越前仏像旅行道中記(2010年8月27日〜8月30日)

高 見 徹

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 〜行程〜

8月27日(金) 正午12時福井駅正面改札口集合
       集合貸切りタクシー乗車 昼食
       安楽寺 → 吉崎御坊跡 → 三国神社  → 福井泊
8月28日(土) 朝倉氏の滅亡と朝倉遺跡 → ・・遺踏の見学コース(福井市安波賀町)
       永平寺 → 顕海寺 → 平泉寺 → 白山神社 → 観音堂(平泉寺町郵便局前) → 福井泊
8月29日(日) 大谷寺 → 朝日観音堂→ 八坂神社 → 神宮堂 大滝神社 → 福井泊
8月30日(月) 大安寺 → 東雲寺→ 養浩館庭園 → 福井駅15:00解散


 第三日目


 8月29日(日)

● 大谷寺 (おおたんじ)大長院 越知山
 福井県丹生郡越前町大谷寺42-4-1

 大谷寺は、泰澄大師の開創と伝えられ、白山を中心とする越前天台信仰の一大拠点として栄えた寺である。
 越知山大谷寺(おおたんじ)は、越の大徳と呼ばれた泰澄大師が越知山三所大権現の御本地佛・地主大聖不動明王を自ら刻んで安置し開創したと伝えられ、白山を中心とする越前天台信仰の一大拠点として栄えた古刹である。
 泰澄大師は、その後西の越知山・日野山・文殊山・吉野岳・白山等々に登頂し、諸国を巡錫した。天平宝宇2年(758)77才の時大谷寺に戻り、神護景雲元年(767)86才の時大谷寺で遷化したという。
 泰澄大師の御廟所を中心に一山の盛時は実に一千坊と言われて、大谷寺の本坊は大長院と呼ばれてきた。
 泰澄大師はその超人的な行動から、歴史家の間では伝説の人という説が多い。しかし、天平二年(730)「根本一切有部毘那耶雑事』巻21を書写した僧の 名として泰澄の名が残されている(但し、泰澄大師と同一人物かどうかは不明)ことや、近年の調査により、裏山から基壇状遺跡・塔跡遺跡等や、「神」「大」 などが墨書された平安時代の須恵器、土師器などが発見され、9世紀中葉以降から13世紀頃まで寺院が存続していたことが明らかになり、泰澄の実在性と伝記 の信憑性が再認識されるようになった。

 本堂に上がると、外陣にこの辺りの文化財の資料や展示会の図録などが沢山並べられている。
 これらはご住職の所蔵品で、我々が行くというので、わざわざ並べて頂いたそうだ。中に数年前に町内の織田歴史資料館で開催された、白山信仰に関するシン ポジューム(梅原猛氏や森浩一氏が参加されたそうだ)、のまとめと併催された展示会の図録及び境内から出土した文字の書かれた土器など、興味深いものが あった。

 ご住職は古文書に泰澄の名があり、かつこれだけの物が出土しているのに、歴史家は明確な資料が見つからない限り史実と認めない、と盛んに憤慨されていた。

 福井県越前地域は、戦国時代の一向一揆の乱でほとんどの寺が焼き払われており、平安時代まで遡る古像は少ないが、大谷寺の所蔵の寺宝は、泰澄及二行者坐 像など、重文2件5点、県文1件8点、町指定文化財8件23点を数え、特に仏像は優品が多く県内屈指の文化財の宝庫となっている。
 重文指定の仏像は、昨年文化庁に寄託したそうで残念だったが、それ以外の仏像は、境内の土蔵を改装した小さな収蔵庫に所狭しと安置されている。

 中でも越知山三所権現像(十一面観音、阿弥陀如来、聖観音)は、平安時代後期の作ながら白山信仰における三尊一具の本地仏としては最古の例である。




 泰澄大師が不動明王を安置して創建したという故事から、現存する像も不動明王像が多いが、この中で注目されるのは、鉈彫不動明王立像である。
 本像は左手を下に垂らして羂索を持ち、右手を腰に当てて宝剣を持って岩座に立つ。総髪で左に弁髪を垂れ、両目を大きく見開き、上の歯で下唇を噛む、古い形式を持つ像である。
 右肘から先を矧ぎ付ける他はカツラ材と思われる一木から彫り出されており、内刳は施されていない。
 全身に粗い鑿跡を残しており、いわゆる鉈彫像である。

