仏 像巡り今昔 ―東京寧楽会設立経緯―(第二回)

東京寧楽会代表 川尻 祐治


1、
寧楽会の歴史と活動
2、奈良夏期大学の顛末、講師のこと

3、
白鳳会のこと、古書のこと


 2. 奈良夏期大学の顛末、講師のこと
 今でもそうだが、私は求めるものは直ぐにはかなわなくても、強く願っていれば必ずどこかで得られると信じている。人との出会いも同じである。
 寧楽会発足の昭和34年当時の活動は、体系的な知識もなく、指導者もなく、乏しい知識の中で、古寺拝観や月例会での研究発表という形で仏像の勉強を続けた。しかし会設立から一年もたたずに専門家に知己を得ることができた。
 昭和35年1月、寒い時期ということで遠出を避け、都心の寺が良いということになって、北区の無量寺を選んだ。
  この寺の丈六の藤原期の阿弥陀如来坐像は、今も余り人に知られない像である。拝観が終わると、それまで私たちの拝観を黙って見つめていた有髪のご住職か ら、この像を何で知ったのかと質問があった。交通公社の東京都観光案内書と答えると、公表していないのに誰が書かれたのだろうと不思議がられた。
  ここから話がほぐれた。ご住職が東京国立博物館に在職される金子良運先生ということを知り、帰りには社会教養文庫刊の日本の美「彫刻」を頂戴した。この出 会いから金子先生に月例会で日本美術史の講義を頂戴するようになり、また博物館の特別展で解説を頂くなど、先生が神奈川県立博物館に移られた後もお世話を 頂いたほか、昭和48年には金沢文庫に若手の気鋭が赴任されたから、是非一度お話を聞きなさいと、真鍋俊照先生をご紹介頂き、真鍋先生から「密教の美術」 「曼荼羅」などの講演を頂いた。
 一方古寺拝観は、毎年8月に奈良を中心とした3泊程度の夏期旅行を続けた。旅費を安く上げるためにお寺での宿泊 を中心としたが、そうした中で、大安寺河野清晃貫主と奥様の知己を得、見学方法のご指導、拝観先のご紹介など親身なお世話を頂戴した。今でも古い会員たち が集まると当時の話が出る。
 熱を出して奥様に看病頂いた人。柳生芳徳寺で、貫主に頂戴した捺印のある名刺の紹介状に、自分で一言書き添えたとこ ろ、ご住職が笑いながら「大安寺さんも字が下手になったなぁ」と言われ、実はというと「まぁいいや、紹介ということは、この人を自分と同じように扱って欲 しいという信頼の意味だから」とおっしゃられ、自分の不明を恥じたこともある。
 脇道にそれるが、この時はいかにも臨済宗の僧らしいご住職の話がもう一つある。この寺には宮本武蔵が厳流島の決闘で使ったという木刀が残されている。
「和尚さん、本当にこの木刀で武蔵が小次郎をうったんですか」一人がたずねた。
「そんなことわしゃ知らんよ。吉川英治さんに聞いたらどうかね」。
 かって作家五味康介は、柳生武芸帳を執筆中、筆につまるとしばしば車を飛ばして、柳生一族の菩提寺であるこの寺を訪ね、優れた郷土史家でもあったご住職にご指導を受けたといわれる。
  この夏期旅行が、昭和44年8月9〜14日、寧楽会創立十周年記念、奈良大安寺での夏期大学開催となった。講師陣は今ではお招きできない一流の諸先生にお 集り頂けた。企画は日本経済新聞に掲載され、全国から125名の参加者が集まった。宿泊は大安寺本堂と日吉館。寧楽会で選んだ議題に従って河野貫主に講師 と折衝して頂いた。今考えると貫主のお力とはいえ、よくこれだけ立派な講師陣をお招きできたと驚く。
 内容は
下記の諸先生である。

