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特選情報  2015年
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●東大寺大仏の螺髪の数、492個と調査で判明〜伝えられてきた数の半分(12/3)(2015年11月14日)


東大寺の廬舎那仏・大仏の頭部の螺髪の数が、科学的調査により正確には492個であったことが明らかになりました。

新聞各紙は、一斉にこの記事を報じています。
朝日新聞記事(2015.12.3朝刊一面)
12月3日付・朝日新聞は、このように報じています。

「奈良・東大寺の大仏の毛髪(螺髪)が、定説の「966個」ではなく、「492個」だったことがわかった。
1千年近く伝えられてきた説を、レーザー光を使った最新技術が覆した。
東大寺が近く、ホームページで知らせる。
大仏の正式名は「盧舎那仏」。聖武天皇の命令で造られ、奈良時代の752年に完成した。
東大寺によると、平安時代に寺の歴史などを記した「東大寺要録本願章第一」には、「天平勝宝元年(749年)12月〜同3年6月、螺髪を966個つくった」とある。
今の大仏は江戸時代に修復された。螺髪が最初は966個あったのか、修復で減ったのかなどは不明だという。
江戸、明治時代の文献にも「966個」とあり、ずっと定説とされてきた。
・・・・・・・・・・・・・・
そこで、レーザー光を使って文化財を丸ごとスキャンする技術を持つ東京大生産技術研究所の大石岳史准教授の研究グループに依頼した。
レーザー光を照射して跳ね返る時間を測ると、細部の形も位置も正確にわかる。
わずかな隙間しかなくても複数箇所から照射することで立体データを取得できるという。
この調査で、東大寺の大仏には483個の螺髪があり、9個分が欠けていたことが確認された。
・・・・・・・・・・・・・・」

東大寺の
公式ホームページ・Q&Aにも、正確な螺髪数判明についての詳しい解説が、掲載されていますので、ご参照ください。

東大寺では、近年、修学旅行生や参拝者から螺髪の数を問われることが増えたことから、科学的調査を依頼することになったそうです。
現在の螺髪数が、東大寺要録等に記された966個もないことは、目視等でもおおよそ判っていたのではないかと推察されますので、今般の調査で、江戸時代再興像の正しい螺髪数数が確定したということだと思います。

新聞各紙はこぞって報道、朝日新聞には、朝刊第一面に、ご覧のような記事が掲載されました。
朝刊一面で報道するほどの「大きな発見」と云えるのかなとも思ってしまいますが、文化財関係の記事が大きく取り上げられるのは嬉しいことです。




●法隆寺金堂壁画焼損後、初の総合調査を実施〜今後一般公開も(11/12)(2015年11月14日)


新聞各紙の報道によれば、法隆寺(奈良県斑鳩町)は、昭和24年に焼損し、収蔵庫に保存している金堂壁画(重要文化財、7世紀末頃)の現状について、初の本格調査を行うと発表しました。

来月12月に保存、活用に向けた専門家による「保存活用委員会」を発足させ、今年度内にも調査が始まる予定となっています。
調査は12面の壁画を中心に焼けた部材も含め、収蔵庫で保管しているものが対象で、約3年をかけて、劣化の有無や最適な保存環境を最新の科学で探り、一般公開の可能性も検討するとのことです。
火災70年の節目となる平成31年(2019)1月に調査結果の中間報告を行う予定となっています。

この調査プロジェクトは、法隆寺金堂壁画焼損後、初の本格的総合調査となるもので、「保存活用委員会」には、文化庁や関係機関のほか、朝日新聞社も加わり、朝日新聞社の全面支援のもとに進められるようです。

朝日新聞は、11月12日の朝刊の一面トップで、一面の2/3を割いて、大々的に金堂壁画総合調査を報道しました。
一面のほかにも、特集記事が2面全紙に亘って編まれており、本調査プロジェクト全面支援への、朝日新聞社の気合の入り方が伺えます。

   
法隆寺焼損金堂壁画の総合調査実施を一面トップで報じる朝日新聞(2015.11.12付朝刊)


調査では、壁画表面の微妙な凹凸や土壁内部の状況を、最先端の非破壊検査器で調査し、経年変化の有無や、人間の目ではわからない描線の様子を把握し、保存対策や美術史研究に役立てるとしています。
どのような調査結果が判明するのか、愉しみです。