 鉈彫像としては、北陸地方では、富山・射水神社の男神像が知られているが、本像は男神像の威圧的な表現に較べると彫りも簡素で素朴な像で、平安時代も後期の制作と思われる。
 重文の不動明王立像が安置されていた厨子には、現在蔵王権現と思われる像が納められている。この像は先年山頂の権現堂から発見されたかなり痛んではいる が、ほぼ直立して右足を大きく上げた姿は、平安時代の早い頃に制作されたものであろう。あるいは、大谷寺に現存する最古の像であると思われる。

  
  
 収蔵庫に納められたこれらの像からも、修験道の修験道の開祖役小角に次ぐ「日本第二の行者」とも呼ばれた泰澄大師の信仰の一部を垣間見ることが出来る。

 鉈彫の不動明王立像を眺めていると、ご住職が、みんな鉈彫像を平安時代以降の作だというが、私は奈良時代からあったと思っている、と力説されたので、確 かに修験道に係わる造像例としてはあってもおかしくは無いとお答えした。帰郷後、そのような説を説いておられる井上正氏の『古佛〜彫像のイコノロ ジー〜』、『7‐9世紀の美術』をお送りした。


○ 不動明王立像 重文 ヒノキ 一木造 像高93.6cm 平安時代後期(文化庁に寄託)
本像は左手を下に垂らして羂索を持ち、右手を腰に当てて宝剣を持って立つ不動明王立像である。総髪で左に弁髪を垂れ、両目を大きく見開き、上の歯で下唇を 噛む、怒りの表情で表される。しかし、その表現は穏やかなものとなっている。一向一揆で大部分の寺が焼き払われた越前他方の、僅かに残された古像として貴 重である。

○ 泰澄及ニ行者坐像 重文 割矧造 像高泰澄像45.0cm、浄定行者27.3cm、臥行者25.8cm 室町時代(文化庁に寄託)
  本像は白山信仰開祖の泰澄と、泰澄に従った2人の弟子(浄定行者・臥行者)の三尊一具の像である。これら3躯は、『泰澄和尚伝記』によると、泰澄が修行し、入寂したとされる越知山の大谷寺に伝来した。
 小像ですが、各像とも写実的で個性的に造られている。
 いずれも桧と考えられる木材の割矧造で、玉眼が嵌入されている。


○ 十一面観音坐像 藤原時代
○ 阿弥陀如来坐像 県文 藤原時代
○ 銅造阿弥陀如来坐像 県文 鎌倉時代
○ 銅造聖観音菩薩坐像 県文 藤原時代
○ 銅造聖観音菩薩坐像 県文 藤原時代
○ 不動明王立像 県文 藤原時代
○ 不動明王立像 県文 藤原時代
○ 銅造十一面観音菩薩坐像 鎌倉時代
○ 銅造阿弥陀如来坐像 南北朝時代
○ 銅造聖観音菩薩坐像 南北朝時代
○ 銅造不動明王坐像 南北朝時代
○ 毘沙門天立像 藤原時代
○ 藏王権現立像 藤原時代

○ 石造九重塔 重文 総高440cm 台石銘元享3年(1323)
 泰澄の廟と伝えられる塔で、大長院山腹にあり、福井県を代表する貴重な石造遺品です。笏谷石(凝灰石)製の塔婆で、塔身三面に蓮華座の上に月輪を浮彫りとし、その中に阿弥陀三尊の各種字が刻まれており、鎌倉時代の石塔の手法を知る上で貴重なものである。

 

● 朝日山福通寺(真言宗東寺派)(朝日観音堂)
福井県丹生郡越前町朝日7-61

 福通寺は、地元では朝日観音堂として親しまれている。
 裏山には、5世紀頃の築造と見られる前方後円墳,方墳,円墳が90基近く散在する朝日山古墳群があり、古墳公園として整備公開されている。
 福通寺は、郡栄山長福院と号し、朝日観音堂の別当寺であったが、現在は朝日観音堂を合併している。
 奈良時代の養老元年(717)、泰澄大師により開かれたこの仏像の開眼供養の時、観音像の額から朝日のように光が射したのでこの観音さまを「朝日観音」、ふもとの村を「朝日村」と呼ぶようになったということである。

