特選情報(2007年)

● 大阪・百済寺跡で奈良時代の大型仏像破片出土(2007年12月22日)

 大阪府枚方市中宮西之町の百済寺跡で、大型多尊仏(せんぶつ)の破片9点が出土した。
  破片は講堂跡の西側から出土。印を結んだ阿弥陀如来坐像の胸と腕の一部(縦10cm、横6cm、厚さ2cm)、神将の足の部分(縦7cm、横9.5cm、 厚さ2cm)のほか、如来像の両脇に立つ脇侍の菩薩像の一部とみられる破片もあった。蓮華座の一部には漆を塗った上に金箔を張った痕跡が残っており、全体 が金色に輝いていたとみられる。
 仏像の顔の部分などは見つかっていないが、復元すると約50cmとみられる。
 大型多尊仏は7世紀後半の飛鳥時代に塔や金堂内の壁の装飾や、厨子に納めて礼拝に使われたとされ、これまで、奈良県御所市の二光寺廃寺や三重県名張市の夏見廃寺など4カ所で見つかっているが、奈良時代の寺院からの出土は初めてという。
 百済寺跡とその周辺では、これまでに小型仏などの破片68点が出土しており、大型仏を中心に小型仏をちりばめた「仏壁」が、金堂などの堂内にあった可能性がある。
 百済寺は749年、東大寺の大仏造営のために金を献上し、聖武天皇の厚遇を受けた百済王族の末裔、百済王敬福の創建とされ、11世紀〜12世紀に焼失したとされるみられているが、奈良時代以降、天皇家と深く結びついた百済王氏の勢力をうかがわせるという。


● 高松塚古墳「17枚目の石」を公開(2007年12月21日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、1972年に壁画が発見されるきっかけになった切り石が31年ぶりに公開された。
 切り石は59cm四方、厚さ36cmのほぼ方形で、1960年代に石室から約5m離れた場所で発見され、発掘調査が始まった。1976年、古墳の保存施設が完成後は、発見場所とほぼ同じ位置で、長年非公開になっていた。
 墓誌石や礼拝石だった可能性があるが用途は今も謎のままとなっている。
 文化庁は来春にも村内の修理施設へ移し、赤外線などで詳しく調査する。


● 大分県立歴史博物館で真木大堂の仏像6体展示(2007年12月18日)

 大分県宇佐市の大分県立歴史博物館で、真木大堂(豊後高田市)から移された木像6体の公開が始まった。
 阿弥陀如来坐像 重文 像高2.2m 平安時代
 大威徳明王像 重文 像高約2.5m 平安時代
 四天王立像 重文 像高1.6m 平安時代

 同時に、太平洋戦争後に連合国軍総司令部(GHQ)に没収され、その後県に返還された刀剣類110本のうち豊後刀41本を集めた企画展「よみがえった大分の刀 赤羽刀(あかばねとう)」が始まった。
 2007年12月18日から2008年3月23日まで。


● 石川・金沢市天徳院山門、白山比盗_社本殿、県指定文化財に(2007年12月18日)

 金沢市の天徳院山門と、白山市の白山比盗_社本殿の二件の建造物が、県指定文化財に指定された。
 天徳院は元和九年(1623)に加賀藩三代藩主前田利常が正室珠姫菩提のため建立したもので、山門は建立当初の唯一の遺構となっている。「元禄六(1693)年十月十日」と記された棟札が残っており 、棟札も県文化財に含まれる。
 白山比盗_社は奈良時代以前の創建といわれ、天長九年(832)に白山の三馬場(加 賀、越前、美濃)が開かれた後は加賀馬場の拠点となった。本殿は明和五年(1768) から70年の間の建築と推定され、江戸中期の地方大社の貴重な遺構として価値が高いと判断された。
 その他の指定品
 熊野類懐紙(くまのるいかいし) 平家重筆
 熊野類懐紙(くまのるいかいし) 藤原重輔筆
 上時国家(かみときくにけ)文書 時国健太郎氏所有

● 京都府井手寺跡寺域の北端を確定(2007年12月15日)

 京都府井手町井手の井手寺跡で、同寺の北端の溝状の遺構が発掘され寺域の北が確認された。
 同寺の北端と考えられる場所に調査溝を2カ所掘り、断面から東西に伸びる約3メートルの溝状の遺構を確認した。この溝の遺構が築地塀などに関連のある遺構とみられることから、同場所が寺の北端で、寺域が約240m四方と推定される。
 調査溝からは、井手寺特有の軒丸瓦片1点やその他の瓦片など数100点の遺物が出土しているが、新たに平安時代の羽釜(はがま)や井手寺創建ごろの土師器の高坏、香炉の破片とみられる緑釉の須恵器1点も発見された。
 井手寺は、奈良時代の左大臣、橘諸兄が創建した寺とされており、橘諸兄の氏寺にふさわしい出土品という。


● 福島県借宿廃寺跡で講堂の遺構発掘(2007年12月14日)

 福島県白河市借宿の借宿廃寺跡で講堂の基礎とみられる遺構が見つかった。
  借宿廃寺は古墳時代終末期(白鳳時代)の7世紀終わりごろ、白河地方の行政・文化の中心施設として建設され、10世紀まで存続したとされている。これま で、金堂跡と塔跡が発掘されており、今回新たに、北側から講堂跡とみられる遺構が見つかったことで、中門から見て右手に金堂、左手に塔、その奥に講堂を備 える、東北地方ではほかに例のない法隆寺式伽藍配置の本格的寺院だった可能性が高まった。
 また、遺構の南西角の土中から粘土板に仏像を浮き彫りにし堂塔の壁面に飾った「仏(せんぶつ)」も完全な形で出土した。
 仏は縦5cm、横3.1cm、厚さ1.7cm。同遺跡から完全な形で見つかった仏は、大正末に採集され東京国立博物館に所蔵されているものに次いで2例目。東北で白鳳時代の仏は同遺跡以外では見つかっていない。
 市歴史民俗資料館で開催中の「白河の遺跡展」の目玉として、18日から公開される。


● 京都市清凉寺山門が破壊(2007年12月14日)

 京都市右京区の五台山清凉寺で、京都府の指定文化財山門の扉が壊れているが見つかった。
 扉は高さ約3.5m、幅約1.9m、厚さ約10cm観音開きで、片方は完全に外れ、もう1枚も壊されて外れかかっていた。左右にある仁王像は無事だった。
 同寺は源氏物語の光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の別荘の跡地に建てられ、「嵯峨釈迦堂」の名で親しまれている。山門は江戸後期の1783年の建立で、2階建て二重門。
  現場から約1キロ南の渡月橋付近で、酒酔い運転で別の車と衝突事故を起こした男が現行犯逮捕されていて、乗っていた乗用車に多数の傷があり、この車と同じ 車種の部品が門の近くに落ちていたことや、山門北側の境内の砂利に、車が走り回ったような跡も残っていたことから、男が仁王門に車を衝突させた後、逃げた ものと思われるという。
 本堂には国宝の釈迦如来像が安置されているが被害はなかった。


● 奈良・法隆寺金堂修理で釈迦三尊など全仏像引越し(2007年12月11日)

 奈良県斑鳩町の法隆寺で金堂の須弥壇修理に伴い、国宝・重文などの全仏像12体が、来年2月から12月の予定で、約100m北の上御堂(かみのみどう)などに移されることになった。
 金堂のすべての像が堂外に出るのは、火災で焼損した金堂の解体修理落慶(1954年)以来53年ぶりという。
  法隆寺の金堂(国宝)の須弥壇(東西8.7m、南北5.4m、高さ約1.57m)は最近、表面の漆喰にひび割れが生じ始めており、ひび割れが進んでいた北 東隅部に立っていた多聞天像(国宝、7世紀)は、すでに安全のため堂外へ避難させ、現在奈良国立博物館に寄託している。
 寺では、修理は3月に漆喰をすべてはずし、本体にひび割れが及んでいるかどうかを確認し必要な部分を修復したうえ、再び漆喰を塗って乾燥させる。
  金堂には、聖徳太子夫妻のために止利仏師が造った銅造釈迦三尊像(国宝、623年)や、太子と推古天皇が完成させた銅造薬師如来坐像(同、607年)な ど、国内最古級の名作がある。昭和24年(1949)1月の火災で金堂が焼けて一時外へ運び出されたが、金堂落慶後は元の須弥壇の上に安置されてきた。
 期間中は上御堂で一般公開される予定だという。

● 鎌倉市東慶寺の観音菩薩坐像など7件市指定文化財に(2007年12月8日)

鎌倉市は市指定文化財に東慶寺の観音菩薩坐像、建長寺の達磨図など七件を新たに指定した。
観音菩薩坐像は像高約50cmで、左足を下ろしてくつろいだ姿勢が特徴的である。
 
市指定文化財は下記の通り。
観音菩薩坐像 東慶寺蔵
達磨図 建長寺蔵
若宮八幡神図 鎌倉市蔵
薬師如来立像 円覚寺蔵
灌仏盤 円覚寺蔵
鏧子 円覚寺蔵
永福寺跡出土荘厳具 鎌倉市蔵

● 藤原宮で最古地鎮具出土(2007年11月29日)

 奈良県橿原市の藤原宮跡で、宮の中枢だった大極殿近くの穴から日本最古の鋳造貨幣の富本銭と水晶が入ったつぼが出土した。
  大極殿院の南門から西に続く回廊の下に、注ぎ口が付いた須恵器の平瓶(ひらか)(高さ13.8cm、最大径20.2cm)が埋められていた。つぼの口が狭 く、富本銭が9枚詰まっていた。CTスキャナーで調べたところ、中には水がたまり、六角柱状の水晶9個(長さ2.1〜3.8cm、太さ1cm前後)底に水 晶も9本入っていた。
 埋められた場所の四隅に1辺約60cm、深さ約45cm穴があり、底に灰色の土を敷いてつぼを安置。同じ土で丁寧に埋めてあった。
 日本書紀は、持統天皇が持統6年(692)に「藤原の宮地を鎮め祭らしむ」と記述があり、日本最初の本格的な都とされる藤原宮造営の地鎮祭が行われた跡とみられる。


● 兵庫・丹波市の再興寺の仏像が平安後期の作と判明(2007年11月29日)

 兵庫県丹波市青垣町大稗の再興寺の釈迦、薬師、阿弥陀如来坐像三体が平安後期(十二世紀)ごろの作であることが判明した。
 いずれも像高約140cmで寄木造。中央の釈迦像は、腕やひざなど多くの部分が後世の後補に変わっているが、頭部や胸は当初のもので、像の様式や柔らかな表現や部材などから、いずれも平安後期に作られたことが分かった。
 三体は、近くの西光寺が焼けた際に再興寺へもたらされたと伝えられているが、三体の作風が異なることも確認され、別々に造られた像が集められた可能性もあるという。


● 高松塚壁画に赤い線や溝 (2007年11月28日)

 奈良県明日香村平田の高松塚古墳の石室に描かれた国宝壁画に下絵を転写した際に付いたとみられる赤い線や溝があることが分かった。
 下絵の痕跡は、「飛鳥美人」と称される西壁の女子群像の左端の黄色い衣を着た女性のスカートのような裳の部分と、東壁の男子群像の左から2人目の男性がかぶった冠で確認された。輪郭の一部に赤い顔料や、先のとがった細い棒などで下絵をなぞってできたような溝があった。
 明日香村阿部山のキトラ古墳の極彩色壁画には、四神図や十二支神図などに下書きで付いたへらの溝の跡が残されており、溝の中に赤い顔料が付いた部分があったことから、赤い顔料を塗った和紙を石室の壁にあて、その上に下絵を重ねてなぞったとみられていた。
 今回高松塚古墳からも同様の痕が見つかったことから、二つの古墳壁画が共通の手法で描かれた可能性が出てきたという。

● 清浄華院の文化財、33点公開20071122日)

 京都市右京区の佛教大アジア宗教文化情報研究所で、浄土宗七大本山の一つ清浄華院(京都市上京区)の貴重な文化財33点が公開されている。
  清浄華院は清和天皇の勅願で9世紀に創建されたと伝わる古刹で、南北朝から室町時代にかけて皇室や公家と密接な関係にあり、後水尾天皇の依頼により狩野永 納が模写した「泣不動縁起絵巻」(室町時代、重要文化財)など、戦火や大火を逃れた文書や絵画などが伝えられており、佛教大が一昨年から初めての本格的な 調査を行っている。
 その他、天皇の書などを入れた蒔絵の箱など優れた品質の工芸品や、江戸時代の庶民信仰を伝える秋葉権現立像なども並ぶ。

● 恭仁宮回廊の北西角跡を発見(20071122日)

 京都府木津川市加茂町の国史跡・恭仁宮跡で、政務の中心となる大極殿を囲んでいた回廊の北西角が見つかった。
 今回、礎石を据えた痕跡とみられる直径1.21.5mの穴が南北に6個見つかった。間隔は4.6mで、北端の3個は3.5mと短くなっていた。
 東の調査区でも、東西方向の4.6m間隔の穴を確認。穴は北西端から7m内側からも見つかり、回廊が7m幅であることが分かった。
 奈良時代の歴史を記した続日本紀に、平城京の大極殿と回廊を恭仁宮に移したとの記述があり、今回見つかった柱間が平城京のものと完全に一致したことから、移築が裏付けられ、構造も同じであることが証明された。

 

● 仏像内部から「目」の紙片(20071122)

 横浜市金沢区の太寧寺にある鎌倉時代の薬師如来立像の内部から「目」と書かれた紙片が見つかった。
 神奈川県立金沢文庫でこの薬師如来像を解体修理した際、目の部分を裏から彫り込み、奈良時代の写経から切り取ったと見られる「目」という文字が納められていた。
 仏像の中からお経の巻物や水晶が見つかることはあるが、写経の1文字だけを切り取った紙片が見つかるのは珍しく、薬師如来立像は病気治癒を願う信仰の対象で、目の病気に対する御利益を高めるために、写経から「目」という文字を切り取って中に入れたとみられるという。
 金沢文庫は1123日から、薬師如来立像や「目」と書かれた紙片の写真と関連資料を展示する。

 

● 一紙一字で書写 法華経八巻(20071122)

 京都府南丹市美山町の妙見堂から法華経の一字一字を小さな紙片に書いた珍しい経文が見つかった。
36cm、縦17cm、深さ20cmの木箱の中に納められた「妙法蓮華經巻第一」から「同巻第八」までの八つの紙包みの中に、1cm四方ほどの紙片が多量に入っており、それぞれにお経の一文字が書かれていた。
 この箱のふたや一緒に置かれていた別の木札の文字から、天明元(1781)年に文字権左衛門と名乗る人物が全巻を写経して奉納したと見られる。
小石に一字ずつ書いて経塚に埋める例は各地で見られる、紙片に記す例は知られていない。

● パソコン木簡解読システムを開発(20071122)

 奈良文化財研究所(奈良市)は、遺跡から出土した木簡に記された文字をパソコンで解読する初の支援システムを開発した。

システムは「Mokkan ShoP」と名付けられ、木簡の画像をパソコンに取り込み、解読したい範囲を指定すると、類似文字を示す複数の候補が表示され、選択できる。欠けている字についても候補が示されるという。また、それぞれの字が示す地名や人名、品目の候補も表示され、辞典などで調べる手間も省ける。

木簡の解読はこれまで、研究員らの知識や経験をもとに長期間かけて行われてきたが、新システムを使えば、解読困難な文字を読み取るだけでなく、文字が示す意味を探ることが容易になり、木簡解読の正確性と効率が高まりそうだ。

現在、約500種類の字が登録されているが、(今後は文字数をさらに増やす予定という。年度内にも研究所のホームページで公開する予定で、他地域の研究者たちが利用することも可能となる。 

 

● 京都・高麗寺跡から国内最古の築地塀出土(2007年11月21日)

 京都府木津川市山城町の高麗(こま)寺跡で、飛鳥時代後期の築地塀が倒壊した状態のまま見つかった。
 築地塀跡は、南門跡の東側で14m分、西側で17m分を確認。塀の高さは2.7〜3m、幅1.5mと推定され、東側では、塀の屋根瓦が密集して、大量に出土した。
 寺院を囲む築地塀が造られるのは奈良時代以降とされており、国内最古の築地塀考えられるという。
  また、高麗寺の伽藍配置は、これまで西に金堂、東に塔が並び、北に講堂を配する「法起寺式」とされてきたが、今回の調査で南門から参道とみられる石敷きが 確認できたことから、中門は、西側にずれた金堂の正面の場所にあることが判明し、信仰の対象が仏舎利を祀る塔から仏像を安置する金堂へ移ったことを示して いると考えられるという。

 

● 長浜城歴博で湖北町・十一面観音坐像を特別公開(2007年11月20日)

 滋賀県湖北町丁野(ようの)の観音堂の十一面観音坐像(町指定文化財−平安時代後期)が、長浜城歴史博物館(長浜市)で、11月日から29日まで特別公開されている。
 本像は像高86cmの坐像、十一面観音像は二臂像が通例だが、本像は六臂像である。
 本像は博物館で薫蒸作業をした後、一般公開された。

● 京都・知恩寺で快慶作の阿弥陀像発見(2007年11月17日) 

 京都市左京区の知恩寺が所蔵する木造の阿弥陀如来立像が、作風から鎌倉時代初期の仏師快慶の制作とみられることが分かった。
浄 土宗の委託で鑑定した岡山・就実大学の土井通弘教授が調査した所、胴体の厚みや、けさの腹部のたるみ具合、左ひじ部分にあるササの葉状の文様などの特徴 が、快慶作として知られる京都・遣迎院の阿弥陀如来立像と酷似しており、制作時期も遣迎院と同じ1190年代ごろと推定されるという。
 本像は像高さ98.9cmのヒノキの一木割矧造りで、江戸時代に表面の金泥が塗り直されているという。これまで快慶作と認められた同様の高さ1m弱の「三尺阿弥陀如来像」は、遣迎院を初め計14体が見つかっている。
 快慶の像は足ほぞに墨書銘があることが多いが、本像の場合足には小さい墨跡があり、またエックス線撮影で、内部に紙か薄木の納入品があることも確認されており、いずれも作者名が記された可能性がある。
 本像は12月1〜7日に、衆会(しゅえい)堂で無料公開される。

● イラク文化財の密輸で現役米軍大佐を告発(2007年11月17日)

 米司法省はわいろと引き換えに駐イラク米軍施設の建設工事を業者に受注させた上、イラク国内の遺跡から古代の陶器を密輸した疑いで現役の米軍大佐を告発した。
 密輸入されたと見られる遺品は、旧約聖書に登場するアブラハムの出身地とされる都市、ウルの遺跡発掘現場から持ち出されたものとみられる古代イラクの工芸品1点という。

● 新潟の寛益寺で仏像修復現場を公開(2007年11月16日)

 新潟県長岡市逆谷の寛益(かんにゃく)寺で17日、3年前の中越地震で被災した仁王門の金剛像と力士像(共に県文)の修復作業現場が公開される。
 金剛像と力士像は南北朝時代の作と伝えられるケヤキの一木造で、像高は3mを超え、地震の激しい揺れで部材をつなぐ鉄製部材表面や接着剤代わりの漆が浮き上がるなどの被害があり、7月から修復作業が続けられてきた。

● 宇治・広野廃寺の規模確認(2007年11月15日)

 京都府宇治市広野町の広野廃寺で、発掘調査の結果寺の南端と考えられる溝と掘立柱塀の柱穴、瓦だまりなどが見つかった。
  広野廃寺は、飛鳥時代後半から奈良時代前半の寺院跡で、1990年には寺域の西端の溝などを発見している。今回見つかったのは、寺の南域と考えられる約 20m幅の溝と、掘立柱塀の柱穴3カ所で、蓮模様の軒丸瓦片3点と、1000点近い平瓦や丸瓦片、土師、須恵器、鉄釘も出土した。
 これまでの調査から、寺は当時の平均的な大きさである約一町(110m弱)四方と推測されていたが、予想の場所から南端が出土し、より規模が明確になったという。周辺には豪族の館跡も見つかっており、一帯が地域の中心地だったとみられるという。

● 琵琶湖文化まとめた冊子発刊 水信仰や仏像など紹介(2007年11月13日)

  琵琶湖の文化的価値を広く知ってもらおうと、滋賀県教育委員会と県文化財保護協会は、水への信仰や関連する文化財をまとめた「水の浄土琵琶湖」を発刊した。
文化財活用事業「近江湖(うみ)物語」の一環。琵琶湖周辺に点在する薬師如来像や、水にまつわる信仰や行事などについて解説する。滋賀県内には、重要文化財に指定されている像が全国最多の45体あり、延暦寺(大津市)や宝光寺(草津市)の像を写真と合わせ紹介している。
 冊子は5章で構成され、A4判で50ページ。1冊700円で県埋蔵文化財センターや県庁などで販売し希望者には郵送するという。
17日には、大津市瀬田南大萱町の県埋蔵文化財センターで執筆者が内容を解説する。12月2日には、琵琶湖汽船(大津市)との共催で湖上から文化財を巡る「巡礼クルーズ」も行われる。

● 宇治平等院内の浄土院羅漢堂を一般公開(2007年11月11日)

 京都府宇治市の平等院内にある浄土院羅漢堂(市指定文化財)が12月16日まで、寛永17(1640)年の建立以来367年ぶりに、初めて一般公開されている。
  羅漢堂は平等院鳳凰堂の西側の塔頭浄土院境内にある堂で、一重入り母屋造りの本瓦葺き、奥行き約3.0m、幅4.0m、高さ約5.5m。堂内には本尊の宝 冠釈迦三尊像や十六羅漢像など計21体の仏像が安置されており、。壁には花頭窓がつくられるなど、平等院が和様式で整備されているのに対し、羅漢堂は禅宗 様式を持つ、平等院の中でも珍しい建造物だ。

● 高松塚古墳の石室解体パンフに(2007年11月8日)
 奈良県明日香村高松塚古墳で今年行った石室の解体作業について、無料パンフレットが作成された。
 石室の解体は今年4月から始まり、8月末までに天井石や壁画が描かれた壁石など計16枚が取り外されたが、解体作業の開始から壁石のつり上げ、車両で移動される様子までを順を追って写真で紹介しており、いま進んでいる修復作業の様子もよくわかる。
 このほか、壁画が見つかった1972年から現在に至る年表や、古墳の周辺地図、石室解体に至った経緯なども盛り込んだ。
 明日香村内の文化庁関係施設や、国営飛鳥歴史公園など奈良県内で5千部を配布するという。

● キトラ古墳で「彦星」の取り外しに成功(2007年11月7日)
 奈良県明日香村の特別史跡キトラ古墳で、石室の天井に残る壁画の天文図から、牽牛(けんぎゅう)など金箔と朱線で描かれた星座二つをはぎ取った。
 はぎ取ったのは「牽牛(彦星)」と「天津(てんしん)」の2星座を含む計11カ所。いずれもしっくいがぼろぼろになっているためヘラを使った。天津(縦10cm、横5cm)は5分割したが、牽牛(5cm角)はほぼ完全な形で取れたという。
7月からのはぎ取り作業で、星座全体を丸ごと取り出したのは今回が初めて。

● 横浜市教委文化財調査で不適正支出(2007年11月7日)
 横浜市教委の文化財調査で多額の不適正支出が見つかった。
  文化財調査に関する印刷物計十三冊が未発行であるにもかかわらず、印刷業者に前払いされていたほか、予算執行されながら実施されていない可能性がある文化 財調査が計十件あり、「調査団長」と記録されている人物が、実際には団長に就任していないなど、不正に支払われたと見られる金額は数千万円単位に上るとい う。
 不正にかかわったと見られる担当の女性職員は労働組合の役員を務めていることを理由に、二十年間という異例の長さで文化財課に勤務しており、歴代の上司が、女性職員に任せきりで、不正をチェックできない体質が長年続いていた。

● 大分真木大堂不動明王像九州国立博物館で修復(2007年11月7日)
 大分県豊後高田市の真木大堂の不動明王三尊像(本尊像高約2.6m 脇侍1.3m 重文)が、福岡県太宰府市の九州国立博物館で修復されることになった。
 三尊像は平安時代後期の制作で、1929年に修復されているが、近年、塗料がはがれて一部は素地が見えるなど傷みが進んでいた。
 真木大堂収蔵庫も12月から来年10月末にかけて改修予定で、12月3日から約1年間休館する。このため所蔵されている阿弥陀如来坐像や大威徳明王像、四天王像はこの間、宇佐市の大分県立歴史博物館に移して展示する。

● 宇治・三室戸寺観音の足裏公開(2007年11月4日)
 京都府宇治市莵道、三室戸寺の特別拝観「観音様の足の裏を拝する会」が始まった。
 観世音菩薩は阿弥陀三尊の脇侍で、正座した足の裏が指の細かい部分まで丁寧に彫られている。普段は壁を背にしているため足の裏は見えない。しかし、足の裏を見せてほしいとの要望が相次ぐようになり、10年ほど前から秋に像を後ろ向きに安置して足の裏を公開している。
    公開は11月3日から12月9日までの土曜、日曜、祝日のみ。

● 奈良・大安寺出土の風鐸金の輝きよみがえる(2007年11月1日)
 奈良市大安寺の大安寺旧境内の西塔跡から出土した風鐸などの金銅製品の保存処理が終わり、大寺院の伽藍を彩った古代の金色の輝きがよみがえった。
 風鐸は寺院建築や宮殿などを装飾する大型の風鈴で、平安時代に焼失した西塔跡の焼土より下の層から、塔最上部の相輪にぶら下げた風鐸2個(高さ約30cm)や、軒先に付けた大型の風鐸の破片が出土。泥やさびを取り除き、劣化を防ぐ処理をしていた。
 同じ場所で見つかった水煙の破片なども含め成分調査の結果、日本で鋳造された銅製で表面には金メッキが施されていたことが判明した。
 西塔には、相輪だけで80個、軒先も含めると計108個の風鐸が付いていたと考えられるという。

● 福井長運寺の十一面観音菩薩立像平安中期の作と判明(2007年11月1日)
 福井市照手一丁目の長運寺本堂に安置されている十一面観音菩薩立像が、平安時代中期(十世紀後半ごろ)に作られたと思われる古像であることが分かった。
  本像は、像高102.7cmで、頭部の化仏を失っているが、頂上仏面から足の裏のほぞまで一木から彫出されている。衣文の表現や右足を軽く曲げ遊足とする 姿などに古様を示しており、県内の十一面観音菩薩像では、小浜市の羽賀寺の十一面観音立像(重文)などに次ぐ古さという。


 本像は越前市武生公会堂記念館で始まる11月6日から12月9日まで行われる特別展「乱世を生きる−真盛上展」で展示される。


 また、本展示会に合わせ、期間中の日曜日のみ、越前市京町の引接寺の秘仏十一面観音立像(市文)の特別拝観も行われる。


● 中央アジアで拝火教の象徴を示す仏像の粘土型発掘(2007年11月1日)
 中央アジア・タジキスタン西部の遺跡調査していた龍谷大調査団が、仏像にゾロアスター教(拝火教)の象徴「拝火壇」が描かれた像の粘土製の型を発掘した。
 型は首都ドゥシャンベの南西約70キロにあるペルシャ系「トカラ人」が築いた町の遺跡「カレ・コファルニホン」の7−8世紀ごろの素焼き工房の跡発見されたもので、縦約10cm、横約4cm。
仏陀とみられる人物が、ゾロアスター教で火の崇拝に使われる「拝火壇」に手を添えている形が描かれている。
 仏教とゾロアスター教の両方の特徴を備えた像は珍しいが、浄土信仰は、ゾロアスター教の終末思想に影響されたという説もあり、貴重な資料という。

● 周防国府跡出土の金銅仏は飛鳥時代の作(2007年10月31日)
 防府市国衙(こくが)の周防国府跡から発掘された金銅仏が、7世紀前半の飛鳥時代に作られた、県内最古の仏像である可能性が高いことが分かった。
 この像は、2005年に国府敷地内を流れていた河川跡から出土したもので、像高3.3cmの金銅仏。頭部が大きく、なで肩で下半身のすそが広がっている。
 7世紀の朝鮮半島(三国時代)の仏像様式に似ており、菩薩立像か供養者立像と見られるという。

● 高松塚の石室壁画を動画で体験(2007年10月30日)
 奈良県明日香村の特別史跡、高松塚古墳の解体前の石室内を再現したデジタル動画が完成した。
  動画はハイビジョン映像で約10分間。石室解体前に3900万画素のデジタルカメラで撮影した精密デジタル写真約1000枚を、石室内の3次元測量データ と組み合わせ動画化した。女子群像の髪の緻密な筆遣いや、男子群像が掲げる蓋の繊細な模様、玄武を彩る顔料の濃淡の表現などが再現されており、実際に石室 内へ入ったような気分に浸れるという。11月1日から12月27日まで、橿原市の同研究所藤原宮跡資料室で一般公開される。
 ほかに36分の完全版もあり、来年には全国の美術館や博物館などにも貸し出すという。 

● 横浜市清林寺の菩薩立像平安時代後期作が判明(2007年10月29日)
 神奈川県横浜市都筑区大棚町の清林寺の本尊菩薩立像が、平安時代後期の像であることが分かった。
  菩薩立像は、寄木造像高98cmの寄木造で、平明な表情や、ゆったりとした肉どり、落ち着いた立ち姿から平安時代後期12世紀の作とされた。また、如来坐 像の脇侍として作られた可能性が高く、900年以上前の同地域に、中尊が等身大規模である三尊像を安置する寺院があったことを推測させる貴重な遺品だとい う。


 昨年9月に行われた都筑区内の仏像など全てを対象とした調査で判明したもので、区内で15件目の横浜市指定文化財として認定された。


 本尊は秘仏で、開帳は12年に1度、午年の4月に、川崎や横浜北部の札所をまわる「准秩父三十四観音霊場」として公開されている。なお、12月8日から1月14日までセンター北の市歴史博物館で、この像のほか、今回の指定された文化財計5件を展示される。

● 香川県まんのう・中寺廃寺跡食堂跡出土(2007年10月26日)
 香川県仲多度郡まんのう町の中寺廃寺跡で新たに食堂跡とみられる遺構が出土し、同寺の伽藍配置の全容が明らかになった。
 中寺廃寺跡は平安時代十世紀前半の創建と見られる山岳寺院で、これまでの調査で塔や仏堂跡のほか、漆を使ったと思われる赤く彩色した祭事土器や四国で初めてとなる上薬を使った多口瓶(たこうへい)陶器なども出土している。
 食堂跡はこれまでの調査で明らかになっている仏堂や塔跡付近で確認され、かまど跡と見られる遺構のほか、近畿地方産も土器が出土していることから他地域との交流が盛んに行われていたことが推測されている。


 また、一辺が1メートルを超える石組みの遺構が16基確認されており、これらは平安時代の仏教行事史料「三宝絵詞」など記された、石を積んで石塔とする年中行事の遺構と見られており、山岳仏教草創期を知る貴重な史料として注目を集めそうだ。



● 三仏寺で三仏寺鏡公開(2007年10月26日)
 鳥取県三朝町三徳の三仏寺で鸚鵡文(おうむもん)銅鏡=三仏寺鏡が、「投入堂の美術−正倉院宝物と結ばれた鸚鵡文銅鏡」で11年ぶりに公開される。
 三仏寺鏡は、鏡面に胎蔵曼荼羅の中台八葉院の諸仏が線刻され、鏡背には花をくわえた二羽の鸚鵡文様があり、長徳三年(997)に同寺に奉納された。
 三仏寺鏡は、中国浙江省紹興出土の「双鸞長綬(そうらんちょうじゅ)鏡=紹興鏡)」と文様や鏡の大きさがほぼ一致し、素材や技法が同じ白銅鋳造鏡であることから、唐時代に紹興の同じ工房で制作された銅鏡であることが分かっている。
 また、現在奈良国立博物館の正倉院展に出品されている、花鳥背八角(かちょうはいはっかく)鏡」は、三仏寺鏡よりふた回り大きく鏡背文様も華やかだが、綬帯をくわえた鸚鵡図柄の構成が同じで、三つの鏡は756年ごろ、中国で制作された兄弟鏡関係とされる。
 公開に当たっては、紹興鏡と花鳥背八角鏡のパネル写真が三仏寺鏡とともに並べられ、三徳山と平城京、中国との歴史的なつながりを発信する展示となる。

● 銀閣寺27年ぶり屋根葺き替えへ(2007年10月26日)
 京都府教委は、国宝や重要文化財など国指定文化財の保存修理や防災対策に対する本年度国庫補助事業の第2次内定分として、京都市左京区の慈照寺銀閣(国宝)の屋根葺き替え・部分修理など新規事業9件を発表した。
  慈照寺銀閣は室町時代中期に足利義政が晩年の隠居所として設けた東山山荘を死後遺言により寺院にあらためた。銀閣は正式には「観音殿」で1489年に完成 した。前回の屋根の葺き替えから26年が経過し、こけら葺きの劣化が進んだため、3年間で全面的に葺き替える。軒などの木部や土間、屋根の上の鳳凰の補修 や構造補強、漆喰壁の塗り直しを行う。内外の漆塗装も劣化が著しく、塗り直しも含め対策を検討する。
新規の国庫補助事業は次の通り。
【建造物保存修理】
▽慈照寺銀閣(国宝)の屋根葺き替え・部分修理(左京区)
▽近鉄澱川橋梁(伏見区)の塗り替え工事に伴う設計監理
【建造物防災施設】
▽梅小路機関車庫(下京区)の自動火災報知設備の新設
▽浄土院養林庵書院(宇治市)の自動火災報知設備改修
【美術工芸品保存修理】
▽報恩寺(上京区)の木造諸尊仏龕(ぶつがん)
▽西本願寺(下京区)の紙本著色慕帰絵詞
▽清水寺(東山区)の板絵着色朝比奈草摺曳図(くさずりびきず)
【史跡等・登録記念物保存修理】
▽妙心寺(右京区)庫裏の土塀修理
【文化財保存技術事業(伝承)個人】
▽表具用古代裂(金襴等)製作の技術錬磨、伝承者養成

● 福岡県で善導大師像に人の歯(2007年10月25日)
 福岡市博多区中呉服町の善導寺に伝わる県指定文化財・善導大師像(像高31cm)の頭部に、人の歯2本が納められていることが、九州国立博物館の調査で分かった。
  この大師像は4〜6月に開かれた特別展「未来への贈りもの−中国泰山石経と浄土教美術−」に出品され、閉幕後、同館がエックス線によるCTスキャン検査を 行ったところ、頭の内部に掘られた長円形の空洞(最長径約3cm)に2本の歯が紙のようなものに包まれて入れられているのを確認した。2本は別人のもの で、それぞれ大人と子どもの歯とみられる。
 善導寺は13世紀前半、浄土宗の開祖、法然の弟子で九州で布教活動を行った辨長が建立したとされ、像の制作年代も同じころと推定される。像には一度も解体された痕跡がなく、歯は制作時に入れられたらしい。
 像を作る際に、モデルとなった高僧自身やゆかりの人の歯や骨を納める習慣は平安時代後期から行われており、暦仁元年(1238)に没した辨長の歯である可能性が高いという。

● キトラ古墳天文図朱線剥ぎ取り(2007年10月25日)
 明日香村阿部山のキトラ古墳で、天井に残る天文図のうち、漆喰が劣化して剥落の危険性が高い朱線などを剥ぎ取った。
 作業は先月27日に続き4回目で、天文図南側の星座「孤矢」付近と南東の星座「星宿」付近を通る「外軌」の朱線2カ所のほか南側の余白1カ所、最大で縦10cm、横5cmを剥ぎ取った。

● 高松塚古墳丘の埋め戻し作業が完了(2007年10月20日)
 奈良県明日香村高松塚古墳墳丘の埋め戻し作業が完了した。
 石室を取り出した墳丘に開いた穴は南北7.2m、東西6m、深さ約5mで、発掘した際に掘った土で埋め戻した。頂部は防カビ処理した土のう約900個で保護し、引き続き、墳丘を雨水よけの防水シートで覆うという。
 今後、古墳をすっぽりカバーしている大型の覆い屋根を撤去し、保存施設も取り壊す計画で、来年秋には築造当時の状況を復元した墳丘が姿を現す。


● 平等院鳳凰堂の彩色画模写、一般公開(2007年10月20日)
 京都府宇治市平等院鳳凰堂の柱などに描かれた彩色画が模写、復元され、境内のミュージアム鳳翔館で一般公開が始まった。
 退色が進む柱や天井板などを装飾した彩色画を、エックス線分析や電子顕微鏡などで顔料を調査し、緑色の顔料、岩緑青を基調に、菩薩や羽ばたく鳳凰、唐草文様などを和紙13枚に写し取り、縦2m、横4mに並べて展示する。
 2007年10月20日〜12月16日まで。


● 尾道・常称寺の本堂など重文に(2007年10月19日)
 文化審議会は、尾道市西久保町常称寺の本堂、観音堂、鐘撞堂、大門の四棟など十件を重要文化財に指定するように答申した。
 常称寺は鎌倉後期、時宗二代・真教によって創建されたと伝えられる。室町中期の建築の本堂は、外観を和様、内部構成を禅宗様とし、内陣、外陣、脇陣を一体的な空間とするなど、中世時宗本堂の特徴を表している。
 大門は室町前期、観音堂は室町後期、鐘撞堂は江戸前期の建築。
 他の答申は次の通り。
 【重要文化財】
▽大谷派本願寺函館別院(北海道函館市)
▽千葉家住宅(岩手県遠野市)
▽旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設(東京都荒川区)
▽手塚家住宅(長野県塩尻市)
▽常称寺(広島県尾道市)
▽三河家住宅(徳島市)
▽竹村家住宅(高知県佐川町)
▽鹿児島旧港施設(鹿児島市)
▽旧与那国家住宅(沖縄県竹富町)

● キトラ古墳天文図、また黒いカビ(2007年10月16日)
 奈良県明日香村キトラ古墳の壁画石室天井に描かれた天文図の赤道を表す朱線上1カ所で、黒い粉状のカビが見つかった。
  汚れが見つかったのは朱線(赤道)上で、星座「室宿(しつしゅく)」のすぐ北側。大きさは直径約0.5cmで、漆喰がもろくて殺菌などの処置ができず、は ぎ取りを含め対応策を検討する。 朱線上では、今年3月や7月、9月にもカビが見つかっているが、いずれもエタノールで除去した。

● 仲麻呂邸宅跡は東西九間(2007年10月13日)
 奈良市四条大路一丁目で見つかった藤原仲麻呂(恵美押勝)の邸宅跡とみられる大型建物跡が、東西九間とみられることが分かった。
 調査範囲を東側に拡張したところ、南北に並ぶ2棟の建物跡で七間目の柱穴が見つかった。中央の柱穴がなく、さらに東へ延びることを確認した。奈良時代の大型建物で柱間が偶数になる可能性は低いことから、九間、約27mの建物であったと見られる。

● 鳥取・梶山古墳の彩色壁画一般公開(2007年10月13日)
 鳥取市国府町岡益にある国指定史跡・梶山古墳の壁画が、10月12日〜14日まで一般公開された。
 梶山古墳は飛鳥時代の変形八角形墳。古墳の南側には石垣に囲まれた高さ2m、幅14mの大規模な方形壇がある。彩色壁画は1978年に中国地方で初めて発見され、長さ53cmの魚や三角文、曲線文、同心円文が描かれている。

● 談山神社で十三重塔修理完了(2007年10月11日)
 奈良県桜井市多武峰の談山神社で    木造十三重塔(重文)の修理が終わり、美しい桧皮葺(ひわだぶき)の姿がよみがえった。
 国内唯一の木造十三重塔で高さ約17m。大化改新(645年)で知られる藤原鎌足の長男・定慧が父の冥福を祈って建立したとされ、現在の塔は室町時代の再建。
 明治時代に解体修理が行われたが、最近は各層の桧皮が厚いこけに覆われてぼろぼろになり、銅版で補強している状態だった。来月17日に落慶大祭が営まれる。

● 藤原宮に新たな運河跡出土(2007年10月10日)
 奈良県橿原市高殿町の藤原宮跡で大極殿院南門付近から、運河とみられる大規模な溝跡が見つかった。
  大極殿院南門の基壇跡近くの南北2カ所で、基壇の整地面を掘り下げたところ、溝跡と見られる水の流れで運ばれた砂が堆積した層が見つかった。同様の溝跡は これまでの調査で大極殿北側でも確認されているが、官人の仕事場だった朝堂院まで南側に伸びていたことが分かり、宮の造営のために資材を運んだ運河跡と考 えられるという。

● 奈良市の藤原仲麻呂邸で新たに大規模建物跡発見(2007年10月5日)
 奈良市四条大路一丁目で8世紀中末ごろの大型建物跡が見つかった。
 大型建物跡は2棟あり、いずれも東西15m以上、南北約6mの大規模な建物で、柱筋をそろえて南北に並び、南側の建物には縁側とみられる柱穴もあった。
 この場所は奈良時代に専権を振るった藤原仲麻呂(=恵美押勝、706〜764)の邸宅「田村第(だい)」があったとされる。
 田村第は日本書紀にたびたび登場。三条大路から南に8坪分(南北約530m、東西約250m)が定説で、長屋王邸の2倍にあたる京内最大の邸宅だった。聖武天皇の跡を継いだ孝謙天皇が一時的な御座所としたほか、皇太子も滞在したとされる。

●    截金の人間国宝江里佐代子さん死去(2007年10月4日)
 京都の工芸家で截金(きりかね)の重要無形文化財保持者(人間国宝)の江里佐代子(えり・さよこ)さんが、仏像や截金調査に出かけていたフランス北部のアミアン市で脳出血のため死去した。
 江里さんは、昭和20(1945)年に京都市に生まれ、大学で日本画や染色などを学んだあと、仏師の江里康慧(こうけい)氏と結婚。截金師の北村起祥氏について仏像を荘厳する截金の伝統技術を学んだ。
  截金の精緻で優美な意匠を駆使した屏風(びょうぶ)、衝立(ついたて)、飾筥(かざりばこ)などの工芸作品のほか、壁面装飾などの新たな領域を開拓。仏教 美術を基本とした独自の作風が評価されて、2002年に全国最年少で人間国宝に認定された。大学での截金の指導のほか、正倉院宝物の模造制作や古代の截金 装飾の調査にもあたった。
   
● 佐賀市高城寺で圓鑑(えんかん)禅師像里帰り(2007年10月4日)
 佐賀市大和町の高城寺は、本堂復興を記念し、10月5日から13日まで、同寺の国指定重要文化財「木造圓鑑(えんかん)禅師坐像」を一般公開する。
 同寺は1270年、圓鑑禅師(1233〜1308)が開山し、僧侶を指導する師家(しけ)寺として発展した。
 「圓鑑像」はヒノキ材で鎌倉時代に作られ、像さは85.5cm。現在は県立博物館に寄託されており、里帰りは37年ぶり。

● 奈良・纒向遺跡で最古のベニバナ花粉大量出土(2007年10月3日)
 奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で溝跡の土から赤色の染料に使われた大量のベニバナ花粉が確認された。
 分析された土は、同遺跡の中心部にある3世紀前半の溝跡から1991年に採取したもの。土壌1立方cm当たり270〜560個のベニバナ花粉があった。
 遺跡の中央に近い場所で見つかったことから、周囲でベニバナが栽培されていたのではなく、近くに染織の工房があり、捨てられた染料の廃液の中に花粉が大量に含まれていたとみられる。
 ベニバナはエジプトや西アジアが原産で花の赤い色素が染料となり、シルクロードを通じて2世紀ごろに中国に伝来し、染織の最新技術の一環として日本に伝わったとみられる。
 これまで最古だった藤ノ木古墳(同県斑鳩町、6世紀後半)の例を300年以上さかのぼる発見。 中国の歴史書「魏志倭人伝」には、女王・卑弥呼が魏に赤と青の織物を献上したとの記述もあり、邪馬台国に直接つながる一級の資料になる。

● 高松塚古墳壁画公開の方針(2007年9月29日)
 明日香村平田の高松塚古墳修理施設で文化庁年2回程度、壁画を公開する方針を示した。

● 文化庁に古墳壁画室発足(2007年9月29日)
 奈良県明日香村高松塚、キトラの両古墳の管理に特化した文化庁の古墳壁画室が、10月1日に発足する。
 両古墳では今まで文化庁の美術学芸課が壁画、記念物課が墳丘をそれぞれ管理していたが、高松塚の損傷事故などで、縦割りとセクショナリズムといった庁内の問題が指摘されていた。
 このため昨年夏に美術学芸課と記念物課の専任担当者4人を中心に高松塚、キトラ両古墳に関する業務を担うプロジェクトチームが作られ、た。今回行われた高松塚の石室解体がうまく運んだことから、常設の古墳壁画室への昇格が決まったという。
 古墳壁画室は美術学芸課内に置く。室長、専門職のリーダー格である古墳壁画対策調査官、美術、考古、埋蔵文化財、墳丘整備が専門の調査官1人ずつなど計8人。壁画を保存・修復し、墳丘を再整備して、技術者も育てる。

● 比叡山・明王院で平安期部材を江戸期の再建で再利用か(2007年9月29日)
 滋賀県大津市の天台宗の荒行「千日回峰行」の修行場として知られる比叡山延暦寺の明王院で、1715年に建て替えられた本堂の屋根裏や床下に平安時代後期のスギやヒノキ材が再利用されていたことが分かった。
 本堂の解体修理に伴い、屋根を構成する部材65点のうち9点を年輪年代測定法で調べた結果、すべてが12世紀初めに伐採されたスギかヒノキだった。他の部材も同年代の木である可能性が高いという。
 延暦寺の建物は1571年、織田信長の焼き打ちに遭い多くを焼失。これまでは室町時代後期の瑠璃堂が現存する最古の建造物とされていたが、今回見つかった部材は約400年さかのぼるという。
 これらの部材は梁や床板を支える横木など外側から見えない部分に転用されていたが、部材を組み合わせると、南北朝時代の記録集「門葉記」にある本堂の間取りや、発掘で確認された基壇の大きさとほぼ一致したことから、建て替えられる前の本堂の部材とみられる。
 部材の大きさなどから、創建時の本堂の規模や形も解明できるといい、再利用材から創建時の姿が立体的に分かったのは日本の建築史上異例という。

● 高松塚古墳の壁画に亀裂(2007年9月29日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、石室解体後修理施設に運ばれた壁画の表面が、カビとバクテリアの分泌物が収縮したため、一部に数mm程度の亀裂ができた。
 亀裂は、西壁女子群像の右端の女性の袖に当たる部分になどで、見つかった。壁画を覆う分泌物の膜が乾燥して収縮し、絵の描かれた漆喰がめくれ上がったのが原因と見られ、水などでぬらすと亀裂はほぼ消滅した。
 施設内はカビを防ぐため、室温21度、湿度55%に調整しているが、石室内の湿度が90%以上だったことから、湿度の急激な低下によってバクテリアなどのゼリー状物質の乾燥が進行したためと見られる。
 分泌物を取り除くと、顔料が落ちる危険性があるため、水を含ませ、浮き上がった顔料を沈ませて目立たないようにする処置が続いている。施設内でも劣化が進む可能性が浮上する一方、他の壁画もゼリー状物質に覆われており、対策が急がれそうだ。

● 平等院で「平成大修理」終わる(2007年9月29日)
 京都府宇治市の平等院鳳凰堂で、50年ぶりに行われていた修復を終えた本尊阿弥陀如来坐像と100年ぶりに修復された頭上の装飾天蓋(てんがい)が安置された。
 阿弥陀如来坐像は金箔の剥落止めなどのため、2004年2月から2005年8月、坐像の頭上につるされている天蓋は2005年9月から2007年6月まで汚れ落としや金箔の保護を施していた。
 修理に伴い、今年6月から中止していた鳳凰堂内部の拝観は10月1日から再開される。

● 「国宝 薬師寺展」来春東京で開催(2007年9月28日)
 東京国立博物館で、平城京遷都1300年にあたる2010年に向けて同博物館が開催する記念特別展の第1弾として、2008年3月25日から6月8日まで「国宝 薬師寺展」が開催される。
 日本仏教彫刻史上、最高傑作の一つと称される薬師三尊像のうち、日光・月光両菩薩立像(ともに国宝)が初めてそろって寺外で公開されるほか、東院堂の聖観音菩薩立像や奈良時代の貴重な彩色画吉祥天(きちじょうてん)像など国宝9件を含む約50件が展示される。

● キトラ古墳天文図、年度内に4分の1剥ぎ取り(2007年9月27日)
  奈良県明日香村キトラ古墳で、石室天井部に残され、漆喰(しつくい)の変色やカビ被害が深刻化している天文図(直径65cm)について、今年度中に手作業 で全体の4分の1程度をはぎ取ることにし、まず朱線が書かれた北側や南側を含む3カ所について、手作業ではぎ取りを実施した。
 今回は、北側の太陽の通り道を示す「黄道」や「外規」などを含む長さ8cm、幅5cmの範囲で9片がはぎ取られた。
 また、残りの部分について、壁画のはぎ取りで使用した特殊機器「ダイヤモンドワイヤ・ソー」を改良し、来年度中にはすべてはぎ取ることになった。

● キトラ古墳の寅、丑、子壁画来年5月公開へ(2007年9月27日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳の石室からはぎ取った十二支像壁画のうち、子(ね)、丑(うし)、寅(とら)の3種類が来年5月9〜25日、同村の飛鳥資料館で一般公開される。
 キトラの壁画公開は西壁の白虎(昨年5月)、北壁の玄武(今年5月)に続き3度目。

● 桜井市纒向遺跡で国内最古の木製仮面出土(2007年9月27日)
 桜井市北部の纒向遺跡3世紀前半ごろの木製仮面が出土した。
  仮面は長さ26cm、幅21.5cm、厚さ0.6mm。アカガシ亜属の柾目材で作られた広鍬(くわ)の刃を転用し、両目の部分に穴を開けている。口は鍬の 柄を通す穴をそのまま使い、鼻の穴も造形されていて、眉の部分には赤い顔料が少し付着していた。鍬として使った痕跡はほとんどなく、何らかの農耕儀礼で用 いられたと見られる。
 古代の仮面としては、神戸市の宅原(えいばら)遺跡(7世紀初頭)で出土した木製仮面が最古だったが、これを約400年さかのぼり、国内最古。
 今回出土した仮面は10月3日から12月2日まで、桜井市芝の市立埋蔵文化財センターで開催される「ヤマト政権はいかにして始まったか―王権成立の地 纒向」で展示される。

● 鳥取三仏寺本堂解体修理(2007年9月14日)
 鳥取県三朝町三徳の三仏寺で、2003年度から進める三徳山開山千三百年に合わせた国宝投入堂をはじめとする「平成の大修理」の最後の事業として本堂の解体修理が行われる。
 本堂は天保10(1839)年に鳥取藩主池田斉訓が再建されているが、長年の風雪によって老朽化が進み、屋根の雨漏りや柱の傷みも激しい。応急処置で修理されたトタンぶきの屋根も再建当時の柿葺き(こけらぶき)にし、元の姿に修復する。

