飛鳥白鳳彫刻の問題点

朝田 純一

 

    
第一章 我国に於ける仏教美術の受容態度について
第二章 中国に於ける仏像様式の変遷
第三章 飛鳥白鳳期に於ける基準作例について
第四章 止利様式と、その飛鳥時代に占める位置について
第五章 非止利様式の諸像−様式並存の可能性と飛鳥彫刻の終焉
第六章 白鳳様式の実態

 

  第六章 白鳳様式の実態

  白鳳という時代呼称は、美術史以外ではあまり使われない。この白鳳という言葉は元来和年号であるが、何時の年号の別称なのかという点は議論がある。従来、白鳳は弘文朝もしくは天武朝の年号のことだとされていたが(1)、坂本太郎(2)や、喜田貞吉(3)が、これは孝徳朝の年号、白雑の別称であるという説をたて、現在有力である。

 これを美術史において飛鳥時代の次にくる時代の名称としたのには、次のような経緯が有ったのである。

 明治の中頃、岡倉天心は推古、天智、天平という時代区分を設定した(4)。そしてこれは、伊東忠太、フェノロサ、高山樗牛らに継承された。これに対し明治の末年になると関野貞が、推古、寧楽前期、寧楽後期という時代区分を行った。ところが明治四十三年に日英博覧会が開かれたときに、日本美術の国宝帖をつくることになり、そのときはじめて中川忠順が白鳳という言葉をつかい、飛鳥、白鳳、奈良、貞観という時代呼称を用いたのである。この白鳳という時代名は、飛鳥に対して語感も良く、他にあまり使われぬ専問的呼称であったので、大正頃から盛んに使われるようになった。ところがその後、白鳳という時代設定をされることが少くなり、飛鳥と奈良に分け、白鳳を飛鳥後期と奈良前期に含ませてしまおうとする傾向が強くなった。一時このように白鳳時代をみとめる論は劣勢であったが、戦後になりまた白鳳時代をみとめようとする動きが現れ、現在はその考えが二分されているようである。

 さて白鳳という時代は、一般的には大化改新(六四五)から平城遷都(七一〇)の頃までとされている。つまりこの期間は政治的大事件にはさまれており、これを目安として白鳳という時代が設定されているようである。しかし、美術史的にみれば、政治上の変革が必ずしも芸術様式の変革の起因とならないことは明らかであるから、政治的事件をもって美術様式の区分とするのは慎まねばならない。ところが、白鳳という名称は、私のみるところこれまで、単に大化から平城遷都までの期間を示す意味と、飛鳥、天平の間の一つの独立した美術様式を示す意味と二つの場合に用いられているようである。つまり白鳳様式が存在しなかったとする人も、我国彫刻史を語るときは一応白鳳という名の時代を設定しその中で飛鳥前期的であるとか、奈良前期的であるとか論じているのである。これは私にとっては、はなはだ不可解であり美術様式の理解をさまたげるものとしなけれぱならないたろう。また美術史家の論の中にも白鳳という時期を設定しながら、その様式概念の規定のあいまいなものが間々あるのではないか、と私はおもう。つまり白鳳という呼称は美術様式を論ずる時にのみ用いる事がゆるされるものであり、これを政治的時代区分の呼称として用いることは無意味であろう。白鳳という呼称は(この呼称が妥当であるかどうかは別として)飛鳥、天平の間に別個の独立した美術様式をみとめるときにのみ用いられるべきなので、単なる美称としては使うべきではない、ということを私は確認しておきたい。

 さていったい白鳳と呼ばれるぺき美術様式は、ほんとうに存在したのであろうか。ここではこの問題を中心にあつかってゆこう。 

(1) 扶桑略記による
(2) 坂本太郎「白鳳朱雀年号考」史学雑誌三十九ノ五
(3) 喜田貞吉「白鳳の年号に就いて」夢殿五
(4) 明治二十二年、東京美術学校に於ける講義による。

 

