飛鳥白鳳彫刻の問題点

朝田 純一

 

    
第一章 我国に於ける仏教美術の受容態度について
第二章 中国に於ける仏像様式の変遷
第三章 飛鳥白鳳期に於ける基準作例について
第四章 止利様式と、その飛鳥時代に占める位置について
第五章 非止利様式の諸像−様式並存の可能性と飛鳥彫刻の終焉
第六章 白鳳様式の実態

 

第二章 中国における仏像様式の変遷

 我国の仏像について色々と検討する前に、飛鳥白鳳期の彫刻が強く影響を受けた、中国の仏像彫刻の様式を簡単にみてみることが、必要であろう。何しろ私は中国の仏像様式については、ほとんど知らないので如何ともし難い。ここでは水野清一の「飛鳥白鳳仏の系譜」を主として紹介するのみにとどめておきたい。

 中国の仏像様式については従来、割合大まかなつかみ方しかされていなかった。例えば六朝様、斉隋様、唐様、といった分け方である。これは中国の仏像の研究が、地域的な問題もあり、詳細になされ得なかったことにもよるとおもう。これに対して、水野清一は中国の仏像様式について詳細な検討をして、大まかであった従来の様式区分を細かく区分した。この水野の様式区分については、余りにも詳細に過ぎるのではないか、という批判も多々有るが(1)、我国への様式系譜を知る上に、非常に参考になるとおもうのであえてここに示したい。

 まず中国における仏像様式の変遷を区分すると次のようになる。

魏、晋時代(220〜316)
  これらは漢の亜流である

五胡十六国時代(317〜420)
  混乱、過渡期である

南北朝対立時代(420〜588)
  北方は北魏、東西魏、斉国と立ち、南方は、宗、斉、梁、陳と立つ

北魏第一期(420〜460)
  ほとんど、これという造像はない。

北魏第二期(460〜493)
  洛陽遷都までで、雲崗石窟経営時代

北魏第三期(493〜535)龍門時代、雲崗小石窟にも遺品有り。

東西魏時代
  ほぼ龍門様式の継続である
  例えば、天竜山第二、第三洞、響堂山東方仏龕、など、これらはいくらかの変化は
  有るしても、龍門様式の中に含めてもよい。

斉国時代
  斉周様、天響様ともいい、龍門様とは違った全く新しい空気だといえる。
  例えば、天竜山第十、第十六洞、響堂山第一〜七洞、南、中、北洞など

隋時代(589〜616)
  隋様式もしくは、雲門様とよばれる。例えば、山西天竜山第八洞、
  河南龍門賓陽南洞、雲円山、駝山
  この斉周様と隋様は、龍門様とこの次にくる唐様とを対立させて考えたときには、
  斉隋様式と一括して、その過渡期ともみることができる。

唐時代(618〜)

 以上が水野清一による中国北朝を主体とした様式区分である。南朝については遺品が乏しい故、よく解らぬが検討が必要であるとのべている。これらの様式の内容について水野の論を中心にみてゆこう。

 まず雲崗様式であるが、この仏像様式は、我国に何等影響を及ぼさなかったとみてよい(2)。その理由は、長広敏雄がいう如く(3)、太和十年(四八六)に北魏において、孝文帝による服制改革が行われているが、それが仏像の着衣の形式にも表れ、改革以前は、初期曇曜諸窟にみられるような西方直模的なガンダーラ、グプタ式の着衣形式をとり、改革以後は北魏形服制の着衣形式をとっているのである。そして我国の仏像の服制を見るに、雲崗様の服制形式の仏像は全くないのである。この事から、雲崗様式は直接我国には影響を与えなかったことが理解できる。

 つぎに龍門様式であるが、この様式と我国止利様式が類似するものであることは、周知の事であろう。即ち、浮彫的表現、シンメトリックな処理など我国止利様式にみられる様式が龍門様に近いと解釈して良いとおもう。その典型としてよくあげられるのが、賓陽洞本尊である。龍門様の特徴として大きな、かけもが、あげられるが、大きなかけもは500〜525年頃最も盛んであり、龍門様でも古い諸仏や、雲崗の仏像では、かけものたれ下ったのが一重で、左右にひれのようなものが出ている。ひれがなくなり、二重、三重となるのは永平頃(504)からであると考えられる。

 東西魏の時代に、鰭状授帯や×字形に交わる天衣など、法隆寺釈迦三尊脇侍像にみられるものがよくあるが、これらは龍門様をそのまま伝承したものとみてよいであろう。また蕨手垂髪は斉周に入らなければみることができないが、これも龍門様にあったものとみてよい。いずれにせよ東西魏時代ば、龍門様をそのままうけついだと考えるべきである。斉周時代に入ると、今までの様式をやぶった新しいものがでてくるのであるが、その特徴の主だったものに、三面宝冠をつけること、瓔珞が豊富になってくること、冠帯、授帯が必ずしもシンメトリックではなく、線の表現が自由になってくること、衣端がはねかえらず垂下すること、面相が丸くなり表情が平明になること、肉付がゆたかになり胴が少々くびれてくること、光背が円光もしくは、火焔をのせた円光になること、等が挙げられる。即ち、斉周の時代は、龍門様が変革に動きだした時期ともいえるであろう。

