第三日目
【益田市 大喜庵】
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<聖観音立像>
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シ
ンプルに表現されているが姿もよく良いい像。
頭が小さく身体部のバランスのとれた仏像は日本では出来なかったが、7世紀頃になって出来はじめた。それは唐招 提 寺講堂の薬師如来像とか三尊像像などである。しかし平安初期まではまだ出来ず、10世紀後半丁度この像が出来る頃から頭の小さい仏像が出来始めた。これは その典型 的なもの。
腰高だから上半身がキュッと締まっている。両肩下りがなで肩でありながら量感が前に下ってくるようだ。左肩先までは同木、右肩先は共木ではあるがはいで い る。指先が少し欠けている、当初はもう少し長い指であったろう。
左 手は後補だがこれぐらい伸びていたと考えてよい。衣文を少しも彫り出してなく大変素っ気ないが、肉身が完璧に彫り出されているので非常に女性的である。髻 も10世紀固有のもので、摂関期に入ると変わってくる。条帛は小さいがとてもうまい。地方には珍しい美作で一流仏師の作であろう。
【東陽庵】
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<薬師如来坐像>
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木
取りは左右矧ぎではなく、前後矧ぎである。ある木を主体にして体幹部をつくると頭の部分が足りなくなる。頭を別材で彫って加える。この裾先も大きく別材で
作り、上から被
せた形のもの。膝前も横木で別材、本体部だけの一木でそれも前面材、腰辺りも別材の三角材を使っている。すべて素木造で彩色はしていない。眼と唇に朱をさ
し9世紀の檀像様の素木のスタイルをとっている。足の組み方もゆったりしているが、肩の張りが窮屈だから体幹部も前に出て量感はあるが本当の豊かさがみら
れな
い。せいぜい14世紀の作か。顔立ちをみても地方としてはうまい作家ではあるが。
大仏師蓮法安阿弥陀仏流と銘がある。
【浜田市 心覚院】
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<阿弥陀如来立像>
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踏
み分け蓮弁の上に乗る来迎の阿弥陀如来像である。建長七年(1255)の銘がある。踏み分け蓮弁も光背も皆当初のもの、但し両脇侍はあと。二尊院の二仏で
みてき
たように完成
期の作風をみせ、快慶様の特色がよくでている。内衣の着衣を胸の前に出して大衣だけの表現ではあるが、全部に松葉型の表現がでている。
二尊院の二仏 の場合は、体幹部の肉取りとモデリングが自然の抑揚を作り出し流れるような構成であった。これは一応動きのある姿勢をみせてはいるが、肩が張っており体幹 部も少し太造り過ぎている。顔立ちは童顔ではあるが、次第に人間臭くなってゆく時代の風がみえている。髪際線のカーブが快慶派の一つの特色をみせている。 螺髪も大き目で建長年間の造形をみせている。
蓮弁の形がよい、この頃天平の形が復活してくる。天平の蓮弁は、蓮弁の先の反り返りがピーッと外に向かって 返りが表に向かってゆく、聖林寺の十一面観音像の蓮弁がその代表的なもの。しかし鎌倉時代に入ると穏かになる。これは形がやや鋭角的ではあるがよいもの。
蓮弁よ り下は江戸時代のもの。両脇侍は後から添えたもの。この像はもと独尊であったのではないか。
【多陀寺】
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<天部群像>
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天部の破損仏群で
ある。長い間雨露にさらされた状態のものを集めたもの。
天部形のものだけが集められているのが変わっている。菩薩を探してみたがない。天部もワンセットに なるが、いくつあるかでその構成が推測できる。中国式の兜を被ったものがある。作期はほぼ同時代で10世紀後半頃と思われる。神像もある。
【松江 浄音寺】
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<十一面観音立像>
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光背だけはないが、本体台座すべて当初のまま。鄙(ひな)には稀(まれ)な美しい本格的な像である。
初 めから素木の像で、材は榧(カヤ)。榧は時がたつと赤味がかる。しかし檀木の代用材としては最高のもの(良質)いかにも鎌倉時代の彫刻。
衣文の彫り口など を見ると 宋風の影響を一旦うけてから、それが日本に定着して新しい作風をみせた頃のもの。裳の折り返しの部分が下にさがっている辺りが少しうるさい。紐を通してお 腹 の部分でくくる筈のものを省略して紐をなくし形だけが残っている。この傾向は10世紀頃から始まる。天衣もなくなってしまって前面が少し淋しい。
十一面の大きさも1m30cm位で丁度よい、素木の素材を見事にこなし衣皺のとり方等も適確である。
上 半身の天衣のかかる右手の部分の表現など腕の立つ作家を思わせる。胴の奥行きに対する空間のとり方も大変よい。眼の位置はやや高目ではあるが口を小さく閉 めてピリッとした表情を作り出している。手も足も当初のもの。蓮華の水瓶は後のもの。化仏は当初のもの。この化仏の配置は真言形のもの。この化仏に比 し本面の彫刻はすばらしい。胸から腹、腹から腰にかけての調子、体奥の空間のとり方拡がりによって作の善し悪しがきまる。これで覚えてほしい。
こ の作は鎌倉完成期をこえて建長年間頃に出てくる新宋風。快慶は初めから頻りに宋風をとり上げた(初期宋風)が、運慶はとり上げない。重源の下で仕事をして い る時 はその図像に従っているが離れると全く自分流に戻り、自分流彫刻の極致に達した。快慶様の初期宋風の影響の出てくるのは13世紀の初めまでで、中葉を過ぎ ると後期宋風という様式が生まれてくる。これはその頃の典型的作品といえる。初期の頬の張りとは違いまだ緊張感はあるが穏やかさがでている。