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運慶仏を訪ねる話




仏師といえば「運慶」〜国民的知名度のものすごさ〜


「運慶作の仏像がクリスティーズのオークションで、14億円で落札!」

去年(2008年)、新聞テレビを賑わしたこのニュースは、皆さんの記憶にまだ残っていることだろう。

「一桁、数字が間違いじゃないの?」

と新聞を見直した方も、結構おられたのではないだろうか。
たった60cm余りの大日如来像の値段としては、べらぼうな高値がついた。

 

運慶作と推定され、14億円で落札大日如来像(眞如苑蔵)


そして、今更ながらに「仏師・運慶」という名前の威力のもの凄さを、つくづく思い知らされた。

「皆さん、どんな仏師(仏像の作者)の名を聞いたことがありますか?」

と問われると、まず、いの一番に運慶、その次には快慶の名前が頭に浮かぶだろう。

運慶の国民的知名度は抜群で、各地の寺々を訪れると、ご本尊の作者は、行基菩薩か弘法大師、山門の仁王様は運慶作という言い伝えが、圧倒的に多い。

これほどまでに、運慶の知名度がアップしたのは、康慶・運慶父子の名前に因んで「慶派」と呼ばれるようになった仏師集団が、鎌倉時代以降、圧倒的主流派の地位を占めるようになり、一門で最も偉大であった運慶の名を、後世高らしめたことによるものであろう。



奈良で拝したい、三つの運慶の傑作〜天才仏師の足跡をたどって〜


奈良を訪れて、運慶の仏像の代表作を拝するとすれば、3つの古寺を順に巡るのをお勧めしたい。
運慶の青年時代、壮年時代、円熟時代の、国宝の傑作をじっくり鑑賞することができ、1日がかりでゆっくり回るのには、丁度良い。


第1番目は、奈良駅から車で20分ばかり、柳生の里に程近い円成寺にある大日如来坐像。
静かで落ち着いたたたずまいの本堂の傍らの多宝塔に、この仏像は祀られている。

 

運慶作・大日如来像が祀られる円成寺・多宝塔


 

運慶作・円成寺大日如来坐像


運慶が、20歳台の若者であったころの安元2年(1176)の作。
大人しくおだやかな造形で、運慶らしい力強い逞しさは未だ見られないが、一人の天才の誕生を思わせる凛としてはつらつ、若々しいみずみずしさを発散させている。


第2番目は、ご存知、東大寺南大門の仁王像。

 

東大寺・南大門


奈良観光で、誰もが一度はお目にかかっている仁王様。明治の頃には、案内の人が
「右は運慶、左は快慶、共に左甚五郎の作」
と語っていたという笑い話のようなエピソードもある超有名な像。

「運慶といえば仁王様」

という伝説を生み出した像である。

   

東大寺南大門・仁王像


建仁3年(1203)、運慶、50歳前後の脂の乗り切った頃のパワーみなぎる豪快な像で、隆々たる筋肉の盛り上がりを見せる迫力の物凄さには、思わず圧倒されてしまう。
8mを超える巨像だが、運慶の総指揮の下、たった69日で完成させた。


第3番目は、興福寺北円堂の弥勒如来像、無着・世親像。

 

興福寺・北円堂


 

北円堂・弥勒如来坐像


   

北円堂・無着像(左)世親像(右)


運慶も円熟、老境に入ろうとする、建暦2年(1212)の作。
眼前に拝すると、おだやかな緊張感と締まり、滋味あふれる写実の美しさを見るものに訴えかけてくる。

慶派の総帥として、押しも押されもせぬ大仏師となった運慶の、安静さや静謐さを漂わせ、玄人受けする最高傑作といわれている。



負け犬から一人勝ちへ〜激動の時代を、見事に生きた康慶・運慶父子〜


運慶が、円成寺大日如来像を造った頃、「慶派」は本当に弱小勢力であった。

当時は、京都を本拠とする「院派」「円派」が圧倒的二大寡占勢力で、奈良を本拠とする「慶派」の一人負けであった。

康慶・運慶父子は、この負け犬の「慶派」を、一人勝ちのビッグビジネスにまで押上げ、後々まで続く「慶派の時代」を築き上げたのであった。
この父子の足跡をたどる時、私は、仏師としての卓越した力量もさることながら、時代を生き抜く、したたかで優れたビジネス手腕に舌を巻かざるを得ない。


