文化財ニュース

  

特選情報(2001年上半期)

 

大宝律令しっかり浸透 古代官僚の素顔チラリ (奈良新聞 6月28日)

  国内初の本格法典として後の律令制度にも大きく影響した大宝律令。新制度施行直後の大宝元、2年の年号が記された多量の木簡は、主要役所の1つである中務 (なかつかさ)省の存在と、制度運用の実像を改めて示すものだった。新しい制度で生まれた役所や位階、称号が確認できるのをはじめ、新制度施行に真しに取 り組もうとする姿勢もうかがえ、律令制度の実相に迫る資料として、研究者の期待も大きい。一方で、この時期、中務省が宮外にあったとされる点に関しては、 ここが本体であったのかどうか研究者の間でも意見が分かれている。
 中務省は、大宝律令の中で設けられた役所で、天皇の詔勅書の作成や各種事務を行った部署。同省は、物資の宮外搬出といった物品の出入りに関する文書も扱っていたが、出土した木簡に見られるのは、制度での定めに従った表記だった。
 例えば、上申文書に付ける「解(げ)」や同格の役所とのやり取りの際の「移(い)」を記すこと、元号を明示することなど、文書書式を規定した公式令(くしきれい)をきちんと踏襲していた。
 また、天皇の品々の調達管理を担った内蔵寮(くらりょう)や、宮中の絵画担当の画工司(がこうし)といった新役所、「内親王」等の新しい称号、新旧の位階の切り替わりなど、新制度の施行状況が確認できる木簡もあった。
 これらの木簡は、制度施行間もない時期の中務省での実務内容や制度の浸透度が推察できる資料。奈良大の寺崎保広教授も「大宝律令が実際に機能していたこ とが実感できるもの。木簡の表記からは、きちんとした文書行政が行われていたことがうかがえる」と発見の意義を高く評価している。
 さらに、物品のやりとりを記した木簡には、長屋王の母とされる御名部(みなべ)内親王や藤原不比等の妻である県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)ら、著名な皇族、貴族の名も見受けられ、中務省の役割の全容の解明にも期待がかかる。
 ただ、中務省の主体がこの地に存在したのかどうかについては意見が分かれる。調査担当の奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部では、新律令制度の導入 で宮内で大規模な改築がされ、一時的に宮外に置かれたか、当初宮外に設けられた中務省が後に宮内に置かれたのではないかと推察している。
 今回の調査では、役所の日常を感じさせる木簡も多数見つかった。「上」「下」の文字と人名を並べた木簡は、勤務のシフト表とみられ、月の上旬、下旬で出勤する役人を分けていたことが分かる。
 削って使える木簡は習書にも最適。古今和歌集に収録された難波津の歌は当時から流行していたとみられ、万葉仮名で練習した木簡が見つかった。ところが、 冬を「泊留(はる)」と表記。奈文研飛鳥藤原宮跡発掘調査部の山下信一郎研究員は「覚えているつもりで格好をつけて書いたものの、間違ってしまったので は」とみる。
 上句と下句がそろった木簡は初めてで、表記の変遷を知る上でも貴重な資料という。
 また、古代の陰陽(おんみょう)道で凶の日とされる「九坎(くかん)」や「病」の文字を書き連ねた木簡からは、紙の暦を手本に習書した様子がうかがえる。
 一方で、役所で働く庶民の苦境が分かる資料も。「上毛五月逃干三」と記された木簡は、上毛国(群馬県)から徴集した炊事係「干(かしわで)」の逃亡を記録している。
 奈良大の東野治之教授(日本古代史)は「難波津の歌には7世紀代の表記が混じっており、手本が古かったのかもしれない。役所の生活感が資料も多く、興味深い」と話している。

 

大型建物跡と木簡出土大宝令の「中務省」 (奈良新聞 6月28日)

 

  奈良県橿原市上飛騨町の藤原京跡で、8世紀初めごろの大型建物跡と大量の木簡が見つかり、奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部が27日、発表した。木 簡の内容から、大宝律令で設置された2官8省の1つ、「中務(なかつかさ)省」の一部とみられる。木簡には、宮内から物資を搬出するための申請書や皇族と の関係を示す資料があり、日本が律令国家として歩み出した直後の行政の姿を知る上で1級の資料となる。
 現場は朱雀門の南東約250メートル。内裏や大極殿が置かれた宮域の外側で、市営住宅の建て替えに伴い、約2000平方メートルを調査している。
 大型の掘っ立て柱建物跡は東西21メートル、南北6メートル。北側の池に木簡がまとめて捨てられていた。削り屑を含めると1200点を超える。記された年号は大宝律令が整った大宝2(702)年後半に集中していた。
 中務省は天皇の秘書官役を務める重要な役所で、宮内から物資を運び出す場合、通過する門や担当者を決めて中務省に申請。許可証は「門ぼう」と呼ばれ、門を警護する役人に預けて検閲が行われた。
 木簡のうち、少なくとも7点がこの制度に基づく申請書とみられ、天皇の財宝を管理する「内蔵寮(くらりょう)」は、「佐伯門から糸や布を出したい」と申請、裏側に「中務省」のサインがあり、決裁のあかしとみられる。
 絵画を担当する「画工司(がこうし)」からの申請書も見つかり、大宝律令で設置された役所が確実に機能していたことが分かった。
 長屋王の母親である御名部(みなべ)内親王ら皇族の名前が記された木簡は、中務省に送った物資の送付書とみられる。
 内裏近くにあるはずの中務省が宮外で見つかったことについて同調査部は「新しい律令制度の施行で宮内の整備が必要になり、一時的に移転したのでは。木簡は戻る際に捨てたのだろう」と話している。
 現地説明会は30日午後1時半から。現地見学の後、奈文研飛鳥藤原宮跡発掘調査部で木簡の一部を公開する。
今泉隆雄・東北大学大学院教授(日本古代史)の話
大宝律令の制度が施行直後からきっちり行われていたことが分かる。宮内の物資が私的に持ち出されないよう、門ぼうの制度が必要だったのだろう。藤原京への 遷都後、すでに制度化されていたのではないか。中務省が恒常的に宮外にあるとは考えにくく、宮内の大改造に伴って移転したのかもしれない。

 

県内最大級の円空仏 中之条町歴史民俗資料館 (上毛新聞 6月25日)

 群馬県中之条町の町歴史民俗資料館で二十四日、町民から寄託されていた木彫仏が、前県文化財保護審議会長の近藤義雄さんの鑑定で、県内最大級の円空仏であることが分かった。
 木彫仏は同町蟻川、農業、綿貫博さんが寄託したもので、十六年前に三十三歳で亡くなった長男の景一さんが収集した古美術品の中の一つ。この木彫仏が気に なっていた唐沢館長が、円空仏鑑定の権威である近藤さんと旧知の間柄だったことから、この日の鑑定となった。
 円空仏と確認された木彫仏は薬師如来の座像で、禅定印を結び薬壺(やっこ)を手に持つ。材質はヒノキと思われ、高さ五十六センチ。
 近藤さんは「粗いタッチで、背面が木を割ったまま。アルカイック・スマイル、すなわち古代の微笑をたたえた姿はまさに円空仏。県内で発見された円空仏は二十点ほどだが、最大級で、しかも傑作といえる」と話す。
 景一さんは埼玉県蓮田市に在住し、飲食店を営んでいた。古美術を愛し、特にこの木彫仏を大切にしており、綿貫さんは「供養には古里の資料館で多くの人に 見てもらうのが一番」と、この円空仏のほか人物、動物埴輪や土偶、銅鏡など六十一点を寄託した。しかしどこで入手したかは、景一さんから何も聞いていない ため、不明という。
 唐沢館長はこの「薬師如来座像」を近く町文化財への指定を申請する考え。本県で円空仏と確認されたものは小さいものも含めて二十点。このうち五点が近藤さんの鑑定。

 

築造は3世紀前半 伐採の年輪199年 桜井市・勝山古墳 (奈良新聞 5月31日)

  桜井市東田の前方後円墳「勝山古墳」で見つかった板状の木製品は、残存する最も外側の年輪が199年と分かり、県立橿原考古学研究所と奈良文化財研究所が 30日、発表した。削られた年輪を考慮しても、伐採年代は210年までとみられる。橿考研によると、木製品は墳丘上にあった建物の一部で、同古墳の築造年 代は3世紀前半にさかのぼり、確認できる範囲で最古の前方後円墳という。女王・卑弥呼の時代と重なり、邪馬台国畿内説にとって有力な材料となる一方、古墳 時代の始まりをめぐる論議にも一石を投じそうだ。
 同古墳の木製品は、くびれ部北側の周濠(しゅうごう)から200点以上出土。大半が柱や板などの建築部材で、祭祀用の建物を壊して投棄したとみられている。
 橿考研は奈良文化財研究所埋蔵文化財センターに年輪年代の測定を依頼。サンプルはいずれもヒノキ材で、5点の年輪年代が特定できた。
 板状の1点(一辺26センチ、厚さ2.5センチ)は樹皮直下の「辺材部」が残っており、最外年輪は199年だった。近畿のヒノキ(樹齢200〜300年 以上)の辺材部は平均約3センチ。測定した板材の辺材部は約2.9センチで、4センチあったと仮定しても、210年までに収まるという。
 木の年輪は中心の髄から心材、辺材の順に形成される。心材部だけの4点は最外年輪が103〜131年で、辺材部の年輪を推定すると、5点とも同時期に伐採された可能性が強い。
 隣接する纒向石塚古墳の周濠でも、平成元年に木製品が出土。ヒノキの伐採推定年代は200年前後だった。墳丘の盛り土に含まれる土器の様式から、3世紀初めの築造とする見方もある。
 中国の史書「魏志倭人伝」によると、女王・卑弥呼の擁立は2世紀末。没年は248年ごろで、勝山古墳の築造が3世紀前半とすれば、卑弥呼の擁立から間もない時期に、2つの前方後円墳が相次いで誕生したことになる。
 ホケノ山古墳(桜井市箸中)の調査で3世紀中ごろにさかのぼった前方後円墳の年代は、今回の成果でさらに半世紀近く押し上げられる可能性が出てきた。
 ただ、勝山古墳で出土した土器は「布留ゼロ」と呼ばれる様式で、土器編年では3世紀後半が妥当とされる。木材は伐採から時期を置いて使用した可能性や転用も考えられ、築造時期の特定には慎重な姿勢を見せる研究者もいる。
【解説】
 日本の考古学にとって、3世紀前半という時代が持つ意味は大きい。藤原宮をしのぐ巨大集落「纒向遺跡」が三輪山のふもとに営まれ、所在地論争はあるにしろ、女王・卑弥呼が邪馬台国に君臨した。2つの事実をオーバーラップさせることもできる。
 今回の測定は、この時代に前方後円墳という独自の墓制が誕生していた可能性を強め、「古墳時代の始まりは箸墓以降」とする公式に再検討をせまる結果となった。
 ただ、勝山古墳、纒向石塚古墳ともにふき石がなく、定型化以前の前方後円墳とされる。「完成度の低い古墳」とみるか「弥生時代の墳丘墓」とするかで古墳時代の線引きは大きく変わる。国家形成の起源にかかわる問題だけに、活発な議論が必要だろう。
 一方で、土器編年との整合性をどう考えるかという問題もクローズアップされている。「布留ゼロ式」の想定年代と年輪年代の間には少なくても50年のずれがある。
 和田晴吾・立命館大教授は「今回の測定で古墳の年代観が古くなることは間違いない。ただ、今は年輪年代と土器編年の組み合わせを増やしていく時期。類例 が増えることで考古学への応用が可能になる。今の段階で築造年代まで特定するのは難しい」と慎重な見方を示す。
 相対的な土器編年に対し、化学的に分析された年輪年代が実年代を導きやすいことは確か。2つの研究成果をつき合わせることで何が見えてくるのか、今後の研究に期待したい。

 

古墳期の始まり早まる? 伐採=築造に慎重論も 勝山古墳年輪測定 (奈良新聞 5月31日)

  周濠(しゅうごう)に眠り続けた木製品が、卑弥呼の時代を指し示すことになった奈良県桜井市東田の勝山古墳。年輪年代法による測定結果は、3世紀後半とさ れてきた古墳時代の始まりを大きく押し上げる可能性が出てきた。一方で、伐採年代と築造年代を重ねることに慎重論もある。土器編年との整合性など、研究は これからといえそうだ。
 年輪年代法は、奈良文化財研究所埋蔵文化財センターの光谷拓実・古環境研究室長が、20年以上かけて研究を積み重ねてきた。ヒノキは紀元前912年まで測定できる。
 纒向石塚古墳で出土した木製品の年輪年代を測定したのは12年前。伐採年代を200年前後と割り出した。「同じ測定結果が出たことで、日本の考古学が待 ち望んでいた時代に確実なくさびを打ち込むことができた。実年代を当てはめるステージが完成したのでは」と話す。
 古墳時代の始まりは、隔絶的な規模を持った箸墓古墳(全長約280メートル)の誕生が画期と考えられてきた。ホケノ山古墳が3世紀中ごろとされたことで、転換点を迎えている。
 古墳時代の始まりを2世紀末と考える山尾幸久・立命館大名誉教授(日本古代史)は「弥生時代の信仰や生活様式を残しながら、拠点的に古墳時代が始まっていてもおかしくない。箸墓古墳の年代も再検討する必要が出てきたのでは」と話す。
 ただ、勝山古墳の周濠で出土した土器は、「布留ゼロ」と呼ばれる様式だった。実年代を260〜290年と考える寺沢薫・県立橿原考古学研究所調査第1課 長は「木材を加工して使うまでの期間が不明。転用の可能性もあり、現段階で土器編年との整合性を議論することはできない」と慎重な姿勢を見せる。
 白石太一郎・国立歴史民俗博物館教授(考古学)も「定型化した大型前方後円墳(箸墓)の出現が古墳時代の始まり。勝山古墳が3世紀前半にさかのぼるとすれば、墳丘墓の編年にとって貴重な資料」と話している。

 

邪馬台国の所在地か 畿内説に有力材料「最古の都市」と研究者 (奈良新聞 5月31日)

 年輪年代測定から、3世紀初頭に築造された最古の前方後円墳である可能性が高くなった奈良県勝山古墳がある纏向遺跡は、2世紀末〜3世紀初めに出現、ほかにもホケノ山、纏向石塚、箸墓(はしはか)など6基以上の最初期の古墳が集中する邪馬台国の有力候補地だ。
 古墳のほか巨大な運河跡や祭祀(さいし)場、遠隔地からもたらされた土器が多数見つかっていることなどから、「最古の都市」とする研究者もいる。
 東潮・徳島大教授は纏向遺跡を「邪馬台国」の中枢で倭国の首都も置かれた場所と推定。その上で、最初の本格的な前方後円墳とされる箸墓古墳について、「(2世紀末に)倭国王として共立された女王卑弥呼が、3世紀中ごろに葬られた墓だ」と考える。
 さらに、箸墓に先行する勝山やホケノ山について、東教授は「箸墓は吉備など周辺地域の影響が強いのに対し、勝山やホケノ山は在地的な要素が強い。邪馬台国の王族が葬られた墓と考えられる」とする。
 邪馬台国九州説の高島忠平佐賀女子短大教授は「年輪年代の測定結果と遺跡を短絡的に結びつけるのはいかがなものか。大和の地域的な王権がどう成立するかを考える材料にはなるが、巨大な古墳があるから、邪馬台国があったと考えるのは飛躍」としている。
河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長の話
 3世紀のごく初めに古墳が存在することが決定的になり、成果を高く評価したい。ホケノ山古墳は出土した鏡などから3世紀中ごろまでの古墳と考えられ、こ のころ纏向遺跡に古墳が点々としていたことがいろいろな方法で確かめられた。2世紀代の古墳も予測でき、古墳の発生とかかわる国家の起源も古くなり、大和 政権の成立は約1世紀さかのぼることになると思う。3世紀の卑弥呼が活躍した時代と、立派な古墳の発生が重複している。邪馬台国大和説を補強する材料が出 てきたと考えている。

