 

● 元美術院国宝修理所長の西村公朝氏死去(2003年12月2日)

  西村公朝氏は、東京美術学校(現東京芸大)彫刻科を卒業後、現在の美術院国宝修理所に入り、平等院本尊の阿弥陀如来像や三十三間堂・千手観音立像、広隆 寺・弥勒菩薩像など約1300体の修復に携わった、仏像修復の第一人者。昭和30年から京都市愛宕念仏寺の住職も務め、信徒自らが刻む五百羅漢づくりを進 めた。また東京芸術大の教授も務め、仏像修復の後継者を育成する一方で、「仏像の再発見」など、仏像の魅力を解り易く紹介する仏像解説書も数多く執筆し た。平成4年からは吹田市立博物館館長を務めた。

 

● 国内最古級の木製定規が出土(2003年11月23日)

 明日香村飛鳥の石神遺跡で、100点以上の木簡と共に国内最古級の木製定規が出土し、その目盛りが延喜式(927年)に定められた公文書の規格と一致していることが判った。
 木製の定規は長さ10cm、幅2.7cm。片方の側面に 2.6cm間隔で目盛が刻まれ、もう一方にも大きな切れ込みがあった。一番大きな切れ込みと上端の間隔は約3.2cm(一寸一分)であった。
 延喜式は律令制度の施行規則をまとめた法典で、公文書を保管する「図書寮(ずしょりょう)」に、紙の余白や行間の寸法などが規定されており、大きな切れ込みは余白寸法、目盛は行間の二倍とそれぞれほぼ一致したという。
 これにより、律令制度を整えた天武・持統朝の文書規定が、約250年後の平安時代まで受け継がれていたことがわかった。

 

● 藤原京跡で銀製の和同開珎出土(2003年11月19日)

 奈良県橿原市藤原京跡で、和同開珎の銀銭1点が見つかった。

 和同開珎は和銅元(708)年に発行され、当初は銅銭に先立ち銀銭も発行されたがすぐに鋳造中止となっており、現在銀銭は45枚しか見つかっていない。

 

● 奈良・薬師寺の東京別院が五反田に完成(2003年11月19日)

 薬師寺の東京別院(東京都品川区東五反田)の落慶法要に合わせ、12月3日から7日まで、吉祥天女像(国宝)が東京別院で一般公開される。

 

● 清水寺仁王像解体修理を終えて1年半ぶりに公開 (2003年10月30日)

 京都市東山区の清水寺で、解体修理をほぼ終えた仁王門(重要文化財)の脇間に安置されている仁王像が亀裂やはく落止めの修理を終え、11日19日の慶讃法要で1年半ぶりに公開される。

 仁王像は、像高約3.7m、ヒノキ材の寄木造で、鎌倉期ごろの作とされる。

 

● 大安寺西塔跡から新たに水煙の一部出土(2003年10月30日)

 奈良市の大安寺西塔跡から塔頂部を飾る水煙の一部と風鐸があらたに見つかった。
 水煙は、全長約50cm、最大幅34cmで、火炎を象ったシンプルで重厚なデザイン。昨年度の調査で見つかったものと接合部が一致し、全長は2mを越えて、同時期に建立された薬師寺東塔の水煙より大きかったと想定される。

 また風鐸は高さ約32センチ、重さ約5キロで、同じく昨年度の調査で見つかったものと大きさはほぼ同じだが、断面がひし形に近く形状が異なっていた。しかし、器具の取り付け方が同じで、同じ工房で作られたとみられ、2種類の異なる風鐸がつるされていたことになる。

 

● 寂光院に本尊焼損修復3年半ぶりに戻る (2003年10月22日)

 2000年5月の放火事件で焼損した京都市左京区寂光院の本尊地蔵菩薩立像(重文 像高約2.5m 鎌倉時代初期)が修理を終えて、3年半ぶりに同寺に帰った。美術院国宝修理所で、黒く焼けた表面に特殊な透明樹脂を浸透させて固める修復処理が施された。
 像自体は焼損しているが、像内に納入されていた仏像3417体や経典などは無事で、「木造地蔵菩薩立像(焼損)像内納入品」と名称を変更し重文指定は継続されている。
 また再建中の本堂は棟上げが終わり、間もなく屋根をふき始め、来夏に内陣の柱のうるしを塗る。完成に伴うは2005年春に完成し落慶法要を行う予定である。 本堂には新たに制作する本尊を安置し、焼損した像は、新設の収蔵庫で保管する。

 

● 三仏寺の銅鏡は中国と兄弟鏡 (2003年10月20日)

 鳥取県三朝町三仏寺所蔵の銅鏡鸚鵡文銅鏡(おうむもんどうきょう)(重文)が中国浙江省紹興市で出土した双鸞長綬鏡(そうらんちょうじゅきょう)と同じ工房で制作された兄弟鏡であることが分かった。

 奈良国立博物館調査の結果、両鏡は直径約27.8cm、厚さ0.65cmで、花をくわえた2羽の鸚鵡が向かい合う文様などの特徴がほぼ一致し、当時の銅鏡の産地・紹興の同じ工房で制作されたものであることが分かった。

  鏡面には、胎蔵界の曼荼羅図像が線刻で表わされ、長徳3年(997)に「女弟子平山(へいざん)」(円融天皇の皇后藤原遵子とされる)が奉納したことが毛 彫されている。また、線刻された仏像のうち普賢菩薩像と文殊菩薩像は、比叡山仏教に特有の形式で表されていることから、805年に紹興を訪れた最澄が、銅 鏡を比叡山に持ち帰り、これを「女弟子平山」が本願となって胎蔵界大日如来以下の曼荼羅図像を線刻で表し、三仏寺に奉納したものと考えられるという。

 

● 島根・青木遺跡で国内最古級の神像出土 (2003年10月14日)

  島根県出雲市の青木遺跡で木造の小型の神像が出土した。像は高さ13.5cmで烏帽子を着けて笏を持つ男神像。冠や衣、ひげの部分に墨を塗った跡があっ た。神像は、文献では8世紀頃から見られるが、本像は8世紀後半から10世紀にかけてのものと考えられ、現存する神像の中では国内最古級とみられる。

 同遺跡は、出雲大社から東へ8キロの場所にあり、これまでに奈良時代とみられる絵馬や「出雲国風土記」に記載された「美談社(み だみのやしろ)」という神社名を示す「美社」と墨で書かれた土器数点や建物跡8棟なども出土しており、当時、宗教施設があった可能性が高いと見られる。

 

● 興福寺五重塔内陣を公開(2003年10月6日)

 奈良市登大路町の興福寺で国宝特別公開が始まり、五重塔(国宝 室町時代)や菩提院大御堂の内陣を11月11日まで公開する。
 五重塔の内陣は平成12年に40数年ぶりに公開して以降、二回目の公開となる。
 内陣には釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像(室町時代)が四方に配置されている。
 また、国宝館では、乾漆十大弟子像(六体が現存)と乾漆八部衆立像(国宝 奈良時代)が15年ぶりに揃って公開される。

 

● 巣山古墳で出島状遺構と水鳥形埴輪発見(2003年10月4日)

 奈良盆地西部最大規模の前方後円墳であり、大和王権の大王家に匹敵する大王級の豪族の墓とされる、広陵町三吉の巣山古墳(4世紀末−5世紀初、国特別史跡)で、周濠のなかから出島状の遺構が見つかり34点以上の形象埴輪が出土した。

  形象埴輪は、王館を表すと考えられる切妻式の家形埴輪(高さ約1m)を始め、死者の魂を運ぶとされる水鳥や権威を象徴する蓋(きぬがさ)などを象った6種 類34点。南西の突出部付近では、雌雄(高さ60cm)と子(47cm)と思われる3点の鳥形埴輪が水辺をのぞむように置かれており、王が司っていた水の 祭祀場をジオラマのように再現した可能性がある。

