飛鳥白鳳彫刻の問題点

朝田 純一

 

    
第一章 我国に於ける仏教美術の受容態度について
第二章 中国に於ける仏像様式の変遷
第三章 飛鳥白鳳期に於ける基準作例について
第四章 止利様式と、その飛鳥時代に占める位置について
第五章 非止利様式の諸像−様式並存の可能性と飛鳥彫刻の終焉
第六章 白鳳様式の実態

 

第三章 飛鳥白鳳期における基準作例について

 飛鳥、白鳳時代を通じて、造立年代がはっきりと決定できると考えられる仏像は、極めて少ない。その理由は、在銘像は多いが、銘には干支しか記されていない事がほとんどで、見解の相異により、その造像年代に六十年の幅ができること、飛鳥白鳳様式の展開については種々の説が有るので、様式論で造立年次を推定するのに難点が多いこと、などによるものである。しかし彫刻史を考える上において、基準作例を検出することは、誠に重要なことであると思う故、ここで飛鳥白鳳期の作と考えられる仏像のうち、造立年代が推定し得るものについて諸説を含めてのぺてゆきたい。紙数の都合上、詳しい説明は全て省くが了承されたい。

 

 飛鳥寺金銅釈迦如来像

 この像については、日本書紀に、推古天皇十三年の四月に天皇をはじめとする発願により、丈六釈迦銅像、丈六釈迦繍像を、鞍作止利の手により造りはじめたが、この際に高麗の大興王が、黄金三百両を献じた。そして十四年四月に画像が完成し、これを元興寺金堂に安置した、と記されており、この丈六釈迦像が、現在の飛鳥寺本尊と考えられる訳である。即ち止利仏師の手により推古十四年(六〇六)につくられたことになる。ほぼこの説が一般的に受入れられていると考えてよい。また元興寺縁起にひく丈六光銘によれば推古十七年(六〇九)の造立となる(1)。

 最近、毛利久により現存像は、元興寺縁起にひく塔露盤銘にみえる、意如弥首辰星、阿沙都麻首未沙乃、鞍作首加羅爾、山西首都鬼、の四名により推古四年(五九六)に制作されたもので、書紀に伝える止利が制作した丈六の二像は、飛鳥寺東西金堂に安置されたものであった、という説が唱えられたが、(この説は久野健もほぼ首肯しており(3)、傾聴に値するものである。

 よってこの像は、推古四年(五九六)、推古十四年(六〇六)、推古十七年(六〇九)の、いずれかの制作という事になる。

 現在この像は破損がはなはだしく、目と額のあたり、右手先などに当初のものを残すのみで、基準作例としてはあまり参考にならない。また当初は三尊仏であったらしく、像の左右に円孔の痕跡がみられる。

(1) 福山敏男は、書紀に推古十四年とあるのは、丈六光銘の誤読によるものであり、推古十七年の制作とする方が正しいとのべている。

(2) 毛利久「飛鳥大仏の周辺」日本仏教彫刻史の研究所収

(3) 「古代彫刻論」

 

 法隆寺金堂金銅釈迦三尊像

 この像の造立年次は、その大光背に刻された銘文により、推古三十一年(六二三)であることが知られる。

 銘文は十四行にわたる長文であるが、その内容を要約すると、崇峻天皇四年(五九一)に蘇我馬子の建立した法興寺ができてから、三十一年目の推古天皇二十九年(六二一)十二月、聖徳太子の母后間人皇后がなくなられた。その翌年正月二十二年、上宮法皇(聖徳太子)が病に臥し、ひきつづき太子妃も床につかれた。そこで王后、王子、諸臣はこれを深く嘆き、発願して三宝に帰依し、上宮法皇と等身の釈迦像を造って、転病延命の祈願をこめ、もし不幸にしてこの世を去り賜はば、必ず往生菩提、浄土の冥加を結ぴ賜んことを祈願したが、二月二十一日に王后が先立たれ、その翌二十二日に法皇が薨ぜられた。ところで翌年(六二三)三月中に至って、かねての本.願の如く釈迦三尊像と荘厳具を敬造することになり、司馬鞍作首止利仏師に命じてこの像をつくらしめた、ということが書かれている。

 即ちこの像は、聖徳太子追福の為に推古三十一年(六二三)に、止利仏師により造られた像という事になる。この銘文については、大部分の人が像の制作時と同時に書かれたものだと考えており、これを推古三十一年(六二三)制作と決定できる貴重な基準作例とすることに異論なかろうとおもう。