弥生中期最大級の墳墓確認 加悦町 丹後最初の王墓か (京都新聞 5月25日)

 

  京都府加悦町明石の日吉ケ丘遺跡を発掘調査していた同町教委は二十四日、弥生時代中期後半(紀元前二世紀〜紀元前後)の方形貼(はり)石墓を確認した、と 発表した。同時期の墳墓では、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の墳丘墓などに次ぐ全国三番目と最大級で、多数の管玉(くだたま)も出土した。同町教委は「弥生の墓 は複数の人を葬るのが一般的だが今回は一人だけで、強大な力を持った王と考えられる。丹後では最初の王墓ではないか」としている。
 この時期、吉野ケ里をはじめ九州北部ではすでに「王」がいたことが定説だが、丹後の王のはじまりも、これまで考えられたより一気に二百年以上さかのぼり、九州と並ぶことになる。のちの「丹後王国」のルーツとの見方もあり、注目を集めそうだ。
 貼石墓は小高い丘陵の西側の先端に位置し、南北約三十三メートル、東西約十七〜二十二メートルの台形に近い長方形で、周囲には幅約五・五メートル前後の 溝がある。墳丘の高さは約二・五メートルで、周囲に平らな石を貼り付けた丹後や山陰地方に特徴的な墓の形をしている。墳丘の北西部分は後世の開発で削られ ていた。
 木棺(もくかん)を収めたと見られる穴は一つだけ確認された。葬られた人の頭があったところから碧(へき)玉製の管玉約四百三十個が出土、水銀朱とみら れる朱もまかれていた。棺のあった位置全体から炭化したコメも見つかったが、他の遺跡では例が無く、どういう意味を持つかは不明という。
 墳墓の東側に環濠(かんごう)があり、墳墓と同時期らしい掘っ立て建物群や竪穴住居跡も確認された。墳墓に接して環濠集落があったと見られ、詳細な調査を今後行う予定。
 現地説明会は二十六日午後二時から行われる(雨天順延)。
 ▽九州以外で初確認
 広瀬和雄奈良女子大教授(日本考古学)の話 この時期、九州以外にはないとされていた王墓が丹後でも確認された。丹後の王のトップバッターだ。平野の少ない加悦谷で農耕だけでこれほどの力を蓄えたとは考えにくく、日本海を介しての交易で力をつけたのだろう。

 

丹後王国 ルーツ見えた 弥生中期墳墓 研究者ら感嘆 (京都新聞:京都市)

 

  加悦谷の平野を見下ろす丘に、古代丹後の権力者の墓が突如現れた。京都府加悦町の日吉ケ丘遺跡で確認された弥生時代中期後半の方形貼(はり)石墓は、規模 や副葬品から「丹後最初の王墓」と呼ぶにふさわしい。「こんな早い時期に強大な権力者がいたとは」。丹後ではこれまで、王墓とみられる巨大な墓は赤坂今井 墳丘墓(峰山町)など弥生後期以降のものしか知られていなかった。それだけに、研究者らは丹後の歴史の奥深さに驚きの声をあげた。
 墳丘の規模も同時期では国内最大級。平地から見上げると、石を張りつめた墓が威容を誇っていたはずだ。和田晴吾立命館大教授(考古学)は「階級分化が進み、権力者が姿を現した。すでにこの時期、丹後が政治的に成熟していた証(あかし)だ」と分析する。
 副葬品では青緑色に輝く管玉約四百三十個が目を引く。「頭部に固まって出土しており、頭飾りを連想させる」と石野博信徳島文理大教授(考古学)。大量に まかれた朱は魔よけの意味とみられ、和田立命館大教授は「貴重な水銀朱をこれだけ入手できるのは、丹後が先進地だったから」と強調する。
 上田正昭京都大名誉教授(古代史)は「日吉ケ丘遺跡は野田川を通じて海に出られる位置にあり、日本海を舞台に交易したことは間違いない」と権力の源泉を指摘する。
 丹後王国論で知られる門脇禎二京都橘女子大客員教授(古代史)は「丹後王国が最盛期を迎えるのは古墳時代になってからだが、弥生中期にはすでに加悦谷に独自の勢力があることが分かった。丹後王国のルーツの一つがはっきりした」と話している。

 

王権 500年繁栄か 解説 弥生中期墳墓 (京都新聞:京都市)

 

 卑弥呼の邪馬台国より二百年以上さかのぼる弥生時代中期後半の「王墓」は、古代を通じて栄えた丹後王権の出発点の一つといえる。二十四日に確認された京都府日吉ケ丘遺跡の墳丘墓は、あらためて古代丹後の独自性と先進性を印象づけた。
 丹後は、日本海を渡って外の文化が流入する文明の窓口として発展した。日吉ケ丘遺跡に先立つ弥生前期末〜中期の高地性集落「扇谷遺跡」(峰山町)からは、当時、原料を海外に求めるしかなかった鉄製品やガラス玉などが出土している。
 日吉ケ丘遺跡よりも時代の下る弥生後期には、鮮やかなブルーのガラス釧(腕輪)が出土した大風呂南1号墓(岩滝町)が登場。さらに国内最大級の墳丘墓、赤坂今井墳丘墓(峰山町)が出現し、副葬品のガラス玉から中国の人工顔料「漢青」が検出された。
 福永伸哉大阪大助教授(考古学)は「弥生時代は大規模な水稲耕作が権力を生むとされていた。しかし丹後は、これまでの定説とは別に、交易と先進技術で権力を築いていった経路が見えてくる」と指摘する。
 古墳時代に入ると日吉ケ丘遺跡に隣接する蛭子(えびす)山古墳(加悦町)や、日本海側で最大の網野銚子(ちょうし)山古墳(網野町)など、巨大な前方後 円墳が現れる。日吉ケ丘遺跡を「王」の出発点とすると、丹後の王権は約五百年間にわたって繁栄を続けたことになる。
 日吉ケ丘遺跡の時代は、中国の史書「漢書」地理誌では、倭人が「百余国」に分かれていたとされる。この時期の墳丘墓がある吉野ケ里遺跡(佐賀県)はこういったクニの一つで、のちに邪馬台国の一角になったとの見方もある。
 丹後での発掘調査からは、先進地とされてきた九州北部に匹敵するクニの姿が新たに浮かび上がってくる。

 

「他に例ない」 三面千手観音 清水寺の秘仏 (京都新聞 5月20日)

 

  清水寺(京都市東山区)は十九日、秘仏とされていた境内東側の奥の院の厨子にある仏像が、他に例がない坐像の三面千手観音であることが分かった、と発表し た。作風や技法から鎌倉時代初期の作で、快慶の流れをくむとみられる。同寺の依頼で調査した京都大大学院文学研究科の根立研介助教授(美術史学)は「保存 状態も良好で、日本彫刻史上極めて注目すべき作品」としている。
 観音像は高さ六十四・三センチ、一木割矧(わりはぎ)造り。三眼を持つ本面と左右の脇面の頭上に二十四面を載せ、腕は四十二本、両足は組んで台座に座っ ている。金泥を一面に塗り、着衣部は精密な切金文様で装飾されるなど、細部の造形までていねいに作られている。
 根立助教授によると、制作年代を示す銘文や記録はないが、目尻をややつり上げた理知的な顔立ちなどが快慶の作風に似ており、その流れをくむ有力仏師の作 とみられる。また鎌倉時代以前の作では国内では東山区・法性寺などで三件の三面千手観音像が見つかっているが、いずれも立像で、坐像は初めてという。
 同寺によると、奥の院の厨子を開けた記録は寺にはなく、秘仏だったことから、昨年、同寺の三十三年ぶりの本尊開帳を機に調査をしていた。
 このほか、三面千手観音坐像の脇侍の毘沙門天立像は、鎌倉時代後期以降、地蔵菩薩立像は、平安時代末期ごろの作であることも、今回の調査で分かった。
 同寺の森清範貫首は「清水寺は、千二百年の歴史で何度も火災にあっている。貴重な仏像を守ってきた先人の労苦を感じる」としている。同寺は二〇〇三年に観音像の開帳をする予定。

 

●頭上に24面載せた「三面千手観音」と判明 (毎日新聞)

  清水寺(京都市東山区)奥の院(重文)の本尊で秘仏の、千手(せんじゅ)観音坐像(ざぞう)が、本面(顔)の左右に脇面を持つ「三面千手観音」で、かつ頭 上に24面を載せていることが分かった。鎌倉初期の作とみられる。寺の依頼で調査し、19日発表した西村公朝・東京芸術大名誉教授(仏教彫刻)は「極めて まれな様式で重文級の発見」と話している。
 奥の院には本尊と脇侍(わきじ)が3体ありいずれも秘仏。千手観音坐像は中央の厨子(ずし)に安置されている。
 西村名誉教授によると、千手観音坐像は高さ64・3センチ。頭上の面は通常は10面か11面なのに、24面あった。腕は胸前で合掌するものや左右各19本の脇手など計42本。ほぼ同形の立像は全国で3体見つかっているが、坐像は初めて。
 ヒノキとみられる「一木割矧(いちぼくわりはぎ)造り」で作られていることなどから、制作時期は鎌倉時代初期ごろと考えられ、目尻を少しつり上げた理知的な顔立ちなどの作風から、運慶や快慶らが属した「慶派」の有力仏師が制作した可能性が高いという。
 千手観音坐像は、1835(天保6)年に江戸で開帳された記録があるだけで、寺の関係者もほとんど見る機会がなく、厨子を開けることもなかった。このため、紫外線からも守られ、表面の金粉など保存状態は非常に良好という
 同寺の森清範貫主は、「これまで見つかっていない形の仏さまと聞き、驚いた。2003年には一度開帳したい」と話している。
 ●松田誠一郎・東京芸大助教授(日本彫刻史)の話 密教の曼陀羅(まんだら)に見られる二十七面千手観音像は現存数が少ない。保存状態がよければ、二十七面千手観音像の形を考えるうえでの一つの基準になるだろう。

 

飛鳥池遺跡、国史跡に 斑鳩・中宮寺跡も追加指定 (奈良新聞 5月17日)

 

 国の文化審議会が16日開かれ、奈良県内では、飛鳥池工房遺跡(明日香村飛鳥)を新指定し、中宮寺跡(斑鳩町幸前)の寺域を追加指定することが答申された。これにより県内の国史跡は102件になった。
 飛鳥池工房遺跡は、丘陵部の谷間に位置する7世紀後半から8世紀初頭の官営工房跡。遺跡全体としては平成3年から調査が進んでいて、同9年には工房跡な どの地域調査が実施された。この調査では、汚水処理施設や炉跡群が良好な状態で出土。国内最古の銅銭である富本銭やその生産状況を知る資料をはじめ、金、 銀、銅、鉄製品、玉類、漆器などが見つかり、今春遺跡の範囲が確定された。
 当時の大寺院である飛鳥寺や藤原京とも関連があり、古代史、技術史上で重要な存在であることが確認されている。指定面積は約2万平方メートル。
 同遺跡内には、県の文化施設、万葉文化館の建設が進行中。建設に際しては、専門家や地元住民の反対もあった。県では遺構を保存の上、炉跡、庭園などの復 元、館内での遺構例示といった整備を図る。藤原昭県教育長は「今回の答申は、これまでの調査成果と遺構保存に対して一定の評価をいただいたものと受け止め ている」と話している。
 中宮寺跡は、現在の中宮寺の東約500メートルの古代寺院跡。推古天皇、聖徳太子が創建したとの伝承があり、平成2年に約1万2000平方メートルが国 史跡に指定された。その後の調査で、寺域がさらに拡大することが判明。約1万6000平方メートルが追加指定されることになった。

  

県内16体目の円空仏確認 (上毛新聞 5月10日)

  群馬県北群馬渋川郷土館(吉岡町上野田)で所蔵している木彫りの十一面観音座像が九日までに江戸時代初期の僧りょ、円空(一六三二―九五年)の作と分かっ た。池田秀夫・元県立博物館長らが確認した。同座像は総高一〇九・七センチ。これまでに県内では十五体の円空仏が確認されているが、同座像は総高でそれら を大きく上回る。 同座像は樹齢八十年ほどのスギの木に彫られたもので、左手に水差しを持ち、右手は軽くひざの上に置かれている。これまでに県内で確認さ れている円空仏は、最も大きいもので富岡市黒川にある十一面千手観音立像の六一・五センチだった。
 同座像は松井田町の旧家で所蔵していたが、今月八日の一般公開に先立ち、県内では円空研究の第一人者である池田秀夫・元県立博物館長らに同座像を確認し てもらった。池田さんは「木目を生かした彫り方は円空仏の特徴の一つ。その独特の彫り方がよく出ている」ことから円空仏と断定した。
 円空は全国を行脚しながら生涯で十二万体の仏像を残したと伝えられ、現在全国で約四千八百体が確認されている。本県にも五十歳ごろ滞在した形跡が残って おり、富岡市や渋川市、大間々町などで仏像が発見されている。池田さんは同座像が本県に滞在した当時の作品と推測、「円熟期の作品らしい落ち着きがあり立 派な作品」としている。
 仏像全体の雰囲気は楯守神社(長野県南木曽町)にある十一面観音座像(円空作)とほぼ同じで、慈悲深い表情を浮かべた顔は、伊香保町水沢の阿弥陀如来座像(同)に似ているという。

 

醍醐寺の「独鈷杵」「三鈷杵」 国内最古級と確認 (京都新聞 5月10日)

 真言宗醍醐派総本山・醍醐寺(京都市伏見区)が所蔵する密教法具二点が、東京国立博物館の九日までの調査で、十二世紀ごろ(平安時代後期)に製作された国内最古級のものと分かった。
 同博物館の原田一敏研究員(日本金工史)は「伝世品で十二世紀にさかのぼる密教法具は数少なく、貴重な例」と話している。
 見つかったのは、密教の修法に使う「独鈷杵(とっこしょ)」(長さ一八・六センチ)と「三鈷杵(さんこしょ)」(同一七センチ)。古代インドの武器が原 型とされ、中央に握る部分があり、両端は鋭くとがっている。銅製で金メッキが施され、ハスの装飾がある。同時に十三世紀ごろ(鎌倉時代)の独鈷杵一点も見 つかった。
 同寺の所蔵品を展示する博覧会開催のため、昨年夏、所蔵庫を調べていた原田研究員らが発見。装飾の形や類例との比較から製作時期が判明した。
 国内でつくられた密教法具では、金剛峯寺(和歌山県)の独鈷杵などが平安時代後期のものと確認されている。
 三点の法具は、東京国立博物館平成館で十三日まで開催中の「国宝醍醐寺展」で展示している。同展は福岡市博物館(五月三十一日〜七月八日)、仙台市博物館(七月二十日〜九月二日)でも開催される。

