【第2話】  法隆寺夢殿・救世観音像 発見物語

〈その3ー6〉



【目   次】


1. 近代佛教美術史上、最大の発見〜法隆寺夢殿・救世観音像の開扉

(1)救世観音開扉の劇的物語を振り返る
(2)発見当初から、飛鳥の代表傑作と評価された救世観音像

2.救世観音関連事項年表と救世観音像の古写真

(1)夢殿・救世観音像に係る出来事のピックアップ年表
(2)明治時代に撮影された、救世観音像の古写真

3.フェノロサ、岡倉天心の救世観音発見物語を振り返る

(1)フェノロサの回想〜「東洋美術史綱」
(2)岡倉天心の回想〜「日本美術史講義」
(3)上野直昭氏の夢殿開扉の「伝聞回想」

4.救世観音像の開扉は、本当に明治17年のことなのか?

(1)明治17年、救世観音像開扉への疑問点
(2)夢殿救世観音の開扉年代についての諸説
(3)開扉年代の有力意見のご紹介〜3人の研究者

5.夢殿・救世観音の秘仏化の歴史


6.飛鳥白鳳時代、救世観音はどこに安置されていたのだろうか?





3.フェノロサ、岡倉天心の救世観音発見物語を振り返る



夢殿・救世観音像の開扉、発見を行った、フェノロサ、岡倉天心はこの大発見の有様を、どのように語っているのでしょうか。

フェノロサは、自著「東洋美術史綱」において、また岡倉天心は東京美術学校での日本美術史の講義において、絶対秘仏、救世観音像の開扉という感動的出来事を興奮に満ち満ちて、詳しく語っています。
日本を代表する、飛鳥仏の傑作を発見した、感激が手に取るように伺えるものです。

この二人の文章は、お読みになったことのある方が、多いこととは思いますが、此処で紹介させていただきたいと思います。

ちょっと長い引用になろうかと思いますが、ご容赦ください。



(1)フェノロサの回想〜「東洋美術史綱」


まずは、フェノロサの救世観音の発見文章です。

原著は、

「Epochs of Chinese and Japanese Art」フェノロサ著(1921刊)

ですが、訳書

「東洋美術史綱」森東言訳(1978年・東京美術刊)

の文章で、ご紹介します。



フェノロサ著「東洋美術史綱」の原著「Epochs of Chinese and Japanese Art」



【朝鮮美術の金字塔】


「今日に遺っている朝鮮美術の第二の、最も偉大で完全な金字塔は、おそらく法隆寺夢殿の菩薩立像(救世観音)であろう。

もしこの像が存在しなかったら、朝鮮美術の到達しえた高い水準に関するわれわれの知識は、憶測の範囲を出ないことになろう。」


フェノロサは、救世観音を、日本人の制作ではなく、朝鮮美術と考えていたようです。
救世観音を「第二」と記していますが、「第一」は玉虫厨子としています。



【日本の同僚1名とともに、私が発見】


「このきわめて美しい像は等身よりはやや大きく、1884年(明治17年)の夏、日本の同僚1名とともに、私が発見したものである。
私は政府の委任状を持参しているので、宝物庫や厨子の開扉を要求することができた。

八角円堂の夢殿の中央に扉を閉じた大きな厨子が置かれ、それが八角堂の頂点に向って柱のごとく吃立している。

フェノロサ
法隆寺の僧は寺の伝承について語り、厨子に納めてある像は推古朝の頃の朝鮮仏師の作といわれ、200年以上にわたって一度も開扉されたことがなかった、と言う。」


フェノロサは、
「日本の同僚1名とともに、私が発見したもの」
として、共に開扉した岡倉天心の名前を記していません。
この発見は、フェノロサ自身の手によってなされたものだと、その手柄を強調したかったのでしょうか。

救世観音像は、千古の昔から、ずっと絶対秘仏であったかのような先入観があるようですが、フェノロサは、200年以上開扉されたことがなかったと述べていますので、救世観音が完全な絶対秘仏化されたのは、江戸時代以降ということを知っていたようです。