 少し高台になった本堂の前からは白山が遠望出来、伝説もむべなるかなと気分になる。
本尊千手観音立像は秘仏、脇の観音堂に聖観音立像が安置されている。

○ 千手観世音菩薩立像 県文 像高172cm 寄木造 鎌倉時代
 本像は頭上に11面を頂き、42本の腕を持ち、蓮華座上に立つ通形の千手観音立像である。やや生硬な感じながら、写実的な態度で、実在の人間を思わせる ような像の表出がなされている。千手は、主臂が四本(合掌印と定印)、脇手が三十八本で、これは左右ともに三列に組み込まれている。制作は鎌倉時代。

○ 観音菩薩立像 県文 像高196cm ヒノキ 寄木造 鎌倉時代(秘仏)
 本像は髻を結い、通肩の衲衣をまとい、右手は屈臂して胸前で念じ、左手も臂を屈して胸前に未開の蓮を執り、台座上に立つ聖観音菩薩像である。檜材の寄木造。制作は鎌倉時代。

○ 不動明王立像 市文 像高160cm ヒノキ 寄木造 平安後期
 
 

● 八坂神社
 福井県丹生郡越前町天王20-1-1

 八坂神社に伝わる4躯の仏像は、昭和38年の本殿改修の際に旧内陣の床下から発見されたもので、全て12世紀半ば前後の保守的な地方作の像である。
 十一面女神坐像は越前町の織田歴史資料館で行われる展示会「神仏習合の源流をさぐる−気比神宮と劔神社−」に出展されるため八坂神社から搬出した所だと いう。若い宮司さんはその事をすっかり忘れて、我々に拝観可能との返事をした事に大変恐縮しており、資料館にも展示前に特別に拝観できないか確認して頂い たが梱包は間際にしか取れないので無理だ、との返事だったという。
 この像は是非拝観したいと期待していたので残念ではあったが、汗だくになって恐縮している宮司さんに、逆に恐縮してしまった。
 
 

  
  

○ 阿弥陀如来坐像 重文 カツラ 一木造 漆箔彫眼 像高145.7cm 平安時代
阿弥陀如来坐像も腹前で定印を結び、結跏趺坐する姿である。桂と考えられる材による一木造の像で、背面に背刳りがなされている。12世紀前後の保守的な地方仏師の作と思われる。

○ 阿弥陀如来坐像 重文 ケヤキ 寄木造 彫眼素地 像高139.5cm 平安時代
頭体部を通じて根幹部を一材から彫成し、両耳中央を通る線で前後に割矧ぎ、内刳を施しています。螺髪は大粒で、目鼻もおおきく、唇も厚く刻み、11世紀頃の地方仏師の作と推定されている。

○ 釈迦如来坐像 重文 ヒノキ 一木造 彫眼漆箔 像高140.2cm 平安時代
釈迦如来坐像は左掌を上に向け膝上に置き、右ひじを曲げて掌を正面に向ける施無畏与願印を結び、結跏趺坐して座る釈迦如来坐像である。

○ 菩薩形坐像(附 木造 光背 1面)重文 カツラ 一木造 像高125.0cm 平安時代後期
菩薩形坐像は天冠台を着け、結跏趺坐する菩薩坐像であるが、両腕の肘から先の部分が失われてしまっているために、具体的な尊名は不明だが、通常は大日如来像と呼ばれている。後頭部、袖部、両手、両脚部などをそれぞれ矧付けており、漆箔はほとんど剥落している。
 なお、同時に発見された木造光背も、同じころの制作と考えられている。

○ 十一面女神坐像 県文 像高62.6cm 平安時代
 本像は頭上に天冠台と十一面の化仏をいただき、髪を肩に垂れ、羯磨衣のような衣を着け、袖内で拱手し安座する。頭部は十一面観音、体部は女神という神仏習合の姿をとる非常に珍しい像である。
 現状は素地に近いが、所々に彩色の痕跡が残っており、かつては彩色が施されていたと考えられる。作風から制作は平安時代末頃と考えられる。