 出島状遺構は前方部西側から周濠に張り出し、南北16m、東西12m、高さ1.5mで、側面に石が葺かれ、平たん部には白い小石が敷き詰められていた。

 周濠内に同様な島状遺構と水鳥形はにわが発見された大阪府藤井寺市の津堂城山古墳では、レーダー探査で反対側の島が確認されており、巣山古墳でも可能性は十分あり、今後新たな発見が期待される。

 

● 金峯山寺の蔵王権現像修理完了(2003年9月29日)

 奈良県吉野町吉野山の金峯山寺蔵王堂(国宝)の本尊の金剛蔵王権現像(重要文化財)3体の修理が完了した。来年に予想されるユネスコ世界遺産登録に合わせ来年7月から1年間特別開帳される。
 中央が釈迦如来(高さ7.3m)、右尊は(6.1m)、左尊は弥勒菩薩(5.9m)をそれぞれ本地仏とし、安土桃山時代の天正年間の作という。修理は巨像を運び出すことができないので天衣の補修や、金ぱくのはく落止めなどが厨子内で行われた。
 修理中に、観音菩薩の頭部内側に、寄進者の名前と天正18(1590)年の年号が墨書されているのが見つかり、1586年に蔵王堂が焼失し、6年後に再建されたという文献の記録も裏付けられた。

 

● 唐招提寺宝蔵34年ぶりに公開(2003年9月25日)

 唐招提寺は鑑真来日1250年を記念し、10月25日から、校倉の宝蔵(国宝)の内部を34年ぶりに特別に公開する。
 公開するのは昭和44年以来34年ぶりで、10月25日から31日までの7日間。
 同寺宝蔵は、正倉院の正倉と同様に高床式で、五角形の材木を組んで壁面とする正面3間、側面3間の校倉造で、寄棟造、本瓦葺。
 同様な建物は、唐招提寺経蔵と宝蔵の二棟と正倉院のほか、東大寺と手向山八幡宮に残っている。

 

● 中国・阿艾石窟の仏の衣に図像(2003年9月20日)

 中国・新疆ウイグル自治区で阿艾(ああい)石窟に描かれた廬舎那仏像に、めずらしい図像が描かれていることが、成城大名誉教授の東山健吾さんの指摘でわかった。
 阿艾石窟は、1999年10月に発見された石窟で、廬舎那仏像や文殊菩薩、薬師如来像など美しい壁画と漢文で書かれた題字が数多く見られ、壁画の専門家らによって研究が進められていた。8世紀前半の盛唐期に描かれたものと考えられている。
 廬舎那仏の全身を包む衣には左肩に鐘、右肩に鼓、また胸には須弥山や弥勒菩薩、日月が描かれている。世界遺産となっている敦煌・莫高(ばくこう)窟第 428窟(北周時代、6世紀)の南壁に描かれた廬舎那仏像の衣に描かれた須弥山や日月、阿修羅などの図と共通しており、仏教思想の宇宙が表現されているも のと考えられる。

 日本の奈良・東大寺の廬舎那仏(奈良大仏)には、台座の蓮弁1枚1枚に釈迦如来坐像と菩薩像、須弥山が表現されており、その蓮華蔵世界は華厳経が説く宇宙観を継承したもので、莫高窟と共通するとされている。

 阿艾石窟の廬舎那仏像は書かれた題字からも廬舎那仏像であることが明らかになっており、敦煌・莫高窟の廬舎那仏と共通していることから、今後の敦煌研究にも貴重な資料となる。

 

● 奈良・新薬師寺の庫裏が全焼(2003年9月18日)

 奈良市高畑町、新薬師寺の庫裏から出火し、木造平屋約100m2の庫裏を全焼した。庫裏は境内の北西隅にあり、庫裏の南東約30mにある国宝の本堂および薬師如来坐像や十二神将像などは無事だった。
 庫裏には貫主夫妻と副貫主の長男が住んでいるが、火元と見られる庫裏の離れに1人で寝ていた貫主の妻が逃げ遅れて焼死した。
 新薬師寺は、光明皇后が天平19年(747)に、聖武天皇の眼病平癒を祈願して七仏薬師如来を安置したといわれ、境内には、天平時代の建築様式を残した 本堂をはじめ、鎌倉時代の東門・南門・鐘楼・地蔵堂が残され、本堂には木造薬師如来坐像とそれを囲む等身大の塑造十二神将立像(いずれも国宝)が安置され ている。

 

● 三十三間堂「風神」修理完了し一般公開 (2003年9月11日)

 東京国立博物館の「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」出品のため搬送中、左腕の一部が破損し、京都国立博物館内の美術院で修理されていた京都市三十三間堂(妙法院)の国宝「風神像」修理を終え、三十三間堂本堂で元通り一般公開されている。

 

● 永保寺の本堂など全焼、国宝・重文は無事(2003年9月11日)

 岐阜県多治見市臨済宗南禅寺派の名刹、永保寺の本堂付近から出火、本堂と隣接する寺務所、庫裏など延べ約900m2を全焼した。
 境内には国宝の観音堂と開山堂をはじめ、絹本着色千手観音像(重文)、絹本著色涅槃図(県文)のほか、開祖夢窓疎石(夢窓国師)や開山元翁本元(仏徳禅師)の墨跡など数多くの文化財を所蔵しているが、いずれも類焼を免れ無事だった。
 永保寺は、鎌倉時代に夢窓疎石が開創した禅宗の修行道場で、今でも十数人の修行僧が修行し、雲水たちが小、中学生に座禅を指導するなど、年間20万人以上が訪れる市民の憩いの場として親しまれていたが、当面、一般の人の入山を当面中止することになった。 

 

● バーミヤン遺跡で7世紀の仏典断片を発見(2003年9月5日)

 ユネスコの委託で、バーミヤン遺跡の洞穴内に残る壁画の破片を収集するため、現地に入っていた東京文化財研究所が、7世紀の仏典の断片を発見した。
 発見場所は東大仏付近にあるM窟、F窟と呼ばれる石窟の入り口付近の溝からで、約30点、最大のもので長さ5cm×幅2cm、20文字ほどが読み取れるという。
 仏典の断片は、薄くはがした樺(かば)の皮を数枚張り合わせたものに墨で文字を記した「樺皮文書」で、「ギルギット・バーミヤン第一型書体」と呼ばれる7世紀の文体のサンスクリット語(梵語)で記されている。
 ガンダーラの文書については、1930年にフランスの調査隊が、今回の出土地の近くで同じ文字の断片類を発見したが、現在その所在は不明。また、 1990年代に難民が同石窟から持ち出したとされる1万点以上の仏教写本が英国の古美術市場で売買され、ノルウェーの実業家が購入したが、発見場所などは はっきりしていない。
 今回のように、特定の石窟との関係が明確な仏典が発見されたことから、他の石窟にもなお多く埋もれている期待が出てきた。

 

● バーミヤン遺跡で大掛かりな地下探索(2003年9月3日)

 タリバン政権によって2001年3月に破壊された巨大な大仏立像で知られ、世界遺産にも登録されているアフガニスタンのバーミヤン遺跡で、東京文化財研究所が初の本格的な地下探査を行う。
 中国僧・玄奘(げんじょう)(三蔵法師)が663年に著した「大唐西域記」によれば、東西の仏像の間に巨大な涅槃仏があり、またさらに西には王城がある と記されているが、これまで発見されておらず、土砂の堆積で地中に埋まっているといわれている。今回の探査は今後の遺跡管理計画のため遺跡の範囲を確定す るのが主な目的であるが、涅槃仏や王城の発見も目指す。
 遺跡周辺の探査は昨年、ドイツの研究チームが西大仏像の周辺で行い、仏像を囲むような壁らしい痕跡を確認したが、今回のように広い範囲を対象とする調査は初めてという。