【驚嘆すべき世界無比の彫像・・・・眼前に姿を現す】


「稀世の宝物の拝観に熱心なわれわれは、説得に手を尽して、寺僧に開扉を迫った。
彼らは、冒涜に対する罰として地震が起こり、寺がこわれるだろうと主張して、あくまで抵抗を試みた。

だが説得はついに功を奏し、長年使用されることのなかった鍵が錆びついた錠前の中で音をたてた時の感激は、いつまでも忘れることができない。
厨子の扉を開くと、木綿の布を包帯のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高いものが現れた。

その上には、長い歳月の塵がつもっていた。
この布は約500ヤードほど用いられていて、これを解きほぐすだけでも容易ではない。
それに目や鼻孔にチクチクするごみがとびこんできて窒息するかと思われるくらいであった。
しかし、ついに巻きつけてある最後の覆いがとり除かれると、この驚嘆すべき世界無比の彫像は、数世紀を経て、はじめてわれわれの眼前に姿を現したのである。

それは等身よりやや背が高く、背面はくぼみ、硬い棒材の綿密な一本彫成、金箔押しの像で、金箔はいまではくすんで鋼のように黄褐色に変じている。
頭部はすばらしい金銅製透彫の宝冠で飾り、宝冠から瑠璃珠を交えた、同じく金銅製の垂飾が長く下がっている。」


此処のフレーズは、フェノロサが感激的な決定的瞬間に立ち会った興奮が手に取るように伺えます。

救世観音を
「驚嘆すべき世界無比の彫像」
と、絶賛しています。

単に、強引に開扉を強制して秘仏を発見したということにも増して、巻きつけた布を取り除いて、姿を現した救世観音像が、想定をはるかに超えて見事な造形の傑作であり、また霊的なオーラを発していたことが、この感動の文章を綴らせたのだと思います。


このあと、救世観音像の美術的な評価、感想を綴った文章が、相当長く続きますが、此処では省略させていただきます。




(2)岡倉天心の回想〜「日本美術史講義」


次に、岡倉天心が救世観音発見を語った文章をご紹介します。

この文章は、天心が東京美術学校で明治23年(1890)から3年間にわたって講じた、「日本美術史」の講義録です。
天心が綴ったものではなく、講義を聴いた生徒の筆記ノートを文章化したものです。



岡倉天心講義ノート「日本美術史」〜原安民筆記



底本によって、数種のものが存在しますが、ご紹介するのは、
「岡倉天心全集・第4巻」1955年平凡社刊
に収録されているもので、明治24年の講義がベースになっています。

救世観音の開扉発見が、明治17年(1984)のことだったとすると、その7年後に話されたものということになります。



【天心、フェノロサ、加納鉄哉が同行】


「夢殿は法隆寺の一部にして.観音は有名なる仏像なり。
古来秘仏として人に示さず。余明治17年頃美術取調のときフェノロサ、加納鉄哉と共に、寺僧を諭して秘仏を見んことを請ふ。」


フェノロサは「日本人同僚1名とともに」と記していますが、天心は
「フェノロサ、加納鉄哉と共に」
と語っています。

加納鉄哉という人は、東京美術学校で彫刻担当したこともある彫工で、古美術に造詣深く、フェノロサや岡倉天心と共に、古社寺調査、古美術調査に同行した人物として知られています。

 

岡倉天心(左)、加納鉄哉(左)




【寺僧に曰く、之れを開かば必ず落雷すべし】


「寺僧に曰く、之れを開かば必ず落雷すべし。
明治初年、神仏混交の論喧しかりし時、一度これを開きしが、忽ちにして一天墨を流し雷鳴あり。
衆大いに怖れ、こと半ばにして停む。

