飛鳥白鳳彫刻の問題点

朝田 純一

 

    
第一章 我国に於ける仏教美術の受容態度について
第二章 中国に於ける仏像様式の変遷
第三章 飛鳥白鳳期に於ける基準作例について
第四章 止利様式と、その飛鳥時代に占める位置について
第五章 非止利様式の諸像−様式並存の可能性と飛鳥彫刻の終焉
第六章 白鳳様式の実態

 

 第四章 止利様式と、その飛鳥時代に占める位置について

 止利仏師の名は、法隆寺釈迦三尊の銘文や、書紀などに記されていることから、彼が当代一流の仏師であったことが知られる。止利自身については、別に詳しく論ぜられるとおもうので、ここではあまりふれない。

 彼は継体朝(五〇七〜五三三)の頃、梁から渡ってきた司馬達等の孫にあたり、漢人系の帰化人と考えられる。

 さて、その止利仏師によって代表される、止利様式であるが、その様式的特徴は、いうまでもなく北魏のそれを継承したものである。具体的には、頸が円筒形で長く、三道が表されていないこと、頭部は箱状を呈し、表情は杏仁形の眼、仰月形の唇により表されること、衣文線は、シンメトリックな処理をし、竜門様式を学んだものであること、造型が総じて平面的であり、浮彫的な表現ともいえるものであること、などが特徴として挙げられるであろう。また、止利様式の仏像としては、法隆寺金堂釈迦三尊像、戊子銘釈迦三尊像、綱封蔵観音像、夢殿観音像、四十八体仏中の数体、などを数えることができるであろう。

 このような止利様式の祖形、即ち北魏後期様式であるが、これは朝鮮においては、まず高句麗に伝った。その故高句麗初期の仏像は、北魏後期の造像とあまり年代差がないばかりか、北魏様式をそのまま継承しているようである。この高句麗の様式が百済を通じて我国に入ってきたと考えられる。(1)

 この止利様式が、主に飛鳥時代の前期において盛んに行われていた事は、まず間違いのない事実であろう。しかし、その止利様式が当時どのようにおこなわれていたかは、あまりあきらかでない。即ち、止利様式をどのようにとらえるべきか、止利様式は飛鳥前期の時代様式なのか、それとも止利個人の様式なのか、止利様式が飛鳥前期にあれだけ盛んに行われるようになったのは如何なる理由からなのか、など上代の彫刻史における止利様式が占めた位置を考察してみる必要が有るだろう。

 この問題について、多様式並存論者と否定論者で意見が別れる事はもちろんだが、否定論者のなかでも、止利様式のとらえ方はかなり違うのはおもしろい。ではいろいろな観点からみた止利様式に対する論を紹介しよう。

 まず多様式並存論者の止利様式に対する論をあげよう。

 

望月信成(日本上代の彫刻)

 飛鳥初期において我国彫刻界に名をなした作家は、多数存在していたと考えられる。止利は、その中の最も有名な一人であると考えるべきであろう。様式的にみれば、止利様式は北魏、北斉彫刻がそのまま百済に伝わり、我が飛鳥朝に伝来したものといえるだろう。止利様式は、この北魏式を忠実に倣ったものと考えられるが、その仏像が正面観のみに力をそそぎ、体躯、面貌が不自然にみえるのは、北魏磨崖仏の浮彫的表現をそのまま、金銅像や木彫像に用いたからで、またその表現を、そのまま模そうとし、誇張して表した結果にほかならない。

 

小林剛(飛鳥彫刻の二流派について)

 当代における仏教文化の移入は、全般的にはとんど朝鮮三国の範疇内にあったものと考えるべきで、我国最初の造仏工たる止利が、北魏様を享けて発達した朝鮮三国の形式をほとんどそのまま祖述しながら、遇々「天皇の御心に合った好仏像」と称されているのも、我国独自に創造し得た要素が何等なかったからである。止利様式は、一応北魏のそれを写してはいるが、構成要素として六朝から隋に至る様々な様式がおりこまれているようである。我国止利様の仏像のうち、辛亥銘観音像は、崇峻四年(五九一)、法隆寺薬師如来像は推古十五年(六〇七)とみるべきであり、法隆寺金堂釈迦三尊像、薬師如来像、夢殿観音像は、手法が著しく似かよっているので、止利自身の手になったものと考えてよかろう。辛亥銘観音像は全体として未完成的な要素の多い特色を示しているとみるべきであり、戊子銘釈迦三尊像は、止利によって完成された様式が、或る意味で進化しているとともに、また形式化のくずれを示しているものとみることができよう。