当時は、平安時代から鎌倉時代へ、貴族の時代から武士の時代への一大変革期であった。
慶派は、まだ京・鎌倉の政権争いの帰趨も定かならぬ頃から、いち早く鎌倉の武士勢力に肩入れすることになる。
京都から離れた奈良の仏師という「運」もあったのかもしれない。

慶派の正嫡仏師・成朝が鎌倉に出向き、頼朝発願の勝長寿院の仏像造像にあたったり、運慶が北條時政発願の伊豆・願成就院の仏像を造ったりという動きをしている。

折しも、平重衡の南都焼討(1180)による大被害の、復興着手の時期であった。

興福寺再興の折は、京の貴族がパトロンであったことから、慶派は、院派・円派の後塵を拝し、良い仕事を与えられなかったが、その後の東大寺復興造仏に至り、ついに、これまでの源氏への肩入れが報われる時が来る。
源頼朝が東大寺復興造仏の財政支援を全面的に担うこととなり、頼朝の意向により「慶派」が主力仏師の地位に、のし上がるのである。


このときをターニングポイントに、「慶派」は運慶という総帥の統率の下、京都・東寺の仏像修理の任に当たるなど、圧倒的主流派の仏師集団にまで一気に駆け上がっていく。

そして一門の強い結束で、その後も隆盛を誇ることになるのである。



想定外の東国・運慶仏の発見〜優れた顧客志向とビジネス感覚を垣間見る〜


昭和34年、東国で運慶作の仏像の大発見があった。

伊豆韮山の願成就院と三浦半島の浄楽寺の諸仏が、運慶作の仏像であることが判明したのだ。

 

願成就院・阿弥陀如来坐像(左)、毘沙門天立像(右)


この二つの寺には、鎌倉時代の仏像が伝えられていたが、「運慶の作品ではない」と考えられてきた。
その理由は、奈良にある運慶仏の作風に比べると、野性的、男性的な荒々しさがあり、
「運慶作とは思えぬ、都らしからぬ様子」
を感じさせるからであった。
ところが、墨書銘や納入銘札から、正真正銘の運慶作品であることがあきらかになったのである。

まさに、想定外の展開であった。

我々の想像をはるかに超えて、東国の武士好みの豪放な作風の仏像を造っていたのだ。

運慶という仏師は、見事なまでに顧客ニーズ対応で、注文主の満足を得るビジネス感覚を具備した天才仏師だったといえよう。
この顧客志向と柔軟な対応力があったからこそ、「慶派」は時代変革の波に乗り、弱小集団から大隆盛までの発展を勝ち取ることが出来たに違いない。


康慶・運慶父子の人生を振り返る時、苦境の老舗を大変な苦労と努力で建て直し、業界の雄にまで発展させた実業家の成功一代記を見ているような思いに駆られる。


奈良や京都を訪ね、康慶作、運慶作の仏様の前に佇み、そのお姿を拝する時、大いなる志をいだき激動と変革の時代を見事なまでに生き抜いた、天才仏師父子の夢、喜び、哀しみに、思いを致さずにはいられない。




この「運慶仏を訪ねる話」は、2007年に書いたものです。

その後に、興福寺・西金堂仏頭が運慶作と判明したり、興福寺南円堂四天王像が本来北円堂のもので北円堂運慶作像の中に加えるべきとみられるようになるなど、新発見が続き、「奈良で拝したい運慶仏」も、本文どおりとはいかなくなってしまいました。
また、今年に入って、塩澤寛樹氏著の「仏師たちの南都復興〜鎌倉時代彫刻史を見なおす」が出版され、「鎌倉時代の、慶派の位置づけの見直し」が論じられるなど、この文章のままでは如何かな?というようになってきましたが、2007年当時そのままの文章で掲載させていただきました。

ご了解くださいますよう。


5回連載で掲載させていただいた、「私の古寺巡礼こぼれ話」も、今回でおしまいです。
ご覧いただいている皆様には、余りにも当たり前の話ですが、原稿のネタ不足の埋め草代わりに、息抜きのコラム的に掲載させていただきました。

これで、手持ちの掲載原稿ネタもなくなってしまい、これからどうしようかなと、ちょっと困っているところです。


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