飛鳥白鳳彫刻の問題点

朝田 純一

 

    
第一章 我国に於ける仏教美術の受容態度について
第二章 中国に於ける仏像様式の変遷
第三章 飛鳥白鳳期に於ける基準作例について
第四章 止利様式と、その飛鳥時代に占める位置について
第五章 非止利様式の諸像−様式並存の可能性と飛鳥彫刻の終焉
第六章 白鳳様式の実態

 

 第五章 非止利様式の諸像様式並存の可能性と飛鳥彫刻の終淵

  一般に飛鳥時代の非止利様式の仏像といわれているものには、法隆寺百済観音像、法輪寺虚空蔵菩薩像、法隆寺金堂四天王像、中宮寺弥勒像、広隆寺弥勒像などがあげられるであろう。しかしこれらは非止利様式とはいうものの、止利様のように一つの形式によって律することができるものではなく、種々の形式をもっている。非止利様式という言葉は、止利様式以外のもの、という意味で用いるものである。従来この非止利様式の仏像の扱い方については、一つの争点が有る。即ちこの非止利様が止利様式と同時に行われ得たかどうかの問題で、様式並存論者は北魏様に対して南方様式が有ったことを主張し、それらが同時に我国に流入したのだとする。しかしこの論に対しては幾多の駁撃が行われている。そこでここに多様式並存論とその反論を紹介し、もう一度、多様式並存の可能性の有無を点検してみたい。

 つぎに非止利様式の仏像は、大陸の様式のどのような系譜をひいているか、我国彫刻史上、それらをどのあたりにおくことが様式上妥当なのかを考えてみよう。

 

 多様式並存の可能性

 まず飛鳥時代初期において多様式の並存は有り得たとする論を紹介しよう。

 小林剛(日本彫刻史、飛鳥彫刻の二流派について)

 我国の非止利様式は百済を介して伝承された南梁系のものである。もっとも当代は中国は隋に統一されていたから隋様と呼ぷべきかも知れない。これらの像が止利派にまさる作域をこしらえているのは、造顕年次の前後によるものではなく、大陸における南北両様式の差異に基くものである。我国は大陸の様式を半島から受入れたのであるが、当時の半島の様式は六朝末期から隋代にいたる諸々の要素を含んだものであった。即ち、北魏様をうけた止利的なものと、支那中央部の様式をうけた正統派の二流派の要素である。この二流派の中心様式たる、北魏北斉などのものは、支那彫刻史に於ては明らかに年代の差異を示しているが、これが朝鮮三国に摂取されている間に、自然に年代の差異を消失して、唯異なれる二様式として行われていたものとおもわれる。このような朝鮮三国の様式を我国が受入れたわけであるが、我国内においては、様式を独自に創造し得たとは考えられないので、この朝鮮の様式をそのまま受容したのである。このような状況において二様式が入ってきたと考えられる故、我国の止利様式、非止利様式の間に年代的な隔りが有るとは考えられない。 また非止利様のものとして時期の下る法隆寺金堂四天王が他のものに比べて固い感じを与えるのは、当時入ってきた様式が、はじめから完成された様式として伝えられたからで、このような場合、初期ほど多様性がみられ、後になるほど、その形式化が薯しくなると考えられるからである。

 

 田村隆照(飛鳥彫刻の特殊性)

 飛鳥時代の実際の姿は、仏教の伝来に伴う仏像の舶載、造像技術者など外来人の渡来、かれらによる日本における仏像の制作など、間断なき大陸や半島からの影響をうけ、いわばそれら先進国の様式のふきだまりとして多くの要素をその中に含んで形成されたものだとおもわれる。飛鳥時代の彫刻を単一の様式とする無理を排して、孝徳朝をも含める幅広い年代に多様式並存をみとめることが、先ず正しい認識を生む第一歩と考えられる。

 

松原三郎

 小林剛のいうように、中国において様式年代が異るものが、半島において年代差をなくした、という見方をしなくても、北魏末期時代に南梁を中心とする様式が別に百済に流入していたと考えればよい。これが非止利様の原型となったものである。即ち北魏末期には、南梁様式が厳として存在していたのであり、中国においても、北魏様と南梁様の二様式が並存していたのである。それが南梁と交渉のあった百済を通じて我国にもたらされたのである。両手で宝珠をもつ形式、螺髪などは、その南朝様式の特徴というべきものである。