 白鳳様式が存在すると考える論

 白鳳様式が存在すると主張する人でも、その考え方は、まちまちであるのでその代表的なものをあげてゆきたい。

 白鳳時代を大化の改新から文武期末(七〇七)とし大陸の斉隋様に応ずる時代とする論

 水野清一(飛鳥白鳳仏の系譜)

 白鳳様式の複雑さはみとめるが、旧御物丙寅銘弥勒像、野中寺弥勒像(六六六)の斉明、天智朝における遺例を基礎とし、類品の盛行を四十八体仏中に求め、その完成された作品として新薬師香薬師像、橘夫人阿弥陀二尊像、鶴林寺観音像の存在を考えるから、白鳳の存在を認め、その終末を文武期末までのぱしたい。

 我国飛鳥期には、北魏龍門様の仏像が行われていたが、孝徳朝(六四五)初期とされる法隆寺金堂四天王像からは斉周様の傾向があらわれ、天智五年(六六六)野中寺弥勒像になると、それがはっきりあらわれてくる。つまり我国白鳳様式の出現は、大陸の斉周様に応ずるものであり、その出現は孝徳朝あたりに遡るとみられる。百済観音像、法輪寺虚空蔵像菩薩像は保守的であるが、白鳳期に入れて良いだろう。鶴林寺観音像、一乗寺観音像、鰐淵寺観音像の頃には、隋様が入ってきて斉隋様式がみられるようになる。つまりこれは天武、持統朝頃(六七三〜六九六)で、このあたりが白鳳の最盛期といえよう。そして、鶴林寺観音像、橘夫人阿弥陀三尊像、深大寺釈迦倚像、新薬師寺香薬師像がこの時期を代表する優作といえよう。

 また一方では、興福寺伝頭、当麻寺弥勒像、薬師寺東院堂聖観音像など次の時をもたらす雰囲気の有るものが生まれつつ有ったが、これらもまた斉隋様のものというぺきである。

 

 白鳳時代を大化改新から平城遷都までとし、斉周様、隋様、唐様が重なりあって展開すると考える論(5)

 

久野健(古代彫刻論、法隆寺の彫刻)

 この時期は社会的には、百済、高句魔が七世紀中葉に相ついで亡ぴ、大量の帰化人が我国に亡命してきているし、遣唐使も数度派遣され中国との直接の交渉も盛んになってきた。その故、白鳳時代は、従来の北魏様、斉周様さらに新たにはじまった隋や唐の様式までが重なりあって展開する時期なのである。

 大化改新(六四五)から天智の末年(六七一)までを白鳳前期と考える。その最初に位置するのが辛亥銘観音像で、また止利様が残っている。それが観心寺観音像になると古様を全く脱皮し、三面宝冠、珠を連ねたにぎやかな瓔珞など斉周様を伝えるものになり、野中寺弥勒像(六六六)になると、この様式が一層成熟したものになり、面相も童顔に近くなる。その豊かな宝髪や、三面宝冠は斉周様を伝えるものであるが、裳の縁にみられる連珠文は、はやくも隋様をとり入れたものであり、斉隋様というべきものになっている。法隆寺六観音像はこの白鳳様式を一層成熟させたものとなっており、童児の如き、あどけなさ、プロポーションがよく表れている。即ち白鳳前期は飛鳥様式の余風ものこるが、新しいものも出てくる時期といえよう。

 天武、持統朝から平城遷都(六七二〜七一〇)頃まで白鳳後期と考える。このころは仏教美術の開花期ともいうべき時代で、そのはじめに興福寺仏頭が登場する。この像は初唐以前、斉隋様の感化によるとおもわれるが、同じような様式を示す像は中国彫刻に見出しにくい。これと同様のものには新薬師寺香薬師像、橘夫人阿弥陀三尊像、深大寺釈迦像、竜角寺薬師像などがあげられ、いずれも初々しい顔や、稜線のきわ立った眉や眼をもち、衣は薄手で平行状の天衣をえがく。

