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特選情報  2013〜14年
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●金剛峯寺・快慶作執金剛神像の内部から制作由来文書発見(2014年10月4日)
金剛峯寺・執金剛神立像(快慶作)

高野山金剛峯寺に伝わる、快慶作の執金剛神立像(重文)の胎内から、墨書7通が見つかり、重源の要請で快慶が本像を造ったことが明らかになりました。

新聞各紙は、9月27日付で、この文書発見を報じました。
読売新聞関西版は、このように報じています。

「高野山真言宗・総本山金剛峯寺(和歌山県高野町)が所蔵する木造・執金剛神立像(重文、高さ1m49p)の胎内から、「建久八年三月」「於東大寺別所」などと記された墨書7通が見つかり、公益財団法人高野山文化財保存会が26日、発表した。

同像は鎌倉時代を代表する仏師・快慶の作。
墨書から制作時期が判明し、平家の焼き打ちに遭った東大寺を復興した高僧・重源作らせたことが裏付けられた。

奈良国立博物館(奈良市)での修理で、胸部に納められているのが見つかった。
縦10〜31センチ、幅18〜52センチ。年紀のほか、「南無阿弥陀仏依御勧進書写」「一切衆生」などと記してあった。重源は「南無阿弥陀仏」と名乗っており、建久8年(1197年)に勧進したことが判明した。

記者会見した同宗の添田隆昭宗務総長は『今回の発見で、執金剛神立像が高野山に運ばれた由来がはっきりした』と話した。」

        

金剛峯寺・執金剛神立像(快慶作)体内から見つかった墨書。
(左)左側に重源の号「南無阿弥陀仏」や「建久八年」の年号がある。(右)梵字で「宝篋印陀羅尼」が書かれ、その後に「建久八年三月廿九日」「於東大寺別所」などと書かれている。



金剛峯寺・広目天像(快慶作)
重源「作善集」によれば、重源は、この執金剛神像及び深沙大将像と、四天王像を高野山に安置したとされ、高野山霊宝館にある四天王像(重文)がこれに相当するとされています。
このうち快慶が制作した広目天像は、建久七年に作られた東大寺大仏殿の四天王像(焼失)のひな型との説が有力です。
執金剛神像・広目天像が、ほぼ同時期に造られたこととなり、「ひな型説を補強する発見」であるということです。

金剛峯寺の広目天像は、足ホゾ墨書から、快慶作であることが古くから知られていましたが、執金剛神像が快慶作であることが判明したのは、直近の2011年のことです。

執金剛神像、快慶作判明の経緯は、次のようなものでした。

2011年9月、展示中の本像が転倒し一部破損しました。
このとき出来た開口部に、ファイバースコープを入れて調査した結果、胎内に『宝篋印陀羅尼』が納入されていることと、頸部内面に「ア阿弥陀佛」の墨書があることが判明し、快慶作であることが明らかになりました。
この発見により、翌年、2012年には、執金剛神像と対の深沙大将像が、重要文化財に指定されました。

 

ファイバースコープで判明した頸部内面の「ア阿弥陀佛」墨書


この時の調査で、内部に文書があることは分かっていましたが、今回、奈良国立博物館での修復に伴って解体され、7点の文書の詳細な内容も判明したものです。
文書には、快慶の称号である「アン阿弥陀仏」の5文字とともに、「建久八年三月廿(にじゅう)九日」「於東大寺別所書写」の文字が確認され、3月29日に東大寺で完成したことが分かりました。

執金剛神立像と、発見された墨書1通は、サントリー美術館で開催される
「高野山の名宝展」(10月11日〜12月7日)に出展されます。




●京都市・勝光寺の聖観音立像が市指定文化財に(2013.4)(2014年9月20日)

勝光寺・聖観音立像
京都市下京区中堂寺西寺町・勝光寺の聖観音立像が、京都市の指定文化財に指定されました。

特選情報で、わざわざ勝光寺・聖観音立像の文化財指定をお知らせするのは、
本像は、
2012年6月の「観仏日々帖」(京都勝光寺・聖観音立像)
で、ご紹介をした仏像だからです。

9世紀の制作で、なかなか魅力あふれる、檀像風小像です。
「観仏日々帖」には、この仏像が無指定のままであることについて、

「現在に至っても無指定ということなのですが、理由はよく判りません。
京都市中では、このレベルの仏像では、重文はおろか府・市指定も難しいということなのでしょうか?
私の眼には、そのようには映らないのですが・・・・・」