● 韓国・石窟庵60年代の復元工事に誤り(2007年9月23日)
 韓国慶州市の石窟庵で、1960年代に行われた復元工事に誤りがあったことがわかった。
 成均館大博物館が17日に公開した石窟庵補修工事直前に撮影された写真によれば、現在、石窟庵の前室左右に4体ずつ並んでいる八部神衆は、本来は入口直近の1体が90度曲がって安置されていたことが分かるという。
  石窟庵は、1909年に発見されたが、発見当時の石窟庵は荒れ果て原型を完全に失っており、彫刻像の間隔が開き、後ろに積み上がった石が見えるほどだっ た。日本統治下の1913年から1915年に本尊仏を除く全ての部材を解体し再建されたが、この際、左右の入口にある八部神衆像1対については、他の八部 神衆に対して90度角度を付けて配置した。しかし、韓国文化財管理局が1961年から64年にかけて石窟庵を再度復元した際には、この八部神衆を他の八部 神衆と同じく一列に並べたことから、前室の構造論争が始まっていた。
 この写真は、1910年代、慶州で東洋軒という写真館を運営していた日本人田中氏が撮影したものだと言われている。当時の朝鮮総督府博物館長・京城帝国大学教授だった藤田亮策氏が所蔵していたが、1953年に成均館大が購入し、所蔵してきた。

 

● 三十三間堂の門にペンキの落書き(2007年9月23日)
 京都市東山区の三十三間堂の北門と東大門に灰色のペンキが掛けられたような跡が数カ所で見つかった。
 被害に遭ったのは寺の東側にある北門と東大門。いずれも外側の高さ約1.5mのところに、灰色のペンキのようなものが波状に広がっていた。
 北門は江戸時代に造営されたものを別の寺院から1961年に移築、東大門は同年に建築されたもので、共に文化財指定は受けていない。
 国宝の本堂や重要文化財の南大門には被害はなかった。

● 登録有形文化財(建造物)166件答申(2007年9月22日)
 文化審議会は、和洋折衷の教会建築「スミス記念堂」(滋賀県彦根市)や、昭和初期の三連アーチ橋「若桜橋」(鳥取県若桜町)など166件を、登録有形文化財(建造物)とするよう文部科学相に答申した。
 スミス記念堂は米国人牧師のパーシー・アルメリン・スミス氏が1931年に建設。外観は瓦ぶきの寺社建築だが内部は教会で、扉にブドウや十字架が彫られるなど西洋の装飾が施されている。道路拡幅工事のため今年三月に移築が完了した。
 若桜橋は1934年に完成した長さ83mの鉄筋コンクリート造りの三連アーチ橋。昭和恐慌後の復興事業として建設された。
 このほか、答申に盛り込まれた前橋市中央児童遊園(前橋市)の「もくば館」は、五四年ごろ製造された現存する最古級の鉄製電動木馬五基を備えた施設で、現役遊具としては初の登録となる。

● 大阪・岸和田で行基が築いた堤・送水管が出土(2007年09月21日)
 大阪府岸和田市の農業用ため池・久米田池で、奈良時代の僧行基が築いた可能性の高い堤と送水管が見つかった。
 出土した堤は長さ8m、幅10m、高さ1.2m。池の水をせき止めていたらしい。植物の葉を敷き、粘り気のある土と小石で突き固めた層を幾重にも施して崩れにくくする「敷葉(しきは)工法」だった。
 池から田に水を引いたとみられる送水管は松の大木をくりぬいており、水が通る部分の幅は35cm(全幅55cm)、長さ3m。
 行基は現在の堺市で生まれ、民衆を率いて近畿各地にかんがい用ため池や橋を造っており、久米田池も行基が掘削を指導したと伝えられているが、実際の遺構が発掘されるのは珍しい。

● キトラ天文図にゼリー状のカビ(2007年9月21日)
 奈良県明日香村の石室に描かれた天文図に、黒いカビやバクテリアなどによるゼリー状物質が発生した
 カビは、天文図西寄りのオリオン座やおうし座近くの赤道で3カ所、太陽の通り道を表す黄道で2カ所確認された。いずれも黒い粉状で、1センチほどの大きさ。うち4カ所は、バクテリアとカビの混合物のゼリー状物質がカビの上を覆っているという。
  天文図については、今月に北斗七星付近など20カ所以上にわたって黒や青に変色しているのが確認され、劣化が深刻化している。一方で、天文図の漆喰は剥落 の危険性が高く、同庁で天文図を損傷させずにはぎ取る方法を検討しているが、有効な技術が見つからず、先送りされた状態となっている。

● 湖北の丁野観音堂十一面観音、虫退治で長浜城博物館(2007年9月19日)
 滋賀県湖北町の丁野観音堂の十一面観音坐像(町指定文化財)が、虫退治のため、長浜市大島町の長浜城歴史博物館に搬送された。
 十一面観音坐像は、像高約78cmの六臂の一木造りで平安時代後期の作という。
 キクイムシ系の虫が足部分に入っており、今月下旬に博物館で、薬剤を使って殺虫する燻蒸を行い、十二月初めに観音堂へ戻される。

● 佐賀県・彦嶋神社の神像は鎌倉時代の制作(2007年9月18日)
 佐賀県杵島郡白石町室島の彦嶋神社に祭られてきた神像が、鎌倉時代後期ごろに作られた木造彫刻であることが分かった。
 神像は、中国風の衣装を身に着けた「唐装」の男神像(高さ51cm)と女神像(約47cm)、僧服を着た僧形像(約41cm)、和装の女神像(約 30cm)の4体で、彦嶋神社境内にある石の祠(ほこら)内に祭られていた。いずれもヒノキとみられる一木造りで、和装の女神像は傷みが激しいものの、他の3体は手の部分が欠けた程度で、保存状態も良好。首などに彩色の痕跡もあり、当初は彩色されていたことが分かる。
 こめかみを絞った面長な顔立ちなどの特徴から、鎌倉時代後期から南北朝時代の制作と推定され、県内の中世美術、九州の神道美術を代表する木像として位置づけられるという。
 彦嶋神社では、他県で盗難被害が相次いだことから、盗難の恐れから文化財として県立博物館に寄託し、博物館では来年にも一般公開する。

● 東京国立博物館にバーチャルリアリティー劇場オープン(2007年09月15日)
 東京・上野の東京国立博物館内にバーチャルリアリティー(VR)技術を使って文化財に関する番組を上映する専用の劇場が、この秋オープンする。
 中国の故宮など、世界各地の文化財のVR化に取り組んでいる凸版印刷と、同博物館の共同事業で、館内に5m×3mのスクリーンを持つ約30人収容のVRシアターを建設し、週末を中心に、文化財に関する番組を見せる。
 一般公開は11月2日からで、シアターの設置期間は当面3年間。関西の古社寺をテーマにした番組を上映する予定で、今後、コンテンツを増やすとともに、同館が所蔵する文化遺産のデジタル保存なども模索していくという。

● 東京国立博物館が東隆寺本尊を無届けで展示(2007年9月13日)
 東京都台東区上野公園の東京国立博物館行われた、「京都五山 禅の文化」展で、山口県宇部市の東隆寺の本尊地蔵菩薩坐像が、山口県や宇部市への届け出がないまま出品されていたことが分かった。
施設的に問題はないものの、県が博物館側は県の要請を受けて届け出を行ったという。

● 韓国で1300年前の巨大仏像が出土(2007年09月11日)
 韓国の慶州市南山列岩谷で統一新羅時代(8〜9世紀)の大型磨崖仏像が出土した。
 仏像の像高は5.6mの如来像で、70トンに達する花崗岩に浮き彫りで施されている。
 地面に埋まっている状態で発見され、数か月にわたる発掘作業をへて、ようやく顔、胸、肩などの部分が姿を見せた。

完成直後に前面を下にして土に埋まったために風化を免れたと見られ、鼻が5cm程度欠けているほかは、ほぼ制作当初の姿をとどめている。
 楕円形の顔と高い鼻、伏目がちの鋭い目つきと柔らかく処理された厚目の唇や、肩に達するほど大きな耳が特徴的だという。

  

● 戦時下の文化財保護「ハーグ条約」批准へ(2007年9月8日)
 戦時下でも文化財を守ろうという意志を明文化した、国連教育科学文化機関の通称「ハーグ条約」に日本が近く批准する。
  締約国は117カ国。イラクは締結したが、米国やイギリス、北朝鮮などは加入していない。     条約では、文化財の集中地区などを特別に保護するには、放送局や幹線道路など、軍事目標となる施設との間に「十分な距離」を確保しなければならないこと が条件になっており、京都や奈良が対象にならない可能性があり、日本は今まで批准を行っていなかった。
 しかし、1999年に、新たに採択された条約を補足する議定書によって、この「十分な距離」を確保する要件に縛られなくてもよくなり、批准への道が開けた。
 ハーグ条約で保護されている文化財は、目印として「ブルーシールド」と呼ぶ標識を掲げることになっている。

● 高松塚古墳石室跡埋め戻し開始(2007年9月7日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、発掘調査が終わった石室跡の埋め戻しが始まった。
  石室跡は現在、南北5.2m、東西4m、深さ2.7mの穴になっており、壁画の修理が終われば石室を墳丘内に戻すことにしているため、再度掘り返した際に 遺構との区別がつきやすいよう、底部に川砂を20cmの厚さに敷き詰め、その上に、墳丘の茶色い土とは違う緑っぽい色をした砂を使う。
 今月中旬からは、発掘調査で掘り出した墳丘の土で全体を埋め戻し、年内にかけて元の姿にするという。

● 藤原京で、平城京しのぐ国内最大級の木造門跡出土(2007年9月6日)
 奈良県橿原市高殿町の藤原宮跡で、国内最大級の木造の門跡が見つかった。
 門跡は、大極殿院と役人が政務にあたる朝堂院の中間で見つかった。基壇部分は東西39.1m、南北16.4mで、南側と北側には、長さ24.7m、幅1.2mの大規模な石の階段があったことが判明した。
 正門の建物部分は残っていないが、基壇の規模から東西8本、南北3本の柱で東西約35m、南北約10mと想定され、平城京大極殿の正門(東西約24m、南北約12m)を上回る規模と見られる。

● キトラ古墳の天文図星の金箔や朱線はぎ取る(2007年9月6日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室天井に描かれた天文図の星座(星宿)の星を表す金箔や、星を互いにつなぐ朱線の一部などの計4カ所を金属製のへらではぎ取った。
 天文図の下地であるしっくいの状態が悪く、はがれ落ちる恐れが高かったための緊急処置で、はぎ取った部分は、赤道の朱線が縦15mm、横5mmで最大、小さいものは2mm四方程度だった。
 また、漆喰の剥ぎ取り作業に先だって行われた点検で、天文図が描かれた石室天井の20カ所前後で、漆喰が青あざ状に変色しているのが判った。
 変色は天井全体に発生し、一部はさらに赤色や黒色になっており、最大で直径約10cmと確認された。カビなどのように漆喰の表面に発生するのではなく、内部から変色しているが、原因は不明で、来週以降にも生物学的な調査の実施を検討している。

● 平城宮跡東院地区中枢部区画の回廊跡発見(2007年8月31日)
 奈良市法華寺町の平城宮跡東院地区で、中枢部を区画したとみられる奈良時代後半の回廊跡が見つかった。
  見つかったのは回廊の西南隅にあたり、東西、南北とも約27m、東西の回廊には建物跡が取り付き、さらに東に延びていた。最も大きい建物跡は東西27m、 南北12mで四方にひさしが張り出し、柱の据え付け穴も1辺約2mと内裏正殿に匹敵する構造で天皇の生活空間だった正殿級の建物が眠る可能性があるとい う。
  
● 福井県の文化財報告書未刊問題で回答(2007年8月31日)
 福井県教委が発掘調査を行った埋蔵文化財のうち19件の報告書が未刊になっていた問題で、市民オンブズマン福井が県教委に提出した公開質問状の回答が公表された。
 これによると、外部監査実施の提案ついて「業者の確認作業に専念している」との回答にとどまるなど、質問に対して十分な説明がないとして、同オンブズは近く再質問状を提出し面談で回答を求める方針という。
  同オンブズは、未刊報告書の印刷費用を職員や退職者のカンパで賄う意向を県教委が示していることについても、不適切な会計処理に対する見解や責任の所在、 調査の詳細な内容が明らかにされていないと指摘。また、未刊報告書の発刊計画についても、30年以上未刊行となっている報告書の刊行が年度内に可能なのか 疑問として説明を求めていく方針。

● 岡山市指定文化財に上生院の観音菩薩坐像など選ぶ(2007年8月30日)
 岡山市は同市桜橋の上生院の観音菩薩坐像など18件を新たに市指定文化財に指定した。
 上生院の観音菩薩坐像は、平安後期の木造で、像高68.0cm、同市内で文化財に指定されている平安仏は4点しかなく、極めて貴重という。
 このほか、灘崎町奥迫川の熊野神社所有の大般若経は、今回の調査によって、写本の中に平安後期にさかのぼると推定されるものが含まれていたことが分かった。

● 北朝鮮の博物館が国宝級文化財を処分(2007年8月30日)
 平壌の朝鮮中央歴史博物館が最近、国宝級文化財の彩篋(さいきょう=竹を編んだ後、絵を描いたかご)を日本の放送関係者に70万ドル(約810万円)で売却してほしいと依頼していたことが明らかになった。
 北朝鮮の政府幹部が外貨稼ぎ目的で文化財を密かに流出させているといううわさはこれまでもあったが、確認されたのは今回が初めてだ。国家を代表する中央博物館までが公然と歴史遺物を売却するのは、世界的にも例がない「事件」だ。
  今回の事実は、TBSテレビが6月10日『報道特集』で「なぜ売られるのか、北朝鮮の歴史的秘宝」と題した報道を行ったことで明るみに出た。問題の展示品 は、1931年に朝鮮古跡研究会が平壌で発掘した彩篋塚(3世紀ごろ)から出土した、精巧に編んだ竹の上に絵を描いた宝物箱で、当時「超一流の世界的遺 物」という評価を受けた。
 TBSによると、放送後、北朝鮮側からは何の反応もなかったという。



● 奈良・法隆寺で7世紀前半の鴟尾が出土(2007年8月28日)
 奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺で修理のため解体した法隆寺西院大垣(築地塀)の下から建物の屋根を飾る鴟尾(しび)の破片が出土した。
 今回見つかった鴟尾は、反り返った尾の一部で、縦30.5cm、横28.6cm。復元すれば高さ1.2〜1.3m程度になるとみられる。同時に出土した瓦の年代から、飛鳥時代中ごろ(622〜643年)の若草伽藍のものと見られる。
  同伽藍の鴟尾はこれまで7種見つかっており、中心の金堂や塔のものとされてきた。今回のものは背びれのデザインが異なる新しい種類で、出土場所が同伽藍の 北東隅にあたるため、一般に境内北側に建てられる講堂の鴟尾の可能性があるという。また、蘇我馬子が6世紀末に造営した日本最初の本格的な寺院・飛鳥寺 (奈良県明日香村)出土の鴟尾片と文様が酷似しており、仏教中心の新しい国づくりで協力した蘇我氏と聖徳太子の結びつきの強さを改めて示す資料として注目 される。
 若草伽藍は606年か翌年に、聖徳太子が創建したとされる。670年に焼失後、現在の法隆寺ができたという見方が強く、2004年と2006年に焼損壁画片が多数出土したが、金堂や塔以外の姿は不明だった。

● 三徳山投入堂60年ぶり3人だけ特別拝観(2007年8月21日)
 鳥取県三朝町の三徳山三仏寺は十一月に一日だけ、断崖絶壁に建つ国宝・投入堂に一般人の特別参拝を約六十年ぶりに認める。
 投入堂は断崖絶壁の中腹にあり、滑落事故が絶えなかったことから戦後まもなく滑落防止と文化財保護のため、柵を作って参拝者らの入堂を禁止した。
 今回の限定公開は、三徳山開山千三百年記念事業の一環として昨年、百年ぶりに修復を終えた投入堂の落慶法要も兼ねて、十一月上旬から中旬の一日だけ、三人限定で拝観できる。参拝者は応募で募り、多い場合は選考で決めるという。
(応募は9月1日に締切られました)

● 四国霊場88カ所の本尊写真収録DVDを出版(2007年8月27日)
 四国霊場88カ所の本尊をすべてを3年間かけて撮影した宗教写真家が、「四国88カ所―祈りの仏たち―秘仏巡礼の旅」のDVDを出版した。


  宗教写真家の桜井恵武さんは、約10年前から高野山の秘仏や年中行事を撮影。その後、弘法大師ゆかりの四国霊場を中心に活動を続け、写真集を出版するなど している。四国八十八カ所の本尊は原則非公開だが、各札所と交渉を続け、約3年間かけてすべてを撮影した。

DVDには88カ所すべての本尊やお遍路さ んの姿を切り取った写真のほか、その写真を基に画家の高橋アキラさんが描いた細密画などを収録。バックには、歌手・夢慧(ゆめさと)さんの歌うヒーリング ソングが流れている。



 DVDは、桜井さんが全国で開催している写真展などで6月末から、税込み3000円で販売するという。

● 安土桃山時代の金箔瓦大量出土(2007年8月21日)
 京都市上京区中立売通室町西入ルで安土桃山時代の大名屋敷の屋根を飾ったとみられる金箔瓦が大量に出土した。
 瓦は井戸跡(直径1m、深さ2m)から600点余り出土した。ほかに遺物や土はほとんどなく、瓦だけがびっしり詰まっていた。
 金箔瓦は軒瓦や屋根の上の部分を飾ったとみられる飾り瓦があった。ヘビか竜の尾を絡ませたような図柄に、きらびやかな金箔が良好に残っていた。鬼瓦は目や角、口などが明瞭(めいりょう)に残り、恐ろしげな形相を見せている。
 出土場所は内裏と聚楽第(じゅらくだい)を結ぶ正親町小路沿いで、1588年の天皇の聚楽第行幸に合わせて金箔を張って装飾した大名屋敷が、1595年の聚楽第破却で、一気に壊された際に捨てられたものとみられる。

● 文化庁が古墳と壁画の管理一元化へ(2007年8月21日)
 文化庁は、奈良県明日香村の高松塚、キトラ両古墳の管理と、内部に描かれた極彩色壁画の保存・修復作業を一元的に進めるため、保存管理にあたる「古墳壁画室」と、各分野の情報の共有や調整に当たる「文化財保護調整室」を、10月1日に新設する。
 極彩色壁画は国内に2例しかなく、高松塚の壁画は国宝に指定されている。しかし高松塚の施設工事で石室内にかびが入り込み壁画が劣化。壁画と古墳を管理する担当課が異なる文化庁の縦割り行政の弊害が問題になっていた。
 担当室では美術や考古学の専門官らを集め、両古墳と壁画の管理を連携して行う。現在、ほとんどの極彩色壁画は奈良県内の保存修復施設に運び込まれており、これから本格的な壁画修復に着手する。

● 高松塚の石室解体終了(2007年8月21日)
    奈良県明日香村の高松塚古墳で行われている石室解体は、最後の床石2枚を修復施設へ運び、すべての作業を終えた。
 高松塚の石室解体は4月に始まり、最終日に取り外したのは南端石(長さ約90cm、幅約160cm、厚さ約50cm)と、南から2枚目の石(長さ約 89cm、幅約162cm、厚さ約48cm)。取り外された16枚の石材は、今後は修理施設でカビなどで劣化した壁画を修復される。
 今後10年間かかるとされる修復作業では、カビなどによる汚れを除去し、漆喰を強化するが、漆喰に根を張ったカビを完全に取るのは不可能なうえ、白虎などの消えた描線は元に戻らないとされており、困難が予想される。
 墳丘については、床石の下の発掘調査を今月末まで実施した後で埋め戻し、造営当時の姿を復元するという。

● 京都の写真家が醍醐寺の写真展開催(2007年8月21日)
 約25年にわたり京都・醍醐寺を撮り続けるフリーカメラマン中島佳彦さんの初個展「醍醐寺精華」が、8月22日から26日まで中京区の京都文化博物館で開かれる。
 中島さんは、美術印刷会社「便利堂」の写真部員として、国内外の美術品を撮影してきた。特に醍醐寺では建物や仏像、絵画や庭園などを長年撮り続け、2001年に出版された学術書「醍醐寺大観」の写真も担当した。
 個展では「仏像」と「五重塔」「三宝院庭園」に分け、45点を展示。アップの顔が穏やかな表情をみせる如意輪観音坐像や、真横から撮影して神秘的な雰囲気を醸す聖観音立像、さらに四季折々の三宝院庭園など醍醐寺の多様な姿を紹介する。
 今後、大阪市中央区の富士フィルムフォトサロンでも9月28日から10月4日まで開かれる。

● 高松塚古墳の床石2枚取り外し(2007年8月20日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、4枚ある床石のうち2枚を取り外し、村内の修理施設に運んだ。
 残る2枚も21日にも取り外して解体作業をすべて終わらせる。
 20日に取り外したのは北端の石(南北長0.93m、東西幅1.54〜1.59m、最大厚0.37m)とその隣の石(南北長0.81m、東西幅1.62m、最大厚0.45m)で、専用鉄枠で1枚ずつ石室部分から搬出した。
 取り外し後の調査で、2枚目の石の北側面に、しっくいを塗ったはけの目とみられる痕跡が見つかった。南側面の下部に、築造当時に欠けた幅二十数cmのくぼみも確認され、漆喰が詰まっていたが、取り外しの際にはがれたという。

● 正倉院の伎楽面再現(2007年8月14日)
 平成16年度から制作が進んでいた正倉院宝物の伎楽面「獅子面」の模造品が完成した。
 再現されたのは「南倉一 木彫 第130号 獅子」で、縦30cm、横32.2cm、奥行き44.8cmと大きく、迫力ある彫刻は正倉院に伝わる9面の獅子面の中で最も造形的に優れ、天平期の基準作と目されている。
 事前調査で宝物の口の中に「東大寺」「宝四年四月九」との墨書が見つかり、天平勝宝4(752)年の大仏開眼法要の際に使われたものと推定される。
 模造は国産のキリ材を彫刻し、彩色はすべて宝物と同じ天然絵具を使用。宝物は両耳などが欠け、褪色や剥落(はくらく)が激しい状態だが、模造品により当初の姿が鮮やかに出現した。

● 高松塚古墳で、石室の木棺の下に棺台(2007年8月10日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、石室の床石に木棺を載せた棺台の痕跡が見つかった。
 壁画発見時の1972年調査で棺台は見つかっておらず、これまでは金箔を張った木棺を床石の上に直接置いたとみられていた。
  石室解体に伴って同庁が床石の表面を詳しく調べたところ、厚さ約2mmの漆喰が残る南東部に、直角に漆喰のない部分があった。この部分から推定すると、発 見時に朽ちていた木棺の底面(幅57.6cm、奥行き199.2cm)より一回り大きい長方形になり、1972年の調査で見つかった木棺の底板よりもひと 回り大きいことから、棺台と判断した。
 棺台は推定で幅67.5cm、奥行き217.5cm、高さは、東壁で見つかった傷から17cmで、木製だったとみられる。床石に漆喰を粗塗りした後、棺台を置き、周囲に漆喰を丁寧に塗って仕上げたらしい。
 棺台は天武・持統天皇陵などの棺にもあり、同古墳の被葬者も高貴な人物だったことが改めて裏付けられた。

● 平城京跡で高級唐三彩の破片が出土(2007年8月11日)
 奈良・平城京跡で、花びら文様を型押しした「貼花文(ちょうかもん)装飾」のある唐三彩の破片(8世紀前半、縦5センチ、横7.5センチ)が出土した。
  平城京の一条南大路の北側溝跡から、土器などとともに見つかった。破片は、縦5cm、横7.5cmで、全体を復元すると直径約21cm、高さ約17cmに なる三本脚の香炉らしい。緑色の地に、褐色の唐草文様「宝相華(ほうそうげ)文」を型押しする貼花文装飾が施してあった。宝相華は唐時代に盛んだった文様 で、日本では仏教寺院の装飾などとして奈良・平安時代に流行した。
 貼花文装飾がある唐三彩片の出土は、大宰府跡(福岡県太宰府市)と沖ノ島(同県宗像市)に次いで全国3例目。凝った装飾が特徴の中国・河南省黄冶窯(こうやよう)で作られた香炉の一部だった可能性が高く、8世紀前半に、遣唐使がもたらした可能性があるという。
 この唐三彩の出土品は奈良市埋蔵文化財調査センター(同市大安寺西2丁目)で8月13〜31日、速報展示される。

● 東大寺の国宝「不空羂索観音立像」の宝冠を超高精細画質で再現(2007年8月6日)
 凸版印刷と東京国立博物館は6日、同館の収蔵品や研究成果を元に、超高精細画質のバーチャルリアリティ(VR)技術を用いた文化遺産の公開モデルを開発する共同プロジェクトを進めていることを明らかにした。
 第1弾として昨年末、東大寺の国宝「不空羂索観音立像」の宝冠のVRコンテンツを、4Kと呼ばれるフルハイビジョンの4倍以上解像度のフォーマットで制作した。
  10月より同館資料館に超高精細の映写装置と大型スクリーンを備えたシアターを開設、VR 技術とデジタルアーカイブ技術を活用して制作した超高精細 VR 映像を上映公開する。
 VR 映像では、通常の展示空間では間近で見ることができない、貴重な文化遺産の細かな形や色を表現するのみならず、普段は入れない内部の構造、完成当時の文化遺産の姿なども、三次元空間の中を移動しながら、あたかもその場にいるかのようなに再現できるという。
 さらに、同館の収蔵品情報や研究活動成果などの詳しい解説を作品とともに紹介。文化遺産について理解をより深く促していく。
  凸版印刷では、1997年からVR技術開発に取り組んでおり、2000年に故宮博物院と共同し、映画監督の篠田正浩氏を監修者に迎えて中国・故宮博物院の 文化遺産など、文化財をVR技術で保存するプロジェクト「故宮VR(バーチャルリアリティ)」の開発・制作しており、今後コンテンツを貸し出すサービス や、ネット配信なども行う。

4K:米大手映画会社7社を中心とするデジタルシネマ標準化団体「DCI」が提唱する885万画素(4096×2160ピクセル)の解像度フォーマット。

● 大宰府条坊の建物跡から柱の根元出土(2007年8月3日)
 太宰府市観世音寺の「大宰府条坊」発掘調査で、奈良時代(8世紀)とみられる建物跡の柱穴8カ所から、柱の根元部分が出土した。
 出土した柱の根元は直径約23cmで、10カ所の柱穴のうち8カ所で確認され、大半が根元から高さ30cm前後で折れた状態で出土した。
 建物は、土器の破片などから奈良時代の建物跡と推定され、南北に4間(約7.3m)、東西に3間(約5.4m)で、南北はさらに広がる可能性があるという。
 このほか、奈良時代の倉庫とみられる総柱の建物跡2棟が出土した。
柱穴から柱そのものが数多く確認されたのは極めて珍しく、今後の分析で建てられた時期や材質の特定も可能になるという。
 「大宰府条坊」は、大宰府政庁を中心とした都市として奈良時代に築かれた碁盤目状の街区で、現場は政庁跡の西約720mに位置し、南北道路の1つ「八坊」のすぐ東側にあたる。

● 高松塚古墳ガラスの粟玉2つ発見(2007年8月3日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳石室の床石に生じた亀裂や、床石同士のすき間から副葬品のガラス製粟玉が2個見つかった。
 ガラス玉は、透明感がある淡い青色で、いずれも直径2.9mmで、中央に直径1mmの穴が開いており、副葬品を飾っていたとみられる。
 ガラス玉は、1972年の壁画発見時の調査で936個(すべて重要文化財)、2004年に3個見つかったており、同種とみられる。

● 宮内庁陵墓に学会立ち入り容認へ(2007年8月2日)
 歴代の天皇や皇族の墓「陵墓」として宮内庁が管理する古墳のうち、奈良市の神功皇后陵(五社神(ごさし)古墳・全長267m)で、歴史・考古学系学会の代表らが今年度中に立ち入り調査をする可能性が高まっている。
 陵墓を管理する宮内庁と歴史系16学会の代表が懇談し、学会側が五社神古墳と、伏見城跡がある京都市の明治天皇陵敷地内への立ち入りを要請したところ、予算が認められれば年明けにも実現する可能性が高いという。

  宮内庁は、今まで陵墓指定された古墳について、「御霊の安寧と静謐(せいひつ)を守るため」として一般の立ち入りを原則的に禁止していたが、1979年に 作られた指針では、研究者から申請があれば古墳を囲む堀の堤などの外周部まで立ち入りを認めるとしており、年に1、2回、書陵部が修理のために発掘調査し ている陵墓で、各学会の代表の見学を認めてきた。1997年には陵墓の可能性があるとして同庁が管理する「陵墓参考地」の宮崎県西都市・男狭穂塚(おさほ づか)、女狭穂塚(めさほづか)両古墳に、県教委が入って測量調査することを許可した。
 また学会側が2005年7月、11の陵墓を指定し、墳丘への立ち入りを認めるよう要請したところ、宮内庁は昨年、陵墓への研究者の立ち入りについての庁内の指針を見直し、最下段までとはいえ、墳丘への立ち入りを認めた。
 16学会の陵墓への立ち入りは研究者16人に限って認められる見通しだが、専門家が墳丘に上がって観察するだけでも、古墳の年代や形状についての情報を得ることが期待できる。

● 高松塚石室を体験(2007年8月1日)
 奈良県明日香村奥山の奈良文化財研究所飛鳥資料館で、石室解体前の極彩色壁画を原寸大で再現した「疑似石室」が、企画展「『とき』を撮(うつ)す〜発掘調査と写真〜」で一般公開される。8月1日から9月2日まで。
 疑似石室は、高精度のデジタルカメラで撮影した写真をもとに再現したもので、高さ1.11m、幅1.03m、奥行き2.66m。現状の壁画のリアルな姿が実際に石室に入ったような気分で見られる。
 企画展は、遺跡や遺物を写真で記録する同研究所のカメラマンの仕事に焦点をあてた。04年に撮影されたキトラ古墳の石室の写真も同様に組まれて公開されるほか、両古墳の壁画撮影で使った機材や歴代のカメラ23点も展示する。

● 三溪園で、建物内部公開(2007年8月1日)
 横浜市中区本牧三之谷の三溪園で、臨春閣・白雲邸・鶴翔閣
の内部公開及び三重塔の内部特別公開が行われる。
 特に三重塔は通常非公開とされており、今回
原三溪の命日を含む3日間に限り、 特別公開される。
臨春閣(重文)・白雲邸(市文)・鶴翔閣
内部公開(市文)
8月4日(土)〜8月19日(日)
三重塔(旧燈明寺 重文)の内部特別公開
8月16日(木)〜8月18日(土)

○臨春閣 (重文) 1649年(慶安2年)
 紀州徳川家初代徳川頼宣が夏の別荘として、現在の和歌山県岩出市に建てたもの。 1906年(明治39年)、三溪の手に渡り、1915年(大正4年)から1917年(大正6年)にかけて園内に再建された。第一屋、第二屋、第三屋で構成され、襖絵は狩野探幽、狩野安信などによって描かれている。

○白雲邸 (市文) 1920年(大正9年) 
 三溪が建て、亡くなる前までの約20年間を過ごした住居で数寄屋風の建物です。 玄関から入ってすぐの洋間は食堂や談話室に使用され、三溪が友人と語りあい、美術品を鑑賞する場として使用しました。

○鶴翔閣(旧原家住宅)(市文)
 1902 年(明治35年)三溪が建て、三溪園造成の足がかりになった建物。広さ290坪に及ぶこの住宅は、主に、楽室棟、茶の間棟、客間棟から構成されている。上 空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、“鶴翔閣”と名づけられた。  鶴翔閣には日本を代表する政治家や文学者が集い、横山大観、下村観山といった日本美術院の画家が創作活動のために滞在した。

○旧燈明寺三重塔 (重文) 1457年(康正3年) 
 園内のほぼ全域から、その姿を見ることができる三重塔は三溪園を象徴とする建物。 旧燈明寺の三重塔で、三溪園には、1914年(大正3年)に移築された。


● 仏教彫刻史学者久野健氏死去(2007年7月27日)
 久野健氏(くの・たけし)が膵臓がんのため死去された。87歳。
 元東京国立文化財研究所情報資料部長で、日本の仏教彫刻史が専門とし、文化財保護審議会臨時専門委員なども務めた。著書に「平安初期彫刻史の研究」「運慶の彫刻」「古代朝鮮仏と飛鳥仏」などがある。

(所感)
 元東京国立文化財研究所情報資料部長の久野健先生が昨日死去されました。
 私も学生時代から久野先生の著作に親しんで来ましたし、講演会等でお話をしたり、個人的にも親しく接して頂きました。
 このホームページのコーナーにも先生の著作から題名を拝借した「古仏礼賛」というコーナーを設けさせて頂いております。
 仏教彫刻史の学者として同世代の町田甲一氏や毛利久氏も故人となってしまい、巨星落つというか、一つの時代が終わったという気がします。
 久野先生のご冥福をお祈りすると共に、このホームページを充実して行くことで、少しでも先生のご好意に報いて行きたいと思います。

● 宇治・旦椋遺跡で奈良期の鳥形硯出土(2007年7月26日)
 京都府宇治市大久保町の旦椋(あさくら)遺跡で奈良時代のすずりのふたの一部と寺院などで使われる床材が見つかった。
 ふたは、須恵器で円墳の溝の地中約70cmに埋まっていた。幅約12cm、長さ約13cmで、全長は推定20cm前後のだ円形。葉の葉脈のような線の文様が刻まれ、羽毛を表現している。
 鳥形硯はこれまで奈良市の平城宮跡や三重県明和町の斎宮跡で発掘されたが、生産量が少なく発見されるのはまれという。

● 新潟県中越沖地震文化財に被害(2007年7月20日)
 新潟県中越沖地震で、重要文化財「大泉寺観音堂」(新潟県柏崎市)など、新潟、長野両県で計10件の国指定文化財などに被害が出ていることが分かった。
  重要文化財「大泉寺観音堂」(新潟県柏崎市)では建物がゆがみ、前方に傾いた。同県糸魚川市では、重要有形民俗文化財「能生白山神社の海上信仰資料」を収 めた宝物殿の壁に亀裂が入ったため、急きょ市事務所に資料を移した。長野県内でも史跡「旧文武学校」(長野市)で建物の壁や瓦が落ちるなどの被害が出た。

● 奈良市日笠フシンダ遺跡出土の絵馬を復元(2007年7月20日)
 奈良市日笠フシンダ遺跡で出土した古代最大の絵馬の消えていた輪郭や色彩が復元された。
  奈良市東部の日笠フシンダ遺跡で昨年11月に、天平10年(738)と書かれた木簡などとともに出土した古代最大の絵馬(奈良時代、横27.8cm、縦 19.9cm、厚さ0.8cm)の消えていた輪郭や色彩を、赤外線撮影や科学分析などをもとに復元した。この結果、描かれた馬は、灰色がかった体色に斑点 模様が特徴の「葦毛(あしげ)」だったことが判明。絵の一部には鉛を成分とする白や赤などの色が使われた可能性があることも分かった。
  続日本紀には天平9年(737)、疫病と日照りが続いて祈とうが行なわれ、左大臣であった長屋王を自害に追いやった藤原麻呂ら藤原四兄弟が天然痘で相次い で死亡したと記述している。これらのことから、平城京で大流行した天然痘等の災いを追い払う願いを込めて作られたとみられるという。
 同じ図柄の絵馬は、1989年に平城京内の藤原麻呂邸近くで出土しており、年輪年代法で麻呂が没した737年に伐採されたことがわかっている。

 

●    栗東・十里遺跡弥生期の破鏡出土(2007年7月20日)
 滋賀県栗東市の十里遺跡から弥生時代の破鏡が出土した。
 今回見つかったのは、紀元後1世紀の後漢時代に中国で生産された内行花文(ないこうかもん)鏡の外周の破片(長さ5cm、幅2.8cm、厚さ4mm)で、集落の南部にある河川跡から発見された。非常に磨き込まれ、上端部分に摩耗した穴が2つ空いていた。
 破鏡は、青銅鏡を意図的に割り、加工して再利用した破片で、出土品は摩耗痕がある穴があることなどから、ペンダントのような装飾品として利用していたと見られる。
 内行花文鏡は北部九州に多く分布しており、また同遺跡からは、関東地方などに多い帯状銅釧(どうくしろ)片も見つかっていることから、この地方が東西交流の拠点だったことが裏付けられるという。
 発見された破鏡は7月21日から大津市瀬田南大萱町の県埋蔵文化財センターで開く「レトロ・レトロの展覧会2007」で公開される。

● 最古級の法隆寺文書確認(2007年7月20日)
 大阪府枚方市内に伝わる三浦家文書古文書の中から、奈良・法隆寺から散逸していた10〜11世紀(平安〜鎌倉期)の古文書6点が見つかった。
  見つかった文書のうち最古のものは、延長7年(929)の「大和国平群郡某郷長解」で、法隆寺に近くの土地を売った証文で縦約30cm、横約70cm。誦 師麿という人物が、母親の墓地を建てるために法隆寺の僧・泰増に土地を売却した買うため売却したとあり、平群郡司の印が押してあった。面積や価格の記録部 分は欠落しているが、現在の法隆寺南大門の南西200〜300m付近の土地と推定される。
 東大寺などは古代の文書が多数伝わっているが、法隆寺のものは散逸しており、12世紀以前だと66点しかない。
 延長7年の文書は、現存する原本の中で、損傷の激しい天平勝宝9(757)年の文書に次いで古く、内容が確認できるものとしては最古という。

● 和歌山県・比曽寺跡から西大寺と同文様の瓦が出土(2007年7月19日)
 和歌山県大淀町比曽の国史跡比曽寺跡(世尊寺)から、奈良市西大寺旧境内の瓦と同じ文様を持つ鎌倉時代後半から南北朝時代の瓦が出土した。
 約50平方メートルを調査したところ、厚さ約10cmの粘土を張り付けた遺構の上から、13〜14世紀代とみられる大量の瓦片が出土した。
 このうち、鎌倉時代後期から南北朝期の軒平瓦の一片(縦約6.6cm、横約15cm、奥行き約15.5cm)が、西大寺旧境内から見つかった瓦と同じ文様であることが判明した。他に出土例がない文様で、同時期に比曽寺が西大寺の影響下にあったことが分かった。
 比曽寺は寺伝では同時期に叡尊(1201〜1290年)ら西大寺の僧が再興したとされ、また、比曽寺には西大寺と関係が深かった後醍醐天皇(1288〜1339年)が行幸した伝承もあり、両寺院の密接な関係を裏付けるものとして注目されている。

● 中越沖地震で柏崎のシンボル閻魔堂が被災(2007年7月18日)
 柏崎市東本町の閻魔堂が中越沖地震により、屋根の一部が崩壊する被害を受けた。
 現在の閻魔堂は1896年に建てられ、市指定の史跡となっているが、今回の地震のため、入口の屋根が崩れ落ち、壁の一部も壊れた。本尊には目立った被害がないものの、建物は応急危険度判定の結果、崩壊の危険性を示す赤い紙が張られた。
 閻魔堂は柏崎市で毎年6月に開催される「えんま市」ゆかりのお堂で地域のシンボルであったという。

● 東大寺で-鎌倉復興期の作業場(2007年7月18日)
 奈良市水門町の東大寺境内から、鎌倉復興時の木材加工作業場跡とみられる遺構が見つかった。
 出土したのは、東大寺の正門である南大門の北西約50mで、東大寺学園中・高校の旧校舎跡地約430平方メートルを発掘した結果、鎌倉前期の木くず5片のほか、平安時代末から鎌倉時代前期の井戸2基、掘立柱建物1棟や塀17条の柱穴列などが出土した。
 木くずは、南大門と同じヒノキで、3、4cm四方、厚さは数mm。材木を平滑に加工する際に使った当時の大工道具・手斧(ちょうな)で削り飛ばしたらしい。
 塀は長さ5〜7mで、東西や南北の方向に重なっていた。塀の柱跡は直径10〜20cmで、短期間に何度も建てかえられていた。作業空間を仕切っていた可能性もある。
 井戸はいずれも深さ約2m、上層が直径約2mの円形で、下層が1辺1mの方形。奈良時代の瓦を大量投棄したあと、鎌倉時代の土釜7個などとともに一気に埋められていた。
  東大寺は奈良時代の8世紀に創建されたが、南大門は10世紀に2度の大風で倒壊。大仏殿などは源平合戦さなかの1180年、平家の焼き打ちを受けて大半が 焼失した。鎌倉初期に僧侶の俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が復興を手がけ、南大門は金剛力士像とともに完成した。
 南大門から北西約50mと近く、同門再建の作業場だった可能性が強いという。作業場跡を発掘調査で確認したのは初めて。
 

● 高松塚古墳床石取り外しを1カ月延期(2007年7月18日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、床石の周囲の土をつき固めた版築層の発掘などに予想以上に時間がかかることから、7月末に予定していた床石の取り外しが8月後半に延期されることになった。
  また、ほぼ同じとみられてきた床石4枚の厚さが、最も南の床石は50cm、南から2番目は46.5cm、3番目は44.3cm、最も北の床石は30cmと 最大20cmの差があることがわかった。床石の上面をそろえるためにどのような方法で据え付けていたか、今後の発掘で調査するという。

● 滋賀県甲賀市で飛鳥時代の古木出土(2007年6月27日)
 滋賀県甲賀市甲南町新治で住民らによって保存されてきた杉の古木3本が、いずれも飛鳥時代の木と分かった。
  古木は第二名神高速道路の関連工事現場から、2005年6月に2本、2006年10月に近くで1本が見つかった。偶然現場を目撃した住民らが市に連絡する とともに工事業者に地区内の農業倉庫まで運搬を頼み、廃棄を免れたという。長さ3〜7mで、いずれも直径1m前後と推定される大木。その後、年輪年代測定 法による調査で、保存状態の良かった後の1本は667年秋に伐採されたことが判明した。最初の2本も、同時出土した木が630〜687年の伐採と分かり、 飛鳥時代のものとみられる。
 切り出して加工中の木とみられ、おのによる加工跡が残っており、木を割るためのくさびを打ち込んだものもあった。
 甲賀はかつて良質な木材の産地で、奈良時代の正倉院文書などに東大寺大仏殿や石山寺の建立に用材が使われたと記されているが、文献以外の資料はこれまでなかった。古代の木材供給地「甲賀杣(そま)」の歴史を示す初めての資料という。
 甲賀市は市甲南庁舎などでの展示を計画している。

● 藤原京をCGで再現(2007年7月13日)
 日本初の本格的な都城「藤原京」をコンピューター・グラフィックス(CG)で再現する取り組みを、橿原市と奈良産業大(三郷町)が連携して進めている。
 藤原宮跡(特別史跡)は、世界遺産暫定リストに掲載された「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」に含まれているが、1300年前の往時の姿を映像化するもので、3年後に都城全体を完成させ、観光や世界遺産登録に生かすという。
 まずは京の中心にあたる大極殿を制作し、現在は、宮を囲む塀に取り組んでおり、政務・儀式の中心となった朝堂院や朱雀門などを順次復元していく。
 奈良産業大は今春、CG再現プロジェクトの一環として高取城(高取町)をCGで再現させており、藤原京はそれに次ぐもので、藤原宮の部分は来年3月までに完成させ、藤原宮跡近くの資料室などで公開する。

● 高松塚古墳で床の土から顔料や金箔(2007年7月13日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で石室の床に赤や青、緑の古代の顔料片と、木棺に張ったとみられる金箔など遺物計102点が見つかった。
 顔料片は、いずれも直径1mm以下で約40点。色彩は鮮やかで、壁画からはがれ落ちたか、描く際にこぼれたとみられる。
 木棺表面に塗られていたと見られる金箔は35点を確認した。ほかに木棺の破片もあり、顔料の朱が付着した黒い漆膜(長さ2.8cm、幅1.2cm)が残っていた。
 石室解体で天井や壁の石を取り外された状態で、床を詳細に調査した結果、鎌倉時代初め(12世紀末)の盗掘で削られたとみられる石材やしっくいの粉などが薄く堆積した土の中で遺物を見つけた。顔料は1972年に壁画を発見した時の調査でも数点見つかっている。
 床石の表面に塗った漆喰は、黒い斑点が多数あり、内部がペースト状に劣化し予想外に深刻な状態であることも判明。

● 高松塚古墳で床石の周りに水準器用の穴発見(2007年7月7日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳石室の床石周囲で、床石の表面を水平に加工するため糸を張った杭の跡とみられる9個の穴が見つかった。
 杭穴は直径8cm。床石の北側に1個と、東西に4個ずつ対称に残っており、1974年の発掘調査で見つかった南側の1個と合わせ、計10個(5組)の穴が確認できた。ほかにも左右対称の2個の穴とみられる跡があるという。
 石室を築造する際、水を張った容器(水ばかり)を使って杭の間に水平を示す糸を縦横に張り巡らせた上、床石表面が水平になるように精密加工したと推測される。
こうした技法は平安時代の庭造りの技術書や鎌倉時代の絵巻物などに登場。古代でも寺院や宮殿の建築に用いられたと想像されていたが、実際に遺構で裏付けられたのは初めて。

● キトラ古墳天井の余白漆喰剥ぎ取る(2007年7月6日)
 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、天井に描かれた「天文図」で、はがれ落ちる恐れがあった部分を取り外した。
 取り外したのは天空の範囲を示す円「外規」を示す朱線の一部。しっくいが縦1.3cm、横0.7cmの範囲で天井石から浮き、垂れ下がっていたという。天文図の描かれたしっくい片の取り外しは初めて。
 3日の天文図黄道朱線の漆喰落下を受け、総点検を行った結果、天井では漆喰が劣化して剥落する恐れがある部分が数十カ所あり、秋にも天文図を分割して剥ぎ取る作業を本格的に始める方針。

● 西本願寺で壁に虎やヒョウの姿(2007年7月5日)
 京都市下京区の西本願寺で重要文化財の虎之間にある障壁画「竹林群虎図」の虎の姿が赤外線撮影で明らかになった。
 虎之間は西本願寺の書院(国宝)の東側に隣接した広さ約200平方mの部屋で、板壁や杉戸など計35面に、竹林に遊ぶ虎が描かれているが、変色や日焼けで画面が真っ黒になっていた。江戸時代前期、渡辺了慶の作との説が有力だが、特定には至っていない。
 今回、赤外線撮影した結果、北側の障壁画の一面(縦、横約2m)から、虎など4頭がじゃれ合う様子が分かった。輪郭は墨、彩色は岩絵の具を使ったとみられ、1頭はしま模様で虎、別の1頭は斑点模様でヒョウであることが判明した。
 今回の撮影は、デジタルアーカイブ事業は、龍谷大古典籍デジタルアーカイブ研究センター、日本写真印刷(本社・京都市中京区)の協力で、国宝の書院や飛雲閣などのふすま絵や障壁画を電子画像に保存、記録するもので、今年4月からスタートしている。

● 唐招提寺盧舎那仏坐像造立当初の黒い漆再び(2007年7月5日)
 奈良市五条町の唐招提寺で、本尊・盧舎那仏坐像の修理が進み、造立当初の黒い漆層がよみがえった。
 盧舎那仏坐像は像高約3m、布を漆で塗り固めた脱乾漆像で、金堂の解体修理に伴い、二体の脇侍とともに修理が行われている。
 これまで江戸時代の修理で使用された赤っぽい漆(ベンガラ漆)が目立ち、衣はまだら状になっていたが、修理が進み、造立当初の黒い漆層がよみがえった。

● キトラ古墳で天文図の一部が剥落(2007年7月4日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳で天井に描かれた天文図の太陽の通り道「黄道」を示す朱線の一部が、周囲の漆喰ごと剥落したことがわかった。
 落下した天文図の漆喰片は約1cm四方で、黄道を示す幅1.5mmの朱線が長さ4mmにわたって描いてあった。
 剥落部分は漆喰が浮き上がっていたため、緊急措置として5日からはぎ取る予定だったが、急遽専門家を現地に派遣し、詳しく調査して対応を協議する。2004年に壁画のはぎ取り作業が始まって以降、壁画の一部がはがれ落ちたのを確認したのは初めてという。
 同古墳の天文図は約350個の金箔の星を朱線でつなぎ、北斗七星など実際の星座を表現しており、現存する本格的なものとしては世界最古とされる。
 同古墳では天文図以外で確認されている極彩色壁画についてははぎ取りを終えたが、天文図はカビや細菌のために、漆喰が内部から溶けている状態で劣化が著しいため、全体をはぎ取るめどはたっていない。

● 高松塚古墳の石室で木棺の痕跡発見(2007年6月29日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室解体で、床石の上に長方形の黒ずみが残っているのが見つかった。
 現在は天井と壁が全て取り払われ、床石四枚(南北3.5m、東西1.6m)がむき出しの状態となっているが、そのうち南北2.3m、幅0.7mにわたって黒ずんでいたほか、直径2〜5mmの金箔片や漆片も多数発見した。


 石室では1972年の発掘調査で、金箔を張った漆塗り木棺の破片が見つかっており、木棺か、棺台を置いた跡ではないかと見られている。

● キトラ古墳天文図7月に一部はぎ取りへ(2007年6月29日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳の石室壁画について、天井に描かれた天文図の一部を7月に緊急にはぎ取ることになった。天文図では悪質な黒いカビが65カ所で見つかっているほか、下地の白いしっくいが黒く変色して溶け出すなど、危機的な状況にあるという。
 同古墳では、玄武や朱雀などの壁画はすべてはぎ取られたが、68の星座が描かれた天文図は、天井の湾曲のため作業が困難で、最後まで残っている。
  今回はぎ取るのは、北側に引かれた黄道を示す朱線部分(直径3cm)。劣化ではがれ落ちる恐れが高いための緊急処置で、修理技術者がヘラなどを使ってはぎ 取る。 天文図の黒いカビは昨年4月に初めて確認されたが、今年に入って急増し、最近は白かった漆喰が一部は黒っぽく変色している。

● 飛鳥池遺跡で銀の精錬跡発見(2007年6月29日)
 奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で、銀の精錬をしていたことがわかった。。
 遺跡から出土したるつぼの内壁の成分分析で、銀とともに鉛を検出し、鉛に溶け込ませた銀を、細かい穴が無数に開いた凝灰岩製のるつぼの中で熱し、融点の低い鉛を吸収させて濃縮した銀を残すことを繰り返しながら純度を高める方法で精錬していたことがわかったという。
 また、出土した銀の粒1点からは水銀も検出されており、銀を水銀に溶け込ませて精錬する「アマルガム法」も取り入れられていた可能性があるという。
 銀の精錬技術は、古文書により16世紀に朝鮮半島から、石見銀山に伝わったのが最古とされていが、これを900年さかのぼることになる。