 

● 奈良県のノムギ古墳が最古級の前方後方墳である事が判明(2003年9月3日)

 奈良県立橿原考古学研究所は、天理市のノムギ古墳が3世紀後半に築造された最古級の大型前方後方墳と発表した。
 ノムギ古墳は、大和古墳群の北端に位置する全長63メートルの大型古墳で、前方後円墳と考えられていたが、県道バイパスの建設に伴い行われた調査で後方 部とほぼ直角に曲がる周濠(しゅうごう)の南東コーナーが確認され、四隅のある前方後方墳だったことが判明した。また、周濠の調査で、3世紀後半に位置づ けられる大量の土器片が見つかったことから同時期築造と推定した。
 東日本に広く分布する前方後方墳は、邪馬台国と戦った狗奴(くな)国の墓制ともいわれ、愛知県尾西市の西上免遺跡では、ルーツとされる「前方後方形墳丘墓」が見つかっている。
 一方、大和古墳群は邪馬台国から大和政権にいたる墓域とされ、卑弥呼の墓説がある箸墓古墳や黒塚古墳など約60基の古墳が集中し、3世紀前半から多数の前方後円墳が築かれた。
 ノムギ古墳に隣接するヒエ塚古墳も3世紀後半の前方後円墳で、大和政権の成立期に「後円」「後方」の墳形の異なる2つの古墳が共存したことになる。
 初期の大和政権が、邪馬台国の女王・卑弥呼の死後、対立する狗奴国など東海地域の豪族を含めた幅広い勢力によって形成された可能性が強まるなど、初期大和政権の成立過程を知る上で重要な手掛かりとなる。

 

● 興福寺宋版一切経経箱は13世紀の国内産スギで制作(2003年9月3日)

 奈良市興福寺の宋版一切経(重要文化財)を収めた木製の経箱が、1260年ごろまでに国内で伐採されたスギで制作されたことが判明した。
 奈良文化財研究所が、一切経4354帖を収めた108箱の経箱のうち20箱を、年輪年代法により測定したところ、1260年ごろまでに伐採された国内のスギで制作されたことがわかった。
 また、複数の板材が同じ原木を製材したものであることもわかり、108箱にも上る経箱をまとまって制作する工房があった可能性が高いという。
 宋版一切経は、13世紀前半に中国、宋で開版されたもので、開版後間もなく日本にもたらされた経箱に収められたと考えられる。

 

● 奈良県金峯山寺蔵王権現像を来年公開(2003年9月2日)

 来年夏に世界遺産に登録される予定の吉野町吉野山の金峯山寺は、蔵王堂本尊の金剛蔵王権現三像の修理を行ない、世界遺産に指定される来年7月以降、1年間特別に公開することになった。蔵王権現像の公開は3回目で、役行者1300年忌の平成12年5月以来4年ぶりとなる。

 蔵王堂の本尊は、中尊が7.3メートル、右尊が6.1メートル、左尊が5.9メートルで、日本最大の蔵王権現像で、焼失した蔵王堂が再建された天正20(1592)年ごろの制作とされる。

また、大阪と名古屋、東京で特別展「紀伊山地の霊場と参詣道」を開催し、奈良国立博物館で修理中の本尊とは別の金剛蔵王権現像(重要文化財、像高約4m)も初めて寺外で公開される。

 

● 達磨寺達磨大師坐像は修理の跡無し(2003年9月2日)

 奈良国立博物館で9月2日から10月5日まで開催される「達磨寺展と経塚展」に出品される達磨大師坐像(重文 寄木造 像高87.2cm)が、調査の結果、足利義教の命で永享2(1430)年に制作された新像であることがわかった。

  本像は、像底に旧像の顔の一部と両手は壊れなかったとされる銘が記されているほか、寺内の石幢に「新像を安置した」と刻まれていることなどから、修理の有 無が議論されていたが、X線調査で修理がなかったことが判明した。過去に内部に旧像の一部が納められていた可能性はあるという。

 

● 元興寺文化研究所が仏像や遺跡の検診車を導入(2003年8月25日)

 奈良市の財団法人元興寺文化財研究所が、文化財診断用の専用車を来年から導入する。4トントラックに、X線撮影や赤外線撮影、科学分析などの分析装置を搭載したもので、必要に応じて全国に出張する。
 同研究所は、全国の自治体や社寺の依頼で文化財の保存処理や修復を行なっているが、研究所に持ち込むことなく現地で分析できないかという要望に対し導入することにした。
 保存状態が悪く動かせない文化財や、埋蔵遺品などを現状の状態で分析でき、状態に応じた保存修復方法の検討ができるなど、迅速な対応が期待される。

 

● 薬師寺東塔の心柱が補強の必要(2003年8月22日)

 奈良市薬師寺の東塔(国宝)心柱がほぼ中央の継ぎ目部分の傷みが激しく、1981年に、同じ工法で再建された西塔と比較すると強風時、心柱頂部の揺れは西塔の4倍以上になることが判った。
 また、心柱の継ぎ目部分を補強する添え木のボルトが一部緩んでおり、継ぎ目部分から「く」の字に折れ曲がるように揺れることも判った。
 今後の直下型地震や台風で大きな損傷を受ける恐れがあるため、補強修理方法を検討する。

 

● 明日香村の名前が残る(2003年8月21日)

 奈良県明日香村は、橿原市など周辺6市町との合併に加わらない方針を決めた。村議会に諮って正式決定する。
 同村は周辺6市町との合併協議会に参加していたが、7月下旬の村民アンケートで約5割が合併反対で賛成は2割強であったこと、さらに全国から「明日香村を残して」という約2万人分の署名が寄せられたことも後押しした。

(所感)
 6月26日付の合併反対署名活動の情報をお伝えした際、「どのような結論であれ、住民の生活を無視するような議論にだけはならないように」というコメン トを記載しましたが、全国からの署名はともかく、住民の意見が尊重された事が喜ばしいですね。しかし、合併のメリットも捨てる訳ですから、決めたからには 合併賛成の2割の方とも十分意見交換し、無意味な亀裂が生じないようにしてもらいたいですね。

 

● 栗東・永正寺の阿弥陀如来立像が市文化財に指定(2003年8月20日)

 滋賀県栗東市永正寺の阿弥陀如来立像が市有形文化財に指定された。阿弥陀如来立像は、像高81.3cmの漆箔像で、鎌倉時代の制作と考えられる。全身に金箔が残るなど保存状態も良く、目鼻立ちが整った表情などは鎌倉時代後半の典型的な本阿弥様の作風を示している。 同市指定の有形文化財は60件目となる。

 写真および解説は、サンライズ出版から「情報誌Duet」→「Duet Vol.80 連載:やってきたご本尊―永正寺阿弥陀如来立像―」
またはhttp://www.sunrise-pub.co.jp/duet/komaza/komaza.htm#27

 

● 橿原市の国分寺本堂が全焼(2003年8月20日)

奈良県橿原市の国分寺で本堂、庫裡が全焼した。

重要文化財に指定されている十一面観音菩薩立像(平安時代後期)は、本堂から5m離れた耐火構造の観音堂に安置されており無事だった。

 

● 飛鳥寺跡出土の瓦敷き遺構(2003年8月16日)

 明日香村飛鳥寺跡で昨年末に出土した瓦敷き遺構が、創建時に近い7世紀末に施工された可能性があることがわかった。

  昨年の調査では直径3〜15cmの小石を敷き詰めた、厚さ約15センチのバラス層が調査区全域で見つかり、この下から平瓦を凸面を上に敷き詰めた面が現れ た。平瓦は当初基礎と考えられていたが、瓦の色が、南側は茶か灰色に近い色調の瓦を東西に、北側は黒か赤に近い色調の瓦を西南から東北方向に斜め方向に敷 くなど瓦の敷き方に規則性があり中金堂との関係も想定されることや、平瓦の凸面に飛鳥寺創建時の特徴が見られるなどから、当初は瓦を露出させ色分けをして いた可能性が高いと考えられる。