 しいて異説をあげれば次のようなものであろう。福山敏男は、この銘文を後世の追刻ではないかと論じており(4)、佐和隆研は二等辺三角形の構成が余りにも完成しており、顔容も和様化しているとして制作の時代が下るものと想定している(5)。また、東西の脇侍の文様技巧に相異があるところから、小林市太郎は本尊、東脇侍、は時代の下るものであり、西脇侍は独尊像として焼けた斑鳩寺の本尊とされていたものではなかったかとしており(6)、田村隆照は、西脇侍は請来像であろう、とのべている(7)。

(4) 福山敏男「法隆寺金石文に関する二、三の問題」夢殿第十三冊

(5) 佐和隆研「上代彫刻史論」仏教芸術五十号

(6) 小林市太郎「上代彫刻史の展開三、四」史迩と美術二〇四、二〇五号

(7) 「飛鳥彫刻の特殊性」

 

 法隆寺戊子年在銘金銅釈迦三尊像

 この像には、光背裏面に次のような銘文が刻まれている。

戊子年十二月十五日朝風文

将其零済師慧燈為嗽加大臣

誓願敬造釈迦仏像以比願力

七世四恩六道四生倶成正覚

 この銘文から推察すると、推古三十六年(六二八)に、蘇我蝦夷が、蘇我馬子追福の為、その三回忌に造顕したものであろうと考えられる。この戌子年を推古三十六年(六二八)にあてることは、現在の処決定的とみて良いだろう。これについても福山敏男は、銘文の書体、像の様式の円熟などから、一干支遅らせた持続二年の制作とみるが(8)、今日ほとんど問題にされていない。

 また現在、脇侍像が一体残っているが、この脇侍像は、そのほぞ孔の位置が光背と合致しないことや、衣の一部が削りとられている事などから、本来中尊像に付属していたものかどうかは、多少疑問があり、脇侍像については基準作例とし難い。

(8)前掲、「法隆寺金石文についての二、三の問題」

 

 法隆寺金堂金銅薬師如来像

 その光背の裏面に銘が刻まれており、

池辺大宮治天下天皇大御身労賜時歳

次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大

御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然

當時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天

皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯仕奉

と判ずることができる。従来この銘文に従い、この薬師像は、用明天皇の意志をついで、推古天皇と聖徳太子により、推古十五年(六〇七)に造顕されたものであると考えられていたが、福山敏男が、この造像記に対して次のような疑問を提唱した。(9)即ち、天皇の呼称に宮号を冠するのは、奈良朝以前では過去の天皇においてのみ用いられる慣習である。天皇という語は、大化頃につくられたものであり推古十五年にあらわれる筈がない。また薬師信仰についても、大陸では北魏以来、隋に至るまでの造像銘に、薬師の名が見えず、我国においても天武朝に入ってはじめて薬師像が現われるのである。故に当時薬師信仰が有ったとは考えられない。当時の造像銘は全て願文体であるのに、ごの銘文だけが一種の縁起文であるのはおかしい。書体が時代が下るものと考えられる。以上のようなことから福山はこの銘が推古十五年(六〇七)に刻されたものとは考えられず、時代の下る作であろうと主張した。

 この論を批判する人もわずかに有る(10)が、ほぼこの論は信拠できるものと断じて間違いなかろう。つまり、光背の銘文は後世につくられたものである、と考えられる訳である。銘文によって、この像の制作年代を決定できないのであるから(11)、この像を基準作例にすることは到底考えられない。この像の制作時期については、白鳳期を朔らぬとする論者が多い。

(9) 前掲「法隆寺金石文に関する二、三の疑問」

(10) 主として国史家から、この像の造像記をみとめる説が提出されており、栗原朋信らが著名である。

(11) 銘文通り推古十五年の制作を主張する人に、小林剛、丸尾彰三郎(近畿日本叢書、法隆寺「法隆寺の彫刻」)などがいる。小林は「司馬鞍首止利仏師」(美術史二九)において、はじめ完成された様式として伝られたものは、その後形式化が著しく進むものであるとして、薬師像の柔かい表現を説明している。

 

