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【2014年8月30〜9月8日】
〔河北省・山東省の古仏を訪ねて〜旅程地図〕
【行程】
8月30日(土) 羽田空港→北京→邯鄲(泊) V.9月1日(月)
@この日は日帰りで河南省安陽の霊泉寺石窟と小南海石窟を訪ねる計画。
Cさんの手配で運よく列車の切符が取れたので邯鄲駅から在来線を利用し安陽へ向うことになる。 中国では3年前「西安→天水(甘粛省)」移動時に利用して以来2度目の在来線だが、この時は寝台軟座。 今回は普通席硬座でこれも貴重な経験。 ホームに入ってきたのは大連発広州行きの(超)遠距離列車。車内はかなりの混雑で、見たところ若い人達が圧倒的に多い。 我々を奇妙な年寄り?と見た向いの座席や立ち席の若者が話しかけてくる。 Kさんが中国語で主にやりとりするが、きけば彼らは出稼ぎの仕事を終え実家へ帰る若者や9月からの新学年で大学へ移動する学生らであるらしい。 中国では欧米同様9月新学期で、そういえば今日は9月1日かと再認識。 彼らは一様に明るく屈託もなく、乗車時間は40~50分程度であったがよい想い出となった。 入手が難しい列車の席を取ってくれたCさんに感謝する。 A安陽駅前からタクシーでまず霊泉寺石窟へ向う。 霊泉寺 入口から石窟へ向う 霊泉寺は安陽市の西南25q、太行山脈の支脈宝山の東麓にある古刹。東魏の武定4年(546)創建といわれ、当初の宝山寺から霊泉寺と改名した隋代頃に隆盛を誇ったといわれている。 その頃から石灰岩質の断崖に多数の窟が造られたようだが、大部分は小窟で内部へ入れる窟は数えるほどとのこと。 代表的な石窟として大住聖窟と大留聖窟が知られ我々もこの両窟の見学を期待したが、大留聖窟は公開していないとのことで大住聖窟のみの見学となる。 近年大留聖窟が盗窟に遭ったことによるものかと思われるが、当方の優先希望は大住聖窟につき逆でなくよかったというべきか。 【霊泉寺大住聖窟】
B大住聖窟は隋の開皇9年(589)霊泉寺の高僧霊裕による創建。
大留聖窟より遅れて開鑿されたようだが、貴重な刻経や特異な神王像のレリーフなどが残されていることで知られている。 受付の無愛想な中年女性に案内されゆるやかな山道を上った先に大住聖窟があった。 やや小さめの入口とその両側に対面を楽しみにしていた神王像がみえる。 これが知る人ぞ知る神王像かとカメラを構えると、案内女性が「写真撮影禁止」と一言。 写真撮影できないという話は事前に聞いていなかったのでビックリ。 Cさんに聞いてもらったところ、女性の話は、戦時中この寺が日本軍に占拠、破壊されたところから最近の尖閣問題等日中の政治的軋轢に対する非難にまで及んだとのこと。 要は日本人には認めないということであろう。 成程、無愛想で我々を見る目つきもきつい筈である。 入口をバックに人物を撮る程度ならOKというので、窟門両側の2m近い神王像を入れたアングルでCさんに写真を撮ってもらう。 大住聖窟入口と左右の神王像 C型通り写真を撮った後、柵を開けてもらい窟内へ入る。 内部は3〜4m四方位の大きさで三壁三龕に仏像が並んでいる。 正面龕は中尊と左右に菩薩、比丘(弟子)が各1体、向って左龕は中尊と菩薩が2体、右龕は中尊と菩薩、比丘(弟子)が各1体、と変則ながら共に三尊形式となっている。 各像の頭部は後補のようだが北響堂山でみられたような不自然さはない。
脚部は全体に衣で隠され足の組み方は不明だが、扁平な膝は前時代(北斉)からの影響を感じさせる。 この窟は幸いにして外壁に碑文(造像記)が刻まれ三面の中尊が盧舎那、阿弥陀、弥勒であることがわかるので、「正面(北)に盧舎那、向って左(西)に阿弥陀、右(東)に弥勒」の三世仏配置ということであろう。 正面中尊の盧舎那仏で注目すべきは衣に六道と思われる表現が刻されているところ。 よくみないとわからないが、胸から足にかけて天上界、人間道、畜生道、餓鬼道、地獄の図柄があり、(修羅道は見付けられなかったが)いわゆる「盧舎那法界人中像」の可能性が強く、珍しい貴重な隋代の造像ということができる。 菩薩や弟子像はズン胴で直立しこれといった特徴はないが、菩薩は斜掛けを肩から掛けている像が多い。 窟内、入口入ってすぐ右の前壁に線刻された「二十四祖師像」も見所の一つだが、天井に描かれた蓮華や(響堂山を連想させるような)宝珠を挟んで舞い飛ぶ飛天も捨てがたい。 飛天は一見素朴なレリーフだがその空中浮揚感、優雅さはまさに秀逸。 天井の飛天レリーフ この頃には(あるいは気をきかせてくれたのか)件の女性もいなくなっていたので無事カメラに収めることができた。 D入口の神王像に話は戻るが、この窟を世に知らしめているのは何といってもこの浮彫り像であろう。 