 

● 金剛峯寺で「血曼荼羅」の復元・再生(2003年8月15日)

 金剛峯寺が、彩色本では日本最古の「絹本著色両界曼荼羅図(血曼荼羅、重文)」の復元・再生に10年がかりで取り組むことになった。

  大同元年(806)に空海が唐から持ち帰った両界曼荼羅図(原図曼荼羅)は、中国(唐)長安の青龍寺で師の恵果から金胎両部の潅頂を受けた際に付法の証と して授与された、宮廷画師李真らの筆になるものである。この原本は早くに損傷を受け失われ、空海の存命中に彩色と白描の2種類の曼荼羅が転写されている。

 彩色の曼荼羅は、弘仁12年(821)に転写されたと伝える(第一転写本)が、これも現在は失われており、第二転写本(建久2年-1191)、第三転写本(永仁4年-1296)、第四転写本(元禄6年-1693)が東寺に現存している。

  一方、白描の曼荼羅は、淳和天皇御願により天長年間後半(829-834年)に制作されたと伝える神護寺蔵の「高雄曼荼羅」(国宝)が、現存する日本最古 の曼荼羅として知られている。本曼荼羅は紫綾織の絹地に金銀泥の線描で描いたもので当時神護寺に携わっていた空海がかかわっていたと考えられる。
 白描本は、高雄曼荼羅やこれを元に長承3年(1134)に蓮房兼意が一尊を別々に描かせたという白描の巻子「兼意本」(大正新修大蔵経収録)を底本として、多くの白描本が制作された。
(当サイトの「仏像の基本」に掲載している図像は、兼意本を底本として明治元年(1868)に作られた「御室版高雄曼荼羅」が元になっている。)

  今回復元される高野山所蔵の曼荼羅は、彩色本の第一転写本の流れを引くもので、彩色本では日本最古の曼荼羅である。平家物語によれば、高野山の伽藍が久安 5年(1149)落雷によって焼失した後、大塔再建の際に平清盛が絵仏師常明法印に制作させ奉納し、胎蔵界図の大日如来の宝冠に自らの額の血を混ぜて彩色 したと記されていることから「血曼荼羅」の異名を持つ。

 曼荼羅プロジェクト実行委員会では、各部分の詳細をデ ジタルハイビジョン画像として撮影するほか、蛍光X線や紫外線により下絵の状況や、使用されている顔料などの分析を行って、当時の状況に近い材料手法で模 写を行うという。また、デジタル処理の試行も兼ねて、三重構造のガラスに描いた図像を三色の発光ダイオードで立体的に光らせる、「ハイテク曼荼羅(多層構 造透過式曼荼羅-立体視両部曼荼羅)」の制作公開も行うという。

 両部大曼荼羅復元再生奉納プロジェクト参照

 

● 三十三間堂の国宝「風神像」の左腕破損(2003年8月5日)

 東京国立博物館で開催される「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」に出展する予定だった、京都市妙法院(三十三間堂)の風神像が運搬中、左腕の一部を損傷した。
 本像は、湛慶一門が建長6年(1254)に造立したもので、雷神像、二十八部衆像と共に国宝に指定されている。
 妙法院で7月9日に梱包し、翌日、東京国立博物館で開梱したところ、左腕のひじから先の部分が脱落していたという。
 現在京都国立博物館文化財保存修理所で修理中。国宝の損傷事故で展示が中止されるのは東京国立博物館で初めてという。

 

(所感)

 展示会案内に「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」を掲載した際、博物館のコメント「当初出展予定されていた、国宝 風神像 妙法院(三十三間堂・蓮華王院)蔵は、出品が取止めとなった。」と書いたが、まさか破損していたとは!
 文化財の輸送については、梱包用具、輸送機器を含めて、日本の技術が世界一と思っていた。しかし、文化財は材質、強度、搬出入の周囲の状況等、個々に異 なり、かつ失敗が絶対に許されないため、用具や機器の適用方法や使用の勘所など、最後は人の経験と勘に頼らねばならない。
 かつては日通の長谷川正夫氏など匠の技を持っていた人がいたが、匠がいなくなると、技術の伝承も出来なくなっているのではないだろうか。
 とかく用具や技術にばかり頼るとろくなことはない。
 我が社も同じかぁ〜。

風神像の写真は、京都国立博物館ホームページから「展覧会・イベント」 → 「これまでの展覧会・イベント」 → 「妙法院と三十三間堂」 → 「二、三十三間堂と法住寺殿」へ
または、http://www.kyohaku.go.jp/tokuten/myoho/hp8-48j.htm

 

● 大津市を10都市目の古都指定に答申(2003年7月1日)

 国の社会資本整備審議会都市計画・歴史的風土分科会は、古都保存法に基づき大津市を古都に指定するよう、国土交通相に答申を提出した。年内に、古都保存法の対象に指定される予定。

 古都指定は、京都市(京都府)、奈良市、天理市、橿原市、桜井市、斑鳩町、明日香村(奈良県)、鎌倉市、逗子市(神奈川県)に続き10都市目となる。

  答申は「天智天皇が置いた同市の近江大津宮は、中央集権や大陸との積極外交など重大な転換がなされた時代を象徴する都で、仏教文化の中核をなした延暦寺、 石山寺、園城寺(三井寺)なども集積しており、時代を代表する歴史上重要な文化、政治の中心地だった都市」と位置付けた。

  大津市同市は、世界遺産の比叡山延暦寺などがある一方、ベッドタウン化が進んでいることから、昨年専門委員会を設置し、県とともに国に指定を要望してい た。比叡山周辺、大津京遺跡周辺、三井寺周辺、石山寺・瀬田川周辺の4地区を指定地域として提案し、開発制限など、遺跡や文化財の周囲を含めた自然環境の 保護を行う。指定地域内では県が土地を買い取る際には国から費用の7割の補助を受けられる。

 

● 大峯山寺で銭弘俶塔の一部発見(2003年7月27日)

 奈良県天川村の大峯山寺で中国の銭弘俶塔(せんこうしゅくとう)の隅飾りの一部が発見された。(写真左:発見された「方立」、右:「銭弘俶塔」)

  銭弘俶塔は、中国・呉越国の王、銭弘俶(948-978年)が、インドのアショカ王が仏舎利を分けて8万4千の塔を全国に建てたという故事に習い、戦没者 の供養を願って作らせ、宝篋印心呪経を納めて諸国に配布したというもので、このうち500基が957年に呉越から帰国した日本の天台僧、日延が分与された という。日本の宝筐印塔の原型ともいわれている。

 現在国内の伝来品は河内長野市金剛寺、福岡市誓願寺、京都府相楽郡和束町金胎寺など6点ほどしか残っていない。出土品としては和歌山県那智勝浦町須美神社経塚、福岡県太宰府市原遺跡に続いて3例目という。

 銭弘俶塔は、金メッキを施した銅製で、台座・塔身・四隅の隅飾りおよび相輪から構成され、総高約35cm。成形は鋳造ではなく、それぞれの部品を彫金し接合したとされる。塔身は方形で下部には小仏像が装飾され側面に仏陀の本生故事を彫刻されている。

  見つかったのは方立(ほうだて)と呼ばれる隅飾りの1つで、縦4.7cm、幅2.3セcm、厚さ1.4cm、3つの面に仏像や神将が浮き彫りされている。 正面の仏像には蓮華座や天蓋も表され、左右の面に剣を持った神将が表される。変色しているが、金メッキされていた可能性が強い。

 

● 名古屋ボストン美術館契約見直し(2003年7月16日)