とのコメントを載せさせていただきました。


ようやく、2013年4月に、京都市指定文化財に新たに指定されました。
文化財指定の解説が、2014年3月に、京都市情報館HP・新指定・登録文化財 第31回京都市指定・登録文化財に掲載されていたのですが、今まで気がつきませんでした。
当HP読者の方に情報をいただき、初めて知った次第です。

文化財指定に際しての、HP・作品解説には、次のように解説され、高い評価がされています。

「本像は蓮肉(れんにく)も含めた頭体の主部を針葉樹材(カヤか)から彫成する一木造で,切れ長で比較的見開きの強い目,低く太い鼻梁,彫の深い口唇などの顔貌表現,頭部の比例が大きく全体として寸詰まりなプロポーションは9世紀前半の作例に通じる。
その出来映えは,この時期の彫像の特色をよく伝える優れたものであり,伝来した真如寺の開創期の作とは同定し難いが,藤原良縄ゆかりの像である可能性があり,平安京が開かれて間もない時期の造像例として,その価値は極めて高いと言えよう。」

京都市は、云うまでもなく文化財の数も膨大で、市指定文化財といっても、かなりのハイレベルな作品ばかりです。

晴れての文化財指定、大変嬉しき限りで、<特選情報>で、お知らせしました。

       

勝光寺・聖観音立像(平安前期・京都市指定文化財)





●醍醐寺の理源大師坐像胎内に五輪塔など納入品発見(X線撮影)(2014年9月3日)

奈良国立博物館は、9月1日、開催中の特別展「国宝 醍醐寺のすべて」で展示されている醍醐寺・理源大師坐像(重要文化財)の内部に、五輪塔などの納入品が見つかったと発表しました。
X線透過撮影を実施したところ、像内胸部に五輪塔(高さ約15センチ)があるのが確認され、五輪塔の空洞内部にも、紙で包まれた小さな納入品が複数見つかりました。
開封調査はできませんが、理源大師・聖宝の遺灰などの可能性もあるということです。

奈良新聞(9/2付)は、このように報道しています。

醍醐寺・理源大師坐像(鎌倉時代・重要文化財)
醍醐寺(京都市伏見区)の上醍醐開山堂に安置された木造理源大師坐像(国重要文化財、鎌倉時代)の像内に五輪塔が納入されていたことが分かり、同寺と奈良国立博物館が1日、発表した。
五輪塔の内部では小さな紙の包みを複数確認。平安時代初期に同寺を開いた理源大師聖宝(832〜909年)に関わる重要な品の可能性が強いという。

五輪塔は奈良国立博物館が行ったX線透過撮影で確認された。
高さ約15センチ、幅と奥行き5〜6センチの木製で、像内の胸上部に固定されていた。形状から像と同じ鎌倉時代に作られたと考えられる。
内部に空洞があり、紙のようなものに包まれた小さな物体を複数確認。材質や形状は不明という。

理源大師坐像(高さ約83センチ)は等身大の肖像彫刻で、文応元(1260)年に焼失した聖宝の御影像を翌年再興。当時の人々が焼け跡から灰や当初の御影像に納入されていた品などを探し出して五輪塔に入れ、新たな肖像に納めた可能性もあるという。

・・・・・・・・・・

醍醐寺の仲田順和座主は
「五輪塔は歴代座主が念持仏にするなど、醍醐寺にとって意味は大きい。理源大師の祈りを受け継いできた証となる」
と喜ぶ。
五輪塔の内容物について、奈良国立博物館の内藤栄学芸部長は
「胸は像にとって位置的にも大事な場所。何かは分からないが、かなり重要な物だと予測される」
としている。

今回の像内納入品の発見についての奈良国立博物館の説明・解説については、奈良国立博物館HPの
お知らせ・プレスリリースに詳しく掲載されていますので、参照いただければと思います。

プレスリリースによれば、像内に納入品が存在することは、平成14〜15年(2002〜3)に財団法人・美術院により、本理源大師像の保存修理が行われた時にも、X線透過撮影が行われ、判明していたようですが、その時には、報道発表が行われず、今回が初めての報告になったということです。

       

理源大師坐像のX線透過撮影映像(像内胸部に五輪塔、五輪塔空洞内部にも小さな納入品が見える)





●国宝1点と重要文化財108点 が行方不明(2014年7月12日)

7月5日付・朝日新聞
新聞各紙は、7月5日、
「文化庁は4日、国の国宝・重要文化財で絵画や彫刻、刀剣などの美術工芸品1万524件のうち、国宝1件を含む109件が所在不明だと発表した。」
と、報道しました。

