仏 像巡り今昔 ―東京寧楽会設立経緯―(第一回)

東京寧楽会代表 川尻 祐治


1、
寧楽会の歴史と活動
2、奈良夏期大学の顛末、講師のこと

3、
白鳳会のこと、古書のこと


 1. 寧楽会の歴史と活動
 昭和34年8月、仏教美術の研究愛好団体として寧楽会を設立した。したがってそれから44年を経過したこととなる。
 活動は月例会と月一度の日帰り古寺拝観、そして会報の発行。参加者の多くは20〜30代のサラリーマン。最初は運営も判らず、四苦八苦のやりくりで、ガ リ判刷りの会報印刷費、通信費や会場の借用料も事欠く有様だった。
 このため会運営の経済地盤を確保するために、関心のありそうな友人たちに片っ端から声をかけると共に、雑誌「旅」の読者欄を通じ、奈良・京都、歴史に興 味のある人たちを集めた。専門家や専攻する学生はいなかったが、それでも一年たつと63名の会員となった。
 代表に選ばれた川尻は、最も若く22才。まだ学生だった。古寺拝観の先では、事前の書面や目的から、若い代表者だと驚かれた。またメンバーを見るまで は、歴史好きの大学生のサークルと想像されていた。
 参考書や指導者もなく、仏像の背後に隠された歴史・様式など、仏像のすべてを知りたかった。
 三人よれば文珠の知恵。好きな人が集まれば少しは知識も増えるだろうと始まった同好会だった。しかし仏像の奥は深い。日本史・美術史・仏教史・民俗学な ど、判れば判るほど難しい。そうした中で、44年を過ぎた今も試行錯誤を繰り返しつつ仏像行脚を続けている。
 会の発足と同時に会名を『寧楽(ねいらく)会』と定めた。使われなくなりつつあった寧楽(なら)時代に、寂しさを感じつつ頂いた。のちに奈良薬師寺のご 長老橋本凝胤貌下にお目にかかった時、会名の由来を尋ねられお褒めを頂戴した。「ねいらく」は韓国読みで、国の都の意味だと解説を頂き嬉しかった。またそ の頃、奈良には歴史の古い「寧楽」という会があると聞き、間違いがあっては失礼と、頭に東京を加えることとした。
 第一回目の古寺拝観は、井上政次先生の「関東古寺」を参考に、干葉県栄町安食、龍角寺の白鳳の仏頭を見学した。8月の暑い田舎道を、一時間も歩いたこと を鮮明に覚えている。今はあの辺りの様子も一変した。松林の丘陵は切り崩されて住宅が建ち並び、寺の周囲には「風土記の丘公園」が整えられ、小古墳が整備 されている。
 お厨子に潜り込み、自由勝手に拝観をさせて頂いた。面相に残る江戸時代の火災の傷、一つ一つの焼け糞まで観察し、白鳳の初々しさを堪能した。拝観後お寺 の座敷で、途中の我孫子駅で購入した駅弁を食べながら、東京調布の釈迦像との比較に、したり顔で議論を戦わせ、疲れた人は昼寝をしてしまうなど、思い出せ ばのんびりとした古寺拝観だった。
 翌月は神奈川県伊勢原市の日向薬師宝城坊。参道の老杉の間をのぼった。関東の三月堂とよばれる寺にはまだ収蔵庫もなかった。暗い本堂の中、ご本尊錠彫り 薬師三尊のお厨子は閉ざされていたが、丈六の薬師、阿弥陀をはじめ、四天王や十二神将像が林立し、拝観者を圧倒する緊迫感があり、真剣に祈る頼朝や政子の 姿を見るような気がした。今でも当時の写真(モノクロ)を見ると本堂内部の森厳な雰囲気が伝わって来る。
 やはり仏像拝観は、祈りをこめ、手を合わせる人の立場になっての拝観が重要だ。やむを得ないとはいっても美術館や展覧会の見学では仏の心を知るには限度 がある。画家が壁画や古画を模写するうちに、昔の人の筆使いや絵の具を学んでいくように、仏像もまた、祈りの場所、本来の祀られていた場所で拝みながらの 拝観が基本と感じた。この時の思いが40年以上過ぎた今も続いている。
 話はとぶが、昭和49年の会津の古寺拝観の時だった。立寄った中田の観音弘安寺で、中年の越後の女性が、ご住職のご説明にしたがって、本堂の抱き柱を抱 き、頬を寄せ涙を流しながら、声をあげて父母の病気、隣の家の年寄りの治病を祈る姿を見たとき、仏像に近寄ることが怖かった。美術史の範囲で拝観しようと した自分の態度はこれでよいかと反省した。
 寧楽会第三回目の拝観は、鎌倉杉本寺の三体の十一面観音像を見学。
収蔵庫もなく、お尊躰に触れないように、注意をしながら拝観させて頂いた。外陣に横たえた巨木に、黙々とノミを振るわれるご住職の姿が印象深かった。訪れ る人も少ない坂東第一番札所だった。
 会の発足から一年、昭和35年8月に第一回目の夏期旅行を開いた。
行く先は奈良と京都。新幹線もなく、三泊四日の夜行列車(大和)の旅だった。電車やバスなどを乗り継ぎ、汗を拭きながら寺を回った。費用は全部で一人 6,000円、宿泊は大安寺。今この時の会計報告を見ると嘘のような気がする。
 この夏期旅行が10年後の寧楽会夏期大学の開催に繋がった。夏期大学は後で説明させて頂く。
 月一回の古寺拝観は、30年も続いたであろうか。やがて東京国立文化財研究所の久野健先生に知己を得た後、先生の指導により、昭和51年に「関東古寺の 仏像」(芸艸堂刊)として一冊の本となって纏まった。
 その古寺拝観も、今は参加者が少なくなった。文化財保護という行政が全国各地に浸透し、仏の所蔵側も、貴重な文化財として容易にご開扉をしなくなったよ うな傾向が生まれた。間近で拝観可能だった像が、双眼鏡での拝観となったり、ガラスケースに収まったり、あるいは何年かに一度のご開帳に改められたりし て、小団体や個人の拝観が難しくなった。合わせて新聞社や旅行会社などのバスによる簡易で合理的なカルチャーツァーが実施されるようになった。
 一方では、各地の仏像彫刻の出版物も増え、関東をはじめ各地の仏像が広く知られ、個人で歩く人が増えた。さらに会員の老齢化もあって、参加者も10名前 後と少なくなり、寧楽会での近県の古寺拝観の役目は終了し、今は年一、二度の日帰り古寺拝観と、夏期旅行のみを開催するだけになっている。また、会報の発 行も見学時の解説資料の配布だけとなっている。