 同じ頃、当麻寺弥勒像がつくられたとおもわれるが、これば隋の石像に大変近いブロック的な造りであり、蟹満寺釈迦像と同系に属するものと考えられる。同じく隋様をひくものに鰐淵寺観音像(六九二)があり、この隋様を一層マスターしてつくられたのが鶴林寺観音像である。

 薬師寺薬師三尊像は持統十一年(六九七)の作と考えられる。この像においては童児様は全く姿を消し大人の表情となる。肉身は弾力的表現で、衣文の処理もごく自然である。これは、初唐の新様式を明確に伝えているとみられ、東院堂聖観音像も同様のものとみてよいだろう。このように斉周様から唐様まで短い期間に一挙に展開するのは、先にのべた社会的事情の故とおもわれる。

 白鳳彫刻を全般的にみると、壬申の乱(六七一)を境にして様式の上では、前後に分けられる様である。前半は飛鳥様式も残っているが新しいものもでてくる時期で、次に流行する新様の素地はこの時期にできていたと考えられる。後半に入ると、顔が丸みをおび、肉体にもふくらみがでて、童児形に近くなる。さらに時期が下ると、一部の大寺の造仏に純粋の唐様が入ってくる。これが次の天平時代の主流となるのである。

 

(5) 久野健は、「白鳳時代は存在する」(芸術新潮、昭和三十三年八月号)という論文を発表しており、その中て「飛鳥時代のものにもなく、次の天平時代にも見られぬ様式が認められれば白鳳時代は存在する」とのべ白鳳様式をみとめているのであるが、この論文、あいにく手元になく、一読しただけであるので、その詳しい内容を紹介できぬのは残念である。

 

 白鳳時代を大化改新から七〇〇年前後までとみて、その主体を、百済観音像、夢殿観音像、中宮寺弥勒像などにおく説

 

 野間清六(飛鳥白鳳天平の美術)

 白鳳様式のはじまりは、法隆寺金堂四天王像にみられる。この感覚は飛鳥彫刻の巨大性堅固性を脱却したものである、百済観音像になると、立体を包む線条の美しさを示す、叙情的美しさがみられ、はっきり飛鳥様式と異ることがわかる。夢殿観音像、中宮寺弥勒像も同様の感覚によるものと考えられる。

 即ち白鳳様式の飛鳥彫刻に対する特徴としては、整然美に対する自由美、重厚美に対する軽爽美、厳格な意志性に対するリリカルな情趣性があげられる。これらは、大化改新などという革新的気分の反映でもあり、古代的なものからの離脱をも示すものである。このような性格は、大陸の六朝から隋唐への展開にもみられるが、我白鳳彫刻はそのような影書に仮着することなく、自らの感性として、それらを発揮したものである。このような白鳳的気運は、興福寺伝頭あたりまでのものであり、薬師寺東院堂聖観音像になるともう天平的なものが混ざり、白鳳と天平の過渡期を示している。即ち従来白鳳の展型とされていた薬師寺薬師三尊像は、先に記した白鳳の感覚とは離れたものであり、はっきり天平的なものが示されているものとみるぺきである。その制作年代は当然養老年間とみるべきで、そこには最早、白鳳の内面性は失われ、外面的に成熟したものを求めていることが、はっきり伺えよう。

 

 白鳳時代を天智朝ごろ(六六三)から和銅前後(七〇八)までとみて、その展型を興福寺仏頭に求める説

 

 町田甲一(上代彫刻史上における様式区分の問題)

 飛鳥時代の静視的視覚活動に徐々ながら運動的要素が付加され、静視が触知へと発展するのが白鳳時代である。触知とは、対称の全き立体性を把握することであり、野中寺弥勒像(六六六)や、金龍寺菩薩像にその萌芽をみることができる。これが更にはっきり現れてくるのは夢違観音像、薬師寺東院堂聖観音像、新薬師寺香薬師像、深大寺釈迦像、橘夫人阿弥陀三尊像などにおいてであり、興福寺仏頭の表現は、この時期の触知的視形の最も恰好な典型であろう。このように触知的感覚が進んだことにより、造像に用いられる素材に、塑土や乾漆が多くなってくるようになるのである。