 このようにしてみると、止利派の様式は殆ど止利仏師一人によって完成されたものとみてよい。つまり止利様式は彫刻的には、余りに形式的に固く構成されているので、殆ど発展すべき何程の余地もなく、一度は当代第一の名匠止利仏師によってこの種のものとしては最高峰の名作も完成されたが、時代の進むに従って次第に様式のくずれを生ずるにいたり、当代に於いても案外早くその系統の命脈を終ったものと考えられる。

 つぎに多様式並存を否定する人の論をあげよう。まず様式的な問題から止利派の仏像の造立時期の前後関係をあきらかにしようとしているものを掲げる。

 

金森 遵(飛鳥彫刻の構成)

 まず法隆寺金堂薬師像は天智九年以後の造立、即ち白鳳期の作と考えるべきである。問題は夢殿観音像であるが、この像と法隆寺金堂釈迦三尊像とは外見が非常によく似ており似かよった時期の作ではないかとおもわせるが、実際に比較してみると、夢殿観音像は釈迦三尊像に比して、杏仁形の眼は随分やわらかになっており、仏身の微かな抑揚と共に、金堂薬師像に接近させる力を示している。衣文線も釈迦三尊像のぎこちなさを脱して流暢さを加えており、刻入も浅く鋭角的断面を失っている。このようなことから夢殿観音像は意外に下った時期の造立ではなかったかと考えられるが、しかし天智朝をはなはだしく超えることはないとおもわれる。

 辛亥銘観音像についてみると、外見上、綱封蔵観音像、夢殿観音像と同規であるが、手法上、綱封蔵観音より明瞭明に硬化していると考えられる故、これを遡り得ないことは確かであるが、夢殿観音像との比較は同方向に有るといえるだけで何ともいえない。

 つまり順次ならべてみると、法隆寺金堂釈迦三尊像が六二三年につくられ、その五年後に戊子銘三尊像がつくられた。その二十数年後の六五一年に辛亥銘観音像がつくられるが、綱封蔵観音像は、その少し前のものとみられる。夢殿観音像は辛亥銘観音像と同じ頃の制作とみられる、その後法隆寺金堂薬師像がつくられた、ということになろう。

 つぎに主に金銅仏の技法に注目し、その特徴や習熟度から止利様式というものをあきらかにしようというものをあげる。

 

久野 健(法隆寺の彫刻、古代彫刻論)

 止利の一族は、聖徳太子の仏教奨励や蘇我氏の推挙等と結びついて社会に進出してきたとみてよい。止利派という言葉であるが、これを広義に使う人は龍門様をひく飛鳥彫刻全体を指していい、狭義に使う人は止利様式直系の金銅像だけに用いる。私(久野)は後者の意味で止利派という言葉を使いたいとおもう故、夢殿観音像、辛亥銘観音像などは止利派には入れない。

 これらの止利派の仏像を技術的にみてみよう。法隆寺金堂釈迦三尊像の中尊は一度で溶銅がまわらず、膝や左肩の辺に穴があいてしまったらしく、外型をはずしてから再度銅を流しこんで仕上げている。また戊子銘三尊像は頭部の中型が一方に寄ってしまっており、綱封蔵観音像なども内部の銅のまわりが一様でない。このように止利の系統をひく飛鳥金銅仏は一様にきれいな仕上りをしていない。これは飛鳥初期には鋳造技術がまだ未熟であったことを示すものかも知れない。

 止利派の金銅仏は、他の金銅仏とはちがった技法を示している。即ち内部は頭部まで空洞にしたものぱかりで、中型土の心棒に鉄心をつかい、それが頭部頂上よりもつき出し、鋳造後中型土と共に抜きとったとおもわれる穴があるのである。これらの共通の技法上の特色は、ここに一つの製造技術を踏襲する止利工房というものが有った事を示すものとおもわれる。また多くの資料からみると、同作風の像は中型の形も同型なものが多く、当時はこうした鋳造技術の如きものは恐らく秘伝に属し、工房相互の技術的交流ということは、すこぶる少なかったことを意味するものであろう。

 このような観点から辛亥銘観音像をみると、この造像技法は、止利派共通のものとはちがい、中型の鉄心が像内に残ったままになっており、さらに台座と本体を別に鋳造している。このような特徴は白鳳時代に多く表れてくるものであり、様式的にもやわらかみを増してきているようである。即ち、この辛亥年は白雉二年(六五一)とするのが妥当であり、また技法が止利派のものとは違う故、これを止利派の発展形と考えるよりも、別の工房の制作と考えた方がよいだろう。