金堂焼損壁画は、現在、寺内食堂東側に建設された収蔵庫に収められており、普段は公開されず、毎年7月下旬に行われる法隆寺夏季大学の参加者には、特別伽藍見学として公開されています。
調査プロジェクト完了後は、一般公開される可能性が大きそうです。

なお、法隆寺の金堂壁画の炎上と模写の物語については、本HP「埃まみれの書棚から〜昭和の法隆寺の出来事をたどって(第3回〜5回)」にご紹介していますので、ご覧いただければと思います。

       
報道陣に公開されて金堂焼損壁画                                       10号壁 薬師浄土図





●山形県で平安前中期仏像2躯が県指定文化財へ(9/8)(2015年9月12日)


山形県文化財保護審議会は、平安時代に作られた山形市の立石寺・平泉寺の仏像2躯を、県指定文化財にするよう県教育委員会に答申しました。
10月には正式に指定される予定です。

私の関心の強い、平安前中期の仏像の県文指定ということなので、ご紹介させていただきます。

今般県文指定されるのは、次の2躯です。

山形市大字山寺にある立石寺の毘沙門天立像(像高133.3cm)
山形市大字平清水にある平泉寺の大日如来坐像(像高110.9cm)

立石寺の毘沙門天像は、ケヤキ材の一木彫、内刳り無しで、9世紀の制作と考えられています。
貞観二年(860)とされる立石寺の開基年代と符合する、立石寺最古の仏像です。
後世の彩色等が、ちょっと鑑賞を妨げていますが、力強い量感を強調した平安前期の仏像です。
詳しい解説は、
県指定文化財答申資料をご覧ください。
この像は、立石寺宝物館に安置されており、いつでも拝することが出来ます。

平泉寺の大日如来坐像は、頭体幹部一材の一木彫、後頭部内刳り・背面背刳りで、10世紀半ば〜後半の制作と考えられています。
拝したことはありませんが、写真で見ると量感ゆたかで安定感があり、平安中期らしい造型です。
また、胎蔵界大日像は遺例が少なく、本像は最古の遺品の部類に入るものと考えられるそうです。
詳しい解説は、県指定文化財答申資料をご覧ください。
平泉寺・大日如来坐像は、秘仏とされているようで、昭和54年(1979)年、屋根の葺き替えの際に一世一度のご開帳があったとのことです。
今回の県指定を機に、御開帳される機会があるのでしょうか?

      
立石寺毘沙門天像(9C)                 平泉寺・大日如来坐像(10C)





●奈文研で木彫仏の虫食フンから製作年代の科学的測定への試み(9/8)(2015年9月12日)


奈良文化財研究所では、木彫仏など木造文化財の内部に巣くった虫のフンや食べかすを分析し、制作年代を突き止める方法を考案中とのことです。
奈文研・主任研究員の大河内隆之氏が、今年7月開催された日本文化財科学会で「虫糞や虫粉を用いた放射性炭素年代測定に関する新たな試み」というテーマで研究発表を行ったとのことです。

2015年9月8日付、読売オンライン(関西)は、このように報じています。

虫のフンで木造文化財制作年代わかる!…奈文研

仏像など木造文化財の内部に巣くった虫のフンや食べかすを分析し、制作年代を突き止める方法を奈良文化財研究所(奈良市)の大河内隆之・主任研究員が考案した。
壊れやすい木像などを遠方の研究機関に運んだり、一部を削り取ったりせずに済むため、貴重な文化財の調査に役立ちそうだ。

大河内さんは、体長数ミリの昆虫「シバンムシ」に着目。幼虫は木像などを食い荒らすことで知られ、平安時代の木像(ヒノキ製)を使って実験した。
最初に木像を解像度の高いコンピューター断層撮影(CT)装置にかけて内部の年輪を調べ、年代を解読。
その後、908〜1014年の年輪がある部分の虫食い穴から数十ミリ・グラムのフンなどを採取した。
フンの中の炭素の放射性同位体(C14)の含有率を調べて年代を計算すると、908〜1014年とほぼ一致した。

C14を利用した従来の測定法は、文化財の一部を削り取った試料が必要で、仏像など美術価値の高い文化財には不向きだった。
しかし、C14の含有率は、木材が虫に食べられてフンになっても変化せず、新しい方法は有効と確認。
CT装置に入らない幅0・5メートル以上の文化財も測定できる。
大河内さんは7月、東京であった日本文化財科学会で実験結果などを発表した。」