 この触知が、完全な写実に向うのが次の天平時代で、これは法隆寺中門力士像、五重塔塑像(いずれも和銅四年・七一一)に始り、養老頃の作と考えられる薬師寺薬師三尊像に最初に的確に具現されたのである。大陸の影響を考えると、大化改新以来、斉隋様をうける時代が長く続いた。これは、我国が百済の滅亡(六六三)を契機に半島との交渉を断ってしまい、天武朝(六七三)になって大陸との国交が再び盛んになるまで、当然受入れるべき初唐様式を、受入れることができなかったからであろう。

 

 白鳳様式は存在しなかったと主張する人の論

 白鳳様式は存在しないとする人は、大体その前半を飛鳥様式に含め、後半を天平様式に属せしめる。ではその論拠を紹介しよう。

 

金森遵(白鳳彫刻試論、白鳳彫刻私考、白鳳彫刻の可能性)

 現在白鳳彫刻として公式的に信ぜられている多くの彫刻が有るが、その大部分は何等根拠のないものであり、「白鳳」という美称によって、むしろ先入的につくられた様式のようにおもわれる。白鳳の前半期は、造像が少なく空白に近い状態である。従来白鳳彫刻といわれてきた主な作例は、いずれも後半期の作品であり、その点、探究されねばならない。その前半期であるが、これは飛鳥彫刻の延長に過ぎないと考えられる。野中寺弥勒像をみると、これは飛鳥様式より転化したものであり、面相、衣文の処理などにかなり自由なものがみられるが、文様などには依然として飛鳥様を残しており、飛鳥彫刻の発展型とみられる。辛亥銘像も同規に考えられ、これらは非止利様諸像の後に来るものとして飛鳥彫刻に含めてよいだろう。

 後半期は、隋様式の上に唐様式が加味されて奈良彫刻へ展開してゆく時期である。その最初の基準作例は、興福寺仏頭(六八五)である。この像は、隋朝様に近くもみられるが、唐様式の影響が濃厚である。しかし末だ生硬さがあり消化が不十分であったとおもわれ、眉目の位置関係などは頗る特殊である。これは飛鳥彫刻の形式主義から、奈良彫刻の写実主義へ移行する一時的混乱により生じたものであり、側面観においては、はっきり奈良彫刻へ通ずるものを、もはやもっている。この仏頭の様式手法を更に発展させたのが当麻寺弥勒像であり、その次にくるのが長谷寺法華説相盤である。

 薬師寺薬師三尊像は養老頃の造立とみられ、初唐様式を強く示すことは明らかである。法隆寺五重塔塑像、食堂塑像を経て、この像の様式が生まれたものであろう。このように後半期は、興福寺仏頭から薬師寺薬師三尊像へと発展していったと考えてよい。

 以上、白鳳彫刻は大凡その半ば頃を境として二つに分けられ、その前半は飛鳥彫刻の情勢にすぎず、極めて消極的な性質のものであった。それに対し後半期は、興福寺仏頭を契機として積極的発展を示したのであるが、しかしそれらは実質的には奈良彫刻の先行形に過ぎないものであり、様式的には決して独立の位置を主張し得ないものである。即ち白鳳様式と呼ばれるものは、決して完結した様式ではなく、一般に白鳳様式と信ぜられているもの(新薬師寺香薬師像の如きもの)は、白鳳後半の短い期間に出現して生育しつくす事を得なかった、様式的嫩芽であったのである。

 

 安藤更生(白鳳時代は存在しない)