 

 このような多様式並存論に対する反対論をつぎにあげよう。この反対論は、主として小林論を論駁したものが多い。ここでは、なるべく反対の論拠について重点的にとりあげる。

町田甲一(上代彫刻史上における様式区分の問題)

 当時は、大陸の影響が専ら半島を通じてもたらされ、直接には、ほとんど影響されなかったと考えられるので、大陸において北魏末東西魏様式よりも遅れて展開した斉周隋様式の我国への波及も、前者の東漸より多少遅れて行われたと考えるべきである。推古、舒明朝の頃にも大陸との直接の交渉が、遣隋使、遣唐使の形であったことが知られるが、これが美術の面に大きく影響したとは考えられない(1)。それ故、斉周隋様式の我国への波及は、北魏東西魏の様式伝来と同様半島経由であったにちがいなく、両者の我国に及んだ時差は全く否定し難いことになろう。従来、止利様式と非止利様式が我国に於いて同時に行われたと主張する人々も少くなかったが、私(町田)は、先のような点から北魏末東西魏様式をうけた止利式仏像と斉周隋様式の影響をうけた非止利式仏像との関係を時間的に多少前後する関係として理解している。止利様式の範畷に属さない飛鳥期の仏像様式を大陸において北魏と対立する南梁の様式を受けたものであると考える人も少くなかった。しかし南方系の確実な仏像ばその例に乏しく、南宋元嘉銘のある二像が上げられるにすぎない。これらは成程、北魏の様式とかなり異った感じをもってはいるが、その具体的な様式は我国止利式仏像と百済観音系仏像とが示すような関係で北魏式のものと対立する様式とは到底考えられない。またこれら元嘉銘の像と我が飛鳥時代の非止利様式仏像との間にも様式的に親近性を認めることは出来ないようである。

 従って北魏式−止利氏、南梁式−非止利氏という図式は今日の段階では問題とならないとみてよいだろう。

 

(1) 第一章、註(1)でも少しふれたが、石田茂作も、岩波講座日本史の「仏教の初期文化」において次のようにのぺている。「従来の仏教文化は朝鮮半島を通じての、支那、六朝文化であったが飛鳥時代の終り頃から直接隋唐の仏教文化へと転向をはじめた。尤も此の気運は遣隋使、留学生の派遣に源を発しているけれども、当時の遣隋使は儀礼的であり、留学生は間もなく隋末の乱にあって文化移植の使命を果たすに至らなかった。隋亡びて唐の世になり、文物備わるに及ぴ、彼我の国交新たに開け、遺唐使の往復、留学生の帰朝相次ぐに従い、唐の文化は次第に我に流入された。

 

水野清一(飛鳥白鳳仏の系譜)

 小林剛が「御物金銅仏」において北魏は結局拓跋族による地方的文化を有していたに過ぎなかった。中部正統様式は斉周様である、とのぺているのはどういう訳であろうか。天下の中心洛陽に都し、漢魏晋の伝統の保持につとめ、洛南龍門に石窟寺を営んだ北魏が地方文化にすぎぬとすれぱ、一体何が地方文化であろうか。小林剛は我国の仏像は全て受身の形でとり入れたのだから、として止利様、非止利様の全てを同時期に入れ、様式が並存したという一種の様式混乱時代を想定しているが、この説の最大の欠陥は、遡らせる新様の仏像に年代の確かなものが一つもないことである。

(2) 小林剛の論は「御物金銅仏」でのぺたものと、その後のものでは少々変ってきている。即ち、「御物金銅仏」では北魏様に対する南梁様を明確に主張していたのであるが、その後、南梁様を隋様に含まれるものとして明確に主張していない。それ故ここではその後の小林論にもみられる点だけをあげて、その水野による駁論を紹介した。

 

野間清六(飛鳥白鳳天平の美術)