仏像の場合、なかなか適切な試料を得ることが難しいので、新たな切り口の科学的測定法の考案にちょっと驚きました。
この測定法、これからどれ程の精度を出すことだできるようになるのか、良く判りませんが、今後の展開が大変興味深い、制作年代の科学的測定法だと思います。




●奈良・室生寺で、平安時代の四天王像2体発見(8/1)(2015年8月8日)


奈良県宇陀市の室生寺で、平安時代の制作とみられる、木彫四天王像2体が見つかりました。
像高約160cmで、境内の仁王門の2階内部で見つかったとのことです。
四天王像発見を報じる日経新聞記事

2015.8.1付の日本経済新聞は、仏像の発見をこのように報じています。

「古来、女性も自由に参詣できた女人高野として知られる室生寺(奈良県宇陀市)で、31日までに木彫の仏像2体が見つかった。
四天王像のうちの持国天と増長天で、寺は奈良国立博物館に依頼して詳しく調査する。
奈良博では『様式などから平安時代の作とみられる』としている。

2体は境内の仁王門の2階内部で見つかった。
いずれも台座を含め高さ約160センチ、左右の両手先部分が欠けていた。
室生寺の僧が写経の保管箱を収納するため、仁王門の2階に上った際、2体を発見した。

室生寺は明治初期の廃仏毀釈で多くの仏像が散逸。
四天王は仏法の守護神とされ、他に広目天、多聞天をあわせて通常は4体からなる。
『なぜ四天王のうち見つかったのは2体だけなのか、どんな経緯で納められたのか記録がない』(小田修史執事長)という。

仁王門は1966年に建てられた。
2階へは階段がないため、建造後50年近く誰も出入りしていなかった。
仁王門が建てられる前、すぐそばに二天門があったといわれるが、江戸末期までに焼失。二天門と仏像の関係もわかっていない。
4日に2階から仏像を降ろし、奈良博に移して調査を進める。」

不鮮明な写真で見る限りですが、太造りで結構古様な感じもします。

いずれ、奈良国立博物館から調査結果が発表され、奈良博に展示されるのではないかと思います。
その時が楽しみです。

   

四天王像が発見された室生寺仁王門と発見仏像の拡大写真





●島根県で仏像11体新発見・1体は奈良時代の木彫像(7/24)(2015年8月1日)


島根県で、奈良時代から江戸時代の文化財級の仏像11体が、石見地方の9寺院で新たに見つかりました。
このうちの1体、太田市・圓福寺の観音菩薩立像は、奈良時代の8世紀の制作と考えられ、中国地方最古の木彫仏とのことです。

島根県芸術文化センターの報道発表によると、

島根県芸術文化センターでは、開館10周年記念企画展の開催に向けて、石見地方全域の仏像調査を実施し、文化財級の仏像11体の存在を確認した。
これまで識者の知ることになかったこれらの仏像は、新発見作品として開館10周年記念展「祈りの仏像〜石見の地より」で初公開される。

とのことです。

新発見の仏像は、ご覧のとおりです。

  


最も興味深く、関心を惹くのは、奈良時代8世紀の制作とされる、圓福寺・観音菩薩立像です。
圓福寺・観音菩薩立像
(奈良時代・8世紀)


島根県芸術文化センターの報道発表では、本像について、このように解説されています。

圓福寺は大田市祖式町に所在する真言宗寺院。
本像は、圓福寺の秘仏本尊である。

頭体幹部をカヤとみられる針葉樹の一材から彫出し、内刳りは施さない。両肩以下は別材(後補)。
高く結われた螺髻、波打つ鬢髪、異国風の面貌、共義から彫出された胸飾、裙の上部を留める石帯、腰布下部の房状飾り、膝下の翻波式衣文、背面の弧を描く衣文など、唐招提寺伝来の一群の木彫像、なかでも伝自在菩薩像、伝獅子吼菩薩像(いずれも奈良時代・8世紀)に源流が求められる形状や表現が認められる。

像の大きさは、いわゆる一チャク手半(いっちゃくしゅはん)・約45pにあらわされカヤとみられる用材と共に奈良時代(8世紀)の一木彫成像に典型的な形状と様式を備えている。
この時代、中国(唐)でビャクダンなどの香木を用いて造立された仏像が日本へも伝えられ(請来檀像)重用されたが、本像は請来檀像に倣って日本で製作された仏像とみられる。