● 高松塚、壁画取り外し完了(2007年6月26日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室解体で、男子群像が描かれた西壁を取り外し、石室の天井や壁の石計十二枚の壁画の取り外しを無事完了した。
 西壁は幅106cm、高さ115cm、厚さ43cm。壁画がない床石四枚は七月末に運び出し、作業を終える予定。
 修理施設に運ばれた12枚の石材はいずれももろくなり、描かれた壁画もカビで黒ずんだり描線が薄れるなど劣化しており、カビの発生を抑えるため湿度を 55%に保った修理施設で、年内は最近数年で生えたカビを取り除くなどの応急処置を行う。その後今秋に開催を予定している専門家の検討会で、修理や保存処理の方策を検討した上で、来年から10年程度かけて本格的な壁画や石材の修理、保存処理に取り組む方針だ。
 最終的な保存方法について、文化庁は壁画が描かれた石室は修理後に墳丘に戻すと説明してきたが、肝心の修理方針は「壁画への影響を最小限にする」「墳丘内で耐えうる強化をする」の2点しか決まっておらず、壁画を元に戻すかどうかで今後の修理方法も大きく変わる。

● 高松塚古墳「男子群像」東壁取り外し(2007年6月22日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室解体で、「男子群像」が描かれた東壁を取り外した。
 石室を構成する16枚の石のうち11枚目の解体。幅97cm、高さ116cm、厚さ50cmで、4人が並ぶ男子群像が描かれている。右半分は泥で覆われているが、左端の1人の衣装に鮮やかな緑色が残っている。
 もう一つの男子群像が描かれた西壁は26日、また4枚ある床石は7月末に取り外す予定で、石室の石材16枚すべての解体作業を終了する。

● NHK特番「にっぽん 心の仏像」
 昨年秋に東京国立博物館で開催された仏像展は入場者が33万を超える大ヒットとなり、主催者を驚かせた。いま仏像は高齢者だけでなく、若者たちにも浸透しつつある。
   そんな「仏像ブーム」に押され、NHKでは「にっぽん 心の仏像」プロジェクトを放送する。開幕特番では「日本各地で大切に守られてきた仏 像」「知られざる仏像」「心に残る仏像」などを紹介これまでにあまり知られていなかった仏像の魅力を再発見していく。

『知られざる仏像』
[BShi] 5月26日(土)20:00〜20:59
再放送
 [BShi] 6月2日(土)10:30〜11:29
 6月24日(日)13:00〜13:59 /
[BS2] 6月9日(土)16:00〜16:59 
6月22日(金)21:00〜21:59

○東北の山中に現れる仏像が時空の扉を開ける
宮城県の山中にある船形山神社。ここに6世紀に作られた貴重な金銅仏がある。
山の中に埋められた仏像は一年ぶりに村人の前へ現れる。この時の仏像の湿り気で豊作や吉凶を占うという。
その儀式ををこの目で確かめようと人類学者・中沢新一さんが訪ねる。

○村人の心に支えられ今に生きる仏像が姿を現す〜
「千手観音菩薩像」銘は700年前の鎌倉時代とあるが、様式は平安期の仏像である。
一度は忘れられ朽ち果てそうになっていた仏像を、村人達の想いが募って数年前に修復したという。
年2回の御開帳の日に立ち合う。

○美の真髄・にっぽん木彫仏
過去にフランスの興福寺展に出展されたその仏像は多くのフランス人の心を動かした。
今回、興福寺で出会ったのは、日本仏像彫刻のひとつの頂点ともいうべき仏像たち。
慶派の金剛力士像と無著・世親像のエネルギーに圧倒される。

『わたしの一仏』
6月2日から随時放送予定
東大寺・毘盧遮那仏(奈良) 谷村 新司(音楽家)
円成寺・大日如来坐像(奈良) 柴門 ふみ(漫画家)
成島毘沙門堂・兜跋毘沙門天(岩手) 舞の海 秀平(スポーツキャスター)
東寺・帝釈天(京都) はな(モデル)

● 高松塚古墳南壁の取り外しに成功(2007年6月15日)
 奈良県明日香村高松塚古墳の石室解体で、盗掘口のある南壁の取り外しに成功した。
 南壁は高さ113cm、幅137cm、厚さ51cm。石室を最後にふさいだ「閉塞石」で、鎌倉時代の盗掘の際、上部を削られ、くぼんだ形になっている。壁画はないが、削られた部分に四神の朱雀が描かれていた可能性もある。

● アンコール遺跡に博物館(2007年6月13日)
 カンボジアの世界遺産アンコール遺跡に今年11月、日本企業の援助で、初めての博物館「シハヌーク・イオン博物館」がオープンする。
  博物館は、上智大学の調査団が2001年にバンテアイ・クデイ寺院で発掘した274体のアンコール朝の仏像(11〜13世紀)を展示するための施設。現 在、アンコール・ワットから約1.2km離れた場所で建設が進められており、上智大学が博物館建設を担当し、開館後は、カンボジア政府に寄贈される。日本 の大学が続けてきた国際的な文化支援が実を結んだ形だ。

● 中国陝西省で最古の木製人形発見か 兵馬俑の5百年前(2007年6月10日)
 中国陝西省韓城市にある西周時代(紀元前1050年ごろ−同771年)から春秋戦国時代(同770年−同221年)にかけての古墳群で、中国最古の木俑(木の人形)4体が発見された。
 木俑は高さ約80cmで墓室の四隅に置かれ、御者のような格好をしており、もともと赤色の彩色が施されていたという。
 発掘に携わっている専門家は、4体の木俑は、同省内にある秦(紀元前221年−同206年)の始皇帝陵を守護する等身大の兵馬俑よりも500年余り前につくられたもので、これまで発見された木俑の中で最も古いとの見方を示した。
 韓城市の古墳群では、これまでに895の墳墓と64の車馬坑が発見され、青銅器や玉製品、陶器など多くの副葬品も発掘されているという。

● 高松塚古墳青竜を無事取り出し(2007年6月8日)
 奈良県明日香村高松塚古墳の石室解体で、四神の一つ「青竜」の描かれた東壁の取り外しに成功した。
 青竜のある東壁は高さ116cm、幅91cm、厚さ40cmで、石材の劣化がひどく、ジャッキと金属棒の「コロ」で動かし石室から分離してからつり上げる難作業となったが、無事作業を終えた。
 16の石からなる石室の8枚目で、これで半分の石材の取り外しが終わった。壁画がある石材は残り3枚となった。

● 仙台仙岳院の境内競売 対象地に市文化財も(2007年6月7日)
  仙台藩の筆頭寺として知られる仙台市青葉区東照宮の「仙岳院」境内の土地の競売入札が仙台地裁であり、仙台市の住宅建築会社が落札した。
 土地は、京都市の仏具業者が仙岳院に売った納骨堂の仏具代金が未払いだとして競売を申し立てたもので、仙岳院は同年12月、「仏具業者側に品物の未納や誤納がある上、強制執行されれば宗教行為に多大な支障が出る」として異議を申し立てていた。
 競売対象の土地には寺の庫裏が立ち、市指定文化財の本堂の一部も係っている。市文化財課は「落札の事実を確認し次第、今後の対応を検討したい」としている。

● 蟹満寺本尊創建以来1300年不動ご本尊移動(2007年6月7日)
 京都府木津川市山城町の蟹満寺(かにまんじ)で、白鳳時代(7世紀後半)の創建時から位置を変えていないとされる国宝の本尊釈迦如来坐像が、本堂の建て替えに伴い、今秋にも仮移動する。
 銅造の本尊は、国内に5例しかない奈良時代以前の大型金銅仏の一つで、高さ2.4m、重さは推定約7トン。およそ1300年にわたるの歴史で初めての移動とみられ、その間、本尊の修理や調査も予定している。
 計画では、本堂から東約20mにある駐車場に修理所を建設し、今年10月末ごろに本尊を移す。現在の本堂を解体後に発掘調査し、新たな本堂を建設。2009年12月ごろに本尊を新たな本堂に戻すという。
 修理所では、傷みを確認したり、空洞になっている内部も調査し、新たな台座を新作するための綿密な計測を行う。

● 奈良・明日香村で古代史の舞台、山田道の遺構発見(2007年6月5日)
 奈良県明日香村の石神(いしがみ)遺跡(飛鳥時代)で、飛鳥の都の玄関口だった7世紀半ばの国道「山田道(やまだみち)」が確認された、
  今年3月に、石神遺跡で東西方向に延びる天武天皇の時代(7世紀後半)と藤原宮期の道路の溝(長さ33m、幅1.3〜3.3m)の遺構が初出土し、その後 さらに下層を調べたところ、より古い7世紀半ばの東西方向の溝(長さ26m、幅1.3〜1.8m)が新たに見つかった。
 付近は湿地が埋め立てられており、溝わきの路面の下層には、東西14m、南北7mにわたって葉のついたシイやサカキなどの枝が敷き詰められていた。これは水はけの悪い地盤を強化するための渡来系の土木技術「敷葉(しきは)工法」とみられ、さらに 山田道の南側溝とみられる石組みの跡があったという。

 ● 大津市埋文センターで白鳳期の瓦や土器を公開(2007年6月5日)
 大津市の市埋蔵文化財調査センターで 展示会「南滋賀町廃寺の屋根瓦」が開催されている。
  南滋賀町廃寺(同市南志賀1丁目)の発掘調査報告書の刊行を記念した催しで、同寺から出土した飛雲文軒平瓦や鬼瓦、須恵器や土師(はじ)器をはじめ、勾玉 (まがたま)や和同開珎など計53点がケースに納められており、「近江大津宮」と深いかかわりがある寺院の様子が展示品や写真パネルからうかがえる。寺院 が栄えていた白鳳時代の瓦や土器が並んでいる。

● 滋賀県教委が有形文化財8件を指定(2007年6月4日)
  滋賀県教委は、1376年造立になる米原市の青岸寺の木造聖観音坐像など、有形文化財8件を指定し、無形民俗文化財2件を選択した。
 指定された文化財は次の通り
【建築物】
▽石山寺蓮如堂(大津市石山寺 石山寺)
▽石山寺経蔵(同)
▽石山寺毘沙門堂(同)
【美術工芸品】
▽木造聖観音坐像(米原市米原 青岸寺)
▽鰐口(わにぐち)(日野町安部居 安部居区)
▽教行信証(草津市上寺町 西蓮寺)
▽東寺文書(琵琶湖博物館、県)
▽鍛冶屋敷遺跡出土遺物(安土町下豊浦 県)
【無形民俗文化財】
▽近江の山の神行事(県内各地)
▽湖東・湖北地域の野神行事(湖東 湖北地域)

● 坂上田村麻呂の墓特定(2007年6月4日)
 蝦夷征討で知られる平安時代初期の征夷大将軍、坂上田村麻呂の墓が、京都市山科区で約90年前に発掘された「西野山古墓」である可能性が高いことが分かった。
 西野山古墓は清水寺から南東約2キロの山科盆地西部にあり、1919年に周囲を木炭で覆った木棺の中から金装太刀や金銀平脱双鳳文鏡(いずれも国宝)といった豪華な副葬品が見つかっている。
  田村麻呂が創建したという京都市東山区・清水寺に伝わる平安時代後期の書物「清水寺縁起」に、弘仁2年(811)10月付の朝廷の命令書「太政官符(だ じょうかんぷ)」の表題に、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田里西栗栖村の水田、陸田、山を与える」という記述があり、当時の地図「条里図」と比較 すると、西野山古墓と一致することが判明。古墓が8世紀末から9世紀初めにかけて造られたとみられることや、武将らしい副葬品などから、田村麻呂の墓と判 断できるという。
 京大総合博物館(京都市左京区)では、西野山古墓から発見された大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品を6日から一般公開する。

● 高松塚古墳の天井石を全て取り外し(2007年5月30日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室解体で、南端の天井石の取り外しに成功した。
16の石で造られた石室のうち7石目の搬出で、四つある天井石はすべて外し終わった。
 南端の天井石は、幅179cm、長さ96.5cm、厚さ61.8cmで、表面に漆喰は塗られているものの壁画は描かれていない。天井面に大きな亀裂がありほぼ二つに分割された状態だったが、無事に取り外した。

● 豊前国分寺の曼荼羅図 県内最古級と判明(2007年5月30日)
 福岡県京都郡町国分の豊前国分寺所蔵の「胎蔵界曼荼羅図」が、14世紀後半の南北朝時代に作られた県内最古級であることが分かった。
縦237.5cm、横164.6cmで、2006年に細部の撮影や顔料調査を行なった結果、南北朝時代に畿内で制作されたものと考えられることがわかった。
 また、東と北の如来の位置が本来の曼荼羅図と入れ替わっており、天台宗系の特徴と一致することも分かった。
 6月1日から、同曼荼羅図を寄託されているみやこ町歴史民俗博物館で一般公開される。

● 中国文化財の国外持ち出し制限さらに厳しく(2007年5月30日)
 中国の文化財の国外持ち出しに関する制度が改定されることになり、現行では1795年以前の文化財の持ち出しが禁止とされていたものが、今後は基準の年が 1911年となり、規制が大幅に厳しくなった。また、有名作家の作品など特に重要な文化財に関しては1949年以前のものまで持ち出しが禁止となる他、少数民族地区の文化財に関しては1966年までとさらに厳しくなる。
 中国では文物保護法により歴史上の全ての芸術品や文献、手稿、図書資料などの文化財は厳しく管理されており、国務院が特別に許可したものと規定で定められた年以降のもの以外の国外持ち出しは堅く禁止されている。基準の年が1795 年と定められてからすでに50年が経過していたが、このたびの改定で一気に116年分も規制が厳しくなった。

● 奈良・唐招提寺で国宝三尊、7年ぶりにそろって公開へ(2007年5月29日)
 奈良市五条町の唐招提寺で修理中の国宝三尊が6月2〜10日に境内の仏像修理所で一般公開される。
 三尊は、いずれも奈良時代末から平安初期の大型仏像の傑作で、本尊、盧舎那仏坐像(8世紀、高さ3.04m)と脇侍の千手観音立像(8世紀、高さ 5.3m)、薬師如来立像(8世紀末〜9世紀初め、高さ3.7m)は全て国宝に指定されている。2000年に始まった金堂の大修理に伴い、境内の修理所や奈良国立博物館に移され修理されていた。
 作業の都合で盧舎那仏坐像は台座から外されて床の上に置かれ、千手観音立像は修理のため943本の小さな腕が外され、太い腕10本だけの姿。
 薬師如来立像は2000年に奈良国立博物館に移されていたが、昨年7月に唐招提寺に戻り、漆や金箔の剥落を止める作業が続いていた。
 2008年夏には元の金堂に位置に戻されるという。
 6月2〜10日は、同時に御影堂の一般公開が行われる。

● 高松塚古墳星宿図の天井石無事取り外し (2007年5月28日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室解体で「星宿図」のある南から2番目の天井石取り外しに成功した。
  取り外した石材は金箔で星を表現した石室天井の星宿図のうち東、西、南の七宿(星座)などがあり、東西幅184cm、南北95cm、厚さ60cm。石材は 劣化がひどく、全体が大きく3つに割れているうえ、北東角などが部分的にはがれ落ちる恐れもあったが、天文図の損傷や、漆喰の剥落はないという。

● 高松塚古墳の飛鳥美人報道陣に公開  (2007年5月25日)
 明日香村平田の高松塚古墳の石室解体作業で石室から取り外され、壁画修理施設に保管されている女子群像が描かれた東壁石が報道陣に公開された。

● 京田辺の仏像・神像 紹介( 2007年5月24日)
 京都府京田辺市教委は、市内の主な仏像を調査した報告書「京田辺市の仏像」を発行した。
  京田辺市には、文化財的価値を持つ仏像が数多くあるとされる。阪神淡路大震災を機に、市内の仏像を把握する目的で19の寺と神社の仏像・神像135件を調 査し、観音寺(同市普賢寺)の国宝・十一面観音立像や一休寺(同市薪)の重要文化財・一休和尚坐像など仏像・神像46件を写真付きで解説している。

● 高松塚古墳天井石の星宿図の天井石に新たな亀裂発見(2007年5月23日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室解体で、星宿が描かれた北から3番目の天井石の亀裂が新たに2か所見つかった。
  この天井石は、幅1.84m、長さ95.2cm、厚さ60.3cmで、過去の地震によるとみられる亀裂が3箇所あり、このうち2本の亀裂が側面や上面にも 達していることが新たに確認された。このため石材は辛うじてつながっているものの、ほぼ三つに割れた状態になっている。
 解体で石材をつり上げる際に亀裂で崩れないよう、四方から挟む鉄枠を初めて使うという。

● 薬師寺の日光・月光菩薩立像出展(2007年5月19日)
 奈良市西ノ京の薬師寺金堂に安置される日光、月光両菩薩立像(国宝)が、来年3月から東京国立博物館で開かれる「国宝 薬師寺展」で特別展に出展されることが決まった。
 2010 年に開催予定の平城遷都1300年記念事業にあわせたもので、両菩薩像は本尊・薬師如来坐像の両脇に安置されており、いずれも高さ約3.2m銅像で、ふく よかな顔だちや、流れるような腰のひねりが魅力となっている。月光菩薩像だけは東京で展示されたことがあるが、両菩薩像がそろって寺外で披露されるのは初 めてという。

● 石川・来迎寺地震で被害の古仏を応急修理(2007年5月19日)
 能登半島地震で被災した穴水町大町の来迎寺複数の古仏の応急修理が始まった。
 同寺では本尊の阿弥陀如来座像(平安時代後期)の胸に割れ目が入り、首が胴内に数センチ沈んだほか、薬師如来座像(同)と不動明王立像(鎌倉時代後期)が床に落ち、十一面観音立像(江戸時代初期)を含め、手足や指が折れた。これらはいずれも町の指定文化財となっている。
 財団法人美術院・国宝修理所から美術院主任技師は派遣され、十八日は、胴体と足が分離していた薬師如来坐像が組み上がり、本堂に仮安置された。

● 高松塚「飛鳥美人」東壁の取り外しに成功(2007年5月17日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)で、女子群像が描かれた東壁をつり上げ、石室から取り外した。
 取り外しは16枚の石材からなる石室のうち、天井石2枚、四神図「玄武」がある北壁、女子群像の西壁に続き5枚目。
 東壁は石室の北東角にあり、高さ1.16m、幅84cm、厚さ45cm
石材の状態などから、石材を直接支えるゴム製パッドの調整に手間取り、1時間かかった。 作業中、南隣の石材との接合面で数センチ大の破片が3個落ちたが、壁画面の破損はなかった。

● 高松塚・飛鳥美人、東の方が上手(2007年5月17日)
 高松塚古墳の東西壁に描かれた2組の「飛鳥美人」(女子群像)は、似たような4人の女性が並ぶが、よく見ると画風は違う。実は、別人が描いたとみられ、専門家は、有名な西壁よりも東壁の方が絵師の技量は上とみている。
 東は全体にゆったり感があるが、西は輪郭に硬さが目立ち、筆遣いが粗いという。

● 高松塚女子群像に木棺引きずった傷(2007年5月17日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、東壁の女子群像に木棺を納めた1300年前にできたと見られる傷が確認された。
 傷は中央の四神図「青竜」から北側の女子群像にかけて最長112cmに亘り、棺でこすったように平行して10本以上あり、また棺の角が当たったとみられる垂直方向の傷もあった。
 一部に棺に張っていたとみられる金箔が付着していた。高松塚古墳のの木棺の一部が残っており底に金箔があったことが分かっているが、棺は外側全面に金箔を使っていた可能性があるという。
 傷の付き方や位置から木棺は高さ69cmで、角を面取りしたふたをかぶせ、上端と底の周囲は帯状の飾り金具などが巻いてあったとみられる。


● 正倉院に残る「四分律」鑑真が持参した経典か(2007年5月15日)
   奈良市の東大寺正倉院所蔵の経典「四分律(しぶんりつ)」が、753年に唐から苦難の末に来日した高僧・鑑真が持参した可能性が高いことが分かった。
  四分律は、「聖語蔵経巻(しょうごぞうきょうかん)」のうちの一つで、僧侶が修行する規律を記した重要な経典。唐で書写され、文字や紙の質も高い「唐経」 16巻と、光明皇后が740年(天平12年)に書写させた「御願(ごがん)経」31巻の2種類がある。うち御願経は、格式の高い経典だが、訂正や加筆が多 い点が謎とされてきた。
 調査の結果、当初は朱色の文字(朱書)で訂正していたが、鑑真が来日した753年(天平勝宝5年)ごろを境に白い文字 (白書)の訂正に変わったことが判明。白書は、唐経と表現が同じで、唐経を参考にしたとみられる。鑑真の生涯を記した奈良時代の文献「唐大和上東征伝」に は、鑑真がもたらした経典や仏像の中に、四分律60巻が含まれていると記されており、正倉院所蔵の唐経は、その一部と推定した。

● 高松塚古墳飛鳥美人色くすむ(2007年5月15日)
 奈良県明日香村高松塚古墳の西壁に描かれた女子群像(飛鳥美人)壁画を報道関係者に公開された。
1300年前の色彩や描線は残っていたものの、72年の壁画発見当時の飛鳥美人の艶(つや)は消え、全体的に乾いてくすんでいた。絵の上では、修理で使った樹脂の可能性がある白濁も見つかった。
 女子群像は壁面の左側、約40センチ四方の範囲で黄色、白、赤、緑の衣服を着た4人の女性が重なるように描かれている。
 しかし、絵はカビなどの影響で全体的にくすんでおり、発見時にすでにあった漆喰の剥落や、赤い衣服などに白濁している部分が見つかった。
  白濁箇所は、漆喰剥落防止の接着剤として1980年代ごろまで使われたアクリル樹脂の可能性があるという。壁画への影響を懸念して絵には直接使用しなかっ たとされるが、別の剥落個所から染み込んだ後に絵の表面から浮き出たともみられる。同庁が原因を調べ、対策を検討する。
 
発見当時        取り外し後

● キトラ古墳・玄武11日から一般公開(2007年5月10日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳の石室からはぎ取られた極彩色壁画のうち、四神の一つ、玄武(縦14.5cm、横25cm)が、奈良文化財研究所飛鳥資料館で地元向けに公開された。
 玄武は亀と蛇が絡み合う姿を描いたもので、2005年11月に分割してはぎ取られ奈良文化財研究所で修復されていたが、修復を完了し、温度22〜23度、湿度60%前後に保たれたガラスケースに収められた状態で公開された。

● 高松塚古墳で「飛鳥美人」を取り外し成功(2007年5月10日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、女子群像が描かれた石室西壁が取り外された。
 取り外しに先立って、壁画表面にレーヨン紙を張り付け、壁画面を保護した上でクレーンでつり上げ、石室から運び出した。
 西壁に描かれた女子群像は「飛鳥美人」と呼ばれ、1300年前の風俗を鮮やかに伝えていることで注目された。しかし発掘から35年の間に壁画が劣化し、下地の漆喰の剥落やひび割れ、黒カビも目立ってきている。
 今後、修復施設に移してカビなどを除去し、壁画を保護するため表面に張ったレーヨン紙をはがした上で、 10年がかりで修復する予定。

● 福井・小浜市文化財9件指定(2007年5月10日)
 小浜市は、明通寺の木造金剛力士立像など、仏教彫刻や仏画、民俗行事など有形、無形合わせて9件を新たに市文化財に指定した。
  指定を受けたのは明通寺(門前)神宮寺(神宮寺)谷田寺(谷田部)妙楽寺(野代)の木造金剛力士像各1対の4件と、極楽寺(白鳥)の釈迦十六善神像と愛染 明王像、阿弥陀三尊来迎図の仏教絵画3件、円照寺(尾崎)の「大日堂」、法海区と荒木区で行われている民俗行事の「六日講・二十日講の勧請綱(かんじょう つな)行事」。
 明通寺の木造金剛力士立像は鎌倉時代の作とみられ、市内に現存する金剛力士立像の中で最も古い。

●  福井・平泉寺旧境内から白磁観音像が出土(2007年5月10日)
 福井県勝山市の国史跡、白山平泉寺旧境内から、中国・元代に作られたとみられる「白磁観音像」が出土した。
 観音像は、昨年12月、現在の平泉寺境内の南側に広がる「南谷三千六百坊」と呼ばれる僧侶屋敷跡の発掘調査で発見された。出土したのは、頭部右下や右腕のひじ部分などの破片6個で、復元すれば20cmになるという。
 精巧な装飾品も付属しており、顔なども精巧に出来ており、台座は鉄分を多く含ませ岩のような質感を出している。中国最大の陶磁器生産地で知られる、江西省の景徳鎮で作られたとみられる。
 景徳鎮の白磁観音像は、国内では福岡市で破片の出土例があるだけで、世界的にも十数点しか存在せず、かなり欠けているものの頭全体の姿が分かるものは国内で初という。

● 京都府文化財総合目録」を7年ぶりに改訂(2007年5月7日)
 京都文化財団は、「京都府文化財総合目録」を7年ぶりに改訂した。
 京都府の国宝、重文のほか、府や市町村の指定・登録の全文化財4526件を網羅した。
 目録は所在地や築造年代、修理状況などのデータを収録した文化財のバイブル。新指定・登録のほか、国宝の今昔物語集など独立行政法人化で京都大の所有となった古文書や考古遺物など519件を新たに掲載した。
 A5判、989ページ。定価3000円。
 問い合わせ先は、京都府京都文化博物館内ミュージアムショップ 便利堂 075-212-3931

● 盗難の「白銅三鈷杵」の公開始まる(2007年5月8日)
  平成7年に展示されていた会津若松市の鶴ケ城天守閣から盗まれ、昨年所有者の恵日寺(磐梯町)に戻った国指定重要文化財「白銅三鈷杵」が、福島県立博物館 で開催されているテーマ展示「社寺が伝えた祈りの美」の中で返還後初めて公開されている。5月8日から6月17日まで。
 「白銅三鈷杵」は奈良時代に作られたもので、仏都会津を象徴する文化財とされる。
 テーマ展示ではこのほか、会津美里町の法幢寺所蔵の国指定重要文化財「善光寺式銅造阿弥陀三尊立像」などの約30点を展示している。

● ヒマラヤ山中で仏教壁画発見(2007年5月4日)
 ネパール北部ムスタン地区にあるヒマラヤの山中の洞窟で、十三世紀ごろのものとみられる仏教壁画が発見された。
 洞窟はアンナプルナ1峰(8091m)の北部に位置し、外国人の立ち入りが制限されている場所。 米国、イタリア、ネパールの国際調査チームが付近の洞窟 12ヶ所を探索して発見したもので、縦長の洞窟に沿って描かれており、仏塔のほか、ブッダの生涯を描いた五十五の壁画などが確認された。中にはチベット仏教の影響を受けているものもやインドの動植物も描かれており、世界遺産アジャンタの仏教壁画を彷彿とさせるという。
 洞窟は多層階に分かれて、階段の痕跡のようなものもあったが、急峻な地形のため略奪を受けていないとみられ、さらに貴重な発見がある可能性があるという。

● 西国三十三カ所巡礼 来年から各寺の本尊を公開(2007年4月23日)
 西国33所札所会では、西国三十三ヶ所観音霊場巡礼の創始者とされる花山天皇の没後1000年を記念行事の一環として、2008年から10年間で春と秋に各寺の本尊を特別公開する。時期や期間は寺により異なるが、今年の対象は6月に決定するという。


● 奈良・栄山寺で秘仏の本尊開帳(2007年5月2日)
 奈良県五條市小島町の栄山寺で5月1日から9日まで、春の大祭に合わせ秘仏の本尊薬師如来坐像の開帳が行われる。
栄山寺は、藤原南家の祖、武智麻呂の創建と伝えられ、寺の裏山の頂にある武智麻呂墓(国史跡)は昨年から復元工事が行われ、修復完成に伴う開眼供養が行われた。

● 川越・喜多院で天海大僧正寿像を初公開(2007年5月2日)
 埼玉県川越市小仙波町の喜多院で喜多院宝物特別展が開かれ、元住職・天海大僧正の肖像彫刻「天海大僧正寿像」(県文)をはじめ、江戸時代の職人を描写した風俗絵「職人尽絵屏風」(重文)や「将軍献上太刀」などの文化財計約八十点が展示された。
 天海大僧正寿像は僧正が没した寛永20年(1643)年に生前の姿を写した像とされている。

● 奈良市の西大寺境内で薬師金堂の跡出土(2007年5月2日)
 奈良市西大寺小坊町西大寺旧境内で、中枢建物の一つ「薬師金堂」とみられる創建当初(8世紀後半)の大型建物跡が見つかった。
 発掘されたのは、建物の基壇の一部で、1.6〜1.8m四方の柱穴6カ所が4.4m間隔で出土し、礎石は後世に抜き取られ残っていなかったが、うち2つの穴跡の底には、凝灰岩の板石(長さ1.4〜1.6m、幅0.6m、厚さ0.3m)が2枚ずつ並べて置いてあった。
板石は大阪・奈良府県境の二上山産で、ノミなどの削り跡があり、他用途の石を転用したと見られる。
 柱を支える礎石の下に板石を敷く例は同時期の大陸や国内には無いといい、巨大な薬師金堂の重量で礎石が沈下しないよう基礎固めをしたらしい。
 「西大寺資財流記帳」(780年)によれば、薬師金堂は東西35.2m、南北15.7mで平城京の朱雀門より大きく、鳳凰や獅子、火炎などの飾りが多数取り付けられ、約30体の仏像が安置されたとされ、基礎跡からもその荘厳さが想像できる。

● 倉敷・真備勝負砂古墳は二重構造の石室(2007年5月1日)
 倉敷市真備町下二万(しもにま)の勝負砂(しょうぶざこ)古墳で、竪穴式石室の内側や、蓋石と側壁の間に板材を使用した特殊な構造が明らかになった。
  勝負砂古墳は、未盗掘の前方後円墳で、3月に石室内に鉄製のよろい、馬具、銅鏡、鉄鏃などが埋葬時のまま残されているのが確認された。今回調査で石室側壁 の上端や内側に木の繊維や木目の痕跡が付着していたほか、側壁に沿った場所で鉄製のかすがいやくぎが複数出土した。このことから、一般的な竪穴式石室とは 異なり、側壁や蓋の直下に板材を巡らせた石と木の二重構造だった可能性があるという。
 同古墳は礫(れき)と粘土を積み重ねた石室の構造などから朝鮮半島の石室との類似性が指摘されていた。

● 京都府で国指定文化財保存修理事業が決定(2007年4月27日)
 京都府教委は、国宝や重要文化財など国指定文化財の保存修理や防災対策などに対する本年度の国庫補助事業内定分を発表した。
 木津川市・蟹満寺の銅造釈迦(しゃか)如来坐像(ざぞう)の部分修理や京都市北区の大仙院本堂の屋根ふき替えなど新規18件を含む85件。
  銅造釈迦如来坐像は、飛鳥〜奈良時代に制作された像高240cmの丈六の金銅仏。近年の調査で創建時から約1300年間、現位置のまま移動していないこと が確かめられた。台座がなく地付き部分が不整形なため、本堂の建て替えに伴い境内に修理工房を建て、3カ年で修理する。
 その他の新規の国庫補助事業は次の通り。

【建造物防災施設】龍安寺本堂(右京区)
▽玉林院本堂ほか3棟(北区)
【美術工芸品保存修理】
▽神護寺・絹本著色釈迦如来像(右京区)
▽西本願寺・絹本著色聖徳太子像(下京区)
▽禅林寺・絹本著色来迎阿弥陀(あみだ)像(左京区)
▽浄福寺・絹本著色阿弥陀三尊二十五菩薩(ぼさつ)来迎図(上京区)
▽相国寺・大書院障壁画50面のうち34面(上京区)
▽平等院・木造雲中供養菩薩像(宇治市)
▽地蔵院・木造阿弥陀如来像など2件(同)
【美術工芸品防災施設】
▽西本願寺・36人家集ほか(下京区)
【記念物保存修理】
▽清風荘庭園(左京区)
【重要有形民俗文化財保存修理】
▽祇園祭山鉾「北観音山」(中京区)
▽同「橋弁慶山」(同)
▽同「鶏鉾」(下京区)
▽同「船鉾」(同)
【民俗文化財伝承活用等】
「やすらい花」(北区・やすらい踊保存団体連合会)

● 高松塚古墳の天井石公開(2007年4月27日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳から解体された天井石が報道陣に公開された。
 天井石には、古代中国の星座「星宿」の一部が描かれており、「北方七宿」と呼ばれる星座の星を表した金箔が1300年前と変わらない輝きを見せた。
 しかし、壁画面は全体がくすみ、崩落寸前の浮いた漆喰や大きなひび割れも見られた。

● 高松塚古墳亀裂天井石の取り外し成功(2007年04月25日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、北から2番目の天井石の取り外しに成功した。
今回の天井石は幅1.8m、長さ93.4m、厚さ59cmで、天文図の「星宿図」の一部が描かれている。
 石の北東角に延べ1.2mの亀裂が見つかり、16枚ある石材のうち最も作業が難しいとされたが、破損することなく、描かれた天文図にも剥落はみられないという。
  しかし、この石の下にあり、「飛鳥美人」と呼ばれる女子群像が描かれた東西の側壁で、天井との接合面を中心に黒いカビが密集していた他、女子群像のうち、 右から2番目の赤い服の女性像のほおに2カ所、0.8mm程度の黒いカビが新たに見つかったが、いずれも筆でぬぐって除去した。

● 奈良県羽子田遺跡で謎の土器出土(2007年4月20日)
 奈良県田原本町新町の羽子田遺跡で、皮袋か鳥を表現したとみられる弥生時代末期(3世紀前半)の異形土器が見つかった。
 土器は井戸跡の底で見つかり、胴部の長さは約20cm、ラグビーボール状の胴部に上部に注ぎ口が取り付き、片側の側面に小さな穴が開けられている。
 井戸での祭祀に使ったとみられ「皮袋形土器」「鳥形土製品」などと呼ばれて西日本を中心に約60点出土しているが完形品は極めて珍しいという。

● 滋賀石馬寺の十一面観音立像が17年ぶり里帰り(2007年4月20日)
 滋賀県東近江市にある石馬寺の重要文化財・十一面観音菩薩立像が20日、寄託していた東京国立博物館から17年ぶりに里帰りした。
 十一面観音菩薩立像は像高167cmのヒノキの一木造で、衣部分には翻波(ほんぱ)式衣文も見られ、平安時代中ごろの10−11世紀の作と考えられる。
 1990年から東京国立博物館の要望を受けて寄託していたが、2000年11月に大佛殿を新築したことから、阿弥陀如来坐像(平安時代)や役行者像(鎌倉時代)などと一堂に安置することとし、返還を依頼していた。   

● 「飛鳥美人」に新たなカビ(2007年4月18日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、「飛鳥美人」で知られる女子群像上に新たな黒いカビが発生していることが分かった。
 高松塚では国宝壁画保存のため石室解体が進められており、盛り土の大部分が除去されて石室倒壊の恐れが出てきたため、文化庁は昨年12月以降、石室内の詳しい調査をしていなかった。
17日に四神図「玄武」が描かれた北壁を取り外して内部がよく見えるようになり、西側の側壁に描かれた女子群像上の1カ所と、絵の近くの2カ所でカビが確認された。石室内に残っている他の壁画にもカビ被害が拡大している可能性があるという。

● 高松塚解体 『玄武』取り外し成功(2007年4月17日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳(七世紀末−八世紀初め)で四神図「玄武」が描かれた北壁をつり上げ、取り外した。
 北壁は幅約1.5m、高さ約1.1m、厚さ約0.5mで、中央に北の方角を守るとされ蛇と亀が絡み合う姿の玄武が描かれている。
 絵の下地のしっくい層は2〜3mmと薄く、表面をレーヨン紙で保護する方法も検討したが、倒壊の恐れがあり石室へ入る作業は断念。北端の天井石を外したすき間から固定効果がある溶液を吹き付け補強した。
 凝灰岩の石材16枚でできた石室のうち、5日に解体した北端の天井石に続く2石目だが、極彩色壁画のある石材は初めてだ。
 壁の裏面や天井石と接していた部分で、「カビの巣」と見られる黒い痕跡が見つかったが、事前に殺菌処理。床と接する部分もカビ汚染が予想されるが、搬出後に処置するという。

● 愛媛県八幡浜で三尊仏ご開帳(2007年04月16日)
 愛媛県八幡浜市徳雲坊の「梅之堂三尊仏」(重文)が16日、ご開帳された。
 三尊仏は平安末期(12世紀)の作とみられる阿弥陀三尊像で、中尊阿弥陀如来(像高約1.4m)、と両脇に観世音、勢至両菩薩(各約0.8m)を安置する。
 共にヒノキの寄木造、漆泊(しっぱく)仕上げ。本来は三尊の他に地蔵、竜樹両菩薩を加えた五尊形式だが、現在、同菩薩2体は奈良国立博物館に収められている。

● 寂光院旧本尊を放火以来初公開(2007年4月16日)
 京都市左京区大原寂光院で7年前の本堂放火で焼損し、その後修復された旧本尊地蔵菩薩立像(重文)が、4月28日から5月7日まで、事件以来初めて境内の収蔵庫で一般公開される
 旧本尊は像高2.6mで鎌倉時代初期の作とされ、重要文化財に指定されていたが、2000年5月9日未明に起きた放火事件で全焼した本堂と共に焼け、原形はとどめているものの激しい火災で表面全体が黒く炭化した。
 再建された本堂には旧本尊の複製が本尊として安置されているが、焼損した旧本尊は表面に透明な樹脂を塗り固めて現状保存され、今も重文指定が継続されている。
 今回の公開は放火事件の被害に伴う境内の復興がほぼ終わったことから、企画され、新たに建設された収蔵庫で公開される。 
● 称名寺明王像胎内からハスの実に仏舎利(2007年4月13日)
 先日、運慶の作であることが確認された横浜市金沢区の称名寺光明院所蔵の大威徳明王坐像の内部から、ハスの実に納められた仏舎利が見つかった。
 本像は今年二月末に仏像の胴体部から、運慶が建保四(1216)年に作った像であることを記した文書や、ヒノキ材で栓をしたハスの実(長さ約 1.7cm)、香料となるクローブなどが一緒に和紙に包まれて見つかった。ハスの内部をエックス線写真で調査したところ、仏舎利に見立てた貴石(直径1〜 2mm)が入っていることが確認された。
 仏舎利をハスの実に入れるのは前例がないという。
 (右写真の中央の白い○が仏舎利)

● 古墳発祥の地、奈良纏向古墳群はすべて前方後円墳(2007年4月12日)
 奈良県桜井市にある最古級の纏向(まきむく)古墳群の東田(ひがいだ)大塚、矢塚の両古墳が前方後円墳と判明し、纏向古墳群の主要墳墓がすべて前方後円墳であることが確認された。
纏向古墳群は、国内最古の古墳といわれるホケノ山古墳や女王・卑弥呼の墓との伝承もある箸墓(はしはか)古墳など3世紀半ば〜後半に造られた古墳が密集し、「古墳発祥の地」とも言われている。
 今まで形が明確でなかった東田大塚古墳(桜井市東田)は後円部が直径68m、矢塚古墳(同)は後円部が直径64mで、その周辺を調査したところ前方部の一部を確認した。

● 明日香村の岡寺で仁王像2体の修理が完成(2007年4月12日)
 奈良県明日香村岡の岡寺で仁王像2体の修理を終え開眼されたが、頭部内から制作年代や作者、寺関係者の名を記した銘文が見つかり、鎌倉時代から江戸時代とされてきた同寺の仁王像の制作年代が、江戸時代初期の正保4年(1647)であることが分かった。
 仁王像は、像高は阿形が239.1cm、吽形が242.5cmで、阿形の頭部前面材の内側などに「作者京都之住人三助(郎)」「正保四年十御奉加奉作十月吉祥日真如」などと記されていた。

● 高松塚・石室解体で漆喰片大量落下(2007年4月7日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室解体で、1石目となる北端の天井石をつり上げた際、隣の天井石との継ぎ目を埋めていた漆喰(しっくい)の破片が大量に床石に落ちていた。
 漆喰の破片は最大数cmで、破片は床に敷かれた黒いビニールシートの上に北壁から幅約40cmの範囲に飛び散っていたことが南壁の盗掘穴から確認された。
 天井石は4枚の石材からなり、石と石の間の溝(約3cm)には漆喰が大量に塗り込まれており、大半は解体前に取り外したが、溝は途中で段状になっているため下部は取れなかったという。

● 高松塚古墳天井石裏側に黒カビ広がる(2007年4月6日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で最初に取り外された北端の天井石の裏側などに黒いカビによる汚れが広がっていることがわかった。
  カビは北壁と接している部分で帯状に見つかるとともに、隣の天井石との接合部などでも確認された。いずれもこれまで肉眼では見えない場所だった。天井石に は壁画などがないため、ブラシでカビをこすり落とした後、エタノールで処理するなど応急処置を終え、仮設修理施設の作業室に運び込まれた。

● 高松塚石室解体第一石目取り出し(2007年4月6日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、第一石目となる天井北端石の取り出した。
 4枚の天井石のうち、北端の天井石(幅160cm、奥行き105cm、厚さ47cm)に、アーチ状の固定具を取り付け、クレーンでつり上げて鉄製フレームに納め、振動を吸収する特殊なトラックに乗せて、古墳から約750m離れた修理施設内の搬入室に運ばれた。
 この天井石には、北東隅に約55cmの亀裂が見つかっていたほか、南東と南西の角の2か所にも亀裂があった。
 今後、4月中旬に玄武が描かれた北壁、後半に2枚目の天井石を取り外し、6月中には「「飛鳥美人」と呼ばれる女子群像の壁画が描かれた東西の側壁など計12枚の取り出しを完了し、今後10年程度かけ保存処理を行う予定。

● 宇治・平等院円蓋公開(2007年3月31日)
 京都府宇治市の平等院で国宝・阿弥陀如来坐像を頭上から彩る彫刻装飾「円蓋(えんがい)」が、100年ぶりの修復を終え公開された。
円蓋は直径3mの木造金箔仕上げで、極楽浄土で咲く「宝相華」をモチーフにした透かし彫りを施し、中央部はハスの花びらをかたどっている。
 箱形の方蓋と共に普段は本尊阿弥陀如来坐像の頭上6mの高さにあり、本堂に戻された後は間近で見ることはできない。
 平等院ミュージアム鳳翔館で、昨年9月から公開されている方蓋と共に3月31日から7月31日まで展示される。

● 鳥取県長谷寺本堂・豊乗寺大師堂など、県の保護文化財に(2007年3月27日)
 鳥取県文化財保護審議会は、長谷寺本堂及び仁王門(倉吉市仲ノ町)と豊乗寺大師堂及び山門(智頭町新見)が県保護文化財に指定するよう答申した。
 長谷寺本堂は十六世紀後半、仁王門は十七世紀の建立になる。
 豊乗寺大師堂は草ぶき屋根の仏堂として知られ、天明二年(1782)、山門は延享元年(1744)の建立。

● 「ふるさと文化財の森」に岩手県の「浄法寺漆林」など8か所選定(2007年3月26日)
 文化庁は、国宝や重要文化財などに指定されている木造建造物の修理に使う檜皮(ひわだ)、茅(かや)、漆などが採れる全国8か所の森を「ふるさと文化財の森」に選定した。
 本事業は文化財保護事業の一環として、同庁が今年度から創設したもので、国宝や重要文化財など文化財建造物などに使われている木材や漆、屋根材の檜皮(ひわだ)や茅(かや)などの資材の安定的確保、漆掻き職人ら関係技能者の育成が狙い。
 浄法寺漆林は、二戸市浄法寺町明神沢の県有地に1988年に約4000本の漆の木が植栽され、平泉町の中尊寺金色堂や京都の金閣寺など貴重な文化財の修復に使用されている。生産量は年間約800kgで、全国の6割ほどを占める。
 選定されたのは下記の8ヶ所。
▽檜皮 羽賀寺境内林(福井県小浜市)、明通寺境内林(同)、吉川八幡宮境内林(岡山県吉備中央町)、八幡神社境内林(同)、大和神社境内林(同)
▽茅 大内宿茅場(福島県下郷町)
▽漆 浄法寺漆林(岩手県二戸市)
▽アカマツ 岩手大滝沢演習林(岩手県滝沢村)

● 高松塚古墳 海獣葡萄鏡は中国製(2007年3月26日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、極彩色壁画とともに昭和47年に発見された銅鏡「海獣葡萄(かいじゅうぶどう)鏡」(重文)が科学分析により中国製であることが確認された。
 鏡は直径16.8cm、厚さ1.5cmで、背面に獅子のような霊獣「海獣」や葡萄の房、鳥、蝶などが浮き彫りされている。
 今回初めて行った蛍光X線分析により、銅72%、錫23%、鉛4%と、中国で出土した他の鏡とほぼ一致したことから、高松塚出土の鏡も中国製であることが裏付けられた。
 いままで文様などから、神巧元年(697)に没して翌年埋葬された独孤思貞の墓(中国・西安市)出土の鏡と同じ鋳型で作られ、遣唐使が704年に持ち帰ったと見られていたが、科学的にも証明されたことになる。

● 釈迦如来像の胎内に動物の骨灰(2007年3月23日) 
 奈良県吉野町の金峯山寺の釈迦如来像(県文 鎌倉時代)の胎内に、火葬した哺乳動物の骨灰が塗られていることが、解体修理でわかった。
  如来像は像高211cmの寄木造で、もとは金峯山寺塔頭の世尊寺(明治に廃寺)にあったという。 解体修理の結果、前面と後面部分の内側に、それぞれ高さ 約150cm、幅約30cmの範囲で、小型の哺乳類の骨灰と砂のようなものを混ぜた泥状のものが塗られているのが分かった。
 仏像に動物の骨灰が塗られた例は国内にほかにないという。
 同寺は蔵王堂特別展示として、4月1日から5月6日まで写真パネルを展示して、仏像の様子を紹介する。

●    キトラ古墳で天文図分割を決定(2007年3月23日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳の壁画保存は、石室天井に残る天文図は劣化が激しいため、1枚でのはぎ取りを断念し分割して取り外すことを決めた。
 天文図は微生物被害で漆喰層が内側から溶け始めており、いつ崩落してもおかしくない状態。壁石と違い、天井は緩やかにカーブしているため、四神図「朱雀」のはぎ取りを成功させた特製カッターも使えず、新たな技術開発を検討している。

● 出雲未盗掘墳から大量の副葬品(2007年3月23日)
 島根県出雲市国富町の中村1号墳で、新たに馬具2組や装飾大刀2本、小刀、須恵器など大量の副葬品が発掘された。
 中村1号墳では、2002年に銀糸の装飾付き大刀が見つかっている。
 馬具は鉄製で、金銅製の飾り金具「杏葉」などがついた立派なつくり。装飾大刀には金銅を巻いた鞘(さや)や金銅製のつばが付いていた。
 大刀や一部の須恵器は形などから近畿で作られたとみられ、大和朝廷と密接なつながりを持つ有力豪族の墓と見られるという。

● 高松塚古墳来月上旬いよいよ解体(2007年3月23日)
 文化庁は高松塚古墳を4月上旬から解体し、石室の解体が終わった後に元の大きさに仮整備することを決めた。
 高松塚古墳は下段の直径は約23mの二段形式の円墳で、石室解体により床面の高さまで削られるが、文化庁は発掘調査のデータも含めて築造当初の大きさに復元する。

● 奈良・興福寺の仏頭、運慶作だった(2007年3月22日)
 奈良・興福寺に伝わる鎌倉時代の仏頭(重文)が当時の住職の日記により仏師運慶の作だったことがわかった。
 この像は、江戸時代に体部を焼失し、頭部と手首などが国宝館に保存されているが、前後矧ぎの矧面に「西金堂釈迦」の墨書があることから、平氏の焼き討ち(1180年)によって焼失した西金堂の本尊釈迦如来像の鎌倉時代の再興像と考えられている。
 頭部の高さは約98cmで、像高は推定約2.5mの丈六仏だったとみられる。
 古記録『類聚世要抄』を調べたところ、興福寺別当だった信円が書いた文治2年(1186)1月日記の写本がありその中に、「興福寺西金堂の本尊が運ばれてきた。大仏師運慶に賞として馬を与えた」とあったという。
 本像の作者についてはこれまで、作風から運慶の父・康慶や兄弟子・成朝が挙げられていた。

● 金沢文庫で運慶作の仏像確認(2007年3月20日)
 神奈川県横浜市金沢区の神奈川県立金沢文庫で、保管する大威徳明王坐像が鎌倉時代の仏師、運慶の作と確認された。
  大威徳明王像は、1998年に横浜市・称名寺で発見されたもので、像高21.1cmのヒノキ材製の小像で、手足や膝先を失うなど破損個所が多いが、当初は 六手六足で水牛に乗る姿だったとみられる。昨年11月の解体修理の際、胎内から未開封の紙片が発見され、今年2月に開封に成功した。
 文書は、幅8cm、長さ117.7cmで、雁皮紙(がんぴし)という和紙4枚をつないだもので、巻物のように巻いて仏像の胴体部分に嵌め込まれていた。
 紙片には、鎌倉幕府の源頼家、実朝両将軍の養育係を務めた源氏大弐殿が建保4年(1216)に運慶につくらせたことが記されていた。
 体は運慶作らしく引き締まった姿で、頭部や胸飾りなどには朱や群青の鮮やかな顔料や金箔が施され、瞳には玉眼が用いられている。
 仏像や文書は、県立金沢文庫で4月19日から6月10日まで開催される特別展「金沢文庫の仏像」で公開される。
 運慶作と確定される現存作品は東大寺南大門の金剛力士立像など十数体とされているが、晩年の作風を示す貴重な発見である。
  
大威徳明王像(修理前)       (修理後)       胎内文書奥書

● 法隆寺の毘沙門天・吉祥天平安の極彩仏像よみがえる(2007年3月19日)
 奈良県斑鳩町の法隆寺金堂に伝わる平安時代の毘沙門天立像と吉祥天立像(いずれも国宝)を、当時の極彩色の姿に復元した像が完成した。
 復元した像は財団法人美術院が細部にわたって当時の手法を用いて模刻したもので、吉祥天の衣装には赤、青、緑、紫の岩絵具顔料で模様をつけ、毘沙門天のよろいには金箔の上に古代から使われる密陀(みつだ)油絵の具で赤い斑点を描くなど忠実に復元した。
3月20日から6月30日まで同寺秘宝展で公開される。
 秘宝展では、昭和24年の火災ではく落した金堂の壁画片や天井板に書かれた落書きも初公開される。

