【第10話】  般若寺・伝阿弥陀如来小金銅仏像 発見物語


〈その1ー2〉




【目   次】


1.般若寺のシンボル・十三重石塔から発見された、白鳳の小金銅仏


2.般若寺・十三重石塔の建立・修復の歴史をたどる


3.十三重石塔の解体修理と白鳳・小金銅仏の発見〜昭和39年(1964)






1. 般若寺のシンボル・十三重石塔から発見された、白鳳の小金銅仏



奈良県般若寺町・般若寺の「白鳳時代の小金銅仏、伝阿弥陀如来像」の発見物語です。

昭和39年(1964)に、発見されました。




般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像(白鳳時代・重要文化財)



般若寺は、東大寺・転害門の前の道を北に行き、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきったあたりに在り、コスモス寺という通称で知られています。
鎌倉時代の国宝の楼門が、我々を迎えてくれます。




境内にコスモスが咲き誇る般若寺・本堂




般若寺・楼門



般若寺の伝阿弥陀如来立像(重要文化財)は、境内の十三重石塔の中から、発見されました。
般若寺・十三重石塔といえば、境内地のど真ん中に堂々とそびえ立つ、あのシンボルタワーのような石塔です。




般若寺・十三重石塔



この石塔が、昭和39年(1964)に解体修理が行われた際に、石塔内から、白鳳時代の小金銅仏・伝阿弥陀如来像が発見されたのでした。

般若寺の伝阿弥陀如来立像は、像高28.8cmの小金銅仏です。
短躯で大きな頭部が印象的、いかにも白鳳仏といった雰囲気の仏像です。


2年前、2015年に奈良博で開催された白鳳展にも出展されましたが、その図録には、このように解説されています。

「額が狭く四角ばった面貌や、大ぶりな手足の表現などは、朝鮮半島三国時代の金銅仏を想起させる。
 
  一方、衣や台座の稜線に特殊な鑿で二列の点線を刻む複連点文を施す点や、衣端の周縁帯に半裁九曜文を表す点などは、法隆寺観音菩薩像(伝月光)のような白鳳金銅仏に共通し、本像も三国時代の渡来仏に倣って、日本で制作されたとみるのが穏当であろう。」

我国で制作された、白鳳小金銅仏の一類型といえるものだと思います。


この小金銅仏像が、十三重石塔の中に埋納されていたのです。


昭和39年の仏像発見に至るいきさつを知るためには、まず、この十三重石塔の鎌倉時代の建造から今日に至るまでの、歴史、道程をたどってみる必要があると云えるでしょう。




2. 般若寺・十三重石塔の建立・修復の歴史をたどる



【十三重石塔の由来〜鎌倉時代の発願建立】


般若寺十三重石塔は、総高13.3mの大石塔です。
鎌倉時代、建長5年(1253)頃に完成したといわれています。

般若寺の草創については、諸説あってはっきりしないそうですが、出土瓦などから奈良時代にこの地に寺が造営されていたことは間違いないようです。
その後、般若寺は荒廃し、「般若寺文殊縁起」にあるように、鎌倉時代に至り再興されることになります。

「般若寺文殊縁起」の叡尊願文中には、この石塔建立の由来が、このように語られています。

「件の寺、聖武天皇の草創、観賢僧正の遺跡なり。
星霜頻りに移りて空しく礎石を遺し、春秋しばしば仏像を改めて早く灰燼に変ず。
野干、居を卜して、古墓、列を成す。厳重の伽藍、名のみ有りて無実なり。
ここに大善巧の人有り。時に懐旧の悲しみを含みて、ついに興隆の願を起こす。
時、将に十三重の塔婆を立てんとす……。」




般若寺 文殊縁起



即ち、聖武天皇草創の般若寺は、その後空しく荒れ果てていたが、或る大善巧の人がその有様を悲しみ、十三重の塔を建立せんとしたというのです。

願文は、この後、このように続きます。

大善巧の人は、初重の大石を基礎に重ね、願を成就しないうちに死去し、その後一人の禅侶が完成を果たしたが、ただ石塔のみ成り、未だ仏殿が無かったので、かの上人(良恵上人)が仏殿造立を発願した。

再興にあたって、まず十三重石塔が発願、建立さたということです。

塔建立のいきさつを縁起などから想定してまとめると、

初め塔の建立を発願した人(大善巧の人)があって、初重の石を据え、完成を見ずに死去した後を継いで、良恵上人が完成したもので、延応2年(1240)頃には既に五重目を組上げ、建長5年(1253)頃に最上部を積上げ、間もなく完成をみた、

と考えられています。


その後、西大寺の中興と仰がれる叡尊上人が、般若寺の復興を始め、周丈六の文殊菩薩像を発願、造立(善慶作、文永4年・1267開眼)、その後、楼門(現存)をはじめとする諸堂も建立され、伽藍が整備されました。