 名古屋ボストン美術館を運営する名古屋国際芸術文化交流財団は、閉館や契約破棄も視野に入れて米ボストン美術館との契約の全面的な見直しを検討していることを明らかにした。

  名古屋ボストン美術館は、名古屋商工会議所が中心となり、アメリカのボストン美術館の所蔵品を展示する専用展示館として平成11年開館した。自前のコレク ションを持たず、米国の本館に20年間、寄付金(総額5000万ドル)を払って展示物を借りる契約を結んでいる。しかし、来館者数の減少や低金利による経 営安定化基金の運用難から収入が低迷しており、現在の契約のままでは運営継続は難しいと判断し、契約更新の平成21年に向け方針を正式に決めて米側に通告 する。

 

(所感)

 名古屋 ボストン美術館については、自前の所蔵品を持たず「借り物」だけで運営していくという手法が、期待と不安の目で見られてきたが、景気低迷の中で早くも撤退 を余儀なくされてしまった。しかし、ボストン美術館は、快慶作弥勒菩薩立像などの仏像や浮世絵など、日本の美術品の名品を多く所有しており、それらの里帰 りも期待されていただけに、今回の決定は非常に残念。

 

● 法隆寺五重塔再建説裏付ける部材(2003年7月15日)

 奈良県斑鳩町の法隆寺五重塔に、663年ごろ伐採された木が使われていたあることがわかった。

  奈良文化財研究所が年輪年代法により五重塔のヒノキの部材14点を調査したところ、4階などの屋根の垂木2点と化粧裏板1点の3点に樹皮に近い外側の白い 部分(白太=しらた)が残っていた。それぞれの最も外側の年輪の年代を測定した結果、垂木は663年と631年、化粧裏板は624年だった。

  法隆寺は、日本書紀に天智9(670)年の火災で焼失したという記載があり、現在の法隆寺、西院伽藍は7世紀前半に創建された当時のままとする説と火災後 の再建とする説があったが、1939年に境内南東の若草伽藍から金堂と塔跡が発掘されて以降、再建説が支配的であった。

  しかし、奈良文化財研究所が2001年に心柱の年輪年代測定を行って、五重塔の中心を通る心柱の伐採年は594年ごろと発表したことから、再建非再建論争 が再燃していた。今回の発表は一昨年に奈良文化財研究所が提示した非再建説を自ら否定する結果となり、再建説を改めて裏付ける資料になりそうだ。

 

● 法隆寺と同じ最古の技法は別技法の誤りと判明 (2003年7月14日)

  富山県小矢部市の桜町遺跡から、1997年に出土した4000年前の縄文時代中期末の建築部材の木工技法が、7世紀(飛鳥時代)の法隆寺で使われた材木に 凸凹をつけて組み合わせる「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」で、法隆寺より古く国内最古の使用例と当時発表されていたが、再調査の結果、別の技法「貫穴 (ぬきあな)」だったと訂正した。

 当時、出土した部材の加工跡から、「渡腮仕口」と推定され、同工法は7世紀(飛鳥時代)の法隆寺で使われたのが最古とされていたことから、渡腮技法が縄文時代までさかのぼると注目され、「建築史上、画期的な発見」とされた。

  しかし、その後、加工跡の凸部と見られていた部分に穴が開いていることが分かり、昨年再調査を行った結果「渡腮仕口」ではなく横板を通す貫穴と分かったと いう。貫穴は弥生時代後期の津島遺跡(岡山市)や安国寺遺跡(大分県国東町)で見られるが、縄文時代は例がなく、貫穴としても最古とみられるという。

 

● 龍門石窟で則天武后時代の仏像30体を発見(2003年7月13日)

 中国3大石窟の一つ、河南省洛陽郊外の竜門石窟で、道路工事の開削作業中、石壁の下部に唐の則天武后時代(7世紀末〜8世紀初め)のものとみられる新たな石窟と、岩肌に彫り込まれた仏像30体が見つかった。

 場所は同石窟の東山地域にある看経寺の近くで、高さ約2メートルの仏像6体が並んだもの他、両脇に弟子と菩薩をそれぞれ2体ずつ配置したものもあった。鑑定の結果、これらの仏像は、同石窟の奉先寺にある則天武后をモデルにしたとされる盧舎那仏と同時期のものと判明した。

 これらの像の多くは同形であるが、表情や着衣が微妙に異なっており、細部にこだわって彫られた生き生きとした表情を見せるという。

 

● 法輪寺で7世紀の線刻画瓦出土(2003年7月7日)

  奈良県斑鳩町の法輪寺境内で、創建期の金堂を写したとみられる線刻を施した白鳳時代の瓦の破片が見つかった。線刻画瓦は3点あり、うち1点(縦13cm、 横11cm)には屋根と柱が描かれ、大きな屋根とどっしりした構えの重層の建物が描かれている。当時の法輪寺にあった重層建築は、金堂と三重塔であり、そ のうちの金堂とみられる。

仏像や動植物を描いた瓦は多いが、建物が描かれた線刻画瓦は、宮城県・多賀城廃寺跡(8世紀)出土の仏塔の絵に次いで全国で2例目。法輪寺の方が年代が約50年古く表現も丁寧である。

他の1点は円の周辺に放射状の線が描かれており、仏塔の屋根の上に突き出た部分(相輪)の頂部にある宝珠と思われる。もう1点は、ハスの花びらとつぼみを描いたと思われる。

法輪寺では今月12、13日の両日、今回出土した瓦3点を展示する。

 

● 奈良県の仏像データベース「仏像アーカイブ」(2003年7月7日)

  奈良県文化観光課が県下の仏像の情報を登録したデータベースを作成し、4月からインターネットで公開している。県の観光情報サイト「大和路アーカイブ」の 「仏像アーカイブ」コーナーで、調べたい仏像の種類や時代、所蔵するお寺などを選ぶと、該当する仏像のほか関連する寺、仏像などの情報にもリンクでき、好 評を博している。
 現在登録されている情報は、約450件と少ないが、今後県指定重要文化財を含めて充実を計って行くという。

 大和路アーカイブのホームページアドレスは、http://yamatoji.pref.nara.jp

 

● 「古都の森・観光文化協会」が発足(2003年7月6日)

 仏教と神道が連携して宗教文化を調査研究する「古都の森・観光文化協会」の発会式が6日、京都市上京区のホテルで行われた。

  同協会は、京都、奈良、滋賀の主な社寺代表と歴史や宗教を研究する大学教授らが、神仏習合など日本独自の宗教の歴史を見つめ直し、京都や大津、奈良をはじ めとする古都の景観を保全することなどを目的とする。日本歴史文化学会会長の廣川勝美・同志社大名誉教授や下鴨神社、北野天満宮、清水寺、春日大社、橿原 神宮、延暦寺などの宮司、管長らが発起人となり、3府県の約350の社寺や宗教学者らに参加を呼びかけた。

 当面は市民や観光客向けの宗教文化講座開設や社寺の特別拝観、学術誌の発行などに取り組むという。

 

● 明日香村合併反対で署名活動(2003年6月26日)

  奈良県中和地区の7市町村(橿原市・桜井市・川西町・三宅町・田原本町・高取町・明日香村)が今年3月に合併問題協議会を設立し、合併協議を進めている が、飛鳥古京を守る会は、合併を見合わせるよう求める署名活動をスタートさせる。同会は故末永雅雄・県立橿原考古学研究所長を会長として昭和45年に発足 し、講演会などの活動を通して市民レベルで明日香村の歴史的風土の保存に取り組んできた。多数の歴史遺産を抱える同村が「他にかえ難い価値を持つ地域」と 位置づけ、「日本の明日香」としての自立を求めている。目標は5万人で、9月初めに村長と村議会議長に提出する。

(所感)

