越前仏像旅行道中記(2010年8月27日〜8月30日)

高 見 徹

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 〜行程〜

8月27日(金) 正午12時福井駅正面改札口集合
       集合貸切りタクシー乗車 昼食
       安楽寺 → 吉崎御坊跡 → 三国神社  → 福井泊
8月28日(土) 朝倉氏の滅亡と朝倉遺跡 → ・・遺踏の見学コース(福井市安波賀町)
       永平寺 → 顕海寺 → 平泉寺 → 白山神社 → 観音堂(平泉寺町郵便局前) → 福井泊
8月29日(日) 大谷寺 → 朝日観音堂→ 八坂神社 → 神宮堂 大滝神社 → 福井泊
8月30日(月) 大安寺 → 東雲寺→ 養浩館庭園 → 福井駅15:00解散


 第二日目


 8月28日(土)

● 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館
 福井市安波賀町4-10

 今日の午前中は朝倉氏遺跡巡り。
 朝倉氏は、初め日下部氏を名乗り、但馬国朝来郡粟鹿(あわか)を本拠としたが、平安時代末期になって出石(いずし)郡朝倉に移り、朝倉を姓とするように なったと伝えられている。南北朝・・室町時代を通じて、越前守護斯波氏の下で次第に勢力を伸ばし、主家の斯波氏に応仁の乱の一因ともなった相続争いに乗じ て、文明三年(1471)五月朝倉孝景は斯波氏に代わり越前守護となった。
 孝景は城を新たに一乗谷に移し、以来義景まで朝倉氏は五代百年に亘り、一乗谷を越前の中心として威を振るいました。義景が城主となったのは天文十七年(1548)、十六才の時。
 当時、応仁の乱で荒廃した京都を出た公家・文化人たちは、地方大名を頼り、この一乗谷も大内氏の山口と並び、小京都と称されるほどに文化が栄えたといわれる。
 朝倉氏の遺跡は、朝倉遺跡資料館、朝倉館跡庭園、光照寺跡石仏群、菩提寺であったとされる盛源寺が残っている。
 光照寺跡石仏群は現在発掘調査中で工事用の大きな鉄の門があるが、鍵はかかっておらず、見学したい人は、勝手に門を開けて入ることが出来る。
 広い敷地に数十体の石仏が取り囲むように安置されているが、ほとんどは江戸時代以降の像である。
 発掘場所の付近には蓮華座や五輪塔などの破片が転がっている。
 盛源寺の境内に残る石仏群は、ほとんどが江戸時代の石像であるが、なかなか興味深い像もある。
 五重の塔は装飾や屋根の反りもあまりなく、室町時代以前の塔のように見える。
  
 朝倉館跡庭園は土塀に囲まれた公園となっているが、入口にボランティアのガイドさんが待ち構えており、丁寧に説明を行ってくれる。しかし15分位経っても入口の唐門の解説が延々と続き、終わそうもない。
 話を聞いてくれる人も少ないのでここぞとばかり張り切っているのは解るが、どれ位時間が取れるかを最初に聞くのがルールのように思えるのだが・・・。
 肝心の館跡や庭園を見る時間もなく皆を追い立てるように車に戻る。

 付近には、最近復元再現されたと思われる、町屋跡、武家屋敷跡が点在する。
 

● 永平寺 曹洞宗大本山吉祥山
 福井県吉田郡永平寺町志比5-15

 永平寺は、寛元二年(1244)、領主波多野義重に招聰された道元が、開祖となって建立された。日本曹洞宗の大本山で、禅宗の修行道場である。
 寺は初めに志比の荘内市野山の東傘松峰の西に建立され、傘松山大仏寺と命名されたが、寛元四年(1246)に、初めて中国に仏教が伝わった時の暦号に因んで、永平寺と改称された。
 後に、五世義雲が入山してから宗風も盛んとなったので、新たに現在地に移され、九世宗吾の時に出世の道場と定められ、後円融院より「日本曹洞第一」の扁額を賜った。
 寺院の建築は中国天童山をまねて建てられ、七堂伽藍をはじめとして、総棟数70余の堂閣が、山の斜面に整然と並び、そのすべてが回廊によって結ばれ、建物面積延べ14,800m2、境内面積33万m2という広大な規模をもっているが、度重なる火災と再建が繰り返された。
 永平寺の堂塔伽藍は全部で70余の棟数で構成されるが、その配置は、中国宋時代の様式をそのまま伝承している。七堂は法堂(はっとう)・仏殿・山門・・庫院(くいん)・僧堂・浴室・東司(とうす−便所)の七つ。
 法堂・仏殿・中雀門・山門は一直線上に建てられ、仏殿の左右に庫院・僧堂、山門の左右に浴室・東司が建てられている。