 飛鳥様式の多元説は、様式に時代差の有るものを同一時代のものと認めるために他に解決の方法がないからである。しかしこの多元説は、南梁様式及びその半島への流伝経路があきらかでない以上、南梁様式の影響とはいえず、また高句麗や新羅の様式に地域差があったことが明らかにされない以上、その為だともいえない欠陥が有る。また、よし舶載された仏像の様式が多元的なものであったとしても、これを受入れる側が果して雑然と受入れたかが問題である。我国では仏教こそ新しく飛鳥時代に受入れたが、大陸文化そのものは既に数世紀前から受入れていたのであり、造型感覚そのものの発展には既に秩序的なものが出来上っており、時代感覚の異ったものが同時につくられることは、不自然といわなけれぱならぬからてある。非飛鳥的(非止利的)作例を時代の下るものとみれぱ、多元説をとる必要はないのであり、より合理的であるといえよう。

 

 このほかにも様式並存について意見をのべている人は多いが、ここに挙げた論と大差ないとおもうので省略する。以上が多様式並存反対論の概容である。

 まず第一に北魏様に対する形として南梁様が存在がしたかどうかであるが、南方系の造像がほとんどないこと、また町田のいうごとく、その止利様との類似が明確に指摘できないこと、などから南梁様が存在したのだと明言することば困難であるといわざるを得ない。南梁様の存在を指摘する論は、南梁様式が有ったから非止利様式が現れた、という論理のつくり方ではなく、我国に北魏東西魏の様式で解決できないものがあるので、大陸にもその様式のもとになるものがある筈であるというので、南梁様という様式をつくりだす、という逆の論理が働いていると考えられる。このように考えると、現在のところ南梁様の我国への直接的影響は考えなくてもよいという結論に達するであろう(3)。

 つぎに、斉周、隋様が大陸から直接もたらされた可能性であるが、水野清一は推古朝は隋代であり、相互に交通が有ったから隋の仏像が請来されたであろう。また朝鮮の斉隋様の金銅仏はあまりに地方化していて我国の仏像との橋渡しを考えるに不充分である、として斉隋様式は推古時代にもうもたらされていたとするが、果してそう考えられるだろうか。この点私自身もよくわからないが、町田、石田のいう当時の中国との交流は未だ儀礼的なもので、文化伝播はもっぱら半島を通じてのものであった、とする論のほうが、当時の歴史的状況をよりよく把握したものであり、妥当であるとおもう。水野が、推古期において斉隋様か既にもたらされていたと主張するのは、氏が斉隋様の展型を鶴林寺観音像や、新薬師寺像のようなものにみ、天智朝以前の同系の様式(斉隋様)も同視のものとみるからであろう(4)。

 もし斉隋様が推古朝にもうもたらされていたとするなら、私自身の非止利様式観も相当変ってくる。即ち非止利氏の諸像のうち幾つかの制作年代を止利派と並存とまでゆかないにしても、相当遡らせねぱならなくなるだろう。それは私が、飛鳥前期においては、一応の造型感覚、理念が存在したが、流入してきた仏像の表面的な形式においては、そのまま受入れる場合が多かったと考えるからである(5)。それ故、もし斉隋様が早くから流入していた場合、初期は止利−蘇我氏という図式により止利様に独占されていたとしても、非止利様は相当早く現れねばならぬことになるであろう。

 また、中国において年代のちがう様式が半島において、その年代差をなくしたという小林論については、大陸の様式を地方系、中部正統系に分けるという小林の中国仏像様式の誤解から生ずるものだとする水野、町田の説を支持したい。以上、北魏様に対する南梁様というものを想定することは困難であり、たとえ有ったとしても、我国の様式展開に影響を及ぼすものでぱなかったものとおもわれる。我国への大陸様式の流入は、飛鳥初期においてはもっぱら半島経由によっておこなわれたものであり、それ故、北魏東西魏様式と斉周隋様式はその時期を異にして我国に流入してきたものとおもわれる。大陸の仏像様式を直接受入れるようになったのは、国交がもっとさかんになってからである、と結論付けたい。

 

(3) 間接的、即ち形式的な面から考えると、松原三郎のいう両手で宝珠をもつ形式、螺髪などは、南梁様が半島を通じてもたらされた可能性もあるとおもうが、しかしそれは造型感覚を変革するものではなかったと考えるべきであろう。

(4) この説明では、何故水野がそう主張するのかわかりにくいであろう、これに対する私自身の考えば、のべると長くなるとおもうので省略した。

(5) 私は止利様と非止利様式の仏像の古様とおもわれるものの造型感覚は、制作年代の差をおもわせるものが有ることが確かであるが、それは非常に大きな差であるとはおもわない。