 明日香村は、景観を守るために、住居についても、法律により構造物、外壁、屋根、窓枠などの材質や色まで細かく規制されています。かつては村人が便利な農耕機具の使用も制限され、風致の保存のために鋤や鍬を使えと言うのかという鋤鍬論争も起こりました。

 確かに明日香村は多数の歴史遺産を抱える特別な地域であり、多くの人の努力でその風致が守られてきましたが、どのような結論であれ、住民の生活を無視するような議論にだけはならないようにしたいものです。

 

● 藤原京跡「中ツ道」の銅製人形(2003年6月24日)

 奈良県橿原市の藤原京跡で見つかった古代の幹線道路「中ツ道」の東側溝で、長さ約9cmの銅製人形(ひとがた)が6点出土し、注目されている。

 藤原京跡では木製の人形はこれまでも多数出土しているが、銅製人形は、過去に7点見つかっているだけで、長さも半分程度で、纏って出土した例もなかった。

 人形は本来、病気の治癒などを願って身代わりとして水路に流しけがれを葬り去ったと考えられている。銅製の人形を使えるのは、高貴な人物や女官など限られた身分の人々と考えられ、大祓の儀式などの国家的祭祀で使用された後、まとめて流した可能性もある。

 

● 正倉院の温湿度調整機能を確認(2003年6月23日)

 奈良市雑司町の東大寺正倉院で保存機能を解明する環境調査が一年かけて行われ、倉の持つ優れた温湿度調整機能があらためて確認された。

 環境調査は49〜59年に行われているが、今回は精度の高い計測器を用いて、より正確な測定が行われた。

 これによると、一日の気温の変化は外気9.6度に対し、1.3度(北倉)〜1.7度(中倉)、湿度の変化は外気44%に対し、6.8%(北倉)〜9.8%(中倉)と、気温、湿度とも外気の変化の大きさに比べ、倉の中は非常に安定していた。

 北倉の変化が特に小さいが、この倉は聖武天皇の遺愛の品々など、宝物の中でもとくに大切にされたものが保管されており、保存環境が優れていることを奈良時代の人は経験から知っていたのかも知れない。

 また、宝物を納めるスギ材の唐櫃の中は、気温の変化が1.2度、湿度は0.6%で、特に湿度の変化が非常に緩く、急激な湿度の変化を嫌う漆工品などの宝物の保存に役立っていたこともわかった。

  正倉院の保存環境に関しては、かつては、雨天時には校木が膨張し隙間をなくして湿気をふせぎ、反対に乾燥すると収縮し隙間があき湿気をとりこむという校倉 の構造が一定の湿度を保ち、宝物が保存されてきたという説があった。しかし、実際には天候が違っても校木間の隙間に変化は無く、校倉内や唐櫃内の調湿は校 倉は校木間の隙間の開閉によるのではなく、校木等の吸放湿作用によりおこなわれているとするのが通説になってきていたが、これを科学的に改めて裏付けるこ とになった。

 

● 藤原京跡で「中ツ道」発掘(2003年6月17日)

  奈良県橿原市の藤原京跡で、奈良盆地を南北に縦断する古代の官道3本のうちの一つ「中ツ道」が見つかった。両側に素堀りの排水溝があり、溝を含めた全体幅 は約30mで朱雀大路と同クラスだが、路面幅は25mで、朱雀大路(約19m)や下ツ道(約23m)を上回る。古代最大の内乱・壬申の乱(672年)の主 戦場の一つとして日本書紀に登場する。

 溝の中からは和銅2(709)年の木簡や天皇や皇族らがけがれをはらう国家規模の儀式「大祓(おおはらえ)」に使われたと考えられる銅製の人形(ひとがた)が出土した。

 

● 京都・岩船寺で三重塔修復完了(2003年6月15日)

 京都府加茂町の岩船寺で三重塔(重文)の修復作業が終わり、7月1日から6日まで一般公開される。三重塔は、嘉吉二年(1442)の銘があり室町時代の建立になる。今回の修復で塔の外観は創建当時の鮮やかな朱色によみがえり、屋根の瓦も新しくふき替えられた。

 塔の内壁や扉には十六羅漢や真言宗の高僧などの壁画が描かれているが、剥落が進んでおり、光学調査などで輪郭や色彩を割り出して復元し極彩色の輝きを取り戻した。

 

● 明日香村で最古の鋳鉄炉跡及び鉄鋳型発見(2003年6月7日)

  奈良県明日香村の川原寺跡で、鉄製の釜を鋳造した思われる炉跡が十数基と鉄釜の鋳型が見つかった。この他、瓦窯(がよう)跡、銅製品を鋳造したるつぼ、銅 くず、ふいごの羽口やガラス玉の鋳型も出土し、小規模ながら、生産内容は官営の巨大工房「飛鳥池遺跡」に良く似ている。大官大寺、飛鳥寺、薬師寺とならん で飛鳥四大寺の1つに数えられた川原寺専用の総合工房として、寺で使用する銅・鉄・銀などの金属製品や瓦の生産、ガラス小玉や漆製品も生産したものと考え られる。

 銅の鋳造技術は銅鐸や仏像を通じて早くから日本に定着し、昨年末、滋賀・信楽で甲賀寺の梵鐘や仏像等を造ったと見られる大型銅溶解炉跡が発見されているが、鋳鉄遺構では最も古く、大型の鉄製品を作る技術が飛鳥時代に伝わっていたことが明らかになった。

 

● 東大寺正倉院中倉も創建時の建物(2003年6月7日)

  奈良県東大寺正倉院中倉の床板を年輪年代法で測定した結果、714年、716年、741年という測定が得られた。これらの部材は外側がわずかに削られてい ることから、原木は741年+10年頃の伐採と考えられ、北倉、南倉の床板とともに創建当時の部材であることがで明らかになった。

 正倉院宝物は、天平勝宝8(756)年に亡くなった聖武天皇の遺愛品を、光明皇后が東大寺の大仏に献納したことに始まり、正倉院 の建立はその前か後か、また正倉院は北倉、中倉、南倉から成り、北倉、南倉が校倉なのに対し中倉は東西両面が板倉であるという構造上の相違のため、当初か ら1棟3倉の姿であったのか、それとも北倉と南倉の双倉(ならびくら)の2倉の間に後から中倉を設けたのかなど、諸々の論争を呼んでいたが、天皇の存命中 に東大寺の正倉として三倉を同時に建てたという1棟3倉説が、科学的に裏付けられる結果となった。

 

● 東大寺三月堂の重文石灯籠が破損 (2003年5月30日)

 奈良市東大寺三月堂の前にある重要文化財の石灯籠の一番上にある宝珠を修学旅行生が誤って落とし、破損させた。
 灯籠は、高さ2.6m、鎌倉時代に宋人の石工の伊行末が1254年建立に制作したもので、国の重要文化財に指定されている。宝珠は直径約20センチで球形だが、約8センチ四方に亘って、最大で2.5cmの厚さで欠けた。
 京都美術院や県文化財保存課の専門家が寺を訪れ検討した結果、傷が分からないように修復して石灯籠に宝珠を戻すことになった。

 

● 宇治・平等院国宝の阿弥陀如来像を大修理 (2003年5月21日)

 京都府宇治市宇治の平等院は、鳳凰堂の国宝・阿弥陀如来坐像と頭上を覆う天蓋の修理を、本年度から2007年度まで5年間かけて行う。阿弥陀如来坐像の解体修理は約50年ぶり、天蓋の本格的な修理は、明治36(1903)年から100年ぶりで、「平成の大修理」になる。

 阿弥陀如来坐像の光背や天蓋などに、金箔が浮き上がるなど傷みが目立ち始めたため、表面の金箔のはく落防止や破損部分の修繕を行う。天蓋は、螺鈿装飾の再接合や欠損個所の復元を行う。