 世に白鳳時代とよばれる期間に包含される基準作例について検討してみると、法隆寺金堂四天王像、野中寺弥勒像、丙寅銘弥勒像は我々が仮りに斉隋様と呼んでいる六朝後期の彫刻様式の影響下に立つ作品であり、前期の止利様とは一応区別して考えるべきものである。また興福寺仏頭、当麻寺弥勒像、鰐淵寺観音像などは、隋未唐初の様式を帯びている作品であり、斉隋様とは全く異った様式のもので、これらの作品を同一時代の同一様式、即ち白鳳様式というような名称下に一括することは、全く不合理であり不可能なことといわざるを得ない。興福寺仏頭のつくり始められた六七八年は日本における斉隋様と隋唐様の行われた時代について、すこぶる重大な分れ目を示しているものである。  

 斉隋様は我国に於いては、遣唐使の帰着を契機として大化改新はるか以前から行われはじめたものとおもわれ、非止利様の諸像は当然それらに含まれ、野中寺弥勒像(六六六)の頃をもって終末に至るものと考えられる。興福寺仏頭、深大寺釈迦像になると、隋未唐初の様式をうけた新様式の台頭がみられる。

 結局白鳳時代は、六六六年の斉隋様野中寺弥勒像と、六七八年の隋未唐初様興福寺仏頭の間に大きな断層が存在して、前後二つに引き裂かれている、当然これらは飛鳥後期、奈良前期に包含せしめるべきものである。

 

 他に白鳳様式は存在しないとする論をのべている人には、源豊宗、小林剛、望月信成などがいる。源豊宗は先に紹介した論とほぼ同じ論であるが、小林剛や望月信成は、大化改新(六四五)以降を奈良前期と考え、全て初唐様式の影響により生じたるものとしているが(6)、小林の基準作例の選定の仕方や、諸像の様式的推定には、客観的にみて相当無理が有るとおもわれるので、ここに示すのはひかえておく。

(6) 「白鳳彫刻史論」「日本上代の彫刻」

 

 ここで白鳳様式の実態について論ずる前に我々はもう一度、時代様式というものをどう考えるべきか、間い直す必要があろう。ブェルフリンは、「美術史の基礎概念」の中において「各時代には、それぞれ特有の視形式があり、一定時代の視形式はこれと対立する他の時代の視形式との代替性をもたない。個性の異る作家も時代を同じくすれば、視形式において同じ盤の上に立つことができ、表現形式において共通の作風を見出す。」とのべ、時代様式の概念を表している。私自身としても時代様式というものは、ほぼこれに近い概念から出てくるものだとおもう。グェルフリンは視形式という言葉で時代様式を規定しているが、私は「視形式」という言葉を、はっきり理解しかねるので「造形感覚」という言葉でもって時代様式を規定することにしたい。即ち、同じ時代様式に属するものは、色々な形式でつくられたとしても、根底の造型感覚は変らないと考えるのである。

 我国、飛鳥白鳳期について、この事を考えてみよう。様式を個人が創造し得るかについては前にのべたのではぷく。この時期には、大陸からめまぐるしく色々な様式が流入してきた。即ち北魏様、斉周様、隋様、唐様、といった具合である。この大陸の様式と我国彫刻様式の関係はどう見るべきであろうか。私は、大陸からの様式流入が、我国の様式展開に大いなる刺激を与えた事はみとめるが、それが我国の造形感覚をつくったとはおもわない。一般的に様式の流入か造型感覚を創造すると考えるのはおかしいのではないか。もし様式流入が造型感覚を創造し得るなら、その様式もまた、何処かから流入してきた様式によりつくられたことになる。そうすれば一番最初にその様式を創造したところは、一体それを何処から学んだのかという、おかしげな結論に達することになる。現に我国においても、後の時代の様式は、一応大陸から学びながらも独自の様式をつくり上げている。

 このような問題がおこるのは、従来「様式」という言葉が、非常にあいまいにつかわれてきたからではないだろうか。即ち、「形式」と「様式」が同義のように扱われていることが多いのである。美術史において時代を区切り、その一つ一つに時代様式という名を冠して呼ぷならば、必ずその時代様式には、共通の造形感覚が溢出するものでなければならない。それ故、多様式が並存した時代様式という概念は成立し得ないのであり、もし多様式並存が有るとすれば、それは美術史上、時代様式を形造ることができなかった時期として区分をすべきである。