昨年、10月31日のNHKニュースで、
「国宝を含む重要文化財76点が、所在不明になっている。」
との、特集報道がありました。
(11/2付の「特選情報・全国の重要文化財76点が所在不明」をご参照ください)

その時、文化庁は所在不明の実態について確認を進めることにしているということでしたが、その調査結果の第一報が、この報道となったものです。

NHKニュースは、この発表について、このように報道しています。

「国の重要文化財を巡っては、去年、NHKの調査で70点余りが所在不明になっていることが明らかになり、文化庁は1万524点すべての国宝と重要文化財の所在確認を進めています。
その結果、昭和28年に国宝に指定された「短刀銘国光」と重要文化財108点が所在不明となっていることが分かりました。

国宝の短刀は所有者だった東京都の男性が18年前に死亡し、所在が分からなくなっているということで、所有者が死亡したり法人が解散したりして所在不明になっているものは25点ありました。
そのほかの理由としては、盗難が33点、所有者の転居が31点、売却が3点、経緯が分からないものなども17点ありました。

文化庁は、古美術商などに情報を提供して行方を追跡するとともに、再発防止のため来年度から年に1回、往復はがきやメールで所有者に直接連絡をとって所在を把握するほか、各地の教育委員会を通じて4年に1度、調査を行うことにしています。
一方、調査を続けていてまだ確認できていない文化財が国宝12点を含めて238点あるということです。

文化庁美術学芸課の江崎典宏課長は
『多くの文化財が所在不明となり重く受け止めている。指定するだけで状況を確認してこなかったことを反省し、再発防止に努めていきたい』
と話しています。」

重要文化財の行方がこんなに多数判らないというのは、一大事で、びっくりです。

文化財保護法では、国宝・重要文化財の所有者や所在地が変わった場合、文化庁長官への届け出を義務づけていますが、寺社等の所有ではなく、個人所有のものは、相続の差異や、売買されたりしたときに、法律通りに届け出がされないことや、法律の規定を知らないケースもあるようです。

一万点以上の重要文化財の所在を、文化庁が、常に間違いなく管理、掌握するのは、現実には、なかなか至難ともいえるようにも思います。



●舞鶴市・善福寺の仏像から墨書銘発見、平安時代作と判明(2014年2月15日)

平安後期の作と判明した地蔵菩薩坐像
内部に制作年と結縁交名が記されていた

京都府舞鶴市・善福寺の地蔵菩薩坐像(像高133.5p)の腹部の内側に、制作年とみられる承安5年(1175)の年号などを含む墨書銘が書かれているのが見つり、平安時代後期制作の仏像であることが判明しました。
善福寺では、仏像に痛みがみられることから修理のための調査を依頼していた処、仏像の胎内に墨書銘が残されていたことが赤外線撮影で明らかになったとのことです。
本尊の阿弥陀如来坐像(像高57.6p)、天部形立像(像高97.7p)を含めて、三体共に平安後期の制作と考えられるとのことです。

2月6日付け「京都新聞」は、次のように報道しています。

舞鶴市京田の善福寺と市教育委員会は5日、地蔵菩薩(ぼさつ)坐像など寺所蔵の仏像3体が、平安時代後期の12世紀に作られたことが分かったと発表した。
制作年と、仏との縁を望んだとみられる近隣の有力者の名前も多数記され、研究者は「重要文化財級」としている。

本堂や仏像に傷みがあり、修理を検討するため、寺島典人・大津市歴史博物館学芸員らが、地蔵菩薩坐像と本尊の阿弥陀如来坐像、天部形立像を調査した。
地蔵菩薩像胎内の墨書銘
3体の仏像は木造で、頭部は後年に彩色や補修が施されているが、
いずれも平安時代後期特有の技法で作られ、赤外線撮影で地蔵菩薩坐像の内側に承安5(1175)年の年号と多数の人名が確認できた。
出資した人の名簿「結縁交名(きちえんこうみょう)」とみられ、51人分が判読できた。
同時期の地域の文献に登場する氏族名が多いという。

善福寺は臨済宗東福寺派で、1417年に開創。地蔵菩薩坐像は現在、「子安地蔵尊」として地域の信仰を集めている。田中文秀住職(34)は「平安時代の作と知り、驚いている。次代に伝えたい」と話している。