 
本ホームページの母体団体である東京寧楽会が、来年設立50周年を迎えることを記念して、仏像巡り今昔−東京寧楽会設立経緯−を掲載します。この記事は、2004年に「古仏へのまなざし」に掲載して頂いたものですが東京寧楽会の発足の経緯を知る貴重な記事であるため、再掲させて頂きました。

 なお、記事の中に出てきます、金子良運先生、河野清晃貫主、久野健先生は、いずれも故人となられました。ここにあらためてご冥福をお祈り申し上げます。(高見 徹記)


    川尻 祐治のプロフィール
    高見さんから神奈川仏教文化研究所と寧楽会、そして川尻のことを紹介するようにという依頼があった。
 最初にお断りしておくが、ワープロこそ打てるが、パソコンは2台もあるものの未だに扱えない。自慢することではないが、周りの友人たちも50%はできな い。
 昭和11年11月11日生まれという世代がそうさせるのか、能力がないのか。親子四人の中で、車の運転ができないのも自分一人。大体がメカ音痴。生まれ つきの不器用で、家の大工仕事も女房まかせ。不勉強の分はすべて優秀な友人たちに補ってもらうことにしている。
 かつての本籍地は若狭。生まれは新潟県、母親の実家で屋敷に閻魔堂があり、十王を持ち出しては遊んでいた。小学校四年から東京に育った。現在の居住地は 鎌倉市。まだ現役のサラリーマン。そろそろ引退して仏像勉強とも考えているが、どうなることやら。
 高校時代は剣道に夢中の劣等性だった。仏像に目覚めたのは高校3年位の時。大学は文学部への進学を考えていたが、男の仕事でないという父親の反対で、一 年の浪人生活の後、やむを得ず日本大学法学部に入学卒業。
 仏像への思いが断ち切れず、四年の時に仏教美術愛好団体寧楽会を組織し、平成四年に友人がスポンサーとなってくれて、神奈川仏教文化研究所を開いた。
 この間、「関東古寺の仏像」・「古寺散策」共著・「日本の仏像」共著・「彫刻」共著・「仏像巡礼事典」滋賀県、また週刊読売、目の眼、鎌倉朝日新聞など に古寺と仏像を連載。現在NHK青山文化教室講師。
 などなどであるが、毎日毎晩、仕事という名目で酒浸り、連日帰宅は午前様。五年も前からの原稿がまだ完了せず、出版社の社長から電話をもらうとビクビク している。それでも多いときは年十回以上の仏像見学旅行をこなしている。
 そんな生活に、よくまぁ時間がありますねと冷やかされている。健康に育ててくれた両親のお陰と感謝している。
 研究テーマは薬師十二神将。難しいテーマを持ったものだと後悔している。
 

    
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