 法隆寺金堂薬師像は、様式的にみても時代が下ることが想像できるが、技術的にみても金堂釈迦三尊のような破綻がなく、一度で満遍なく溶洞がまわっており、内部も大変きれいに仕上っているので、よほど後の制作ではないかと考えられる。

 夢殿観音像の制作時期をどのあたりにおくかであるが、この点は簡単には決し難い。しかし、太子在世中(つまり金堂釈迦三尊像より前)の制作という説は拾て難いと考えられる。この像が金堂釈迦像脇侍と形式的に共通点が多いが、造形性において動的でありかなり異るのは、これをつくった工房が止利の工房とは別なもので、流派も多少異るものであるからであろう。ただ台座の蓮弁が白鳳期になってから、流行する胡桃形の複弁式を示すのが問題であるが、これは白鳳以後に当初の蓮台が傷み、とりかえたからと考えても良いであろう。(第二章、註(4)参照)

 

 以上止利様の仏像を様式的にみた諸々の論を紹介したが、ここで止利様式が飛鳥時代においてどのような位置にあったかを考察したものを紹介しよう。

 

町田甲一(上代彫刻史上における様式区分の問題、鞍作部の出自と飛鳥時代における「止利氏仏像」の興亡について)

止利様式とは、止利なる指導者下に造顕された法隆寺金堂釈迦三尊像によって代表される様式をいうのであって、これと異った様式特徴をもちながらも流派的に互にゲマインザームな様式特徴を有している一群をもいうのである。それ故、止利様式には、夢殿観音像、辛亥銘観音像、時代は下るが法隆寺金堂薬師像、旧御物中の数体をも含めて考えるべきである。久野健が夢殿観音を止利派のものでないと解しているのは、明らかに様式における個性的なものと、流派的なものを混同している結果である。

 さて時代様式というのは、如何にして創造されるのであろうか。

 それは一時代一流派を指導する天才的作家が新しい時代の要求に応ずる、或いは新しい時代の理想を最も的確に表現する「新様式」を、自らの「個人様式」として創造するのであり、この天才的芸術家に指導される多くの作家は、この「新様式」に強い共感を感じて惹きつけられ、類似の様式を展開させてゆくのである。これによって創造された様式が時代様式である。故に多くの作家によって作られた作品は、その間に異質のものがあるにもかかわらず、指導的天才の新様式の示唆によって生じた類似性が具体的にみとめられる。つまり「時代様式」といっても結局は指導的天才の「個入様式」に帰する訳で、その具体的特徴は当代の指導的天才の個人様式の特徴を摘記しているにすぎないのである。

 このようなことは、当然止利様式についてもいえる事である。

 この止利様(法隆寺金堂釈迦三尊)の仏本となったのは、甲寅銘光背に付属していたであろうような小三尊仏であろう。そしてこの様式系譜は、北魏末東西魏時代のものが、半島を通じてもたらされたと考えられる。その主な特徴は浮彫的表現にあるが、飛鳥前期はまた静視的視覚活動の時代だったから、この浮彫的表現が、純粋の丸彫り像にまで影響したのである。この表現は止利派についてというのではなく、飛鳥前期全体を通じていえることなのである。

 恐らく当時の日本人(帰化人としても、来朝より三代以上を経た人)仏師は、止利様式の仏像のみを造っていたのではないだろうか、当時、日本人仏師がそう多くいた筈はなく、且つ多くの流派を形造っていたとも考えられない。加えて当代の指導的位置にいたのも止利なのであるから、時代様式の考え方からしても、飛鳥前期の仏像様式は全て北魏後半のものを享けた止利様のもので独占されていたと想像される。即ち止利様式は推古、舒明朝頃最もさかんであった時代様式としての性格をもつのである。

 さて夢殿観音像であるが、これは推古期から舒明朝初年頃につくられたものとみて良いであろう。

 このように飛鳥前期を制していた止利様式が、何故後に姿を消してしまうのであろうか。それは止利仏師系のパトロンが蘇我氏であったからであり、止利系が蘇我氏と強く結ぴついていたからである。止利の系統は蘇我氏の推挙により社会的に進出してきた。それが大化の改新(六四五)により蘇我氏が亡んでしまうと、それと同じくして止利派の仏像が姿を消してしまう。つまり蘇我氏の滅亡が止利様式の衰退をもたらしたのである。そして止利様式は辛亥銘観音像(六五一)のつくられた七世紀半ばにおいて、その命脈を断ったものと考えられる。このころ止利様式にかわって非上利様式の仏像が行われるようになるのである。