写真で見る限りですが、いかにも中国風で、西域風の雰囲気もあるようです。
となりの山口県神福寺には、渡来檀像の観音像が残されていますが、本像はカヤ材でわが国での制作のようです。
大変、興味深い古像で、一見したいものです。

これらの新発見の仏像は、2015 年9 月19 日(土)〜11 月16 日(月)に、島根県立石見美術館(島根県芸術文化センター「グラ ントワ」内)で開催される、「祈りの仏像〜石見の地より展」で、展示されるとのことです。

展覧会の詳細については、後日、本HP「展示会」コーナーで、詳しくご紹介する予定です。




●京田辺市・法雲寺の十一面観音立像、京博より35年ぶりに戻る(2015年6月27日)


法雲寺・十一面観音像
(府指定・平安後期)

京田辺市宮ノ口の法雲寺の十一面観音像は、京都国立博物館に長らく預けられていましたが、この度、本堂が新築された法雲寺に、35年ぶりに戻ってきました。

法雲寺・十一面観音像は、像高・178cm、平安時代後期の像で、京都府指定文化財に指定されています。

この仏像は、同地の白山神社内の法雲寺に在ったのですが、明治の神仏分離ですぐ近くの西念寺に移されました。
法雲寺の方は、廃寺になってしまったようです。
その西念寺も無住の寺となり、仏像は地域の檀家が共同で管理してきたそうです。
そして本堂が老朽化して保存が難しくなっていたため、昭和55年(1980)、京都国立博物館に修復や調査のため預けられました。

6月16日付の朝日新聞デジタルは、このように報じています。

「京田辺市宮津の法雲寺(旧西念寺)に、府指定文化財の木造十一面観音立像が35年ぶりに戻ってきた。

本堂が老朽化して保存が難しくなっていたため京都国立博物館(東山区)に預けられていたが、檀家(だんか)らが費用を出し合って本堂を大改修。
観音さまを新たな本尊として迎え、14日に開眼法要が営まれた。

法雲寺は江戸時代の創建とされる。
現在は住職はおらず、約40戸の檀家が守っている。
十一面観音立像(178p)は平安時代後期に作られたと考えられ、1980年に修理に出されて翌年に京博に預けられた。
檀家たちは15年かけて本堂改修費を積み立て、2013年から14年にかけて工事が行われた。

本堂の改修に合わせて、寺の名前を古い文献などに沿って西念寺から法雲寺に変更。
本尊もそれまでは不動明王坐像だったが、十一面観音立像を本尊とすることにしたという。
観音さまが運び込まれたのは今月7日。
不動明王坐像も本堂に安置した。

14日の開眼法要には約40人が集まり、熱心に手を合わせていた。
檀家の一人で改修に携わってきた木元一志さん(65)は
『やっとこの日を迎えることができ、感慨無量です。心新たにみなさんの気持ちが一緒になればと思う』
と喜びを語った。」

   

35年ぶりに戻ってきた観音像と開眼法要


新聞報道では、この度、「西念寺」から「法雲寺」に寺名をあらためたということですが、文化財指定上の所有者は「西念寺所蔵」で登録されています。

この十一面観音像については、伊東史朗氏は、「覚助の作風を受け継ぐ像」とみて、このように解説されています。

「11世紀半ば、彫刻における和様を大成した仏師定朝には、後を継いだ弟子に覚助と長勢がいた。
嫡流だった覚助は定朝の作風を正統的に受け継ぎ、量感あるおおらかな作風を保つ。
その遺作と考えられるものに京都・大蓮寺薬師如来像があるが、本像もまた覚助の作風をよく受け継いだ作である。」
(「京田辺市の仏像」2007年京都市教育委員会刊)

長らく博物館保管で観ることが出来なかった仏像ですが、これからは法雲寺を訪ねてご拝観をお願いすれば、拝することが出来るようになるのではないかと思います。
法雲寺は南山城、近鉄宮津駅が最寄り駅です。大御堂観音寺や蟹満寺が近くにある処です。
機会があれば、一度、訪れてみたいものです。




●東大寺・試みの大仏などを国宝・重要文化財指定答申(2015年3月7日)