 隋になると、三面宝冠はもっと装飾的なものとなり、宝飾が加って円筒に近い宝冠もでてくる。肉付も豊かになり、腰のひねりも大きくなってくるようである。

 具体的な様式の変化についてはこのように考えられる。しかしこの説明では抽象的でわかりにくいとおもわれるので、水野清一の中国の様式と我国仏像との対比をここに示して一助としたい。

龍門様式−法隆寺釈迦三尊をはじめとする止利派の仏像

斉周様式−法隆寺四天王像がそのはじまりで百済観音、など

斉隋様式−野中寺弥勒菩薩像

隋様式 −鶴林寺観音像、鰐淵寺観音像

唐様式 −薬師寺金堂薬師三尊像

 ところが、この中国からの様式系譜では、どうも説明のつきにくい点が存在するのである。その一つは螺髪である。これは我国の如来形の仏像には、ほとんどそなわっているものであるが、中国龍門期の仏像は全て素髪なのであり、天響期に入って、やっとその例をわずかではあるが、みることができるのである。我国は螺髪を朝鮮から学んだと考えられるのであるが、一体朝鮮はどこからそれを学んだのであろうか。水野は偶然にも龍門末期のものから学んだのか、南朝あたりの伝統なのか、わからないとのべている。

 もう一つは、両手に宝珠を執る形式である。我国では夢殿観音像、辛亥銘観音像などにみられる形式であるが、中国では斉隋様の頃にならねぱ現れない。水野は龍門においても、この形式が有ったのではないか、としているが、南朝様の存在を主張する松原三郎は(4)これは南朝独特の形式である、とのべている。

 さて南朝様式についてであるが、北朝様に対する意味での南朝様が本当に有ったのかどうかは、疑問が多い。文献の上では、南宋、南梁などにおいて、多くの造仏が行われていたことが知られるのであるが、今日現存するものは極めて少ないのである。松原は、南朝においては乾漆像、木像等が流行していたので遺品が少いのであり、南朝様の特徴としては、北朝様のように平面的ではなく表現がやわらかで、写実的なことがあげられる。このような特徴は、我国非止利派の仏像にみられるものである、とのべている。しかし南朝様の例として挙げられるものは、元嘉十四年銘及び、劉宋元嘉二十八年銘の金銅仏であるが、この二体だけでは、その様式を論ずるのも少々困難といわざるを得ないであろう。 

(1) 安藤更生、毛利久などが指摘しているが、これは水野が考古学専攻の為かとおもわれる。野間清六が「飛鳥白鳳天平の美術」において、次のようにのべているのは傾聴に値する。

「最近は中国における彫刻研究を反映して系統を余りに細分して源流を考えすぎるのではないだろうか。中国における彫刻様式の展開がまだ的確にわからぬ今日では、まだ時機尚早といわねばならない。また各地各時代のものが伝えられたとしても、大切なことは、その様式がどこから来たかという事ではなく、どのような波にのり、いずれの方向に流れてゆくかである。

 以上のようにのべているが、この論は我々が良く胆に命ずべきだとおもう。我々が彫刻史の問題をとり扱う際、様式の源流に対する詳細な検討も必要であろうが、これはややもすれば末梢主義に陥りやすい。

 この時代の彫刻史において最も大切なことは、その様式が我国においてどのように展開し、どのような特色にもつようになったか、であることを忘れてはならない。

(2) 小林剛は「御仏金銅仏」において、雲崗の仏像を、我国の仏像との比較にもちいているが、水野は、これを小林の中国北魏様式に対する誤解から生ずるものとしている。この水野の論は、ごく至当なものであると考えられる。

(3) 長広敏男「大同芸術論」仏像の服制

(4) 松原三郎は、北魏様式と対立する様式として南朝様式が存在したと主張している。ここでは主に「中国仏像様式の南北」によったが、他に「中国仏教彫刻史の研究」などで詳しく知ることができるだろう。なお松.原は最近国華に「飛鳥白鳳仏源流考」という論文を連載中である。少々目を通したにすぎないので詳しく紹介できないが、その中で、久野健が白鳳頃に流行するものに似ているとする、夢殿観音の台座蓮弁の形に酷似した台座をもつ像が、梁の年号をもつものから発見されたことが、のべられていたことを付加しておく。 

 

        

 
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