● 国宝に函館の土偶(2007年3月17日)
 文化審議会は、北海道函館市の著保内野(ちよぼないの)遺跡で出土した土偶を国宝に、善導院(京都市左京区)の木造善導大師立像(像内納入品)や誓光寺(甲賀市)の木造十一面観音立像など30件を重要文化財に指定するように答申した。

主な指定品
【国宝】
土偶(著保内野遺跡・北海道函館市)
 高さ約42cmと全国最大級の土偶で、赤や黒の顔料が残るなど縄文時代後期の信仰や祭祀の様子がうかがえる。 
【重要文化財】(美術工芸品)
▽木造善導大師立像(善導院・京都市左京区)
 木造善導大師立像は浄土宗や浄土真宗の源流である中国浄土教の高僧善導(613〜681)の肖像。浄土宗寺院を中心に多く造られたが、立像形式としては知恩院の像と並び最古級。念仏を唱える一瞬の動きをとらえ、鎌倉彫刻の写実性を示している。
▽木造十一面観音立像(誓光寺・滋賀県甲賀市)
  誓光寺の木造十一面観音立像は平安末期の作品で、高さ104.9cm、頭上に11個の化仏、左手に蓮華、右手に数珠を持ち、右足を少し前に踏み出す姿が特 徴的。1993年の保存修理中に、像内から頭部の絵が描かれた縦36.7cm、横約10cmの板材が見つかった。仏像制作を前に仏師が行う「手斧始(ちょ うなはじめ)」の儀式に使用された御衣木(みそぎ)の一部とみられ、儀礼の様子を伝える貴重な史料という。
▽銅造阿弥陀如来及両脇侍立像(青蓮寺・栃木県桐生市)
 阿弥陀如来像は長野県の善光寺の秘仏本尊を模したとされ、鎌倉時代中期の制作という。鋳造の見事さや制作法に高い技術がみられ、仏教美術史上貴重な仏像という。
▽銅五種鈴(光恩寺・千代田町)
 銅五種鈴は五種類の銅製の鈴を一組とした密教法具。銅の質や鋳造技術に優れ、文様も重厚かつ華麗で、五種の鈴がまとまって伝わる数少ない例という。
▽木造閻魔王坐像・木造泰山府君坐像(東大寺・奈良県)
 鎌倉時代に運慶の流れをくむ慶派仏師によって造られた像である。
▽山田寺跡出土品(奈良文化財研究所)
 蘇我入鹿のいとこで大化改新に加わった、蘇我倉山田石川麻呂が飛鳥に建て始めた寺院の出土品。倒壊した東回廊が良好な状態で出土し、飛鳥資料館で復元、展示されている。

● 倉敷市で未盗掘の石室出土(2007年3月15日)
 岡山県倉敷市真備町にある5世紀後半の前方後円墳、勝負砂(しょうぶざこ)古墳(全長42m)で、全国でもまれな未盗掘の竪穴式石室が出土した。
 石室は、内のり長さ3.5m、幅1.1m、高さ0.7mで、後円部の墳頂から3.5m掘り下げた所で出土し、石室は8枚の蓋石のうち1枚が割れて落ち込んでいるほかは埋葬当時の配置を保っている。
 割れた蓋石を取り除いたところ、多くの副葬品が埋葬時の配置で残存。被葬者の頭付近とみられる位置に銅鏡1枚、中央部に土器2点と鉄鏃の束、足元に鉄製の短甲と馬具、石室を斜めに横断するように槍か矛が置かれ、木、革、漆塗り製品も確認できるという。
 壁は角形の礫に粘土を混ぜて積むなど古代朝鮮半島の古墳と似た工法という。内側は赤く塗られ、底には砂利が敷かれていた。
 同時代の未盗掘墳の学術調査例は全国的にも少なく、今後の調査で遺体を納めた木棺や人骨、新たな副葬品が見つかる可能性もある。

● キトラ「玄武」写真を公開(2007年3月15日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳保存のため石室壁面から分割してはぎ取られた四神図「玄武」の修復作業が終わり、写真が公開された。
 玄武図は、縦14.5cm、横25cmの大きさで、絵が描かれたしっくい層に、壁石の接ぎ目に沿って亀裂ができていたため五片に分割して剥ぎ取られた。
 図柄のほぼ真ん中で左右に分割されたため、最先端の保存科学技術でも、元通りの姿には戻せず、絡み合うヘビの頭とカメの甲羅が真っ二つになるなど痛々しい傷あとがくっきり残る。

● 高松塚古墳崩壊の危険判明し周囲の土残し解体へ(2007年3月14日)
 奈良県明日香村平田の高松塚古墳で、石室の解体作業を側石を完全に露出させず、周囲の土を残しながら段階的に進める協議を始めた。
 これまでは、石室を完全に露出させて石材の状態など調査し、取り上げ作業を行う予定だったが、現状では石室が自立しない恐れがあるため、石室の補強方法と平行して検討することになった。

●    「山東省仏像展」の6世紀菩薩像に中国最古の截金確認(2007年3月13日)
 滋賀県甲賀市信楽町のMIHO MUSEUMで開催される「山東省仏像展」に出展予定の菩薩像2体に、日本の仏教美術の特色とされる截金(きりがね)装飾が施されていることがわかった。現存する中国の截金としては最古の例になるという。
  截金は細かく切った金や銀の箔を張って仏像などに文様を施す技法。菩薩像はともに石像で、うち1体は衣装に亀を描いた六角形の「亀甲つなぎ」の文様があ り、それに沿って幅0.5mmほどの金箔が張られたところが残っていた。もう1体にも正面中央飾り帯の下部に縦の文様に金箔がみられ、いずれも截金装飾と 確認された。
 中国では截金は金箔と同一視されて日本ほど注目されておらず、これまで判明しているのは8世紀の唐時代の例が最古だった。日本では7世紀半ば(飛鳥時代)の法隆寺の玉虫厨子と四天王像の截金が最古の作例として知られている。
 菩薩像は「中国・山東省の仏像」展で一般公開される。

● 高松塚古墳壁画修理施設が完成(2007年3月12日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の極彩色壁画を保存・修復する仮設修理施設が完成した。
 施設は鉄骨造り平屋建てで、同古墳の北西約500mにある国営飛鳥歴史公園内に建てられた。
 修理作業室は二重の壁を持つ「魔法瓶構造」で、温湿度が一定に保たれる。施設には見学者用の通路も設置。3枚の窓(縦1.5m、横2m)越しに修復中の壁画を見ることができる。
 修復作業が進み壁画の状態が安定すれば公開されるという。

● 高松塚は天井石と壁石に新たな隙間(2007年3月10日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、天井石と壁石の接ぎ目に充てんされた漆喰が地震のためはがれ隙間ができていたことがわかった。
 石室周囲の土層を天井石上面から約60cm掘り下げたところ、天井石と壁石の接ぎ目に6〜8mmの隙間が生じており、漆喰に沿って黒っぽいカビが帯状に生えていた。
天井石同士の接ぎ目でも漆喰がはがれて隙間ができていることがすでに分かっており、石室は隙間だらけだったことになる。壁画劣化の一因が、樹木の根や隙間から地下水が入り込んだことによる可能性があり詳しく調べる。
 また、東西3枚ずつある壁石の厚さがばらばらで西壁は約2cm、東壁は約14cmの凹凸があり、側壁の外面と天井石の縁辺がそろっていないことも分かった。
 4枚ある天井石のうち幅と厚さがほかと大きく異なる一番北側の1枚が、石室の北にひさしのように約43cm突き出していることも判明。石室は、整然と仕上げられた内面と対照的に、外面はかなりでこぼこだった。

● キトラ古墳 天文図の星座にカビ(2007年3月9日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室天井にある天文図の星座「北斗」や「南門」など計4カ所で、黒い粒状のカビとみられる汚れが見つかった。
  天文図の中心にある「北斗」では、金箔や朱線上に2カ所、直径0.5mm〜2cmの黒い粒状のカビのようなものが生えているのが見つかった。東側の「騎官 (きかん)」の近くのカビは除去したが、星を示す金箔や、星と星とを結ぶ朱線にかかった汚れは、絵にかかったり、漆喰の状態が悪いため除去除去できず、今 後対応を検討するという。

● 京都府指定・登録文化財12件新たに追加(2007年3月9日)
 京都府府指定・登録文化財に上京区の相国寺の10棟(建造物)など計12件を新たに決めた。
  相国寺は夢窓疎石を開山とする五山寺院。慶長年間に建てられた法堂(はっとう)が重要文化財に指定されているが、今回は同時期の勅使門と浴室ほか、江戸後 期の文化年間に再興された開山堂や方丈、方丈勅使門、庫裏、鐘楼、経蔵、弁天社、総門の主要伽藍(がらん)すべてが指定となった。

● 秋田県文化財に新たに2件を指定(2007年3月8日)
  秋田県教委は、男鹿市の赤神神社所蔵の木造十一面観音菩薩立像(円空作)と、県所有の日本六十余州国々切絵図を有形文化財に指定することを決めた。
 十一面観音像はシナノキの板材から彫り出されており、像高は171.5cm。初期円空仏の代表的な作例で、足跡や彫刻様式の変遷を示す史料として価値があるとされる。
 国絵図は、江戸幕府が寛永10年(1633)、全国を検分する巡見使のために諸藩に作成を命じたもので、模写図一式が伝わるのは秋田県公文書館と山口県文書館(毛利家文庫)のみという。

● 東北最古の寺・千光寺の古文書を確認(2007年3月5日)
 東北最古級の寺院とされる慈福山千光寺(通称・松野千光寺)の歴史を綴った古文書が確認された。
 千光寺は現在の喜多方市にあったとされる古刹で、同市諏訪の龍現寺に収蔵されている「山寺和語縁起」が同寺の歴史を伝える古文書として知られていたが、その内容が明らかになった。
 「縁起」には、領主・新宮氏が滅んでから荒廃、さらに二度の地震で堂塔がすべて倒壊したことなどが書かれている。また江戸初期に千光寺の本尊や梵鐘などが黒川(会津若松)の城下へ運ばれていたことも記されているという。

● 流出した文化財をデジタル複製(2007年3月5日)
 京都国際文化交流財団は、文化財保存活動の一環として、屏風や襖絵,水墨画などの日本の文化財をデジタル技術で複製保存し,後世に継承することを目的とした「文化財未来継承プロジェクト」(愛称:綴【つづり】プロジェクト)を発足させた。
  複製の対象となるのは,明治時代の廃仏毀釈の影響や,第二次世界大戦後の混乱で海外に流出したものや日本を代表する水墨画、歴史的に重要な文化財など。作 成した複製品はかつてその作品を所蔵していた社寺や研究/公開用に所蔵館へ寄贈したり,小中学校に貸し出したりする予定で、専門家の協力を得ながら作品を 選定し、3年計画で15作品程度を手がける。
 既に米メトロポリタン美術館所蔵の「八橋図屏風」(尾形光琳)や「列子御風図(れっしぎょふうず)襖」(狩野孝信),「老梅図襖」 (狩野山雪)の複製許可を取り付け原寸大で復元することが決まっている。
 複製は、コウゾを主原料にミツマタを加えた専用の和紙を使用し,高解像度のプリンターで印刷した後,伝統工芸士が金箔や金泥を載せ、表具に仕立てる。

● 高松塚古墳石室の天井石姿現す(2007年3月5日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室解体に伴う発掘調査で、石室上部の天井石が姿を現し報道陣に公開された。
 築造から約1300年を経て初めて姿を現した天井板は、奥行き(南北)3.85mメートル、最大幅(東西)1.84mメートルで4枚の石材からなっており、石の継ぎ目は土が入らないよう漆しっ喰くいで目地止めしていた。
 このうち南から1〜3番目の天井石は、奥行き約90cm、幅1.77〜1.84m、厚さ58〜61cmとほぼ同じ形状をしているが、北端の4番目だけは奥行き1.03m、幅1.6m、厚さ45mといずれもサイズが小さく、石室の外側に約30cm突き出していた。
  天井石は当初3枚で組む予定だったが、設計ミスや石材が割れるなどして寸法が足りなくなり、すき間をふさぐため、サイズの合わない石材で間に合わせたと推 測される。また、外側に飛び出した石材は、北東角を削った跡があり、別の古墳の石室や建物などから転用されたものとみられる。
 また、4枚の天井石のうち、内側に星宿(天文図)が描かれた2枚の側面に2か所の亀裂が新たに見つかったことから、他に亀裂が見つかる恐れもあり、解体時に固定する器具の改良や、解体方法の見直しが必要になるという。

● 長崎市・菩提寺の木造薬師如来坐像など県文化財指定(2007年3月3日)
 長崎県は菩提寺の木造薬師如来坐像平戸市絹本著色松浦義像などを県文化財に指定する。
 指定された県指定文化財は
 ▽大宮姫神社本殿 佐世保市 
 ▽絹本著色松浦義像 平戸市 
 ▽木造薬師如来坐像 長崎市・菩提寺 
 ▽朝鮮国告身(小野家伝来) 対馬市 
 ▽下本山岩陰遺跡 佐世保市 

● 天皇陵級の古墳で大規模な石組み遺構出土(2007年3月1日)
 継体天皇陵とされる大阪府高槻市の前方後円墳・今城塚古墳で、横穴式石室の基盤とみられる大規模な石組み遺構が見つかった。
  見つかった石組みは後円部北側から出土し、東西17.7m、南北11.2mの範囲でコの字形に方形の石が3段積まれていた。元は正方形で後円部のほぼ中央 にあり、最上層の石室が地盤沈下しないよう支えていたとみられるが、文禄5年(1596)の慶長伏見大地震で、約4メートル下に滑り落ち崩れたらしい。
  横穴式石室の石材は出土しなかったが、2001年からの調査で、大王の葬送の儀式を再現した高さ約170cmの国内最大級の家形埴輪、巫女や武人などをか たどった埴輪100点以上が出土しており、今回も材質が異なる3種類の家形石棺の破片や金銅装馬具など副葬品の小片約620点が見つかった。
 古墳は完成時に3段、高さは18m前後だったと推定される。これだけの規模は天皇墓以外に考えられず、同古墳が継体天皇墓であることがより確実になったとしている。
 継体天皇陵について宮内庁は、今城塚古墳の南西1.5kmにある茨木市の太田茶臼山古墳を指定しているが、埴輪の年代などから531年に没した継体天皇と時期が合わず、学界では今城塚を真の継体陵とするのが定説となっている。

● 鈴鹿・石薬師寺薬師堂など県文化財、新たに10件答申(2007年2月27日)
 三重県文化財保護審議会は、鈴鹿・石薬師寺薬師堂など鈴鹿市の石薬師寺薬師堂など9件を県文化財に指定するように答申した。
 新たに県文化財に指定されるのは、
 ▽石薬師寺薬師堂 鈴鹿市
 ▽槍 銘 雲林院住包治 四日市市
 ▽木造千手観音菩薩立像、木造聖観音菩薩立像 伊賀市・勝因寺
 ▽木造阿弥陀如来坐像(ざぞう)、木造薬師如来坐像 伊賀市・西蓮寺
 ▽宗国史 崇廣堂本 同市
 ▽磨製石斧(せきふ)製作関係資料一括 県教委
 ▽縄生廃寺 朝日町ほか所有

● 兵庫県養父市 今滝寺の弁才天像など8件を県指定文化財(2007年2月26日)
 兵庫県は今滝寺(養父市)の弁才天像などの絵画四件などを県文化財に指定した。
 重要有形文化財の指定を受けたのは、
 ▽徹心寺の本堂と山門 神河町・徹心寺
 ▽法楽寺本堂と春日社 神河町・法楽寺
 ▽弁才天像図像、孔雀明王図像など四件 養父市・今滝寺
 ▽市辺遺跡の出土品 丹波市
 重要無形民俗文化財
 ▽秋季例祭風流 姫路市・魚吹八幡神社 のが指定された。

● 隠岐の国分寺本堂焼失、文化財の古典芸能面など焼く(2007年2月25日)
 島根県隠岐の島町池田、隠岐国分寺の本堂から出火し、木造平屋約410平方mを全焼した。
 国の重要無形民俗文化財の古典芸能「蓮華会舞(れんげえまい)」に使われる面9枚(平安―桃山時代・県有形民俗文化財)も焼失した。また鎌倉時代の制作とされる木製の四天王像も焼失したとみられる。
 同寺は奈良時代の創建。鎌倉幕府倒幕に失敗した後醍醐天皇が1332年に隠岐に流された際に滞在したといわれる。

● 静岡市指定文化財に2件追加(2007年2月24日)
 静岡市清水区の清見寺釈迦如来坐像などが市指定文化財に指定された。
 本像は元和3年(1617)に徳川家康の三女振姫の遺志で彫刻されたことなどが記されており、南北朝時代の様式を持つ、穏やかな像である。

● 高松塚の石室内、原寸大のフォトマップで再現 (2007年2月23日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室に描かれた壁画を高精度のデジタルカメラで撮影し、石室内を原寸大で再現した「フォトマップ」を公開した。
  このフォトマップは、今春の石室解体を前に、壁画の現状を正確に記録しておき、修理・復元作業に役立てるため、奈良文化財研究所が作成したもので、 3900万画素のデジタルカメラを使って、石室の床に敷いたレール上をレーザー測距儀を使い壁面に沿って20cm刻みに動かしながら撮影した365枚の写 真をパソコンでつなぎ合わせ、石室内の壁、天井、床を詳細な「地図」にした。実物との誤差はわずか2mm以内という。
 フォトマップ制作の過程で、天井石に約10cmのひびが見つかるなど新たな発見もあった。
また、3月下旬の予定だった石室解体の開始は、墳丘の発掘で判明した、地震による亀裂の調査や保存施設との接合部に生えたカビへの対応のため1週間程度遅れ、4月上旬にずれ込むという。

● 神奈川県・河原口坊中遺跡で小銅鐸出土 (2007年2月23日)
 神奈川県海老名市河原口の河原口坊中遺跡で弥生時代後期のものと思われる小銅鐸が出土した。
発見された小銅鐸は全長7.9cm、幅4.1cm、厚み3.4cmでほとんど欠損のない完形品。
 小銅鐸の出土は県内で3例目、市内では本郷遺跡に続き2例目のことで、遺存状態なども過去の出土例と比較しても良好。
 河原口近辺は「海老名氏」が平安時代後半から室町時代にかけて活躍していた地域で、河原口坊中遺跡の北側には同氏一族の墓も残されており、これまでに複数の住居跡や溝状遺構などが発見されている。



● キトラ古墳の壁画「朱雀」報道関係者らに初めて公開 (2007年2月23日)
 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳から剥ぎ取られた壁画「朱雀」が文化庁の保存活用調査研究委員や報道陣に公開された。
 朱雀は今月15日、縦約22cm、横約52cmの大きさで剥ぎ取られ、脱酸素材が入ったビニール袋に包まれ、湿度100%に近い状態で保存されており、透明のビニール板で厳重に保護して公開された。

●「かながわ考古学財団」解散へ(2007年02月17日)
 神奈川県は法人削減案の一つとして、「かながわ考古学財団」を解散し、埋蔵文化財の発掘事業を民間の発掘会社に全面開放する方針を打ち出した。
 同財団は1993年設立された県が100%出資する第三セクターで、現在29人の専任職員が年間数十件の発掘調査をこなしている。
 県の法人削減案計画では、2010年までに、出資関係を打ち切り、今後、会社組織やNPOなど、第三セクター以外の法人への変更を目指していくとしている。財団が実施していた普及啓発活動や遺物の保存処理などは今後、県が直接行うという。
 発掘調査の実施方法など、文化財保護に関する事柄は地方自治体の取り扱いとなっており、神奈川同様の財団は全都道府県の約6割にあるという。
 現在、神奈川県に登録する発掘会社は35社あり、すでに発掘の約半数を民間組織が行っているというが、個人業者から、数十人の調査員を抱えるところまで差が大きい。
 考古学界は埋蔵文化財行政は発掘、遺物の管理・保管、その活用・公開の三位一体が基本で、そのうち、発掘だけを切り離すと発掘の質を維持・管理出来ないとして反発している。

● 京都市指定文化財に長楽寺本堂など4件指定(2007年2月16日)

 京都市は京都市東山区の長楽寺本堂(建造物)など4件を市指定文化財にすることを決めた。
 長楽寺は805年に最澄が創建したと伝えられる寺で、室町前期に時宗に転じた。1666年造営の正伝寺(北区)仏殿を明治期に移築した。正方形の平面で、中世仏殿の特徴を引き継ぎ、周囲に裳階(もこし)を巡らせた市内でも数少ない小規模禅宗様の仏殿として貴重という。
▽その他の指定文化財は次の通り。
【美術工芸品】木造十一面観音立像(南区・浄禅寺)=「鳥羽地蔵」で知られる同寺の観音堂の本尊。毎年5月に観音講が催される。一木造りで、平安時代の10世紀の作とみられる。良好なプロポーションで、背中や腹部の体つきが巧みに表現されている。
【有形民俗文化財】大船鉾装飾品121点(下京区・四条町大船鉾保存会)=祇園祭後祭の最後尾を巡行した大船鉾の装飾品。幕末の蛤御門の変で焼失後、地元が保管してきた。綴れ織などで作られた豪華な懸装品。御神面は古く、江戸期以前の可能性を残す。
【記念物(名勝)】西翁院露地(左京区)=金戒光明寺塔頭の同院にある茶室の露地庭。鍵形で内露地と外露地から成る。市中の山居の趣と市街地を広く見渡す眺望を併せ持つ。土地の高低差をうまく使った立体感ある構成が特徴。

● 高松塚古墳で天井石の上面も黒いカビ(2007年2月16日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、天井石の上面に黒いカビが見つかった。
  カビが見つかったのは、4枚ある天井石の石室入り口に当たる南端で、カビは最大で縦横約20cm。ほかに直径約1cmのものが10数カ所あった。この場所 は昨年11月、発掘に伴い石室入り口を保護していたコンクリートを撤去し、木製の囲いで穴をふさぎ、防水シートなどで覆っていた部分で、今回これを外した ところカビが広がっているのが分かったという。

● キトラ壁画朱雀の剥ぎ取り成功(2007年2月16日)
 明日香村阿部山のキトラ古墳で、四神像のうち最後まで残った朱雀の剥ぎ取りに成功した。
漆喰(しっくい)の状態が悪く困難な作業が予想されたが、危惧された分割もなく一体で剥ぎ取った。朱雀は保存修復処理のために奈良市の奈良文化財研究所に搬送された。
 平成16年に始まった壁画剥ぎ取り作業は、側壁部分について完了し、残すは天井に描かれた天文図だけとなった。
 天文図が残る天井部分は漆喰自体が脆くなっており、朱雀などの剥ぎ取りに使用したダイヤモンドワイヤー・ソーは使用が困難で、新たな剥ぎ取り方法を検討する必要があるという。


● 橿原考古学研究所付属博物館で古代の青銅鏡のデジタル図録を制作(2007年2月9日)
 橿原市の県立橿原考古学研究所付属博物館は、古代の青銅鏡の詳細な画像を館内のパソコンで見られる「デジタル図録」を制作した。
 全国の古鏡の高精度のコンピューター・グラフィックス(CG)のデータ約650枚を収録してきた。このうち館所蔵の一部をデジタル図録として、館内の情報コーナーで自由に見られる様にした。CGは写真に比べ、鏡の凹凸が鮮明で、細かな文様まで見ることができる。

●  高松塚古墳で版築(はんちく)工法を確認(2007年2月9日)
  奈良県明日香村の高松塚古墳で盛り土を棒で突き固めた跡が新たに見つかった。
 多数の突き棒跡は石室の天井石から約30cm上の土層で、約8平方mの調査区のほぼ全面で確認された。棒跡の直径は約4cmで、30cm四方に30個以上あった。
 痕跡の密度や並び方にばらつきがあり、非常にまばらだったり、同じ所を何度も突いたため、くぼみが深くなってしまったりした個所があり、工人の熟練度や性格によって仕上がりに差が出たらしい。

● キトラ古墳の剥ぎ取り「寅」初公開 (2007年2月8日)
 奈良文化財研究所(奈良市二条町)で、明日香村阿部山のキトラ古墳から1300年ぶりに取り出されたキトラ古墳の十二支像「寅」が報道関係者に公開された。
  寅は縦約1cm、横約13cmで漆喰の厚さが約3mm。非常に繊細なタッチで描かれており、V(ブイ)字状になった着物の襟部分の朱色も鮮やか。
 現在は脱酸素材とともにビニール袋に入れられ、湿度100%に近い状態で保存されている。

● 山形県で遺跡調査報告書の発行が10年以上棚上げ (2007年2月8日)
 山形県や国の委託で1989年から1992年にかけて行われた6ヶ所7種類の遺跡発掘調査報告書が、昨年の内部監査で指摘されるまで発行されていなかったことが分かった。
 報告書の発行が棚上げされていたのは、国道バイパス工事のために建設省が調査を委託した押出遺跡(高畠町)や、圃場整備に伴って県が調査委託した西海渕遺跡(村山市)など。
 いずれも予算化された年度中に、山形市内の印刷業者5社に印刷・製本費用を支払い、1部原稿や図面などを預けたが、報告書のまとめとなる考察文が出稿できず、未完成のままだったという。
 当時、発掘調査を担当していたのは、学識経験者や県職員らで構成する任意団体「県埋蔵文化財緊急調査団だったが、1993年に財団法人「県埋蔵文化財センター」(上山市)が設立され、業務はセンターに受け継がれていた。
 当時は遺跡発掘調査が相次いたことや組織の変更もあり、報告書の完成が後回しになったという。
 報告書は、内部監査の後、発掘担当者が急きょ原稿を執筆して12月までに発行した。
 予算執行の不正が10年以上にわたって見逃されてきたことになり、県のずさんな公金管理の在り方に批判が出ている。

● 国立博物館と文化財研究所、4月に統合(2007年2月8日)
 4月1日付で、国立博物館と文化財研究所の2法人が統合され、新たに独立行政法人国立文化財機構が誕生することになった。
  現在、国立博物館は、東京、奈良、京都、九州(福岡県)の4ヶ所、文化財研究所は東京、奈良の2ヶ所からなるが、いずれも文化財の保存・活用を目的として いることから、経営効率などを高めるため、2005年、総務省の政策評価・独立行政法人評価委員会によって統合が勧告されていた。
 国立博物館4館と東京、奈良両文化財研究所は名称を変えずに残し、新法人の本部は東京国立博物館(東京都台東区)に置くことになる。

● 千葉県・香取神宮旧拝殿など県指定文化財に(2007年2月8日)
 千葉県香取市の香取神宮旧拝殿など五件が、県指定文化財に指定されることになった。
 新たに指定されるのは下記の4件
▽有形文化財(建造物)=香取神宮旧拝殿・棟札、諏訪神社本殿・棟札
▽同(考古資料)=塙台遺跡弥生再葬墓出土遺物
▽民俗文化財(無形民俗文化財)=椎津のカラダミ(市原市)
▽記念物(天然記念物)=南房総の元禄地震隆起段丘(南房総市)

● 世界遺産・熊野古道に和歌山県が保全補助制度創設(2007年2月7日)
 和歌山県は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の景観保全や建造物の修復などに対する補助制度の創設を決めた。
 熊野古道では昨年、大雨などで2件の土砂崩れが発生したり、観光客増加などの影響で、石畳が傷ついたり、ゴミや落書きも目立つようになった。さらに、手入れされていない荒廃林が増加するなど、景観を含めた資産全体の維持管理が急務となっている。
  世界遺産は登録資産の「コアゾーン」と環境保護のための緩衝地帯「バッファゾーン」が設定されており、コアゾーンの修復事業には一定規模以上の事業に国の 補助金が出るが、小規模の修復やバッファゾーンの整備などは対象となっていなかった。今回の県の補助制度はバッファゾーンも補助の対象地域とする初めての ケースで、遺産価値のきめ細かなメンテナンスや緩衝地帯の森林整備などが可能となるという。

● 大津市指定文化財に天満神社の木造天部形立像など4件追加(2007年2月6日)
 滋賀県大津市の市の指定文化財に天満神社・天部形立像など、下記の4件が指定されることになった。
 ▽天部形立像 天満神社(北比良)
 ▽金銅装神輿(しんよ) 樹下神社(木戸)
 ▽懸仏(かけぼとけ)9点 水分(みくまり)神社(栗原)
 ▽銅鏡や埴(はに)製容器 真野古墳(真野6丁目)

 天部形立像は、像高約170cm、平安中期ごろの制作と考えられる一木造の像で、表面にのみの跡を残す「鉈彫(なたぼり)」と呼ばれる技法が用いられている。
新指定文化財は3月14日から4月15日まで、御陵町の市歴史博物館で開催される企画展「比良山麓の文化財」で公開される。

● 武力紛争時に文化財を保護する「ハーグ条約」を批准する方針(2007年2月4日)
 政府は、武力紛争時に文化財を保護することを定めた「ハーグ条約」を批准する方針を確認した。
  同条約は締約国に、武力紛争時に文化財を攻撃対象としないことや国外への流出を防ぐことなどを義務づけ、重要文化財、博物館、公文書館など保護対象の文化 財に標識をつけることなどを求めている。国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の主導で1954年5月に作成され、56年8月に発効した。1月現在で締約 国は116か国だが、米国や英国、韓国は加わっていない。
 日本は1954年に署名したが批准はしておらず、50年以上を経ての批准となる。
  ハーグ条約には、武力紛争時に文化財を攻撃対象としない特別保護として、文化財の集中する地域が重要な軍事目標である飛行場や放送局、交通幹線などから妥 当な距離にあるなどの条件を満たすことを条件としている。しかし日本では京都や奈良など、主要都市に重要文化財等が集中する地区があり、特別保護を得るこ とが困難が予想されることなどから、批准はしていなかった。 今回、1999年に採択された第2議定書に盛り込まれた保護制度で、保護対象が明確になった ことなどから、批准への環境が整ったと判断した。
 批准に伴う法整備では、海外で武力紛争が起きた際、流出した文化財が日本に持ち込まれるのをできるだけ防ぐため、輸入規制の強化を柱とする新法を制定する方針だ。

● 高松塚覆う板に大量のカビ(2007年2月2日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、墳丘の一部を覆っていたベニヤ板に黒カビが大量発生しているのが見つかった。
  ベニヤ板は文化庁が昨年末、石室内が結露しないよう、墳丘に断熱材を配置した際、台代わりとして3枚置いたもので、1月末に墳丘発掘を再開、断熱材を取り 除いた際、1枚の裏面にびっしりと黒いカビが生えていたという。板にはカビ防止剤を塗るなどの措置を取っておらず、板の下には防水シートとの間に湿気がこ もったのが原因らしい。
 板の数十cm下は石室入り口に直結する空間が広がっているが、ほかにカビが広がっている様子はないという。

● 浜松市三ケ日で出土「瓦塔」50年ぶり奈良から里帰り(2007年2月3日)
 浜松市三ケ日町宇志で出土した平安時代の瓦製仏塔(瓦塔)が、50年振りに里帰りする。
  瓦塔は、昭和32年に、浜松市三ケ日町宇志で出土した平安初期の瓦製五重の塔(高さ約2m)で、現在は奈良国立博物館に保管されているが、浜松市の政令指 定都市移行を記念して50年ぶりに里帰りし、2月3日から3月31日まで浜松市博物館(浜松市蜆塚四丁目)で公開される。
同時に、浜松市根堅の篠場瓦窯(しのんばがよう)出土の白鳳時代の軒丸瓦や、同時代の大宝院廃寺仏像(磐田市)、根堅中通遺跡から出土した浜松最古の縄文土器など市域内の遺跡から最近数年間に出土した埋蔵文化財約230点も公開される。

● 蘇我入鹿邸とみられる遺跡に大規模な石垣出土(2007年2月2日)
 奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡で、7世紀前半の大規模な石垣と塀の跡や掘っ立て柱建物跡7棟(7世紀)などが見つかった。
  石垣の高さは1mで南北15mにわたり、最大50cm大の花こう岩を6〜7段積み重ねていた。1段積むごとに土を埋めた丁寧な造りで、渡来系の技法が使わ れたらしい。塀跡は石垣に並行し、約5mにわたって柱穴四つを確認。石垣の上に塀を巡らせ、防備を強化したとみられる。
 日本書紀に、皇極3年 (644)に「蘇我蝦夷(えみし)と子の入鹿(いるか)は家を甘樫丘に並べ建てる。大臣の家は上の宮門、入鹿の家は谷(はざま)の宮門(みかど)とい う」、「家の外に城柵を作り、兵を持ちて家を守らしむ」などの記述があり、蘇我親子が軍備の増強を進めていた入鹿邸「谷の宮門」に付随する要塞の一部とみ られる。
従来の遺構と考え合わせると、甘樫丘は蘇我氏の一大拠点だった可能性が一段と高まった。
 また、640〜660年ごろの掘っ立て柱建物跡6棟と塀跡1棟分が見つかり石敷きも整備されていたことが判明。
 大化改新(645)で入鹿は中大兄皇子らに暗殺され、蝦夷は自邸に火を放ち自害したといい、蘇我氏が滅ぼされた後、天皇家が蘇我氏の領地を接収したらしい。

● 寄贈円空仏を名古屋市博物館で公開(2007年2月2日)
 名古屋市瑞穂区の名古屋市博物館で同市中区の旧商家から寄贈された円空仏が一般公開される。2月6日から3月25日まで。
 この円空仏は名古屋城下の木挽町(現丸の内・錦)に商家を構えていた大橋家から昨年11月、家系図類とともに同館へ寄贈された。
 円空仏は郊外や山あいの寺で見つかることが多く、今回は城下町に残されていた非常に珍しいケースだという。

● 奈良市「同法所」記す土器出土(2007年2月2日)
 奈良市西大寺本町で、奈良時代後半(8世紀後半)の井戸跡から「同法所」と書かれた墨書土器が見つかった。
  井戸跡は五基あり、このうち一基(深さ約2m)から出土。墨書土器は直径約20cmの円形で、裏面中央に「同法所」の文字があった。これまで周辺などから 「同法」と記す墨書土器は見つかっているが、「同法所」は初めてで「同じ教えを学ぶものたちの場所」の意味らしく、西大寺に集った修行僧の生活の場所とみ られる。9世紀中ごろに井戸を埋めた際、廃絶の祭祀に使ったとみられる。

● 京都・万寿寺の池跡発見(2007年2月1日)
 京都市下京区の万寿寺跡で、池跡や礎石が出土した。
 万寿寺の遺構が見つかったのは初めてで、池は平安期以来3度造り替えられ、焼け瓦で埋め立てた跡もあった。
 万寿寺は平安後期に白河天皇の御所となった六条院を継承し、室町時代には京都五山に列する格式ある寺で、天正19年(1591)、豊臣秀吉の京都改造で東福寺塔頭に格下げとなったが、以前は、南北3町(約360m)の大伽藍を誇っていた。
 池跡は時代とともに縮小し、2期目は六条院の池と同じ緩やかな洲浜があったが、3期目は大量の焼け瓦で埋め立てられ、4期目はさらに縮小して、十分な手入れがされなかったことを示す腐植土もたまっていた。
 焼け瓦は永享6年(1434)の火災によるものとみられるが、火災で変色した礎石2個も見つかり、直径50cmの柱跡も残っていた。

● 「華厳経」唯一不明の巻14を発見(2007年1月29日)
 奈良時代の女帝、称徳天皇が768年に書写させたものとして、奈良・正倉院に納められている「華厳経」(60巻本)のうち、1巻だけ欠けていた巻14が、東京・三田の慶応義塾図書館で見つかった。
  この経典は、黄褐色に染めた幅56.5cmの横長の麻紙を用い、赤い撥(ばち)状の軸に紙を巻きとめた体裁。墨で薄く引いた行を区画する界線の間に、大き めの楷書で1行に17文字を記してあった。これらの特徴により、奈良時代後期の写経の典型的な事例であるとして、行方不明になっていた正倉院の「華厳経」 の巻14と判断された。
 この経典は幸田露伴の弟で、慶大教授だった幸田成友が慶応義塾図書館に寄贈したものという。一方、正倉院の「華厳経」は、東大寺尊勝院の経蔵に伝わっており、明治になって皇室に献納された。
 JR東京駅前の丸善・丸の内本店4階ギャラリーで1月31日まで展示されている。

● 徳島・正福寺の地蔵像に鎌倉期(2007年1月27日)
 徳島県阿南市富岡町滝の下正福寺地蔵菩薩坐像」と「地蔵菩薩立像」が鎌倉時代に制作された可能性が高いことが分かった。
 像の高さは坐像が45.5cm、立像は49cmでともに木製。これまでは江戸時代のものとみられていたが、複数の専門家が二体を調査した結果、顔立ちや衣紋などが鎌倉期の地蔵の特徴と合致した。
 本像は徳島市の徳島城博物館の冬の企画展
「徳島県指定文化財『加賀友禅染西国三十三観音像』展」企画展(12月5日〜1月28日)で初公開されている.

 

● 滋賀県教委文化財担当者「持ちネタ」紹介(2007年1月27日)
 滋賀県教育委員会は、県内で働く文化財担当職員の専門分野をデータベース化し、県埋蔵文化財センターのホームページで公開を始めた。
 名称は「文化財持ちネタ台帳」。登録した45人が自らの専門分野や、発掘調査での体験、催しものなど、仕事を通じて身に付けた知識や技能などを紹介している。
 学校や公民館から要望があれば、該当者を講師として派遣するという。
 アドレスは、http://www3.ocn.ne.jp/~shiga-mc/neta-youkou.htm

● 三渓園、建造物内部を20年ぶりに一挙公開(2007年1月26日)
 横浜市中区本牧の三渓園で、国の名勝に指定されたことを記念して、1月26日から1月28日まで、重要文化財建造物10棟の内部を20年ぶりに公開する。


 三溪園は生糸貿易により財を成した実業家・原三溪によって、1902年(明治35)から造成が始められ、1906年(明治39)5月1日に開園した。1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈され、現在は財団法人・三溪園保勝会によって維持管理されている。
 175,000平方mに及ぶ横浜の東南部・本牧に広がる広大な庭園内には、三渓の審美眼によって京都や鎌倉などから移築された建造物が巧みに配置されており、建物だけで重要文化財10棟、横浜市指定有形文化財3棟を数える。
 今回の公開は20年ぶりで、三渓園のシンボルとも言える「旧燈明寺三重塔」や江戸時代、紀州徳川家の別荘だった「臨春閣」、徳川家康が建てた伏見城の一部で大名が控える部屋だったとされる「月華院」など、重要文化財建造物10棟の内部が公開される。

●    高松塚を包む覆屋完成(2007年1月26日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、3月下旬から予定されている石室の解体に備え、墳丘全体を包む覆屋がほぼ完成した。
    覆屋は南北約12m、東西約8m、高さ約6.5mで、外気を遮断するため壁や屋根には断熱材が入っており、特殊な空調装置で屋内を温度10度、湿度90% に保ち、覆屋内は石室が土の中に埋まっている現在の環境をほぼ保つことができるという。
今後は墳丘の発掘を29日から再開し、2月中には石室全体が現れる見込み。

● 巣山古墳で古代の「喪船」の新たな部材出土(2007年1月26日)
 奈良県広陵町の大型前方後円墳「巣山古墳」で、2005年の調査で出土した木製葬送具「喪船(もふね)」の関連部材も含め、新たに15点の木製品が見つかった。
 新たに出土した喪船の関連部材は、長方形のほぞ穴が5カ所開けられた板材(長さ2.8m、幅20cm)と、先端を反らして加工した板材(長さ95cm、幅20cm)の計2点。厚みはいずれも3cmほどで、喪船の屋形(船体の上に作った小屋)などの一部ではないかという。
 木製品が見つかったのは、古墳前方部の周濠の北東隅。おととしの調査で先端が反り返った舟形木製品(長さ約3.7m)や、その上に死者を入れて載せたとされる木棺のふた(長さ約2.1m)など、喪船の主要部分が出土した場所のすぐ脇という。
 これらの部材は葬送儀礼を終えた後、周濠の縁に沿って意図的に埋められたと見られる。

● 奈良・市尾墓山古墳で最大級の「木の埴輪」出土(2007年1月24日)
 奈良県高取町の史跡・市尾墓山古墳で、周濠跡から木の埴輪(はにわ)とみられる板状木製品が見つかった。
 木製品は、現存で長さ約2m、幅25〜36cm、厚さ1〜2cm。腐食が進み両端が欠けていたが、盾か儀式用のつえをかたどったとみられ、木の埴輪としては最大級という。
 発掘現場に近い墳丘すそ部に、この木製品を立てたとみられる穴の跡が残っており、木の埴輪を立てた正確な場所が分かるのは珍しく、木製品は倒れた後、周濠の中に滑り落ちたらしい。

● 「飛鳥・藤原」が世界遺産暫定リストに(2007年1月24日)
 ユネスコの世界遺産候補となる暫定リストに「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」など、4件が掲載されることになった。
  奈良県では、すでに「法隆寺地域の仏教建造物」「古都奈良の文化財」と「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」の吉野・大峯が世界遺産に登録されてお り、「飛鳥・藤原」が登録されれば4カ所で、県の北の端から南の端まで遺産でつながることになる。           
世界で830件が登録されているが、これだけ集中する地域は珍しいという。
 リストへの追加が認められたのは飛鳥・藤原のほか、下記の3件。
 ▽富士山とその関連資産群
 ▽富岡製糸場と絹産業遺産群
 ▽長崎の教会群とキリスト教関連遺産。



● 醍醐寺「大威徳明王」の複製完成(2007年1月23日)
 京都市伏見区醍醐寺の国宝仏画「絹本著色大威徳明王像」がデジタル技術によって複製された。
  絹本著色五大尊像は不動明王と回りを囲む大威徳など四明王の五幅から成り、鎮護国家などを祈願する仁王会の本尊として用いられる。来年3月からドイツで開 かれる「醍醐寺展」に合わせて高精細のデジタル画像を、にじみを抑える薬剤を塗布した絹に印刷し、半年がかりで仕上げられた。

● 滋賀・関津遺跡で道教の神描いた板出土(2007年1月19日)
 大津市の関津遺跡で13世紀の川跡から、古代中国の民間宗教・道教の神像などを描いた板が見つかった。
 板は縦約6cm、横約13cmで、 片面には、中国風の装束を着けた2人の人物が描かれており、1人は頭に角のようなものがあり、耳の部分が長くとがっている。もう1人はかさのようなものをかぶっていた。
 また、反対面には、烏帽子をかぶった男性とみられる4人の人物が描かれていた。
 当時、日本にも伝わっていた道教では、祭礼で版画や紙に書いた神像を燃やしたり、河川に流したりする風習があり、見つかった板も、描かれた絵が中国に伝わる明、清時代の神像画と似ていることから、民衆が祭礼などの際に川に投げ込んだものとみられるという。  
 日本では古墳時代の銅鏡に道教の神をかたどったものがあるが、神像画が見つかるのは珍しい。

● キトラ古墳「朱雀」はぎ取り準備開始(2007年1月19日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳で、2月中旬に予定している南壁の四神図「朱雀」(縦22cm、横47cm)のはぎ取りに備え、周囲の無地部分のしっくいの取り外しを始めた。
 今回は朱雀上部の余白で壁面から数ミリ浮いていた漆喰を3分割してメスなどで取り外した。
 今後、絵の左側や下方部分も外し、東壁の獣頭人身十二支像「寅」のはぎ取りで使った特殊な電動糸のこ装置「ダイヤモンドワイヤ・ソー」で朱雀本体に取りかかる予定という。

● 奈良町遺跡で大量の土器など出土(2007年1月19日)
 奈良市中心部にある都市遺跡「奈良町遺跡」で、平安後期の土師器(はじき)の皿や木製のハシが出土したのをはじめ、鎌倉、室町、江戸各時代の素焼きの小皿などが時代が途切れることなく大量に見つかった。
  今回の調査地は近鉄奈良駅の北側で奈良市街地で最も古い一角とされる同市高天町と高天市町、中筋町の約800平方mで、これまで中心市街地の形成は、平安 末期、1180年の平重衡による南都の焼き討ち以降に始まったとされてきたが、近年の同遺跡の調査で、約100年前の平安時代後期から形成され始めたこと がほぼ確定的になったという。

● 岐阜・真長寺の仏画涅槃図と菩薩像が県重文に(2007年1月16日)
 岐阜市三輪の真長寺が所有する掛け軸状の仏教絵画2点を県重要文化財(重文)に指定することになった。
「絹本著色涅槃図」(縦179cm、横約163cm)は、南北朝時代の14世紀の作品とみられ、県重文に涅槃図は他に10点あるが、他と比べて遜色ないと判断された。
「絹本著色文殊菩薩像」(縦約110cm、横約51cm)室町時代の15世紀の作品とみられ、全国的にも類例の少ない密教系統の作品で、2003年11月に修復が完了していた。
いずれも岐阜市歴史博物館に寄託され、2002年9月に同市の重文に指定された。

● 未盗掘の高槻・闘鶏山古墳、市教委が発掘を検討(2007年1月15日)
 大阪府高槻市の国史跡・闘鶏(つげ)山古墳で、遺物保存のため2月にも専門家の調査検討委員会を開き、発掘の可否を諮ることになった。
 闘鶏山古墳は全長約86mの前方後円墳で被葬者は大和王権と結びついた地域の首長とされる。2002年にファイバースコープを挿入して行われた調査で、竪穴式石室の1基に三角縁神獣鏡2面などの副葬品、もう1基に木棺材が埋葬時のまま残っているのが確認された。
 しかし、昨年3月、小型のデジタルカメラを挿入して石室内を撮影したところ、遺物についた土を水が洗い流したような痕跡や、水滴が遺物についている様子が確認され、副葬品の三角縁神獣鏡などの遺物が雨水の浸透で損傷する恐れが高まっていることが判明した。
  「遺跡は現状保存が原則」と発掘に否定的だった文化庁が、高松塚古墳の壁画の現地保存に失敗したこともあって態度を軟化させており、検討委の判断次第で発 掘される可能性が出てきた。 発掘されれば、未盗掘の前方後円墳としては、1998年に33面の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳(同県天理市)以来とな る。

● 甲賀の北脇遺跡で文字刻んだ銅印が出土 (2007年1月15日)
 滋賀県甲賀市水口町北脇の北脇遺跡で「徳西庶家」との文字を刻んだ平安前期の銅印が出土した
  銅印は分銅型で、文字を刻んだ印面が縦横3.5cm、つまみを含めた高さは3.0cm、重さ64g。青銅製の鋳造品で、穴の開いたつまみには、国内でもあ まり類例のない二筋の縄目状の模様や線刻が施されていた。つまみの形状や一緒に出土した須恵器の年代などから平安前期のものとみられる。
 日本の印章制度は大宝律令(701年)とともに整備され、平安期から貴族に私印の使用が認められ、書類や蔵書に押印されたとされる。古代の印章の出土は県内6例目、国内では50数例あるが、「家」の文字が使われたものは国内で2例目という。 また、四文字の印章の出土は滋賀県内では初めて。
 「庶家」は「分家」の意味で、有力な氏族が私印として使ったとみられるという。

● 岐阜・那比新宮神社の文化財修復完了へ(2007年1月11日)
 岐阜県郡上市八幡町那比の那比新宮神社で、2001年度から進められている国重要文化財の懸仏などの修復作業が、本年度で完了する。
 平安時代の創建とされる同神社は、高賀山権現信仰と呼ばれる山岳信仰、神仏習合などの影響を受けて、260面の懸仏や、金銅製地蔵菩薩坐像(国重文)、木造菩薩立像(県重文)など多くの文化財を有している。
 これらの文化財の修復は2001年から収蔵庫の整備をはじめ、懸仏、木製仏像の修理などを行い、最終の本年度は経櫃(ひつ)計4点を修復中する。
 修復を終えた懸仏は、背面の円板が直径10cm〜60cmで、胸飾りの色を鮮やかに残すものもある。収蔵庫は湿気を防ぐ工夫を施し、小型の懸仏は、縦に並べた板に数面ずつ懸け、随時板を引き出せるようにしてある。

本サイトの岐阜仏像旅行道中記も参照下さい。


● 伊豆の文化財冊子刊行(2007年1月14日)
 伊豆市教育委員会はこのほど、市内の文化財をまとめた冊子「伊豆市の文化財」を刊行した。
  彫刻、絵画、工芸、天然記念物や史跡、無形民俗伝承など、14分野の204点の文化財を文章と写真で紹介したもので、国指定重要文化財の修禅寺所蔵の木造 大日如来坐像、天城山隧道、国指定史跡の上白岩遺跡をはじめ、県や市の指定文化財、未指定ながら郷土の価値ある文化財を網羅した。巻頭にはカラーページを 設け、巻末では各地の文学碑や遺跡マップも掲載し、2000部発行する。


● バーミヤン渓谷で世界最古「大乗経典」発見(2007年1月13日)
 アフガニスタン・バーミヤン渓谷の石窟寺院跡から1990年代に見つかったとされる仏教経典の写本の中に、2〜3世紀に書写された賢劫経(けんごうきょう)と呼ばれる大乗仏教の経典のひとつがあることが、佛教大学の調査で分かった。
  見つかった賢劫経の写本は、1990年代にバーミヤン遺跡の石窟寺院跡から出土、ロンドンの市場で売りに出されていたのをノルウェーの収集家が他の多数の 経典の断片(1万点以上)とともに保管していた。写本はヤシの葉に書かれた断片計約30点で、現在は使われていないガンダーラ語で、古代インドのカロー シュティー文字を使って書かれていた。
 大乗仏教は中央アジアを経由し中国や日本などに伝わった仏教で、中国の仏教遺跡からは5〜6世紀の写本が発見されているが、今回の写本はこれより約300年古く世界最古という。
イ ンドではヒンズー教の普及などで仏教は廃れた。賢劫経を含め、どれぐらいの経典がどのように誕生し、当初の経典が何語で書かれていたのかなど、大乗仏教成 立を伝える資料はほとんどない。このため、見つかった写本は、初期の大乗仏教を考える貴重な資料で、仏教の伝播を研究する上でも重要とみられている。


●鹿児島・旧金峰町で遺跡報告書6割虚偽(2007年1月11日)
 鹿児島県の旧金峰町(現南さつま市)教育委員会が、2005年度に作成した遺跡の調査報告書に、別の遺跡の写真や内容を流用するなど虚偽記載が全体の6割あることが分かった。

 
  偽造されたのは、九州電力の鉄塔建設工事に伴い、2004年11月から約1カ月発掘調査した縄文時代の芝原b遺跡(同市金峰町宮崎)の報告書で、91ペー ジの報告書のうち56ページに同遺跡近くの別の遺跡の写真や図面、文書などが流用されていたという。報告書は予定の300部のうち5部だけ製本し、九電に 仮の報告書として提出していた。
 同県では昨年12月、川辺町教委が作成した発掘調査報告書でも虚偽記載が発覚。南さつま市教委はこれを受け、報告書の調査をしていた。