 

本尊の日蓮上人坐像は室町期の作 羽咋・妙成寺で本格調査 (北國新聞 5月9日)

 

  石川県羽咋市滝谷町、日蓮宗妙成寺の本格的な仏像彫刻調査が八日始まり、秘仏とされる祖師堂(国指定重文)本尊の日蓮坐(ざ)像をはじめ仏像五体が室町期 の作であることが初めて確認された。同寺の堂塔伽(が)藍(らん)が加賀藩前田家による造営のため、安置された仏像もこれまですべて江戸期以降の制作と見 られていた。
 調査には、彫刻専門研究者として緒方啓介東京芸大講師をはじめ本谷文雄県立歴史博物館専門員、板坂葵羽咋市文化財保護審議会副会長、収蔵品総合調査員会主任の中尾堯立正大教授らが参加した。
 室町期制作と分かった日蓮坐像(高さ三十五センチ)は寄木造り、玉目を入れた木造。普段は江戸期制作の日蓮坐像(高さ八十一・五センチ)の内部に安置され、五十年ごとの遠(おん)忌(き)法会にしか公開されない秘仏になっている。
 このほか本堂(国指定重文)に安置されている文(もん)殊(じゅ)菩(ぼ)薩(さつ)像、普(ふ)賢(げん)菩薩像、四天王像など四体も室町期の制作と確認された。妙成寺の仏像で江戸期以前にさかのぼっての制作年代が判明したのは今回が初めてになる。
 秘仏の日蓮坐像について本谷専門員は「内部に安置されていたこともあり、保存状態が非常によく県内の日蓮坐像の中では最も素晴らしい。文化財としての価値も十分にある」と話した。妙成寺には約百体の仏像が安置されており、今回の調査は九日まで行われる。
 妙成寺は、五重塔や本堂など十棟が重要文化財に指定されている名刹(さつ)だが、建造物以外の調査は行われていなかった。このため羽咋市教委では国庫補 助を受けて昨年度から三カ年計画で、建造物を除く収蔵品の本格的な総合調査に着手した。その一環として初めて仏像彫刻の本格的な調査にも取り組んだ。

 

源頼朝に平重盛も見られます 神護寺で「宝物虫払行事」(京都新聞 5月2日)

 京都市右京区の神護寺は一日、所有する宝物を一般公開する「宝物虫払行事」を始めた。国宝、重要文化財の絵画、古文書など計六十三点が並び、観光客や歴史ファンが熱心に見入った。
 虫払いは、寺の宝を広く公開するよう定めた江戸時代の古文書の発見を機に、一九五四(昭和二十九)年から毎年この時期に開いている。
 歴史の教科書など書籍に広く使われている国宝の人物画「源頼朝像」「平重盛像」、赤、緑の色彩で衣を鮮やかに描いた仏画「釈迦如来画像」など国宝六点を展示した。
 このほか、空海が僧りょの名を書き連ねた文書、北条政子が神護寺に送った手紙など歴史上の人物の直筆文書が並んだ。会場では、展示品の前に座り、時間をかけて鑑賞する人の姿も見られた。五日まで、有料。

 

本尊薬師如来の御開帳 上田の信濃国分寺 (信濃毎日新聞 5月1日)

 八日堂縁日で知られる長野県上田市国分の信濃国分寺で三十日、本尊薬師如来の御開帳が始まった。十二年に一度、えとの巳(み)年に行われる行事で、多くの参拝客が訪れ、めったに見られない秘仏を拝んでいた。
 御開帳初日は「開びゃく法要」で幕開け。塩入住職が本堂でお経を上げた後、秘仏が安置されている部屋の扉を開けると、金色に輝く薬師如来が現れた。高さ約一・五メートルの木彫の座像で、金ぱくで覆われている。
 この日は秘仏を拝んだり、秘仏から境内の柱まで伸ばしたひもに触れ、幸運を願う人など数百人が訪れた。
 御開帳は六日まで。最終日に結願(けちがん)護摩法要を行い、御開帳を終える。期間中はさまざまなイベントも。三、五日の両日、甘茶供養と神楽の奉納、僧りょと稚児の行列、苗木の無料配布などを行う。

 

なぞ残した配置 壮大で独自の伽藍 吉備池廃寺の調査終了 (奈良新聞 5月1日)

  平成9年に巨大な金堂基壇が見つかり、舒明天皇が発願したわが国初の国立寺院「百済大寺」とされる奈良県桜井市吉備の吉備池廃寺(7世紀前半)。奈良文化 財研究所(奈文研)の5次にわたる発掘調査がこのほど、終了した。僧房跡の確認で完成が裏付けられた一方、中門を金堂の前に置く異例の伽藍配置が浮かび上 がり、新たななぞを残すことになった。未確認の北面回廊や講堂と合わせ、今後の研究が期待される。
 「百済大寺」の造営が始まったのは舒明11(639)年。「日本書紀」によると、百済川のほとりに九重塔を建て、「百済大寺」と名付けた。
 当時、仏教の主導権は蘇我氏にあり、蘇我馬子によって造営された飛鳥寺が、国内最大級の寺院だった。大脇潔・近畿大教授(考古学)は「蘇我氏に対抗して 主導権を得るために巨大な国立寺院が必要だった。政治的にも大きな意味が込められていた」と話す。壮大な伽藍は、国家仏教への足がかりとなるモニュメント だった。
 吉備池廃寺の発掘調査で見つかった金堂基壇は東西36.2メートル、南北27メートル。法隆寺の金堂基壇(東西22.1メートル、南北18.8メートル)をはるかにしのぎ、飛鳥時代では最大規模。九重塔にふさわしい、30メートル四方の塔基壇も見つかった。
 基本的な伽藍配置は東に金堂、西に塔を並べた「法隆寺式」。吉備池廃寺で初めて採用された可能性が強い。飛鳥寺の「一塔三金堂」は、朝鮮半島からの直輸入だった。最大・独自の伽藍に舒明天皇の意気込みがうかがえる。
 今年1月から始まった最終調査は、伽藍配置の解明にいくつかの課題を投げかけることになった。中門が金堂の前で見つかったこと、もう1つは、講堂と北面回廊の遺構が見つからなかったことだ。
 「法隆寺式」の伽藍は金堂と塔の中間線に中門があり、左右対称が原則。東に寄ると、このバランスが崩れてしまう。吉備池廃寺の中門は、金堂の真正面からも10メートルほど西にずれていた。
 大脇教授は「仏舎利を納めた塔に重点を置くのは仏教寺院に共通の要素。原則を無視したのは、信仰の中心が金堂の本尊に移ったからではないか」と指摘する。
 例のない伽藍配置に、研究者の間では「塔の前にも門があったのでは」との見方も出ている。
 僧りょの勉学の場である講堂は、4年間にわたる調査でも確認できなかった。一時は金堂の北側も考えられたが、最終調査で見つかったのは、大規模な僧房跡だった。
 講堂につながる資料は、僧房跡付近で出土した大量の瓦(かわら)。吉備池廃寺では瓦の出土が極端に少なく、短期間で移築された百済大寺説の根拠となっている。今回見つかった瓦は金堂跡の出土量を上回る。
 奈文研飛鳥藤原宮跡発掘調査部の松村恵司・考古第2調査室長は「掘っ立て柱の僧房が瓦ぶきとは考えにくく、講堂で使われた可能性が強い。基壇が低かったため、池の造成で削られてしまったのかもしれない」と話す。
 では一体どこに。奈文研は、塔と金堂の中間線上を想定している。北面回廊は見つかっておらず、講堂との位置関係は不明という。
 一方、古代寺院を研究している県教委文化財保存課の近江俊秀さん(考古学)は、同じ桜井市にある安倍寺跡との関係に注目する。「百済大寺」の造営責任者 は、左大臣にも任じられた阿部内麻呂。氏寺である安倍寺跡では、吉備池廃寺と同じ特徴の瓦が見つかっている。塔と金堂の距離が長いことなど、伽藍の類似点 も多い。
 近江さんは「吉備池廃寺の縮小型が安倍寺だった可能性がある。百済大寺での蓄積を氏寺に用いたのではないか」とみる。安倍寺跡では、塔と金堂の中間線付近で石敷きが見つかり、多角堂の可能性も指摘されている。
 同じ建物が吉備池廃寺にあったとすれば、今回見つかった大量の瓦が、講堂以外の施設に使われていた可能性も出てくる。
 元奈文研飛鳥藤原宮跡発掘調査部長で京都橘女子大の猪熊兼勝教授(考古学)は「発掘調査は継続によって新たな事実が解明されるが、吉備池廃寺は調査のたびに謎が深まる。想像を超える建物があったのかもしれない」と話している。

 

「四神の思想」底流に キトラ古墳調査1カ月 (奈良新聞 4月30日)

  明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)で「朱雀」の極彩色壁画が確認されて1カ月。デジタルカメラを使った石槨(せっかく=小石室)内の調 査は、考古学だけでなく、美術史にとっても画期的な成果をもたらした。四神がそろった国内唯一の古墳として重要性が高まる一方、保存の必要性もあらためて クローズアップされている。高松塚古墳の発掘を手がけた網干善教・関西大名誉教授に、今回の調査の意義ついて聞いた。
 【高松塚の空白埋める】 
―高松塚にも「朱雀」はあったと主張されてきましたが。

 網干 高松塚古墳の発掘後、よくたずねられたのは「同じような古墳は他にもあるか」ということ。キトラ古墳の調査でこの質問に答えが出た。四神図を描いた古墳は高松塚だけではなかった。他にないものが明日香には2つもある。学問的な意義は大きい。
 装飾古墳や線刻の概念に入るものは以前から確認されていたが、高松塚とキトラの壁画は高度な思想を背景に描かれている点が重要。「四神の思想」とも呼べるもので、星宿、日月、四神がセットになって1つの思想を表わしている。人物像は別な概念。
 ただ、高松塚は南の壁に大きな盗掘坑があり、「朱雀」は確認できなかった。私は当然あるべきものと主張してきたが、「描かれていなかった」と考える人もいた。これまでは証拠がないため水かけ論だった。
 「玄武」も亀と蛇がにらみ合っている部分が削られており、今回の調査にはその点からも期待していた。キトラには両方が残っており、自分の主張に確信を持 つことができた。今回の映像は斜めからの撮影で100点満点とは言えないが、この点に関しては完璧だったといえるだろう。
 【朱雀は日本的な表現】
 ―朱雀の表現についてはいかがですか。

 網干 非常に躍動的な表現で、今にも飛び立とうとしている。「朱雀」の絵には4つのタイプがある。
 (1)2本の脚で体をしっかり支えるタイプ。高句麗の江西大墓や中墓の壁画がこれにあたる。尾の羽も上がっており、あれでは飛べない (2)片脚だけ上げるタイプ。歩行の形で、中国(唐)の壁画などに見られる (3)完全に飛んでいるタイプ。両脚が後ろにのびており、飛翔の形 (4)飛び立とうとしているタイプ。尾も下にのび、独特な躍動感がある。瞬間を描いただけに、素晴らしいものだと思う。
 キトラは(4)のタイプで、それは鳥に対する絵師のイメージだと思う。色は原則通り朱を用いたが、絵師の持っていたイメージは、キジのようにしっぽの長 い鳥だった。高句麗の「朱雀」とは全く異なり、かなり日本的な表現だと思う。絵師が高句麗系か中国系かということではなく、もっと複雑な背景があるのでは ないか。
 【高句麗の手本でキトラの玄武は描けない】
 ―「玄武」の細部も明らかになりましたが。

 網干 亀に蛇が絡まっていれば何でも「玄武」と決めてしまうが、よく見ると蛇の巻き方が違う。高句麗の古墳とキトラでは蛇の絡み方が全く違う。交差点が上になるか下にくるかを見なければならない。
 「玄武」だけを見れば、高句麗の手本で高松塚やキトラの壁画は描けない。学問は比較研究であり、違いを集めることで描けないことが分かってくる。
 「白虎」が北向き、「朱雀」が西向きに描かれていたことで、「四神は時計回り」とする見方もあるが、亀は蛇の方を向いているのであって、後ろ(東)を向いているのではない。従って時計回りにはならない。
 【天文図は材料不足】
 ―天井の天文図をどう見られますか。

 網干 今回の調査は星が重要なポイントだった。星の位置や星座の形がはっきりすれば、高句麗系か中国系かといったことが言える。しかし、今回も(カメラから遠い)北側の星はよく分からず、判断材料としては不十分。
 基本的には四神の思想にのっとって描いているが、間違いもある。黄道と赤道が逆で、これは完全な間違い。一方で北斗七星などは大変正確に描いている。
 【壁画の保存】
 ―壁面の保存についてどう考えられますか。

 網干 今回の映像を見ると、壁の真ん中から金属を含んだ水が吹き出している。壁と漆喰(しっくい)の間に水が入っているということで、ブカブカの状態。このまま放置することはできない。
 発掘となれば、準備や事後の対応について議論が必要となるが、議論ばかりで具体的な処置が遅れるのは問題。早急に体制を作り、一刻も早く着手しなければならない。
 高松塚の壁画もかなり傷んでいたが、応急処置のおかげで30年間安定している。身近にそういう例があるのだから、とにかく安定させることが大切。半永久的な処置は科学が進んでからでもよいのではないか。
 星宿と日月、四神のセットが欠けることなくそろった古墳は他にない。これは極めて重要なことで、保存のために誰かが英断を下す必要があるだろう。

 

興福寺の魅力知って 国宝特別公開2001 北円堂内陣など (奈良新聞 4月28日)

 2010年の境内整備に向けて興福寺(奈良市登大路町)の魅力を理解してもらうことを目的にした「国宝特別公開2001」が、きょう28日から始まる。
 公開されるのは、三重塔(国宝)初層と北円堂(同)内陣、再建に伴って行われている中金堂の発掘調査現場。
 舎利塔の影響を受けた三重塔は、優美な線を見せる平安様式。内陣の寄木造りの弁才天坐像(江戸初期)は、頭上に鳥居と人頭蛇身の宇賀神を乗せて8本の手 に剣や宝珠を持った姿で、十五童子を従えている。4つの柱をX状に結んだ板には、薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒の如来像が各1000体描かれている。
 北円堂は、興福寺創建者、藤原不比等の1周忌にあたる養老5(721)年に建立。堂内には、運慶はじめ慶派の仏師が造立したことが記録に残る木造弥勒如来坐像、木造無著立像、木造世親立像(いずれも国宝、鎌倉時代)が並ぶ。
 また、昨年から本格作業が始まった中金堂の発掘現場では、基壇部分を中心に調査状況を知ることができる。
 特別公開は、すでに事前申し込みが締め切られているが、参加人数に余裕のある日は当日受け付けも行う。拝観時間は午前9時半から午後4時半。拝観料は高 校生以上2000円、中学生以下1000円(国宝館、東金堂の拝観料含む)。問い合わせなどは公開事務局、電話0742(26)7158。
 このほか、北円堂ではきょう28日から5月5日まで夜間拝観を実施する。拝観時間は午後5時から同8時。拝観料は小学生以上300円。
 興福寺会館では、北円堂の仏像などの写真パネル、境内整備事業を紹介したビデオの上映も行われる。入館無料。