 講 師 議 題
網干 善教関西大学教授「飛鳥・白鳳の歴史」
池田 源太龍谷大学教授「大安寺の歴史と美術」
伊藤 延男奈良文化財研究所「法隆寺若草伽藍跡」 現地解説
入江 泰吉写真家「奈良の仏像」 奈良博にて講義
上原 昭一奈良国立博物館「奈良国立博物館」 奈良博にて講義
河野 清晃大安寺貫主「奈良の仏教」
沢村 仁奈良文化財研究所「平城宮発掘」 現地解説
寺尾 勇奈良教育大教授「奈良の美術」
土井 実奈良文化大学長「唐招提寺」
橋本 凝胤薬師寺長老「薬師寺」 薬師寺にて法話
長谷川 誠奈良文化財研究所「飛鳥・白鳳の美術」
平岡 定海東大寺「東大寺」 現地解説
堀内 民一名城大学教授「万葉の世界」
前田 好範高貴寺管長「梵字入門」


 講義中一寸たりとも身動きせず、すべての受講者が自分が見つめられていると感じさせた橋本凝胤長老。講義のあと、小学生位の小坊主の肩に手をかけて自坊に向かいながら、質問に優しく答えられていたお姿が目の中に残る。
 また朗々と万葉を歌われてから講義が始まった堀内先生。梵字の大家前田好範先生など、一流学者に学べた幸せが思い出に残る。
 奈良大安寺河野貫主からは仏を通じての人としての在り方を学んだ。
 「人に身分の上下はない。相手が有名な人だといって卑屈になることはない。若い人は名をなした人の立ち振舞いに触れるだけで、大きな勉強になる。」河野貫主のお言葉、そして奥様から数え切れない教えを受けた。

 この頃会員の中では、東京国立文化財研究所の久野健先生が執筆された「仏像」(昭和36年刊)、「関東彫刻の研究」(昭和39年刊)が、関東の仏像勉強の福音書として名高かった。「関東彫刻の研究」には関東の古仏がほとんど紹介され、会の古寺拝観もこのお陰で広がった。
 久野健先生のお話を伺いたい。そんな思いから長年に亘り、先生との出会いを探しているうちに、先生のお姉さんの知り合いという女性会員がいた。例会でのご講義を依頼してもらうと、希望がかなえられた。
  昭和47年6月第一回「日本の美術(関東の仏像)」から49年まで、仏教彫刻史を中心に7回に亘って講義を頂いた。お話は明快、素人集団にもよく理解がで きた。終了後もご指導を賜り、また個々の仏像を勉強する機会を度々頂戴した。加えて毎月の古寺拝観を基に、有志による「関東古寺の仏像」(昭和51年芸艸 堂刊)出版の機会を与えて頂いた。ご自身の研究に多忙を究める中、出版社芸艸堂の紹介、原稿の添削、用語の使い方、資料の照合方法など、厳しくご指導を頂 いた。このことは今も寧楽会、また私にとって、仏像を勉強しようとしていた者にとって最高の場となった。
 また勉強材料として、薬師十二神将の尊名と像容のかかわりという問題を頂戴し、この勉強が韓国の獣頭人身像の見学旅行にまで発展した。答えは未だ見いだせないが、久野先生には今でもご指導を受けている。
 一方では、この「関東古寺の仏像」の出版を機に寧楽会も大きく変わった。単に古寺拝観を楽しみとする会員、勉強を中心とする会員に分かれた。会員数は減ったが内容のある会となったと思う。



 
本ホームページの母体団体である東京寧楽会が、来年設立50周年を迎えることを記念して、仏像巡り今昔−東京寧楽会設立経緯−を掲載します。この記事は、2004年に「古仏へのまなざし」に掲載して頂いたものですが東京寧楽会の発足の経緯を知る貴重な記事であるため、再掲させて頂きました。

 なお、記事の中に出てきます、金子良運先生、河野清晃貫主、久野健先生は、いずれも故人となられました。ここにあらためてご冥福をお祈り申し上げます。

 2007年夏に岐阜の薬師寺岐阜別院にお伺いし、ご住職で奈良・薬師寺の執事長でもある、村上太胤猊下にお会いした時に、大安寺の夏期大学の際の橋本凝胤長老のお話を差しあげたところ、その時の小坊主というのは多分私でしょう、と仰られた。巡り合わせを感じずにはいられない。(高見 徹記)



    
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