 

 飛鳥彫刻の終淵

 ここでは、非止利様式の諸像を様式的にみて、それぞれの前後関係、様式系譜などを中心にしてのぺてゆきたい。そしてこれらの像が飛鳥彫刻においてどのような位置を占めるのかを考えてみよう。

町田甲一(上代彫刻史上における様式区分の問題)

 百済観音像、法輪寺虚空威善薩像の祖形は斉隋様にみられると考られ、今まで二、三の金銅仏の例があげられてきたが、具体的に、はっきりした祖形を求めることはできない。これは、百済観音像、法輪寺像が木彫像であり、この祖形となった木彫像が大陸に有ったが、木彫の故に早く湮滅してしまったのではないだろうか。この二像と法隆寺金堂四天王像は厳密に同じ流派の様式とは見なし難い。中宮寺、広隆寺弥勒像の祖形は、むしろ北魏仏に求められよう。法輪寺虚空蔵菩薩は百済観音よりややおくれた制作とみるべきである。それは百観観音においてはX字型に交叉する天衣の処理が、法輪寺像では交叉の焦点がはずれて左右相称を破っていることや、造型性の差などから知ることができる。法輪寺薬師像も虚空蔵菩薩像と同じ頃の制作と考えられ、大化以後あまり下らぬ孝徳期の作品と解してよい。

 以上の非止利様諸像は全て大化以降につくられたものとみるべきであろう。法隆寺金堂四天王像や中宮寺弥勒像にはまだ飛鳥前期様式の名残りがみられ、それに百済観音、少々おくれて法輪寺虚空蔵菩薩像とつづくのであろう。そしてこれらは、ほとんど孝徳期の作品と解され、天智朝になると野中寺弥勒像のような造型感覚のちがったものが現れてくるのである。

 

源豊宗(飛鳥時代の彫刻)

 我国飛鳥様式の前期と後期は、大陸の後期北魏様式と周隋様式に対応するものである。周隋様が非止利様と対応すべきことは、藤井有隣館北斉河清三年(五六四)銘三尊像をみればあきらかであろう。この後期的なものへの変化のはじまりは、法隆寺金堂四天王像の天衣が前向きになり鰭が前後に反転しているところにみることができよう。この像と百済観音像は、ほぼ同視のものとみてよいだろう。即ち、飛鳥彫刻は、百済観音像や法隆寺金堂四天王像を旋回点として、新しい方向に動きはじめ、法輪寺虚空蔵菩薩像においてほぼその完成をしめし、更にその発達を中宮寺弥勒像に示しているのである。しかしそれらは全て野中寺弥勒像の頃(六六六)、即ち天智朝を下ることはない。

 

金森遵(飛鳥彫刻の構成)

 百済観音像のような像は、広隆寺弥勒像、中宮寺弥勒像などより時代の下るものとみるべきてある。また百済観音像と法輪寺虚空蔵菩薩像を比べると、虚空蔵菩薩像のほうが百済観音の様式を硬化したものであり、より時代が下ることはあきらかである。これは様式硬化による頽化の結果を示すものといえよう。この百済観音のようなものが法隆寺金堂釈迦三尊像から短時日に発達したものとは考え難く、また野中寺弥勒像の様式がこのようなものより進んだものとみるぺき必然性も見出されない。それ故非止和様諸像が天智五年(六六六)以前の造立であるべき絶対性は、ないわけである。

 

 以上が、様式並存論者を除いた、非止利様諸像に対する論の概容である。あと水野清一は源豊宗の論に近く、野間清六は金森論を、一層押進めたものである。

 これらの論は、ほぼ非止利様式の諸像を法隆寺金堂四天王像の頃より後のものとしている点で一致している。これに対して久野健は、非止利様諸像の一番後に来る作品として、法隆寺金堂四天王像をとりあつかっているが(1)、これは、久野が白鳳時代のはじまりを大化改新の頃としようとする為、無理やりそれ以前に含めようとした結果ではないだろうか。その故か久野は非止利様諸像の様式的脈絡を明確にたどることができず、大化改新以前とする論拠は薄弱であるようにおもえる。