 我国美術史においては、天平以降、ほほ一形式一様式という枠で律することができた(正確には、こうはゆかないが)それ故、飛鳥白鳳期においても、一形式一様式でもって律せんとする考え方が強いのではないだろうか。私は飛鳥白鳳期のように、大陸から多種の様式が逐次短期間に流入した時期においては、多形式一様式という概念が成立すると考える。具体的にいえば、飛鳥様式は、前期は北魏式後期は斉隋式という二つの形式の流入によって成っているが、静的造型感覚によって一時代様式として成立しているのだ、というような事である。

 このようにして考えてみると、水野清一の白鳳時代は存在する論は(それが正しいとしても)我国において斉隋様の形式が行われていた時期を示したにすぎず、白鳳に一時代を画する様式概念は何であるのかは、全く示されていない。また安藤更生の論も、斉隋様と隋唐様の行われていた時期を示しただけである。久野健の論は、社会的政治的事柄によって、美術様式が規定されているのかとおもわしめるところが有る。つまり斉、隋、唐式が重なり合って展開するのが白鳳時代だといっているにもかかわらず、前期は飛鳥様式の余風が残り、後期に入っても興福寺仏頭には童児形のあどけなさが有り、薬師寺薬師三尊像には天平の先駆たる大人の表情がみられるとのぺている。久野は、白鳳様式とは、どういう概念で規定すべきか示しておらず、ただ政治的社会的要件によって、ここに一つの独立した様式をみとめたのか、ともおもえる。

 私は白鳳様式の始まりを野中寺弥勒像(六六六)に認めることに賛成である。金森遵はこれを飛鳥の亜流といい、安藤更生は、斉隋様最後の作品とした。しかしこの像においては、もはや私が飛鳥的と考える静的造型感覚を脱け出したものが有るとおもう。白鳳様式の完成は、興福寺仏頭にみてよいだろう。即ち私は、白鳳様式を、野中寺弥勒像にはじまり興福寺仏頭を頂点とするもの、としたい訳であるが、これが本当に一時代様式を主張し得るものかどうか、私自身断言し難いというのが実感である。ここに白鳳様式をみとめるとこの様式は相当短期間で完成したことになるし、また野中寺弥勒像と興福寺仏頭を繕ぷ線上に基準作例が全くないのである。しかし、興福寺仏頭には、単なる過渡的作品というよりも、奈良様式にはない一つの展型をおもわせるものが有るとおもう。これと同様のものとして、新薬師寺香薬師像、深大寺釈迦像を加えてよいだろう。

 これら白鳳様式は、飛鳥の静的把握に対して動的であり、写実的意図による、肉身の概念的、感覚的把握によるものと規定できるとおもう。即ち静的な造形感覚は脱したが、天平の写実的造型には達していない。肉身のモデリングは写実というよりは、むしろ観念による造形である。それ故、衣の下の肉身の造型はあいまいであるし、表情のつくり方も、動的把握はしているが写実とはいい難いものである。このような様式概念によって私は白鳳様式を認めたい。そしてそれは野中寺像にはじまり、ここに中宮寺弥勒像を含め、興福寺仏頭を頂点とし、類型を新薬師寺香薬師像、深大寺釈迦像に求め、当麻寺弥勒像あたりで終るものとしたい。

 金森は、これらの像を評して、その期間に生育しつくすことを得なかった様式的嫩芽であったとのぺているが、この論もまた一面において真実であろうとおもう。しかし嫩芽であったとしても、造型感覚は異るものであるから一応のところ白鳳様式をみとめておきたい。