 修理作業は、境内に設けた工房で行い、来年1月末から2005年夏まで鳳凰堂内部の拝観を中止する。修理期間中は、坐像内に納入されている木造阿弥陀種子曼荼羅と蓮台などを、平等院ミュージアム鳳翔館で初公開する。

 

● 弥生時代の始まり、500年早まる?(2003年5月19日)(2003年5月20日)

  国立歴史民俗博物館は、水田稲作が日本に伝わり弥生時代が幕を開けたのは定説より約500年早い紀元前1000年ころ、と特定する研究を発表した。北部九 州から出土した土器などから採取した試料を最新の放射性炭素(C14)年代測定法で分析し、 その結果、弥生早期後半の土器と前期前半の土器、計11点の うち10点が紀元前800年から前900年ころに集中することが判明。水田稲作が伝来した弥生早期前半は前1000年ころと判断し、弥生の幕開けは前 1000年前後と結論づけた。

 放射性炭素年代測定法による年代測定法は、1990年代以降開発されてきた科学分析技術の一つであるが、これまで、青銅器や土器 様式などを基に組み立てられてきた考古学の年代と大きく差があったことから、C14年代測定法の信頼性をめぐっては、考古学界にはなお論議がありその採用 に消極的であった。

 しかし、加速器質量分析計(AMS)で微量な試料で精度の高い分析ができ、また32点もを まとめて測定した結果に大きなばらつきはみられず、この測定法を考古学に応用するうえで一定の信頼性を示したと言えることから、教科書の書き換えなどをめ ぐって論議が起こるのは必至だ。

 ただし、より説得力を持つためには、年輪年代測定法など他の技法による検証をさらに進めることが必要だろう。

 放射性炭素(C14)年代測定法

 

(所感)

  科学分析の結果が学界の通例を覆した例として、一昨年、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺・五重塔の心柱の伐採年代が、年輪年代測定法で594年 と判明し、これまでの通説であった、天智9(670)年の火災以降の再建との説を否定する結果として新聞紙面を賑わしました。

 しかしながら、史学的、様式学的にこれを検証、追認するような真摯な議論は行われていないのが実情です。

  石器捏造事件の際にも、マスコミがセンセーショナルな部分のみを取上げ報道する姿勢が事件の一因にもなっているという指摘がありましたが、今回の発表は、 科学分析の結果としては重要であり画期的ですが、学界の統一見解ではなく、更なる議論が必要という観点から、もう少し地に足のついた冷静な報道姿勢が要望 されます。

 

● 新疆の楼蘭王国遺跡 壁画・織物・・・色鮮やか(2003年5月20日) 

 中国・新疆ウイグル自治区の楼蘭王国遺跡で調査団が撮影した壁画などの写真が公開された。     

  壁画は中国・新疆ウイグル自治区の探検隊が、かつてシルクロードのオアシス国家として栄えた楼蘭王国遺跡を2月に調査して見つけた。盗掘された墓室から発 見された大量の壁画などの写真は、新疆文物考古研究所を通じて報道された。ササン朝ペルシャ産のグラスを持ち、朱と群青色の衣服を着た人物像のほか、ラク ダや牛などの動物壁画や革靴をはいた親子のミイラ、墓室の柱に描かれた車輪のような絵、色鮮やかな文様のある織物、精巧な装飾のある棺のふたなどが描かれ た極彩色の壁画などが王国の豊かさをほうふつとさせる。

 

● 耕三寺本堂など15棟 国登録有形文化財に(2003年5月16日) 

 文化審議会(高階秀爾会長)は16日、148件の建造物を新たに登録有形文化財とするように文部科学相に答申した。併せて、12件の史跡・名勝への指定と、1件の天然記念物指定の解除を答申した。

 答申内容は次の通り。(かっこ内は所在地)

  【史跡の指定】仙台城跡(仙台市)▽伊治城跡(宮城県築館町)▽宮畑遺跡(福島市)▽上神主・茂原官衙遺跡(宇都宮市、栃木県上三川町)▽玉川上水(東京 都羽村市、福生市、昭島市、立川市、小平市、小金井市、西東京市、武蔵野市、三鷹市、杉並区、世田谷区、渋谷区)▽万行遺跡(石川県七尾市)▽古保利古墳 群(滋賀県高月町)▽新宮城跡・水野家墓所(和歌山県新宮市)▽豊前街道南関御茶屋跡(熊本県南関町)

 【史跡と名勝の重複指定】飛鳥京跡苑池(奈良県明日香村)

 【名勝の指定】旧新発田藩下屋敷=清水谷御殿=庭園および五十公野御茶屋庭園(新潟県新発田市)▽白沙村荘庭園(京都市)

 【天然記念物の指定解除】妙見の大ケヤキ(熊本県矢部町)腐食による倒壊のため

 【主な登録有形文化財】十和田ホテル本館(秋田県小坂町)▽神田神社本殿ほか(東京都千代田区)▽鬼谷川堰堤(福井県大野市)▽田中本家博物館旧主屋ほか(長野県須坂市)▽耕三寺本堂ほか(広島県瀬戸田町)

 耕三寺は1935年に開山した浄土真宗本願寺派の寺で、本堂は瓦ぶきの木造平屋建てで、41年に完成。中堂、左右の翼廊、尾廊で構成されており、京都府宇治市の平等院鳳凰堂を模している。 建物内外部の壁面や柱、建具などに極彩色の装飾が施されている。

 このほか、新薬師寺本堂を模した仏宝蔵、法隆寺夢殿を模した八角円堂なども登録される。

 

● 植山古墳の馬具に金銀重ねる (2003年5月14日)

  推古天皇と息子の竹田皇子の合葬墓との説がある橿原市五条野町の国史跡、植山古墳で出土した金銅製馬具の飾り金具に、金と銀を重ねた部分のあることが分析 で分かった。銅板に金を塗った後、銀ぱくか粒子状の銀を重ねた可能性が強いという。銀の発色をよくする技術と考えられるが、過去に例はなく、確認されたの は初めて。

 金めっきは水銀に金を溶かし込む「金アマルガム法」が使われており、厚さ3〜5ミクロン(1ミクロンは1/1000mm)と、通常の金めっき(10〜20ミクロン)に比べて極端に薄いことも分かった。

 植山古墳の金銅装馬具は、馬の尻を飾る歩揺付き飾り金具で、破片も含めて33点出土していた。

 

● 滋賀県矢川神社の木造神像など4件、甲南町指定文化財に (2003年5月13日)

 滋賀県の甲南町教委はこのほど、矢川神社(森尻)の木造神像や金龍院(竜法師)の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)など4件を、新たに町指定文化財に指定した。

 矢川神社の木造神像は、男神像(52.2cm)、女神像(48.2cm)、女神小像(34.0cm)の3体。いずれもヒノキ材の坐像で、それぞれ平安、鎌倉、南北朝時代の作とみられる。

 

● 唐招提寺本尊盧舎那仏坐像の蓮弁に仏像 (2003年5月8日)

  唐招提寺金堂の本尊、国宝・乾漆盧舎那仏坐像の台座を飾る蓮弁は、奈良時代の創建当初はくぎ止めではなく、鉄の棒を蓮弁の中央に取り付けて台座に挿し込む 方式であり、その痕跡から、当初は現状の72枚より24枚多い96枚あったことが判った。また、蓮弁には金箔の上に、釈迦如来坐像と見られる仏像が描かれ ていることが確認された。東大寺大仏と同様、「盧舎那仏が座す千葉蓮華の一葉ごとに釈迦がいる」と説く「梵網経」の経典に基づく世界観が表されているとみ られる。

 

● 鳥取・大御堂廃寺跡から塑像の頭髪「螺髪」の型出土 (2003年5月1日)