 法隆寺金堂四天王像

 広目天像、及び多聞天像の光背に、各々次のような刻銘がある。

(広目天) 山口大口費上而次

     木二人作也

(多聞天) 薬師徳保上而

     鉄師古二人作也

とあり、これらの名前のうち、山口大口費については、日本書紀白雉元年(六五〇)の条に、孝徳天皇の詔により、山口直大口が千仏像を刻んだ(12)、という記事がでており、山口大口費が、朝廷関係の仕事に従事していた仏師であり、四天王の制作時期も、この記事のみえる白雉元年(六五〇)前後の制作ではないかと推定できる。

 しかし、一人の作家の活動期間は、二、三十年ぐらいは充分可能なわけであり、その間に作風も変化することが考えられる訳であるから、この像を安易に六五〇年頃におくことはつつしまねばならない。

(12)この千仏像は、玉虫厨子扉にはりつけてある千体押出仏のことではないか、とする説もある。

 

 旧御仏辛亥年在銘金銅観音菩薩像

 台座框の縁の二面に

辛亥年七月十日記笠評君名大古臣幸丑日崩去辰時故兒在布奈

太利古臣又伯在建古臣二人志願

という刻銘があるが、この辛亥にあたる年としては、崇峻四年(五九一)もしくは孝徳天皇、白雉二年(六五一)が考えられる。この像は、形式的には止利派のものを追う古様を示しているが、その形式は整然たるものを示し、写しくずれもあることや、技法の上からも相当進歩したものと考えられることから、白雉二年(六五一)の造立とする論者がほとんどである。基準作例の一つに加えても、さしつかえないものてあろう。

 唯、小林剛は、この辛亥年を崇峻天皇四年(五九一)とし、多少疑問の余地はあるが、様式手法や台座蓮弁が単弁の形式をとることなどから、崇峻四年とするほうがはるかに妥当であろう、とのべている(13)が閑却してさしつかえないとおもう。

(13) 「飛鳥彫刻の二流派について」

 

 野中寺丙寅年在銘弥勒菩薩像

 框座の周囲に刻銘があり

丙寅年四月大舊八日癸卯開記橘寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等比教可相之也

と、一行に二字ずつ刻されている。この丙寅年が天智五年(六六六)にあたることは、様式手法上、並びに暦法の考察から明らかである。即ちこの年の四月八日は癸卯であったのみならず、支那においては其の前年に新暦を採用したが、我国は之に従わなかったので、支那では四月が少であるが、我国では旧来の大にあたっていることを、四月大舊の文字が示している。このことからも、この像が天智五年(六六六)であることは間違いなく、何人もこれに異論はない、貴重な基準作例である。

 

 旧御物丙寅年在銘弥勒菩薩像

 四角な台座の框縁に刻銘があり

歳次丙寅年正月生十八日記高屋

大夫為分韓婦夫人名阿麻古願南旡頂礼作奏也

とあり、丙寅年に高尾大夫が、夫人阿麻古の為に造ったものであることが知られる。丙寅年は、推古十四年(六〇六)か、天智五年(六六六)のいずれかに当るとおもわれるが、この像を、そのどちらにあてはめるかは、諸説有って未だ解決をみない。それは、この像が止利派の仏像でないのにもかかわらず、初発的で古様な面を多分に含んでいるからである。その故、多様式並存論者でなくとも、この像を推古十四年(六〇六)にあてる人が間々有る。この像の制作年次の問題が、どの程度意見がわかれているかを知る為に、著名な論者が果してどちらの説をとっているか、整理してみよう。

推古十四年説−小林剛、望月信成、町田中一、上原昭一、毛利久

天智五年説 −源豊宗、安藤更生、野間清六、久野健、水野清一

推定できない−(渡来像に銘文追刻か)松原三郎、金森遵

 このように混沌とした状態である。

 まず推古十四年(六〇六)説であるが、この像が、様式手法からみて、飛鳥初期の特徴が表れており、この年におくことが最も自然であるとする小林剛、望月信成の論(15)は少々疑問が有るが、町田甲一が、この像は野中寺像と同年代の作とは様式上考え難いし、かなり半島的な感覚が感じられる、として来朝帰化人の手になるものではないか、とのべている事や(16)、上原昭一が、この像の表現形式には省略化ではない初発性が考えられ、単に古様をとどめているといった様式ではない、として、止利派とは別派の工房のものであろう、とのべて(17)、推古十四年(六〇六)の造立をみとめていることは注目すべきであろう。