仏像を確かめた根立研介・京都大文学研究科教授(日本彫刻史)は「銘文で制作年が分かる平安時代の像は全国でも少なく、重要文化財級だ。京都府北部の歴史を知る上でも貴重な資料」と話している。

地蔵菩薩像は、近年の白土彩色がなされて、本来の像容が判り難くなっているようですが、平安後期の年記がある仏像の発見は、大変貴重なものだと思われます。


●大津市・新知恩院で快慶工房作か?釈迦涅槃像発見(2014年2月8日)

大津市伊香立下在地町の新知恩院で、鎌倉初期とみられる釈迦涅槃像が発見されました。
全長12.5pの、手のひらサイズの小型釈迦涅槃像で、胸に水晶がはめ込まれるという大変めずらしい造型です。
作風から、快慶もしくはその弟子など快慶工房の作品ではないかとみられるとのことです。

新知恩院で発見された釈迦涅槃像
新知恩院は、浄土宗の総本山・知恩院(京都市東山区)が、応仁の乱の戦火を逃れるため、疎開先となった寺院です。
大津市歴史博物館が平成24年(2012)から収蔵品の調査を実施ており、本涅槃像は昨年5月に寺の倉から見つかったもので、この度、市博物館により発見の発表が行われました。

msn産経ニュースwest(2/2付)は、このように報じています。

「仏像は、香木のビャクダンで作られ、釈迦が亡くなった「涅槃」の姿を再現。
顔や手などには『金泥』が施され、胸の部分に水晶がはめ込まれていた。
高価なビャクダンや水晶が使われていることなどから、貴族や高僧のような人物が作らせたとみられる。

釈迦の臨終は『涅槃図』で表現されることが多い。
彫刻は法隆寺のものなど数十点しか現存しておらず、大半は等身大か半分の大きさ。ここまで小さいものは例がない。
顔の表情や着衣のしわなどに快慶の作風がうかがえるといい、同博物館は
『小さいため比較が難しく快慶本人の作と断言できないが、快慶主宰の工房で制作された』
とみる。

胸の水晶については
『釈迦の臨終の際、体から光を放ったという逸話を表現した』
とみている。」

この釈迦涅槃像は、大津市歴史博物館で、2月8日〜3月16日まで、一般公開されます。

現在、大津市歴史博物館HPに、
「新知恩院の木造涅槃像の新発見と初公開について」というページが設けられており、本像についての詳しい解説が掲載されています。

この解説によると、本像が「快慶の作風に近似している」と考えられる事由について、このように記されています。

「本像の顔の輪郭や、少し目尻をあげた理知的な表情、そして衣文の運び方などを見ると、鎌倉初期(12世紀後半から13世紀前半)に造像活動が知られる快慶の作例にみられる表現に近いものを持っています。

ただし本像は他の快慶作例と比較するにはあまりにも小さすぎるため、快慶本人の作と断言することは少し難しいものがあります。
ですが、現在観察できる範囲では快慶の作風に似ているため、快慶が主催する工房によって13世紀の第1四半世紀、特に1210〜20年代に造像された可能性があると思われます。」

            
新知恩院・釈迦涅槃像                  胸の部分に水晶がはめ込まれている



●佐賀県白石町・弥福寺で、13世紀作の慶派の阿弥陀立像、新発見(2014年1月18日)

弥福寺・阿弥陀如来立像
佐賀県杵島郡白石町の弥福寺に伝えられる、阿弥陀如来立像が、13世紀の制作で慶派の手になるものだと分かったという新聞報道がありました。

1月15日付の、西日本新聞の記事は、このように報じています。

白石町戸ケ里の曹洞宗弥福(みふく)寺が所蔵する阿弥陀(あみだ)如来像が、奈良・東大寺の国宝金剛力士像を共作したことで知られる鎌倉時代の仏師運慶、快慶の流れをくむ慶派が13世紀半ばに制作したものと分かった。

鑑定した佐賀城本丸歴史館の竹下正博学芸員は
「運慶の孫か弟子によるものと思われる。高度な技術でなめらかな衣の質感を表現しており価値の高い美術品だ」
と話す。

竹下学芸員が、弥福寺の宮島俊京住職から寺にある他の仏像の修理に関する相談を受け、昨年12月9日に訪れて見つけた。
木造の阿弥陀如来像は高さ約70センチ、重さ約4キロ。衣のしわが二股に分かれているのが随所に見られ、慶派の特徴という。細かく裂いた金箔(きんぱく)を貼って文様を表現する「截金(きりかね)」という技法も用いられ、六角形を基本とした亀甲文や四角張った渦巻き文様の雷文が衣の腹部に施されている。
截金は飛鳥時代から仏像や絵画に使われたが、金箔が剥がれやすいため現存するものは少なく、截金が残る仏像としては県内最古という。