  鳥取県倉吉市教委が1日、同市駄経寺町の国史跡・大御堂廃寺跡で、仏像(塑像)の螺髪(らほつ)の製造に使ったとみられる型が見つかったと発表した。塑像 の場合、螺髪は同じ形状の物を多数付けるため、型を使って造ったと考えられ、7〜8世紀に多く作られたが、型が見つかったのは初めてという。

 出土した型は、陶製(重さ50g)で直方体に近い形(長さ5.1cm、幅3.8cm、厚さ2.1cm)で、左右一対の型に塑土を 詰め込み、成型したととみられる。大きさや形態から、丈六像(高さ約4.8m、坐像であればその半分)の如来像の頭部に数百個単位で取り付けられた可能性 が強いという。

 大御堂廃寺は、7世紀半ばに創建された山陰最古級の寺院で、正倉院宝物に酷似した佐波理匙(さはりさじ)や珍しい銅製獣頭などが出土したことで知られており、一昨年には、白鳳時代の軒丸瓦の型枠が見つかっている。

 

● 唐招提寺の盧舎那仏坐像の手のひらの中に珠(2003年4月25日)

  奈良市五条町の唐招提寺で、保存修理事業が進められている金堂の本尊、国宝盧舎那仏坐像の両手のひらの中に、X線撮影で数珠の珠(たま)が左右に大小2個 ずつ埋まっているのがわかった。珠の大きさはそれぞれ直径11mmと9mmで穴が中央を貫通しており、透明度から水晶やひすいのような鉱物の数珠玉ととみ られる。鉱物の数珠は貴重で、寺の記録などはないが、創建した鑑真が使った数珠を入れた可能性もあるという。

 同寺金堂の薬師如来像の左の手のひらに3枚の銅銭が埋め込まれていたり、同寺の収蔵庫に安置されている木心乾漆菩薩立像(重要文 化財)の胸部と手のひらに瑠璃(るり)色の珠が埋め込まれている事例が確認されているが、奈良時代の仏像に数珠玉を埋めた例は、唐招提寺以外で見つかって いない。

 解体前に953本あった千手観音の手は、8世紀後半に完成したときとは違う位置に取り付けられたもの があったが、くぎ穴が多く本来の手の位置は確認できなかったという。また、建立当時の盧舎那仏の台座の蓮花の花弁が、現在の72弁より24枚多い96枚 だったことなどが認められた。

 5月31日から6月8日まで、境内の仏像修理所で一般公開される。

 

 

● 宮内庁が正倉院の宝物紹介のHP開設へ(2003年3月28日)

 宮内庁は来月1日から、奈良の正倉院の宝物を紹介するホームページを開設する。初公開のものを含め、楽器、調度品などの宝物約250点。アドレスは、http://shosoin.kunaicho.go.jp/

 

● 薬師寺 白鳳伽藍を再興 落慶法要(2003年3月21日)

 大講堂を最後に35年かけて金堂、西塔、中門などの白鳳伽藍を復元した奈良・薬師寺が3月21日から落慶法要を行う。奈良時代の建物は東塔しか残っていなかった境内に、金堂、西塔、中門に加えて大講堂を古代の様式で復元。約1300年前の華麗な白鳳伽藍がよみがえった。

  金堂は、国宝の薬師三尊像を安置することから、文化庁の指導もあって、内部は鉄筋コンクリート製となったが、大講堂は一部、阪神大震災にも耐える強度が求 められ、木造の扉口に鉄枠を入れるものの、主要構造は奈良時代の様式を伝える純木造で復興した。3月30日から4月4日まで落慶慶讃大法要を開く。大講堂 の一般公開は4月8日から。

 

● 高野山・金剛峯寺 国内最古の毘沙門天胎内仏(2003年2月17日)

 和歌山・金剛峯寺所蔵の毘沙門天立像(重要文化財、木造)から、12世紀初めの制作とみられる胎内仏の毘沙門天像が見つかった。

 本体の毘沙門天立像(2.7m)の修理の際、発見されたもので、高さ約45cmの白檀の一木造。衣には精緻な截金が施されており、藤原時代の制作と考えられる。

 本像は、2月18日から3月10日まで高野山霊宝館で展示される外、4月15日から京都国立博物館を皮切りに開かれる「空海と高野山」展でも展示される。

 

● 唐招提寺 金堂の邪鬼3体創建当初の作(2003年2月13日)

 現在解体修理中の奈良・唐招提寺の金堂の軒下に部材として配置されている木彫の邪鬼が、創建当初の奈良時代の作であることが奈良県文化財保存事務所の調査で分かった。

 本像は約30cm角の角柱から彫り出したもので、金堂の四隅の肘木の上に屋根の垂木を支える箇所に用いられている。4つのうち、東南、東北、西北の3体が、年輪年代測定法からも奈良時代の彫像と確認された。

 創建当初の作と分かった3体のうち1体などが、松山市の愛媛県美術館で開催中の「鑑真和上展」で3月23日まで展示されている。 

 

● 薬師寺講堂本尊名を「弥勒三尊像」に改称(2003年2月12日)

 奈良・薬師寺は、3月に行う大講堂の落慶法要を機に、これまで「薬師三尊像」としてきた講堂の本尊の名前を「弥勒三尊像」と改称することにした。

 薬師寺には金堂と講堂にそれぞれ薬師三尊像がある。だが、講堂三尊は江戸時代半ばには西院弥勒堂にあったとみられ、講堂に移されてからは「阿弥陀三尊」と称されたといい、いつから「薬師三尊像」になったかは、寺の記録にはないという。

 西院弥勒堂にあった時は「弥勒三尊」だったはずで、大講堂の新築を機に改称することにした。脇侍の日光、月光菩薩も、弥勒仏の脇侍である「法苑林(ほうおんりん)」「大妙相(だいみょうそう」と改めるという。

 ただし、重要文化財としての名称は「薬師三尊像」のままで変更しないという。

 

●夢窓国師の「瑞泉寺」より古い庭園跡を発見(2003年1月17日)

 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目にある「無量寺跡」廃寺跡の発掘調査で、岩盤をくりぬいて池にした庭園跡が見つかったと、文化財団社宅建築工事に先がけて調査にあたった民間の無量寺跡発掘調査団が14日、発表した。

  無量寺は、古文書などから寺の存在は分かっていたが、15世紀後半には廃寺になっていたらしい。庭園跡は切り立った人工のがけの下に造られるなど、禅宗庭 園の祖とされる夢窓国師による同市内の国指定名勝「瑞泉寺庭園」とほぼ同じ特徴を備えているが、出土した数千個の土器片などから造営の年代は13世紀後半 から14世紀初めと推測され、瑞泉寺より数十年古いとみられる。池に接して縦6間、横3間の建物の礎石も見つかった。山すその人工的ながけ沿いの庭園は全 国でも鎌倉のほか例が少なく、しかも岩盤を削った池が完全に保たれている点でも貴重な発見だという。

 

●薬師寺講堂薬師三尊像、3月に講堂落慶法要(2003年1月8日)

 3月に行われる奈良・薬師寺の講堂落慶法要に向けて、奈良国立博物館に安置されていた薬師三尊像(重文、奈良時代)が約5年ぶりに同寺に戻ることになり、搬出を前にした法要が7日、博物館で行われた。

  薬師三尊像は、同寺講堂に安置されていたが、平成5年から同9年の講堂の修理にともない、10年4月の天平展を機に奈良国立博物館に安置され、講堂の建て 替え工事が終了するまでの約5年間博物館に預けられていた。この間に江戸期に補修された日光菩薩像の頭部や台座などを奈良時代の様式で造り直したほか、薬 師如来坐像の腰部などが補修された。

 薬師三尊像は今月下旬に梱包作業を済ませたあと、来月初めに搬出。建築工事が終了した薬師寺講堂に安置される。

 

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2002年

 

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