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大仏様を拝む話




誰もがおなじみ〜奈良・鎌倉の大仏様〜


大仏といえば・・・・・奈良の大仏、鎌倉の大仏。
誰もが、修学旅行や遠足で一度はお目にかかっている、おなじみの仏様だ。

   

東大寺・大仏(廬舎那仏像)           高徳院・大仏(阿弥陀仏像)


「大きいことは、いいことだ!」
という昔のCMではないけれども、「○○大仏」と称される仏様は、全国各地至るところにある。
大きいだけなら、茨城・牛久大仏(120m)を筆頭に、数ある「現代の大仏」の方が、身の丈10m台の奈良、鎌倉の大仏より、はるかに大きい。

 

牛久大仏(阿弥陀仏像)


しかし、その来歴が、奈良時代や鎌倉時代まで遡ることのできる、由緒正しき「国宝の大仏様」は、この二つの大仏しかない。

どちらも何時訪れても、多くの人々で賑わっているが、仏様に掌を合わせる人は稀。むしろ観光気分の人がほとんどで、「でかいな!すごいわね!」という感嘆の言葉を交わしながら、ワイワイガヤガヤあっという間に大仏の前を通り過ぎていく。

大仏様も複雑な気分かなと察するが、この超有名な二つの国宝大仏、意外にその実像は知られていないようだ。

その数奇な来歴を、少しばかり振り返ってみたい。



「あまたらす」国家鎮護の仏〜奈良・東大寺の大仏〜


おほらかに もろて の ゆび を ひらかせて おほき ほとけ は あまたらしたり


奈良を愛した歌人で美術史家の会津八一は、このように詠んだ。



東大寺・大仏(廬舎那仏像)


奈良東大寺の大仏は、正式には毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)といい、「あまたらしたり」の言葉のとおり、「宇宙の中心にあって、あまねく世を照らす太陽のごとき仏」といわれている。

時の聖武天皇は、自ら毘盧遮那仏として天下に君臨、その威光を国中のすみからすみまでいきわたらせんと、国力を挙げこの巨大な大仏を造立した。

開眼供養会は、天平勝宝4年(752)。
大仏は、10年以上もかけて、ドーナツを重ねていくように8段に分けて鋳造され、全身金色の鍍金が施された。当時、銅500トン、金500キロほどを費やしたというから、天皇の命の下、国の総力を結集して造立されたといって過言ではない。
奈良の都は、大仏の金メッキの時に使われた、おびただしい水銀の鉱毒に悩まされ、ついには平城京を放棄せざるを得なくなった、とも言われている程だ。



東大寺・大仏(廬舎那仏像)


大仏殿を訪れ、毘盧遮那仏を仰ぎ見ると、その謂れのとおり、あたりを威圧する強烈なパワーを、今も発散しているように感じる。



二度も焼け落ちた大仏様〜今の大仏は、江戸時代の再興〜


残念ながら、現在、眼前に拝する大仏様は、天平往時の大仏ではない。

大仏は、二度、頭が焼け落ちた。

一度目は、平安時代末(治承4年・1180)、平重衡の南都焼討ちの時。

二度目は、戦国時代(永禄10年・1567)、松永久秀が東大寺を焼き払った時である。

最初の災難の時には、俊乗房重源が再興にあたり、10年後に修復、再建が成就する。


しかしながら、二度目は、再興の目途さえ立たず、なんと約百年余の時間が経過する。
その間、大仏は、木に銅版を張った頭部を据えた状態で、惨めにも、野晒しのまま風雨にさらされていた。

ようやく大仏再興がなったのは、江戸時代も中期になってからのこと。
幕府の支援を得て、公慶上人が、この大事業を成し遂げる。大仏完成は元禄4年(1691)、大仏殿竣工は宝永5年(1708)のことであった。


私たちが、いま眼にしているのは、この江戸再興の大仏様である。



現在の東大寺・大仏殿(江戸時代再興)


天平当初の大仏は、今より1.5mも大きい16.5mもあり、大仏殿も1.5倍の威容であったという。
往時の名残をとどめているのは、台座蓮弁に残された線刻だけで、その美しい毛彫りの仏像に昔の姿をしのぶのみとなっている。

  

奈良時代当初の名残をとどめる大仏蓮弁(左)と毛彫りで描かれた線刻画(右・模造)




東大寺大仏蓮弁線刻画・拓本(筆者蔵)




親しみあふれる、ますらおぶり〜鎌倉・高徳院の大仏〜


かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな


鎌倉大仏の姿は、この与謝野晶子の歌のように、うつむき加減で、どこかしら和やかな親しみを感じさせる。



鎌倉高徳院・大仏(阿弥陀仏像)


この大仏様、実は「釈迦牟尼」ではなくて、人々を極楽浄土へ導くという「阿弥陀仏」。そう言われると、益々そのやさしい面立ちが、似つかわしく思われる。

また、東大寺大仏が、聖武天皇発願の国家鎮護の仏像であるのに対して、鎌倉高徳院の大仏は、源頼朝の侍女の発願で、僧浄光が民間に資金を勧進して造立したと伝えられる仏像であることも、威圧感を感じさせない由縁なのであろうか。
とはいっても、鎌倉幕府の強力なバックアップがなければ、こんな巨大仏を作ることはできないのはもちろんのことであろうが・・・・・。



露座ではなかった大仏様〜その昔は、大仏殿の中〜


当初、大仏は木造で造られた。

ところがすぐに台風で倒れ、10年ほどして替わりの大仏が、今度は銅造で鋳造が始められた。
これが、今の大仏である。鎌倉時代中頃(建長4年・1252年)のことであった。
この大仏様、今は青空のなか仰ぎ見るという露座仏で親しまれているけれども、最初は立派な大仏殿の中に安置されていた。



鎌倉高徳院・大仏(阿弥陀仏像)


その後、何度かの台風で大仏殿は倒壊、都度復旧されたが、室町時代(明応7年・1498年)の高潮で流失する。
幸い大仏様のほうは壊れず無事で、以来そのままにされ、現在の露座の仏像となったのである。

こんもりとした青葉の杜に囲まれ、澄みきった青空を背に佇む大仏様の、良き男ぶりの姿を見上げると、お堂の中に在るよりも、今のままのほうが、のびのびして、ずっとこの大仏様に似つかわしい。



鎌倉高徳院・大仏(阿弥陀仏像)



二つの大仏様を仰ぎ見ていると、幾多の厄災を乗り越えてきた故か、唯々大きいだけということではなく、頼り甲斐ある「大きな心」で、あまねく人々を見守ってくれているように思えてくる。


訪れる人々が大仏様に掌を合わそうと、観光気分でそのまま通り過ぎようとも・・・・・。

奈良の大仏様は大いなる威力で、鎌倉の大仏様はやさしき慈悲の心で・・・・・。


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