● 近畿100社寺、今秋新巡礼ルート創設へ(2007年1月5日)
 近畿の有名寺院や神社約100社寺を結ぶ「神仏習合」の新しい巡礼ルート「西国神仏霊場」を今秋創設する計画が進められている。
 伝統行事の復興を進める京都、奈良の宗教者と学者でつくる「古都の森・観光文化協会」が中心となり計画しているもので、明治以前に盛んだった伊勢参りや熊野詣でのような「巡礼の道」をたどり、神仏を同時に崇拝していた精神風土を現代に取り戻すことが狙いという。
 伊勢神宮、延暦寺を発着点とした近畿2府4県と三重県に霊場を設定して社寺に参加を要請。すでに、比叡山延暦寺、金剛峯寺、金閣寺、下鴨神社、石清水八幡宮、法隆寺、住吉大社など約20の社寺が賛同しているという。


● 銀閣寺、銀箔なかった(2007年1月5日 )
 京都市左京区の銀閣寺(慈照寺)には銀箔がまったく使われていないことが科学的調査で確認された。
  調査は銀閣の二層外壁のうち、表面のすり減り具合の顕著な部分を大規模な修理の行われた大正時代以前のものと判断。その部分から試料を採取して行われた。 エックス線による元素分析と誘導結合プラズマ質量分析法と呼ばれるごく微量の元素でも検出できる分析法を用いたが、銀は検出されなかった。
 銀閣寺は室町幕府の足利義政(1436〜90)が造営した山荘の東山殿を義政の死後、禅寺に改めて現在に至っている。
 「銀閣」の通称は江戸時代以降に使われ始めたといわれるが、幕府の財政難や完成直前に義政が死去したために銀箔が張られなかったともいわれていた。


● 世界文化遺産暫定リスト23日に選出(2007年1月4日)
 世界文化遺産に推薦するための暫定リストに載せる「遺産候補」が23日、文化審議会文化財分科会で選ばれる。
  文化遺産の候補はこれまで文化庁が直接選んできたが、遺産保全に地元の合意が欠かせないという理由から。今回は初の公募を行った。この結果、「四国八十八 箇所霊場と遍路道」(四国4県)、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)、「金と銀の島、佐渡」(新潟県)など全国から24件の応募があった。

 しかし、既に世界遺産に登録された所では多くの問題が指摘され始めている。
 厳島神社(広島県)は登録された1996年の168万人から翌1997年には190万人に増えたものの、1998年には154万人と再び下落するなど、登録前から有名な観光地だったところほど、観光客の増加は一時的だ。
 また、登録後の維持管理費の増加や、白川村(岐阜県)のように人口2000人弱の村に観光客が年140万人訪れた結果、集落周辺の渋滞やゴミのポイ捨てなどの問題が新たに生じ、景観を守るための世界遺産なのに、景観に問題が出るという皮肉な現象も起こっている。
  このため、昨年リスト入りし、2008年の登録を目指す中尊寺など、奥州藤原氏ゆかりの史跡を持つ岩手県平泉町では、新築の家は和風建築が原則とし史跡か らの眺めが変わるような木の伐採は区域の縮小も求めるという景観条例を一昨年に制定した。いずれにしろ一番重要なのは住民合意だ。

主な遺産候補
若狭の社寺建造物群と文化的景観(福井県)
沖ノ島と関連遺産群(福岡県)
善光寺(長野県)
三徳山(鳥取県)
飛鳥・藤原-古代日本の宮都と遺跡群(奈良県)
四国八十八カ所霊場と遍路路(四国4県)
宇佐・国東八幡文化遺産(大分県)


● 宮内庁が陵墓立ち入り調査容認(2007年1月1日)
 宮内庁は、これまで原則的に立ち入りを禁止してきた天皇陵などの陵墓について、広く学術団体の見学を認めることを決めた。
  宮内庁はこれまで陵墓立ち入りを原則として拒絶してきたため、そのほとんどが陵墓に指定されている巨大前方後円墳の調査ができず、古代史研究の大きな障害 となっていたが、日本考古学協会などが2005年、大阪府堺市の仁徳天皇陵など11か所について、立ち入り調査を認めるよう宮内庁書陵部に要望していた。
 これに対し同庁は、歴史関係に限らず、動植物学などの学術団体にも門戸を開くことを決定し、条件付きで陵墓の見学を認めることを先月下旬、同協会に伝えた。見学は当面、各学会1人とし、立ち入りは墳丘の1段目の平たん面までとするという。
  現在宮内庁管理の陵墓は、1都2府30県にわたって所在しており、陵(天皇・皇后など)が188、(皇太子や親王など)が552、準陵(分骨所・火葬塚・ 灰塚など)が42、髪歯爪塔(供養塔など)が68、皇族の墓所の可能性が考えられる陵墓参考地が46あり、総数は896である。同じ場所に所在するものも あるので、箇所数は458となる。
 しかし宮内庁指定の天皇陵41基の中で、被葬者が確実なのは、天智陵(御廟野古墳)(京都市山科区)と 天 武・持統天皇陵の檜隈大内陵(御廟野古墳)(奈良県高市郡明日香村)だけだといわれており、築造年代などを明らかにする手がかりが得られれば、被葬者の真 偽を論議する契機になると期待が高まっている。

● 中国・河南省に、中国文字博物館を建設(2006年12月30日)
 中国・河南省安陽市に中国文字博物館が2008年末に正式にオープンすることになった。
 中国文字博物館は、古代の漢字や符号の展示を通して、中華文明と中国の言語・文字に関する研究成果を紹介するための専門的な博物館で、総面積3万3000平方m。
 河南省安陽市はこれまでに、商や周の時代のものとみられる、文字が刻まれている甲骨や、金、陶磁、玉などが数多く出土したことから、中国古代文字の発祥地と呼ばれている。

● 高松塚古墳の発掘の第1段階終了(2006年12月28日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で、石室解体に向けて発掘が進められ、石室の上方70cmまで盛り上がった白色層を残して発掘の第1段階の作業を終えた。
 同古墳は、土を何層も薄く突き固める版築工法で築かれており、最後の白色層には白い長石が使われて他の層の2倍以上の硬さがあるという。
 造営時は白色層まで突き固めた段階で石室内に壁画を描き、納棺したと考えられている。
 発掘は来年1月に墳丘上に空調設備の整った断熱覆い屋を建設、2月ごろに第2段階として石室を露出させる予定。
 今回の発掘で墳丘から過去の地震でできたとみられる多数のひび割れが見つかり、調査や保存用の型取り作業に時間がかかったため、石室解体は当初の予定より約2週間遅れの3月下旬から始めることになった。
 3月下旬〜5月中旬に、天井石や壁画の描かれた壁石をクレーンで順次つり上げ解体し、その後床石に着手し、作業終了は6月中旬にずれ込むという。

● 京都市上京区で平安京の大極殿の緑釉瓦出土(2006年12月26日)
 京都市上京区千本通で平安京の大極殿の屋根を飾っていたとみられる大量の緑釉瓦が出土した。
 大極殿の東南隅にあたると推定される箇所を調査した結果、大量の瓦が江戸時代のごみ穴に埋められていたのが見つかった。
 瓦は唐草文などが刻まれた軒平瓦や丸瓦、棟に積み上げられた熨斗(のし)瓦のほか、棟の両端を飾ったとみられる鴟尾(しび)や鬼瓦の破片もあった。鴟尾と鬼瓦には褐色の彩色もみられることから、唐三彩の影響を受けた三彩瓦とみられる。
文様の形などから平安時代前期の瓦とみられ、当時政務の中心だった建物の壮麗な姿をうかがわせる。

● 大安寺・東塔跡で石敷参道発掘(2006年12月22日)
 奈良市東九条町の大安寺東塔跡で石敷きの参道が見つかった。
 石敷きは東塔跡の南側で長さ約14m、幅約0.6mが見つかり、幅を確認するため調査区を広げたところ、巾約80cmであることがわかった。
 しかし、正式な参道としては七重の東塔に対してバランスが悪く、装飾的な参道の可能性もあるという。

● 愛知県蒲郡市の永向寺で愛染明王像戻る(2006年12月21日)
    愛知県蒲郡市丸山町の永向寺で、解体修理を行っていた県指定文化財「木造愛染明王坐像」が1年2カ月ぶりに戻された。   
 愛染明王坐像は、像高121cmのヒノキの寄木造で、鎌倉末期から南北朝にかけて制作になる。鮮やかに彩色されていることから、繊維産地として発展してきた同市では、染色業者の参拝が多かったという。

● 平城宮跡大極殿復に27億円(2006年12月21日)
 政府予算の財務省原案で、奈良市の平城宮跡で進められている大極殿の復元関連事業費が盛り込まれた。
 大極殿の復元関連事業費は、27億8800万で、「平城遷都1300年記念事業」開催の2010年までの完成を目指しており、2007年度は木材購入や塗装工事などが実施される。
 また、史跡関連ではほかに高松塚古墳壁画の保存・活用費に2億5600万、キトラ古墳の保存修理費などに1億1700万がそれぞれ認められた。

● 北野天満宮鬼神像公開検討(2006年12月20日)
 京都市上京区の北野天満宮で、2002年に発見され今年6月に重要文化財に指定された木造鬼神像13体の一般公開を検討している。
 鬼神像は、菅原道真公の没後1100年を記念した2002年の大萬燈祭の折り、屋根の修復事業が行われた本殿の内陣から4つの唐櫃に分けて発見され、高さ60〜71cmで平安時代中頃の制作とみられる。
 いずれも憤怒の表情をし、ずきんのようなものをかぶったり、片手や片足を上げたりしている。これらの像は「ふなどのかみ」「ちまたのかみ」と呼ばれ、平安京の辻々に置かれ、邪気を払ったといわれるが、これほどまとまって見つかった例はないという。
 現在は修理が行われており、公開は早くても作業の終わる2008年秋以降になる。

● 東大寺長老が「誰も知らない東大寺」を出版(2006年12月20日)
 奈良市雑司町の東大寺の筒井寛秀長老が、東大寺にまつわる裏話をまとめた「誰も知らない東大寺」(小学館発行)を出版した。
 筒井長老は、祖父から三代にわたって別当(住職)を務め、昭和28年から同41年まで、鎌倉時代に大仏殿を再建した重源上人が復興事業で歩いた足跡を、父英俊さんらと踏査した。重源上人や二月堂のお水取りなど、東大寺にまつわる裏話をまとめたという。

● 袋井市の可睡斎で奥の院、全焼(2006年12月18日)
 静岡県袋井市久能の秋葉総本殿可睡斎の奥の院から火が出て木造平屋建の建物92平方mを全焼し、建物内にあった不動明王像、仏具一式を焼失した。
 奥の院に出火当時、奥の院に人はおらず、普段非公開で鍵がかかっていたという。
 可垂斎の付近では11月にビニールハウスや枯れ草を焼く3件の不審火があり、修行僧が境内の見回りを行うなど警戒を強化していた。
 同寺は応永8年(1401)開創。奥の院は明治6年(1873)に静岡市の秋葉山秋葉寺から遷座された秋葉三尺坊大権現のご神体ともに龍頭山から移転し、大正2年に再建された。

● 中国・楽山大仏、劣化進む(2006年12月15日)
中国四川省の楽山大仏が、著しい劣化に襲われている。
 楽山大仏は唐代の713〜803年にかけて、四川省楽山市の崖を刳り抜いて建立された高さ71mの弥勒坐像。1996年に四大仏教名山の一つ峨眉山と共に世界遺産に登録された。
 近年、全身のあちこちに亀裂が走り、くぼみや穴が多く見られ、顔には上下に黒い線が染みつき、鼻は黒く染まり、体部も岩がはげ落ちる現象が起こっている。
  大仏を形造る砂岩には炭酸カルシウムの量が多いうえ鉄分も含まれており、長年の風化に加え、経済発展に伴って深刻化している酸性雨により化学反応を起こし てカルシウムが溶け、強度が落ちて剥落しやすくなってきているという。また、剥落個所に粉塵などの汚れが付着し、さらに鉄分も溶け出し、汚れが付着して黒 ずんだらしい。
 地元の管理部門は劣化状況の実態調査を始め、保護対策を強める意向だ。

● 奈良・大安寺で東塔の基壇跡発掘(2006年12月15日)
 奈良市の大安寺旧境内で、東塔の大規模な基壇跡が見つかった。
 東塔の基壇跡は西塔跡の東約130mにあり、周囲を取り囲む石の跡から南北方向の長さは約21mで、西塔の基壇の一辺と同じ長さだった。
 基壇の北、南、西の3カ所に階段の跡があり、一番下の段に当たる凝灰岩の石が残っていた。
 東塔の基壇跡は、既に発掘が済み高さ約70mの七重の塔だったと推測される西塔の基壇と同規模で、東塔が七重だったとする平安時代の文献が裏付けられたとしている。
 また、基壇の南側では、地表から十数cmに鎌倉時代の瓦を多く含む土の層があり、永仁4(1296)年に東塔が雷で焼失したとの文献の記述に合うという。

● キトラ古墳で寅の剥ぎ取りに成功(2006年12月15日)
 明日香村阿部山のキトラ古墳で、東壁に描かれた十二支像「寅」の剥ぎ取りに成功した。
 寅は今年1月にヘラで剥ぎ取る予定だったが、厚さ3〜4mmの漆喰が石壁に固着しており、へらでは損傷する恐れがあったため作業を中断していた。
 東京文化財研究所では新たにダイヤモンド粒子を付着させた直径0.3mmのワイヤーを高速で動かして切る電動糸のこ装置「ダイヤモンドワイヤー・ソー」を開発し、これを使って縦約17cm、横約13cmの大きさで寅を約40分かけて剥ぎ取った。
 四神のうち最後まで石室に残る南壁の「朱雀」(縦22cm、横47cm)も来年2月新装置を用いて取り外す予定だが、極細のワイヤは、長くなればなるほどたわみやすく、漆喰を壊す可能性があるため、慎重な作業が必要となるという。

● 奈良1300年祭主会場発泡スチロールで保護(2006年12月14日)
    奈良県や関西経済連合会などが2010年開催をめざすテーマ博「平城遷都1300年記念事業(奈良1300年祭)」で、パビリオンなどを建設する主会場の平城宮跡を盛り土や発泡スチロールなどで覆う計画が進んでいる。
 盛り土が必要なのはパビリオンの建設予定地など、平城宮跡会場のほぼ3分の1にあたる10ヘクタール弱で、数十センチの厚さで土砂を盛るほか、特に地盤が軟弱な場所には、緩衝材として厚さ30cmの発泡スチロールを並べた上に板を載せ舗装するという。
 文化庁は盛り土で景観と埋蔵文化財を保護できるのであれば許可できるとしている。
 しかし、考古学者など専門家の間では、埋蔵文化財の損傷リスクを冒してまで世界遺産にパビリオンを建てる必然性が理解できないと批判する声が上がっている。

● 韓国の国宝文書、HPで一般公開開始(2006年12月14日)
 韓国の文化財庁は、国宝などに指定された古典籍や、一般人の閲覧が事実上不可能だった古典籍や文献の原文をなど、国家記録遺産ホームページ(htp://www.memorykorea.go.kr)でPDFで公開する。
  国または地方が典籍文化財に指定した古典籍・古文書など、国宝51件、宝物(日本の重要文化財に相当)565件、重要民俗資料(日本の重要有形民俗文化財 に相当)10件、市道(地方)有形文化財271件などを含む1,033件の古典籍や文献の原文をPDFで閲覧できるのはもちろん、キーワード検索すること も出来る。
 また、草書体などの難しい漢字を楷書体で入力した原文情報や史料の解説を盛り込んだ解題も掲載されている。

● 韓国の文化技術でデジタルアンコール・ワット復元(2006年12月13日)
 韓国の文化技術を使ってカンボジアのアンコール・ワット遺跡が3次元デジタル映像で復元された。
 アンコール・ワットは12世紀中盤に建立されたヒンズー教の寺院で、高さ65mの中央塔を中心に構成された東西1500m、南北1300mの雄大壮厳な石造建物である。
 長い間密林の奥深くに埋もれていたことに加え、カンボジア内乱中に破壊された箇所も多く、現在日本、ドイツ、フランス、中国などで損壊された部分を修復しているが、遺跡全体がデジタルで蘇るのは初めてという。
 アンコール・ワットの現場で3次元スキャナで多くの彫像の形態を取り、遺跡地全体を3万枚の写真で再構成した。
 デジタルアンコール・ワット(angkorwat.culturecontent.com)は来月中旬、正式公開される。

● 平城宮東院地区未調査東側に中枢施設か(2006年12月8日)
 奈良市法華寺町の平城宮東院地区で、中枢施設を区画するとみられる塀跡や建物跡が見つかった。
 東院は即位前の聖武天皇が過ごし、奈良時代後半には称徳天皇の玉殿や光仁天皇の楊梅宮が設けられたとされるが、造営当初は西半分を一体的に利用して、後半は東西に二分する掘っ立て柱塀が設けられ、東院全体を四等分した可能性が強いという。
 今までに発掘された遺構は5期に分けられ、2期までが奈良時代前半、後半の3期以降は聖武天皇が平城京に都を戻した745年以降の施設とみられが、いずれも東院の中軸線から西側にあたっており、中枢施設は未調査の東側に眠る可能性が強まった。

● 青森で平安期仏像の腕など出土(2006年12月9日)
 青森市の新田(1)遺跡で、平安時代中期から晩期の井戸跡から、木製の仏像の腕の一部や、古代の「駅」との関連を想起させる「笠蓑竿」の文字が書かれた曲げ物などが出土した。
 発掘された仏像の手は、長さ約13.6cm、直径約4cmで、制作途中のものだったとみられ、土師(はじ)器などとともに出土した。
 同遺跡からはこれまでにも、十一世紀以前のものとみられる仏像が一体発掘されており、当時、国家の支配が及んでいた地域で信仰されていた仏教が、中央から伝わっていた可能性があるとみられている。
 また、曲げ物の側板に書かれていた「笠」や「蓑」は、律令制度下で街道沿いに設けられた「駅」に常備すべきものとされていた。今まで本県は古代、国家の統治が及ばない地だったとされるが、中央、国家とのつながりを思わせる遺物の出土は、研究者の注目を集めている。


● 小浜・西縄手下遺跡で若狭国府跡出土か(2006年12月9日)
 福井県小浜市太興寺の西縄手下(にしなわてしも)遺跡で、奈良時代末期から平安時代中期の層から、若狭地方を治めた国府跡と推定される遺構や出土品が見つかった。
 見つかったのは塀、柱、柵の跡などで、いずれも東西南北に規則正しく並んでいたほか、盛り土をしてその上に礎石を並べるなど、一般の集落跡とは考えにくい造りになっている。
 また、4cm四方、厚さ7mmの玉製と、横2.8cm、縦1.9cm、厚さ5mmの銅製のベルトの装飾品「巡方(じゅんぽう)」計2点や円面の硯片、和同開珎など皇朝12銭も7点見つかった。
 特に玉製の巡方は、国を治める国司クラスの役人しか持ち得ないもので、国府の可能性を裏付ける出土品として注目される。
 国府の存在を示す墨書土器等が確認されていないため、断定はできないが、遺構や出土品を見る限りその可能性は高いといえるという。


● 出雲で立て掛けの大刀出土(2006年12月9日)
 出雲市国富町の中村1号墳で、金銅板で飾られた装飾大刀が出土した。
 大刀は、長さは97cmで一部残った鞘に金銅板の飾りが付いており、玄室の東北角で柄の一部がのぞいていた状態で発掘された。
 中村1号墳は、横穴式石室を備えた古墳時代後期(6世紀後半)の豪族の墓とみられ、未盗掘だった。
太刀は家族などを追葬した際に石室角に立て掛けられたとみられ、全国でも例のないケースという。


● 鹿児島で埋蔵文化財報告書が偽造(2006年12月7日)
 鹿児島県川辺町の教育委員会が2002、2003年度に発行した埋蔵文化財発掘調査報告書3件が、町内の他の遺跡の出土品などを載せた虚偽の内容であることが分かった。
  虚偽の報告が見つかったのは川辺町の九玉・塘池上遺跡、荒田・上桑持野遺跡、津フジ遺跡の3つの報告書で、これらの報告書の一部には2000年度に発行さ れた土器薗遺跡、2002年度発行の背野平遺跡の報告書と同じ実測図などが掲載されており、過去の資料を転用していたことが発覚した。この他土器薗遺跡と 背野平遺跡の報告書も出土品の説明文などに不備があったという。
 報告書は県教委や他の市町村教委などに配るため各300部印刷することになっていたが、3件は100〜200部しか印刷しておらず、余った費用は印刷業者にプールさせていた。
 編著者の町教委職員は唯一の考古学の専門職で、89年に採用後、12件の報告書作成を担当している。町教委は残り7件についても外部の専門家に調査を依頼する予定。


● 仏像写真展 西条市で開催(2006年12月6日)
 西条市教育委員会が撮影した地元の仏像の写真や、全国の仏像を掲載したカレンダーなどを集めた仏像の写真展が、西条市周布の市立東予郷土館で12月27日まで開かれている。
 市内の仏像としては、県や市の文化財指定を受けている旧東予市内の7点が紹介され、33年に1度しか開帳されない鎌倉初期の作とみられる実報寺の地蔵菩薩像や、鎌倉中期作の特徴を示す寂光寺の阿弥陀三尊像などを取り上げている。
 全国では薬師寺の薬師如来、平等院の阿弥陀如来、東大寺の仁王など各地の著名な仏像の写真が並び、尊像の違いなどについても解説している。


● 京都府井手寺跡で僧房の柱や溝跡出土(2006年12月4日)
 京都府井手町井手の井手寺跡で、同寺跡北側から伽藍内の僧房跡とみられる礎石つきの柱跡や雨落ち溝跡などの遺構が見つかった。
 柱跡は約3m間隔で,13カ所にほぼ完全な形で約50〜60cm大の礎石が残っていた。建物は縦約6m、横約21mの規模で、出土した土師器などから僧房跡とみられる。
 雨落ち溝は幅約90cm、深さ約10〜30cmの石築で、一部は完形で出土した。溝は建物を囲むつくりで、建物北側には屋根つきの渡り廊下「軒廊(こんろう)」があったとみられ、別棟の建物があったと推定される。
 付近の瓦破片の出土量は少なく、屋根は一部に瓦を用いた桧皮葺とみられるが、平城京大極殿から出土した瓦と同じ刻印入りの瓦破片2点も新たに見つかった。
 同寺の規模は約100m四方と考えられてきたが、同寺中心部の北東約90mから遺構が見つかったことで、同寺が約200m四方を超える平城京の大寺に準ずる大規模な寺院であった可能性が高まり、当時の橘諸兄の権力の強大さがうかがえるという。


● 和歌山・岩橋千塚古墳で2つの顔の人物埴輪が初出土(2006年12月1日)
 和歌山市の国特別史跡・岩橋千塚古墳群の大日山35号墳で、前後両面に顔のある人物埴輪(はにわ)の頭部が出土した。
 昨年度の発掘調査で同古墳の西側くびれ部に張り出した「造出(つくりだし)」で破片が散乱した状態で出土した破片十数点をはり合わせて復元したところ、頭部のみで高さは約19cmの前後に顔がある人物埴輪であることがわかった。
  一方は目尻が上がり険しい表情で上唇の中央で縦に切り込みがある。もう一方は目尻が下がり、口をわずかに開けて穏やかな表情をしている。いずれも顔立ちは 鼻が高く、ほおと額に葉や矢印などの形の入れ墨らしい線が彫られ、下げ美豆良(みずら)と呼ばれる両耳へ垂らす男性の髪形をもつ。
 同古墳は、国内でも有数の岩橋千塚古墳群にあり、全長約100mと和歌山県で最大級の前方後円墳。紀伊地方の豪族・紀氏の墓とみられ、これまでにも翼を広げて飛んでいる姿の鳥や、珍しい形の冑をかぶった武人などユニークな埴輪が見つかっている。


● 青谷上寺地遺跡データベース公開( 2006年11月28日)
 鳥取県埋蔵文化財センターは、鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で出土した建築部材などのデータベースを作成し、インターネットで公開を始めた。
  同遺跡からはこれまでに弥生人の脳が発見されたほか、木製品約一万点、鉄器365点、骨角器1427点などが出土しているが、建築部材全約7000点のうち現在約470点の画像、スケッチ、詳細寸法などを公開しており、発掘場所や時期、樹種など毎に検索が出来る。
 今後随時データを追加していくほか、ほかの出土物のデータベース化も検討していくという。
 ホームページアドレスは下記の通り。
 http://db.pref.tottori.jp/aoya-iseki.nsf


● 山城町の高麗寺跡で鴟尾出土(2006年11月27日)
 京都府山城町上狛高麗(こま)寺跡境内入り口の南門跡の遺構が見つかり、門の屋根を飾った鴟尾(しび)の破片が出土した。
 高麗寺は7世紀初頭、奈良へ向かう交通の要衝を押さえていた渡来系氏族・狛(こま)氏の氏寺とされる国内最古級の寺院で、伽藍は7世紀中期に配備され、8世紀後半に改築されたとされる。
  鴟尾の破片は南門跡の東端から出土し、7世紀後半の破片3点と、改修があったとされる8世紀末の破片約30点で、最大で縦約30cm、横約60cm、表面 に赤い粘土を塗って焼いた鮮やかな仕上がりで、鴟尾の大きさは幅約90cm、奥行き約40cm、高さは1m以上と推定される。
 見つかった南門遺構は、直径約60cmの礎石と、南門に取り付く築地塀の基壇。
 高麗寺は金堂が西に、塔が東に並列する法起寺式の伽藍配置のため、金堂と塔の間に南門が位置するはずだが、発掘された南門の中心線は金堂の中心線と合致することから、金堂に付属する門である可能性が出てきた。
 7世紀初頭から8世紀後半の鴟尾は全国で約300例確認されているが、門の跡では、飛鳥寺跡、桧隈寺跡に次いで3例目という。


● 石清水八幡宮童子形神坐像4体 重文指定に(2006年11月22日)
 京都府八幡市八幡石清水八幡宮所蔵の童子形神坐像が国の重要文化財指定となったことを受け、普段は未公開のこれら宝物を公開する記念展が11月23日から26日まで、八幡宮研修センターで開かれる。
  今年6月に重要文化財の指定を受けたのは、平安−鎌倉時代の作と思われる童子形神坐像など、いずれも童子形神坐像の4体。1991年に八幡宮の校倉から発 見された8体の神像のうちの4体で、記念展では8体とも公開する。ほかに、同じく国の重要文化財指定の石清水八幡宮縁起や、「異国の剣」として奉納された 可能性がある16〜17世紀のインドネシア製のクリス剣(全長約42.2cm)など約30点を並べる。

● 恭仁宮跡から大極殿院回廊柱跡出土(2006年11月22日)
 京都府加茂町恭仁宮跡から、朝廷の正殿、大極殿を取り巻く大極殿院回廊の柱の土台跡が出土した。
 土台跡は大極殿跡の中心部の西約70mで、直径1.2〜1.5mの円形の穴4か所が見つかった。深さ約10cmで、柱を支える礎石を据え付けた穴とみられる。
  土台跡は南北一直線に4.6m間隔で均等に配置されており、平城宮の大極殿院回廊の柱の間隔と一致することがわかった。四つの土台跡の配置が平城京の大極 殿院回廊とぴったり一致し、天平15(743)年、聖武天皇が平城京の大極殿と回廊を移築させたとする続日本紀の記述が裏付けられたという。
 恭仁京は740年に平城京から遷都されたが4年で廃され、これまで大極殿や朝堂院の遺構が見つかっている。

● 清凉寺で重文級の仏像発見(2006年11月21日)
 京都市右京区嵯峨釈迦堂の清凉寺で、平安時代前期の10世紀前半の作とみられる如意輪観音像は発見された。
  佛教大アジア宗教文化情報研究所が、未指定の仏像を中心に約50体を昨年7月から1年がかりで調査した結果見つかったもので、如意輪観音像は平安前期に多 用されたのカヤ材の一木造で、一部に乾漆を使用している。顔の形や鋭い衣紋、体のくびれなどに古様であるが、穏和な表情や表現などから、10世紀前半の制 作と考えられるという。
 表面の金箔(きんぱく)や持物(じもつ)は後世の修理によるとみられるが、保存状態は極めて良いという。
 京都市右京区嵯峨広沢西裏町の同研究所で11月6日から12月2日まで開催中の特別展示「清凉寺の知られざる仏たち」で、如意輪観音像(平安時代、10世紀)の他、毘沙門天像(平安時代)、地蔵菩薩像(鎌倉時代)など6体を初公開している。

● 茨城県で如意輪観音立像など、県文に指定(2006年11月21日)
 茨城県は、那珂市福田の木造如意輪観音立像など五件を指定有形文化財とし、常陸太田市小島町の星神社古墳を指定史跡とした。
 木造如意輪観音立像は、平安時代後期(十二世紀)の制作とされ、腕が四本ある四臂の立像。如意輪観音は、通常腕が二臂か六臂で、足を崩した坐像がほとんどであり、立像としても、福岡県の如意輪寺に六臂像があるものの全国的にも貴重な例である。
このほかに有形文化財に指定されたのは、▽木造十一面観音坐像(石岡市田島)▽絹本著色聖徳太子(東海村石神外宿)▽中村彝(つね)筆の油絵「カルピスの包み紙のある静物」(県近代美術館所有)▽風返稲荷山古墳出土遺物(かすみがうら市所有)。

● 西大寺食堂院跡から木簡出土(2006年11月21日)
 奈良市西大寺本町の西大寺食堂院跡で、井戸から木簡が出土した。
  出土場所の井戸は、長さ2.47〜2.69m、幅23.5〜60cm、厚さ6.1〜12cmの大きなヒノキ板20枚を5段重ねにし両端にほぞを切って組み上げた巨大なもので、平城京では最大の井戸である。
 この板を年輪年代法で測定すると、うち3枚が西大寺造営が始まって2年目の767年に伐採された木材とわかった。
 食堂院跡からは塩を作った土器や食器なども出土しており、今回出土した木簡からも、荘園や菜園から食糧が運ばれ、それを寺内の事務局がきちんと管理していたことがうかがえるという。

● 在韓米軍、初めて文化財を返還(2006年11月20日)
 在韓米軍が保管してきた韓国の文化財が韓国側に初めて引き渡された。
  これら遺物はキャンプを閉鎖した後、大邱(テグ)の米軍部隊に保管されていた。今年8月に閉鎖された釜山(プサン)の米軍基地・ハヤリアキャンプに保管されていた文化財4点(仏像3点・碑石1点)が韓国側に引き渡された
  これまで文化財当局は、軍部隊という特殊性から、在韓米軍基地への体系的な資料調査ができずにいた。仏像などが制作された年代は不明。統一新羅(三国を統 一した676年以降の新羅)から朝鮮(チョソン、1392〜1910)時代に至るまで、学者ごとに意見が異なる。ただし制作技法や形が似ていて、同一の人 物が作ったものと推定されている。

● キトラ壁画はぎ取り再開(2006年11月16日)
 奈良県明日香村のキトラ古墳で特製カッターによる漆喰層のはぎ取りが始められた。
  キトラ古墳では、これまでヘラを使って壁画のはぎ取りが行われてきた。しかし朱雀などのしっくいが、場所によっては、厚さ約1.5mmと極めて薄く、従来 の方法では壁画を損傷する可能性があるため、ダイヤモンドの粉が付着した極細のワイヤを用いた特製カッターを開発した。
 今回は石室内に残る四神図「朱雀」と十二支図「寅」を切り外す前のカッターのテストで、寅図周辺や朱雀図の下部で行う。作業で安全性などを確認し、年内に寅図、来年2月までに朱雀図のはぎ取りに着手する予定。

● 飛鳥寺跡で講堂の礎石出土(2006年11月13日)
 奈良県明日香村の飛鳥寺跡で、講堂の土台となる礎石が出土した。
  今回出土した礎石は講堂の南西隅の4個で、花崗岩製。大きいものは長径1.2〜1.6mで土を突き固めた基壇に埋め込まれ、3.85m〜4.5m間隔でL 字形に並んでいた。上部は直径80cmの平面に加工されており、上に立つ柱は直径60〜70cmと推定され、法隆寺金堂の柱の直径(約70cm)と同規模 で、当時としては極めて大きかったことがわかる。
 飛鳥寺跡では1956〜57年の調査で東西と北端の礎石や礎石の痕跡が確認されており、今回の調査で南端が分かったことから、講堂の規模は東西35.15m、南北18.7mと確定した。
古代飛鳥の寺院では最大級の礎石。造営したと伝えられる蘇我氏の権勢の大きさが改めて裏付けられた。

● バーミヤン大仏から胎内経発見(2006年11月11日)
 バーミヤン遺跡で破壊された東西2体の大仏立像のうち、東大仏の残骸の中から6〜7世紀の文字で書かれた「胎内経」とみられる経典の一部の経文が見つかった。
  経文は破壊で崩れ落ちた大仏の残骸の中から短冊状の樺の樹皮に書かれ、仏舎利(ブッダの遺骨)に見立てたと考えられる泥玉とともに、布に包まれた状態で見 つかった。花の模様をあしらった円形の金属板も一緒に見つかったため、筒状の容器に入っていたとみられる。仏教大の松田和信教授が解読したところ、7世紀 にバーミヤンを訪れた中国の僧、玄奘三蔵が漢訳、日本にも伝わった「縁起経」のサンスクリット原典に相当するものと判明した。仏像に納められた経文は日本 などでも例があるが、アフガンで見つかったのは初めてという。

● 青谷上寺地遺跡で楼閣の柱発見(2006年11月10日)
 鳥取市の青谷上寺地遺跡で、1999年に見つかった長さ7m以上の木材が弥生時代後期の建物の柱だったことが分かった。
 発見された木材は遺跡北側にある弥生時代後期の水路跡で出土したもので、長さ7.2m、直径17cm。先端が欠けており、水路の護岸材に転用されていたが、根元から約6mの部分に床を支える木材を差し込んだ貫穴があることから柱だったことが分かった。
 現存する弥生時代のものでは最長の建物の柱で、これまで唐古・鍵遺跡(奈良県)や吉野ヶ里遺跡(佐賀県)で、土器に描かれた絵や、柱穴などから推測して復元されている楼閣が(物見やぐら)が実在したことを裏付ける初めての物証となる。

●生駒・長弓寺円生院で、絹本著色楊柳観音像公開(2006年11月9日)
 生駒市の長弓寺円生院に伝わった絹本著色楊柳観音像の保存修理が終わり、来年1月、半世紀ぶりに同寺で里帰り公開される。
 楊柳観音像は縦約1.1m、横約0.5m。絹地に楊柳観音と善財童子、僧侶などが描かれている。
 奈良国立博物館で無数にあった折り目を修理したが、その際僧侶を布袋像に描き直すなど加筆の痕跡も明らかになった。

● 山形市で多くの文化財発掘(2006年11月9日)
 山形市が行った市内の寺院の調査で平安時代の仏像など重要な仏像等が多く見つかり、有形文化財指定へ向け専門家と調査、鑑定を進める。
 山形市では、今まで文化財の調査が進んでおらず、2003年度から2年かけて、市内190カ所の寺院にあった30体を時代ごとの「基準作」に選んで、素材や年代を詳しく調べた。
 この結果、同市平清水の平泉寺の木造仏像4体は、平安時代の制作で、特に大日如来坐像(ケヤキの一木造、高さ110.9cm)は補修の跡も少なく貴重な像とわかり、4体を市の有形文化財に指定するよう答申する。
 また、今年度内に新たに3体、3年以内に17体を指定する方針。
 今回の調査では、仏像等の彫刻が中心で、絵画や工芸品などは含まれておらず、まだ貴重な文化財が残っている可能性はあるという。

● 湖南三山今秋も同時公開(2006年11月8日)
 「湖南三山」の名称で昨秋初めて同時に公開された湖南市の常楽寺(同市西寺)、長寿寺(同東寺)、善水寺(同岩根)の三寺院が、今年も19日から秋の同時公開を行う。
 三寺院はいずれも天台宗の古刹で、県内の国宝建築物22件のうち4件を持ち、紅葉も美しい。旧甲西、石部町の合併で同じ湖南市内となったため、湖東三山にならって「湖南三山」として売り出した。
 昨年は16日間の公開期間中、それまでの年間拝観者の3倍以上の2万5000人が訪れたという。
 今年は寺側の受け入れ体制などのため、期間は11月19日から28日までの10日間。期間中、常楽寺と善水寺は普段公開していない国指定重要美術品の掛け軸などを特別公開し、長寿寺は住職らの法話を予定している。

● 斑鳩・藤ノ木古墳石室公開へ (2006年11月7日)
 奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳で、内部公開に向けた整備工事の起工式が行われた。
 昭和60年の第一次調査以来、横穴式石室内から朱塗りの家形石棺や金銅製馬具類などの豪華な副葬品が見つかっており、未盗掘の貴重な古墳として石室内の公開も望まれていた。
 町では、保存と活用の観点から、調査を進める一方、内部公開に向けた周辺整備事業の計画がまとまり、初めての調査から21年目にして、ようやく整備工事が開始されることになった。

● 鎌倉市で、市有形文化財新たに5件指定(2006年11月7日) 
 鎌倉市では、建長寺の釈迦(しゃか)三尊図(掛け軸)一幅など五件を市有形文化財に指定した。
【絵画】
▽絹本著色釈迦三尊図一幅(建長寺)=縦141cm、横91cm余。南北朝時代の作で釈迦如来を中央に文殊、普賢両菩薩を描く。技法が中国・元時代の作例と共通しており中国仏画の影響を受けている。
【彫刻】
▽木造・釈迦如来坐像一躯(覚園寺)像高56cm余で鎌倉時代の作。存在したと推測される極楽寺と縁が深い奈良西大寺派の寺院が、鎌倉に進出したことに伴う仏像制作との関連を示す。
▽木造・聖観音菩薩立像一躯(浄智寺)像高109m余で鎌倉時代の作。髪を高く結った細身の菩薩像。中国の宋風彫刻といわれる姿。単独でまつられる観音像として貴重。
【考古資料】
▽笹目遺跡出土の埋納品(市所有)白磁水注、白磁皿、天目茶碗(わん)など五点。14、5世紀ごろ地鎮に使われたとみられる。文化財埋蔵調査で18年前に出土。
▽北条時房・顕時邸跡出土の墨壷(市所有)縦19cm、横10cm、高さ5.6cm余の中世の大工道具。完全な形で残り、全国的にも資料価値が高い。

● 唐招提寺金堂で上棟式(2006年11月2日)
 奈良市西の京の唐招提寺で、平成の大修理が進む金堂の上棟式と工事の無事を祈る法要が営まれた。
 2001年に始まった金堂の大修理は全体の約85%まで進み、上棟式では長さ約5mの棟木を引き上げ固定した。今後、屋根を葺く、本尊盧舎那仏坐像(国宝)などを納め、2009年6月ごろ完了予定。

● 大津・瀬田廃寺遺跡で奈良時代の寺の南門発見(2006年10月31日)
 滋賀県大津市野郷原の瀬田廃寺で、奈良時代の寺院の南門とみられる遺構が見つかった。
  瀬田廃寺遺跡では、1959年に金堂跡や塔跡が発見され、四天王寺式の伽藍配置が確認されている。今回発見された遺跡は、塔の真南37mの地点に東西に並 ぶ4つの穴で、中央の柱跡の間隔は5.1m、両側はそれぞれ4.5mの間隔で、穴の断面の様子から最初は掘立柱を建て、後に権威付けのために礎石をもうけ たと推定できるという。
 瀬田廃寺遺跡の南西約700mの地点には奈良時代の近江の政治の中心地だった国庁跡があり、西側に隣接する野畑遺跡から は「国分僧寺」と書かれた墨書土器が出土していることから、従来から同遺跡が国分寺跡である可能性が指摘されていたが、大型の南門が発見されたことから、 国分寺だった可能性が高まった。
 また、近江国庁跡や周辺の関連遺跡から出土している「飛雲紋(ひうんもん)」の瓦や、唐草が変形したような模様の金銅製の飾り金具(長さ19cm、幅11cm)も出土した。

● バーミヤン西方で13の仏教石窟を発見
(2006年10月30日)
 アフガニスタン中部バーミヤン遺跡の西約100kmにあるヤカウランの南東近郊の渓谷で、8世紀ごろの仏教石窟群が新たに発見された。
 龍谷大の仏教遺跡学術調査隊が発見したもので、場所はヤカウランの南東約10kmにあるダライアリ渓谷の川岸2カ所で、8世紀ごろから勢力が強まったイスラム期の望楼跡が残る絶壁に掘られたクシャ・ゴラと、南東に約1キロの岩壁に掘られたムシュタックの各石窟。
 クシャ・ゴラでは少なくとも6つの石窟が確認され、うち1つは奥行き、幅がそれぞれ約4m、高さ約2.7m。内部の天井部分はかまぼこ形で、仏像を安置したとみられる仏龕(がん)もあった。
 ムシュタックでは7つの石窟が確認され、うち中央の1つでは仏龕がほぼ原形をとどめ、わずかに壁画の一部とみられる顔料も確認された。
  ヤカウランの西では昨年、同大が、7世紀に中国の僧、玄奘三蔵が「大唐西域記」で記した仏教国「掲職国」の可能性もある石窟群を確認しており、今回の複数 の石窟群発見により、アフガンの仏教文化の西端とされていたバーミヤンより西に大規模な仏教文化圏が存在した可能性がさらに高まった。

●ハーバード大所蔵木造仏像の左手、快慶作の可能性(2006年4月15日)
 米国・ハーバード大学が所蔵する仏像の手が、鎌倉時代に東大寺を復興した高僧、重源上人によって造営された新大仏寺(三重県伊賀市)の本尊で、快慶作の阿弥陀如来立像の左手である可能性が高いことが分かった。
 この仏手は、同大学のサックラー美術館が所蔵しており、木造で全長約67センチ。表面を金ぱくで仕上げてあり、親指と中指で輪を作る。
  重源は東大寺復興の拠点として、現在の浄土寺(兵庫県小野市)や新大仏寺などを建てたことが知られており、共に本尊は快慶によって造られたことが胎内銘に よって判明している。浄土寺の像は現存しているが、新大仏寺の像は江戸時代に土砂崩れで倒壊し、造営当時の頭部だけが修復され本尊の一部として伝わってい る。
 通常阿弥陀如来立像は右手を上げ、左手を下げる印相をとるが、浄土寺の本尊は通例と逆に左手を上げている。今回見つかった左手は、くぎ跡な どから手のひらを上に向けていたと考えられ、大きさや指の曲げ方を含めて浄土寺の像の左手とほぼ一致しており、新大仏寺の像の左手の可能性が高いとみられ る。
 本仏手は、古美術商を経て、1931年にハーバード大所蔵となったとされる。

● 仏教美術史研究者の高田修さん死去(2006年10月28日)
 仏教美術の研究者で、東北大名誉教授の高田修氏が死去した。
  高田氏は、東京帝大印度哲学科を卒業後、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に美術顧問として雇われた。京都・醍醐寺五重塔の壁画研究を共同で進めたほか、 インド西部・アジャンタ石窟群の研究に40年以上取り組み、2002年に「アジャンタ壁画」(NHK出版)としてまとめた。
 仏像発生を解説した大著「仏像の起源」(岩波書店)などの研究によって67年度の朝日賞を受賞した他、59年に学士院賞、60年に学士院恩賜賞。東京国立文化財研究所美術部長や東北大教授、成城大教授を歴任した。

● 高松塚古墳石室上に円弧状の地割れ(2006年10月26日)  
 奈良県明日香村高松塚古墳の墳丘で、過去の南海地震の痕跡とみられる新たな円弧状の地割れが見つかった。
 地割れは、墳丘の中心付近から深さ約1.5mのところで、長さ約2m、幅約30cmの大きさで確認された。4枚ある石室の天井石の北側から2枚目の真上にあり深さは40cm以上あるとみられ、石室そばまで達している恐れがあるという。
  地割れは、流入した土砂の調査などから、仁和3(887)年、正平16(1361)年、明応7(1498)年の地震によるものではないかと想定されてい る。これまでにも多数の亀裂が見つかっているが、石室直上の大規模な地割れは初めてで、奈良盆地を繰り返し襲った同地震による地割れが雨水や虫の侵入経路 になって、壁画を劣化させる一因となった可能性が高いと考えられるという。

● 甲賀の北脇遺跡で平安時代の鍛冶工房跡出土(2006年10月25日)
 滋賀県甲賀市水口町北脇の北脇遺跡から、平安時代の掘っ立て柱の鍛冶工房跡が見つかった。
 遺跡からは、工房や関連施設とみられる建物跡9棟が見つかった。うち2棟は縦約10m、横約2mの完全な形で出土。送風管の先に付ける羽口、炉壁、鉄くず、製品の仕上げに使う砥石のほか、近隣から持ち込まれた緑釉陶器や須恵器なども見つかった。
 鍛冶炉跡は確認できなかったものの、遺構の状況から、複数の工人が農具や刀子(とうす)など小型の鉄製品を各棟で生産していたと見られる。
 同様の遺構では10棟以上が確認されている大津市瀬田の近江国庁跡の鍛冶工房(11世紀)に次いで県内2例目。

● 高松塚古墳ではく落防止へ天文図の一部剥ぎ取り(2006年10月24日)
 奈良県明日香村の高松塚古墳で来年3月に始まる石室解体に向け、石室天井の天文図のうち、剥落の恐れがある一部が剥ぎ取られた。
 剥ぎ取った対象は、天井の石と石の境目にまたがる星座の金箔と朱線で、長さ5cm、幅1cmの範囲。このほか石室全体で、しっくい層が浮き上がるなどしている約90カ所も取り外した。
 また解体しやすくするため、天井石や壁石の接ぎ目に入っているしっくい層に切れ目を入れ、天井部分はレーヨン紙を張るなどして補強し、解体の振動でしっくいが落ちないようにした。

● 赤彩古墳を公開(2006年10月23日)
 岐阜県本巣市上保の赤彩古墳(舟来山272号墳)が2006年11月3日(金)から11月5日(日)まで公開される。
 赤彩古墳は、東海地方最大級とされる約1000基の古墳群「船来山古墳群」から見つかった珍しい赤彩棺を納める古墳で、長さ約5m、幅約2m、高さ約 1.8mの玄室の内部が赤色顔料「ベンガラ」で赤く彩られている。酸化を防ぐために年2回のみ公開されるが、期間中はライトアップによって鮮やかな赤色が一面に広がる。
「宝珠古墳」(同市文殊)の出土品も展示する。


● 北上市国見山廃寺跡で完全な形の八稜鏡が出土(2006年10月19日)

 平安中期の大規模寺院跡である北上市稲瀬町の国史跡・国見山廃寺跡(くにみさんはいじあと)で、10世紀末から11世紀前半のものとみられる八稜鏡(はちりょうきょう)が完全な形で見つかった。
  同史跡では2003年にも八稜鏡が出土しているが、完全形での出土は初めて。八稜鏡は、直径10〜10.8cm、厚さ3〜4mmの八角形の銅鏡で裏面に鳥 や草の紋様が刻まれている。上部には小さな穴が2カ所あり、つり下げたり、くぎなどで打ち付けたりしていたとみられる。つり下げるなどの鏡としては国内最 古と見られる。
 また、廃寺跡の最も奥まった場所からは、建物の柱の土台となる礎石建物群も確認され、南向きに建立された鎮守社など他の建物跡との向きの違いや構造などから、寺が開かれた時に建立された廟(びょう)や堂の可能性があるという。


●佐賀・東名遺跡で日本最古の木製櫛出土(2006年10月19日)

 佐賀市金立町の東名(ひがしみょう)遺跡で、日本最古とみられる縄文時代早期(約7000年前)の木製櫛(くし)が見つかった。
 木製櫛は貝塚で発見され、長さ11.5cm、最大幅7.2cmで、形状から歯の部分が14本あったとみられるが、発見時は10本がほぼ完全に残っていた。
 長さ20cm前後の7本の植物のツルのようなものを直径2〜3mm程度に削って細くし、水につけるなどしてU字形に折り曲げ、繊維で束ねて作ったらしい。歯先には、腐敗防止のための焦がし跡を示す黒い変色が確認された。
 当時の櫛は、髪に差す装身具として使われており、歯の結束には漆や粘土が用いられるが、当時の九州地方には漆の木が自生しておらず、出土品は布のようなものが使われていたとみられる。
 年代は出土した地層から割り出されたもので、これまで、石川県の三引遺跡から1996年見つかった縄文時代前期(約6000年前)の木製櫛が最古とされてきたが、それを約1000年さかのぼるという。


● 文化財を触らずに記録できるスキャナー開発(2006年10月19日)

 壁画やびょうぶなどの大型絵画の文化財に触れることなく、精密な画像をデジタルデータとして記録できるスキャナーを、京都大のグループが開発した。
 スキャナーの大きさは高さ約2.5m、幅約1.2m、奥行き約1m。絵の手前約6cmの場所に光源を固定し、縦約1.6m、幅約1.6mもあるびょうぶ絵を1回のスキャンで、4分足らずで読む。
 現在、絵画の記録はカメラによる写真が主流だが、レンズの作用で画像にゆがみが生じたり、撮影角度により色合いに微妙な違いが出たりする問題がある。新開発のスキャナーは正確に垂直方向から光を照射するため、色を忠実に再現できるという。
 また、読み込んだ色のデータから、絵の具の材料を特定するプログラムも合わせて開発。色あせた作品の制作時の色を再現することも可能という。


● 平安京跡から謎の巨大池(2006年10月19日)

 京都市中京区壬生で、平安時代初期の池跡が見つかった。
  池跡が見つかったのは、平安京のメーン道路・朱雀大路に面した区域で、池跡は石を敷き詰めた洲浜が南北2カ所で確認された。いずれも下に粘土を敷き、石の 大きさをそろえた丁寧なつくりで、深さは最大約30cm。9世紀前半の平安京造営時の邸宅に設けられた庭園の池で、わき水を利用していたとみられる。
  池跡は中央部を東西に貫通する平安時代の「五条坊門小路」にあたる仏光寺通の部分が未調査のため全容は不明だが、北と南の池は構造が良く似ており、もし一 つの池だったとすれば、南北154mに及ぶ巨大な池だったことになり、五条坊門小路をまたぐ南北二町(約240m)以上の大邸宅があったことになる。

● 川崎・影向寺で豪族の館跡出土(2006年10月14日)