 これに対して天智五年(六六六)説であるが、純様式的に考えると、こちらにおくほうが一応すんなりゆくようである。源豊宗は、三面頭飾をつけること、台座にかかる線が殆んど垂直にたれていること、眼や口の造型などが飛鳥前期の様式ではない、として天智五年の作であることは明らかであるとしている(18)。久野健は、源が指摘するような、様式的に時代が下る特徴をもつことや、非常に洗練された造型性を感じさせ、鋳技も巧みであることなどから、天智五年の制作を支持している。また、古様な面があるのは、当時の大陸事情により、新旧の様式が、どっと押寄せてきた為であろう、とのべている(19)。

 これらのどちらの説をも支持せぬ論であるが、松原三郎は、様式渡来としては、天智五年では、やや遅きにすぎるが、推古十四年とするのも若干の無理が考えられる。或は朝鮮における制作に日本で銘文のみを刻んだとみるのも一つの解釈方法である。とのべているし(20)、金森遵もこの像の実年代は頗る茫漠たるものであり、根本的問題はこの像が我国でつくられたかどうかという点にある、としている(21)。

 以上のように、この像の制作年代は容易に決し難い、確かにこの像は我国彫刻様式上にすんなりのりにくいものであり、渡来仏もしくは帰化人の作とする事も充分考えられよう。

(15) 「飛鳥彫刻の二流派について」、「日本上代の彫刻」

(16) 「上代彫刻史上における様式区分の問題」

(17) 「飛鳥白鳳彫刻」

(18) 「飛鳥時代の彫刻」

(19) 「法隆寺の彫刻」

(20) 「四十八体仏−その系譜について」古美術十九号

(21) 「飛鳥彫刻の構成」

 

 興福寺伝頭(旧山田寺講堂本尊)

 この像は昭和十二年に、興福寺東金堂の本尊台座の下から発見きれたもので、もと山田寺講堂の本尊であったものを、興福寺に移したものと考えられる。この像が、興福寺へ移された事情については、玉葉の文治三年(一一八七)三月九日の条に記されている如く、当時、治承の災害の復興に努力していた興福寺東金堂衆が、多大の無理を押して、丈六薬師三尊像を山田寺から奪いとったものである。即ち、本来、山田寺講堂に本尊として安置せられていたのである。その造顕については、上宮聖徳法王帝説の裏書の山田寺造営の事を記した文の末尾に、

戊寅年十二月四日、鋳丈六仏像、乙酉年三月二十五日、点仏眼

とあり、乙酉年、即ち天武十三年(六八五)に開眼されたことがわかる。この像は現在、その頭部のみしか残っていないが、制作年代が確かな像として貴重な存在である。

 なお小林剛は現在の東金堂両脇侍像もまた当初のものとしているが(22)、両者の様式手法を比較するに、脇侍像が仏頭と同年代の作とは考え難く、少々早計な論であろう。

(22) 「白鳳彫刻史論」また毛利久も同様の意見をのべていたようにおもうが、定かではない。

 

 当麻寺金堂弥勒像

 この像の制作年代に関しては、小林剛は、諸寺縁起集当麻寺の條や、その他の縁起により、この像は天武九年(六八一)から十四年(六八六)までの造立である(23)、としそれを認める人も居たが、足立康が、この小林論に対し、信拠した諸寺縁起集が仮名縁起で、その信憑性が薄いこと、また天武九年(六八一)の制作とするのは縁起の誤読によるものであることを示して駁撃しており(24)、その造立年次は推定し難い。他に、元亨釈書に依り天武十年(六八二)とする説や、西誉抄に依り、天武十三年(六八五)とする説もあるが、いずれも、引用文献が充分信拠できるものではなく、この弥勒像の実年代を文献的に認出するのは不可能といってよいだろう。

(23) 「白鳳彫刻史論」

(24) 「白鳳彫刻の基礎的問題」この論文は、小林の「白鳳彫刻史論」を駁するためにかかれたものである。

 

 長谷寺金銅法華説相盤

 これは鋳出しの本体に、押出しの千仏像を貼付けたもので、その下段に銘文が陰刻され最終三行に

歳次降婁漆兔上旬

道明率引捌拾許人奉為飛鳥

清御原大宮治天下天皇敬造

とある。この「歳次降婁漆兔」は、伴信友によって戌年七月であることが、解読されているが(25)、この像が押出し像で小さい事から様式上の推定がつけ難く、朱鳥元年(六八六)説、文武二年(六九八)説、養老六年(七二二)説、聖武天皇御宇説、宝亀元年(七七〇)説、藤原朝末説、などがあり粉々としているが、そのうち有力とみられる説を簡略に記してみよう。