 私は、やはり非止利様式の諸像は法隆寺金堂四天王像より後にくるものだと考える。そしてそれは斉隋様の我国への流入によるものであろう。

 さて止利様式の仏像と法隆寺金堂四天王像、百済観音像との間の造型感覚の差を大きくみとめ、それは平面観から側面観への移行という画期的出来事てあり、造型感覚の転換点であるとする論が多いが、私は止利様の仏像と法隆寺金堂四天王像、百済観音像との間の造型感覚の差を、その間に深い谷間をみとめる程の大きなものとは考えない。確かに法隆寺金堂四天王像や百済観音には、側面的な感覚への移行、飛鳥前期から後期への展開がみられる、しかしもっと根底に流れる造型感覚、即ち静的視覚活動による造型感覚は止利様式以来、金堂四天王像、百済観音像にいたっても脈々と流れているのである。では平面的表現から、側面が考慮される表現に移るのは何故か、その理由の一つは静的視覚活動の中に動的なものに動こうとする意志を内包しはじめていることだろう。だが最も大きな理由は側面的表現をした斉隋様式の流入であろう。

  私は飛鳥時代を静的視覚活動による造型感覚の時代と定義する。その感覚は仏教美術受容以前からあったものであろう。止利様式は当然静的視覚活動の所産である。そしてその表現が平面的であるのは、たまたま、北魏石窟の伝統をひく浮彫的表現の様式を我国が受入れたからであると考える。即ち私は、飛鳥前期の造型性には、平面的な感覚しかなかった、とする町田をはじめとする多くの人の考えを否定するわけである。私はその理由として埴輪にはもう側面観が考慮されていることをあげたい。飛鳥前期は浮彫的表現をする北魏様が、我国の静的視覚活動と緒びついた時期とみるぺきてあろう。その後、斉周様が流入し、止利様が社会的原因を伴い衰退した。しかし我国の静的視覚活動による造型感覚ぱ、少々発展したとはいえ、大局的には変らなかったので斉隋様式の仏像を、その造型感覚によって制作したのだろう。この斉隋様式の仏像は大陸ではおそらく、静的なものを脱却して動的な感覚でつくられたものではないかとおもうが、我国では、それを未だ静的感覚でもって処理したのだと考えられる。多くの人が動的要素として指摘する「く」の字形の側面や天衣のひるがえりなどは、形式的に動作的なものを表してはいるがそれらに何ら、実.感に近づこうとする強い意志は感ぜられず、静的感覚で表現したものと考えられる(2)。

 それ故、飛鳥前期から後期への展開を平面から側面への展開とみるよりは、飛鳥全期を静的視覚活動による造型感覚の時期とし、前期を北魏様的浮彫表現によりそれを具現した時代、後期を斉隋様による形式表現によりそれを具現した時代とみるべきたとおもう。そして時を経るに従いその中に動的指向が表れてくるのである。

 法隆寺金堂四天王像は孝徳朝の初期を下る事はないであろう。百済観音像は、その頃か、もしくは四天王像を少し下る頃の制作ではないだろうか。法輪寺虚空蔵菩薩像はこれよりいくらか遅れた時期の制作で天智朝までの作としたい。広隆寺弥勒像は渡来像と考えられるから(3)、その制作時期は推り難い。中宮寺弥勒像については、広隆寺像より動的な把握があり、静的な束縛からの脱却をにおわせる、少し下った時期の制作ではないかとおもわれ、天智朝を下らせることも充分可能ではないだろうか。

(1) 「古代彫刻論」「法隆寺の彫刻」

(2) 百済観音像の側面の線が「く」の字形表現について、源豊宗は、立像を扁平的に表現するとき全体の安定感をやぶらないようにする為の表現である(飛鳥時代の彫刻)とのべているが、これはほぼ従うべきで、「く」の字形表現は動的な指向をしながらも静的処理されたものとみるぺきである。

(3) この像の材質は小原二郎の調査によって(上代彫刻の材料史的考察、仏教芸術十三)、アカマツであることが判明した。アカマツは朝鮮においても産する用材であり、我国の主要仏像は、朝鮮には産せぬヒノキ、クスノキであるので、この像は半島からの渡来像である可能性が強い。また韓国の徳寿宮美術館に、この像と酷似した像があるのも渡来像の可能性を強めるものである。

 

        

 
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