 従来これら白鳳時代の展型的像の一つとして薬師寺東院堂聖観音像があげられていたが、最近、久野健がアイソトープによりこの像を調査した結果、この像の型持につく釘の形が金堂薬師三尊像に似ていることがわかり、氏は、同像の制作年代は意外に似かよった時期ではないかとのべた。型持の釘の形だけで制作年代をうんぬんするのは問題があるので、その問題は別にしてこの像をみてみると、その肉身のモデリングはやはり白鳳のそれをもっているとみられる。しかし瓔珞を実物の如く克明に刻出するところなどは金堂薬師三尊像に近いようでもある。ところでこの金堂薬師三尊像であるが、私はこれを様式上、文献上からも養老頃の制作と考えられ、あきらかに天平様を示すものだとおもっている。東院堂聖観音像の白鳳彫刻との最大の相違点は眼の形ではないかとおもう。私が白鳳様式の展型と考える像は、すべて下降を直線であらわし、上瞼をきれいに弧状に表現する。しかし金堂薬師三尊像など天平的なものは、下瞼を鋭く抑揚のある弧線で変化させて眼の型を表す。東院堂聖観音像の眼は、金堂薬師三尊像の方に近いようである。このような点を考え併せると、この像は天平的なものを指向してつくられた作品であろうとおもう。この像全体から受ける雰囲気も、完成した様式というよりも、新しい息吹を内に包んだ、みずみずしさが感じられるようにおもうが。

 以上、私は白鳳様式を、肉身の概念的把握によるものと考え、その始まりを野中寺弥勒像、展型を興福寺仏頭に求め、白鳳様式をみとめたい。はっきりと天平が表されるのは、やはり和銅頃の法隆寺五重塔塑像からで、薬師寺金堂薬師三尊像は、その後に続くものであろう。

 

 やっとのことで、飛鳥白鳳彫刻について書き終えた。今省るに、文は冗長に過き、論点定まらず、誠に、はずかしいものになってしまった。しかし、私の力量ではこれが、勢一杯のところである。また各々の像や技法の細かい説明を抜いてしまったため、非常に解りにくいところがあるとおもうが、これは紙数の都合上如何とも仕難い。この文が、飛鳥白鳳彫刻を考える上て少しでも皆の助けになれぱ誠にうれしくおもう。なお銘文、古文献の引用については、活字の都合上、できるだけ新字体を用いた。了承頂きたい。

 この文を書くにあたり、諸氏の論を紹介する為の典拠とした、主要な論文、書物のうち、何度も引用したため、その出典をしるさなかったものについて、まとめて、ここで出典を記しておくので確認されたい。これらは飛鳥白鳳彫刻を考える上で非常に参考になるとおもう。検索の便に供されれば幸いである。

 

足立 康 「白鳳彫刻に関する基礎的問題」

      考古学雑誌三十ノ五、日本彫刻史の研究、所収

安藤更生 「白鳳時代は存在しない」芸術新潮 昭和三十三年八月号

     奈良美術研究、所収

上原昭一 「飛鳥白鳳彫刻」至文堂刊

金森 遵 「飛鳥彫刻の構成」国宝五ノ二〜三

     「白鳳彫刻の可能性」国宝五ノ五

     「白鳳彫刻試論」国華五六七・五六九

     「白鳳彫刻私考」美術研究二一五、日本彫刻史の研究、所収

久野 健 「古代彫刻論」岩波講座 日本歴史三

     「法隆寺の彫刻」中央公論美術出版社刊

     「薬師寺」福山敏男共著 東京大学出版会刊

小林 剛 「飛鳥彫刻の二流派について」

      日本彫刻史研究所収

     「白鳳彫刻史論」日本彫刻史研究、所収

     「日本彫刻史」地人書院刊

田村隆照 「飛鳥彫刻の特殊性」京都市立美術大学紀要七

野間清六 「飛鳥白鳳天平の美術」至文堂刊

町田甲一 「上代彫刻史上における様式区分の問題」仏教芸術三八・三九

     「鞍作部の出自と飛鳥時代における止利仏像の興亡について」

      国華八八○

松原三郎 「中国仏像様式の南北」美術史五九

水野清一 「飛鳥白鳳仏の系譜」仏教芸術四

源 豊宗 「飛鳥時代の彫刻」仏教美術十三

望月信成 「日本上代の彫刻」創元社刊

     「薬師寺」近畿日本叢書

 

        

 
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