特選情報(2002年)

●奈良文化財研究所50周年記念シンポジュームで年輪年代学が議論(2002年11月10日)

 奈良文化財研究所50周年記念シンポジュームで、昭和55年から年輪年代法の研究を続けてきた光谷拓美・同研究所埋蔵文化財センター古環境研究室長が「年輪年代学からみた新たな課題」と題して研究発表を行った。

 年輪年代法は建物に使われている部材の年輪から、正確な年代を導き出す方法で、日本では欧米に遅れて研究が始められたが、光谷さんは法隆寺五重塔心柱と鳥取県の国宝三仏寺奥院投入堂の結果を事例に、年輪年代法の応用が古代建築の解明に有効であることが紹介した。

 

●滋賀・信楽で大型銅溶解炉跡13基発見、紫香楽宮に大仏工房か?(2002年12月11日)

  滋賀県信楽町黄瀬の鍛冶屋敷遺跡で、紫香楽宮(しがらきのみや、742〜745年)の時期と見られる大型の銅溶解炉遺構十三基が見つかったと、滋賀県教育 委員会が10日発表した。炉跡は直径約1mのだ円形で、約7m間隔で整然と並び、東西に8基と5基の計13基が残っていた。

 前例のない規模で、聖武天皇が東大寺の前に、紫香楽宮で大仏造立を目指した甲賀寺の仏像などを造った官営工場と推定される。

  また、炉跡群を壊した後に直径約5m、推定深さ3mの大型の鋳込み場が二つ造られており、一方は、残った鋳型底部から六角形の台座(差し渡し約2m)の鋳 造、もう一方は梵鐘(直径1.8m、推定高2.5m)を鋳造と見られる。抜け落ちて二つに割れた中子(中型)が残っていた。

 大型鋳物の一連の鋳造工程が分かるとともに、その後、場所を変えて造られた東大寺大仏の造立の謎を解く手がかりとなると考えられる。

 

●薬師如来像出土 和歌山・本宮町(2002年12月4日)

 和歌山県本宮町の備崎経塚群を調査している同町教育委員会などの発掘調査委員会は4日、全長4・9センチの薬師如来とみられる鋳造の立像を発見した、と発表した。
 同委員会は大谷女子大(大阪府富田林市)の協力を得て同町備崎周辺の標高約100メートルの山林2カ所を調査し、2月に山頂部分で確認された経塚34基のうち、1基の底から見つけた。
 発掘に当たった大谷女子大の中村浩教授は「左手上に薬つぼとみられるものを載せていること、衣の彫り具合などから、平安後期−鎌倉初期の薬師如来像と考えられる」と話している。
 

●三徳山投入堂の本尊の作者を康慶と特定。(2002年10月27日)

  奈良国立博物館の松浦正昭・仏教美術研究室長は二十六日、鳥取県三朝町の三徳山・三仏寺にある投入堂(国宝)の正本尊である蔵王権現立像(重要文化財)の 作者が、平安時代末から鎌倉時代初期の仏師「康慶」と分かったことを明らかにした。同日の三徳山フェスティバルで発表した。
 像の胎内から発見されていた仁安三(1168)年の年号が記された造仏願文の最後の文章は、従来「□うけい院つくりて候(そうろう)」と読み、意味不明 であったが、□を、文字の筆順などから”か”の異体字と読み、さらに院と読める文字は前後の脈略から変体仮名で”能”(の)読むべきで、「”かうけいのつ くりて候”と判読すべきだ」とした。「かうけい」は康慶に当たるという。

 康慶は慶派の創始者で、大仏師運慶の父であり、快慶の師匠として知られる。仁平二(1152)年に像高五尺の吉祥天像を造った記録があるのを始め、蓮華王院や興福寺の復興に尽力した。遺品としては、興福寺南円堂の不空羂索観音坐像、四天王像、法相六祖像が著名である。 

 

●東大寺戒壇堂の国宝・四天王像の心木構造が土偶に近い構造を持つことがあきらかになった。(2002年10月10日)