 つぎに、止利様式は飛鳥時代全期にわたる時代様式であったとする説を紹介しよう。

 

野間清六(飛鳥白鳳天平の美術)

 止利様は、飛鳥時代の時代様式でありまた時代感覚であった、と考えるべきである。飛鳥の造形感覚の特色は、巨大さと堅固さと明瞭さ、その結果としての厳格さに有る。飛鳥時代の造型性には、まだ多分に巨大な古墳をつくった時の、巨大なるもの、即ち古代特有の明瞭性への憧憬が残っており、それに大陸の新しい造型理念としての整然とした形式美による堅固性が溶け合って、飛鳥様式の特徴ができたものだと考えられる。このように止利様式は当代の巨大性を求める古代感覚から発したものであり、飛鳥時代の感覚を反映したものとみるぺきである。

 以上、いろいろな面から止利様式と飛鳥彫刻についてみてきたわけである。

 さて止利様式と大陸様式についてであるが、特に法隆寺金堂釈迦三尊像については、従来服制、舟形光背やその文様、脇侍像の山形冠など、龍門石窟中の賓陽洞本尊や古陽洞の諸像と、すこぶる類似したものである、といわれてきた。しかしながらよく観察すると、北魏、東西魏の様式と金堂釈迦三尊像とはかなり異ったものがみられる。この点は今まで多くの美術史家によって指摘されてきた点であり、町田甲一は、厳密にいえば北魏仏と共通するの様式は浮彫的表現のみしか指摘できない、としている程である(2)。

 さて我々は、この北魏様式と止利様式との差異をどのように判断すべきであろうか。北魏様式は高句麗、百済を経て我国にわたってきた。つまり大陸の様式を直接受入れたわけではないのであるから、そこに半島の地方的要素の介在する余地は充分あり、北魏様と我止利様の差もそこで生ずることが考えられる。しかしながら、小林剛のいうがごとく、止利様は半島からもたらさせた様式を忠実に模しただけであって、大陸の様式と我国の様式の異る点はすべて半島の地方化されたものを、継承したからだという処理の仕方によって、この相方の差異の全てを解決して良いだろうか。半島化された様式が止利様にみられることは当然であろうが、我国様の造型感覚も「我国の仏教美術の受容態度について」のところでのべた如く、ある程度備っていたと考えられる点からしても、北魏様と止利様の差異のうち、ある程度を我国における「日本化」のもたらしたものとみるぺきではないだろうか。

 では「日本化」を金堂釈迦三尊像のどこにみるぺきであろうか。私は大陸の仏像様式については無知に等しいので、細かい事は全くわからないが、大きな目でみた場合、その日本化の原点を「調子のちがい」に求めるぺきだとおもう。即ち、金堂釈迦三尊像は先学にいわせれば、賓陽洞仏に比べて、衣文線ははるかにリズミカルであり、光背の調子もちがう。表情も初発性が感じられる、というのであるが、これらは半島の地方化されたものを伝承したというだけでは済まされないものであり、我国造型感覚の溢出したものというぺきであろう。

 このような差異を生み出した我国の造型感覚はどのように規定することができるだろうか。野間清六の論は少々行きすぎとしても、止利様式は静視的視覚活動のもたらしたものだとする町田甲一の論は、ほぼ従うべきであると考えられよう。しかし私は、この静的視覚活動は、止利様式にはじまったものではないとおもう。即ち、古墳から出土する埴輪も、この静的視覚活動の産物であるとみるのである。埴輪の造型をみてみると、人間にしてもいろいろな形のものがつくられているが、そこに、実物の感触を表そうとする意志、まさに動かんする動きを表そうとする意志は、まだみられない。何らかの動作を表現しながら、それは全く静止してしまっている。私はここに、埴輪の造型と仏像彫刻とを結ぶものが有ると考える。つまり私自身としては、静的視覚活動とは、ある物を表現するとき、その実物の感触や、動きを、丹念に表現しようとする意志が未だはたらかず、静止的把握によりその表現を行おうとするものである、と規定するからである。

 仏教美術受容の時期は、この静的視覚活動の時期であった。その時期に大陸から浮彫的表現をもった北魏様式が流入してきたのである。それ故我国では静的表現に適格であった浮彫的表現をそのまま受入れ、丸彫像においても平面的表現を行ったのであろう。