文部大臣、文化庁長官の諮問機関である文化審議会は、2015年3月13日、2件の国宝指定と、39件の重要文化財指定の答申を行いました。
2件の国宝指定は、共に仏像で、東大寺・弥勒仏坐像(通称:試みの大仏)と、醍醐寺・虚空蔵菩薩立像(重文指定名称は聖観音立像)です。

        

.       東大寺・弥勒仏坐像(通称:試みの大仏)        醍醐寺・虚空蔵菩薩立像(重文指定名称は聖観音立像)


重要文化財指定39件のうち、彫刻は7件でした。
そのほか、法隆寺金堂壁画写真原板、同ガラス原板も重文指定答申されています。

これら、仏像関係の指定文化財を一覧にすると、次のとおりです。

  

今回の国宝指定は、2件とも彫刻、それも檀像様の平安初期彫刻です。
共に素晴らしい出来の一木彫で、私も大好きな仏像ですが、平安初期一木彫の評価が近年益々高まってきていることを実感させられた思いです。
平安初期彫刻では、勝常寺・薬師如来坐像も平成8年(1996)、国宝に指定されました。


指定国宝の答申事由説明をご紹介しておきます。

【醍醐寺・木造虚空蔵菩薩立像】

腕から垂れる天衣まで一材より彫り出した菩薩像である。衣のひだが複雑に乱れる様子を克明に刻み出す表現が見事で、平安時代前期彫刻の名作として知られている。
現在、観音像として重要文化財の指定を受けているが、最近の研究で、虚空蔵菩薩像として伝えられていたことが判明している。このような新たな知見を踏まえて国宝に指定する。

この醍醐寺像は、これまで聖観音像という呼称で親しんできました。
「虚空蔵菩薩像であることが判明した」という話は、全く知りませんでした。
NETで検索してみると、
「菩提寺虚空蔵菩薩像版木と醍醐寺木造聖観音立像」(副島弘道) 川勝守・賢亮博士古稀記念東方学論集所収、2013年汲古書院刊
という論文があるのを見つけました。
内容は確認していませんが、この論文が虚空蔵菩薩であることを論証した研究ではないかと思います。


【東大寺・木造弥勒仏坐像】

東大寺法華堂に伝来した弥勒仏像である。鎌倉時代には、東大寺の創建に関わった良弁僧正が自ら造ったという伝説を伴い、あつく信仰されていたことが知られている。
頭部を大きく、上半身を幅広に造り、小さな像とは思えない雄大な造形を示すところから、「試みの大仏」つまり大仏を造るにあたっての試作品という呼び名がある。
平安時代前期の彫刻の名作として国宝に指定する。


このほかに、焼失前の法隆寺金堂壁画の撮影写真原板、ガラス原板も重要文化財に指定されることになりました。
この写真は、昭和10年(1935年)に、文部省法隆寺国宝保存事業部の事業として、古美術写真の名門、便利堂により撮影されたものです。
特に四色分解写真原板は、壁画焼損前の彩りを伝える唯一の原板として貴重なものです。
また、全紙規格の大型撮影機を使用し、高い撮影技術を駆使して細部に至るまで、精緻な記録を作成することに成功したもので、写真資料としての価値も高いものです。
この写真原板、ガラス原板は、昭和24年(1949)壁画焼失前の法隆寺金堂壁画模写事業にも、また戦後の再現壁画事業にも、基礎資料として活用されています。

詳しい答申内容については、
文化審議会答申・報道発表をご参照ください。

      

.    長瀧寺・韋駄天立像          新町地蔵保存会・地蔵菩薩坐像           西大寺・如意輪観音坐像       荒茂毘沙門堂管理組合・毘沙門天立像




●京都・神光院の薬師如来立像が京都市指定文化財に新指定(2015年3月7日)


神光院・薬師如来立像
京都市北区西賀茂神光院町の神光院に祀られている薬師如来立像が、この度、京都市の指定文化財に指定されることとなりました。
3/2付新聞報道によると、今般、京都市文化財保護審議会より市教委に答申されました。(今回は5件の答申でした)

神光院の薬師如来像は、無指定の知られざる仏像でしたが、近年、平安初期・9世紀の一木彫像ではないかと、注目を浴びている像です。

皿井舞氏が、2011年に、「美術研究」誌上に論考掲載し、平安初期神仏習合像の一例として紹介された仏像です。【美術研究404号所収「研究資料〜京都神光院蔵 木造薬師如来立像」(2011/8)】