 

 

井原・高山寺 国重文あす一般公開 地蔵菩薩立像、不動明王坐像  (山陽新聞 4月27日)

 井原市高屋町の高山寺は、改築していた本堂の完成を記念して二十八日、宝物館に収蔵している国指定重要文化財の「地蔵菩薩立像」「不動明王坐像」などを公開する。これまで予約では見学できたが、一般公開は初めて。
 公開は午前八時から午後二時まで。地蔵菩薩立像は桜の一木造りで、室町時代から江戸時代初期のもの、不動明王坐像はヒノキの寄木造りで、室町時代のものといわれている。
 このほか宝物館には「十一面観音立像」(県指定)「阿弥陀如来坐像」(市指定)の重要文化財や、地元出身の平櫛田中作の「弘法大師坐像」の本体と原形の両方がある。
 同寺は、七三一(天平三)年に行基によって開かれたとされる真言宗大覚寺派の寺院。境内には、釣り鐘(県重文)や高さ十三メートルのモッコク(市指定天然記念物)もあり、多くの参拝者が訪れている。
 二十八日は午前九時から稚児行列、同十一時から本堂落慶法要が営まれる。同寺は本堂や仁王門などが老朽化したため、一九九六年から改築や修理など全面的に整備していた。 

 

平泉町・中尊寺の曼荼羅図、国宝に指定へ〜美術工芸品絵画で初 (岩手日日新聞 4月23日)

  岩手県平泉町・中尊寺の大長寿院が所有する国指定重要文化財「紺紙著色金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図(こんしちゃくしょくこんこうみょうさいしょうおう きょうきんじほうとうまんだらず)」十幀(てい)が、国宝に指定されることが決まった。二十日開かれた文部科学相の諮問機関・文化審議会(高階秀爾会長) で答申されたもので、本県からの国宝指定は四十三年ぶり、美術工芸品の絵画としては初めて。このほか、金ケ崎町西根裏小路など城内・諏訪小路地域一帯約三 十五ヘクタールが、重要伝統的建造物群保存地区に本県で初めて選定された。近世以来の武家地の地割りを構成し、かやぶき屋根の伝統的家屋が現存するなど武 家屋敷の街並みを伝えている。県立盛岡工高保管の工作機械「平削盤(ひらけずりばん)」が重要文化財に指定された。
 同曼荼羅図は縦百三十九・七センチ、横五十四・八センチ。奈良時代の代表的な護国三部経として尊重された「金光明最勝王経」十巻を、紺色に染めた紙に一巻ごとに宝塔形に金字で書写。一巻で一塔を形作っている。
 宝塔は九層で、経典は塔頂上の宝珠から始まり、基壇で一巻の経が終結。宝塔の周囲には、経の内容に即した場面をやまと絵風の景色の中に金や銀、朱、緑、白と色鮮やかに表現している。
 制作背景は分かっていないが、大長寿院所蔵の装飾経・国宝「紺紙金銀字交書一切経」(中尊寺経)と同様、藤原氏が奥州経営の安穏を願って行った写経事業 の一環として書写されたとみられる。宝塔周辺に描かれた風景や釈迦(しゃか)説法図、文様などから、制作時期は十二世紀半ば以前と推測されている。
 同曼荼羅図は、写経の特異的な形式の宝塔曼荼羅の代表作。金泥、銀泥とともに豊かな彩色を施し共存させた画風はほかに例がなく、平安時代の仏画、やまと 絵の資料として美術史的価値が極めて高い。十幀すべてがそろっていることも貴重さを際立たせており、文化庁は制作が極めて優れ、文化史的意義が特に深い遺 品で国宝の要件を備えていると考える、と評価している。
 本県からの国宝指定は、昭和三十三年の「螺鈿八角須弥壇(らでんはっかくしゅみだん)」(大長寿院所有)と中尊寺経蔵堂内具(同)、同金色堂堂内具(金 色院所有)以来四十三年ぶりで七件目。すべて中尊寺関係。同曼荼羅図の指定で、美術工芸品のうち、絵画の国宝は全国で百五十五件目となる。
 佐々木邦世中尊寺執事長の話 護国経が細密かつ素晴らしい色彩で、しかも中央でなく地方で写経されたことに重要な意味がある。中尊寺の重み、深さがさら に加わった。世界遺産で注目されているさなかだけに、中央からの移植、模倣でない独創的で工夫された平泉文化の奥深さ、仏教信仰と結び付いた文化の本質を うかがう良い機会になる。

 

弥生人骨に脳残存 鳥取県青谷上寺地遺跡 (中国新聞 7月17日)

 

 鳥取県青谷町の青谷上寺地遺跡から出土した約千九百年前の弥生時代後期後半の人骨に、脳が残存していることが分かった。十六日、鑑定をした鳥取大学医学部解剖学第二教室の井上貴央教授が発表した。弥生期の脳の発見は国内初。世界的にも例は少ない。  
 保存状態がよく、遺伝子本体のデオキシリボ核酸(DNA)の中で膨大な情報量を持つ「核DNA」の採取、分析の可能性がある。井上教授は「現代人と脳構 造の差は認められなかったが、弥生人の系譜や類縁関係のほか、古代人の形質、病気などを知る貴重な資料となる」と説明した。
 脳は、同遺跡から昨年五月に出土し、鳥取大が氷温保存をしていた頭骨二十数体分の中の、三体に残っていた。壮年男性二、壮年女性一で、うち洗浄作業が済んだ男性一体分を公開した。
 重さは二百三十グラム(十センチ×八センチ×四・五センチの大きさ)。左右大脳半球の前頭葉部分で、脳全体の約五分の一とみられる。固さは豆腐ぐらい。しわ状の脳回もはっきりしている。前頭部と長頭部の四カ所に刀傷があった。
 壮年女性の脳は残存量が三百グラム程度と多く、重要に扱っている。井上教授は「湿地の底で大気と遮断されていたことが、保存のよさにつながった」と推 測。「神経線維のミエリン構造も残っている。細胞小器官のミトコンドリアDNAや核DNA、YAP(Y染色体の一遺伝子)、HLA(白血球の組織適合抗 原)などの分析をしたい」と、人類系譜などの研究を計画している。
 古代人の脳の残存は、ミイラ化したり死蝋(ろう)状では数例がある。

 《青谷上寺地遺跡》日本海から約一キロ内陸の水田下にある。国、県道ルート調査で、水路から約五千二百点の人骨が出土。うち殺傷痕のある人骨百三十点が見つかり、倭(わ)の国乱を証明する遺跡として注目された。

 

盗品仏像寄贈 滋賀の美術館所蔵の仏像、中国政府へ (毎日新聞 4月16日)

ミホ・ミュージアム ホームページより

   滋賀県信楽町の美術館ミホ・ミュージアム所蔵の中国の仏像に盗品の疑いがあった問題で、盗品と知らずにロンドンの美術商から約1億円で購入していた同館 は16日、この仏像を中国側に無償で寄贈する合意文書に調印した。中国政府が山東省の役所から1994年に盗まれたものと断定したため。同館は、"善意の 第三者"で、法的には返す義務はないが、「中国側が管理ミスを認めて、協力事業の開催でも合意したため無償で戻すことにした」と説明している。
 仏像は6世紀の中国の作品とされる「菩薩(ぼさつ)立像」(高さ120センチ)。昨年4月、米紙ニューヨーク・タイムズが「セミをかたどった冠飾りや損傷部分などが酷似している」と報道したのを受けて両者が調査していた。
 中国側の説明によると、仏像を庭に保管していた山東省博興県の役所が、盗難届を公安当局に出していたが、盗難届を紛失したまま捜査に至っていなかったと いう。同館が95年に購入した先のロンドンの美術商は別の業者から買っており、流出した経緯は「不明」という。仏像は所有権は移っても、今後数年間は同館 で展示される。
 同館は、宗教法人・神慈秀明会(滋賀県信楽町)が、小山美秀子(みほこ)会主の収集した美術品などを所蔵するため財団法人を設立して97年11月に開館した。

 

重文「梅之堂三尊仏」16日に公開 八幡浜 (愛媛新聞 4月11日)

  国の重要文化財に指定されている八幡浜市徳雲坊の「梅之堂三尊仏」が16日、一般公開される。梅之堂三尊仏は、中央に阿弥陀如来、左右に勢至、観世音の両 菩薩(ぼさつ)を配した三尊仏。平安時代末期、仏師・定朝の流れをくむ京都の仏所でつくられ、運ばれたとされる。元は、現在は奈良国立博物館が所蔵してい る竜樹、地蔵の両菩を加えた五尊形式だった。16日は年に1度のご開帳で、一般公開は午前10時から。問い合わせは、市役所農林商工振興課=電話 0894(22)3111。

 

●キトラ古墳の朱雀 高句麗時代の三室塚に酷似 (東京新聞 4月5日) 

  奈良県明日香村のキトラ古墳(七世紀末-八世紀初め)で確認された四神の朱雀(すざく)によく似た朱雀が、中国・東北地方の高句麗時代の壁画古墳、三室塚 (五世紀後半)の石室内に描かれていることが四日までに分かった。戦前の「日満文化協会」の調査報告奮に掲載されていた。三室塚の朱雀はキトラ古墳の二百 年以上前に描かれたもので、とさかがあったり、首が長いなどの違いはあるが、右向きで尾を長く後ろになびかせ、片脚で地面をけって飛び立とうとする姿がよ く似ている。キトラの四神の原図は、唐から伝わったとする説が有力だが、七世紀に渡来した高句麗出身の画師(えし)が日本に持ち込み、代々伝えられたとの 見方も出ている。

 

金銅釈迦誕生仏を公開 滋賀 善水寺で8日 (京都新聞 4月4日)

 滋賀県甲西町岩根の善水寺は釈迦の生誕を祝う潅仏会(かんぶつえ)の八日、重要文化財の金銅釈迦誕生仏を特別公開する。
 善水寺は、岩根山中腹にある天台宗の寺。奈良時代に元明天皇の命により建てられ、平安時代に最澄によって中興されたとされる。潅仏会を行う本堂は一九五五年に国宝に指定されている。寺宝には、秘仏の薬師三尊像など重文十五体がある。
 金銅釈迦誕生仏は天平時代の作で、像高は二十三・二センチ。全国にある重文の誕生仏四体の中で、奈良の東大寺に伝わる国宝の誕生仏に作風が最も似ているという。
 公開は、三年前から潅仏会に際して毎年行っている。甘茶をかけるのは別の仏像だが、誕生仏は本尊が入っている厨子の前に安置し、他の仏像三十体とともに拝観できる。
 公開は午前九時から午後四時まで。拝観料は四百円。潅仏会は午後二時から。

 

翼広げ飛び立つ朱雀 キトラ古墳、四神そろう (奈良新聞 4月4日)

 

  奈良県明日香村阿部山の国・特別史跡「キトラ古墳」(7世紀末から8世紀初め)の石槨(せっかく=石室)内をデジタルカメラで撮影した同古墳学術調査団 (団長・関義清村長)は3日、「南の壁面で朱雀の壁画を確認した」と発表した。平成10年のカメラ調査で「玄武」「白虎」「青竜」の3つを確認しており、 四方の守護神「四神(しじん)」がすべてそろった。日本の古墳で「朱雀」の壁画が見つかったのは初めて。高松塚古墳では盗掘のため消失していた。北壁に描 かれた「玄武」も鮮明な画像でよみがえり、美術史にとっても超一級の成果となった。
 「朱雀」は南壁(扉石)の中央よりやや上に西向きで描かれていた。全身が朱色で、今にも飛び立とうという躍動的な表現。翼を広げ、地面をけるように片足 を伸ばしている。大きさは横60センチ、縦20センチ。濃淡を巧みに使い分け、中国や朝鮮半島の墓室壁画に比べて写実的な特徴がある。
 染み込んだ雨水で部分的に汚れているが、全身が残っていた。盗掘坑は壁の西端にあり、破壊を免れたとみられる。国内の四神壁画は高松塚古墳とキトラ古墳でしか確認されていない。薬師寺金堂の本尊・薬師如来像の台座に彫られた「朱雀」とは全く表現が異なる。
 北壁の「玄武」は、亀が太い首を後ろに向けて蛇と向き合う図柄。甲羅の模様もはっきり見え、腹の部分は淡い黄色。蛇の鱗(うろこ)は斑点で表現されていた。
 前回、舌先しか確認できなかった「青竜」は、力強くふんばった前足や胴の一部を新たに確認。天井の天文図は星の間を朱線で結んで星座としていた。星は金箔(ぱく)を張ったか、浅い窪みをつけたとみられる。
 盗掘坑の土の中から、副葬品とみられる大刀の破片も見つかった。  壁面は予想以上に雨水の浸透が激しく、表面に無数の水滴がついていた。漆喰(しっくい)がはがれて膨らんでいる所もあり、早急な保存対策が課題となる。
 キトラ古墳は、昭和58年に地元グループとNHKがファイバースコープを使って石槨の内部を調査。「玄武」の彩色壁画が初めて確認された。
 その後、壁画の傷みが心配されたことから、明日香村は平成10年3月に学術調査団を編成して再度石槨内を撮影。高性能の超小型カメラを使うことで、天井 に描かれた東アジア最古の天文図や「白虎」「青竜」の撮影に成功した。南壁の撮影は技術的に難しく、「朱雀」は確認できなかった。
 3度目の撮影となった今回は、墳丘上と盗掘坑を直径約15センチのガイドパイプで結んでデジタルカメラ(330万画素)を挿入、各壁面の鮮明な画像を得ることに成功した。

 四神
季節を定める星座「二十八宿」を4つの方位に分け、想像上の動物になぞらえた思想。中国で漢代ごろに成立、四方の守護神として信仰の対象になった。北に玄 武、東に青竜、西に白虎を配し、北は玄武。南の朱雀は邪気を払う霊鳥。前漢末から鏡、墓室壁画などに盛んに用いられるようになり、朝鮮半島でも高句麗の古 墳壁画などに数多く残っている。日本では薬師寺金堂の本尊・薬師如来像の台座などに浮き彫りにされている。

 百橋明穂・神戸大教授(美術史)の話
朱雀の特徴を十分把握しており、力強く躍動的な表現は目を見張るものがある。先進的な絵画技法の訓練を受けた絵師によるもので、スピード感あふれる筆致は白虎にも共通している。朱雀の絵画としては国内最古の確認例であり、美術史にとっても大変な発見だ。

 

絵画的に素晴らしい キトラ古墳デジカメ撮影 (奈良新聞 4月4日)