阿弥陀如来立像の截金文様
弥福寺は江戸時代の1607年に建立。宮島住職によると、阿弥陀如来像がいつから寺にあるかは不明。左足首から先が欠け、台座もなく直立できず、本堂の壁に立て掛けていた。今後は寺が台座を新調するなどして修復にあたる。

竹下学芸員は
「おそらく京都周辺で作られたものだが、なぜ佐賀の弥福寺にあるのか興味深い。調査を進めたい」
と話す。

仏像の写真はご覧のとおりです。

写真では、よく判りませんが、姿や形式は鎌倉期の三尺阿弥陀の典型のように思えますが、お顔が結構丸くて穏やかな感じで、鎌倉だとしても大分下がるのかなという印象を受けます。

見出した学芸員の方のコメントには「運慶の孫か弟子によるものと思われる。」との報道がありましたが、
慶派の仏師の中でも「運慶の孫か弟子」と、特定して判断できる根拠や考え方は、どのようなものなのだろうか?
と、興味深く感じました。




●全国の重要文化財76点が所在不明〜滋賀甲賀・大岡寺の仏像も〜(2013年11月2日)

10月31日のNHKニュースで、国宝を含む重要文化財76点が、所在不明になっているとの、驚きの報道がありました。
文化庁は所在不明の実態について確認を進めることにしているということです。

NHKニュースは、次のように報道しています。

NHKニュースでのTV画面写真
「国宝を含む国の重要文化財が、各地で所在不明になっていることが、NHKの取材で明らかになりました。
その数は全国で76点に上り、文化財保護法で義務づけられた届け出をせずに重要文化財が無断で売買されていることから、文化庁は所在不明の実態について確認を進めることにしています。

国は、歴史上、芸術上、価値の高い文化財が海外に流出することなどを防ぐため、仏像や絵画、刀剣など1万点あまりを、重要文化財に指定しています。
NHKが全国の都道府県に調査をしたところ、国宝1点を含む76点の重要文化財が、本来の所有者の手元になく所在不明になっていることが明らかになりました。

文化財保護法では、重要文化財の所有者が変更になった場合は、新たな所有者が文化庁に届け出なければなりませんが、国宝の刀剣『短刀銘来国光名物有楽来国光』は、静岡県の所有者が死亡したあと、届け出のないまま親族に譲渡され、そこから借金の担保として売買されていたことが分かりました。

さらに、滋賀県の大岡寺が所有していた『木造千手観音立像』と『木造阿弥陀如来立像』も、寺の関係者が持ち出したあと第3者に売り渡されているなど、物品を特定できた41点のうち、少なくとも10点が文化財保護法に義務づけられた届け出をせず無断で売買されていました。

このほか、盗難の被害届が出されているものが、27点ありました。
専門家は、美術品として仏像などの価値が高まっている一方で、所有する寺院などが経済的に困窮していることが背景にあるとして、対策を強化する必要性を指摘しています。

こうした事態を重く見て、文化庁は、都道府県とともに、所在不明の重要文化財がどれだけあるのか、確認を進めることにしています。」

滋賀県甲賀市水口町にある大岡寺の仏像は、秘仏だということでしたが、私も機会を見て一度拝したいと思っていた仏像でした。
千手観音像は平安末から鎌倉時代、阿弥陀如来像は平安時代11世紀頃と考えられている仏像です。
売り渡されてしまっていたとは、本当に驚きです。

                 
大岡寺・十一面観音像                        大岡寺・阿弥陀如来像

 
●奈良国立博物館で雨漏り、国宝仏像他が濡れる(8/5)(2013年8月17日)

8月5日、奈良市内で8月の観測史上最大を記録する豪雨(1時間の降水量が58ミリ)があり、奈良国立博物館旧本館「なら仏像館」で雨漏りがし、国宝仏像などが濡れてしまうという被害がありました。
濡れたのは、国宝の木像薬師如来坐像、木造五大明王像(平安時代)5体、旧本館の建物模型。

薬師如来坐像は、「奈良博薬師」と呼ばれ、その美しさを愛でられている仏像で、多くの人のお気に入りの仏像だと思います。
旧京都若王子社本地仏で、平安前期の檀像風木彫、国宝に指定されています。