 川崎市宮前区野川の影向寺境内から、創建に携わった豪族の館のものとみられる柱の跡などの遺跡が見つかった。
 遺跡は、住居跡とみられる楕円形の柱穴(縦約1m、横約70cm)や、創建当初の講堂があった位置を示す柱穴四基(長さ約1.2m、幅約1m、深さ約 30cm)、当時の境内と外部を区切る北側の溝(幅約2.4m、深さ約9cm)などが発掘され、また、古墳時代や弥生時代の竪穴住居跡や、土器の破片、柱の基礎にしていたとみられる瓦の破片なども見つかった。
 影向寺は、南関東屈指の古刹で、当時の役所である橘樹郡衙(が)をつかさどっていた豪族が、当時先端だった仏教文化を取り入れるため住居敷地に創建したことが、今回の発掘で裏付けられた。奈良の大和朝廷とのつながりの深さや、豪族の力の大きさを示す重要な史跡という。


 ● 石川県県指定文化財に4件 審議会が答申(2006年10月13日)

 石川県文化財保護審議会は、七尾市海門寺の千手観音坐像など4件を県指定文化財に答申した。
 木造千手観音坐像は、平安時代後期の作。像内側の墨書から保元三年(1158)作と 判明しており、制作年代が分かる仏像では県内最古となる。大ぶりの頭部や幅広で低い膝高は安定感に富んでおり、衣文などの表現には鎌倉時代への過渡期の様相がみられる。


● 大阪・難波宮跡で万葉仮名の最古の木簡出土(2006年10月13日)

 大阪市中央区の難波宮跡で、7世紀中頃のものとみられる、日本最古の万葉仮名文が書かれた木簡が見つかった。
 出土した木簡は、長さ18.5cm、幅約2.65cm、厚さ5〜6.5mmで、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯■(■は判読不能)の12文字が墨で書かれていた。
 文字は「はるくさのはじめのとし」と読め、「春草の」は万葉集で枕詞として使われた句で、行政文書などでは使われないことや、五七調の調子から、和歌の冒頭部分だったとみられる。
 木簡は一緒に出土した土器や地層の状況から、大化の改新後に飛鳥京から遷都した前期難波宮の完成(652年)直前のものとみられる。
  これまで、万葉仮名文が書かれた古い木簡としては、古今和歌集の和歌の最初の五・七部分「奈尓波ツ尓作久矢己乃波奈(難波津(なにわづ)に咲くやこの 花)」が書かれた観音寺遺跡(徳島市)出土の木簡(689年以前)や、飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)出土の木簡(672〜686年ごろ)が知られていた が、一般に天武朝(673〜686年)以降に成立したとされていた万葉仮名文の成立が、今回の発見で20〜30年、さかのぼることになる。
 木簡は大阪歴史博物館(大阪市中央区)で14〜23日まで公開される。14、15日は入城無料。
 (写真右は、赤外線写真)


● 鹿児島で武人埴輪の頭部出土(2006年10月12日)

 鹿児島県大崎町横瀬の神領10号墳から5世紀の武人埴輪の頭部が出土した。
 見つかった埴輪は、高さ、直径とも約20cmで、ひさしのついた冑かぶとをかぶり、はっきりした目鼻立ちで、口には上下の歯に見立てて、石などを装飾的に差し込んだとみられる溝があった。
 胴体は見つかっていないが、全身を復元すると高さ70〜80cmになるという。霊的なものや外敵を防ぐ目的で古墳の周りに並べられたとみられる。
 同種の武人埴輪は6世紀に主に関東で作られているが、5世紀のものは全国でも珍しいという。
 埴輪は、鹿児島大学郡元キャンパス(鹿児島市)で10月17日から11月17日まで開かれる特別展「発掘!鹿児島の古墳時代」で公開される。


● 奈良・新沢千塚出土の器に白虎鮮やかに再現、(2006年10月6日)

 奈良県橿原市の新沢千塚126号墳(5世紀後半)で1963年に見つかった漆塗りの器に描かれた四神の一つ「白虎」の発掘当時の写真を、県立橿原考古学研究所付属博物館などが画像処理され、当時の色彩や描線が鮮やかによみがえった。


 白虎図は全長約10cmで顔は2cm。黒漆の下地の上に描かれており、器は木製で既に腐食し、表面に塗った漆の膜だけが残っていた。
 同博物館で10月7日から11月26日まで行われる秋季特別展「海を越えたはるかな交流―橿原の古墳と渡来人」で写真パネルにして展示される。

● 宇治市の広野遺跡で飛鳥時代以降の堀が見つかる(2006年10月6日)

 京都府宇治市広野町の広野遺跡の発掘調査で、飛鳥時代以降のものとみられる堀が見つかった、
 地中4mの2カ所で急な角度で削り込まれた深さ約2mの溝を確認され、出土した須恵器の形や大きさから、7世紀前半の飛鳥時代と推測されるという。
 堀が四角に曲がっていることから、当時の豪族の館を囲んだ堀の一部と見られ、北側を流れる三軒茶谷川と南側の名木川の合流地点の間に館が広がっていたとみられる。
 付近では、これまでに古墳から奈良時代の集落跡や7世紀末に建立された広野廃寺などが確認されている。


● 西大寺食堂院の全容が明らかに(2006年10月6日)

 奈良市西大寺本町の西大寺旧境内で、食堂院と見られる8世紀後半の建物跡が南北に並んで見つかった。
 確認された建物跡は3カ所で、伽藍の北東角にあたり、西大寺の財産を記録した「西大寺資財流記帳」(780年)と規模が一致し、これによると、北から倉庫の「甲双倉(こうならびぐら)」、調理場の「大炊殿」、盛り付けを行った「檜皮(ひわだ)殿」とみられる。
 大炊殿と檜皮殿は、それぞれ東西約27m、南北約15mで、両電を幅約5m、長さ約15mの渡り廊下で連結し、両殿の間に平城京では最大級の井戸(約2.3m四方)も見つかった。
  これまでの調査で檜皮殿の南に「食堂」とみられる建物跡、東側に食糧貯蔵用の須恵器を埋めた跡や料理の下ごしらえのための「東檜皮厨(くりや)」の基壇も 見つかっており、数百人いたとみられる僧侶の食事や供物を作ったとされる勅願寺にふさわしい壮大な施設だったことが裏付けられた。


●島根・山持遺跡で古代女性描く板出土(2006年10月6日)

 島根県出雲市の山持(ざんもち)遺跡で、中国風の服装をまとった女性像や吉祥天とみられる仏像を描いた8−9世紀初頭の板絵4枚が見つかった。
  板は幅約8cm、長さ約23〜65cm厚さ〇・五から一・四センチで、いずれも劣化して描線は不明瞭(めいりょう)で、赤外線撮影で調べたところ、絵は墨 で1枚に1体ずつあり、髷(まげ)を結って左右に髪を垂らし、袍(ほう)と呼ばれる詰め襟に似た丸い襟に筒袖、スカート状の裳をまとった女性の全身像や、 背後に頭光をつけた吉祥天と見られる像が描かれていた。
 平安時代初期以前の女性の全身像が見つかったのは高松塚古墳(奈良県明日香村)壁画に次ぎ2例目で、地方での仏教文化の広がりや当時の風俗を考える上で貴重な史料として注目される。
 板絵の用途については、何らかの祭祀に用いられたか、人物像の習い書きをした可能性などが考えられるとしている。
 県埋蔵文化財センターは8日から、出雲市里方町の発掘調査事務所で出土品を一般公開する。



● 大津・関津遺跡で「仲麻呂の乱」の舞台田原道の遺構確認(2006年10月5日)

大津市関津1丁目の関津遺跡で8世紀半ばから9世紀半ば(奈良時代−平安時代前期)にかけての大規模な道路跡が見つかった。   
 道幅は約18m、両側には幅約1〜3m、深さ10〜30cmの側溝があり、南北に約250m延びていた。都の大路に匹敵する大きさで、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764年)の舞台になったとされる田原道(たわらみち)の跡ではないかと見られる。
 田原道は、城陽市付近から京都府宇治田原町を抜け、瀬田川沿いを北上し、東国へ向かう道とされ、恵美押勝の乱の際、討伐軍が通ったと「続日本紀」に記されているが、田原道の遺構が確認されたのは初めて。
 道に沿うようにして約30棟の建物群が確認され、都の遺跡などから出土する龍(りゅう)のような形をした硯(すずり)1点や土器類なども見つかった。 


● バーミヤン遺跡で新たな壁画確認(2006年10月2日)

 アフガニスタン中部のバーミヤン遺跡で、7世紀前半の唐草模様とともに描かれた人間の上半身と猿の図柄の壁画が新たに確認された。
 今回の壁画は、同遺跡の保存・調査活動に当たる日本の独立行政法人文化財研究所のチームが発見しもので、旧政権タリバンが破壊した東西の大仏立像跡の間に位置し、今年7月の調査でペルシャ神話の霊獣「シームルグ」の壁画が確認された石窟「N窟」で見つかった。
  シームルグと同じく、天井の一部を区切る縦4cm、横46cmの梁を模した三角形の側面部分で確認された。左手を口元にかざす猿と、右手をかかげ猿と向き 合う人間の図柄が赤い背景に、錫(すず)を主成分とする金属箔で描かれていた。人面と猿はいずれも、下半身は唐草文に取り込まれてつながっていた。
 仏教美術としては類例のない特殊なもので、イランなど異なる複数の文化の混在を示すという。

● サムスン文化財団 盗掘遺物の舎利箱を懸燈寺に返還(2006年9月28日)

 韓国京畿道加平郡懸燈寺の舎利箱が、元の所在地である懸燈寺に戻ることになった。
 この舎利箱は、1981年にサムスン文化財団が購入し所有しているもので、銀でつくられた鉢、水晶でつくられた舎利壷と2つの舎利からなっている。舎利箱の表面には「懸燈寺」という文字とともに1470年に舎利鉢を制作した背景などが記録されている。
 その後、盗掘された遺物であることが明らかになり、ソウル西部地方裁判所の1審判決で、現在の所有者であるサムスン文化財団の「善意の取得」が認定され返還の必要がないとされていたが、サムスン文化財団は無条件で舎利箱を懸燈寺に返還することを明らかにした。


● 奈良・藤原宮の東第4堂跡発見(2006年9月28日)

 奈良県橿原市の藤原宮跡で、政務の中心だった朝堂院の東第四堂跡で建築開始後に建物規模を縮小した形跡が見つかった。
 朝堂院(南北約320m、東西235m)は、太政大臣や役人らが入る朝堂が東西対称に6棟ずつ計12棟並んでいた。東第四堂は確認された遺構としては5棟目で、身分秩序を管理した「治部省」として使われたと考えられている。
 東第四堂は礎石上に柱を立てた東西11.5m、南北63mの建物で、戦前の調査では柱穴の並びは5列だったが、今回の調査でさらに6列目の柱筋が確認された。建設途中に6列から5列に変更され、東西を約3m縮小したとみられる。
  朝堂院の建物のうち、大臣らが国政を審議した東第一堂は、中国式の豪華な土間でいすを使い、、大納言クラスの席がある第二堂や、一般の役人が詰める第三 堂、第四堂はむしろ敷きの床に座っていたとみられている。東第三堂でも規模を縮小した形跡が見つかっており、官位差を明確にするため、第三堂、第四堂を縮 小したと考えられるという。


● 鳥取・座光寺で「因幡薬師如来縁起絵巻」、貞信寺で古仏像公開(2000年9月26日)

 長野・善光寺の阿弥陀如来、京都・清涼寺の釈迦如来とともに、日本三如来の一つとされる京都市の平等寺(因幡薬師堂)の薬師如来像の由来を描いた絵巻物が鳥取市菖蒲の座光寺で公開される。
  この「因幡薬師如来縁起絵巻」は、天徳3年(959)に難病を患った因幡の国司・橘行平が、夢の中のお告げ通りに賀露の海にあった薬師如来を引き揚げ、の ちの座光寺にまつったところ完治。その後、京都へ帰った行平の後を追って薬師如来が飛んで来たため、因幡堂を建ててまつったことが描かれている。巻末の記 録から1697年に寺が京都の絵師に頼んで描かせたものといわれている。
 座光寺には、飛来した薬師像のものとされる台座残されており、同時に公開する。

 また、鳥取市福部町蔵見の貞信寺では、豊臣秀吉に焼かれたとされる仏像9体が公開される。
 豊臣秀吉が二上山城(岩美町岩常)を攻めた際、近くにあった薬師堂も焼かれ、損傷した仏像が、同寺の前身、湖江寺に保存されたという記録が寺に残っており、2000年に寺のお堂を建て替えた際にこれらの仏像が発見された。
 薬師如来像と考えられる長さ36cmの頭部と、像高1.2mから65cmまでの仏像八体。すべて顔などが分からない状態で、黒く焼け焦げたものや割れているものもあるという。
 一般公開は座光寺が10月4日から6日、貞信寺は10月9日から11日。


● バーミヤンで5〜6世紀の仏塔跡発見(2006年9月24日)

 アフガニスタン中部のバーミヤン遺跡で、五〜六世紀の「塔院」跡や、高さ3mはあったとみられる十体以上の立仏像のひざ下部分が発見された。
 塔院跡があったのは、旧タリバン政権が破壊した東大仏立像跡の東約100m付近で、中心部に主仏塔(ストゥーパ)の一部が残っており、この仏塔を囲むように、小型の仏塔(奉献ストゥーパ)や立仏像のひざ下部分が配置されていた。
  塔院は仏僧の礼拝などの場として使われていた施設で、一帯にあった大規模な仏教施設の一部と考えられ、付近では一連の調査で、今回の立仏像と別に大小三十 以上の仏頭も見つかっていることから、玄奘三蔵(三蔵法師)が『大唐西域記』の中で見たと記した幻の涅槃像が付近で見つかる可能性が出てきたという。

● 宇治・平等院で修理中の天蓋一般公開 (2006年9月20日)

 京都府宇治市の平等院で、修理中の鳳凰堂の天蓋(国宝)の一部垂板と吹返を平等院ミュージアム鳳翔館で公開している。
 天蓋は本尊阿弥陀如来坐像の頭上笠状の装飾で、花形の円蓋(えんがい)と、それを囲む箱形の方蓋(ほうがい)からなる日本唯一の二重天蓋とされ、本尊と同時期の制作。通常は本尊の頭上、地上6mの位置ににあるが、現在は修理中のため取り外されている。
 公開されるのは約5m四方の方蓋の一部で、方蓋の側面にはめ込まれた高さ90cmの24枚の内7枚と、方蓋の上部側面に庇状に伸びる吹返垂板。
 ともにヒノキ製で、極楽浄土に咲くという宝相華文を透かし彫りで表し、金箔が施されている。
 展示は12月11日まで。

 

● 木津の内田山古墳群で家形埴輪出土 (2006年9月20日)

京都府木津町木津内田山の内田山古墳群で、古墳時代中期前半(5世紀前半)の家形埴輪がほぼ完全な状態で出土した、
 家形埴輪は胴体部分が高さ約30cm、幅約30cm、奥行き約20cmの切妻型で、前面に入り口と窓とみられる穴がくりぬかれている。屋根部分には、雨水の浸入を防ぐために実際の建物に設けられる「押縁(おしぶち)」を表す線刻も施されている。
 この周溝からは完形のほか、半分ほど砕けたものや多量の埴輪片も見つかっており、家形埴輪は計5点に上るという。


● 天理大付属天理参考館で、天平時代の伎楽面発見 (2006年9月19日)

 奈良県天理市の天理大付属天理参考館で、奈良時代に東大寺で使われたとみられる古代の仮面劇「伎楽面」が見つかった。
 面は麻布と漆で作られた乾漆製で、高さ約30cm、幅約18cm。鼻や耳、あごの一部が欠け、彩色もはげているが、ぽってりとした唇や口ひげ、つり上がったまゆと目など怒ったような表情が生き生きと見て取れる。
 表情や馬の毛を髪の毛として張りつける特徴などから、酔っぱらって登場する胡(中国の西域)人の家臣「酔胡従(すいこじゅう)」の面だったらしい。
  同館は約40年前に個人から伎楽面の寄贈を受けていたが、今回調査したところ、江戸時代後期に松平定信が編纂した「集古十種(しゅうこじっしゅ)」に、東 大寺所蔵として図入りで掲載されており、確認したところ損傷個所や特徴が全く同じだった。明治時代以降、何らかの理由で東大寺から流出した可能性が高いと いう。
 伎楽面は正倉院に171点、東大寺にも36点伝わっているが、新たに見つかるのは珍しいという。9月20日から12月4日まで同館で開催中の特別展「正倉院宝物のルーツと展開」で公開する。


● 湖東三山で初の本尊同時公開にぎわう(2006年9月18日)

 滋賀県愛荘町の金剛輪寺、甲良町の西明寺、東近江市の百済寺の湖東三山で、天台宗の開宗1200年を記念した秘仏の本尊の一斉公開が始まり、大勢の人が訪れた。
 百済寺は55年ぶりに十一面観世音菩薩像を、西明寺は52年ぶりに薬師瑠璃光如来像(重文)を、金剛輪寺は6年ぶりに聖観世音菩薩像(重文)をそれぞれ公開した。
 公開は10月27日まで行われる。

● 渡岸寺・十一面観音像、新築の収蔵庫へ(2006年9月17日)

 滋賀県高月町渡岸寺の渡岸寺観音堂で国宝十一面観音像が新築した収蔵庫に移された。
 本像は1972年に本堂にから旧収蔵庫に移されていたが、老朽化が進んだことや手狭になったため、新たに建て直していた。
  新収蔵庫は国や県の補助を受けて昨年9月から建設。広さは約120平方メートル。建物は耐火耐震構造で、十一面観音像を載せる台座には、震度7の揺れを震 度3程度に軽減する免震装置を設けた。また、内壁などにはキリ材を用い、外気が直接入らないように二重扉にするなど、万全の保存環境を維持したという。


● 鎌倉・長谷寺「アジサイの道」無断で拡幅(2006年9月16日)

 神奈川県鎌倉市の長谷寺(長谷観音)が、裏山の道を無許可で拡幅・整備した疑いがあるとして、県が調査を始めた。
 長谷寺では、2002年ごろから、アジサイを周囲に植えて、斜面を眺望散策路に拡幅整備しており、現在は長さ約200m、幅1〜2mにわたって石段やウッドチップが敷かれている。
長 谷寺は、古都保存法に基づく「歴史的風土特別保存地区」、県条例に基づく「風致地区」に指定されており、土地を造成したり、工作物を新・増改築したりする 場合に必要な知事の許可等を受けなかった疑いがあるという。県は市と連携して寺関係者から事情を聴いており、元通りにするよう求める可能性もあるという。


● 重源の遺徳しのび没後800年法要30日から(2006年9月16日)

 奈良市雑司町の東大寺は、鎌倉時代に同寺の再建に尽くした重源上人の没後800年法要について関連行事を発表した。

9月30日(土)

 「西日本バンドフェスティバル・たそがれコンサート」大仏殿中門前


10月1日(日)

 「西日本バンドフェスティバル・ルシャナ奏楽」鏡池舞楽台

10月5日(木)

  
 俊乗堂扁額除幕式(俊乗堂)
  
 放生会(大仏殿前鏡池)


10月13日(金)

  
 南大門扁額除幕式
  
 蜂起之儀
  
 盧舎那仏燃灯供養
10月14日(土)
 臨済宗大本山建仁寺厳修「重源上人800年御遠忌法要」
  
 高野山真言宗総本山金剛峯寺厳修
「重源上人800年御遠忌・理趣三昧法会」
 東京スカパラダイスオーケストラin 東大寺

10月15日(日)
 華厳宗大本山東大寺厳修「舞楽法要」
  
 鶴岡八幡宮執行
「重源上人800年御遠忌顕彰祭」

 東大寺慶讃能
 鏡池舞楽台
10月16日(月)
 真言宗醍醐派本山醍醐寺厳修
 「重源上人念仏法要」
  
 華厳宗大本山東大寺厳修
 「法華経講讃舞楽法要」

10月19日(木)
 PUFFY in 奈良東大寺
 大仏殿特設舞台
10月21日(土)
 東大寺現代仏教講演会
   
 「東大寺の建築大仏様」
伊藤延男氏(神戸芸術工科大学名誉教授)
 「重源上人の人となり」

筒井寛秀師(東大寺長老)  
 谷村新司 NATURE LIVE〜夢人ユメジン〜 in  東大寺 with 千住 明
 大仏殿特設舞台
10月12日〜21日(国宝)重源上人坐像開扉
俊乗堂


● 滋賀・百済寺毘沙門天像から室町時代の古文書(2006年9月15日)

 東近江市百済寺町の百済寺本堂内に安置されている毘沙門天像(像高約100cm)の胎内から室町時代の古文書が見つかった
 百済寺では、天台宗開祖1200年記念のご開帳(9月18日〜10月27日)に際し、本堂内の仏像や荘厳具などを市教委と共同調査し、毘沙門天像の胎内から筒状の古文書を発見した。
 古文書は、縦26.6cm、横46cmで、室町中期の永正9年(1512)に記されたもので、文亀3年(1503)の戦乱で百済寺の曼荼羅院が焼け多くの仏像が焼失し、毘沙門天像は大津市坂本の大仏所で、仏師の源康法眼父子によって造られたことが記されている。
 これまで百済寺では織田信長の焼き討ちや火災などが度重なり、難を逃れたのは本尊の十一面観音像のみとされ、他の仏像などは江戸時代以降の作品とみられていた。
 本尊のご開帳に併せて毘沙門天像も拝観できる。


● 高松塚石室34年ぶり公開 黒ずみ劣化進む(2006年9月15日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳1972年の壁画発見以来、34年ぶりに石室内が報道各社に公開された。
 10月から石室解体に向けた作業が本格化するのを前に、解体前の最後の姿が公開され、記者ら約10人が防護服を着用し、カメラなどの機材を消毒した上で、石室南壁に開いた盗掘坑から内部を観察した。   
 カビなどによる被害を繰り返し受け、壁画を含めた石室全体が黒ずんだ印象。四神図「白虎」は輪郭がほとんど消えて、描かれた位置すら確認できず、危機にある壁画の深刻な状況があらためて浮き彫りになった。
  文化庁が公表した最新の精密画像によると、白虎図は輪郭や胴体のしま模様、口を大きく開けた顔など勇猛な姿がほとんど消えていた。鮮やかな緑色の胴体と 真っ赤な長い舌が印象的だった東壁の青竜も全体が薄れた状態。額にある2本の角は消えかかり、1本はほとんど見えなかった。
 「飛鳥美人」と呼ばれる東壁と西壁の女子群像では最近、顔などに黒カビが広がっていることが相次ぎ判明。特に東壁の女子群像は劣化が激しく、発見当初と今回の画像を比較すると、ふっくらとした顔の輪郭や目鼻立ち、上衣の合わせ目が分からなくなっていた。

● 「平泉」を世界遺産に推薦(2006年9月14日)

中尊寺などから成る「平泉ム浄土思想を基調とする文化的景観」をユネスコの世界遺産(文化遺産)に推薦することが正式に決まった。
 来年1月にユネスコ世界遺産センターに推薦書を提出し、平成20年7月ごろ開かれる第32回世界遺産委員会で決まる。
 平泉は12世紀に奥州藤原氏が仏教的な理念に基づいて造った中尊寺や毛越寺、無量光院跡などで構成され、面積は周辺地域も含めると約8800ヘクタール。
 国内の世界遺産は「法隆寺地域の仏教建造物」など10件の文化遺産と、「屋久島」など3件の自然遺産が登録されている。平泉のほか、石見銀山遺跡も今年1月に登録推薦書を世界遺産センターに提出している。

● 高松塚壁画女子群像周辺7カ所に黒い染み(2006年9月14日)

 文化庁は、明日香村平田の特別史跡高松塚古墳の石室東壁に描かれた女子群像周辺7カ所に、カビとみられる黒い染みを確認したと発表した。
7カ所のうち5カ所が壁画の上にかかり、女子群像中央に位置する女性の顔の右ほほ付近に縦約2cm、横約3cmの範囲に黒い染みが発生。このほか、右側に立つ女性の着物すそや左肩などに直径約2〜3mmの同様の黒い染みが広がっていたという。


●    キトラ古墳定期点検で東壁などにカビ(2006年9月12日)

  文化庁は8日に実施した明日香村阿部山のキトラ古墳の定期点検で、東壁南側上部の余白部分に横約5cm、縦約2cmの範囲で黒い粒状のカビらしきものが無 数に点在しているのを確認。また北壁中央の天井との境界部分にも横約15cm、縦約1cmの帯状の範囲で黒いカビらしきものが確認されたという。


● 平城京跡で唐三彩発見-藤原仲麻呂の屋敷地か(2006年9月9日)

 奈良市大安寺西一丁目の平城京左京五条二坊で平成13年に出土した陶器片が、中国・唐から伝わった「唐三彩」とみられることが分かった。
 県立図書情報館の建設に伴う調査で、井戸脇の窪みから土器と一緒に透明感のある釉薬がかけられ一辺約1cmの陶器片が出土した。
調査地は奈良時代に権力を誇った藤原仲麻呂(恵美押勝)の屋敷地とする説があり、補強材料の一つとなりそうだ。

● 千葉・那古寺で奈良時代の観音経写経発見(2006年9月6日) 

 千葉県館山市の那古寺で、奈良時代に書き写された観音経の写経が見つかった。
 観音経は奈良期に浸透していたとされる観音信仰の中心教典。しかし、当時の写経は、奈良の唐招提寺のものなど数点しか知られていない。唐招提寺のものが一部分なのに対し、今回の写経は全文が完全な形で残っており、その点でも価値が高いという。
 写経は16日から館山市立博物館で公開される。

● 滋賀県内製鉄遺跡からの鉄滓を文鎮に加工(2006年9月4日)  

  滋賀県教委が、県内の製鉄遺跡から出土している鉄鉱石のかす「鉄滓(てっさい)」を、文鎮に加工する試みを始めている。
 鉄滓は、古墳時代以降の各地に製鉄所跡から見つかっているが、滋賀県は平安時代には全国トップクラスの製鉄地帯だったとみられている。発掘を行うたびに、毎回50トン以上の大量の鉄滓が出ており、保管場所の確保が課題になりつつある。
 文鎮に加工する案は、大量に出てくる鉄滓の保管場所の確保も狙い、有効活用の一環で発案した。加工した文鎮は文化財関連講座などの出席者にプレゼントしているが人気も上々。
 今後も文鎮を作っていくほか、文鎮以外にもアイデアをひねり出していくという



● 「美術院」100周年 東大寺で法要(2006年9月3日)

 岡倉天心(1862〜1913)の提唱で1906(明治39)年にできた日本美術院第二部(現・財団法人美術院)の創立100周年を記念する法要が2日、発祥の地である奈良市の東大寺で営まれた。
  日本美術院は、前年制定の古社寺保存法をうけて新しい美術作品の制作と古美術の修理の場として天心が創設。第二部は東大寺の勧学院内に事務所を置き、その 後「美術院」に改称、拠点が京都に移った。しかし活躍は全国に及び、東大寺南大門の仁王像解体修理(1989〜93年)を始めとする国宝・重文などの修理 を多数手がけてきた。
 2日は天心の命日にあたり、毎年ゆかりの寺で法要を営んでいたが、今年は、100周年の節目で、美術院の故地ともいえる東大寺で行われた。
「世界遺産高句麗壁画古墳展」「世界遺産高句麗壁画古墳展」
 西川杏太郎理事長は「今後も堅実な仕事を続けたい」と話していた。

● 遺跡の石器片がヤフーのオークションに出品( 2006年9月3日)

 インターネットの競売サイト「ヤフーオークション」に、国指定の遺跡の石器片や土器片と銘打たれた品が出品されたことが分かった。
  出品リストには、「国指定高山城跡の遺物(石器・成川式土器・焼き物)」「薩摩神之市遺跡の出土品(時代層別・土器・石器)」「堅田集落の出土品(成川式 土器・弥生式土器・流出品)」など大隅半島の遺跡からの出土品とあり、事実であれば届け出を定めている文化財保護法違反にあたる恐れがある。
また、同じ人物から出品された「国指定塚崎古墳の遺物(前方後円墳・石器・石棺・焼き物)」とされる品は、既に8月27日に920円で落札されたという。
 県文化財課は、ヤフーに削除および中止をメールで申し入れ、3日に他の出品を含めてリストから外された。

● 京都・大原野が長岡京北西限(2006年9月2日)

 京都市西京区大原野で、長岡京期の邸宅とみられる建物跡が見つかった。
 建物跡は、一辺40〜60cmの方形の柱穴が1.8m間隔で南北に平行して並んでおり、掘っ立て柱跡とみられる。長岡京西限の西京極大路推定地からは、わずか約30メートル東の位置だった。


● 唐招提寺金堂の最大の改修は江戸時代(2006年9月2日)

 奈良市西の京の唐招提寺で、金堂は江戸時代に建物の骨組み全体が組み替えられ、大規模な改修が行われていたことがわかった。
  これまで金堂は鎌倉、江戸、明治時代にそれぞれ大掛かりな改修工事が行われたとみられていた。しかし、部材に残る改修の痕跡や発掘成果などから、鎌倉時代 の改修は須弥壇など、本尊周辺の造り替えにとどまっていたことが判明。これに対し、江戸時代の改修では建物の骨組み全体が組み替えられ、屋根が約3メート ル高くなるなど大規模で、現在の外観はその時の改修によってほぼ整えられたことが分かった。



● 正花寺の重文・菩薩立像、東京で公開 (2006年9月1日)

  香川県高松市西山崎町の正花寺・菩薩立像が今秋、東京・上野の東京国立博物館で開催される特別展「仏像 一木にこめられた祈り」で公開されることになり、輸送作業が行われた。
 同立像は、天平時代の作で、奈良・唐招提寺の伝衆宝王菩薩立像とうり二つの像として知られており、研究者や愛好者の注目を集めている。素材は従来、ヒノキとされてきたが、近年の科学的調査でカヤ材であることが判明している。
 長く門外不出とされてきたが戦後、ヨーロッパ三カ国で半年間、特別公開。国内でも三度公開され、東京での公開は1971年以来となる。


● 渡岸寺の国宝十一面観音立像収蔵庫完成(2006年8月19日)

 滋賀県高月町の渡岸寺観音堂の国宝十一面観音立像の新収蔵庫が完成した。
 観音像は、9月16日に収蔵庫へ移し一般公開を再開する。10月22日に落慶法要が行われるが、観音像は11月初旬から約1カ月間、東京国立博物館での展示を予定している。



● 高槻・闘鶏山古墳で石室の内部画像を公開(2006年8月30日)

 大阪府高槻市の闘鶏(つげ)山古墳で、石室2基の内部の画像が公開された。
 闘鶏山古墳は、全長約85mの前方後円墳。2002年2月に未盗掘の竪穴式石室2基が見つかったが、内部の詳細が不明で、今年3月に改めてデジタルカメラを石室内に入れ内部を撮影した。
 この結果、 石室内には、魔よけや長寿の薬とされた朱を一面に塗った石室全体がほぼ完全な状態で残っていることが判明し、うち1基から三角縁神獣鏡2枚や鉄刀などさまざまな副葬品14点と被葬者の頭蓋骨が確認された。
 また、一方の石室では、琴柱(ことじ)形や紡錘車形の石製品や、奄美諸島以南に生息する巻き貝のゴホウラ、冑(かぶと)とみられる鉄製品などの副葬品が見つかった。
 三角縁神獣鏡2面のうち、1面は京都府山城町・椿井大塚山古墳出土のものと同じ鋳型で作られものと判明した。


● 福島・慧日寺で金堂復元へ工事に着手(2006年8月2日) 

 福島県磐梯町の国指定史跡慧日寺(えにちじ)跡で、金堂復元工事の起工式が行われた。
 慧日寺は大同年間(806〜810)に法相宗の高僧徳一が磐梯山ろくに開いた山岳寺院で、最盛期には一帯に3800余りの堂塔を数えたとされる。戦国時代、伊達政宗の会津侵攻などで完全に焼失したとされ、明治時代の廃仏毀釈によって廃寺になった。
 2008年3月の完成を目指している。


● 九州国立博物館で重文の仏像修理場公開(2006年8月29日)

 福岡県太宰府市の九州国立博物館で、国の重要文化財指定の仏像など木の修復作業を公開した。
今まで、国宝、重文などの貴重な文化財の修復は、財団法人美術院によって、主に京都と奈良で行われているが、今回、九州における修復の拠点として九博に修復作業室が設けられ、同じく美術院が修復事業に当たる。
  現在、奈多宮(大分県杵築市)所有の国指定重文「僧形八幡神坐像」「女神坐像(2体)」のほか、小武寺(おたけじ)(同)所有の同「倶利迦羅竜剣(くりか らりゅうけん)」の修復作業が行われており、今後も、峯高寺(ほうこうじ)(福岡県みやこ町)の阿弥陀如来坐像(県文)の修復も行う予定。


●  瑞巌寺本堂創建以来初めて大改修(2006年8月29日)

 宮城県松島町の瑞巌寺が、国宝本堂の解体修理を行う。
  本堂は、伊達政宗が1609年に創建して桃山建築の代表的寺院として国宝に指定されている。2003年に相次いで起きた三陸南地震と宮城県連続地震で壁に 亀裂が入るなどの被害が発生し、建物にゆがみがあることなどが判明した。2009年には創建400年を迎えることもあり、修理は2008年度からは約10 年間かけて行われ、創建以来初の大改修となる。

● 奈良・唐招提寺
金堂扉 金具下に文様天平の極彩色(2006年8月24日)

 奈良市西の京の唐招提寺で解体修理中の金堂(国宝)の正面扉から、8世紀後半の創建当初のものとみられる極彩色の宝相華文の彩色文様が鮮やかに残されているのが見つかった。
 文様は、金堂正面に5組10枚ある扉板(高さ4.4m、幅1.1〜1.4m)の東端と西端の計3枚の金具の下から見つかった。文様は最大横20cm、縦12cmで、外気にさらされなかったために色彩がほぼ保たれている。
 彩色にはには、ベンガラ(赤)、緑青(緑)、鉛丹(橙)などの顔料が使われたとみられ、立体感を生み出すために色に濃淡をつける繧繝(うんげん)彩色法がみられるなど、当時の技法を駆使。
また、すべての扉板上部の江戸時代に描かれた文様の下から、直径約70cmの円形にまとめられた2種類の宝相華文の痕跡も見つかり、扉全面に交互に描かれていたらしい。文様は堂内に安置されていた薬師如来立像の光背の文様などとも一致するという。
 古代建築の扉の外部に彩色文様が残る例はなく、華やかな天平文化に彩られた金堂の姿をうかがわせる貴重な資料になりそうだ。
 


● キトラ古墳で天文図柳宿など5カ所にカビ (2006年8月22日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳の石室内に描かれた天井天文図柳宿(りゅうしゅく)など計5カ所に黒い粒状のカビらしきものが見つかった。
 黒い粒状のカビらしきものは、18日に実施された定期点検で確認され、柳宿付近の赤道そばの縦約3cm、横約2cmの範囲と、八穀(はっこく)、紫微垣(しびえん)、奎宿(けいしゅく)のそれぞれ余白部分に発生していたという。


● 鳥取・三仏寺の「投入堂」90年ぶり修理(2006年8月21日)

 開山1300年を迎えた鳥取県三朝町の三徳山三仏寺で、平安時代後期の建造物とされる国宝「投入堂」が約90年ぶりに修理された。
 投入堂は三徳山(900メートル)中腹にある標高約500メートルの絶壁に、引っ掛かるように建っている。
 1914〜16年に一度解体修理されているが、岩のすき間からにじみ出す雪解け水などで檜皮ぶきの屋根が黒く腐食したために、一部をはがしてふき替えることになり、真新しい茶色のヒノキの皮を重ね、竹くぎで屋根に打ち付けられた。
 絶壁での工事だけに、屋根修理だけなら約二週間で終わるのに、足場建設や材料運搬などを含め計約4カ月半かかり、8月中旬に完了した。

● 壁画のない部分12カ所でカビ-キトラ古墳定期点検  (2006年8月24日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、定期点検の結果、石室内東壁中央の余白部分に直径約1〜5mmの緑綿状のカビらしきものを3カ所確認。北壁中央下部や南壁西側の粘土上など計12カ所で、最大で横約1cm、縦約5cmの白い綿状のカビらしいものが確認された。

● 「樺崎寺跡」を自費出版 発掘成果、伝説などを収録(2006年8月20日)

 栃木県足利市の文化財保護課長などを務めた長太三さんが、「史跡 樺崎寺跡」を自費出版した。
 樺崎寺(法界寺)は鎌倉時代初頭、源性足利氏の二代目足利義兼によって創建されたと伝えられる、市内では鑁阿寺と並ぶ中世寺院で、昭和59年から発掘調査が行われており、平成13年に国の史跡に指定された。
 長さんは祖父が樺崎町出身で、また自身が文化財保護課長当時、樺崎寺跡の発掘調査に関係したこともあって、樺崎寺跡に興味を持って研究を続け、古希を記念してまとめ上げた。これまで市が実施した発掘調査の成果や地元に伝わる伝説や伝承をまとめた。
 「史跡 樺崎寺跡」はA5判、127ページ。「まぼろしの樺崎寺」「眠りからさめた樺崎寺」など大きく九項目で構成されている。


● 網干善教氏の遺骨、発掘調査の「祇園精舎跡」に分骨(2006年8月20日)
 先月29日に78歳で亡くなった関西大名誉教授、網干善教(あぼし・よしのり)氏の遺骨の一部が、網干氏が発掘調査したインドの仏教遺跡「祇園精舎跡」に分骨されることになった。
 網干氏は奈良県明日香村の高松塚古墳壁画を発見したことで知られるが、僧籍を持ち、生前は「仏教の源流を突きとめたい」と1986年から3年間、日印共同学術調査団の日本側責任者としてインド北部の仏教遺跡の発掘にあたり、祇園精舎の場所を確定する成果を残した。

● 太宰府政庁跡を大規模発掘調査 (2006年8月19日)

 福岡県太宰府市の太宰府政庁を中心とした太宰府条坊の大規模な発掘調査行われている。
 調査は、西鉄二日市駅の操車場跡の再開発に先立ち、約2万m2の規模で昨年4月から6ヶ年計画で行われている。
 条坊の解明は20年前から行われており、条坊の東端、南端などは明らかになっているが、全体の正確な位置などは不明な点が多い。
 現在までに約半分の発掘を終えており、86m間隔の道路跡と奈良時代から平安時代後期までの15棟の建物跡が出土しており、ほぼ90m間隔で設けられたとされる街造りの様子が裏付けられている。
 年内には、現地説明会を開き、中間報告を行うという。

● 守山・弘前遺跡で井戸枠に転用された丸木船を出土(2006年8月18日)

 滋賀県守山市赤野井、矢島両町のる弘前(こうまえ)遺跡で、丸木舟を再利用した円形の井戸枠のある古墳時代後期の井戸跡が見つかった。
  井戸枠は直径約0.6m、深さ約1.6m。断面がU字型の2枚を含む計6枚の木材を、筒状に組み合わせていた。U字型木材の先がすぼんでいることなどか ら、1隻の丸木舟の船首と船尾に近い部分を利用したとみている。転用されたと見られる舟の全長は推定5〜6m。U字型木材の内側の側面には左右対称のくぼ みや穴があった。手すりの棒やしきりの板などを渡したとみられ、琵琶湖で交通や物資運搬などに使用した舟が使えなくなり転用したとみられる。

● 桃山時代の金箔瓦の破片出土(2006年8月18日)

 京都市中京区で桃山時代の金箔瓦の破片が見つかった。
 金箔はほとんど失われていたが、表面にかすかに残る金粉が残されていた。
  同じ穴から茶の湯などで使われた桃山期の陶器や生活で用いられたとみられる木製品が大量に見つかり、当時三条通沿いに並んでいた陶器店のものとみられる。 金箔瓦を葺いた建物が周辺にあったとは考え難く、豊臣秀吉の聚楽第が破却された後、拾ってきて陶器店が珍重したのではないかと考えられるという。

● 亀岡の国分古墳群で八角墳発見(2006年8月17日)

 京都府亀岡市千歳町の国分古墳群で、地元の有力者を埋葬したとみられる飛鳥時代中期の八角形の古墳(八角墳)が見つかった。
 発見された八角墳は半分ほどが欠損していたが、縦、横約15mと推定され、全長9.1mの横穴式石室があった。遺体を安置する玄室からは、銀装を施した鉄刀や木棺に使われたくぎなどが出土した。
 八角墳は、これまでに全国で14例確認されているが、府内では天智天皇陵のみで、地方の氏族が築いた小規模古墳が群集する中で発見されるのは珍しく、埋葬者が大王家と親密な関係にあったことがうかがえるという。

● 唐招提寺で金堂扉絵の保存処理開始  (2006年8月11日)

 奈良市五条町の唐招提寺で、解体修理中の金堂に描かれた扉絵の保存処理が始まった。
 扉板は金堂の正面に10枚あり、2種類の花の彩色文様が描かれている。内側は朱塗り。花文様は顔料のはく落が激しく、図柄がほとんど判別できなくなっているが、元禄6(1693)年の修理で描き直された可能性が強いとされる。

● 五條の荒坂瓦窯群遺跡で新たに窯跡2基発見 (2006年8月11日)

 奈良県五條市西河内町の荒坂瓦窯群遺跡で、新たに窯跡2基などが見つかった。
  荒坂瓦窯群遺跡は金剛山の南東麓、関屋川沿いの丘陵地帯に位置する遺跡で、昭和8年の調査以来、これまでに12基の窯跡や瓦工人らの住居とみられる建物跡 が見つかっている。出土した瓦の様式などから、7世紀後半の天武朝に造営された奈良県明日香村の川原寺の創建瓦などを生産した瓦窯群地と見られている。

● 藤原定家写本の「俊頼髄脳」 冷泉家で発見(2006年8月10日)

 京都市上京区の冷泉家で平安後期の歌学書「俊頼髄脳(としよりずいのう)」を、鎌倉前期の歌人藤原定家(1162〜1241)が写した写本が見つかった。
 見つかった写本は、縦16.5cm、横15.9cm、486ページで、巻頭と奥書は定家の直筆、本文は側近の筆と見られ、定家による訂正の跡があった。
 「俊頼髄脳」は金葉和歌集を選んだ歌人源俊頼が、鳥羽天皇の后となった関白藤原忠実の娘泰子に献上したもので、和歌にまつわる故事や伝承を記し、代表的な歌学書として広く読まれた。これまで、江戸中期の写本しか残っておらず、今回の発見されたものが最古の写本になる。


● キトラの朱雀に白い粒 粘性の物質変化か(2006年8月7日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳石室で、南壁の四神図「朱雀(すざく)」の尾羽に、ねばねばした白い粒状の物質が多数確認された。
  文化庁によると、確認した粒は直径1mmで縦6cm、横17cmの範囲に密集していた。昨年7〜8月にも同じ場所で、バクテリアとカビの混合物とみられる 薄い膜のような粘性物質が発生していたが、除去を繰り返すと壁画を傷つける恐れがあるとして、除去しておらず、これが変化した可能性があるという。文化庁 はサンプルを採取、物質を特定し原因を調べる。


● 長崎県の海岸に仏像が漂着(2006年8月3日)

 長崎県天草郡苓北町の四季咲岬付近の海岸で木製の仏像が見つかり天草署に届けられた。
 この像は、高さ約60cmの菩薩坐像で、今年7月24日に海岸の漂着物を調査していた同町職員が見つけた。一木造で髪形から菩薩坐像とみられるが、両腕が折れており、詳しい尊名は分からない。貝殻も付着しており、長期間漂流していたらしい。
 問い合わせは天草署会計課(0969-24-0110)まで。


● 書籍や文化財、Wikipediaを横断検索できるサイトを公開(2006年7月28日)

 国立情報学研究所(NII)は、単語や文章をキーにして、書籍データベースや文化遺産データベース、Wikipediaなどを横断検索できる検索サービス「想−IMAGINE Book Search」
http://imagine.bookmap.info/imagine)を公開した。
 文章をキーに検索できる検索エンジン「GETA」を活用した。複数のデータベースを横断的に検索でき、結果はソースごとに並べて表示する。検索結果をキーにして、絞り込み検索することもできる。
 検索対象は、書籍データベース「Webcat Plus」、新書データベース「新書マップ」、Wikipedia日本語版、古書データベース「Book Town じんぼう」、文化財データベース「文化遺産オンライン」、書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」。
 運営は、NPO法人・連想出版が行い、今後、報道写真や学術情報、闘病記ブックガイド「闘病記ライブラリー」など、検索対象を順次増やし、また商用コンテンツを検索対象に加えることも検討している。


● 高野長英の肖像画を破損(2006年5月22日)

 岩手県奥州市の高野長英記念館が所蔵している国の重要文化財、高野長英の肖像画が職員の不注意から破損していたことがわかった。
  破損したのは椿椿山が描いた国の重要文化財・高野長英の肖像画で、羽織りの左襟の部分が直径およそ3mmほど破れ、裏打ち紙が露出している。破損したのは 去年の8月19日で、特別貸し出しのため高野長英記念館から肖像画を持ち出す際、職員が壁に小さい釘が突き出ているのに気づかず壁に肖像画を強く押しつけ ながら巻き上げたことが原因と見られている。
 この肖像画は縦106.7cm、横42cmの絹布に描かれたもので、後藤新平が明治時代に愛知県内で発見入手し、1972年に後藤家から旧水沢市に寄贈され、高野長英記念館で管理している。

● 平城京、九条大路より南で溝跡出土 (2006年8月4日)

 奈良県大和郡山市藺町で、平城京内と同じ規格の溝が見つかり、平城京の区域が従来の想定よりも南に広がっていた可能性が高くなった。
  平城京の正門である羅城門の南西で7月、九条大路から約200m南の地点を発掘したところ、幅約70cm、深さ約20cmの溝が南北に8m以上延びている のが見つかった。昨年、左京南端付近の下三橋遺跡でも道路跡が見つかり、平城京の区域が従来の想定よりも南に広がっていたことが判明しているが、右京も南 に拡大する可能性が高くなった。


● 高松塚壁画の発見者・網干善教教授が死去(2006年7月29日)

 奈良県明日香村、高松塚古墳の極彩色壁画を発見、調査した、網干善教関西大名誉教授が死去された。
  専門は考古学、古代史、仏教史で奈良県明日香村出身。1972年に高松塚古墳を発掘中に極彩色壁画を発見し、空前の古代史ブームを巻き起こすきっかけをつ くった。また、インドで祇園精舎跡や近傍の都市遺跡、舎衛城の発掘活動などを行い、仏教考古学、北インドの考古学研究にも多大な功績を残した。
 高松塚古墳の石室解体保存に関しては、文化庁による管理体制の不備、官僚的な事後対策を糾弾し、考古学者の立場から遺跡の破壊する行為であるとして一貫して反対の姿勢を貫いていた。

(所感)
 私が中学生の頃、明日香の板葺宮跡を訪ねた時、発掘作業中のおじさん(網干教授だった!)が現地を説明しながら、「手弁当で汗水垂らして発掘調査を行っても、教科書には一行載るだけです」としみじみと語っておられた姿が眼に浮かぶ。ご冥福をお祈りします。

● 高松塚古墳の石室、南西に傾く 3D計測で判明(2006年7月27日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室が南西に傾いていることが、レーザーを使った3次元計測で判明した。
  奈良文化財研究所が石室の現状を知るために昨年12月、石室床面の2カ所にレーザースキャナーを設置し、約147万ポイントのデータを採取、解析した。そ の結果、南西角の床が北東角より6.5cm低く、1.6度傾斜していた。天井も南西角が北東角より7.9cm低く、四方の壁が少しずつ傾くなど、石室が反 時計回りにねじれていることが分かった。
 変形の原因は、地震などの影響とみられるが、来年春には石室の解体が予定されており、傾いた石壁に負荷がかからない方法を検討する必要が出てきた。(写真の赤い線が基準線で、手前-南-に傾いていることがわかる)


● バーミヤンで7世紀ごろの図像発見(2006年7月25日)

  アフガニスタンの世界遺産、バーミヤン遺跡で石窟内から、獅子や犬、クジャクなどを合成した想像上の動物「シームルグ」を描いた7世紀ごろの図像が発見された。
  文化財研究所が先月から今月にかけて、タリバンに爆破された西大仏から約300m東にある石窟で壁画の洗浄作業を実施した結果、それまで住民が石窟内で煮 炊きした際に出たススなどでほとんど見えない状態だったが、シームルグのほか、色鮮やかなだいだい色の法衣をまとった仏画、インド風の唐草文様などが姿を 現した。
 シームルグは古代ペルシャの国教ゾロアスター教の教典に記載された動物であるが、シルクロードの要衝だったバーミヤン遺跡ではこれま で、ゾロアスター教徒の墓とみられる遺構が出土するなど、仏教国でありながらペルシャや中央アジアの影響が見つかっており、今回の発見もそれを裏付けるも のと考えられる。


● 高松塚古墳石室解体後に墳丘埋め戻し(2006年7月24日)

  奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画保存問題で、文化庁の恒久保存対策検討会は、石室の解体後、壁画を修復する間の約10年間について、墳丘内の石室のあった場所を土で埋め戻したままの状態にする整備方針を決めた。
 石室は来年3〜4月に解体され、埋め戻し作業は来年度内に終える予定という。
 古墳南側にある壁画保存のための空調施設も撤去するため、墳丘は1972年の発掘前の姿に戻ることになる。

● 藤原氏の史跡「平泉」を世界遺産に推薦(2006年7月21日)

 中尊寺金色堂などの文化遺産で知られている岩手県の平泉(岩手県平泉町、奥州市、一関市)が「平泉−浄土思想に関連する文化的景観」として、世界遺産条約の「文化遺産」に推薦されることになった。
 平泉は11世紀末〜12世紀にかけ、奥州藤原氏が金資源や交易などを背景に造営した政治・行政の拠点で、四代で滅亡したが、開発による大きな影響を受けておらず、多くの遺跡が地下に良好な状態で保存されている。
 対象地域は、藤原氏三代の遺体などを納めた中尊寺、浄土庭園で知られる無量光院跡、同氏の政庁跡と考えられる柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡、金鶏山などで、国宝1件、重要文化財5件、特別史跡3件、史跡4件、特別名勝1件、名勝1件、重要文化的景観1件が含まれる。
 文化庁は来年2月1日までに国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出。評価機関の国際記念物遺跡会議による審査の後、2008年のユネスコ世界遺産委員会で登録が決まる。日本政府が過去に推薦した遺産は、すべて登録されているという。
 登録されれば、国内の「文化遺産」は、「姫路城」「日光の社寺」などに続き、11件目となる。