  キトラ古墳学術調査団(団長、関義清・明日香村長)は3日、奈良県明日香村川原の村中央公民館で調査・整備委員会を行ったあと、同館で会見した。会見で は、調査の概要や石室内の壁画に関して説明が行われたが、顧問の網干善教・関西大学名誉教授が「朱雀の確認により四神図と天文図という基本的な図柄がそ ろったことは古墳研究史上で重要」と語るなど、各団員は考古学のみならず美術史上でも重要な調査成果について一様に称賛の言葉を口にした。
 朱雀の壁画の全体像については美術史の百橋明穂・神戸大教授が解説。「線の太さを使い分けたり、彩色に変化をつけるといったこまやかさも持ち合わせていて、かなり熟練した絵師が描いたものではないか」と推論した。
 絵画技術については、網干名誉教授が「『ぼかし』の技術が盛んに使われ、リアルな表現になっている。絵画的に素晴らしいものだ」と絶賛。猪熊兼勝・京都 橘女子大教授も「当時の日本は朝鮮半島や中国の影響を受けていたにもかかわらず、今回の絵は日本的要素が強い。日本の絵師が描いたとしても、技術的に相当 すぐれた人物であったろう」と驚きの表情を隠さなかった。
 さらに、当時の日本の朱雀の絵の実態を知る上での手ごたえを語る研究者もいた。河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長は「中国で見られる朱雀より古い要 素がある。手本を描き換えて日本オリジナルの絵に仕上げたのではないか」と推察。泉森皎・同研究所付属博物館長も「中国の整理された優等生的なものとは異 なり、それ以前の雰囲気が感じられる」と述べた。
 こうした資料だけに、会見では調査で確認された石室内のしっくいのはく落などに懸念を示す声も強く、早期に対応策を講じる必要性が指摘された。関村長は 「できるだけ早い時期に保存計画を進め、貴重な文化財を国民のみなさんに享受してもらいたい」と話していた。
 四神の壁画はきょう4日から8日まで、明日香村川原の村中央公民館玄関ホールで一般公開。午前9時〜午後5時。特別公開は28日から5月31日まで、同村岡の犬養万葉記念館(入場料必要)で行われる。

 

●中国・金沙遺跡 黄金仮面など国宝級1000点出土 古代文明解明へ手掛かり (産經新聞 4月3日)

  中国四川省成都市郊外にある紀元前千年ごろの殷王朝末から西周前期ごろとされる金沙遺跡で、黄金の仮面や牛頭形の青銅器など国宝級の遺物が千点以上出土し たと、二日付の上海紙、文匯報が報じた。発掘を担当している成都市文物考古発掘隊は「世界を驚かせる大発見」としている。
 二月初旬、宅地開発中に作業員が地下三メートルから玉などの遺物を多数発見したのをきっかけに、発掘が開始された。
 現在までに発見されたのは黄金の仮面をはじめとした金製品数十点のほか牛頭形の青銅器、銅製人物像、虎の石彫、玉、戈(か)、石璧など。
 成都周辺では八〇年代に三星堆遺跡(前三千−前千年)から青銅の面や銅製人物像などが発掘されたが、今回発見された遺物はそれに酷似している。また、長 江(揚子江)下流で新石器時代後期に栄えた良渚文化の出土物ともよく似ているといい、「成都平原が良渚文化の影響を強く受け、高い水準の文化に発展して いったことを証明する大発見」と発掘隊は評価している。
 発掘隊は「現在までに発見された遺物は氷山の一角」といい、さらに大規模な発掘が必要と指摘。周辺は大規模な宮殿跡なども見つかっており、発掘が進めば成都平原の古代文明を解明する重要な手がかりとなると期待されている。
                 ◇
 奈良文化財研究所の町田章所長(東アジア考古学)の話 「金沙遺跡の存在は、黄河流域にあった殷・周王朝の時代に、既にこれに匹敵する国家が成都周辺に 存在していた可能性が高いことを示している。目と口が大きい黄金マスクの表情から、殷末から西周代の特徴がうかがえる。江蘇省などで見つかったのと同じ玉 器が発掘されたことは、距離の離れた長江流域との文化交流があったことをうかがわせており、興味深い。(金沙遺跡よりも古いとみられる)三星堆遺跡以降の 社会組織の発展形態を知る手掛かりになる」
                 ◇
 金沙遺跡 中国四川省成都市の西部、青羊区蘇坡郷金沙村で今年二月に見つかった遺跡。まだ発掘調査が進められている最中だが、約三千年前の殷代末期から 周代のものとみられる。近くでは約五千年から約三千年前まで続いたとみられる古蜀文化の三星堆遺跡が近年発見されたが、金沙遺跡の出土品と類似したものが 多く、考古学者は両遺跡の関連性を指摘している。三星堆遺跡からは、長江中下流域の遺跡から出土したものに似た玉器や陶器も多数発見された。北方の黄河文 明とは別の文明が域内で影響し合いながら発達していたとの説も出ている。

 

●出土 3千年前の遺跡から黄金の仮面や玉器など 上海紙報道 (毎日新聞 4月3日)

 二日付の上海紙、文匯報は「特ダネ」として、中国四川省成都市郊外にある殷末から周代とみられる約三千年前の金沙遺跡で、黄金の仮面や多数の玉器、青銅器、ぞうげなど千点余りの貴重な国宝級の文物が出土したと報じた。
 成都周辺では約五千―三千年前とみられる三星堆遺跡から、目の飛び出た特異な形をした青銅像などが発見されているが、同紙は金沙遺跡との関連性を指摘。相次ぐ埋蔵品の出土は成都平原の古代文明が高い水準にあったことを示すと解説している。
 金沙遺跡は開発中の宅地で今年二月に発見され、発掘が続いている。これまで仮面をはじめ装飾品など金製品十数点のほか、多数の青銅器や玉器、石器、ぞうげ数トンなどが見つかった。

 

国宝など93件公開 金堂釈迦三尊像台座 (奈良新聞 3月31日)

  法隆寺は、寺宝の数々を一般に公開する「法隆寺秘宝展」を、4月1日から、奈良県斑鳩町法隆寺山内の同寺大宝蔵殿で開く。同寺には国指定文化財だけでも約 2300点の宝物が伝わるが、一般の人々の目に触れる機会が少ないのが実情。このため多くの参拝者から公開の要望が強く、この声にこたえる形で秘宝展の定 期開催が決まった。
  同展では、国宝3件、重文31件を含む93件の宝物を展示。須弥山を護(まも)る四天王や飛天、羅漢など現存最古の仏教画が描かれた「金堂釈迦三尊像 台座」(国宝、飛鳥時代)をはじめ、脚部や台の側面が精巧な螺鈿(らでん)で飾られたテーブル「卓(しょく)」(同、平安時代)、唯識講演の本尊で約20 年ぶりに公開される「木造弥勒菩薩半跏像」(重文、平安時代)など、古い時代のものを中心に飛鳥から昭和までの彫刻、工芸、絵画、典籍、絵画の作品が並 ぶ。
 また、年輪年代法による調査で伽藍創建に一石が投じられた五重塔の心柱も公開。ことしが聖徳太子御遠忌1380年にあたることから、聖徳太子の二歳像 (南北朝時代)、孝養像(伝親鸞作、室町時代)といった彫刻や、絵画の聖徳太子像(水鏡御影、室町時代)など、太子関連の作品も数多く展示される。
 同展は6月30日まで。入館は午前9時から午後4時。無休。参拝料は中学生以上500円。小学生250円。問い合わせは寺務所、電話07457(5) 2555。展示品の案内は同寺のホームページでも公開中。アドレスはhttp://www.horyuji.or.jp

 

 ●羨道や玄室を一般公開 閉塞石の工法解明 藤ノ木古墳 (奈良新聞 3月30日)

  国史跡「藤ノ木古墳」(奈良県斑鳩町法隆寺西)の第4次発掘調査で羨(せん)道部の調査をしていた県立橿原考古学研究所と斑鳩町教委は29日、羨道に積ま れていた閉塞石は、古墳を築造・閉塞したとされる6世紀後半の状態がほぼ残され、被葬者が2体だったことから指摘されてきた追葬説の可能性はほぼなくなっ たとする調査結果を発表した。
 調査から、これまでほとんど例がない大型横穴式石室の閉塞石の工法が詳しく解明された。4月14、15日の両日、閉塞石を取り除いた羨道部分を含め、被葬者を納めた石棺のある玄室も一部立ち入り可能な方法で一般公開する。
 玄室に通じる羨道(長さ約8.3メートル、幅約2.1メートル、高さ約2.5メートル)に積み上げられた閉塞石(長さ約3.0メートル、幅約2.1メー トル、高さ最大約1.9メートル)を慎重に取り除き、石積みの状況や残された遺物を調査。閉塞のための祭祀(し)跡などの遺物は出土しなかったものの、閉 塞石の保存状態は良好で、同時期の横穴式石室の構造を考える上で、重要な資料となりそう。
 調査の結果、閉塞石は全部で約1400個にも及び、大きいもので直径約60センチ、重さは最大約60キロの大型の石が使われていた。また、閉塞石の積み 方について、上下に4つに区切ることのできる「作業面」が積み重なっていることを確認。閉塞石全体を平たんに仕上げるため、一定の高さで区切りをつけなが ら少しずつ石を積み上げた工法が解明された。
 これまでの発掘調査で、時期が異なる2種類の土器類が出土したことなどから、根強く残る追葬説については、石を使わずに土で構成された部分もあったもの の、石を搬入するための作業道とした可能性が高い▽石の積み方に、積みなおしによる不整合部分がなかった▽遺物が出土しなかった−など、今回の発掘で確認 した事実から、ほぼ否定された。
 一般公開は羨道部分に木製の橋をかけ、玄室内部まで見渡せるようにする。昭和60年の第1次発掘調査後に、羨道のすき間から石棺をのぞき見ることはできたが、石室内部までが一般公開されるのは今回が初めてで、極めて珍しいことだという。
 一般公開は両日午前9時から午後5時まで。

河上邦彦・橿考研発掘調査部長の話
 横穴式石室は(藤ノ木古墳より新しい)6世紀末から7世紀初めのものが最も大きいとされてきたが、藤ノ木古墳の羨道はとても高く、立派だという印象。県内トップクラスの大きさの石室と言っていい。

 

石室内細部撮影に成功 キトラ古墳調査団 (奈良新聞 3月24日)

  東アジア最古の天文図などが見つかった奈良県明日香村阿部山の国特別史跡・キトラ古墳(7世紀末から8世紀初め)で22日、デジタルカメラを使った石室内 の撮影調査が行われた。同村が学術調査団(団長・関義清村長)を編成して実施。午後の記者会見で「鮮明な画像が得られた。撮影は成功した」と発表した。画 像をもとに壁面の傷み具合や保存方法を検討、結果を公表する。
 同古墳の石室では、ファイバースコープを使った昭和58年の調査で玄武の壁画が確認された。平成10年に超小型カメラで再度撮影、白虎と青竜の四神壁画や天井の天文図が新たに見つかった。南壁の朱雀は確認できなかった。
 3度目の撮影となる今回は、墳丘上部と石室南壁の盗掘坑をガイドパイプ(直径15センチ)で結び、アームの先につけたデジタルカメラを挿入。機器の精度はこれまでより大幅に向上しており、細部の撮影に成功した。
 調査団は猪熊兼勝・京都橘女子大教授(考古学)を現場責任者とする28人で、環境の変化で壁画を傷めないよう、ガイドパイプの周囲にビニールハウス状の 前室を設けて加湿器を設置、湿度を調整しながら正午に撮影を開始した。午前9時半に測定した石室内の湿度は97%だった。
 アームにつけたデジタルカメラの向きを変えて各壁面を撮影。約100コマを撮影して午後5時20分に終了した。
 猪熊氏は記者会見で「画像は前回よりはるかに鮮明。うっかりすると見落とすような状況もよく撮れている。貴重な検討資料になる」と評価。団長の関村長も「保存方法を探るための詳細な資料が得られた」などと話した。

 

出土数100点近くに長岡京跡のミニチュア馬 (京都新聞 3月17日)

  向日市埋蔵文化財センターは十六日、京都府向日市寺戸町古城の長岡京跡から見つかった馬をかたどったミニチュアの祭祀(さいし)具が計四十七点にのぼった と発表した。現場は、長岡京の北西端に近い当時の川底で、都全体を清めるための国家的儀式を行った大規模な祭祀場跡だったとみている。
 また、三世紀末〜四世紀初頭ごろに造営された前方後円墳「五塚原古墳」(埋葬者は不明)の南約五十メートルと隣接していることから、都の造営に伴って古墳のたたりを鎮める役割があった可能性も示している。
 馬の祭祀具は土製で体長約十四センチ、高さ約十二センチ。ほぼ全形を残している七体をはじめ計四十七点をこれまでに確認した。このほかにも破片が多数見 つかっていて、最終的には約百点近くになる見通しという。合わせてなべやかまどをかたどった直径約十センチの祭祀具計百三点などが川底の幅二メートル、長 さ十メートルにわたって集中的に出土している。
 長岡京の大規模な祭祀場跡は、水垂遺跡(京都市伏見区)などに次いで四例目。清めなどの祭祀は通常、建物の隅など清める対象物のそばで行われるが、長岡 京の大規模な祭祀場はいずれも事実上の京域の端に近い川跡にあり、祭祀物にけがれを移して水に流すことで都の安泰を祈っていたと考えられる。
 現場は向日市役所の北西約二百メートル。宅地造成に伴い約四百五十平方メートルを一月から発掘していた。十八日午後二時から現地説明会を開く。問い合わせは同センター電話(931)3841。

 

江戸時代と伝えられていましたが…石山寺「弘法大師座像」 (京都新聞 3月17日)

  江戸期の作と伝えられていた滋賀県大津市石山寺一丁目、石山寺所蔵の木造弘法大師座像が、南北朝時代に作られたものだったことがこのほど、解体修理の際に 分かった。修理作業中に頭部内側から「明徳二(一三九一)年」の墨書が見つかったといい、鷲尾遍隆副座主は「寺に残る中世の大師像の中では代表格。一年ほ どは本堂に安置し、美しくなったお姿をみなさんに見てもらいたい」と話している。
 同座像は、同寺御影堂に安置されていたが、顔料の胡(ご)粉がはげ落ちるなど傷みがひどかった。同寺が一九九八年に、京都市山科区の業者に解体修理を依頼したところ、頭部の内側から墨書が見つかったほか、これまでに二度、修復された痕跡もあった。
 座像は高さ九十センチと人間とほぼ同じ大きさで、現存する弘法大師座像としては最大級だという。大津市歴史博物館出身の、岩田茂樹・奈良国立博物館主任研究官は「違和感のない大きさで、南北朝当時の作例を知る上で基準になる」としている。
 解体修理により古色を取り戻した座像は、穏やかでつややかな表情。鷲尾副座主は「文化財的な価値は分からないが、仏様がより長い時代を経てこられたと分かり、ありがたい限り」と話している。

 

復元の観音像、法隆寺仏像に酷似 加古川の鶴林寺 (神戸新聞 3月16日)

  兵庫県加古川市加古川町、鶴林寺で、ばらばらになっていたため存在すら知られていなかった観音像が、阪神・淡路大震災の被災地に入った専門家の発見によっ て平安時代の姿を取り戻した。国の重要文化財である法隆寺の観音像にそっくりで、聖徳太子信仰を表す重要な仏像として、県教委は十五日、指定を決めた。
 復元されたのは「二臂如意輪観音半跏思惟像(にひにょいりんかんのんはんかしいぞう)」。
 鶴林寺は震災で屋根が落ち、仏像が倒壊するなどの被害を受けた。その年の夏ごろ、ボランティアとして早稲田大講師(当時)の桜庭裕介氏が訪れ、仏像修理を手がけた。
 作業が終わるころ、桜庭氏は収蔵庫から偶然、仏像の胴体や足とみられる木片を発見。「あの頭と一体では」と、宝物館に展示されていた観音像の頭部を示し て指摘し、復元作業が始まった。集めた部材を組み合わせ、足りない部分は古色を施した新材を埋め込む。一九九七年九月、観音像は高さ五十四センチの本来の 姿を現した。完成してから、法隆寺に安置されている半跏思惟像と姿形も製作年代も似通っていることが分かり、モデルにしたのではないかとみられる。
 鶴林寺は「播磨の法隆寺」と呼ばれ、聖徳太子ゆかりの寺。