朱鳥元年(六八六)説−文武二年説が現れるまで最も一般的に行われていた説で、現在支持する人も多い。これば、飛鳥清御原大宮治天下天皇というのは、天武天皇にあたると考え、その戌年、即ち朱鳥元年丙戌につくられたものだとする説である。

文武二年(六九八)説−足立康により唱えられた説で(26)、朱鳥元年とすると、銘文の示す七月上旬には、天武天皇は末だ皇居を、飛鳥清御原と称していず、それは、同年七月下旬のことであるから、天武天皇が、飛鳥清御原大宮治天下天皇という名で呼ばれる筈がない。この銘文の示す天皇は、戊年、即ち文武二年(六九八)戊戌に、太上天皇であった持統天皇の事である、として文武二年造立を主張した。この両説は現在有力なもので、朱鳥、文武のいずれかをとる人がほとんどである。

宝亀元年(七七〇)説−福山敏男により唱えられたもので(27)、銘文にみえる僧道明の名が三代実録の中にあるのに注目し、道明の活動年代の考証から宝亀元年庚戌とするものである、

(25)金森遵「長谷等法華説相像において」考古学雑誌二十七ノ十、日本彫刻史の研究

(26)「白鳳彫刻の基礎的問題」

(27)福山敏男「長谷寺金銅版千仏多宝仏塔について」考古学雑誌二十五ノ三

 

 鰐淵寺壬辰年在銘金銅観音像

 框座の側面に次の刻銘が有る

壬辰年五月出雲国若倭部臣徳太理為父母奉作菩薩

 これにより、壬辰年、即ち持統六年(六九二)の制作であろうと推定でき、この年においてほぼ間違いないようである。しかし銘文にもみられるように、出雲という避地でつくられた像である為、その制作年代をもって、この像を中央の様式にあてはめることは、慎重を要する。

 

 薬師寺金堂金銅薬師三尊像

この像の制作年代については諸説有り、未だ解決をみていないことは周知のことであろう。この像の造顕年代の考証は、明治時代から膨大な量に達しており、到底ここで概説することはできない。ここでは、一応のところ近年出されている諸説の結論だけを記しておくことにする。

 まず、薬師三尊像に関係するとおもわれる点を薬師寺の経緯からひろってみよう。薬師寺の創立は、日本書紀天武天皇九年(六八○)の条に

皇后不予、則為皇后誓願之、初興薬師寺、仍度一百僧、由是得安平、是日赦罪

とあり、内容が薬師寺東塔擦銘とも一致することから、この年に発願されたと考えられる。しかし擦銘に「而鋪金未遂竜駕騰仙」という言葉があり、天武天皇の在世中には、造営はまだ完了しなかったようである。

 書紀、持統二年(六八八)正月丁卯の条に設無遮大会於薬師寺とある。これによって、当時薬師寺造営に関して、何らかのことが有ったとみられる。

 その後、持統六年には講堂に、阿弥陀の繍帳が施入されており(28)、当時講堂が完成していたことがわかる。書紀によると、持統十一年(六九七)の紀に

六月辛卯(二十六日)公卿百寮始造為天皇病所願仏像

七月癸亥(二十九日)公卿百寮設開仏眼会於薬師寺

とあり、持統十一年に、仏像が造られていることがわかる。

 そして、この翌年、文武二年に、藤原京木殿にたてられた薬師寺の造営は、ほぼ完了したようである(29)。

 八世紀に入って平城遷都(七一〇)が行われ、それにともない養老二年(七一八)に、薬師寺も平城京に移転してくる(30)。これが移建であるか、新造営であるかは別として、天平四年(七三二)ごろまでは、平城薬師寺の工事が行われていたようである(31)。

 さて薬師三尊像についてであるが、いうまでもなく従来、持統十一年(六九七)造立移坐説と、養老新鋳説があって、いろいろ論議されてきたが、近来これに持統二年(六八八)説や大宝年間説が加った。この像の制作年代をどうみるかは、この時代の彫刻観を左右するものであり、極めて重要な問題である。

 持統二年(六八八)説−小林剛が昭和三十三年頃に唱えたもので(32)、薬師寺で無遮大会が行われたのは、当時もう本尊が完成していたからである、その本尊が現薬師三尊像であるというものである。

