第一日目
【妙国寺】備前市浦印部
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<釈迦如来坐像>
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胴
内を上げ底にする事は、鎌倉時代から始まっている。その中に運慶五代康俊の銘が入っている。康俊銘の作品は奈良にも何体か残っている。富尾川辺りにある長
春寺はじめ康俊銘のものが何い時代に渡って残っている。果たして同一の作家であるかどうか、しかし湛慶が80歳近く存命であった事を考えれば一概に異人と
はいえぬ。康俊の作像はすべて後醍醐天皇系、康誉は足利系というように、仏師集団までその所属が異なってきているのは面白い。
この像は鎌倉からは少し変 わっている。偏袒右肩で通肩のようにみせているが、一種の様式化がみられる。印度では必ず右肩を出している。中国に入ると裸は隠し、胸前だけをひらいた形 となる。14世紀の宋風が入ると共に日本でもそれが行われる。禅定の姿をみせる釈迦如来像である。この形で頭が螺髪ではなく、宝髻をあげると聖観音像にな る。形式上の転換期の作といえる。顔立ちは一見穏やかで慶派の流れは及んではいるが、穏やかでやさしく力強さに欠け人間臭くなる。理想的な仏としての尊容 がなくなる。衣の衣皺の彫り口には、慶派の伝統を残してはいるが新しい。宋の形にそうよう集中している。康俊の銘がなければ、奈良仏師系の作とはいえぬも のがある。鎌倉期と南北朝期との違いを示す基準例といえる。
【遍明院】牛窓町千手
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<大日如来坐像>
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五智如来揃っての現存
は珍しい。東寺講堂の五智如来像が造立当初のものとしてある。五智如来は一列に並ぶのではなく大日如来を中心に、左に阿弥陀如来と阿閦如来、右に宝生如来
と不空成就如来が囲むように立体的に配されている。彫像で曼荼羅を示すのを羯磨曼荼羅、絵画として表現されたものは華曼荼羅という。この像は智拳印を結ん
でいるから金剛界の大日如来。全部左足前の降魔座に組んでいる。本来なら吉祥座である筈。五尊揃って降魔座であるのは、遍明院以外には見当たらぬ。故に何
か特別な呪法のために造像されたと思われる。
作風は院政期といってもよく、定朝離れの頃の作といってもよい。定朝離れには二つの流れがある。一つは定朝を超えようとするもの。一つは定朝の作った作 風 がバロック性を帯びたもの。この像は定朝様式が終わろうとしている時期を示している。
五尊像の配列がおかしい。五尊は理念の象徴として作られ、太陽と同じく普く光を天下に及ぼすものとしての尊格を持っている。五尊の智とは悟りの智であ り、 煩悩を断つ意味をもつ。菩薩の姿で現れているので宝冠を被っている。本来は大日であるのに。
空海が印度直輸入の図像を中国から持ち帰ってくる。中国密教は8世紀で終わっているのに、日本では今日まで隆盛のまま残っている。降魔座に作られた理由 が 知りたい。そうして形のもつ歴史を見出してゆくべき。
こ の像が定朝様といわれているのは、膝が真平らで抑揚が全くない。こうした形は、定朝以前にも以降にもみられない。慶派になると膝はこんもり盛り上がる。こ れも左足を腹に引きつける時、僅かに抑揚をみせている。頭から腹部にかけて次第に前につき出してくる。定朝の様式は正三角形であるが、これは二等辺三角形 である。定朝は藤前かもっと広い。
大日如来坐像 不空成就如来坐像
【東寿院】牛窓町千手
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<阿弥陀如来立像>
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快慶の作。典型的なもの。快慶の作品は現代に
多く残っている。運慶は限られている。快慶の作は阿弥陀如来と地蔵菩薩に特色がある。江戸になっても京の仏師達は快慶を手本として、快慶様の仏像を作り続
けている。この像は快慶の本様を受け体幹部の分節が明解である。なで肩で大きく胸をひらき腰高である。更に細身痩身で過不足なく、リアルな手法でまとめて
いる。一面では、定朝の平安の流れを一面でうけついでいる。運慶の作は大きな塊まりの内面から盛り上がってくるものがある。快慶の場合は、形が中心で形で
まとめようとしている。きれいであるが、精神的なものを外に出す力はない。運慶はその点が出る。
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四十八坊の一つ、浄土信仰の跡がここに残っている。播磨浄土寺の流れを汲み重源の信仰圏に入る。両脇侍はあとから作ったもの。