前例此の如し、復た之れを開かば必ず落雷あらんと、容易に聴き容れず。
落雷のことは我等之を引き受く可きを約し、始めて寺僧の承諾を得て堂扉を開かんとす。
寺僧恐れて皆去る。

開けば乃ち千年前の臭気芬々鼻を衝き、堪ぶ可からず。
蛛糸を掃ひて漸く進めば、東山時代の器具あり。
之れを除きて歩すれば高さ七八尺余のものあり。
布、経切等を以て幾重となく之れを包めり。
乃ち之れを除かんとすれば蛇鼠驚き出づるあり。
布を除けば白紙を附せるものあり。
これ明治初年雷鳴に驚きて中止したる所なり。」


秘仏開扉の仏罰を恐れる法隆寺僧の必死の抵抗にあったこと、それを強引に突破して開扉を強行したことが、活き活きとドラマチックに語られています。

興味深いのは、
「明治初年に一度これを開きしが・・・・」
という処です。

救世観音には、その姿を隠すように、長い布がグルグルと巻き付けられていたのですが、明治初年には、この布を取り除いて白紙を附したところまで開いてみたというのです。
ここで、雷鳴に驚いて、開くのを中止したということなのですが、この話は、本当なのでしょうか?
天心が、ドラマチックに語るために脚色した話なのか?
明治初年に、救世観音の姿を確認する寸前まで開かれたことがあるのか?
興味深い処です。



【一生の最快事なりといふベし】


「除き終れば七尺有余の仏像、手に珠を載せ厳然として立てるを見る。
一生の最快事なりといふベし。
幸ひに落雷にも遭わざりき。

此の仏像は百五十余年前迄は秘仏ならざりしか。
夢殿観音の像は珠を持ちて斯く斯くの形なりと『七大寺順(ママ)礼私記』に見えたり。
秘仏たりし故か、其の彩色判然見るべく、光背焔の如き彩色の存するもの他に比なからん。

顔容は上頬高く下頬落つ。
これ推占時代仏像の様式を示し、頭部四肢大にして鼻の脇の筋深し。
法隆寺の他の諸像に似たり。
大体は木造なれども、手の如き或部分は乾漆を用ゐたり。
乾漆とは木屑、布等を心として、漆を以て固めたるを云ふ。」


天心が、救世観音像の開扉発見の感動と興奮を語った、有名な
「一生の最快事なりといふベし。」
というフレーズは、此処に出てきます。
感激の一瞬であったに違いありません。

また、天心は、
「百五十余年前迄は秘仏ならざりしか」
と江戸中期頃は、完全な秘仏ではなかったと語っています。
天心は、元禄年間に、夢殿厨子が修理再興されたりしていることを、知っていたのでしょうか。


この後、

秘仏というものは、往々にして、鼠害雨蝕などのために朽損して価値を失ったものが多く、また、火災に遭って木片と化したものを、秘仏として祀っていたりして、失望してしまうことが多くある。

といった話を語った後に、

「近来夢殿の観音は寺僧復た秘仏となし、容易に人に示さざると。
然れども諸君若し好機会を得ば必ず一見すべきなり。
以て益を得ること多かるべし。」

として、夢殿・救世観音開扉、発見の話を結んでいます。



ちょっと長くなりましたが、フェノロサ、岡倉天心の夢殿・救世観音を開扉、発見した有様を語った文章をご紹介しました。

こうした回想記には、記憶違いがあったり、ドラマチックな話に仕立て上げるために、誇大な表現や、若干の作り話が混じってしまうことがあるのかもしれません。
それにしても、劇的な救世観音像の開扉発見記で、日本を代表する傑作仏像発見の感動が、ひしひしと伝わってくるものです。



(3)上野直昭氏の夢殿開扉の「伝聞回想」


夢殿・救世観音の開扉に立ち会った人物の回想記は、このフェノロサ、天心のものしかないのですが、もう一つ、「伝聞した話」として、夢殿開扉の状況を語った文章が残されています。

