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【2014年8月30〜9月8日】




〔河北省・山東省の古仏を訪ねて〜旅程地図〕


【行程】

8月30日(土)  羽田空港→北京→邯鄲(泊)
8月31日(日)  北響堂山石窟→南響堂山石窟→邯鄲(泊)
9月1日(月)  →安陽霊泉寺大住聖窟→小南海石窟→邯鄲(泊)
9月2日(火)  邯鄲→済南 山東博物館→済南(泊)
9月3日(水)  神通寺千仏崖石窟→済南(泊)
9月4日(木)  済南市博物館 済南→青州(泊)
9月5日(金)  駝山石窟→青州市博物館→青州(泊)
9月6日(土)  雲門山石窟 青州→青島(泊)
9月7日(日)  青島市博物館→青島(泊)
9月8日(月)  青島→成田空港




W.9月2日(火)


@邯鄲周辺の見学予定を無事終え、この日は邯鄲から山東省済南までの移動がメインとなる一日。

朝、ホテルでチェックアウトの際にロビーで日本人ビジネスマンに出会う。
30代位かと思われる若い日本人2人と通訳の中国人の計3人の一行で、鉄鋼関係の仕事で邯鄲に来ているとのこと。
そういえば邯鄲は中国最大の製鉄企業グループ傘下の「邯鄲鋼鉄」があるところ。
街の空気が悪いのもこの影響があるのであろう。


A 駅近くの長距離バスターミナルより済南行きのバスに乗る。

済南までは235qの長丁場でもあり昨日のような中古バスでなければと思っていたが、空調付きの比較的新しいバスでホッとする。
車窓から見る邯鄲の街並みは、他の地方都市でも同様だが古い建物と高層の建物が混在し、高層マンション群が立ち並ぶ一角も目立つ。
ただこの2日間で感じたことだが、通りがかりのマンション群を見る限り人影が乏しく生活感が感じられない。
不思議に思っていたところ、帰国後、邯鄲では不動産開発業者が経営難からマンション建設を途中放棄したらしいことを知る。
4〜5年前に沸いた不動産ブームがここにきて行き詰まりを見せてきたことを実感する。
「栄枯盛衰のはかなさ」をうたう故事で有名な邯鄲での実に皮肉な話ではある。


Bバスは途中休憩をはさみ5時間くらいかかったであろうか、済南市内へ入る。

済南市周辺は新石器時代(龍山文化)以来の古い歴史を持つところで、「済南」の地名も前漢代より使われていたとのこと。
現在は人口約680万人、山東省の省都として政治、経済、文化、交通の中心となっている大都市である。

Cホテルチェックイン後夕刻まで少し時間があったので、済南での観光ポイントの一つ「山東博物館」へ行くことにする。
山東博物館は中心部より離れたところにあるので急ぎタクシーを飛ばす。
この頃から空の雲行きが怪しくなり俄か雨が降り出す。



【山東博物館】


D目指す博物館に到着してビックリ。
なんとも大きな建物である。



山東博物館

2010年にオープンした真新しい建物で、入口を入った1階部分も吹き抜け状の巨大ドームのようになっており度肝を抜かれる。
これだけで中国のスケール、現代中国の力が感じられるもの。
時間は4時過ぎで閉館まで時間も迫っていたので、何はともあれ仏教彫像の展示コーナーへ向う。


E3〜4Cに仏教が伝わった山東省では、西側の斉州(済南市)と東側の青州(青州市)が二大中心地となり古くから仏教が発展した地域。
近年でも省内各地で古代の仏像の発見が相次ぎ、記憶に新しいところでは青州龍興寺址から大量の仏像が出土したことはよく知られているところである。