このような由来で、建立された十三重石塔が、今も残る般若寺・十三重石塔です。

伝阿弥陀如来・小金銅仏も石塔の建立時に、塔内に納入されたものであろうと想定されているようです。






般若寺十三重石塔〜初層軸部には四方仏が線刻されている




【石塔を造った宋渡来石工・伊行末〜花崗岩石彫技術の確立者】


この石塔を制作したのは、「宋渡来石工の伊行末」という人でした。

伊行末は、俊乗坊重源が東大寺復興のため、宋から招請した石工人の一派です。

この伊行末は、我国では加工が難しかった、硬質花崗岩の石彫技術の確立に成功します。
それまで、我国では、軟質の凝灰岩の石彫技術しかなく、我国に広く分布する硬質花崗岩の彫刻が技術的に難しかったのです。
有名な臼杵石仏(平安後期)は、軟質の溶結凝灰岩に彫られた石仏です。

伊行末の制作した花崗岩石塔
宇陀大蔵寺・十三重石塔

宋工人・伊行末は、硬質の花崗岩を克服し、その石彫技術を確立しました。

これにより、鎌倉時代以降、花崗岩による石仏、石塔などの石造彫刻美術の制作が一般化する時代が到来するのです。
我が国、石造技術史の進展にとって、画期的な時代を到来させたのが伊行末であったといえるのでしょう。

般若寺・十三重石塔は、伊行末による硬質花崗岩の石彫技術確立を象徴する、シンボリックな作品といえるのだと思います。

「伊行末と花崗岩石彫」についての話は、 で、ふれたことがありますので、参照いただければと思います。




【石塔の損傷と修復〜元禄・明治には納入品取出し、再納入】


伊行末と花崗岩石彫の話はさて置き、十三重石塔の歴史をたどっていきたいと思います。

般若寺・十三重石塔は、鎌倉時代・建長5年(1253)頃完成したのち、現在に至るまで、相輪が取り替えられるなど、何度かの修復がされています。

室町時代、江戸時代の慶長〜元禄年間(1596〜1073)、嘉永〜安政年間(1854〜1860)、明治2〜3年(1868〜9)

などに、損傷した石塔の修理が行われました。


これらの中で、まずふれておかねばならないのは、「慶長〜元禄年間の損傷と修理」についてです。

慶長元年(1956)7月12日、大地震が発生し、相輪と上部の二重が墜落してしまいます。

慶長元年の地震で墜落した石製相輪
現在は十三重石塔脇に立てられている

その後、地に落ちたまま百年余放置されたままとなりますが、元禄13年(1700)に至り、修理に着手されます。
この時、従来の石相輪が、銅製のものに取り換えられました。
旧石製の相輪は、石塔の近くに今も立てられています。

この修理時に、第四重以上の壇を積み替えました。
元禄13年(1700)、5月のことです。

そうすると、石塔の重ね目から、いろいろな奉納物が発見されたのです。

紺紙金字の経巻、仏舎利入りの琥珀玉、閻浮檀金阿弥陀如来、十一面観音像、唐本法華経

などが、発見されたのでした。

この「閻浮檀金阿弥陀如来」というのが、今回発見物語に採りあげた小金銅仏・伝阿弥陀如来像のことです。
これら納入物の発見は、当時、大変な出来事であったのでしょう。

般若寺では、これらの霊宝を諸人に結縁することを企画します。
そして、なんと霊仏等を、江戸まで運んで、出開帳まで行っているのです。
石塔再建資金の調達に充てるためであったのでしょう。
その後も、元禄14年から15年にかけて、般若寺で、また大阪・浄国寺で、開帳が行われています。

石塔の修復は、元禄16年(1703年)に、無事完成しました。
そして、発見された小金銅仏などの納入物は、石塔内に再度奉納されたのでした。



もう一つ、ふれておかなければならないのが、明治初年における、十三重石塔の破壊とその修復の話です。

明治2年(1868)3月、なんと十三重石塔が引き倒されて破却されてしまったのです。
廃仏毀釈の嵐の吹き荒ぶさなかのことでした。

住侶隆恵が西大寺僧と共に還俗し、楼門を閉ざして塔を破却、本尊・文殊菩薩を経蔵へ押し込め、本堂に神壇を構えて、八意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)を祀るという事件が起こったのでした。

幸いにして、この事件は寺存続派の人々の意向が通り、8月には再び寺院に復し、年末から壊された石塔の修造が始められました。
翌明治3年(1864)、石塔の積み上げが完了し、旧に復しました。

この時、石塔の破却によって取り出された塔内納入品については、「般若寺宝塔出現霊仏奉納目録」がつくられ、再度、木箱に詰められたりして、石塔内に再納入されたということです。




明治の修復時に作られた「般若寺宝塔出現霊仏奉納目録」



この時、明治初年の納入品再納入以来、その後は、納入品が取り出されるということは無く、

「石塔内には、『閻浮檀金阿弥陀如来』などなどが、きっと奉安されているはずであろう」

とされてきたわけです。

ここまで、般若寺・小金銅仏伝阿弥陀像が納入されてきた、般若寺のシンボル・十三重石塔の建立、明治初年までの石塔修理と折々納入品が取り出された歴史をたどってきました。



〈その2〉では、昭和32年に十三重石塔の解体修理が行われ、白鳳時代の小金銅仏、伝阿弥陀如来像が発見された時の有り様などについて振り返ってみたいと思います。



【2017.12.2】


                


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