極寒、粛々、お水取り (奈良新聞 3月14日)

 奈良県東大寺二月堂の修二会(しゅにえ=お水取り)は13日未明、二月堂の本尊・十一面観音に若狭井からくんだ香水を供える「お水取り」の儀式が厳粛に執り行われた。
 修二会の代名詞ともなっている行中の最も重要な行事の1つだが、正月に若水をくんで邪気を払う日本古来の民間習俗に源流があるとも言われている。
 午前1時50分ごろ、咒師(しゅし)の北河原公敬師を先頭に6人の練行衆が、雅曲の演奏の中、蓮(はす)たいまつの先導で石段を下り、二月堂下の閼伽井屋(あかいや)へ。
 咒師らが建物に入り、今月2日に福井県・若狭から送られた水を屋内の若狭井からくみ上げた。「お水取り」は秘儀であるため、香水のくみ上げはすべて暗やみの中で行われ、閼伽井屋の入り口は練行衆によって厳重に警護された。
 桶(おけ)に入れられた香水は、講社の人々によって担がれ、3度にわたって二月堂に運ばれた。練行衆は、香水が上堂するたびにほら貝を吹き鳴らして行方を見守った。
 行事の最中は、北風が吹き、身の縮む寒気が周囲を覆った。けれども、行事を見守った参拝者は、香水が無事にくみ上げられるのを目にしながら、春が確実に訪れていることを実感しているようでもあった。

春呼ぶ炎 火と水の祭典 (奈良新聞 3月13日)

  奈良県東大寺二月堂の修二会(しゅにえ=お水取り)は12日、籠(かご)たいまつが登場し、巨大な炎が夜空を赤々と照らした。二月堂の舞台からは大量の火 の粉が飛び散り、境内を埋めた1万8000人(奈良署調べ)の参拝者が歓声を上げながら、春を運ぶと言われる伝統行事を見守った。
 この日用いられた籠たいまつは、ふだんのものよりひと回り大きく、長さ約8メートル、重さ約80キロ。午後7時半、鐘の音を合図に境内のあかりが消されると、童子が担ぐたいまつの炎に導かれて練行衆が二月堂への石段を上った。
 この火の粉を浴びると無病息災で過ごせるとの言い伝えがあることから、火の粉が舞い落ちるたびに舞台下の観客からは地鳴りのような歓声が上がっていた。

「釈迦如来」彫られた鏡像出土 三加茂・中庄東遺跡 (徳島新聞 3月8日)

  徳島県埋蔵文化財センターは七日、三加茂町中庄の中庄東遺跡から、十二世紀末(平安時代後期)に製作されたとみられる鏡像が一面見つかったと発表した。鏡 像は信仰の対象とされ、伝承されるが、出土した鏡像は何らかの理由で廃棄されたらしい。四国内で鏡像が出土したのは初めて。同センターは「経塚や寺社境内 から発見される鏡像は多いが、今回のように奉納や埋納以外での出土は例がない」と話している。
 鏡像は、鏡面に仏像などを線刻した鏡。神仏習合に基づき平安時代初期から信仰の対象として作られ始めた。
 出土した鏡像は直径一二・九センチの青銅製。蓮(はす)の上で座禅を組んだ釈迦如来(しゃかにょらい)が、ノミなどを使って刻み込む「蹴(けり)彫り」と呼ばれる技法で描かれている。
 同センターは、十二世紀中ごろに国内で鋳造された銅鏡を鏡像に転用するため、同世紀末に釈迦如来が彫られたとみており、十三世紀初めに廃棄されたものらしい。四国では香川県丸亀市の正覚院に伝承された鏡像が残っている。
 鏡像が作られた十二世紀末、この地域は天台宗妙法院の仏堂・三十三間堂の荘園だったが、十三世紀初頭に真言宗醍醐寺遍智院領に変わっている。同センターは「宗派の違う荘園領主に変わったことが、廃棄の理由となったかどうかは検討課題」としている。
 このほか同遺跡からは、県内で初めて和同開珎(ちん)が一点出土。飛鳥時代から室町時代にかけての竪(たて)穴住居や掘っ立て柱建物などが見つかった。
 十日午後二時から現地説明会がある。問い合わせは同センター〈088(672)4545〉。

重文仏像2体不明 滋賀の大岡寺 (京都新聞 3月6日)

 滋賀県教委は五日、甲賀郡水口町京町の大岡寺の代表役員から、同寺所有の国の重要文化財「阿弥陀如来立像」と「千手観音立像」の二つの仏像が所在不明になったとの報告があったことを明らかにした。県教委は仏像の所在について調査を始めた。
 県教委などによると、同寺は昨年五月ごろ、仏像二体を買い上げてほしいと要望し、県教委は国に先買権があることから文化庁への相談を勧めた。しかし、代表役員から今年二月九日に県教委へ「(仏像を預けていた)知人が帰らなくなった」との電話があったという。
 大岡寺の本堂など建物・境内は一九九九年七月、大阪市中央区のメンテナンス会社から五千五百万円の抵当権が設定されており、今年二月六日、大津地裁で競売開始の手続きが決まった。

平等院に「鳳翔館」オープン 宇治 国宝を間近に (京都新聞 3月2日)

 京都府宇治市宇治蓮華の平等院境内のミュージアム「鳳翔(ほうしょう)館」が一日、オープンした。開館式に続いて、早速、地元住民や一般の参拝者らが訪れ、数々の国宝を鑑賞した。
 鳳翔館は、平等院が二〇〇二年に創建九百五十周年を迎えるのを記念して建設された。国宝の梵鐘(ぼんしょう)や鳳凰、雲中供養菩薩像などが常設展示される。
 開館式では初めに、宮城宏道、神居文彰両住職や来賓らが、鳳凰堂の北側の阿字池に創建当時の庭園を模して整備された平橋と反橋の渡り初めをした。

 

古都の夜空に火の粉舞う 火と水の祭典 (奈良新聞 3月2日)

 東大寺二月堂の修二会(しゅにえ=お水取り)は1日、本行入り。夜には二月堂の欄干(らんかん)で長さ約6mの巨大なたいまつが振られ、炎と火の粉が夜空をこがした。
 午後7時、鐘の音を合図にたいまつを担いだ童子の先導で、練行衆が1人ずつ石段を上って二月堂内へ。入堂後、欄干から突き出されたたいまつが振り回されると、堂下へ無数の火の粉が飛び散り、参拝者から歓声が上がった。
 たいまつは行中の14日までの間、毎日午後7時(12日は同7時半、14日は同6時半)から上堂する練行衆の足元を照らす。

 

入り母屋作りの家形埴輪出土 松阪の宝塚一号墳 「造り出し」祭祀の場 (伊勢新聞 3月1日)

  三重県松阪市宝塚町から光町にまたがる国の史跡「宝塚1号墳」(五世紀初頭)を調査していた同市教育委員会は二十八日、「造り出し」(東西十八b、南北十 六b、高さ二b)と呼ばれる当時の祭祀(さいし)の場の東側部分で、「ひれ飾り」を付けた高さ七十五abの高床式入り母屋造りの家形埴輪(はにわ)と、柱 状埴輪を門柱状に配して出入り口を表現したとみられる埴輪列が出土したと発表した。
 柱状埴輪の存在が確認されたのは全国で初めて。
 辰巳和弘・同志社大学助教授は日本書紀の「高殿」の出現と位置付け、宝塚古墳保存整備指導委員会委員長の八賀晋・三重大学名誉教授は「祭礼の場所に入る結界。儀礼の精神的な面を具体的に示す素晴らしい事例だ」と、高い評価を示した。

「祭礼の場への結界」/宝塚古墳 「大変貴重な資料」松阪市が会見 「ひれ」は王の象徴

  松阪市の国の史跡「宝塚1号墳」(五世紀初頭)を調査していた同市教育委員会は二十八日、松阪市役所五階で会見し、昨年十月に出土が報告された「導水」の 施設を持つ囲形埴輪(はにわ)近くで、国内で初めて柱状埴輪の配列を確認したことや、これまで二例ほどしか確認されていない「ひれ飾り」のある高床式入り 母屋造りの家形埴輪や、二隻目の船形埴輪の出土などを報告した。
 柱状埴輪は、だ円筒形で長径三十三a、短径十七a、高さは推定で二十七a。「造り出し」部の東西両側から一対ずつ出土した。
 会見の冒頭で、同古墳の保存整備指導委員会委員長の八賀晋・三重大学名誉教授は柱状埴輪の役割を今回出土した高床式家形埴輪や、囲形埴輪への入り口の門 に値する役目を果たすと述べ「祭礼の場所に入る結界」だとした。また、柱状埴輪が東西それぞれに配置していたことについては「造り出しそのものが神が古墳 の主に対して祭祀(さいし)を行う場であるという意味がある」と語った。
 上部が山形になった柱状埴輪の造りについては「神はとがったものの上に降りるという意味合いから、このような造りになったのでは。今でいう門松や神社の鳥居のようなものだ」と、推測した。
「ひれ飾り」を付けた高床式入り母屋造りの家形埴輪については「ランク的にみれば、これまで出土していた『かつお木』よりも『ひれ』の方が上。『ひれ』は王の象徴としての飾り」と、述べた。
 昨年四月に出土した国内最大の船形埴輪に次いで、二隻目の船形埴輪も出土したことについては「一部しか復元ができなかったため、全景は推定にすぎない が」と前置きし「船べりの構造、オールをこぐ場所など、前回の船とは状況も意味合いも違い、これまでの埴輪と同じように一つの種類として置かれたにすぎな いだろう」と、語った。
 八賀名誉教授は「これまで『造り出し』は人が古墳の神を祭る場と考えられていたが、柱状埴輪の意味する門の幅が狭いことから、神が主体になって祭祀を行っていたのだろう」と、当時の人々と神とのかかわりを知る上で大変貴重な資料であることを強調した。

「高殿」の出現といえる

  辰巳和弘・同志社大学助教授の話 かぎの手状の入り口構造(柱状埴輪)は屋敷周りを意味する表現だろう。今回出土した家形埴輪はこの中に位置し、古墳時代 の豪族が豪族として行うべきマツリゴト(祭事、政事)の場として作りつけられていたと考えられる。まさに『日本書紀』にある「高殿」の出現と言えよう。
 高橋克壽・奈良国立文化財研究所主任研究官の話 これまで柵形(さくがた)と呼んでいた埴輪が入り口を模して出土した例は初めて。(明らかにされていな い)柱状埴輪からつながる配列は閉じる形でつながっているだろう。王の死を契機に、行われたセレモニーを集約した場所だと考えられる。
 山澤義貴・県埋蔵文化財センター副参事の話 古墳にかかわる祭祀(さいし)の様子をたどることができる貴重な資料だ。これまで分らなかったことを解明する多くの材料を提供してくれた。

遺跡保全前向きに/松阪市・野呂市長

  松阪市の宝塚1号墳で新しい埴輪(はにわ)などの出土を報告した会見で、野呂昭彦市長は「市は今後整備を図り、市民に歴史を感じ、学んでいただけるよう 守っていきたい。出土した埴輪のためにも、展示収蔵する施設の建設に努め、古墳は史跡公園として整備を進めたい」と、遺跡保全に前向きな意向を明らかにし た。
 会見後、野呂市長は下村登良男・同古墳保存整備指導委員会副委員長とともに、展示された埴輪を見て回り、下村副委員長の説明に「良くできていますね」などと話しながら、熱心に耳を傾けていた。

 ■宝塚1号墳■

  全長百十bの前方後円墳で伊勢地方最大の古墳。墳丘部は昭和七年に、同五十三年に周辺も含めたおよそ二万六千七百平方bが国史跡に指定された。平成十一年 から調査が始まり、昨年一月に古墳本体と「造り出し」部を結ぶ「土橋」と呼ばれる通路が全国で初めて出土。四月にはこの「土橋」から約二b離れた所で国内 最大の「船形埴輪」が見つかり、十月には「造り出し」部から全国で初めて数多くの埴輪群が配列状態で出土した。被葬者は近畿地方とつながりがあり、伊勢湾 西岸の広い範囲を強い力で支配した人物と推定される。

市民ボランティア 宝塚1号分の整備へ

 松阪市は宝塚1号墳の整備を市民のボランティアなどの力で進める計画を立てている。新年度予算案に四百万円を盛り込んだ。
 市教育委員会によると、同古墳を古墳公園として整備を進める中で、「造り出し」部分から出土した円筒や壷形埴輪(つぼがたはにわ)などの埴輪群を「買っ て並べるのではなく、市民らの手による作品を並べたい」といい、具体的には、当時と同じような焼成を行うために市内に窯を造り、市民や県内外の人たちも広 く参加して、陶芸家などのアドバイスを受けながら埴輪作りに取り組む。
 同古墳周辺の土地七百八十平方bの購入や、便益施設、駐車場などの整備に一億二千七百万円の新規予算も計上されており、今回の出土も計画実現に向け、大きな弾みになるという。

きょうから発掘速報展 囲形埴輪など展示

 松阪市の宝塚古墳から新たな家形埴輪(はにわ)が出土したことに伴い、市教育委員会は一日から四月十三日まで、同市外五曲町の市文化財センターで「宝塚1号墳発掘速報展」を開催する。
 「ひれ飾り」の付いた家形埴輪をはじめ、導水や井戸様の水のまつりを表す囲形埴輪、二隻目の船形埴輪などを展示する予定。なお、今回は同古墳での現地説明会は開催しない。
 また、四月十四日から五月六日は文化庁主催の日本列島発掘展に先駆け、国内最大の船形埴輪や、囲形埴輪など、同発掘展に出展を予定している埴輪を公開する「特別展」も開催する。問い合わせは同センター=電話0598(26)7330=まで。

 

80年ぶり里帰りへ 鎌倉・英勝寺の山門 (神奈川新聞 2月27日)

  水戸徳川家の姫君が代々住職を務めた由緒ある鎌倉の尼寺・英勝寺(扇ガ谷一丁目)の山門が、関東大震災の倒壊以来約八十年ぶりに"里帰り"することなっ た。震災後、個人所有となり境内から約一キロ離れた場所に移されていたが、念願かない寺が現所有者から買い戻した。移築に先立ち二十六日、法要が営まれ、 十二代目の柳田法導住職(62)は「本堂、鐘楼とようやく一体化できる」と感慨を込めて手を合わせた。
 現存する棟札によると、山門は水戸徳川家の祖である徳川頼房の長子で後に高松藩主となる松平頼重が、江戸初期の一六四三(寛永二十)年八月に建立したとされる。
 構造は入母屋造りの二階二重門。高さ約一〇メートル、幅約六・四メートル、奥行き約三・八メートルある。延べ床面積は約四五平方メートル。
 鎌倉市史などによると、英勝寺は徳川家康の側室で頼房の養母である英勝院が建立した。一六三六(同十三)年の開山以降、水戸家の息女を代々の住職に迎えたことから、「水戸御殿」と呼ばれていたという。
 しかし関東大震災で大きな被害を受け、半壊した本堂などは古材で復旧したものの、山門は資産家に買収され境内から離れた場所で再建され現在に至っていた。