窟門両サイドに2m近い長身の戦士が武器を持ち動物の背の上に立っており、向って右の像は壁に「那羅延神王像」、左の像は「迦毘羅神王像」と題記されている。 ともに髭を生やした彫りの深い顔立ちの武人の姿であらわされ、特に迦毘羅神は鎧に人面、獅子の肩喰い、象の膝喰い等、西方的な造形表現が特に注目される。 これらは中国のみならず日本の四天王像、金剛力士像にも取り入れられていることは周知のとおりである。 (左) 迦毘羅神王像 (右) 那羅延神王像 この特異な像の意味するところについては素人の論ずるところではないが、窟内外の刻経やこの窟を「金剛性力住持那羅延窟」と表記する資料等からみて、文字通り「那羅延天の金剛性力をもって仏法を強く守護する神」として特別に勧請されたということか。 このような仏法守護を願う石窟の開鑿については当時の末法意識の高まりやそれに対する危機感が背景にあったことが指摘されているところ。 【小南海石窟】
E霊泉寺より東南へ約5qのところときいていたが、場所がよくわからず車で30分近くかかってようやく目的地に到着する。
公道に面し入口があったが門が閉まっている。 昼過ぎで食事休憩時間帯かとも思ったが待てども全く人の気配がない。 この日は月曜日でもありあるいは休業日かと半ば諦めかけていたところ、門の上に乱雑に手書きされていた電話番号の一つが運よく繋がり、暫くして管理人が駆けつけてくれた。 F小南海石窟は北斉が建国された天保元年(550)から同6年(555)にかけて造営された石窟で、規模は小さいが彫刻内容が豊富なことで知られている。 現存する石窟は東窟、中窟、西窟の三窟で、ともに北響堂山の北洞と同じく北斉の文宣帝の時期の開鑿といわれている。 門を入るとすぐ前に大きな岩が転がっておりその背後に低い崖がみえるが、そこがまさに石窟の場所であった。まず左奥の西窟から見ていくことにする。 [西窟]
西窟は崖のやや高い位置にあり柵も設けられているので外から見る他ない。
西窟 小さな窟口から、正面に如来坐像、左右の壁に各々一弟子二菩薩の計七尊像が辛うじてみえる。 いずれの像も頭部を欠失し損壊が激しい。 [中窟]
入口すぐ前に転がっている岩が中窟であった。
崖から崩れてきたものと思われるが壊れずに残されたのは幸いで、小南海で最も貴重な石窟といわれている。 窟外の刻経記により、天保6年(555)僧稠(そうちゅう)によって完成されたことや僧稠没後弟子たちが窟外に経を刻んだことなどがわかっている。 中窟 窟門の文様は特徴的な意匠で、(西窟でもみられたが)宝珠を挟んで金翅鳥と青龍が絡み合い下部左右に護法神を彫り出す見事なもの。 小南海石窟 中窟入口 窟内は人一人が屈んで入れるほどの大きさで内部は全面に彫刻が施されている。 天井は伏斗式で正面、左右の三壁に像が並んでいるが、ここでも頭部はすべて失われている。 正面の壁には坐仏と両隅に弟子が配されているようだが、補修中であろうか壁一面が白い漆喰のようなもので覆われ細部をみることができないのは残念である。
そして三尊の間に比丘(法師)像が線刻され、更にその上部の狭いスペースにも一面の浮彫りがみえる。 何を表現しているのか判りづらいが、向って左側には多数の蓮華と所々に「上品下生」、「上品中生」等の文字が四角い短冊の中にあらわされており、思いもよらず浄土教の九品往生の表現に巡り会う。 窟全体で、正面の壁に、左の九品往生図、右の(おそらく)弥勒説法図を加え、霊泉寺大住聖窟同様、「盧舎那(or釈迦)、阿弥陀、弥勒」の三世仏を表わし、末法思想下の護法を目的として造られたものと解されているようである。 この九品往生図は、南響堂山第2窟前壁の蓮華化生図とともに、中国最初期の浄土経変をあらわす石窟表現として極めて貴重な遺産ということがいえよう。 [東窟]
これももともと磨崖にあった窟で岩の塊ごと切り離されて前へ出されたものか。
三壁三龕形式のようだが遠くからではよく見えず、像もかなり傷んでいるようである。 G小南海石窟は世間の認知度も低く研究者以外で訪れる人も少ないと思われるが、小粒ながら(特に中窟は)内容的に価値の高い窟といえようか。 この日は、霊泉寺大住聖窟では写真撮影で、小南海では空振り懸念で各々気をもんだが無事見学を果たすことができた。 ともに見応えがあり充分堪能できた一日であった。 安陽といえば殷墟ばかりが頭に浮かぶが、南北朝期の仏教石窟も捨てがたいことを実感する。 H往きは列車であったが帰りはバスを利用。 安陽のバスターミナルは5年前に河南省鄭州から日帰りで来た際にも利用したことを懐かしく思い出す。 ただ、帰りのバスはかなり使い込まれた車体で乗り心地がよくない上、空調もない。 暑さと窓からの埃に耐える時間帯となった。 むしろ往きに快適な列車を利用できたことをよしとすべきと思うが、往きの列車11元に対し帰りのバス16元!というのはどういうことか。 |