● 高松塚古墳合成樹脂で壁画補強の方針(2006年7月21日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画保存問題で、文化庁の恒久保存対策検討会が石室解体後に壁画や石材を合成樹脂などで補強しつつ修復する方針を確認した。
 文化庁は壁画を約10年がかりで修復した後、古墳内に戻すことを決めているが、樹脂が劣化するため、20〜30年に1度は石室解体を伴う定期的な措置が必要となるという。
 仏堂の壁画などの場合、100年に一度の部分修理と300年に一度の解体修理が必要といわれるが、高松塚はこの10分の1程度の頻度で再発掘、解体修理を繰り返さなくてはならないことになり、石室の劣化が心配される。
 また石室解体後に行う墳丘の仮整備について、部会メンバーが3案を提示。墳丘を可能な範囲で復元し、石室のレプリカを本来石室があった場所に設置した上で公開する案を軸に協議した。



● 奈良・桜井市の安倍寺跡、最古級の彩色壁画を確認(2006年7月16日)

 奈良県桜井市の安倍寺跡で11年前に出土した壁土が国内最古級の彩色壁画片だったことがわかった。
 壁画片は縦4〜9cm、横2.5〜8.5cmの5点、いずれも土壁の上に漆喰を塗りベンガラなどで彩色したもので、高温で焼けて変色していた。
 絵柄は不明だが、一部の壁画片には型紙をあててへらなどで下絵の線を刻んだと見られる放射線状に引かれた2本の下書きの線刻があることがわかり、彩色壁画片と断定された。
 鳥取・上淀廃寺で発掘された壁画片(7世紀後半から8世紀初頭)より古く、先日壁画の断片が出土した法隆寺の若草伽藍(7世紀初め)に次ぐ、最古級の壁画とみられる。
  安倍寺跡は、古代豪族・安倍氏が7世紀半ばから後半ごろに創建された寺で、金堂・講堂・塔・中門・回廊などの建物跡が確認されており、伽藍は南面し、法隆 寺式あるいは川原寺式に近いと考えられている。鎌倉時代に火災で焼失しており、今回の壁画片も1995年に境内の鎌倉時代の溝から焼けた土器などととも出 土したもので、桜井市立埋蔵文化財センターで展示されていた。

● 唐招提寺薬師如来立像が6年振りに帰寺(2006年7月14日)

 金堂の解体修理に伴い奈良国立博物館で展示されていた唐招提寺の薬師如来立像が、保存修理のため寺へ戻ることになった。
 薬師如来立像は高さ3.7mの木心乾漆像で、2000年に始まった金堂の解体修理に合わせ、平安時代の造立以来初めて堂外に出され、同博物館で公開されてきた。
 本尊の盧舎那仏坐像や、千手観音立像(共に国宝)とともに境内の修理所に移され、金箔の剥落止めなどの修理がおこなわれる。

● 奈良で最古級の馬具出土(2006年7月7日)

 奈良県平群町の剣上塚古墳で、5世紀後半とみられる馬具の飾り金具が見つかった。
 飾り金具は、竪穴式石室からよろいの一部などとともに出土した「剣菱形杏葉(けんびしがたぎょうよう)」3点で、いずれも長さ約11cm、最大幅約6cm。鉄板に金銅板をかぶせ鋲で留めており、全体的にさびているが保存状態は良いという。
 日本で出土した馬具としては最古級で、似たタイプが朝鮮半島南部で発掘されていることから朝鮮半島からの輸入品とみられる。


● 奈良博の国宝 十一面観音頭上面を追記か(2006年7月6日)

 奈良国立博物館所蔵の仏画十一面観音像が、同館と東京文化財研究所の調査で、頭上面が10面から11面に描き加えられていることがわかった。
 本像は、斑鳩町の法起寺に伝来したもので、縦169cm、横90cm。平安時代を代表する仏画として、絵画の十一面観音像としては唯一、国宝に指定されている。
 今回、2200万画素の高精度デジタルカメラによる撮影や、近赤外線撮影、蛍光X線分析など総合的な科学調査が行われた。
  蛍光X線分析では、銀を使ったと思われていた条帛や水瓶、台座の宝珠から銀は検出されず、カラー画像から黒と青の顔料が確認でき、当初から青黒色だったこ とが判明、また近赤外線による調査では下描き線が確認され、頭頂面には正面を向いた下描き線が確認され、最終的な描起しの段階で視線を右下に落とした表情 に変更されたことなどがわかった。
 これらの結果は、奈良国立博物館にパネル展示される他、「国宝 絹本著色十一面観音像」として中央公論出版から発行されている。
 
 十一面観音像は、7月22日から8月20日まで奈良博で開催される「探検!仏さまの文様」に展示される


● 埼玉の反町古墳で古墳時代後期の水晶工房跡発見 (2006年7月4日)

 埼玉県東松山市高坂の反町遺跡から、古墳時代前期(4世紀)とみられる水晶の玉造り工房跡が見つかった。
 工房跡は4.1m×3.8m、深さ0.41mの竪穴遺構で、床面に多数の水晶や碧玉の破片、砥石などと共に長さ約3cmの角柱状の水晶の原石が3個並んだ状態で見つかり、また10mほど離れた溝からも水晶や碧玉の破片が見つかった。
 出土した水晶は山梨県甲州市で産出される「草入り水晶」と特徴が似ているという。
 玉は装飾や副葬品用と見られ、弥生時代の水晶の工房跡としては、島根県や京都府などで見つかっているが、関東では初めてという。


● 愛知・彼岸田遺跡で日本最古級の横櫛が出土 (2006年7月5日)

 愛知県安城市の彼岸田遺跡で、4世紀末から5世紀前半につくられたとみられる日本最古級の木製横櫛が出土した。
 横櫛は縦5.5cm、横7.7cm、歯数19本で、朝鮮半島から渡来した鉄のこぎりで歯を削り出し作られたと考えられる。材質とみられるイスノキは当時西日本に分布しており、横櫛は地域交流によって持ち込まれた可能性もあるという。
 大阪府八尾市の小阪合遺跡でも同様の形態の横櫛が出土している。


● 奈良・東大寺南大門に「大華厳寺」額(2006年7月4日)

 奈良市・東大寺は、鎌倉時代の復興に尽力し、南大門などを再建した重源上人の800年忌法要を記念して南大門に「大華厳寺」の額をかけることを明らかにした。
 額は幅4.5m高さ1.65mで、東大寺を創建した聖武天皇が残した写経から「大華厳寺」の文字を集め、黒文字で黄色地の額に配置し、南大門の1層目の屋根に置く。
 大華厳寺は、華厳宗大本山である東大寺の異名で、現在、境内に寺名を示す額はないが、鎌倉末期の華厳宗凝然が南都六宗の歴史を叙述した『三国仏法伝通縁起』に、弘法大師の筆になる大華厳寺の額が南大門にあったと記されている。


● 高松塚壁画修復施設を一般公開へ(2006年6月29日)

 奈良県明日香村の特別史跡、高松塚古墳の国宝極彩色壁画について、文化庁は来年春の石室解体後に期間限定で一般公開することを決めた。
 古墳がある国営飛鳥歴史公園内に建設予定の保存修復施設の修理作業室にガラス窓を設け、見学者には施設の廊下からガラス窓越しに解体壁画を見てもらう。
 石室解体はこれまで来年2月に開始予定だったが、今年4月に発覚した壁画損傷事故などの影響で1カ月ほど遅れる見通し。
 石室は16個の石壁に解体され、約2カ月がかりで施設に搬入。10年ほどかかるとみられるが、石室解体の2〜3年後から作業の節目ごとに順次、公開する方針という。
実現すれば1972年の壁画発見以来初めての一般公開となる。

● 奈良・西大寺で8世紀の食堂跡出土(2006年6月28日)

 奈良市西大寺の西大寺の旧境内で、食堂跡と見られる8世紀後半の大型建物跡が見つかった。
 建物跡は、東西8.4m以上、南北21m以上。東側に柱穴跡より間隔の狭い穴跡が並んでおり、ひさしが付いた立派な建物だったらしい。
 また建物跡の約30m東で、須恵器のかめを埋めた直径約20〜40cmの穴の跡13カ所も確認された。かめの現物や中身は残っていなかったが、底の痕跡などからかめの高さ、直径とも1mほどと推定される。
 西大寺では、2002年にも現地の北側で同様のかめ跡28個分を発見しており、未調査地も含めると、かめは東西6m、南北30mの範囲に80個以上並んでいた可能性が高い。
 平城宮(8世紀)の役所「造酒司」跡でも36個のかめ列跡が見つかっており、食料貯蔵用とみられるが、これほど多数の埋めがめ跡は珍しい。寺の経済力の大きさをうかがわせる。

       
● キトラ古墳で業者が無許可掘削 文化庁公表せず(2006年6月28日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で2003年、史跡指定地内の地面を業者が許可を受けずに掘削したことが判った。
 2003年2月、極彩色壁画を守るため同庁が保護施設を建設した際、墳丘から約15mの史跡指定地内で業者が車両回転スペース確保および排水タンクを設置するため地面を勝手に掘削。立ち会っていた明日香村職員が発見、中止させたという。
 文化庁は当時の記念物課長ら3人を口頭で厳重注意していたが、これまで公表していなかった。

       
● 南丹・城谷口古墳群で6世紀の「蛇行剣」出土(2006年6月28日)

 京都府南丹市八木町の城谷口(じょうだにぐち)古墳群で、古墳時代中期(5世紀)から後期(6世紀)にかけての古墳計11基が確認され、6世紀のものとみられる鉄製の「蛇行剣(だこうけん)」などの副葬品が見つかった。
 古墳は方墳で最大のもので縦横各約20m、円墳は、最大で直径12mあり、横穴式石室が確認された。
 蛇行剣は長さ約70cmで、比較的大きい円墳の横穴式石室の奥壁付近から人骨や刀とともに出土。他の古墳では、須恵器や耳環、管玉など多数の副葬品が見つかった。
 蛇行剣は祭祀に使われたとみられる。西日本を中心に5〜6世紀のものとされる剣が約60本確認されているが、京都府内では、綾部市の奥大石古墳群出土のもの(5世紀)に次いで2例目。


● 法隆寺の若草伽藍で新たな壁画片発見 (2006年6月28日)

 斑鳩町の法隆寺で、創建時の若草伽藍跡から樹木などを描いた7世紀初めの焼け焦げた壁画片や壁土、瓦などが大量に見つかった。
 現場は南大門につながる塀の内側で、若草伽藍の塔跡から約90m西。壁画片などは、推定幅1.5mほどの溝の中に、細かく割れた約270点の壁材が堆積(たいせき)していた。 
 このうち、約80点で壁画を確認。大半が一辺4cm以下と小さく、樹木を描いたとみられる破片(縦4cm、横3cm)や、暗褐色のしま模様、玉を連ねたような飾りが描かれた破片もあり、仏画の一部だった可能性があるという。
 一緒に出土した軒丸瓦と軒平瓦は黒く焼けただれ、壁土や解けた銅が付着していた。文様から塔に葺かれていた可能性が強い。
 現場近くでは2004年に、同時期の焼けた壁画片が出土。670年に法隆寺が焼失したとの日本書紀の記述を裏付け、現在の伽藍が再建されたことを証明する資料と考えられている。
 一昨年の出土地にも近く、伽藍の焼失後、一カ所に廃棄されたものと考えられる。


● 高松塚教訓に専門家集め文化財カビ対策(2006年6月28日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の石室でカビが大量発生した問題を受け、文化財や美術品などのカビ対策全般を検討する文部科学省の専門家会合が開かれた。
 会合では、カビの生態や、研究施設でのカビ防止策などについて現状を説明し、
今後、美術館や図書館の担当者からカビ対策の課題などを聞き取り調査し、カビ発生のメカニズム解明や効果的な対応策について、来年3月までに報告書をまとめる。

       
● 京都・金戒光明寺の文殊菩薩騎獅像の頭部に金属製容器(2006年6月27日) 

 京都市左京区・金戒光明寺(黒谷文殊堂)の文殊菩薩騎獅像(市文)の頭部に、金属製の容器が納入されているのが分かった。
 本像は、2004〜5年度、美術院が割れ目や欠損部を修理した際に、エックス線透過撮影で内部を調査したところ、後頭部付近に直径10cm、高さ10cm程度の円筒形の容器を確認、ほかに仏舎利を収めたとみられる小さな容器もあった。
 よく似た納入品の例としては、叡尊の十三回忌に造られた奈良・西大寺の文殊菩薩像が知られており、同像の容器には仏舎利を収めた水晶の五輪塔が入っていた。
 本像は体のボリューム感や衣紋の写実性などから、13世紀の鎌倉時代の作とみられており、普段は同寺三重塔に安置されているが、6月28日(水)〜9月18日(月・祝)まで京都国立博物館の平常展示館で常設展示される。納入品は取り出さない。

● 大峯山寺で藤原道長奉納の大量の灯明皿出土(2006年5月29日)

 奈良県吉野郡天川村の大峯山寺で、藤原道長とひ孫の師通の参詣に伴うと見られる、大量の灯明皿や鉄製の綱が見つかった。
  防災工事に伴う発掘調査で、本堂南側の斜面から、直径10〜15cmの灯明皿が、幅3〜4m、厚さ約60cmの層状に堆積しているのが発見され、内側に灯 心の焼けた跡があった。形などから十一世紀の初めと終わりに大別でき、日記に記された道長、師通の参詣時期と一致する。確認した層だけで約千点(約一ト ン)あり、さらに斜面の上へと続いていた。
 鉄綱も灯明皿に混じって大量に見つかり、鉄線や鉄板をよじって直径4〜8mmのワイヤ状にし、鉤(かぎ)形に曲げた先端で接続したものもあった。
  道長の日記『御堂関白記』には、寛弘四年(1007)の参詣に際し「御明百万燈」を奉納したとあり、また寛治四年(1090)に参詣した師通の日記『後二 条師通記』には「鉄綱二十條」の奉納が記録されている。師通は、道長に倣って日記にも同じ奉納品を書写しており、同じ場所で燃灯供養を行ったとみられてい る。
 調査地は役行者が蔵王権現を感得した「湧出岩」に近く、山上ヶ岳の頂上直下で道長奉納の経筒(国宝)も同じ斜面で出土したと伝えられている。灯明皿は湧出岩付近から投棄された状態で堆積しており、道長、師通の燃灯供養が湧出岩付近で行われた可能性が強いという。

● キトラ古墳定期点検で6カ所にカビ (2006年6月13日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳の定期点検の結果、朱雀の尾羽の付け根付近で薄い楕円状の白いカビらしきものが見つかったのをはじめ、計6カ所に黒、または白のカビらしきものが確認された。
  カビは、天井天文図尾宿(びしゅく)の余白部分に直径5〜10mmの範囲、、心宿(しんしゅく)と房宿(ぼうしゅく)の間の漆喰割れ目部分に長さ5mmの 範囲で、それぞれごく小さい黒い粒状のカビらしきものが発生。また、南壁の四神・朱雀の尾羽の付け根付近では、極めてわずかで薄い楕円状の白いカビらしき ものが見つかった。

● 高松塚古墳で新たに4カ所を独断補彩(2006年6月9日) 

 奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画損傷問題で、文化庁美術学芸課の元主任文化財調査官だった林温・慶応大教授が、平成14年、壁画の4カ所を補彩するなどの処置を行い、報告もしていなかったことが新たに判明した。

● キトラ壁画で朱雀頭上余白にカビ(2006年6月8日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳の定期点検で、南壁に描かれた四神・朱雀の頭上から2〜3cmの余白部分に、長さ約2cm、幅約1cmの帯状の白いカビらしきものが新たに発生していることがわかった。
また、前回の定期点検で確認された場所と同じ、南壁・盗掘口側天井付近にも環状の白いカビらしきものが見つかった。

● 高松塚壁画で飛鳥美人まゆに「しみ」(2006年6月7日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画の西壁女子群像の中央に位置する赤衣像の右まゆに、カビとみられる新たな黒いシミが見つかった。
大きさは直径約2mmで、今月2日に行われた点検時に撮影した画像を拡大して分かった。
 一方、同じ女子群像の額と胸、西壁の白虎の頭上に発生した黒いカビについては5月17日と6月2日の2日間、除去作業を行い、一部除去できたという。

● キトラ古墳朱雀にカビ見つかり除去(2006年6月2日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で、石室南壁に描かれている四神図「朱雀(すざく)」の表面など3カ所に白い綿状のカビのようなものが見つかった。
 カビ状の物質は長さ最大約5cmの縦長の輪のような形で発生し、朱雀の尾羽にかかっていた。また絵のない部分で、同じ南壁の盗掘坑付近に直径約8cm、北壁に長さ約13cmのものが見つかった。
 キトラ古墳では、カビ対策として週2回ほど点検しているが、5月29日の点検の際には確認されなかった。


● 月夜田遺跡で奈良時代の山陽道の溝跡見つかる(2006年6月1日)

 京都府八幡市八幡の月夜田遺跡を奈良時代の溝跡が見つかった
 見つかったのは、幅2.7m、深さ1mの溝状の遺構。北西から南東方向に流れ、調査した長さは約4.5m。自然河川を粘土などで埋めて造っており、出土した瓦や土器類から8世紀前半の奈良時代に造られたとみられる。
 調査場所は、都と九州・大宰府を結んだ官道「山陽道」のルート上とされる地点で、溝跡はこれまで言われている山陽道の向きと同じであることから、この溝に沿って山陽道が走っていた可能性があるという。



● キトラ古墳盗掘口付近の石室床面にカビ(2006年5月30日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、石室床面の盗掘口付近に、白と緑の綿状のカビらしきものが見つかった。
 カビらしきのものは、南壁の盗掘口を中心に半径約1mの範囲に、最大で長さ1mm程度のものが5、6カ所点在し、虫の死骸も確認されたという。


● 甲斐善光寺三尊像に非破壊で鏡を発見
(2006年5月27日)

 甲府市善光寺の甲斐善光寺で阿弥陀三尊像(重文)の脇侍、観音菩薩像と勢至菩薩像の胎内に平安時代後期の和鏡が納められていたことがエックス線調査で分かった。
  鏡は観音菩薩像のひざ下部分と勢至菩薩像の頭部から一枚ずつ見つかった。鏡の模様は、ハギやススキなどの秋の草や2羽の鳥の文様が描かれた秋草双鳥鏡(観 音菩薩像)と水草や川、2羽の鳥が描かれた水草流水双鳥鏡(勢至菩薩)。直径はともに約8cmであるが、文様から、鏡の鏡縁部の界圏(かいけん)と呼ばれ る部分を切り取ったと見られる。
 仏像胎内からの鏡の発見は全国で十二例あるが、エックス線調査で仏像を解体することなく確認された例は全国で初めて。
 阿弥陀三尊像は平安時代後期の制作時であることから、鏡も像の制作時に胎内に納入されたとみられるが、通常鏡は胸部に納められることが多く、観音菩薩像のものも胸部に納めたものが落下した可能性がある。
 同三尊像は、山梨県立博物館が2005年10月のオープン間直後に善光寺からこの仏像を借り受け特設展示した後、今年3月からは常設展示「信仰の足跡」コーナーでで公開している

● キトラ古墳またカビ (2006年5月26日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、石室天井に描かれた天文図の太陽を表す「日像」の部分に小さな黒いカビらしきものが、南壁の余白部分に白綿状のカビらしきものが、それぞれ新たに見つかった。
 いずれも絵の線からは外れ、壁画そのものは無事だったが、石室内で断続的にカビの発生が続いていることが改めて浮き彫りになった。


● 正倉院の経は韓国国宝と同時期、統一新羅の写経伝来か (2006年5月23日)

 奈良県東大寺・正倉院の宝物「大方広仏華厳経」は、これまで日本で未確認だった統一新羅時代(677―826年)の朝鮮半島で写経した可能性が高いことが分かった。
「大方広仏華厳経」は、幅26cm、長さ30.8mの経典で、当時の日本では使用例のないコウゾでつくった55枚の紙をつなぎ合わせており、力強い楷書で書かれている。 
 調査の結果、端正な鋭い筆跡が新羅の特徴を伝えており、現存する朝鮮半島最古の写経とされる韓国の国宝「新羅白紙墨書大方広仏華厳経」(755年)とほぼ同時期と見られ、さらに古い可能性もあるという。




● 正倉院は最初から倉3つだった  (2006年5月23日)

 奈良県東大寺・正倉院の北、中、南3倉のうち中倉の壁材壁材を、年輪年代法で測定した結果、765年前後とされる創建より前の伐採とみられることが分かった。
 測定は壁材3点を用いて行われ、内2点から679年などの年輪パターンが確認された。製材の段階で100年分以上削ることは考えにくく、壁材は8世紀中ごろの伐採と推定された。
 正倉は床材の年輪年代調査から、一つ屋根の下に3倉を同時に建てたとする説と、中倉だけは当初床だけで、後世に増築したという見方もあったが、今回の調査結果は最初から3倉そろっていたとする説を裏付ける結果となった。


● 高松塚古墳でまたカビ?黒い染み  (2006年5月20日)

 奈良県明日香村阿部山の高松塚古墳で、西壁に描かれた四神図「白虎」の頭から数cm上にカビのような黒い染みがあるのが確認された。
 染みは直径約5mm。ほかにも西壁の数カ所で同じような染みが見つかったが、いずれも壁画のない余白部分という。


● 史跡・名勝19件指定へ(2006年5月19日)

 文化審議会は、史跡・名勝・天然記念物として大谷の奇岩群など19件、重要文化的景観として1件、登録記念物として3件を答申した。
 文化審議会の主な答申内容は次の通り。かっこ内は所在地。
【史跡の新指定】
 ▽浜尻屋貝塚(青森県東通村)
 ▽仙台郡山(こおりやま)官衙(かんが)遺跡群(仙台市)
 ▽和台遺跡(福島県飯野町)
 ▽藤本観音山古墳(栃木県足利市)
 ▽黒浜貝塚(埼玉県蓮田市)
 ▽花輪貝塚(千葉市)
 ▽仏法寺跡(神奈川県鎌倉市)
 ▽小島陣屋跡(静岡市)
 ▽久留倍(くるべ)官衙遺跡(三重県四日市市)
  久留倍官衙遺跡は、発掘調査で多数の掘立柱建物跡が確認され、古代の役所「伊勢国朝明郡衙(ぐんが)」跡の可能性が高い。政庁や正倉院など施設の規模や配 列が明確に把握でき、古代国家の地方支配体制を解明する上で貴重な遺跡。壬申の乱(672年)の際、後に天武天皇となる大海人皇子が朝明郡に立ち寄った史 実との関連も注目されている。
 ▽徳島藩松帆台場跡(兵庫県淡路市)
 ▽山陽道野磨駅家(やまのうまや)跡(兵庫県上郡町)
 ▽宇陀松山城跡(奈良県宇陀市)
 ▽大口筋(鹿児島市、鹿児島県姶良町、加治木町)
【名勝の新指定】
 ▽大谷の奇岩群(宇都宮市)
 大谷の奇岩群は、大谷寺背後の御止山と越路岩からなり、田園地帯にそびえ立っている独特の姿は「陸の松島」とも呼ばれている。今回の指定答申で大谷磨崖仏を本尊とする大谷寺の一部は、特別史跡、重要文化財と三重の指定になる。
 ▽男神岩・女神岩・鳥越山(岩手県2戸市、一戸町)
 ▽二見浦(三重県伊勢市)
【名勝および天然記念物の新指定】▽下地島の通り池(沖縄県宮古島市)
【天然記念物の新指定】▽尚仁沢上流部イヌブナ自然林(栃木県塩谷町)
【重要文化的景観の新選定】▽一関本寺の農村景観(岩手県一関市)
【登録記念物(遺跡)の新登録】
 ▽立山砂防工事専用軌道(富山県立山町)
 ▽雲原砂防関連施設群(京都府福知山市)
【登録記念物(名勝地)の新登録】
 ▽喜屋武海岸および荒崎海岸(沖縄県糸満市)

● キトラ壁画天文図に黒い斑点(2006年5月18日)

 奈良県明日香村阿部山のキトラ古墳で、石室天井に描かれた天文図にカビとみられる黒い斑点が発生しているのが定期点検で見つかった。
 黒い斑点は、天文図の西側にある星座「畢宿(ひつしゅく)」近くの朱線(赤道)にかかるようにして直径2〜3cmの範囲で発生しているという。


●  高松塚壁画損傷補修は文化庁が決定(2006年5月13日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で平成14年、国宝の壁画を修復担当者が損傷した問題で、文化庁が損傷の3日後、庁内の会議で損傷個所を石室の土で塗り固め、補修する方針を決めていたことを明らかにした。
 補修は関係者だけで行い、事実関係は公表しなかったという。作業関係者を指導する立場にありながら壁画の損傷を隠したことに対し、批判がさらに強まる。


●  キトラ白虎初公開(2006年5月13日)

 奈良県明日香村の特別史跡「キトラ古墳」の石室からはぎとって修復された白虎が、奈良文化財研究所飛鳥資料館で初めて一般公開され、初日だけで普段の約10倍の約2500人の入館者でにぎわった。
 奈良文化財研究所飛鳥資料館で開かれているの特別展「キトラ古墳と発掘された壁画たち」(55月日から6月25日)の期間中の目玉として、5月12日〜28日まで17日間だけ展示される。
 キトラ古墳の壁画が公開されるのは、1983年の発見以来初めて。

●  奈良・高松塚古墳
壁面補彩、他に3か所(2006年5月12日)

 奈良県明日香村、高松塚古墳の壁画損傷事故に関連し、発表されていた損傷部分のほかに壁面の漆喰部分3か所が補彩されていたことを明らかになった。
  補彩が行われたのは、損傷部分の補彩を行った2か月後の2002年5月23日。東壁・女子群像の左脇、北壁・玄武の下部、天井部分の3か所で、表面が剥落 したり、防カビ剤などの実験のために不自然に白くなった部分について行われ、いずれも水で溶いた土を用いて、自然に近い状態に戻したという。
 一方、損傷部分の補彩については、事故の3日後の1月31日に、担当の美術学芸課内で早くも傷を目立たなくするための方法が検討されていたことを示す内部資料も報告された。極めて早い段階で補彩の決断がなされたことも、今後問題となりそうだ。


●  損傷「高松塚」報道対応で文化庁隠ぺいメモ(2006年5月12日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳壁画の損傷問題で、文化庁が損傷当時、その事実を隠ぺいしようとしたと受け取れる内部メモのあることがわかった。
 問題のメモは報道機関に最新の画像を提供して損傷に気付かれた場合は「経年による自然劣化と説明」するとしており、当時の文化財部長も了解していたという。


●  高松塚古墳、防護服未着用が常態化(2006年5月12日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、東京文化財研究所の担当者が壁画を点検した際、雑菌の侵入を防ぐ防護服を着用せずに石室の蓋を開けるなどの作業をしており、文化庁担当者も防護服を着ないで石室近くにいたことが分かった。
  高松塚壁画損傷問題などの調査委員会が公開した作業状況の写真などによると、平成元年12月20日に東文研の担当者1人がトレーナーとポロシャツのような 軽装で、顔や手は露出したままで石室の蓋を大きく開けており、人体や服に付着した雑菌が石室内に入る可能性も考えられる状態だった。
 さらに平成11年6月22日には文化庁担当者が私服のような半袖姿で石室のすぐ手前に立っていた。この時は蓋は閉まっていた。
  東京文化財研究所が作成した壁画保存点検報告書では、石室前の墳丘盛り土強化工事(平成13年2月)の際、工事業者の防護服未着用が判明し、「この作業が カビ発生の原因。カビに対する配慮が少なく、カビ発生の要因が持ち込まれていたことになる」と指摘していたが、東京文化財研究所や文化庁担当者自身も防護 服未着用が常態化していたともみられ、批判が一層強まりそうだ。


●  高松塚のカビで文化庁の対策不十分(2006年5月11日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳でシンボルともいわれる女子群像に黒いカビ状の染みが新たに確認されたことから、冷却装置の効果について疑問の声が出ている、
  高松塚古墳では石室内のカビ繁殖などが止まらないことから、昨年6月に石室解体の方針が決定し、解体までの最も有効なカビ対策として、石室の周りに冷却パ イプを通して石室内の温度を下げる冷却装置を昨年夏に設置した。これによってカビの発生がかなり抑えられるはずだったが、今回の新たなカビ被害で、わずか 8カ月でその効果が疑問視される結果が出てしまった。これから夏に向け、外気が最も高温になる季節を迎えるだけに、新たなカビの発生が懸念される。


● 高松塚壁画にまた黒い染み(2006年 5月11日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の国宝壁画の定期点検で、「飛鳥美人」と呼ばれる西壁の女子群像の顔付近など2カ所にカビのような黒い染みがあるのを確認した。
 染みが見つかった女性像は、4体のうちの右から2番目で、今年2月に目尻や肩付近で黒い染みを確認したのと同じ人物像の額付近と、胸の少なくとも2カ所で、それぞれ直径1〜2cmの大きさ。定期点検の際に撮影した写真を精査して気付いたという(写真の○印)。
 除去が可能かどうかなどについて今後、微生物の専門家に調査を依頼する。


●  キトラ古墳天文図の黒カビほぼ除去(2006年5月2日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で石室天井の天文図に発生した黒カビのようなものは、薬品を使ってほとんど除去された。
 カビ状の物質は天文図東側の星座「尾宿(びしゅく)」にかかるように広がっていたが、修復技術者2人がエタノールを付けた筆を使い、直径約4cmの範囲を1時間半かけて除去し、目に見える部分は全部取れたという。
 5日に行う定期点検で、再発生がないか確認する。


● 大津、坂本地域で社寺巡り( 2006年5月1日)

 滋賀県大津市の坂本地域一帯や延暦寺で、恒例の「社寺巡り」が開かれている。
 今年は、西教寺の塔頭「聞證坊(もんしょうぼう)」と「実成坊(じっじょうぼう)」が初めて公開され、宗祖・真盛直筆の掛け軸や華やかな刺しゅうを施した七条袈裟(けさ)などを展示している。
 また、延暦寺は昨年に続いて、弁慶が担いだと伝わる西塔地域の「にない堂」を特別公開している。


● 滋賀・春日神社で県内最古の流造本殿確認(2006年5月2日)   

 滋賀県野洲市冨波乙の生和(いくわ)神社の末社で、流造の春日神社本殿(重文)が、県内で最古の流造本殿であることが、解体修理工事に伴う調査で分かった。
春日神社本殿は、生和神社本殿の東に隣接し、正面の幅(桁行)は約1.6m、側面の幅(梁間)は約2.8mの流造。
  老朽化に伴い、2004年から修理工事が行われてきたが、建築技法や神社の歴史から現在の地に移った1262年ごろの建立と推定され、これまで県内最古の 流造本殿とされてきた鎌倉後期の栗東市の大宝神社境内社・追来(おいき)神社本殿よりも古く、全国的にみても最古の部類という。


●  キトラ古墳 カビの専門家が天文図調査(2006年5月2日)

 奈良県明日香村のキトラ古墳で、定期点検で石室天井の天文図にカビとみられるものが発生した件で、石室に入ってカビのようなものを採取し調査を行った。
 今後分析し、カビと確認されれば種類を特定、除去方法などを検討する。

● 聖武天皇1250 年御遠忌法要・慶讃行事

2006 年5月1日(月)〜5月3日(水)
 天平勝宝 8(756)年、56歳で亡くなった聖武天皇の没後1250年御遠忌法要が東大寺で行われる。

5 月1日 開白法要光明宗法華寺厳修「法華経講讃舞楽法要」
 南都諸大寺厳修「最勝王経講讃舞楽法要」
 慶讃奉納行事「シルクロードの詩」(大仏殿特設舞台・無料)金井英人

5月2日 中日法要
 華厳宗東大寺厳修「最勝十講」(東大寺天皇殿)
 華厳宗東大寺厳修「練供養・伎楽法要」
 慶讃奉納行事「慶讃能」(鏡池舞楽台)
 慶讃奉納行事「舞楽・還城楽物語」(大仏殿特設舞台・無料)

5月3日 結願法要
 「山陵祭」(佐保山御陵)
 華厳宗東大寺厳修「華厳経講讃法要」19:00から
 慶讃奉納行事「瀬戸内寂聴 東大寺清宵法話」
1部:夏川りみコンサート
2部:瀬戸内寂聴師法話会

5月4日 19:00
 ゴダイゴ特別コンサート『轟き』in 東大寺
 
東大寺能・狂言会 「狂言の夕べ」
5月5日   狂言 「二人袴」「三番叟」
 野村万作・萬斎 ほか
5月6日(土)能「安宅-勧進帳」
 観世銕之丞・野村萬斎 ほか
 狂言 「鐘の音」 野村萬斎 ほか
 舞囃子 「東方朔」 片山九郎右衛門
5/16(火)19:00
 レナート・ブルゾンバリトン・リサイタル 
 東大寺大仏殿

5月19日(金)
第22回 東大寺文化講演会
会場:東京有楽町 朝日ホール
瀧浪貞子京都女子大学文学部教授
保立通久東京大学史料編纂所長

10 月14日(土)〜10月16日(月)
 鎌倉期再興重源上人800年御遠忌法要・慶讃行事(大仏殿)【詳細未定】

10 月21日(土)
第25回 東大寺現代仏教講演会 
会場:東大寺金鍾会館【詳細未定】

12月9日(土)〜12月10日(日)
第5回「ザ・グレイトブッダ・シンポジウム」 
会場:東大寺金鍾会館【詳細未定】

御遠忌800年記念特別展「大勧進 重源」
 東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出
2006年4月15日〜5/28(日)
奈良国立博物館

● キトラ古墳、天井天文図にカビ(2006年4月29日)

 奈良県明日香村の特別史跡キトラ古墳で、石室内にある天井天文図に、黒いカビらしきものが発生していることがわかった。
 カビは28日午後の定期点検で見つかったもので、直径は約7cm、天文図の東側にある星座「尾宿(びしゅく)」にかかるように発生していた。
 文化庁では、1週間に2度のペースで定期点検を実施していたが、前回25日の点検では異常はなかった。
 同古墳では、2004年3月にも南壁の朱雀の下で白いカビが発生しているのが確認された。

 

● 平成18年 京都春季非公開文化財特別拝観(2006年4月29日)

期間:平成18年4月29日(土・祝)〜5月8日(月)

○上賀茂神社
 本殿・権殿(国宝)遥拝(直会殿より)
 高倉殿(重文)にて神宝展示 

○下鴨神社
 本殿(国宝)遥拝(新拝所より)
 大炊殿内部、御車舎、河合神社境内鴨長明の方丈(復元)他 

○南禅院
 方丈、木造亀山法皇座像(重文)、瑠璃燈、史跡名勝庭園、他

○南禅寺三門
 三門(重文)二層内陣、宝冠釈迦如来像、十六羅漢像、藤堂高虎像他(初公開)

○大寧軒
 書院、池泉庭園他

○知恩院三門
 三門(国宝)二層内陣、釈迦牟尼坐像、十六羅漢像、白木の棺

○建仁寺本坊
 大方丈(重文)、枯山水、茶席「東陽坊」、法堂、浴室他

○建仁寺久昌院
 客殿、茶室、庭園、宇喜多一惠筆「長篠の合戦図」他

○建仁寺両足院
 書院、茶室「水月亭」「臨池亭」、伝如拙筆「三教図」(重文)、長谷川等伯筆「松に童子図」、伊藤若冲筆「雪中雄鶏図」他

○ 妙法院
 庫裏(国宝)、ポルトガル印度副王信書(国宝)、大書院障壁画(重文) 普賢菩薩像(重文)他

○ 勧修寺
 書院(重文)、庭園、障壁画土佐光起・光成筆「龍田川紅葉図」「近江八景図」(重文)他

○ 隨心院
 本堂、木造阿弥陀如来像(重文)、「愛染曼荼羅」(重文)(初公開)
 本尊如意輪観音坐像、表書院「能の間」、卒塔婆小町像、奥書院障壁画、密教法具他

○東寺五重塔
 五重塔初層内部(国宝)、如来・菩薩像計12体

○仁和寺
 金堂(国宝) 阿弥陀三尊像 四天王像 帝釈天像他
 観音堂(重文) 千手観音像 不動明王像 二十八部衆像他

○醍醐寺三宝院
 表書院(国宝)、表書院障壁画(重文)、純浄観(重文)、新居間障壁画呉春筆「泊舟図」(市指定)(初公開)、松月亭他

○ 伏見稲荷大社
 御茶屋(重文)、松の下屋、池泉庭園、史跡荷田春満旧宅(初公開)

 

● 奈良・石神遺跡で杭列や石組み出土(2006年4月28日)

 奈良県明日香村飛鳥の石神遺跡で、7世紀前半の杭列や溝とみられる石組み遺構が見つかった。
 杭は東西22mと西端から北へ5.5m、東端から北へ11mに延びるコの字形の列。直径6〜8cmの杭が20〜30cmの間隔で打ち込まれていた。垣を設けたか土留めのための杭だった可能性があり、周囲と隔絶させるため全体を四角に区画していたと推定される。
 同遺跡の北側は施設が存在しないと考えられていたが、推古天皇の小墾田宮推定地と隣接することから小墾田宮に関連する施設の可能性もあるという。

 

● 重要文化財に青森県・高照神社本殿など12件答申(2006年4月21日)

 文化審議会は、青森県弘前市・高照神社本殿など12件を重要文化財(建造物)に新たに指定するように答申した。
 また、群馬県六合村赤岩地区など五地区について重要伝統的建造物群保存地区への選定を答申した。同保存地区は78地区となる。

 重文に答申されたのは次の通り。

▽高照神社(青森県弘前市) 
 津軽藩四代藩主・津軽信政公をまつる。江戸時代の神道「吉川神道」の思想に基づいて建てられた神社としては、国内でも唯一現存するもので、全国的にもほとんど類例がない。
 指定を受けるのは「本殿」「中門(ちゅうもん)」「拝殿及び幣殿」など、神社を構成する主要な建造物八棟と、津軽信政公墓二基。築造年代は、すべて江戸時代中期に当たる。

▽長福寺本堂(大分県日田市)
 長福寺本堂(1669年建立)は、九州では数少ない17世紀にさかのぼる浄土真宗の建築物。建立当初の古風な形式を残している。

▽広島平和記念資料館(広島市)
▽那須疏水(そすい)旧取水施設(栃木県那須塩原市)
▽旧富岡製糸場(群馬県富岡市)
▽旧徳川家松戸戸定(とじょう)邸(千葉県松戸市)
▽旧堀田家住宅(千葉県佐倉市)
▽松城家住宅(静岡県沼津市)
▽旧日向家熱海別邸地下室(静岡県熱海市)
▽旧京都中央電話局西陣分局舎(京都市)
▽布引水源地水道施設(神戸市)

 重要伝統的建造物群保存地区
▽六合村赤岩(群馬県)
▽塩尻市木曽平沢(長野県)
▽宇陀市松山(奈良県)
▽鹿島市浜庄津町浜金屋町(佐賀県)
▽鹿島市浜中町八本木宿(佐賀県)

 

● 滋賀・彦根城の重文の柱に落書き(2006年4月20日)

 滋賀県彦根市の彦根城で、国指定重要文化財の「太鼓門櫓(たいこもんやぐら)」の柱に落書きが発見された。
  太鼓門櫓は城内合図の太鼓が置かれた櫓で、幅約13m、高さ10m。落書きは、太さ約30cmの柱の高さ約1.2〜1.5mのところに約7cm幅で、くぎ のようなもので「横」「井」「一」などと書かれており、3月上旬にはなかったという。彦根署は文化財保護法違反と器物損壊の疑いで調べている。

 

● 国宝・法隆寺東大門で落書き(2006年04月19日)

 奈良県斑鳩町の法隆寺の国宝「東大門」の柱に落書きがされているのが見つかった。
 落書きは直径約40cmの8本の柱のうち、北西の柱で見つかった。地上から約42〜99cmの部分に約8cmの幅で硬いもので擦りつけるように「みんな大スき」などと書かれていた。3月26日に同出張所の作業員が撮影した写真には落書きはなかったという。
 西和署が文化財保護法違反と器物損壊の疑いで捜査している。
 東大門は奈良時代の建立で「八脚門」とも呼ばれ、1952年に国宝に指定されている。 

 

● 吉備塚古墳の象眼大刀 神仙思想を反映(2006年4月20日)

 平成16年に奈良市高畑町の吉備塚古墳(6世紀初め)で出土した大刀の文様について、奈良教育大学の山岸公基助教授(美術史)が、中国・南朝の壁画と図像が共通することを明らかにした。「神仙思想を正しく反映した国産品。当時の日中交流を証明する資料」という。
 吉備塚古墳の象眼大刀発見の詳細は、2004年特選情報の2004年2月5日の項参照
 http://www.bunkaken.net/index.files/topics/toku2004.html

 

● 三角五輪塔は重源の考案ではなかった(2006年4月18日)

 東大寺を復興した高僧・重源(1121―1206)の考案とされる三角五輪塔について、古くから京都・醍醐寺で用いられており、重源がデザインを伝授された可能性が強いことがわかった。
 五輪塔は大日如来の象徴とされ、下から順に地、水、火、風、空を表現し、火輪の底は通常は正方形だが三角五輪塔は三角形で、密教の教義を忠実に表現したとされる。
 今までは、重源の考案と伝えられていたが、醍醐寺の子院、金剛王院などに土製の三角五輪塔が伝わっており、若い頃を醍醐寺で過ごした重源が、三角五輪塔のデザインを伝授された可能性が強いという。

 

●  高松塚壁画損傷で検討会座長が引責辞意(2006年4月17日)

  奈良県明日香村の高松塚古墳で2002年、文化庁や東京文化財研究所(東文研)の担当者が作業中に国宝壁画を傷つけたのに公表せず補修していた問題で、当 時の東京文化財研究所長で、現在文化庁の同古墳壁画恒久保存対策検討会座長の渡辺明義氏が、座長を辞任する意向を示していたことが分かった。
 損傷事故は2002年1月、石室内の観察中に機材が転倒し男子群像など2カ所を傷つけたもので、損傷の事実を公表せず、墳丘の土を塗布して彩色し傷を目立たないように補修したが、文化庁の古墳修理日誌には、同庁の対策を了解する渡辺氏の所見もあった。
 石室内のカビ対策のために2003年に発足した検討会は、2005年石室を解体して壁画を保存することを決めたが、渡辺氏は損傷の事実を示さないまま議論を進めていた。

 

● 大峯奥駈道の釈迦如来像傾く(2006年4月16日)

 修験道の祖・役行者が開いたとされる大峯奥駈道にある下北山、十津川村境の釈迦ケ岳の山頂に立つ釈迦如来像が傾いてきていることが分かった。
  釈迦如来像は石積みの壇の上に野ざらしの状態で立っており、長年の風や雨で少しずつ傾いてきたらしい。大峯奥駈道は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の 一部。釈迦如来像自体は世界遺産の対象ではないが、文化的景観の一部を担っており、地元住民や修験者は、早く何とかしなければ倒れてしまうと危機感を募ら せている。

 

● 高松塚壁画の損傷事故、各界の意見

○ 網干善教・関西大名誉教授(考古学)
  一般的に国宝を傷つけると、犯罪として取り締まり処分される。傷つけた状態をそのまま公表するならまだいいが、修理して隠蔽(いんぺい)工作までしてお り、犯罪的行為といえる。文化財保護法違反の疑いで警察が捜査してもいいくらいの、重大な問題。文化庁はこれまで、壁画の劣化に、自分たちは責任はないと いう姿勢をとってきたが、許すわけにはいかない。

○ 百橋明穂(どのはしあきお)・神戸大教授(絵画史)
 石室が狭いので、市民も専門家も簡単に壁画を見ることができない。そこで、文化庁を信頼して管理を任せたのにー。人間がすることにミスがあるのは仕方がないが、起きた後の対応は問題だ。
 担当者個人の責任を追及しても意味がない。文化庁全体のチームワークに問題がなかったか、それをどう解決するかを、しっかり検証してほしい。

○ 白石太一郎・奈良大教授(考古学壁画・恒久保存対策検討会委員)
 石室外のカビが主因とは説明されず、湿度や温度に問題があると受け止め、適切ではない緊急対策を積み重ねたことは事実。洗い出せば、こうしたことは今後も出てくるのではないか。日本が保存科学の先進国だという神話は崩壊したと言わざるを得ない。

○ 菅谷文則・滋賀県立大教授(考古学)
 驚いたが、これまでの文化庁の姿勢をみているとありえることだと思う。ケアレスミスはこれにとどまらない可能性がある。文化庁はこの際、作業日誌などすべての資料を公表すべきだ.