この神光院・薬師如来像、本HPのブログ「観仏日々帖」〜古仏探訪〜
京都・神光院  薬師如来立像で、2013年5月に、ご紹介させていただきました。
私も、この仏像を拝した時、荒々しく粗野な衣文の彫口、迫ってくるような量感に、霊力、オーラのようなものを強く感じ、これは平安初期仏像に間違いないと、大いに惹き付けられました。

その薬師像が、目出度く、指定文化財となるわけですから、嬉しき限りです。

京都市文化財保護審議会の指定答申事由には、このように解説されています。

「本像は、典型的な平安初期一木造の作風を示している。

量感のある体躯は,奈良・元興寺薬師如来立像(国宝)や京都・金剛心院如来立像(重要文化財)などの平安時代前期の彫刻に近似し、正面大衣の下縁に立ち上がりをつけながら波打たせる処理は,唐招提寺伝薬師如来立像(重要文化財)や神護寺薬師如来立像(国宝)など、奈良時代後半から平安時代初期の彫像に相通ずる古様さがある。
以上から、本像の制作は9世紀前半にさかのぼると考えられる。
・・・・・・・・・
本像は,慶応3年(1867)上賀茂神社の神宮寺から旧本尊の十一面観音立像と共に移されている。
ただし、上賀茂神社神宮寺の創建は10世紀末頃と考えられており、9世紀前半の制作と推定される本像は、神宮寺創建当初からの安置仏とは考えにくい。

そこで興味深いのは、当初の安置場所として上賀茂神社の東方に所在した岡本堂をあてる説である。
岡本堂は『続日本後紀』によれば,賀茂社の神戸の百姓が賀茂大神のために建立したが、天長年間(824〜834)に破却され、天長10年、勅により再建が許された。
本像の制作年代は岡本堂が再建された時期に合致し、その作行きの素朴さも、神戸の百姓によって建立された岡本堂に安置されたと見るにふさわしいものである。

本像は上賀茂神社における神仏習合思想を背景に制作された、9世紀前半の一木造として貴重な遺品である。」

この解説は、皿井舞氏の論考における考え方に沿ったもののようです。

皿井氏は、本像を、賀茂大神のために建てられた岡本堂にあったものだとすれば、平安時代前期における基準的作例の一つとなり、
「神護寺薬師像と同様に、『仏力をもって神威を増す』という神仏習合思想を背景に造立されたものだったと考えられる。」
と述べています。

神光院の薬師如来像、今回の新指定を機に、益々注目される像になっていくのを愉しみにしています。

    

神光院・薬師如来立像




●長野・松代清水寺で平安前期作の天部形像新発見(2015年3月7日)


調査中の松代清水寺・天部形像
長野市松代町西条の清水寺で、10世紀の平安時代前期に作られたとみられる仏像が見つかりました。
60年以上前に建替えた本堂の天井裏に保管されていた多数の仏像の1体ということです。

この像は、4月4日から長野県信濃美術館で開催される、善光寺御開帳記念
「信濃の仏像と国宝土偶展」で展示される予定です。

実践女子大の武笠朗教授らが3日、同寺で詳しく調べた結果によるものです。
武笠氏は
「霊木(神木)で造られたと考えられる上、仏像の形で神の姿を現す神仏習合の像の可能性がある」
とし、県内では珍しい像だとしているとのことです。

この新発見については、3/5付信濃毎日新聞紙上で報道されました。
次のように報じられています。

「カツラとみられる1本の木材を彫った高さ95.2pの立像。
ひび割れを防ぐために内部をくりぬく『内刳』がないことなどから、平安時代前期の作と推定された。
像の胸から脚にかけて大きな割れ目があり、右袖や左脚には木の節がある。
武笠教授は
『傷みが激しく元の状態が分かりにくいが、割れ目や節があるのにあえて作ったとも考えられる』
と話し、いわれのある霊木を使った可能性があるとした。