上野直昭氏
上野直昭氏が遺した、「岡倉天心回顧」という講演録です。

上野直昭氏は、著名な美学、美術史学者で、東京国立博物館長や東京美術学校、東京芸術大学の校長などをつとめた仁です。
「岡倉天心回顧」というのは、昭和37年(1962)に東京国立博物館友の会で講演したもので、自著「邂逅」(岩波書店1969年刊)に収録されています。

この文章は、あまり一般には知られていないものだと思いますので、ご紹介します。

上野氏は、天心、フェノロサが、救世観音を開扉したときの有様を、河本乙五郎氏から聞いた話として、このように語っています。
河本乙五郎氏というのは、岡山の人で、国宝「餓鬼草紙」の所蔵家であったそうです。



【九鬼隆一が、夢殿開扉に立ち会い】


「夢殿の厨子を調査するために開くことを坊主が肯んじないこと、開くと災いが起こるというのも、前の話と同じです。

其処で調査班の連中は、宮内省へ許可を乞うことにしようというので、東京へ電報で問い合わせると、やがて開いてよろしいという返電が来たのです。

・・・・・・・・・

坊さんも止むなく承知して厨子を開くと、中に仏体があるが、全身白布が巻いてあるので、之をほどかなければなりません。
ところが誰も進んで自分が解こうというものがないのです。

『其処で九鬼さんが』と河本さんはいうのです。

此処に前にもちょっと触れました九鬼さんなるものが登場してくるのですが、前申した通り、文部省関係から出て、宮内省の下で博物館総長をやり、内務省の古社寺保存会の会長をやったり、専ら美術行政に携わって居ましたが、岡倉先生の先輩として引き立ててもいたようです。
今申す話が実話とすれば、この時の調査班の委員長かなんかで列席したものでしょうか。

なかなか芝居気もあり、人を喰ったところもある人でしたから、宮内省を引き合いに出したり、許可が来たというのも、此人の案ではないかと思うのですが、兎に角責任者でもあるので、自ら買って出ることになったのでしょう。
此人が自ら解くことになりました。



【九鬼本人が、勅命々々と叫んで、救世観音に巻かれていた布を解いた】


処が河本さんの話はなおつづくのです。

九鬼さんは布をとく手を時々止めて、勅命々々と呼び、また解いて行く。
遂に解き了ると、今の観音が出てきたというのです。

以上で河本さんの話はすむのですが、私が思いますには、電報で宮内省の許可を得たというのも少々怪しいが、勅命々々と称えて居るのは、それの連続で、少々気味の悪い仕事をするのですから、仏に言ってきかせるというのか、坊主にきかせるつもりか、それとも自分に言ってきかせて居るのか。
何れにしても何人か居る内で大芝居をやったわけであります。

・・・・・・・・・

ちょっと作り話としては出来過ぎていると思われますので、記録にはのって居ませんが、本当の話ではないかと思って、後に此クキサンなるものに、直接夢殿開扉の話をたづねて見ましたが、にやにや笑って、答えてくれませんでした。

私自身としては、国宝調査事業の初期の一挿話として、そんなこともあったろうと想像しながら、少しにやにやして居るわけであります。」


この話は、ちょっとビックリの話です。

九鬼隆一
夢殿・救世観音の開扉の時に、九鬼隆一が一緒に立ち会っていたというのです。

フェノロサ、天心の回想記には、九鬼隆一の名はどこにも登場しません。
九鬼隆一というのは、明治の美術行政、古社寺保存などのボスともいうべき重鎮で、たしかに近畿地方古社寺調査に同行したりしていますので、一緒にいたとしても不思議なことではありません。

九鬼隆一が「勅命々々」と叫んで、救世観音像に巻かれた布を解いていったという話は、なかなかリアルで、真実なのではないかとも感じるのですが、なんといっても「伝聞の伝聞」という話なので、何処まで信用できるのかよくわかりません。

この話、本当なのでしょうか?
作り話なのでしょうか?


【2017.3.25】


                


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