 

県指定文化財指定 白井家文書など6件 保護審が県教委に答申 (伊勢新聞 2月22日)

  三重県教委は二十二日、県文化財保護審議会から、津市下弁財町津興の真教寺所有の円空仏「木造十一面観音立像」、「白井家古文書」(上野市忍町)など六件 を新たに県指定文化財にするよう答申を受けた、と発表した。近く県教委で正式決定されるが、指定されれば県指定文化財はこれで計四百八十一件となる。
 このほか指定を受けたのは、多気郡明和町の坂本古墳群から発掘された七世紀前半とみられる装飾大刀「金銅装頭椎大刀」▽江戸時代から伝わる萬古焼の一種 「桑名萬古」(赤絵)の伝統技術と、その技術を受け継ぐ技術保持者に加賀瑞山氏(桑名市中央町)を認定▽明和町にある古墳時代(七世紀前半)の坂本古墳群 ▽飯南郡飯高町月出にある日本列島を縦断する中央構造線の断層帯の露出部分「中央構造線月出露頭」―。また、県指定文化財ではないが、名張市滝之原の八幡 神社の若子祭に対し、記録保存を目的とした「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」とするよう答申された。
 答申を受けた県指定文化財の主な指定理由は次の通り。

  【木造十一面観音立像】江戸時代前半期に仏像を作る僧として諸国を遊行した円空が、一六七四年に伊勢・志摩を訪ねた際に制作したと考えられる。高さは二三 六・三a。全国に約四千五百点が現存し、荒々しい作風が多いとされる円空仏の中でも、同像は滑らかで細かい彫りで丁寧に仕上げられており、全国的にも珍し い作例。二bを超える大きさも貴重で、県内の円空仏では初指定となる。

 【白井家古文書】藤堂家藩士白井家に伝来する古文書 百一通が対象。白井家はもともと若狭国守護大名武田家に属した武士で、武田家滅亡後の一五八七年に藤堂高虎に仕えて重臣となった。歴代藩主や他国大名の自 筆書状が多く、中世から近世時代の武家社会の様子も分かり、県内に残る武家文書としては内容的にも最も優れた文書だとしている。

 【金銅装頭椎大刀】明和町の坂本古墳群の一号墳から出土。七世紀前半ごろのものとみられ、鞘(さや)入りの状態で出土し、全長百六cm。同様の大刀は全国で約百二十例があるが、大半は部分的にしか残っておらず、完全な形で出土されたのは数例。

 【桑名萬古】江戸時代から起こった萬古焼の伝統技術を引き継ぐもので、将軍家ご用達の著名な焼き物としても知られており、赤絵、青磁などの技法がある。

 【坂本古墳群】 七世紀前半(古墳時代)の坂本古墳群は当初、百五十基以上あったとされているが、古くからの開墾で現存するのは六基。そのうち中心的な1号古墳は保存状態も良く、古墳時代後期の前方後方墳としては極めて貴重。

 【中央構造線月出露頭】中央構造線の断層帯が高さ八十b、幅五十bに及んで露出しており、露出面積は全国で最大級。

 

「調」示す最古の木簡 藤原京跡 (奈良新聞 2月22日) 

 奈良県橿原市和田町の藤原京跡で、7世紀中ごろの建物跡から、「高志調(こしのちょう)」の3文字を記した木簡が見つかった。調査していた県立橿原考古学研究所は22日、「古代の物納税『調』を示す最も古い木簡とみられる」と発表した。
 物納税の「調」は646年の「改新の詔(みことのり)」で整備されたが、本格的な施行は7世紀末の飛鳥浄御原令以降と考えられてきた。「調」の木簡として最古とすれば、大化改新(645年)後、早い時期から新しい税制が機能していたとみられる。
 県道の建設に伴い、約1300平方メートルを発掘調査。建物跡は7メートル(3間)四方の正方形で、方眼状に柱を立てる構造から、倉庫と推定できる。北端を削った溝に660〜670年ごろの土器が落ち込んでおり、それ以前の築造と分かった。
 木簡は長さ12.8センチ、幅2センチ。柱を据える穴の中で見つかった。「高志」は北陸地方の「超国(こしのくに)」を指すとみられ、「調」として運ばれた荷物に付けたらしい。
 645年の蘇我氏打倒後、孝徳天皇(在位645〜654年)は「改新の詔」を出して中央集権体制の確立に着手。「調」は税制の中核で、稲や絹を納めることを定めた。しかし、本格的な施行については、律令体制への足がかりが整う飛鳥浄御原令以降と考えられてきた。
 今回見つかった建物跡の周辺では、柵列の柱穴や時期の遅れる建物跡(東西11メートル、南北7メートル以上)も見つかっており、橿考研は、藤原京の造営以前から、開発が進んでいたとみている。

 和田萃・京都教育大教授(日本古代史)の話
 調の施行が斉明天皇の時代に北陸地方まで及んでいたことを示す重要な資料。古代の幹線道路に沿った地域で、重要な倉庫群があったのかもしれない。

  栄原永遠男・大阪市立大教授の話
 高志からの調に付けられた荷札だった可能性はあるが、律令的な「調」とみるのか、古い段階からある貢ぎ物を意味する「ツキ」であるかは判断できない。律令(りつりょう)制度がいつごろから成立したのか考えさせる史料だ。

 今回の調査地内ではまた、中世の井戸も見つかり、寺院に伴う基壇化粧石や「磚(せん)」と呼ばれるれんがが入っていた。塔跡などが出土した「和田廃寺」に隣接しており、関係が注目される。
 化粧石は半分だけ焼けており、建物が建ったまま焼けたことが分かる。磚は全体が焼けて表面が剥離(はくり)するなどしていた。
 『日本書紀』によると、敏達14(585)年、崇仏派の蘇我馬子が大野丘の北に塔を建て反対派の物部守屋が塔を焼いた。和田廃寺は位置関係などから、こ の塔跡と考えられてきた。しかし、奈良国立文化財研究所の調査で7世紀中ごろのかわらが出土。時代的なずれが明らかとなった。
 橿考研は「和田廃寺に伴う遺物と推定できるが、時代がはっきりせず、塔との関係はなんとも言えない」と話している。

五重塔の心柱、伐採は594年 太子草創伽藍の可能性 法隆寺 (奈良新聞 2月21日)

  現存する世界最古の木造建造物である法隆寺・五重塔の心柱の伐採年代が、奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの年輪年代測定法で594年と判明し、 20日、同センターが発表した。現在の西院伽藍は、解体修理や発掘調査の結果から日本書紀に記述のある天智9(670)年の火災以降などに再建されたとの 説が有力となっている。しかし、今回の研究成果は、同伽藍の成立時期の研究に一石を投じる資料として注目されそうだ。
 年代測定は、同センターの光谷拓実・発掘技術研究室長が担当。測定に使われた心柱の部材は、昭和18年から約10年かけて行われた塔の解体修理の際に地中部分から採取されていた。測定はX線撮影装置を使って行われ、確度の高い伐採年のデータが得られた。
 法隆寺の西院伽藍に関しては、聖徳太子草創の寺そのものとする非再建論と、火災後建て替えられたとする再建論が明治半ば以降争われてきた。けれども、昭 和16年の若草伽藍の発掘や塔の解体修理、同50年代の発掘調査などによって、再建伽藍であることが大勢を占めるようになっていた。
 今回の年代測定結果は、西院伽藍が太子草創のものとする可能性を指摘するものだが、一方で、塔にふかれているかわらの年代、塔と金堂の建設順序、金堂内に安置されている釈迦三尊の様式などは、同伽藍が7世紀後半に建てられたものとする論拠を示している。
 同研究所でも「多方面で検討を加える必要があり、現段階で建設年代の結論は出せない」としている。とは言え、古代寺院に関する資料の少ない中、法隆寺伽藍の建立年代の研究を含め、古代の寺院をめぐる諸問題にとって貴重な資料になるものと見られている。

 法隆寺・大野玄妙管長の話
 五重塔の心柱の伐採年代が明らかになり、摂政になられてすぐに何かの建物を建てようとした聖徳太子さまの意志が解明された。太子さまと因縁がつながる材木が塔に使用されていることが分かって、大変ありがたいことと思っている。

 

「信じがたい測定結果」考古学界に新たな波紋 五重塔心柱伐採 (奈良新聞 2月21日)

 「年輪とほかの史料が矛盾する。なぞとしかいいようがない」。年輪年代法で594年の伐採と判明した法隆寺五重塔心柱は、火災による再建説でほぼ一致していた孝古学界に、新たななぞを持ち込むことになった。
  今回の測定結果は、部材の最も外側部分である白太(しらた)が確認できたため、誤差がない正確なデータだ。昭和18年から同29年までの解体修理で、 五重塔は建築後それまで一度も解体されていないことがすでに判明しており、594年の心柱の伐採直後に建立されたとすると、日本書紀の記す670年の大火 や、8世紀初めごろとされる再建を真っ向から否定することになる。
 山本忠尚天理大教授(古代史)は「信じがたい測定結果」とした上で「594年に伐採された木が、670年以降の再建時まで80年以上も使われないまま寝かされていたと考えるしかない」と考え込む。
 金子裕之・奈良国立文化財研究所室長も「五重塔のかわらは7世紀後半のもので、心柱材との年代のずれが大きすぎる」と指摘。
 森郁夫・帝塚山大教授(歴史考古学)は「心柱は木を継いだ可能性がある。複数の建築材で年輪年代法測定を行った上で五重塔の年代を確定すべきだ」と、複数資料で測定する必要性を訴える。

 

●奈良県斑鳩の里の法隆寺には「法隆寺の七不思議」が伝わっている…  (毎日新聞 2月22日)

 奈良県斑鳩(いかるが)の里の法隆寺には「法隆寺の七不思議」が伝わっている。法隆寺にはクモが巣をかけない、境内の地面は雨だれの穴があかない、スズメが建物に糞(ふん)をしない等々
 それも不思議だが、もっと不思議なのは法隆寺五重塔の成り立ちである。日本書紀の670年4月30日の条に「法隆寺に火災が起こった。一屋も残らず焼失した」とある。1939年にその跡が見つかり、現在の法隆寺は焼失後に再建されたという説が有力だった
 ところが、奈良国立文化財研究所が解体修理のときに保存していた心柱(しんばしら)の一部をX線撮影して調べると、594年に伐採したヒノキ材だったこ とがわかった。日本書紀が伝えるように670年に焼け、その後再建されたとすると、なぜ594年伐採の木を使ったのか
 当時、伐採した木材はすぐに使われるのが普通で、伐採直後に五重塔を建てたとすれば、7世紀はじめになる。もしかしたら再建ではなく創建かもしれない。とすると、日本書紀の記述と明らかに食い違う。まるで二つの法隆寺があるようだ。法隆寺第一の不思議だ
 それにしても問題の心柱が594年伐採とよくわかったものだ。奈良国立文化財研究所は86年に同じ心柱を肉眼で調べたが、部材の赤身(色の濃い部分)し か見えなかった。こんどX線で調査してはじめて年輪の最も外側の白太(しらた)(白い部分)が判明し、正確な年輪を測定することができたという。年輪年代 測定法の成果である。
 再建か創建かはさしおき、594年に伐採されたヒノキ材が、五重塔の心柱に組み込まれたことは間違いない。1400年前のヒノキ。1400年前、きっと 宮大工たちは、ヒノキをなでさすりながら、一心不乱に五重塔を建立したのだろう。先人の業に驚嘆する。心柱は、心の柱とも呼ばれる。いま心に柱はあるだろ うか。

 

奈良から昭和まで きょうから特別陳列「お水取り」 重文の二月堂本尊光背 (奈良新聞 2月21日)

 東大寺修二会1250回を記念した奈良国立博物館の特別陳列「お水取り」が、きょう20日から奈良市登大路町の同館で開かれる。
 修二会に関係する彫刻、絵画、書跡、工芸、考古資料など重文9件を含む38件を出陳。うち11件が初公開。修二会の時期に合わせた特別陳列はことしで5 回目となるが、今回は奈良時代から昭和までの各時代の資料を網羅的に展示。1250年の時代の流れと修二会の本質が理解できる内容となっている。
 重文の銅造鍍(と)金「二月堂本尊光背」(奈良時代)は、等身大の金銅仏と推定されている二月堂の本尊・十一面観音の光背で、たて約2.3メートル、最 大幅約70センチ。江戸時代(17世紀中期)の火災による焼損で約90個の断片になったが、千手観音を中心とした仏の群像や仏教の世界観が線刻で表され、 同時代の仏教理解をうながす資料として貴重なものとされる。
 重文「東大寺要録第七」(室町時代)は、平安時代に編さんされた東大寺の寺誌で室町時代の写本。実忠上人が、天平勝宝4(752)年に修二会を始めたことが記されている。
 また、頭上面が下から3面、3面、3面、1面の国内唯一の構成で十一面観音(小観音)が描かれている重文の図像「類秘抄」(鎌倉時代)や、若狭井の由来 といった修二会の説話が記された絵巻「二月堂縁起」(室町時代)のほか、修行僧(練行衆)の上堂や法要で使用する籠(かご)たいまつ、達陀(だったん)た いまつも展示され、これまで以上の充実ぶりとなっている。
 同展は3月18日まで。午前9時から午後4時半開場。26日、3月5日休館。3月12日観覧無料。観覧料は一般420円、高校・大学生130円、小・中 学生70円。ギャラリートークは、3月14日午後2時から、西山厚・同館資料管理研究室長の「お水取りの魅力」。問い合わせは同館、電話0742(22) 7771。

うねる裸群 春呼ぶ熱気 西大寺会陽 (山陽新聞 2月19日)

 日本三大奇祭の一つ、備前平野に春を呼ぶ「西大寺会陽」が、十七日夜から十八日未明にかけ、岡山市西大寺中の西大寺観音院で行われた。約九千人(主催者発表)の男が寒さの中、宝木(しんぎ)を求め勇壮な裸絵巻を繰り広げた。
 午後十時、三番太鼓が鳴り響くと、裸のグループが境内に次々と入場した。垢離(こり)取り場で水を浴び身を清め、本堂大床へ進むと「わっしょい、わっしょい」。激しい練り合いで、打ち水は白い湯気に。
 照明が消された十八日午前零時。坪井全広住職が御福窓から本堂大床へ二本の宝木(しんぎ)を投下すると「ウオー」というどよめきが上がった。宝木を求め裸群は、大床から崩れ落ちるように渦を巻き激しい争奪戦を展開。

西大寺会陽 心高ぶる太鼓と花火 境内最高潮に
 渦巻く裸群、男たちの汗と熱気―。十七日夜から十八日未明にかけて、岡山市西大寺中の西大寺観音院を舞台に繰り広げられた西大寺会陽。まわし姿で体をぶつけ合う男たちの熱気と興奮が、見物客をも巻き込み境内を包み込んだ。
 「そーれ!」。掛け声とともに午後八時半、本堂西側の特設ステージで地元女性ら十一人による西大寺会陽太鼓が始まった。法被にねじり鉢巻きのいなせな姿 で「炎祷(えんとう)」「龍神」の二曲を披露。力強いばちさばきから繰り出される勇ましい音色が境内に響き渡り、宝木(しんぎ)争奪に挑む男たちの心を高 ぶらせた。