 永平寺も二回目。以前は山岳寺院の雰囲気を感じさせる境内を散策したような記憶があるが、ここも、門前の土産物屋さんの多さと観光客の多さにびっくり。
 12:00近くになると、食事処も込みそうなので、車を駐車したお店で昼食を取ってから参詣することにする。
 食事は当然「名物永平寺そば」。名物に旨いものなしと言うが、まずまず満足出来る味。
 境内に入ると、まず大広間で境内の案内と拝観の注意事項を一通り聞いた後、靴を袋に入れたままつながれた廊下と階段をひたすら歩いて山門、法棟、講堂棟を見て歩く。
 冬が豪雪が降る福井なので、全ての建物が廊下と階段でつながっている。何千人もの雲水がお勤めをしているだけあって、境内は広大で、歩いて回るだけでも一苦労。エレベーターかエスカレーターは無いのかーーー。
 それぞれの場所で修業中の雲水が先輩の指導を受けながら作法などを習っているが、先輩は柱にもたれかかって横柄な態度でお経を唱えながら指導している。
 思わずあんな先輩や上司に付きたくないなぁ〜。

   

● 顕海寺
 福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-66

 永平寺を出発し、顕海寺に向かう。
 若狭・・越前の各地には泰澄の伝説が伝えられている。特に越前は、中世に泰澄を開基とする平泉寺・豊原寺・大谷寺・大滝寺など、白山天台系とよばれる寺院の活動が盛んで、中でも平泉寺と豊原寺(とよはらじ)は広大な寺域と優勢な衆徒をもち勢威をふるっていた。
 平泉寺町はかつて白山信仰のシンボル的な存在であり、広大な寺域と優勢な衆徒をもち勢威を振った白山神社と、明治の神仏分離令の際分離した平泉寺があっ た場所で、現在跡地は国史跡「白山平泉寺城跡」に指定されている。白山神社は、今もなお鬱蒼とした杉木立に囲まれた広い社域を有している。

 
  
 顕海寺は、白山神社の石段の脇にあり、平泉寺由来の仏像を伝えている。
 地蔵菩薩立像は、平安時代には珍しい金銅仏で、左脇から右足へかけて斜めに衣文を表し、表情も穏やかな像である。
 同じく銅造の阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代の制作と思われる像で、なかなかの優品である。
 もう少しじっくり拝観したかったが、内陣に入ることが出来ず双眼鏡での鑑賞となったのが残念。

○ 銅造阿弥陀如来坐像 県文 像高520cm  鎌倉時代
 鍍金を全面に薄手に施し、眼は伏目、瞳は黒く、唇にかすかに朱跡が残っている。頭部から体部まで調和がとれている。12世紀を下らない時期の金銅仏の優 品である。顕海寺記録によれば、一向一揆の兵火の時、顕海上人が平泉寺境内の池の中に沈めて逃亡し、兵乱が収まった後引き上げて安置したと伝えている。

○ 銅造地蔵菩薩立像 県文 像高641cm 鎌倉時代宝物陳列館
 鍍金は薄く施され、裳を付け、袈裟を掛け、左手は屈腎し、右手は掌を正面に向けて垂下させ、直立した穏やかな面相の地蔵菩薩立像である。像は技法的にも優れ、体躯も形式的に整えられ、12世紀頃の制作と見られる像である。

   

 その後、白山神社を参拝するが、本殿までは約20分くらい石段と坂道を登らねばならず、永平寺の境内巡りでグロッキーの私は、入口の旧玄成院庭園を見て参拝したことにした。但し、私よりも十分ご老体のほとんどの人は息も切らさず本殿まで往復されていた。
 玄成院は天台宗平泉寺の塔頭であった。庭園は建物の東側に位置する廻遊式枯山水庭園で、、国名勝に指定されている。主要部の広さは約1,200坪。正面 上段には築山が配置され、立石・伏石による石組が施されている。築山の前面には、枯池が配置され、左方東北奥部に枯滝とみられる滝石組がある。枯池の右方 下手には、大きな自然石の出島があり、建物跡と枯池の間には、飛石が伏せられて、枯池への方向と、左方飛石段に続く方向のものに分けられる。
 苔むし鬱蒼とした雰囲気は非常に雰囲気があるが、観光客が踏み入れることが出来るのは約15m位の通路だけでちょっとがっかり。入園料は50円で箱に入れるだけなのでまあ良いとするか。
 
 

● 観音堂
 勝山市平泉寺平泉寺 平泉寺郵便局前

 観音堂は、白山神社のすぐそば。白山神社の旧境内図の中にも記されている観音堂の跡で、付近の道路も旧境内図の道路と全く変わっていないのに驚かされる。
 管理の方のお話だと、一向一揆の乱で付近一帯が灰燼にきした際、地中に埋まっていたのを、顕海寺を再興した顕海上人が掘り出して顕海寺に安置されていたそうだ。
 これを元の場所に戻したいと願った管理の方の祖父が、私財を投じて堂を建立し代々伝えてきたものだという。すなわち個人の所有物であるとのこと。祭時には町内の寄進があるとはいえ、個人で維持するのは大変なことと頭が下がる思いだ。
 
 聖観音菩薩立像は、左手に未敷蓮華を持ち、右手を胸前に置く、延暦寺などに伝わる天台系の聖観音像である。表情は穏やかで、制作は平安時代後期と考えられる。


 

   

 17:00ホテル到着

 連日地魚料理では飽きるため、今日はホテルで割引券をもらった中華料理にする。

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