 奈良国立博物館と東大寺が9日、東大寺戒壇堂の国宝・四天王像の心木構造が、木偶に近い「造形心木」で、「木胎塑像」の特徴をもっていることがエックス線透過撮影調査で分かったと発表した。
 天平時代の代表的な塑造神将形立像としては同四天王像と新薬師寺十二神将像、東大寺法華堂執金剛神像などがあるが、その多くは心木構造は木を組み合わせて骨組みを造る構成心木であることがすでに解明されている。
 戒壇堂の持国天像の場合、頭部から胴部にかけての心木は、木偶状の一材で形整され、胸から腹のあたりが大きく刳(く)られている。またこの頭部から胴部 の心木に横木をわたし、その両端に両腕の心木を打ちつけて固定している。脚部の心木は邪鬼の心木に柄穴をあけて、深く挿入している。鎧(よろい)の裾(す そ)の縁に、補強するための銅線が入れられている。両手先は木製で後から補ったものであることなどが分かった。基本的な心木構造が造形心木であることはほ かの三体も共通していた。

 また新薬師寺像は基本心木に薄い折板を組んで縄を巻き、その上から荒土をつけて制作しているが、戒壇堂の像は心木が太く、また持国天像の左脇腹は塑土の層が極めて薄いことも分かり、どのように土をつけたのかも今後の研究課題としている。

 造形心木:薬師寺五重塔に安置されていた塑像に見られるように、像の形にあわせて人型に木を削り心木としているものをいう。

 構成心木:木を組み合わせて骨組みを造り心木とするものをいう。

 木胎塑像:木彫で手足を含めた像の形を造り、この上に塑土をモデリングしたものをいう。法隆寺食堂の梵天・帝釈天立像にその例が見られるが、この像の場合、沓の部分の木彫の心木に足の指まで彫出している事が知られている。

 

●鳥取県三仏寺の投入堂に平安中期建立の先代が存在したことがあきらかになった。(2002年10月4日)

 鳥取県三朝町と奈良文化財研究所埋蔵文化センター、奈良国立博物館は三日、同町三徳山の投入堂は平安時代中期後半の1025から1030年に山岳修験道の拠点として初代建物があったとみられると発表した。

  先月27日には、投入堂と納経堂が、部材の年輪年代法による測定で平安時代後期に当たる1076年から1100年ごろの創建であることが判明したと発表し ているが、今回投入堂に安置してあった七体で最も古い造形をしている蔵王権現立像を年輪年代測定したところ、1025年伐採のヒノキを使ったことが判明、 堂の推定建立年代より約70年古い作と判明したため、遅くとも1030年までには初代投入堂が建立されたと見られている。

 なお、胎内に1168(仁安三)年の造立願文があったほかの一体は、1165年に造ったことも証明され、造立願文に記されている年代と像の測定年代がほぼ一致していることが科学的に証明されたのは珍しい。

 

●山崎院跡から唐草文様の壁材が出土(2002年5月1日)

 京都府大山崎町の山崎院跡を調査していた町教委は一日、天平年間(八世紀前半)に描かれた唐草模様の壁画の破片が出土した、と発表した。

  山崎院は奈良時代の僧、行基が天平3(731)年に建立したことが『行基年譜』に記されており、9世紀前半、火災に遭ったことが分かっている。壁画は創建 当初の8世紀前半に描かれたとみられ、奈良時代以前の寺院の彩色壁画としては法隆寺金堂が現存し、出土例は鳥取県の上淀廃寺に次ぎ二例目である。

  山崎院跡からは3年前の宅地開発予定地の発掘調査で、大量の瓦、せん仏(レリーフ状の仏像)や塑像の一部が出土しており、その際に今回の壁材も出土してい たが、今春完了した洗浄・保存処理の結果、唐草模様が鮮やかに浮かび上がった。百橋明穂・神戸大教授の鑑定で上淀廃寺(鳥取県)に続く古代寺院の鮮明な壁 画と判明し、エックス線による分析で紅殻、群青、白、灰赤色などで彩られていたほか、初めてごく少量の金の彩色も認められた。

 

●東京都大田区六郷地区史跡めぐり

2002年5月22日(水)午後1:30〜3:30

コース:六郷神社(集合場所)〜東陽院〜宝幢院〜安養寺
安養寺 藤原時代の薬師、釈迦、阿弥陀如来の三尊を安置する。

定員:抽選で100名

往復はがきに必要事項(「六郷地区史跡めぐり」、住所、氏名、年齢、電話番号)を記入の上、下記に申込む

郵便番号143-0025 東京都大田区南馬込5-11-13
郷土博物館文化財係

 

●本門寺五重塔の公開

2002年5月11〜12日 御前10:00〜午後3:00

平成9年秋から約5年に亘り修理された五重塔(重要文化財、1607年建立)を公開初層の扉を開放し、外から内部を見学

 

 

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