 つぎに様式はどのようにして創造されるのかという問題を考えてみよう。町田甲一は、天才指導家による個人様式が時代様式を創造するのだとのべているが、果してそうであろうか。私自身はそうは考えない。(この問題は別に詳しく論ぜられるとおもう)私のおもうところでは、一般的にいって(飛鳥期においてというのではない)表面的に個人様式が時代様式を創造したようにみえても、本質的には時代感覚が、時代様式をつくっているのだと信ずる。美術様式というのは、その当時の時代感覚、またそれの求めるものを反映して自律的に発展するものであり、個人がそこに介在し得るとは考えられない。たとえ個人が介在して表面的な変化がおこったようにみえても、それは様式の指向する発展方向を何らさまたげ得ないものてあると考える。つまり、ある様式をつくったといわれる、天才的、指導的作家といえども、当時の時代感覚そのものが、究極的に希求し、理想としていたものを表象したにすぎないのではないかと考えるわけである。故に順調な様式変遷過程においては、いくら新手法を携えた作家が、権力を背景としてあらわれようとも、その手法が時代感覚の希求するところのものとちがったならば、それは許容されないはずである。

 天才的作家と呼ばれる人は、その時代感覚を明確に把握し、その究極的に求めているものを先取りして表象した人である。と私は考える。町田の時代様式は個人様式を摘記したにすぎぬというような考え方は、美術様式発展の自己自律性を無視したものではないかと思う。つまり町田のいう、個人が時代を包含するというのではなく、時代が個人を包含するのだと私は考える。ただ注意しておかなければならないのは、(我国においては)美術様式の発展過程は上部構造の影響を強くうけている、ということである。いいかえれば上部構造の意識により美術様式が半ば規定されているのである、下部構造の意識と美術様式との関係、これをどのように解きあかすかは一つの課題であろう。話を飛鳥時代に戻して考えよう。先にのぺたような私の様式感が飛鳥時代に全てあてはまるとは考えていない。それは、飛鳥時代は仏像彫刻がはじめてつくられた時期である、という特殊事情によるものである。即ちはじめて仏像を我国がとり入れたとき、もはや、北魏様浮彫的表現−半島−蘇我氏の支持による止利様式、という図式が有ったことは否定できないのである。故に飛鳥前期においては、北魏様の浮彫的表現の仏像をつくるしか無かったのである。しかし我国の造型感覚による美術様式の自律性が根底にあつた事は間違いなく、その静的視覚活動において浮彫的表現を受入れ、日本化した造型をおこなったのである。それ故、たとえ別趣の形式が、当時我国に流入したとして、それを我国の様式自律性の中において処理したであろうことはいうまでもない。

 つぎに止利派とその工房についての問題を扱おう。止利の系統が蘇我氏とかなりの結びつきが有った事は史実の示すところであり、間違いのない事実であろう。問題は、この止利派以外の工房が、飛鳥時代前期に存在し得たかである。久野健は止利派の造像技法には共通の特徴が有り、また同作風のものには技術の似かよったものが多いことから、止利派以外の工房が有ったことも想定している。また上原昭一も技術の類似するものを具体的に示し、止利工房というものを想定している(3)。

 このように止利工房といような呼名をつかうことは、流派と時代様式とを混同するおそれがあるとおもう。即ち、これを如実に示すのが久野健の辛亥銘観音像に対する見解であり、久野はこの像が止利派の技法と異る為、止利派の発展形式とはみていない点である。これは止利派の工房というものを意識しすぎた結果ではないかとおもう。

 町田は飛鳥前期においては、日本人仏師は止利様の仏像のみをつくっていたにちがいないとのべているが、飛鳥初期の様式感覚を考えると当然のこととおもう。つまり最初は止利系によって喧伝されるという形をとった止利様式であるが、その形式と浮彫的表現による静的造型は飛鳥前期に時代様式となったものである。そうすれば飛鳥前期においては、全て止利系統ということも考えられるし、技法が伝播して時代技法となったとも考えられる。私がここでのべたいのは、飛鳥前期において、流派、工房などを安易に想定することば、様式理解の上から慎重を要するということである。

 止利派の衰退の原因は。蘇我氏が滅亡したことに大きく起因していることは確かであろう。しかし一様式の衰退をそのパトロンの滅亡だけで律しきれるものではない。そこには北魏様以外の様式が我国に流入してきたこと、我国の造型感覚がそれを受入れようとする方向に向かっていたことがあることを忘れてはならないだろう。このような状況が、蘇我氏の滅亡を契機として止利様式の衰退を加速度的にはやめるようになったものであろう。

(1)  高句麗から直接入ってきたとも考えられるが、現在百済からとする方が一応穏当のようである。
(2)  「上代彫刻史上における様式区分の問題」
(3)  「飛鳥、白鳳彫刻」

 

        

 
inserted by FC2 system