第二日目
【朝原山 安養寺】倉敷市朝原
-
<毘沙門天>
-
予定では倉敷市林にある。五流尊瀧院で十一面観音像を拝観する筈であったが、安養寺の毘沙門天像が優れているとの事で変更になった。
この寺は平家物語の中で鹿ヶ谷の変に参加した大納言藤原の成親がこの地に流罪となり、安養寺で僧調御坊の手で出家得度をしたとある。
<毘沙門堂内部>
兜 跋毘沙門天像を中心に右に吉祥天像・左に善膩師童子像、それぞれの左右に毘沙門天像が二十四体程ある。兜跋毘沙門天は天台系の仏で、円仁が船の安全を祈願 し観音経を唱えると同時に毘沙門天が現れ船が無事であった。帰って叡山に観音と毘沙門天を併せ祭る堂を建てた。円仁の弟子が不動を信仰、12世紀以降は三 尊信仰となった。
観音は十一面・千手の場合もある。毘沙門天の妻として吉祥天、その子善膩童子の三像が揃って信仰されるようになる。毘沙門天には二つの流 れがある。一つは東寺の講堂にある西域の鎧を着たもので、羅城門の成立のあと作られたもので東寺系毘沙門天という。天台系の毘沙門天は兜跋で唐風の鎧 を着て地天に支えられている。四天王の時は持国天といい独尊になると毘沙門天になる。
-
<観音菩薩立像>
-
1m程の大きさである。一鋳の像であるが、着衣が旧来の
日本のものとは違っている。衣が右肩から大きく下がっているのに、左手の上に衣がかかっている。
新
羅の仏像とも違っている。手先が欠けており、両手のバランスは悪い。
毘沙門堂内部
兜跋毘沙門天立像 吉祥天立像 観音菩薩立像
【金剛福寺】井原市門田
-
<千手観音像>
-
須
弥壇の奥に小さな不動明王像と毘沙門天像が置かれている。この形は天台系寺院のもの、中尊は十一面でも千手でもよい。穏やかな平安末の作である。金箔が置
かれて截金も残ってはいるが、鎌倉以降のもので合金(金の中に銅が含まれている)である。脇手は20本ずつ40本で合掌手禅定印などを含め、44本
×25=
1100本を表す。
観音信仰の始まりはガンダーラで、六観音が生まれ、その中で弥勒は将来仏として5・6世紀頃から現れ救済を求める人々を救うと いわれる。弥勒は水瓶を持ち、観音はガンダーラでは、花束一蓮華を持つ。中国に入ると未開の蓮華を持つ。未だ悟りを開ききれぬ形とする。法華経普門が印度 で 始まり、大乗仏教と共にシルクロードを経て中国に入る。蓮華と水瓶のどちらかを持つ。日本も又蓮華と水瓶を持つようになる。観音信仰はシルクロードが重要 な位置を占め、千手観音が大悲観音になる。中国では大悲千手観音とはいわぬ。千手観音も日本に伝来した当初は手が千本あったが、平安時代に入ると40本に なる。その為に一本が25界を代表するという型となる。9世紀に入ると殆ど40本になるが、稀には千本のもある。一番省略したものは4本で、合掌手と抱鉢 手のみ。
この千手観音像の様式は造形的には真言系だが、両脇侍に不動明王像と毘沙門天像が置かれているのを見ると、本来は天台系の寺にあったものと思われる。
平安時代の一番終わりの頃のもの、次の時代を思わせるものを持ってはいるが穏やかなもの。手と化仏はあとのもの、台座も持物も江戸時代の大修理のものと 思 われる。
【高山寺】井原市高尾町
-
<不動明王像>
-
牙を上の唇で噛んでいる。
この場合は両眼を開け正面をにらんでいる。これは、大師御筆様不動明王像といい空海が持ち帰った図像によるという。
円珍の招来した図像で園城寺の不動明王像(平安前期通称黄不動)は両眼を大きく見開き口を真一文字に結んでいる立像。
智仙のもたらした図像に基づいたものは、斜眼で牙が上下反対の唇を噛んでいる。
尚不動十六観に基づいたものは、左眼を閉じ口を斜めにかみしめしかめた恐ろしい顔をしているのが特徴となってくる。
大師様不動明王像は穏やかである。智仙の図像や不動十六観にものは、制咤迦・矜羯羅の二童子を従えたものが多い。中央作とはいえぬが頭のカールに特色が ある。
不 動は印度には少ない、中国にも少ない、日本に入って信仰は定着し各種の不動明王像が多く造られた。不動明王は五智如来(五菩薩像と五大明王像)の中の一尊 として存在している。(円珍系)正法輪身というのも大日如来から始まり、大日に帰るという思想がある。菩薩の姿になると、金剛薩埵を中心にした童子を伴 う。明王系の不動が生まれる。(生法輪身)故に大日如来の変身と考えられる。