像は袈裟(けさ)や冠の様子から仏教の護法神『梵天』とみられ、武笠教授らは
『近年の研究ではこれまで梵天とされていた仏像を神像と判断する場合もあり、神仏習合像の可能性がある』
としている。
・・・・・・・・・
住職の母で日本画家の戸谷由紀子さんが、1953(昭和28)年に建て替えた本堂の天井裏に多数の仏像が保管されていることを県信濃美術館(長野市)に伝え、今回の調査が実現した。
戸谷さんは
『60年以上も天井でお休みになっていた仏様がずっと気になっていた。明るいところに出せて良かった』
と話している。」

写真で見ると、良くは判りませんが、いかにも天部形神像の古像のように感じられます。
松代清水寺は、独特の造形、アクの強い造形の平安古仏の諸像で、平安古仏愛好家に知られた古寺です。
あのようなインパクトの強い古仏が残された清水寺なら、平安前期の天部形神像が残されていても不思議はないように思えます。

迫力ある、興味深い像のようで、長野県信濃美術館の「信濃の仏像展」に展示されるのであれば、見てみたいと思う古像です。

               

.              松代清水寺・観音立像(平安時代)            天部形神像といわれる像(兵庫・満願寺天部形像10C〜奈良橿原・正覚寺天部形像11C)




●山形県東根市・国分寺薬師堂の薬師坐像の制作年代が10Cと判明(2015年3月7日)


東根市・国分寺薬師堂〜薬師如来坐像
山形大と東北芸術工科大は、2月24日、山形県東根市・国分寺薬師堂の薬師如来坐像(市指定文化財)の制作年代について、従来大まかに平安中期とされていましたが、100年以上古く、10世紀の制作であるところまで絞り込んだとの調査結果を発表しました。

東北芸術工科大学文化財保存修復研究センターとの共同研究により、山形大学の高感度加速器質量分析装置(AMS)での放射性炭素年代測定を実施した結果、制作年代を絞り込めたということです。

毎日新聞(2/27付)は、次のように報じています。

「薬師堂の崇敬者の会が中心となって設立した『東方の歴史を守る会』が、文化庁から『文化芸術振興費補助金』を受け、両大学に依頼した調査は昨年始まった。

加速器質量分析(AMS)法による年代測定や、製作に用いられた技法の調査などの結果、10世紀後半ごろの製作と判定したという。
東北芸工大の岡田靖講師は
『この年代の作品は全国的にみても現存数が少なく希少性は高い』
と話す。
現在は東根市指定有形文化財だが『県指定になるだけの価値がある』とも。
この研究により、薬師堂の歴史研究が進展すると期待されている。」

山形大学のプレス発表による詳しい解説については、
山形大学定例記者会見資料をご覧ください。

記者会見資料を見ると、

・材質・構造面、造形様式面からも10世紀後半の制作と判断されること。

・体幹部内刳り面、膝前部内刳り面から採取した微量の木片の放射性炭素年代測定を行った結果、各材800年〜996年の暦年代較正測定値となり、辺材までの年数、伐採後年数を状況判断しても、制作年代を10世紀頃に絞り込むことが出来る。

と述べられています。

皆さん、この薬師如来像の制作年代を、どのように感じられるでしょうか?
難しいことは良く判らないのですが、山形という地方での制作であることや、科学的分析手法の精度の問題などを考えると、制作年代をピンポイントに絞り込んでいくというのは、なかなか難しい面もあるのかなという気も致します。

    

東根市・国分寺薬師堂〜薬師如来坐像  背面と底部





●奈良市水門町の入江泰吉・旧居が3月から公開(2015年2月7日)
入江泰吉


奈良の仏像や風景を撮り続けた写真家、入江泰吉の旧居が、3月から公開されることになりました。

一般公開は3月1日からで、入館料は1人200円とのことです。
詳しくは、奈良市文化振興課(0742・34・4942)へ、お問い合わせください。


思い起こせば、東大寺戒壇堂の石段を下って、水門町の住宅が並ぶ静かな道を往くと、右手に「入江泰吉」という墨書きの表札がかけられた住まいを見つけることができました。
生垣に囲まれた数寄屋風の瀟洒な門の前で足を止めると、その静かなたたずまいに、自然に心が和み落ち着いた気持になるような気になったものでした。
この入江邸の前に佇むと、
「あの入江の、静謐で、穏やかで、心落ち着く写真は、この住まいの住人に相応しい」
そんな気持ちになったものです。

  

かつての入江泰吉の旧居(長らく「入江泰吉」の表札が掲げられていた。)