古墳公園
経ケ塚古墳群と朝日山古墳群からなり、もとは160基を数えたが、開発によって約90基に減ってしまった。


● 神宮堂
 福井県越前市大滝町

 神宮堂は大滝町の町外れに建つ小堂であるが、かつては大滝寺と大滝児大権現に関わる堂のひとつで、中世の文書には虚空蔵堂と記されている。

 堂内に安置される虚空蔵菩薩坐像は、両膝の外に別木を矧付ける他は、両手足を含む頭体部をヒノキの一材から彫出した一木彫成の像で、右手に執る宝剣か ら遊離する天衣まで全て一木から彫出しており、内割りは施されていない。
 また、両腕に懸かる天衣を、膝前に廻す意匠も心憎い。

 上半身は張りのある厚い胸や衣文線など古い形式を踏襲しており、全体的なバランスは非常に整っている。下半身は、膝高や膝張り、材の制限のためかやや低く狭いものの、中央で造られたか中央仏師の仏師が当地で制作したものと思われる。

 また、面相は後世の厚い漆箔が施されており、像容を損ねているのが惜しまれる。

 制作は平安時代前半期と考えられる。

○ 虚空蔵菩薩坐像    県文 ヒノキ 一木造 像高49.3cm 平安時代初期
本像は左手に宝珠、右手に宝剣を執り、結跏趺坐する虚空蔵菩薩坐像で、阿弥陀如来・釈迦如来像と共に祀られている。

○ 薬師如来坐像 藤原
○ 阿弥陀如来坐像 藤原

● 大滝神社
 福井県越前市大滝町23-10

 越前市太滝町は、越前和紙の里として知られており、今でも多くの製紙工場が建ち並んでいる。
 4〜5世紀ごろには既にすぐれた紙を漉いていたことが正倉院の古文書にも記載されている。
 大滝神社は白山を開き、越の大徳と称せられた泰澄大師が元正天皇の命を受けて、養老3年(719)、大峰山(大徳山)に登り17日間の参籠・祈願の後、 地主神として岡太川上流に祀られていた紙祖神・岡太神社を御前立として、国常立尊・伊弉諾尊の二柱を主祭神とし十一面観音を本地仏として、山上山下に社殿 堂宇を建て、霊場を開き別当寺として大徳山大瀧寺を建立し、社僧を置いて神事を司らせたという。
 大滝神社は、古くは、天台系寺院大徳山大滝寺として栄え、近世には、越前奉書の産地である五箇郷を中心とする48ヶ村の総氏神として崇敬を集めた。
 加賀の白山・福井の平泉寺に次ぐ修験道の霊場で、明治元年までは、正一位小白山大瀧六所権現児御前と称し、国内有数の大社であった。
 権現山山上の奥の院には、大瀧神社・岡太神社の二社殿が建ち、山麓の里宮は一社殿に二神社を祀る形式となっている。







○ 本殿及び拝殿 重文 檜皮葺 入母屋造 江戸末期 天保14年(1843)
 本殿および拝殿は、本殿と拝殿の屋根が接続し、神社本殿としては最も複雑な屋根形態を持つ建物である。
 大滝神社の本殿及び拝殿は、屋根は檜皮葺とする。拝殿は正面1間、側面2間、向拝付入母屋造檜皮葺妻入の建物で、向拝は唐破風を付ける。本殿と拝殿の屋 根、唐破風の中心を微妙にずらし、二つの建物が、最も高い本殿から流れる滝のように連なり、神社本殿としては最も複雑な屋根形態を持つ建物である。正面か ら見えない部分まで随所に施された彫りものもすばらしく、建物 全体がひとつの彫刻のようによくまとまっている。世界の名建築100選にも選ばれている。
  普請関係文書によると、大工は永平寺お抱えの大久保勘左衛 門等を永平寺の了解を得て招聘し、造らせたという。

 帰りはレンタカー組は、かなり戻ることになるが、越前町の織田歴史資料館に寄って、大谷寺で紹介された白山信仰に関するシンポジュームの記録と展示会の 図録を購入した。織田歴史資料館は、織田信長をはじめとする織田家一族発祥の地として知られる越前町織田に数年前に建てられた資料館で、町の図書館も兼ね ている。設備は真新しく、建物は戦国武将の館をイメージした豪華なもの。


17:00ホテル到着

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