不動信仰が真言系の教学の中での展開はやや遅れている。それに対して 天台系では、藤原貴族の不動を本尊とする加持祈祷が流行する事でいち早く展開してゆく。しかし道長の時代になると、真言もこれに加わってくる。加持祈祷の ため多くの像が集められ、その霊顕の現れ方が問題となり一気に天台・真言ともに拡がりずっと庶民の中にまで 転してゆく。不動の後には常に大日如来が存在 する。
-
<地蔵菩薩立像>
-
この頃(平安)になると仏教界に一つの大きな変化が現れ、地蔵信仰が生まれてくる。7世紀・8世紀までは弥勒信仰が盛
んで8世紀に入ると衰えるが、観音信仰だけはずっと続いている。10世紀には入ると末法思想が拡がり、観音信仰と共に地蔵信仰が始まってくる。観音は現世
救済で脱地獄の人を救済するものではない。地獄に落ちないための信仰である。地獄に落ちたものを救う唯一の仏が地蔵菩薩である。地蔵とは大地の意で、これ
に対し大空→虚空蔵菩薩がある。この地蔵信仰と共に六観音信仰という偽経も出現する。六観音も六地蔵に通ずるものを持っている。
三井寺系の地蔵と いわれ、截金がよく残ってはいるが、江戸のもので古色をつけている。一木造であり、右肩下りから右半分は本体部から離れていない。右手は別材で作られてい る。顔立ちは10世紀から11世紀のものよりは整理されて和風の様式がはっきり出ているが様式化されている。
右肩から下がった衣を折り畳んで出し ている。そこに様式化・形式化の現われで個性的というのではない。この像の出来る11世紀頃は地蔵信仰が非常に盛んになっており偽経が出来る。地蔵本願経 一本から多くの偽経が生まれてくる。大和は非人の部落が多くかたまっている。部落の入口には六地蔵がある。阿弥陀の浄土にゆけぬ人のために地蔵がある。地 蔵信仰は西大寺の叡尊の弟子仁勝によって、鎌倉にひろめられる。(極楽寺)この地蔵信仰と共に彼は文殊信仰ももたらしている。錫杖を持っているこれは行動 を現す、地蔵の方から我々の方へ近寄ってくれる形である。9世紀から10世紀までの地蔵菩薩像(法隆寺の金堂の地蔵菩薩像等)は錫杖を持たず宝珠を持って いる。
-
<十一面観音立像>
-
錫杖を持たせている。長谷寺の十一面観音の系統である。平安時代のものは地蔵菩薩と観音菩薩が一体
とした観念で扱われる。これは非常に古い例である。これは、手の掌を前に下げた与願の印である。錫杖は後から持たせたものである事がわかる。化仏は二段に
なっているが天台系のものではないか。
-
<宝冠阿弥陀如来像>
-
宝冠をいただき通肩の衲衣を着て禅定印を結んでいる。常行堂の阿弥陀として作られたのであろう。この形の阿弥陀は天台系のものである。作期は江戸である
が
珍しい。古い時代のものは残っていない。熱海の愛染堂に三体ある。
【日応寺】岡山市日応寺
-
<毘沙門天立像>
-
太づくりで厚みがあり古様をみせる。袖の翻り方が巻き上がって動きがない。鎌倉新様が出来てからの作といえる。都造りではあるが運慶様式ではない。
慶 派は東大寺の復興造像に際して康慶が明王系の造像を引きうけた。本尊系の造仏は院派円派系の仏師が当った。それが武家政治にない。頼朝の信任を得て慶派の 仏師が鎌倉に下向してゆく。これは院円派の仏師達が源氏滅亡の祈願のための造像をした事(後白河院の依頼で)がわかり鎌倉では院円派が除外された。慶派の 新様式ができると院派もこれを学ぶようになる。この像は慶派と都ぶりの両面が用いられたもので、運慶程の強さはないが全体に新様がみられる。首はさし首で ある。
-
<不動明王立像>
-
太造りで厚みがあり内面の充実感が溢れている。運慶の作に近い。不動明王像は斜眼で、毘沙門天像は儀軌にかな
い、邪鬼も当初のものである。二像の大きさ(高さ)が違うので、観音の両脇侍であったとはいえない。祀られた場所は違う。しかし同じ作風で都仏師の作、そ
れもやや円派に近いともいえるが決定しにくい。都風で整った顔立ちである。しかし肩がやや上がり、胸を張っている。不動はやや寸づまりの感がある。多分平
安時代に本歌があり、それを模刻したと考えられる。地方ではめったにみられない像である。鎌倉時代の美作といえる。
-
水晶の玉眼が入っている。顔を半分に割
り、眼の後ろを刳り抜いて水晶を入れ、眼の同囲に朱を入れたりし竹でしっかり押さえる。裏側に廻ると運慶程の背の膨らみがない。慶派のはもっと、もっこり
と膨らんでいる。裏側には丸ノミの雁刀の跡が残っている。ノミの跡があると色がつき易いので計算の上で跡を残している。漆箔を張り着色をしている。不動明
王像は漆を塗ったあとがある。