写真家・入江泰吉の名を知らない人は、まずいらっしゃらないことと思います。
奈良に在って奈良大和路の美しい風景や仏像を撮り続けた、巨匠と呼ばれるにふさわしい、戦後を代表する写真家でした。

入江泰吉は、終戦後、奈良市水門町に住居を構え、86歳で亡くなるまで40年以上を過ごしました。
旧居は、大正8年に吉城園の正法院家住宅を建て替えた際、移築したとも伝えられています。

入江が住まいする前は、細谷而楽(三郎)の居宅でした。
細谷而楽は、長らく美術院で仏像の修理修復にあたった、東京美術学校の出身の彫刻家です。
新薬師寺の国宝十二神将塑像のうち、江戸時代の大地震で、一体だけ失われた波夷羅大将を補作した作者として知られている仁です。

新聞報道によれば

「旧居は、99年に妻のミツエさん(故人)から同市に寄贈されたが、活用されないまま老朽化が進んだ。
2007年、市民らが保存・活用を求める要望書を同市に提出。
同市が昨年3月から国の補助金を含む6786万円をかけて耐震補強や改修工事を行い、同11月に完成した。
畳や床、古い柱は取り換えられるなどしたが、部屋の配置や内装、調度品などはほぼ、入江さんが元気だった頃のまま残されている。
旧居のそばを流れる吉城川のせせらぎを聞きながら、当時の風情を楽しめる。
仲川元庸市長は
『入江さんが作品の構想を練った旧居で、一歩踏み込んだ奈良の魅力を感じてもらいたい。観光客の奈良での滞在期間を延ばすことにもつながる』
と期待する。」(1月17日付、読売新聞)

とのことです。

旧居に近く、奈良の近代文化史を彩った「奈良の宿・日吉館」は、残念ながら老朽化し、取り壊されてしまいましたが、入江泰吉・旧居の方は、保存公開されることになったことは、大変うれしいことです。

是非、近々、訪れてみたいものと思っております。

    

3月から公開されることになった「入江泰吉旧居」の外観と室内の模様





●所在不明の国宝・重文は180件に〜文化庁調査結果を発表(2015年1月24日)


文化庁は1月21日、国宝や重要文化財に指定されている美術工芸品10524件のうち、所在不明が180件あるとの調査結果を発表しました。

一昨年(2013)11月、所在不明の国宝や重文が多数あることが、TV報道等がされるなど話題になりました。
その概要については、この「特選情報」で
「全国の重要文化財76点が所在不明〜滋賀甲賀・大岡寺の仏像も(2013年11月2日)」
と題して、ご紹介したとおりです。

これを受け、文化庁では、国宝・重文の所在確認調査が進められ、昨年(2014)7月、第一次の調査結果が発表されました。
概要については、
「国宝1点と重要文化財108点 が行方不明(2014年7月12日)」
をご覧ください。

今回発表されたのは、「第2次取りまとめ」による調査結果です。
発表によると、国指定文化財(美術工芸品)全件(10,524 件)のうち、所在不明のものは180件(うち国宝3件)、追加で確認調査が必要なものは68件(うち国宝9件)ということです。

所在不明文化財のうち、仏像などの彫刻は18件(うち国宝は無し)となっています。
所在不明・彫刻18件のリストは、文化庁発表によると、以下のようになっています。


 


ご覧のとおりで、17件の所在不明仏像、神像の備考欄を見ると、14件が「盗難届済み」と記され、盗難に遭ったもののようです。
いわゆる所有者が把握できないなどの行方不明は3件となっていました。

文化庁発表のリストには、「どこの寺社の所蔵仏像」であったかが記載されていません。
そこで、盗難に遭った17件の、所蔵寺院、神社を調べてみました。

所蔵寺社などは、次のとおりのようです。


 


このデータは、本HP連載の「埃まみれの書棚から〜奈良の仏像盗難ものがたり」で調べた過去の盗難仏像リストなどと付け合せて、作成したものです。
間違っている可能性もありますので、ご承知おきください。

大変よく知られているのは、昭和18年に盗難に遭った、新薬師寺・香薬師像ですが、その他の盗難仏像・神像は、あまり知られていないものばかりだと思います。


今回の調査でも「所有者が長期入院していて確認できない」などの理由で、さらに調査が必要な文化財が68件ありますが、文化庁では、今後も調査を継続するとのことです。





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