ここでは山東省の仏教造像の概観と一級の所蔵品に期待がかかる。




山東博物館展示室内


目についた主な展示品は以下(簡単に記述)。



<1.弥勒仏立像>



弥勒仏立像
  展示室入口正面に置かれている光背の高さ約3m、像の高さ約2mの大きな石刻の独尊像。

みるからに北魏代の像で、銘文により孝昌3年(527)に造られた弥勒仏像であることがわかる。
両手先を欠失する以外は保存もよくその時代の特徴をよくあらわしている。

頭部正面で渦状に巻く頭髪、わずかに微笑む顔の表情、長い首、裾にかけて左右対称に開く厚手の衣裳表現など、北魏後期の典型的な様式を示す。
光背も精緻で、中央上部の龍とそこから出された唐草文が頭光に繋がり外周部に楽器を持った飛天が舞うところなど、全体に繊細でなかなか出来の良い像との印象を受ける。

続いて北魏から東魏にかけて盛行した一光三尊像が並んでいる。


<2.正光6年銘三尊像>

この像は龍興寺址出土以前に青州で発見された像で、正光6年(525)賈智淵一族によって造立された三尊像。



正光6年銘三尊像

渦紋のある頭髪、微笑む口元、厚手の中国式服制で左右対称に張り出すところなど、北魏後期共通のスタイル。
光背も化仏や龍、外周部の飛天などが精緻に彫られ見応えがある。


<3.永安3年銘弥勒三尊>

永安3年(530)比丘恵輔造立の銘がある弥勒の一光三尊像。



永安3年銘弥勒三尊

上記2と同様北魏後期の様式を示すが、中尊の顔立ちが変わっている。
一見どこにでもいそうな田舎の老人風の顔つきで、思わず福井多田寺の薬師如来像を連想してしまう。


<4.仏三尊像>

如来と脇侍の顔は摩耗しているが光背に特色をみせる三尊像。



仏三尊像

船形光背の上方左右に日、月を手に持つ天人風の人物があらわされている。
珍しい表現で仏像に中国の伝統モチーフが取り入れられた例の一つと考えられる。
青州龍興寺址出土の永安2年(529)銘の弥勒三尊像にも類似の例がみられるので、この時期、この地域での特徴的な造形を示すものか。

ここまでみてきたような一光三尊像は北魏滅亡後の東魏代になっても引き継がれ、中尊の足元左右に一対の龍と脇侍の台座に繋がる独特の蓮華表現が出てくることになるが、この辺りは青州のところで後述する。


F 次は北斉仏の展示コーナーである。

一転して独尊の立像が並ぶ。
頭部や足を欠失するものも多いが、ここまで見てきた像とは全くスタイルを異にする仏像群である。

展示はほぼ時代順に並んでいる筈だが、前の時代とは何の繋がりもないような像が続く。
これが青州龍興寺址で発見された「青州様」に代表される山東の北斉仏ということであろう。
如来は薄い衣の下から柔らかい体の線を表出し、しかも衣文はごく控えめで中には全く衣文線を表わさない像もみられる。
まさにインドグプタ期のマトゥラー仏、サールナート仏を見るような感。
一方菩薩はといえば、これも単独像で、豪華な宝飾をふんだんに使った瓔珞を身に着ける像も多く目をひかれる。

  




G展示室出口手前のところで懐かしい像に出会う。

7〜8年前にミホミュージアムで拝したことのある「宝冠に蝉の飾りをつけた菩薩像」である。当時より中国へ寄贈されるという話は聞いていたが、久々の再会である。


<5.菩薩立像>


博興県出土と伝えられる菩薩像で、保存状態もよく冠につけられた蝉の飾りと後頭部の丸く大きな頭光が特徴。



菩薩立像

仏像に蝉が表現される例はきいたことがないがこれも一種の伝統的中国思想との融合ということか。
あらためて見直してみるが、腹前でX字状に交差する精緻な瓔珞や長身の立ち姿も優美で北魏後期の要素が端々に残るものの、おそらくは東魏に入ってからの造像であろう。


H一つ一つゆっくり見たかったが、閉館時間が迫っていることもあり駆け足のような見学となる。
見足りないのは同行の3人も同様で、明日時間をみてぜひ再訪したいとのことで期せずして意見が一致。

夕刻の時間帯でタクシーが全くつかまらないので路線バスでホテルへ戻る。
一旦止んでいた雨がこの頃から再度降り出す。



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