奈良国立博物館によると、屋根の雨どいに多量の雨が集中し、旧本館の3部屋の隙間から雨水が漏れ、天井を伝った雨水が展示ケースに入り仏像が濡れたそうです。
5日は休館日で、見回りの職員が発見し、被害の点検と修繕のため、6日は臨時休館となりました。

薬師如来坐像は背中の中央部がぬれたが、博物館では仏像に染みが残らないよう、雨水をアルコールで拭き取る応急処置をし、今後、文化庁と協議し適切な処置を取るとのことです。
湯山賢一館長は「木造なので自然に乾燥させれば状態は変わらないと思うが、文化庁と適切に対応したい」と話したと、報道されています。

奈良国立博物館は、ご存じのとおり旧本館はれんが造りの1階建てで、奈良博開館の明治24年(1894年)に完成、館の建物が重要文化財に指定されています。
訪れる折々、クラシックな趣のある建物で、仏像館に似つかわしく感じているのですが、これだけの歴史ある建築物には、思わぬ弱点もあるようです。

            
背中が濡れた薬種如来坐像                      国宝・薬師如来坐像                     奈良国立博物館本館(なら仏像館)


●松山市道後温泉の宝厳寺本堂が全焼、国重文の一遍上人立像が焼失(8/10)(2013年8月17日)

8月10日午後2時ごろ、松山市道後湯月町の宝厳寺から出火、木造平屋建ての本堂と庫裏が全焼しました。
宝厳寺は665年創建、時宗の開祖一遍上人の生誕地として知られています。

国指定重要文化財の木造一遍上人立像の行方が分からなくなり、焼失したものと考えられます。
一遍上人立像は、像高113pの寄せ木造り、1475(文明7)年の作で、本堂に安置されていました。
文化庁の文化財調査官が13日、現地調査しましたが、安置されていた本堂跡から立像と確認できるものは見つかりませんでした。
文化庁では、立像の重文指定解除に向けた手続きが始まるとの見通しを示したそうです。
今後、宝厳寺から滅失届の提出を受け、国の文化審議会への諮問を経て国指定重要文化財の指定解除を正式決定することになります。

            
重要文化財・一遍上人立像                 焼失した宝厳寺本堂                              宝厳寺         .


●伊豆・南禅寺仏像を展示する「河津平安の仏像展示館」が開館(2013年3月1日)


伊豆半島の南部、静岡県賀茂郡河津町にある南禅寺の古仏群を、常時展示する「伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館」が、2月20日、開館しました。

ご存じのとおり、南禅寺(なぜんじ)には、平安時代の仏像を中心に二十数体の古仏が遺されています。
「河津平安の仏像展示館」は、この南禅寺の隣接地に、仏像収蔵庫を兼ねて建設されました。
展示館は、木造平屋建て約210平方メートル。建設費は約1億4000万円。町が整備し、自治会の谷津区が指定管理者として運営されます。
本尊・薬師如来坐像をはじめ、県指定有形文化財11体と町指定有形文化財13体、南禅寺の全ての仏像が、ここに展示されています。

開館時間は、午前10時〜午後4時(休館日:水曜日)。観覧料は300円です。
詳しくは、河津町観光協会:0558-32-0290にお問い合わせください。

当地には、行基開基と伝える「那蘭陀寺」が在り、「南禅寺」はその後身寺院であるとも併存寺院であるとも云われています。
多数の平安古仏がこの地に遺されているのも、うなずけるものと思われます。
開設の展示館が「伊豆ならんだの里」と名付けられたのは、この「那蘭陀寺」に因むものと思われます。

      
伊豆ならんだの里 河津平安の仏像伊豆展示館                   展示風景                              南禅寺           .

展示される古仏の内、本尊薬師如来像は、カヤ材の一木彫で10世紀前半ごろの制作と云われ、豊かな塊量感・どっしりした重量感に平安前期の残り香をたたえ、「心広き、穏やかなやさしさ」を感じさせる仏像です。
また、二天像もまた、圧倒的な量感にエキゾチックな憤怒相で、これまた魅力あふれる像です。
「南禅寺の仏像群」は、広島県千代田町にある「古保利薬師堂の仏像群」を思い起こさせる処があり、私にとっては大変印象深い、好きな仏像です。
今度は、「南禅寺」のお堂の中ではなく、「河津平安の仏像展示館」を訪れて、360度ビューで観てみたいものです。

            
南禅寺・薬師如来坐像                              南禅寺・二天像  .

 



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