○ 猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)
 未公表という対応は本当に残念。国民の財産が損失を被っただけでなく、文化庁と国民との信頼関係が失われた。石室内の作業は常に不測の事態が予想され、 2007年2月からの解体作業でも同じような危険が伴う。文化庁はその覚悟を新たにすべきだ。

○ 関義清・明日香村村長
 怒りというよりあきれている。文化庁の隠蔽(いんぺい)体質を変えるのは大変だ。組織的な問題があるのではないか。

 

● 高松塚壁画損傷こっそり補修、東文研所長が指示(2006年4月15日)

  奈良県明日香村の高松塚古墳で、作業中の文化庁や東京文化財研究所の調査員が2002年に国宝壁画を傷つけ、公表せずに補修していた問題で、補修が当時の 東京文化財研究所長で、現在は文化庁の同古墳壁画恒久保存対策検討会座長を務める渡辺明義氏の指示で行われていたことが文化庁の内部資料などから分かっ た。
 事故が起こった2カ月後の3月28日の「高松塚古墳修理日誌カード」日誌によると、渡辺氏は事故当日の午前、現地を訪れ、「事故部分には周囲の土を殺菌して、水だけで溶いて塗付する」と方針を示し、作業は午後、その方針通り行われたという。
  東京文化財研究所は、文化財の保存と修復技術の調査研究をする独立行政法人の機関で、高松塚古墳では美術などの専門家が傷んだ壁画の修復などにあたってい るが、補修にあたった7人のうち渡辺氏を含め4人が文化庁の古墳壁画恒久保存対策検討会(24人)のメンバーになっていることも分かり、関係者からは検討 会の正当性を疑問視する声が上がっている。

 

●  当時の文化庁部長 高松塚壁画損傷の報告受けた記憶ない(2006年4月13日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画がカビの除去作業中に損傷された問題で、当時、文化庁文化財部長だった木谷雅人・京都大学副学長は、損傷事故について報告を受けた記憶はないと話し、「部長に報告されていた」とする同庁の説明を否定した。
 同副学長は「事故があった2002年当時、石室内のカビ対策が重要な課題だったことは覚えているが、損傷の報告は記憶にない」とした。その上で「事故を公表しなかったことを含め、結果として十分な対応ができなかったことは申し訳ない」と語った。

 

● 高松塚古墳のカビ発生は防護服未着用作業が原因(2006年04月13日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、2001年2月に墳丘土の崩落防止工事をした際、文化庁のマニュアルに反し、工事関係者が防護服を着ないで作業していたことがわかった。
  高松塚古墳保存修理マニュアルによれば、古墳内の定期点検や工事などで古墳に入る際には、搬入物はすべてアルコールで滅菌し、体を防護服で覆って雑菌など の持ち込みを防ぐことを決めているにも係らず、作業者は、頻繁に出入りする必要があったためか防護服を着ておらず、一般の作業着のまま作業をしていた。
  高松塚古墳では、同年3月に石室外に大量のカビが確認され、12月には石室内でも大量に見つかっており、文化庁の担当者は、2001年4月作成の作業日誌 で、この作業が3月の石室外のカビ発生の原因であることは間違いないと指摘していたが、古墳壁画恒久保存対策検討会には「対策が不十分だった」とだけ報告 していたという。

 

● 高松塚の壁画損傷でこっそり補修(2006年04月12日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で、石室内のカビの除去作業中に壁画を傷つけていた際、報告せずに応急処置していたことがわかった。
 文化庁は壁画の損傷に対し、いずれも2ヶ月後に応急措置として、近くの泥を水で溶かして塗りつけ修復していたという。
 この経緯は、文化庁担当者の作業日誌には手書きされていたが、2002年3月の「国宝・高松塚古墳壁画保存点検報告書」には記載されなかった。

 

● 高松塚の壁画を損傷していた(2006年4月12日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳で2002年、石室で作業した文化庁の修復担当者が、極彩色の壁画を傷つけていたことが分かった。
 壁画の損傷は2002年1月28日に石室でカビの除去作業中に誤って室内灯を倒し、西壁の男子群像の衣服の一部、約1cm四方がはがれ落ちた。同時に空気清浄機も倒れ、西壁の絵がない部分に長さ8cmの傷をつけたという。
 文化庁は関係者だけで修復、これまで事実を公表しておらず、今年になって記者会見し、損傷事故の発生の事実と調査会を設置する考えを明らかにした。文化庁は高松塚の壁画劣化についても、長く明らかにしておらず、姿勢があらためて問われそうだ。

 

● 中国・雲岡石窟出土の仏典翻訳の場特定(2006年4月12日)

 京都大人文科学研究所は、戦前に調査収集し、未発表のまま保管されていた中国最初の巨大石窟寺院・雲岡石窟の出土遺物整理をこのほど終え、調査報告書を約 60年ぶりに刊行した。(B5判 184ページ 8400円 朋友書店)
  これらの資料は同研究所の前身の東方文化研究所が1938年から44年にかけて発掘調査し持ち帰った、約1000点の遺物で、1950年代に全16巻の報 告書がまとめられているが、美術品が中心で、遺物はほとんど未整理のまま残されていたため、京都大のグループが2002年から整理作業を行っていた。
  瓦を摩耗度や傷の様子でグループ分けし、出土地近くの仏像の年代や、他の陵墓で出土した瓦などと比較して建物年代を推定した。その結果、建物は470年前 後、480年代、490年代以降の3期に分けて造営されたことが確認され、石窟のがけ上の東側の基壇跡から出土した瓦が第1期に当たることから、文献で 472年に曇曜が仏典を翻訳したとされる僧坊が特定出来たという。

 また、別の場所からは中国最古の緑釉瓦も出土しており、壮麗な寺院や僧坊が林立していた可能性が高まった。

 

● 大津市歴史博物館で「大津絵の世界」(2006年4月11日)

 大津市御陵町の大津市歴史博物館で開館15周年記念企画展「大津絵の世界」が4月16日まで開かれている。
  大津絵は、江戸時代に東海道筋で土産物として売られていた。初期は仏画が多く、その後、鬼や奴などを題材にした風刺画が描かれるようになり、全国的に人気 を集めた。企画展では、初期の仏画や絶頂期の風刺画をはじめ、富岡鉄斎や竹内栖鳳といった著名画家の作品など約300点を紹介している。

 

● 大津・山ノ神遺跡で出土の鴟尾を復元展示(2006年4月11日)

 大津市一里山の山ノ神遺跡から出土した鴟尾4基のうち、3基が復元され、大津市歴史博物館で展示されている。
  鴟尾は、いずれも幅約60cm、奥行き1m、高さ1.4mという大きなもので、2003年3月に7世紀中ごろから後半にかけての工房跡とされる山ノ神遺跡 から出土した。いずれも7世紀後半につくられたとみられ、近江大津宮(667〜672)と関係のある大規模な寺院の屋根を飾るためのものだった可能性もあ るという。

 

● 聖武天皇1250年御遠忌法要30日から(2006年4月11日)

 奈良市雑司町の東大寺で、聖武天皇1250年御遠忌法要が、4月30日から行われる。
 この行事は、東大寺の造営など仏教による国づくりを進めた聖武天皇(701〜756年)の没後1250年の御遠忌法要と慶讃行事で、奈良時代の記録に残る「廬舎那仏燃灯供養」を現代の形で再現するほか、多彩な奉納行事を通じて聖武天皇の功績を顕彰する。

 

● 福井・小浜国宝めぐりバス発進(2006年4月4日)

 若狭おばま観光協会が主催し、11月下旬までの土、日曜日を中心に、小浜駅から明通寺や神宮寺など八カ寺と食文化館などの施設を約80分で巡回する。

 国宝めぐりバスは、国鉄バス時代の1964(昭和39)年にスタート。2001年にJRが撤退した後も続いている。現在は一日6便運行。昨年は約3000 人の利用があった。一回券200円、一日フリー券500円。

 

● 奈良県広陵町で古墳出土の遺物展示センターオープン(2006年3月31日)

 奈良県広陵町南郷の文化財保存センターで、先日葬送用具とみられる舟形の木製品が出土した巣山古墳をはじめ、広陵町内の古墳から出土した遺物を展示する文化財保存センターの展示施設が、4月2日に広陵町役場内にオープンする。

 

● 徳島・観音寺遺跡で最大級の木簡出土(2006年3月30日)

 徳島市国府町の観音寺遺跡で、国内最大級の8世紀の木簡が出土した。
 木簡は長さ58cm、幅5cm、厚さ4.9〜0.8mmのヒノキの木片で、8世紀後半の河川跡の砂層から出土した。文字は墨書きで、表面と裏面に合計約 150字書かれており、寸法、文字数とも国内最大級。
 内容は、朝廷が官人登用に際して、阿波国府に依頼した身元調査(勘籍)の回答と見られ、人物の年齢や出身地、戸主などが記してある。
 何度も削ったり、棒線を引いて文字を修正したりした跡もあった。
 木簡に書かれた勘籍の結果は紙に書き写したうえで朝廷に送られ、官人の情報が一元的に管理されていた。現在、東大寺・正倉院にはこの勘籍の一部、約10 人分の記録が残っている。

 

● 西大寺で創建時の鴟尾出土(2006年3月29日)

 奈良市西大寺南町の西大寺旧境内で、創建時(8世紀後半)の瓦製鴟尾(しび)の破片が見つかった。
 破片は現境内の東側の井戸と素掘りの穴から一点ずつ出土し、頭部とひれの一部とわかった。
 鴟尾を復元した大きさは金堂クラスだが、創建時の金堂の鴟尾は記録では金銅製であることから、金堂に匹敵する規模の主要建物のものとみられている。平城京にあった寺院の鴟尾が発掘調査で見つかったのは初めて。

 

●  龍谷大、京都に仏教博物館を計画(2006年3月23日)

 京都市伏見区の龍谷大は、仏教博物館「龍谷ミュージアム(仮称)」を市内に建設する構想を学内答申した。
  龍谷大は、国宝級の仏像や仏教美術品をはじめ、仏教伝来の道筋を探るために本願寺派22代門主・大谷光瑞が中央アジアやインド、中国などに派遣した大谷探 検隊による収集品約9000点をはじめ、国宝「類聚古集」など多数の美術品を所蔵している。また、デジタルアーカイブ技術で歴史資料を保存したり、アフガ ニスタン仏教遺跡の学術調査研究などにも取り組んでいる。
 龍谷大では、2009年度に創立370周年を迎えることから、これにあわせ、大宮学舎や西本願寺の近辺に建設し、所蔵美術品や最先端のデジタル技術で復元した仏画などを展示、一般公開する計画という。

 

 上記の報道に対し、龍谷大学側は、仏教博物館(龍谷ミュージアム構想)については、学内の委員会から答申が出されたが、今後答申に対して検討委員会の設置準備を進めていく段階であり、設置が確定した訳ではないという声明を発表した。

 

● 敦煌の壁画、劣化進む(2006年03月26日)

 中国の世界遺産、敦煌・莫高窟の石窟内の壁画の劣化が急速に進んでいる。
  石窟内の壁画の中には剥落や亀裂、かびの繁殖による傷みのほかに、壁画の広い範囲が下地ごとはがれ落ちるなど深刻な状態のものも少なくない。これらは、石 窟内の地中にある湿気が塩分を溶かして化学変化をおこす塩害が壁画劣化の主な原因との見方が強まっており、敦煌研究院は今春から、すべての壁画の傷みの状 態を把握できるカルテづくりに乗り出す。
 
左写真:千仏が描かれた壁画。上半分には残っているが、湿気の影響で下半分は消えかかっている
右写真:第35窟。下地が浮き上がり、ひびが入った壁画。下の赤い部分は壁画を支えている板

(所感)

  日本政府は、平成7年度および平成8年度の環境白書において、敦煌の壁画などについても言及している。その中で自然状態での劣化としては、彩色層のひび割 れや剥落、壁面の浸食や洞窟の埋没、さらには塩類晶出による彩色の剥落や、経年による顔料の変退色などが挙げられており、今後の地球温暖化の進展により 100年で1ないし3.5度の気温上昇が予測され、これによる降雨量の増加及び集中豪雨などにより、石窟内への雨水の下方浸透による、急激な壁画破壊の進 行が危惧されるとの指摘があると指摘している。
 日本もこの白書に基づき、国立文化財研究所が中心となって現地の調査、研究を進めているが、今後共、こうした長期的な気象環境の変化を含めて、世界的規模での保存対策を講ずる必要がある。それでなくては、世界遺産に選んだ意義がない。

 

● 宇治・平等院本尊台座は魚鱗葺および葺寄式の両構造か(2006年3月25日)

 仏師定朝の代表作として知られる京都府宇治市の平等院本尊・阿弥陀如来坐像の台座が、当初から魚鱗葺にもなる構造だったとことが分かった。
 阿弥陀如来坐像の台座を飾る蓮弁の様式は、1950年代に修理する前は魚鱗葺であったが、当時の調査で仏像が造られた平安後期には葺寄式だったものを後世に魚鱗葺に改めたとみて葺寄式に直していた。
 しかし今回、修理に伴って、同寺が花弁の柄を差し込む穴などを詳しく調査したところ、漆の塗り具合などから、魚鱗葺用の穴は仏像が造られた当初からあったことが明らかになった。
 葺寄式は蓮弁の上下の並びがそろって見えるように葺く形式で平安時代に多く見られ、魚鱗葺は互い違いに見えるように葺く形式で奈良、鎌倉時代に多く見られる。 平安後期は両様式が混在していたと考えられるが、定朝が両方の葺き方を試みた可能性もあるという。
 また、エックス線調査によって、蓮弁64枚のうち2枚の先端の金ぱくの下に、直径3mmの穴跡があり、本堂の鳳凰堂内に描かれた絵画などから、造像当初にはガラスや金属の瓔珞などを吊り下げたとみられ、隅々にまで装飾を施した優美な姿が浮かび上がった。
 3月25日から7月3日まで平等院ミュージアム鳳翔館で行われる企画展で蓮弁を展示するほか、調査結果もパネルで紹介する。

 

● 加茂・海住山寺の発掘調査で塔頭跡発見 (2006年3月24日)

 京都府加茂町例幣の海住山寺の発掘調査で、本堂の南約150mの地点でかつての塔頭寺院の一部とみられる建物跡などが見つかった。
 寺伝によると、同寺は735年、恭仁京に都を移した聖武天皇の勅願で創建されたと伝えるが、1137年に全焼し、高僧貞慶が1208年に海住山寺と名付け、再興したとされる。
 現在は本堂や国宝の五重塔、重要文化財の文殊堂などを除いて大半が残っていない。
 発掘調査では、見つかった柱穴跡から5.4m×3.6m規模の建物があったと見られ、江戸時代の絵図や地誌「瓶原古今志」などから、建物は塔頭だった「宝蔵院」の護摩堂跡と推定されるという。

 

● 宇治市街遺跡から4世紀後半の最古級の須恵器出土(2006年3月22日)

 京都府宇治市妙楽の宇治市街遺跡で、4世紀後半に作られた最古級の須恵器が出土した。
 一緒に出た板材の年輪年代測定法と炭素年代測定法による分析により、今まで須恵器の生産開始時期は渡来人が技術を伝えた5世紀前半とされてきた定説を 20〜40年さかのぼることが判った。
 出土した須恵器は、高坏や器台、かめなど20点。平安時代遺構の下層の溝跡から見つかった。実年代は不明ながら最古級の須恵器と位置づけられる大阪府堺市の大庭寺遺跡の須恵器の模様や形式と類似していた。
 溝跡からは、朝鮮半島南部の素焼き土器と同形式の韓式土器約70点をはじめ、土師器や木製品も出土。板材を年輪年代測定した結果、木が伐採された年は 389年との結果が出た。さらに炭素14法による年代測定でも359〜395年とされた。

 

● 東寺で特別展 密教図像49点を展示(2006年3月20日)

 京都市南区の東寺で、真言密教の教えを伝える絵図や仏画を公開する特別展「東寺密教図像の世界」が3月20日から5月25日まで開かれる。
 今回は計24件、49点を展示し、前後期で約半数を入れ替えるが、多くが7年ぶり公開となる。
 空海が持ち帰った図像を後に転写した仁王経五方諸尊図(同)など多くの図像が7年ぶりの公開となる。
主な展示品
火羅(から)図 重文 平安時代
 密教の占星法を描いた中心に獅子に乗る文殊像、上部に北斗七星を表す諸尊が着色で描かれた

蘇悉地儀軌契印(そしつじぎきげいいん)図 重文 中国・唐時代
 手の指の組み合わせで諸尊の悟りや働きを表す印相を図解した秘儀とされる手印の多様な形が描写されている

仁王経五方諸尊図 重文
 空海が持ち帰った図像を後に転写したもの

 

● 守山・松塚遺跡で市内最大の円墳発見(2006年3月18日)

 滋賀県守山市浮気町の松塚遺跡で、市内で最大となる直径約37mの古墳後期の円墳跡が見つかった。
  埋葬施設などのある墳丘部は削られていたが、深さ約1m、幅6−9mの周濠が、全体の3分の1ほど見つかった。復元すると直径約37m、周濠部分を合わせ ると最大約53mの円墳と分かった。周濠からは円筒埴輪片や須恵器片が出土した。一帯では6世紀初めごろに物部氏の支配が始まることから、物部氏と関係の ある有力者が埋葬されたと考えられという。

 

●  奈良・飛鳥京遺構で三宮殿の重なり確認(2006年3月18日)

 天武天皇の宮殿、飛鳥浄御原宮の正殿跡2棟目が見つかった明日香村岡の飛鳥京跡で、浄御原宮に先立つ飛鳥板蓋宮と飛鳥岡本宮の遺構と見られるの石敷きと建物跡が確認された。
  石敷きは南北7.6m、東西0.7mの細長いもので、2棟目の正殿跡の南にある広場の下で見つかった。飛鳥京跡の宮殿のうち最も古い飛鳥岡本宮の建物跡と は向いている方向が違うが、後飛鳥岡本宮から飛鳥浄御原宮に存在した正殿跡より古いため、中間の時代に築かれた飛鳥板蓋宮の遺構らしい。
 一方、 正殿跡の南西では、掘っ立て柱建物跡1棟が下の地層から見つかった。岡本宮と同じ方向を向く建物で、東西、南北共に9m以上で、焼け跡があった。日本書紀 の「岡本宮に火災が起こり、天皇は田中宮に移った」という記述にも一致するため、岡本宮の遺構ではないかと見られるという。
 飛鳥京跡に重なる3つの宮殿がまとまって確認できたのは珍しく、宮殿の変遷がうかがえるという。

 飛鳥時代の主な宮の変遷
 飛鳥岡本宮 (舒明天皇)   630〜636
 飛鳥板蓋宮 (皇極・斉明天皇)643〜655
 後飛鳥岡本宮(斉明天皇)   656〜667
 飛鳥浄御原宮(天武・持統天皇)672〜694

 

● 琉球尚家資料など国宝、立石寺慈覚大師頭部、木棺など重文に(2006年3月17 日)

 文化審議会は、那覇市所有の「琉球国王尚家(しょうけ)関係資料」と、福岡県前原市の「平原方形周溝墓」の出土品を国宝に、山形市の立石寺所有「木造慈覚大師頭部、木棺」など47件を重要文化財に、それぞれ指定するように答申した。
 これで美術工芸品の重要文化財は1万255件、うち国宝は860件となる。 
 重要文化財と登録文化財は次の通り。かっこ内は所有者か保管者。

【国宝】

▽琉球国王尚家関係資料(那覇市所有)
 尚家関係資料は明治になり東京に移った尚家に伝わったもの。尚家が那覇市に寄贈し、調査が進められてきた。王冠などの工芸品、政治や外交などの文書・記録類など16〜19世紀の1251点。

▽福岡県平原(ひらばる)方形周溝墓出土品(文化庁保管)
 平原方形周溝墓からは国内最大の内行花文鏡を含め40面の銅鏡や多数の玉などが出土。

【重要文化財】

《絵画》

▽紙本著色四季日待図・英一蝶筆(東京・出光美術館)
▽紙本墨画竜虎図・単庵智伝筆(京都市・慈芳院)
▽絹本著色孔雀明王像(文化庁)
▽紙本著色東福門院入内図(東京・三井文庫)
▽絹本著色春日補陀落山曼荼羅図(東京・根津美術館)
▽紙本著色地獄草紙断簡(東京・五島美術館)

《彫刻》

▽木造慈覚大師頭部と木棺(山形市・立石寺)
 伝教大師の廟のある比叡山に自らの墓は置かないという慈覚大師の意向で、貞観6年(864)入寂のとき頭部だけが華芳の峰に残されて、胴体部と代りの木造頭部が金箔押の棺で入定窟に運ばれたものとされる。

▽木造顕智坐像(栃木県二宮町・専修寺)
  像高 85.4cm 鎌倉時代 親鸞の弟子真仏に師事し、専修寺三代目となった顕智の肖像彫刻。専修寺御影堂内に安置される。 像内頭部に延慶 三年(1310)八月二十四日の銘があり、命日から51日目に当たるので、存命中に制作が始められ、七七忌日を意識してつくられたことが分かる。上記の銘 のほか、道恵、円慶等の銘があり、それぞれ絵仏師、仏師と考えられる。 
 彫刻の写実的面貌あるいは質素な袈裟などから、像主を前にして造立されたことが推定される寿像である。顕智の師である真仏の像が併置されており、これを附とする。

▽厨子入木造大黒天立像(長野県軽井沢町・セゾン現代美術館)

▽ 木造不動明王坐像(滋賀県近江八幡市・伊崎寺)
 頭と体をヒノキ材から削り出した一木造り。平安時代中期(10世紀後半)の像で像高は85.4cm。大きく見開いた目、下の歯で上唇をかむ口の形、6カ所で結ぶ弁髪が特徴。伊崎寺の開祖・相応が神秘的な体験の中で見たとされる不動明王をモデルにつくったと伝わる。

▽ 木造鬼神像(京都市・北野天満宮)
 本殿の修理で見つかった憤怒の相を示した上半身裸形の鬼神像13体。平安中期の民衆信仰の対象となった魔よけの神像とみられ、主神の神体とともに民衆的な神々を並行してまつる古来の風習を伝える。

▽木造諸尊仏龕(京都市・報恩寺)
 中国・北宋期の作。釈迦如来と多くの菩薩、宝樹など微小な彫刻が小さな木製の箱に納められる。保存状態が良く、各区画の境に多種の珠玉がはめられ、装飾的につくられている

▽厨子入木造阿弥陀如来及び両脇侍立像と厨子入木造千躰地蔵菩薩像(同・同)
 前者は両脇侍像が腰をかがめて臨終者を迎える阿弥陀三尊像。後者は山に座る地蔵菩薩像がほぼ千体の地蔵小像やえんま王・冥官に囲まれる。微小で精密な彫刻が特徴

▽木造童形神坐像(京都府八幡市・石清水八幡宮)
 みずらを結った四体の童形神像。制作時期は12−13世紀。うち二体は若宮殿にまつられた八幡若宮像の可能性が強い。

▽ 木造持国天増長天立像(奈良市・弘仁寺)

《工芸品》

▽春日龍珠箱(奈良国立博物館)
▽紺黄染分綸子地竹栗鼠梅文様振袖(東京・カネボウ)
▽彩磁禽果文花瓶・板谷波山作(新潟市・敦井美術館)
▽輪宝羯磨蒔絵舎利厨子(京都市・高山寺)
 筒形容器に納めた火焔宝珠形舎利容器を安置した宝形造りの厨子。鎌倉末期−南北朝期か。蒔絵や彩色、きり金を用いて文様や釈迦三尊像などを描く。
▽能装束・紅浅葱地菊笹大内菱文様段替唐織(広島県廿日市市・厳島神社)
▽絵唐津菖蒲文茶碗(福岡市・田中丸コレクション)

《書跡・典籍》

▽称名寺聖教(横浜市・称名寺)
▽宋版南史(同・同)▽智証大師伝(東京国立博物館)
▽袖中抄(京都市・冷泉家時雨亭文庫)
▽春屋妙葩墨蹟(京都市・鹿王院)
▽伊勢集(奈良県天理市・天理大)

《古文書》

▽奉写一切経所紙納帳(文化庁)
▽神泉苑請雨経法道場図(奈良国立博物館)
▽天養記(三重県伊勢市・神宮)
▽賀茂別雷神社文書(京都市・賀茂別雷神社)

《考古資料》

▽深鉢形土器・新潟県堂平遺跡出土(文化庁)
▽鹿児島県広田遺跡出土貝製品(国立歴史民俗博物館)
▽北海道カリンバ遺跡墓坑出土品(北海道恵庭市)
▽土偶・長野県中ツ原遺跡出土(長野県茅野市)
▽三重県宝塚1号墳出土品(三重県松阪市)
▽修羅と梃子棒・大阪府三ツ塚古墳出土(大阪府)
▽埴輪水鳥・大阪府城山古墳出土(大阪府藤井寺市)
▽鹿児島県広田遺跡出土品(鹿児島県)

《歴史資料》

▽ジョサイア・コンドル建築図面(京都大)
▽銀板写真・松前勘解由と従者像(北海道松前町)
▽万年自鳴鐘(東京・東芝)
▽銀板写真・田中光儀像(東京都練馬区・個人蔵)
▽同・黒川嘉兵衛像(東京都町田市・個人蔵)
▽同・遠藤又左衛門と従者像(横浜美術館)
▽同・石塚官蔵と従者像(横浜市・個人蔵)
▽長崎奉行所関係資料(長崎県)

【登録有形文化財】

《美術工芸品》

▽有田磁器・柴田夫妻コレクション(佐賀県)
▽飛騨地域考古資料・江馬修蒐集品(岐阜県高山市)
▽建築教育資料(京都大)
▽紙芝居資料(宮城県)

《建造物》(主な事例)

▽旧関善酒店主屋(秋田県鹿角市)
▽石岡第1発電所本館発電機室ほか(茨城県北茨城市)
▽国際文化会館本館(東京都港区)
▽旧上野家住宅ほか(京都府舞鶴市)
▽堂々川二番砂留ほか(広島県福山市)
▽浜田温泉資料館(大分県別府市)

 

●  滋賀県延暦寺慈眼堂など7件が有形文化財に指定(2006年3月17日)

 滋賀県教委は延暦寺慈眼堂など計7件を、新たに県有形文化財に指定した。県指定文化財は計438件になる。
 指定された文化財は次の通り(カッコ内などは所在地、所有者)。

【建造物】

▽延暦寺慈眼堂(大津市坂本4丁目、延暦寺)
 江戸時代前期(1646年)、徳川家光の命を受け建立された。屋根は宝形造りで、桟(さん)瓦ぶき。禅宗様を基調としつつ、和洋の要素を採り入れている。慈眼堂、石燈籠(とうろう)が一体になり、良好な景観が保存され、廟所建築として貴重な建造物。

【美術工芸品】

▽絹本著色兜率天曼荼羅図 県立琵琶湖文化館、成菩提院
 南北朝時代(14世紀末)。弥勒菩薩が住む兜率天曼荼羅を描いた数少ない作の一つで、青や緑など寒色中心に抑揚を抑えた描線が特色。中世の仏画はほとんど残っておらず、仏教画史上貴重な作品。

▽銅鉢 県立琵琶湖文化館、明王院
 南北朝時代(1335年)の作で願主は僧侶の覚実(かくじつ)。鋳型に銅を流し込んで作製する鋳銅制仕上げで、供養具として使われた。作製年と願主が分かっており、西日本では数少ない鉢の基準作になっている。

▽大般若波羅蜜多経 愛荘町、金剛輪寺
 筆者は源敦経(みなもとあつつね)で、平安時代後期(1112年)に書写した。院政期貴族の生活がうかがえることから資料価値が高い。

▽近江輿地志略94冊 県琵琶湖文化館、県
 近江輿地志略6冊 大津市歴史博物館、浄光寺
 江戸時代中期(1733年)、膳所藩主・本多康敏の命で藩士の寒川辰清が編さんした地誌。県内全域を網羅した地誌の原本資料として、貴重。村、名所旧跡、神社、河川などを中心に、土産物なども記述している。

▽山津照神社古墳出土品 米原市能登瀬、山津照神社
 米原市能登瀬の山津照神社古墳跡から出土した金剛製冠の破片や壺鐙(つぼあぶみ)などがあり、古墳時代後期(6世紀中期)の物とみられる

 

● キトラ壁画の「白虎」5月12日から公開(2006年3月17日)

 明日香村阿部山のキトラ古墳の石室からはぎ取った「白虎」が、5月12日から同28日までの17日間、明日香村奥山の飛鳥資料館で一般公開される。
  白虎(西壁)は、絵に亀裂が入っていたため、分割して平成16年9月に胴体、17年5月に前足がそれぞれはぎ取られた。青龍(東壁)や玄武(北壁)もはぎ 取られ、保存処理が進められているが、白虎は絵の描かれている漆喰が比較的安定していたため、先駆けて公開することにした。

 

● 守山・欲賀南遺跡で銅造十一面観音像が出土(2006年3月16日)

 滋賀県守山市欲賀町の欲賀南遺跡から、平安時代後期の銅造十一面観音立像が見つかった。
 観音立像は像高9.6cmの銅造で、室町−江戸時代の屋敷跡周辺の穴から出土し、頭部の十一面観音や身に付けている天衣が分かる保存状態だった。
 平安時代の銅製の十一面観音立像が出土するのは全国的にも珍しく、有力者の念持仏だった可能性もあると見られる。
 また、併せて調査した欲賀南遺跡から200m北西の欲賀遺跡では、2年前に巫女形埴輪が出土した古墳が、直径約20mmの円墳と確認された。

 

● 大津・日吉大社境内神宮寺跡見つかる (2006年3月10日)

 滋賀県大津市坂本の日吉大社境内にある日吉神宮寺遺跡で、室町時代の神宮寺跡とみられる建物の礎石が見つかった。
 遺跡の中心部で室町時代のものとみられる礎石が3m間隔で南北12m、東西9mにわたって確認された。礎石の見つかった場所は、延暦寺に伝わる室町時代の絵図「日吉山王社古図」に描かれた神宮寺の位置と符合した。
 また、さらに下層からは、平安時代とものとみられる土器が出土した。
 神宮寺については、天台宗の開祖・最澄の父親が子どもを授かるよう祈願するため草庵を設けてこもった場所で、最澄も比叡山に入る前にこの草庵にこもり祈願したと伝えており、平安期にも室町時代と同規模の寺があったと考えられる。

 

● 醍醐寺で寺宝展(2006年3月17日)

 京都市伏見区醍醐の醍醐寺の寺宝を特別公開する「密教美術と桃山の美−秀吉と桜」が、3月18日から5月14日まで同寺の霊宝館で始まる。
 絵画「閻魔天像」と「訶梨帝母像」が初めて同時展示されるなど、国宝5点、重要文化財36点を含む69点を公開する。

 主な展示品
 閻魔天像 国宝 縦130cm、横70cm 平安後期
 訶梨帝母像 国宝 縦130cm、横80cm 平安後期から鎌倉前期
 醍醐花見短籍 重文
  慶長3(1598)年に豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」で、北政所や前田利家らが詠んだ和歌をまとめたもの。

 

● 奈良・平城京の羅城は東西1km(2006年3月10日)

 奈良県大和郡山市の下三橋遺跡で平城京の正門「羅城門」両側から広がった城壁「羅城」は、瓦屋根がある高さ3〜4mの木造塀で、東西約1キロだけだったことが分かった。
 平城京の九条大路南側2カ所を調査した結果、幅は約1.5mの2列の掘っ立て柱の穴が見つかった。
 平城京が手本にした唐の都長安は堅固な城壁に囲まれていたが、平城京は都の中心を南北に走る朱雀(すざく)大路の入り口、羅城門の両側にだけ木造塀を設けた構造で、外来の客を迎える京の入り口を装飾的な役割しか持っていなかったと考えられる。

 

● 石神遺跡で銅の人形二つも出土(2006年03月10日)

 奈良県明日香村飛鳥の石神遺跡で銅製の人形、古代のげたや封筒などが見つかった。
  銅製人形は、一つは長さ5.5cm、幅1.7cmで、点状の目と口が表現されている。もう一つはひと回り小さい。観音経木簡と同じ溝跡から二つが重なるよ うに出土した。 同じ溝からは、封緘(ふうかん)木簡(長さ7cm、幅3.5cm)も見つかった。2枚の木簡で手紙を挟み、両端をひもで結んで使った封筒 のようなものだという。 別の溝からは、二つの歯があるものとしては最古級のげた(長さ26.5cm、幅10cm)も出土。

 

● 奈良・石神遺跡で最古の観音経の木簡が出土(2006年3月9日)

 奈良県明日香村の石神遺跡で、観世音経(観音経)について国内最古の記録となる木簡が見つかった。
  同遺跡は、天武天皇の母である斉明天皇の迎賓館などがあったとされ、木簡は溝跡から出土した。縦18.6cm、幅2.3cm、厚さ4mmで、表に「己卯 (きぼう)年八月十七日白奉経」、裏に「観世音経十巻記白也」と墨書され、観世音経10巻を書写したことを報告する内容。
 日本書紀は、天武天皇が亡くなる2カ月前の686年7月、観音経を大官大寺で読経させ、8月には観音像100体を宮中に据えて観音経を読ませたと記しているが、木簡の己卯年は679年と見られ、日本書紀の記述を7年さかのぼる。
 仏像では、奈良県斑鳩町の法隆寺にある651年の銘の観音菩薩像が国内最古とされている。

 

● 石舞台古墳そばに蘇我一族の宿泊施設か(2006年3月8日)

 奈良県明日香村の石舞台古墳の隣接地で、墓を築く際に蘇我一族が現場に泊まっていた建物跡とみられる柱穴が見つかった。
 県道工事に伴って島庄遺跡内の棚田を調査。古墳東側の外堤から約30mの所で計9本の柱穴が見つかり、いずれも古墳石室と同じ向きに並んでいた。付近から7世紀前半の土器が出ており、古墳築造と同時期の2棟の建物跡と判断した。
 また、一辺と深さが2m近い四角い穴の一部が2カ所で見つかりった。儀式や目印に使われたと見られる直径約30cm、高さ10m以上の柱が立っていたと見られる。
 日本書紀は、628年に蘇我一族が馬子の墓を造るため墓の地に泊まっていたと伝え、推古天皇の後継問題を巡って馬子の子の蝦夷と対立した馬子の弟境部摩理勢が宿泊所をうちこわし、後に蝦夷側に殺害されたと伝えている。

 

● 奈良・飛鳥京跡 天武天皇の居室「内安殿」出土(2006年3月8日)

 奈良県明日香村の飛鳥京跡で、天武・持統両天皇の飛鳥浄御原(きよみはらの)宮(672〜694年)で天皇が居住した「内安殿」とみられる大型建物跡が見つかった。
  昨年3月に発掘された、正殿とみられる建物跡の北隣約20mの位置に新たに見つかったもので、建物跡は、直径約80cmの柱穴が並ぶ西半分を確認、東西 24mに復元できることから、同規模、同構造の建物が2棟が平行に建っていたことが判明した。南側の建物は階段を備えており、儀式などを行った公的な性格 が強いとみられ、今回の建物は天皇が起居し、限られた人物しか出入りできない「私的空間」だったらしい。2棟に挟まれた場所は塀で囲った跡があり、特別な 儀式を営んだ広場だった可能性もある。周囲には石を敷き詰め、建物の隅に幡(旗)を飾った柱穴があり、脇殿の一部も見つかった。
  日本書紀によると、浄御原宮には、天武天皇が親王・諸王を招いた「内安殿」と、遊戯や饗宴(きょうえん)を催した「大安殿」、諸臣が集まった「外安殿」が あったと記されており、昨年発掘された建物跡が正殿に当たる大安殿、今回の建物が内安殿と見られ、塀を隔てて南側にあった建物を外安殿、区画外の「エビノ コ大殿」を大極殿とみている。
 また、下層からは柱穴に焼け土や炭が詰まった東西、南北とも9m以上の大型建物が出土し、跡舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜636年)の一部とみられることが判った。古代宮都や律令国家の形成の解明につながる成果となる。

 

● 聖武天皇の仏教帰依、大地震がきっかけか(2006年3月2日)

 聖武天皇(701〜756)が平城京と難波宮間を行幸した直後にその一帯で阪神・淡路大震災級の大地震が起きたとみられることが明らかになった。
  続日本紀には天平6(734)年4月に「山が崩れ、川がふさがり、地が裂けて、多くの圧死者が出た」と記述されているが、デジタル地図に情報を重ねる地理 情報システム(GIS)で震度分布図を作製した結果、この地震は大阪を南北に走る生駒断層帯が動いた直下型とみられ、マグニチュードは7.0〜7.5 だったことがわかった。聖武天皇は地震直前の3月に難波宮を訪れ、竹原井頓宮(かりみや)(大阪府柏原市)をへて平城京に戻っているが、聖武天皇の行路周 辺は断層帯に近く、震度6弱以上の強い揺れに見舞われ、大きな被害が出たと推定した。
 天皇は地震後の7月に最近天変地異が多く、地震もあった。責任は自分一人にあるとして大赦を実施。同じ年には人々の命を全うさせるためにと写経を、翌年には読経も命じ、7年後の741年に国分寺建立、743年に大仏建立の詔を出している。
 聖武天皇は訪れたばかりの地が震災に見舞われたことに大きなショックを受け、仏教への帰依を強めたのではないかと考えられるという。

 

● 大阪府が国の文化財へ補助復活(2006年3月4日)

 大阪府教育委員会は、1999年に財政難で一部を除き打ち切った国宝や重要文化財、史跡など国指定文化財の修復、保存を目的にした補助金の一部を復活させる方針を固めた。
 国指定文化財の修理などは国が費用の85−50%を補助しており、1999年以前は残りの半額を府教委が補助し、後は市町村と文化財所有者が折半していたが、2000年以降は国と市町村だけが補助を続けていた。
  一時は浄土真宗の本山だった大阪府貝塚市の願泉寺では、阪神大震災や台風などで屋根が損壊し、建立以来約300年ぶりの大規模修復工事を始めたものの、修 復事業費15億6千万円のうち国と貝塚市の補助を除く2億3500万円を寄付などで賄おうとしたが1億円弱しか集まらず完成がおぼつかない状態という。

 

● 金色堂の造立年輪年代法により通説裏付(2006年3月3日)

 岩手県平泉町の中尊寺金色堂の柱や天井板に使われたスギ材とヒバ材が1114〜16年ごろのものであることが年輪年代法による測定で分かった。
 金色堂は、棟木銘や文献から奥州藤原氏の初代清衡が平安後期の1124年に造立したとされており、清衡が建立したという通説が科学的に裏付けられた。

 

● 唐古・鍵遺跡の楼閣を初公開(2006年3月3日)

 奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で1994年に復元された楼閣(高さ12.5m)が3月19日に一般に特別公開される。
 同遺跡は弥生時代最大級の環濠集落遺跡で、楼閣は出土した土器の絵を元に復元されたもので、高床風の建物に上屋を重ねた2階建で、唐古の唐古池の端に立つ。
 さくが設けられて普段は入れないが、今回は屋根などの修理に合わせ、池の土手から組んだ足場を通って入場できるようにした。

 

● 平城宮跡朝集殿院で道路の両脇に飾る旗の柱穴発見(2006年3月3日)

 奈良市佐紀町の平城宮跡で、儀式の際に立て並べた旗ざおの柱穴が見つかった。
 柱穴は約26mにわたって見つかり、道路の両側に十数基ずつ並んでいた。これまでにも南側で見つかっており、同院の南門から北の端まで、中心道路の両脇を旗で飾った様子が浮かび上がった。

 

● 高松塚古墳の石室解体取り上げの実験成功(2006年3月3日)

 京都府加茂町に設置された高松塚古墳の石室解体実験場で、石室模型を利用して解体実験をスタートし天井石の取り上げ実験を行った。
 クレーンに取り付ける治具は、最小限の力でバランス良く持ち上げられるよう、6カ所にセンサーを取り付け、石のひずみの度合いを計測し、実物と同様、亀裂を入れて設置した天井石を無事取り上げた。

 

●  滋賀県で「びわこ検定」の検討開始(2006年2月28日)

 滋賀県は、滋賀に関する知識を問う「びわこ検定」の実施に向け、県内の経済界や観光関連業者と検討を始めることを明らかにした。
  地域の歴史や文化などを問う「ご当地検定」は、京都や沖縄、金沢などですでに実施されており、滋賀県でも彦根商店街連盟が昨年12月に初めて「彦根城下町 検定試験」を行ったが、びわこ検定では、滋賀の特色を打ち出すため、琵琶湖や滋賀の環境に関する問題を盛り込む方針。2007年度以降の開始を目指す。

 

● 奈良まほろばソムリエ検定来年1月から(2006年2月28日)

 奈良の歴史や文化に関する知識を問う「奈良まほろばソムリエ検定(奈良検定)」が来年1月からが始まる。
 奈良商工会議所が主催し、奈良への理解を深めてもらい、観光振興につなげるのが狙い。県全域の歴史や文化などが出題対象で、「奈良通2級」「同1級」、記述式の「奈良まほろばソムリエ」がある。

 

●  法隆寺・金堂須弥壇に亀裂、国宝の多聞天像を緊急避難(2006年2月27日)

 奈良県斑鳩町の法隆寺で、金堂須弥壇の表面の漆喰に数cmから数十cmの亀裂が何本も入り一部浮き上がった状態になっていることがわかった。
 金堂には、本尊の釈迦三尊像など飛鳥から鎌倉にかけての国宝や重文などの仏像9体が安置されている。
 須弥壇は金堂の中央付近にあり、東西約8.7m、南北約5.4m、高さ約57cmの土壇。昭和の大修理(1949〜54年)の際、破損した部分を切り崩して築き直し、表面に漆喰を塗って修復したが、昨年になって、増加していることが判明。
 北東隅では下の土台が見える部分もあり、寺は、応急措置としてひび割れ付近の須弥壇側面を板で補強。また、万一の事態に備え、昨秋、四天王像(国宝)の一つ多聞天像を宝庫に緊急避難した。
 亀裂が起きた理由は不明だが、土台そのものが損傷している可能性もあるという。

 

● 三十三間堂3月3日に無料拝観(2006年2月27日)

  京都市東山区の三十三間堂では今年も3月3日に無料拝観を実施するが、今年は初の試みとして、本堂の一隅に高さ約1.5mの壇を特設し、参拝者は階段状に 並ぶ1001体の観音像を高い位置から広く見渡せるようにする。三十三間堂は平安時代末期に平清盛が建立。焼失後、鎌倉前期の1266年に再建された。
 今年は新たに本堂南東角の廊下にL字型の壇を設置し、普段は仰ぎ見る格好の千手観音像や二十八部衆、風神像などを見渡すことができる。

 

● 奈良・巣山古墳ハ大王運んだ霊柩船(2006年2月23日)

 奈良県広陵町の国特別史跡・巣山古墳の周濠から、表面に文様が刻まれ、朱が塗られた類例のない形の大型の船形木製品や、木 棺の蓋、木偶(もくぐう)などの木製品が多数出土した。
 木製品は船の形に復元でき、埋葬前に遺体を仮安置する「殯(もがり)」の場から古墳まで陸路で遺体を運んだ〈霊柩(れいきゅう)船〉の一部とみられ、古代の葬送儀礼を実証する発見となる。
  船の側板形の部材は杉製で長さ3.7m、幅45cm、厚さ5cm、復元すると長さ8.2m。魔よけを意味する三重の円と帯状の文様が刻まれていた。木棺は クスノキ製で長さ約2.1m、幅約78cm、厚さ約25cm。縄掛け突起があり、組み合わせ式石棺「長持型石棺」と似た形状を持つ。復元長は約4m最大幅 約1m。表面に直線と弧線を組み合わせた「直弧文」と三重の円が刻まれ、一部に朱色の顔料が残っていた。
 これらを組み合わせると、先端が反ったゴンドラ形の船に棺を載せたような形になり、中国の7世紀の史書「隋書倭国伝」の「貴人は、三年外に殯し、葬に及べば、屍を船上に置きて、陸地にて之を牽く」という記述と合致する。
 すべて人為的に破壊されおり、棺の埋葬後、役目を終えた船や飾りは、斧や槌で砕く、「破砕祭祀」を行ったとみられ、古代の葬送儀礼を知る手がかりとして注目される。
 古墳から木偶が出土した例は初めてという。
 一帯は大豪族、葛城氏の本拠地とされ、被葬者は大王に近い有力者とみられている。
 

 

● 大津市の上仰木遺跡から製鉄炉、延暦寺造営の資材工房か(2006年2月21日)

 大津市の上仰木遺跡で、平安時代前期の製鉄炉1基が見つかった。
 製鉄炉は長さ1.2m、幅0.5mで箱型で燃料の木炭を焼く窯も1基あった。
 近くの谷からは、製鉄の過程で生じる鉄かすや炉壁のかけら(計約120トン)も発掘され、かなり大きな工房だったらしい。
  遺跡は比叡山のふもと、延暦寺横川中堂まで約3キロある道の登り口にあり、延暦寺の大規模な伽藍造営に当たり、くぎやかすがいなど建築資材を作った重要な 生産工房だった工房跡と見られ、10〜11世紀ごろの銅の塊も出土することから、銅製の仏具なども鋳造したと見られる。

 

● 大阪・百済寺跡の西塔 基壇は壇上積み(2006年2月16日)

 大阪府枚方市の百済寺跡西塔の基壇跡が壇上積みという最上級の外装方法だったことが分かった。 

 百済寺は、660年の百済滅亡のため亡命してきた渡来氏族・百済王氏の氏寺と伝えており、凝灰岩の延石の上に地覆石を組み合わせた、地方の氏寺としては最上級作りであることが判った。

 

● 京都市、指定登録文化財に下鴨神社社家、鴨脚家庭園など7件 (2006年2月16日)

 京都市は下鴨神社社家、鴨脚家庭園など7件を市指定・登録文化財にすることを決めた。
◇…指定…◇
【名勝】▽下鴨神社社家、鴨脚(いちょう)家庭園(左京区)
【美術工芸品】▽絹本著色佐久間将監像(北区・大徳寺真珠庵)
▽客殿障壁画(右京区・妙心寺隣華院)
▽金銅製蓋付き蔵骨器(京都市)
◇…登録…◇
【建造物】▽九頭神社本殿(右京区京北)
【有形民俗文化財】▽崇仁船鉾・十二灯装飾品一式(下京区・崇仁自治連合会)
【無形民俗文化財】▽御香宮祭礼獅々(御香宮獅々若会)

 

●  高松塚壁画の女性像に黒いしみ(2006年2月10日)

 奈良県明日香村の高松塚古墳の極彩色壁画のうち、「飛鳥美人」として知られる西 壁の女性像の目尻や肩に黒いしみができていたことがわかった。
  西壁の女性群像のうち、右から2人目の赤い上着を着た女性の右目尻に、直径約1mm、右肩に縦約2cm、横約3cmの黒いしみがあった。今月2日に撮影し た写真を検討中に発見した。以前の写真も調べたところ、写真集の出版に伴い平成14年に撮影した壁画の写真には写っていなかったが、昨年9月に撮影した写 真にはしみが既に写っており、平成14年から昨年9月までの間で、発生したと見られる。
 高松塚壁画は今まで、数カ所にカビが見つかっているが、顔など中心部に汚れを確認したのは初めて。
 また、同じ女子像の肩付近で、以前から確認されていた黒いしみが、さらに濃くなっていることも判明。目元や肩のしみの原因は不明。近く微生物の専門家が現地調査し、原因の特定を急ぐ。


● 高松塚古墳の石室にゆがみ(2006年2月10日)

 国宝壁画の保存に向け、来年2月にも石室が解体される明日香村平田の高松塚古墳 の石室にゆがみがあることが分かった。
 石室内部の測量調査で、床面が北東隅から南西隅に向かって約7cm下がっており、天井も同様に約8cm下がっていることが判明。また石室の主軸方位が北で西に約1度ずれていた。石室解体を実施する上で貴重なデータとなりそうだ。

 

● 高松塚、発掘は10月開始、石室解体は来年2月から(2006年2月9日)

 文化庁の高松塚古墳恒久保存対策検討会は、作業部会が提案した石室解体と修復の スケジュールを了承した。
 これによると、まず壁画の現状を高精度カメラで撮影し、フォトマップを作成。壁画を傷めない方法を実験で確かめ、9月からレーヨン紙やガーゼで壁画を表打ちし、下地漆喰を補強する。その際解体の支障となる漆喰は取り除く。
 古墳周囲の発掘は本年10月に開始し、墳丘頂上から石室の底まで段階的に掘り、石室の実寸計測や石材状態の調査、墳丘の構造や壁画環境の劣化原因を探った後、石室の解体作業は来年2月から行う。
 石室を元に戻すまで10年がかりの作業になる。
 

● 高松塚古墳解体の実験場を公開(2006年2月2日)

 石室を解体し、壁画を修復・保存することが決まっている奈良県明日香村の高松塚 古墳の石室を解体実験場として、京都府加茂町西小設置された設備が公開された。
 実験場付近も土の質が、高松塚古墳の墳丘の土と似ていることなどからこの場所を実験場に選定し、工法も同古墳と同様に土を何層にも突き固めながら盛り土していく版築を用いて直径15mの墳丘を設置するなど、できるだけ同じ条件になるように造ったという。
 9日に奈良市内で開かれる同古墳保存対策検討会後、解体実験に着手する。


● 長岡京・下海印寺遺跡で建物跡など発見(2006年2月2日)

 京都府長岡京市下海印寺の下海印寺遺跡で長岡京時代に建てられた可能性のある 掘っ立て柱建物跡3棟と溝などが見つかった。
 西側の1棟は柱穴8基を備えた、南北4.2m、東西3.9mの規模で、3棟のうち2棟の主軸は、南北方向を向いて整然と並んでいる。
 また、溝は長さ10m、幅80〜100cm、深さ40cmで、奈良−平安時代の土師器や須恵器の破片も多量に出土した。
 建物も溝も長岡京時代に含まれると考えられ、長岡京の造営事業が京域西端にまで進んでいた、と推測させる貴重な資料となる。


● 「奈良検定」来年1月に実施(2006年2月2日)

 全国の京都通が知識を競う「京都検定」に続き、「奈良検定」が07年1月に実施 されることになった。
 奈良検定の正式名は「奈良まほろばソムリエ検定」で奈良商工会議所が主催する。
  資格は「奈良まほろばソムリエ」をトップに奈良通1級、同2級の3ランクを設定。2007年は最も易しい2級のみで、2008年に1級、2009年にソム リエ試験が行われる。出題は4択式の100問。京都検定が主に京都市内を対象としているのに対し、奈良検定は奈良県全体を対象とする。
 2009年以降にはソムリエ認定者でつくる「まほろば倶楽部(仮称)」を発足させ、旅行計画を会社に提案したり、旅館で旅の手配をしたりする奈良観光のエキスパートとして活躍してもらうことも検討中という。
 また今秋には、奈良を訪れる修学旅行生を対象に「ジュニア検定」も計画している。

● 三宅島の重文・観音像、5年半ぶり帰島(2006年1月31日)
 2000年8月の大噴火直後、東京・上野にある文化庁の収蔵庫に保管されていた、東京都三宅村海蔵寺に伝わる国指定重要文化財の観音立像が、昨年2月に避難指示が解除されたのに伴い、5年半ぶりに帰島することとなった。
 観音立像は高さ約30cmの銅造で、白鳳時代につくられたとされる優美な像であるが、火山ガスが金属に与える影響の度合いを測り、ガス吸収用のシートでこん包することなどを条件に「帰島可能」と判断した。

● 野洲で仏像の台座など見つかる(2006年1月31日)
 滋賀県野洲市冨波の常楽寺遺跡で鎌倉時代前期とみられる仏像の台座の一部や瓦片、輸入陶磁器などが見つかった。
  見つかったのは、木製の仏像の蓮華座の一部(長さ約20cm、幅約6cm、厚さ約6cm)で、ハスの花の模様が描かれ、黒漆が施されていた。また、井戸跡 からは、観音菩薩が持つ蓮華の茎と考えられる棒状の木製品(長さ約12cm、直径約1cm)も出土した。台座と木製品はセットの可能性が高く、仏像は像高 約90cmの聖観音立像と推測される。
 現在の常楽寺には、前身の常楽寺が織田信長の焼き打ちで焼失したという言伝えがあり、伝承通り常楽寺の前身の寺院があった可能性が高まった。

● 東大寺転害門の古材、床柱に転用(2006年 1月27日)
 奈良市多門町の河瀬家住宅で、国の登録有形文化財の登録に伴って調査した結果、 国宝・東大寺転害門の地垂木が床柱として転用されていることが分かった。
 河瀬家住宅は奈良奉行所の同心などが住んだ武家屋敷で、主屋は安政3(1856)年の建築。床柱は昭和17年の改修で組み込まれたといい、転害門が昭和 6年の解体修理された際取り外された地垂木の一本とみられる。 


● 前橋の寺院跡で8世 紀前半の塑像片出土(2006年1月26日)

 群馬県前橋市総社町の山王廃寺で出土した塑像片に「群青」の彩色が確認された。
 山王廃寺は7世紀後半の白鳳期に建てられた初期の寺院で、11世紀前半まで「放光寺」の名称で栄えたとされ、これまでの発掘調査で、約2200点の塑像片が見つかっている。
 群青が確認されたのは、「胡人像上半身」と呼ばれる全長約10cmの塑像片で、焦げ茶色に変色した着物の襟部分の青色粒子がエックス線分析の結果、群青の原料である藍銅鉱であることがわかった。
 群青の使用は7世紀末の法隆寺金堂壁画が国内最古とされ、東日本でほぼ同時代のものが確認されたのは初めてという。

● 奈良・キトラ古墳で寅のはぎ取りを断念(2006年1月17日)

 明日香村阿部山のキトラ古墳で、17 日にはぎ取る予定だった東壁の12支像の寅の胴体など本体部分について、急きょはぎ取 りを断念した。
  寅の本体部分をはぎ取る前に、絵の右上の余白部分をはぎ取ったが、絵の下地となっている漆喰が全面的に石壁と固着し、ヘラが石壁との間に挿入しにくい状況 だった。また、針状のものを使って、少しずつ剥ぎ取ろうとしたが、表面に亀裂が入るなどうまくいかず、剥ぎ取った後は一部がばらけてしまった。
 文化庁では、壁画はぎ取り作業は一時中断し、道具を改良して再度挑戦する予定だが、傷みが激しい天井の天文図や、漆喰が予想以上に薄い南壁の朱雀に加え、壁画保存対策に新たな課題が生じた。文化庁は、石室の部分解体も含め今後の対応を検討する。

 

● 投入堂は朱塗りだった可能性(2006年1月13日)

 鳥取県三徳山三仏寺の国宝投入堂が、当時、朱色に塗られていた可能性があること が分かった。
 投入堂は役行者が706年に開いたとされる修験道の道場として知られるが、現在の投入堂は白木造りで、大正時代に修復されているが、修復前から同様の姿だったと考えられていた。
 しかし、岡倉天心らが国宝調査のため明治36年(1903)に鳥取、島根、山口の3県を旅した際の日記を分析した結果、当時、朱色に塗られていた可能性があることが分かった。


● 山瀧寺跡で瓦溜まり出土(2006年1月12日)

 京都府宇治田原町山瀧(さんりゅう)寺跡から奈良時代の瓦片を中心とした瓦溜ま りが見つかった
南北幅約3m、東西幅約1mで、コンテナ5、6箱分の大小の瓦片が出土した。創建期と思われる白鳳時代の軒瓦2点も含まれている。
山瀧寺は、7世紀後半に建てられたとされる寺院


● 高松塚古墳2月にも石室解体実験(2006年1月12日)

  奈良県明日香村の高松塚古墳で国宝壁画を修復・保存するための石室解体について、文化庁の同古墳保存対策検討会は保存科学や考古学などの専門家ら9人が参 加して、来年1、2月ごろの石室解体に向け、今年2月にも解体実験をし、秋に墳丘を発掘するなど大まかな作業日程を固めた。

 

● 京都府指定・登録の府文化財小冊子作成(2006年1月6日)

 本年度に指定・登録された京都府文化財の歴史などを解説した小冊子「守り育てよ うみんなの文化財」23号が発行された。
 禅林寺(永観堂-京都市左京区)の阿弥陀堂や、観音寺(和束町)に伝わる奈良時代の木心乾漆菩薩坐像などの建造物、美術工芸品15件を紹介している。
 また、勧進状をテーマにした特集記事も掲載している。


● 藤原宮内裏で大型建物遺構(2006年1月5日)

 持統、文武、元明の三代天皇の都だった奈良県橿原市の藤原宮跡で、内裏中心部か ら周囲にひさしのある大型の掘っ立て柱建物の遺構が見つかった。
 遺構は東西17m、南北11mで、1mの柱穴や、直径約30cmの柱も残っており、周辺の状況から庇(ひさし)があったとみられる。
 位置は都城の中軸線上からずれており、天皇の住む正殿ではなく、儀式などに使った建物だった可能性もあるが、藤原宮の内裏中心部で、建物の規模が明らかになったのは初めてという。

 

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