持統十一年説−従来よく行われていた説で、明治年間に黒川真頼によりはじめて唱えられたものである。即ち、書紀、持統十一年の条に、天皇の為に仏像をつくった、と有るが、これが、天武天皇御願の仏像であるとし、また縁起に、像はもと高市本薬師寺にあったものを、車にのせて五ケ日を要し、西ノ京に移した、と説いてあるのを引用して、この像が西ノ京薬師寺に移坐されたのだ、とする説である。この説は、後に喜田貞吉に支持され(33)、近年、久野健が、本尊台座の修理の結果をとり入れ、新しくこの説を主張した(34)。久野は、台座の中框の上方を切断していること、その上の上框の内部に丸石をのせていること、上框の内部に和銅開称がおかれてあったこと、などは、本尊移座の際に行われたものだとし持統十一年説の根拠としている。

大宝年間(七〇一〜三)説−田村吉永により提唱されたもので(35)、薬師寺は最初、藤原京木殿ではなく、飛鳥岡本にあったのであり、持統二年の無遮大会は、その岡本宮薬師寺の本尊完成を示すものであったとし、また持統十一年の記事は東院堂聖観音の造立を示すものであり(36)、現存像は、その後、藤原京木殿に移された薬師寺において、鋳造されたもので、大宝年間の大政宮処分に「造塔丈六二ノ宮准司」という記事がその根拠となる、という説である。

養老年間(七一七〜七二三)新鋳説−岡倉天心により最初に唱えられたもので、様式の上からみて講堂三尊より後れるものとみられるとした。続いて伊東忠太、関野貞(37)なども、様式論的立場から新鋳説を主張した。また足立康は、文献学的立場により、本薬師寺から西の京へ像を運んだという縁起の記事は、後につくられたものと考えられ、信拠に値しない。保延六年(一一四〇)の大江親通「七大寺巡礼日記」の記載などから、平安時代には木殿の本薬師寺にはなお堂塔が存在していることがわかり、本尊のみを移坐したとは考えられない、として養老新鋳説を主張した(38)。

 近年の久野健の説に対しては、町田甲一(39)や野間清六が、これに反対する論をのべており、中框を切断しているのは、町田によれば、鋳造の際、スができたから切断したとし、野間は、中尊が高くなりすぎた為としている。

 現在では、この養老新鋳説を支持する人が多く、文献的な面や、様式的な面からみてもまず妥当なものといえそうである。

(28) 僧綱補任抄、薬師寺縁起による

(29) 続日本紀、文武二年十月四日の条

(30) 薬師寺長和縁起

(31) 続日本紀

(32) 「薬師寺国宝薬師三尊等修理工事報告書」及ぴ「奈良の美術」創元社刊

 小林剛は以前は持統十一年説をとっていたが(「薬師寺金堂の薬師三尊像について」仏教芸術五号)、久野説のあらわれるのと、殆ど時を同じくして持統二年説にかわった。

(33) 喜田貞吉「記録上により薬師寺金堂三尊の年代を論ず」史学雑誌十六ノ五

(34) 久野健、福山敏男共著「薬師寺」東大出版会刊、

 久野健は従来、養老新鋳説をとっていたが、台座の修理の結果をとり入れ、従来の説を撤回して、旧仏説をとるにいたった。

(35) 田村吉永「薬師寺堂塔本尊造立新考」仏教芸術十五。「薬師寺再転考」史迹と美術二一九

(36) 田村吉永「薬師寺東院堂聖観音像考」美術史十三

(37) 関野貞「薬師寺金堂及講堂の薬師三尊の制作年代を論ず」史学雑誌十二ノ四

(38) 足立康「薬師寺金堂本尊の造顕年代」日本彫刻史の研究

(39) 町田甲一「薬師寺」実業之日本社刊、「天平様式と薬師寺金堂三尊」国華七九九

(40) 野間清六「薬師寺の彫刻」近畿日本叢書薬師寺所収

 

 以上、飛鳥白鳳期の基準作例についての問題を、概観して来た訳であるが、結局その造立年代に疑問の余地がないと考えられるのは、法隆寺金堂釈迦三尊像、法隆寺戊子銘釈迦三尊像、野中寺弥勒像、興福寺伝頭、の四体だけということになる。それに、辛亥銘観音像、鰐淵寺観音像を加え得たしても、誠に数が少く、我々は、これを様式論によって、補わなければならないであろう。

 

        

 
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