少年はだか祭りに300人
 西大寺会陽を盛り上げる「少年はだか祭り」が十七日夜、西大寺観音院で行われ、小学生約三百人が二本の宝筒(たからづつ)などをめぐって大人顔負けの迫力ある争奪戦を繰り広げた。
 まわし姿の子どもたちは午後七時ごろ、西大寺市民会館(岡山市向州)を出発。商店街を約一キロ「わっしょい」「わっしょい」と練り歩き、境内の垢離(こり)取り場で身を清めた後、本堂前に集合した。
 一、二年生は宝もちを、三、四年は五福筒約十本を奪い合った。
 五、六年生は約百人が同八時すぎから宝筒を奪い合い。参加者は家族や同級生らの声援を受け、勇ましい肉弾戦を展開した。

 

滴一滴・春を待つ (山陽新聞:岡山市)

 きょうは二十四節気の一つ「雨水」である。この時期、それまでの雪が雨に変わり、草木の芽吹くころとされる
 岡山市の吉井川河畔にある西大寺観音院では、昨夜から恒例の「西大寺会陽」が行われた。地元では昔から、会陽が過ぎれば春が来ると言われている。「福」を求めて裸の男たちが勇壮な宝木(しんぎ)の争奪戦を繰り広げた
 「えよう」の語源には諸説があるようだ。「岡山の会陽」(三浦叶著)では「エイヨー」という掛け声説、宝木を得た人は福を授かり豊かな生活ができるとい う「栄耀(よう)栄華」から来たとする説などを紹介している。同観音院の場合は、中国の「易経」にある「一陽来復」から転じて「春(陽)に会う」との説を とっているようだと書いている
 西大寺会陽には五百年近い歴史がある。これまで参加者はもちろん「伝統を絶やすな」「魅力ある行事に」という地元や関係者の努力、観客によって支えられてきた。備前平野に春を告げる風物詩として、これからも歴史を積み重ねていくことだろう
 日本は四季がはっきり分かれているためか、私たちは季節の移り変わりに敏感だ。とりわけ春は待ち遠しい季節だ。冬が厳しければ厳しいだけ、その思いが強い。このところの日本は政治、経済、社会などどれをとってみても暗い出来事が多い。長い″厳冬期″が続いている
 「一陽来復」は「悪いことばかりあったのがようやく回復してよい方に向いてくる」ということでもある。だれもが春を待っている。

 

天台寺の仏像2点国宝目指す (岩手日報 2月14日)

  浄法寺町は、同町御山の天台寺(瀬戸内寂聴住職)が所有する国指定重要文化財「聖観音立像」と「十一面観音立像」(平安時代)の国宝指定を要望する運動を 始めた。両仏像は戦前には国宝に登録されていたこともある。町は「北東北が誇る貴重な文化遺産」として、天台寺保存会(菅三郎会長)を中心に文化庁への陳 情などを繰り広げる。
 菅会長や瀬戸内住職、清川明彬町長らがこのほど文化庁を訪問。瀬戸内住職は「自分が元気なうちに国宝指定を実現してほしい」と佐々木正峰長官に対して要望書を手渡した。
 同保存会は、2000年度の総会で両仏像の国宝指定を求める活動を進めることを決めた。要望書は「中央文化の影響を受けながらも土着的。荒々しさの中に優美さを秘め、みちのくの地に栄えた文化財だ」としている。
 聖観音立像は天台寺の本尊。行基作と伝えられ、美しい横じま模様ののみ跡を残した鉈(なた)彫り技法の最高傑作とされる。十一面観音立像もカツラ材一本造りで、ともに平安中期の仏像の佳作といわれる。
 聖観音立像は1903(明治36)年、十一面観音立像は1915(大正4)年にそれぞれ国宝登録された。しかし他の国宝と同様に、50年の文化財保護法施行とともに国の重要文化財となった。
 県内の国宝は現在、平泉町中尊寺の金色堂と工芸品類、紺紙金字一切経だけとなっている。これらは戦後に再度指定された。
 清川町長は「天台寺は北東北文化の発祥の地といわれ、美術的価値からも国宝に指定されて不思議はない。新年度から文化審議会で鉈彫りの国宝審査も検討すると聞いており、期待している」と話している。

 

最古の火葬墓か 五条野内垣内遺跡 (奈良新聞 2月14日)

  奈良県橿原市五条野町の五条野内垣内(うちがいと)遺跡で、藤原京(694〜710年)成立以前の火葬墓とみられる穴が見つかり、調査した市教委が13日 発表した。墓にはまた、骨や炭に混じって墓誌とみられる鉄板が納められていた。『続日本紀』が「天下の火葬の始まり」と記す僧道昭(629〜700年)の 火葬より古く、国内最古の火葬墓の可能性もある。
 火葬墓とみられる土の穴は、南北1メートル、東西0.9メートル、深さ0.1メートル。大量の灰と一緒に焼けた骨片や炭が埋められていた。検出面から約2センチ下で鉄板が見つかった。
 全体が厚いさびに覆われており、長さ30センチ、幅15〜18センチ。X線撮影の結果、文字は刻まれていなかった。
 同遺跡では、昨年12月から始まった市教委の発掘調査で、藤原京期の大規模な建物跡が出土。火葬墓は柱のわきにあり、一部削られていることから、藤原京成立以前の築造と分かった。周囲の土は焼けておらず、別の場所で遺体を焼いたとみられる。
 『続日本紀』は、文武4(700)年、玄奘三蔵に学んだ僧道昭を、弟子たちが遺言によって火葬したことを記し、日本の火葬の始まりとしている。市教委の 浜口和弘技師は「遺跡は蘇我氏の勢力範囲にあり、仏教にもとづく新しい葬送を採り入れた可能性もある」と話している。
 この鉄板を含む平成11年度埋蔵文化財発掘調査成果展「かしはらの歴史をさぐる8」が、きょう14日から、橿原市川西町の千塚資料館で開かれる。3月31日まで。開館時間は午前9時から午後5時(月曜と3月20日休館)。
 泉森皎・県立橿原考古学研究所付属博物館長の話
 火葬墓には鉄板が納められていることから、藤原京が造営される直前の高級官僚の墓だった可能性がある。大宝律令(701年)は藤原京内の造墓を禁じており、藤原京の範囲を検討する上でも重要な材料になりそうだ。

 道昭(629〜700年)
 653年に遣唐使に随行して唐に渡り、玄奘(げんじょう)三蔵に師事して禅を学んだ。帰国の際には、玄奘から舎利・経論となべを授けられたとされる。 662年に飛鳥寺の南東隅に禅院を創建し、法相宗を広めた。続日本紀には、700年に死去し、天下で初めて栗原(明日香村)で火葬されたと記される。

 

●最古の火葬墓発見 7世紀末の邸宅跡 奈良・橿原 (産經新聞 2月14日))

  奈良県橿原市の五条野内垣内(ごじょうのうちがいと)遺跡で、藤原京(六九四−七一〇年)期の掘っ立て柱建物の柱穴の下層から、火葬墓とみられる穴が見つ かり、調査した橿原市教委は十三日、「七世紀末以前の最古の火葬墓とみられる」と発表した。続日本紀によると、国内の火葬の風習は、高僧・道昭(六二九− 七〇〇年)に始まったとされる。火葬墓はこれまで奈良時代以降の出土例しかなかった。
 火葬墓とみられる穴は、同遺跡で出土していた皇族か貴族の邸宅跡とみられる掘っ立て柱建物群のうち、最も南側にあった建物の柱穴の下層から確認された。
 約一メートル四方の穴の中からは、骨片や焼土、炭を含む大量の灰のほか、長さ三十センチ、幅十五−十八センチ、厚さ二ミリのほぼ完全な形の鉄板が見つ かった。鉄板の表面はさびついて、銘文は確認できなかったが、墓誌か墓地購入を証明した「買地券」とみられるという。

 

●文献さかのぼる最古の?火葬墓−−奈良・橿原の遺跡 (毎日新聞 2月14日)

  奈良県橿原市の五条野内垣内(うちがいと)遺跡で、文献的には最古とされる「続(しょく)日本紀(にほんぎ)」に記載の文武4(700)年よりもさらに古 いとみられる火葬墓の遺構が見つかった。13日発表した同市教委によると、同遺跡では、藤原京期(694〜710年)の大型建物群跡が見つかっていたが、 建物の柱穴を掘った際に破壊された土坑(約1メートル四方、深さ約10センチ)を新たに確認。土坑から長方形の鉄板(縦30センチ、横15〜18センチ、 厚さ2ミリ)のほか、火葬骨片や焼土混じりの炭が見つかったことから、土坑を火葬墓と断定した。土坑に焼いた跡がないことから、別の場所で火葬したらし い。
 火葬は、仏教や薄葬思想の広がりとともに定着。「日本書紀」の斉明4(658)年の条に、火葬とも解釈できる記述があり、続日本紀の「700年」以前に火葬があった可能性は指摘されていた。

 

京都冬の旅 非公開文化財特別公開 (京都市観光協会)

期間 平成13年1月13日(土)〜3月18日(日)・65日間
公開時間 午前10時〜午後4時(受付終了)
*妙心寺退蔵院、六波羅蜜寺、東寺については午前9時から拝観できます。
料金 1ヵ寺 600円(15名以上の団体は1割引)
*東寺宝物館は500円
*仁和寺の通常拝観部分を拝観される場合は別途500円必要

  □ 妙心寺退蔵院

  妙心寺山内でも屈指の古刹であり、室町時代に妙心寺第三世の無因宗因禅師を開山として建立された寺である。今回公開される茶室は書院西隅にあるが、茶人藤 村庸軒好みの"囲いの席"と称し外部から茶席と分からぬよう巧みに設計されたかくれ茶室で、第六世千山和尚作と伝える。方丈西側には史跡名勝として知られ ている狩野元信作の"元信の庭"があり、現存する妙心寺の庭園の中でも傑出した名園となっている。

  □ 妙心寺春光院

 妙心寺塔頭のひとつで、庭園は西庭を「常盤の庭」、南庭を「さざれ石の庭」といい伊勢両宮の森を再現したものとして有名である。方丈は京狩野派の筆による豪華な金碧画で飾られ、みやびやかな雰囲気をかもし出している。また方丈にある南蛮寺の鐘は貴重な遺産となっている。

  □ 妙心寺東海庵

  数多い妙心寺塔頭の中でも東海派本庵として特に寺格が高い。庭園、白露地の庭は一木一草もなく方丈庭園の原型ともいえる。書院南庭は枯山水で、龍安寺の石 庭を小型にしたような趣がある。また書院西庭にある手水鉢は"一文字"という呼び名どおり簡素な造形がすがすがしい印象を与える。ともに名勝に指定されて いる。
※1/14・2/4・3/4の13時までは拝観不可

  □ 仁和寺

  真言宗御室派の総本山で、広大な境内には御殿をはじめ金堂・御影堂・五重塔など数々の文化財が建ち並ぶ。遼廓亭は門前にあった尾形光琳邸から移した茶室で 光琳好みの華やかさが随所に見られる。飛濤亭は光格天皇遺愛の茶室で高雅な趣が漂い、茅葺きの屋根が珍しい。ともに重要文化財に指定されている。

  □ 龍安寺

  臨済宗妙心寺派十刹の一つ。方丈前庭(特別名勝・史跡)は枯山水の平庭で「虎の子渡しの庭」と呼ばれる石庭として有名である。公開される茶室蔵六庵は江戸 初期の茶人、不遠庵僖首座の好みとして名高く古くから龍安寺十勝の一つに挙げられている。また、今回初公開の雲龍図は明兆の筆によるもので、もと天井画で あった者を表装した見ごたえのあるもの。書院では表千家社中よる呈茶席(別途500円要)が設けられる。

  □ 金戒光明寺

  平安時代末期、比叡山黒谷で修行されていた法然上人がこの地に草庵を結んで念仏道場としたのが寺のおこりで、御影堂は昭和の模範的大建造物として名高いも のである。大方丈は宸殿の遺構をとどめた書院造りで方丈と書院を兼ね備え、松の間・虎の間と各室すべて金襖をめぐらしている。今回は由緒ある当寺の寺宝の 数々が特別展観される。
※1/24・25・2/26は拝観不可

  □ 聖護院

  寛治4年(1090)白河上皇が熊野参詣の際、増誉大僧正が護持僧として先達をつとめ、聖体護持の任を全うしたので聖護院と名付けられたと伝える。公開さ れる茶席は「一夜づくりの茶席」と呼ばれ、江戸時代に光格天皇が皇居炎上の際、当院を仮皇居として使用するため一夜で造られたと伝える御学問所の建物内に ある。また、聖護院ならではの山伏法具の特別展観も行われる。
※1/24・25は拝観不可

  □ 六波羅蜜寺

  真言宗智山派の寺で、西国三十三ヵ所観音霊場第17番札所としての信仰が厚く、本堂(重文)は、鎌倉時代の様式を残す。この地は平安時代は平氏一族の邸宅 があり鎌倉時代には六波羅探題が置かれるなど、歴史に度々登場する史跡として有名である。普段公開していない宝物館で当寺所蔵の寺宝が特別展観される。
※2/3は拝観不可

  □ 清水寺成就院

  「清水の舞台」であまりにも有名な清水寺の本坊で、庭園(名勝)は雪月花三名園のひとつで"月の庭"と呼ばれており、山腹に一基の石灯籠を立てることによ り庭の遠近感を強調した名庭園である。庭内には灯籠や手水鉢など石造美術品が数多く、ことに豊臣秀吉寄進の「誰が袖手水鉢」は、書院の縁先にあり、瀬戸内 海の大島産の自然石からなる格調高い名品である。
※1/23・2/23は拝観不可

  □ 東寺

 空海(弘法大師)の開基になる真言宗の総本山。境内の五重塔(国宝)は正保元年(1644)徳川家光の再建によるもので、わが国最大のものである。今回特別公開される初層内部は中央に須弥壇を設け、周囲の板壁に真言八祖像、柱や天井には極彩色の文様が描かれている。

  □ 東寺観智院

  五重塔で有名な東寺の現存する数少ない塔頭のひとつで、現在の客殿は武家風の書院建築として国宝に指定されている。庭園は細長い地割につくられた禅院式の 枯山水庭園で、"五大の庭"と呼ばれる。また庭園に面した座敷には、鷲図や竹林図があるがこれは宮本ニ天(武蔵)作と伝えられ、鋭い筆致に作者の気魄がう かがわれる。
※1/13〜15は拝観不可

  □ 東寺宝物館

 宝物館は兜跋(とばつ)毘沙門天立像(国宝)や千手観音立像(重文)をはじめ、密教美術の宝庫。今回は東寺が所蔵する八千点を越える国宝・重文の中から弘法大師ゆかりの寺宝など普段はめったに見られない寺宝の数々が特別展観される。

 

大極殿の復元本格化 県古都審が概要承認 (奈良新聞 2月7日)

 県古都風致審議会が6日、奈良市佐紀町の平城宮跡資料館で開かれ、復元される平城宮第1次大極殿正殿の基本規模や構造が承認された。建設の基本線が固まったことで、平成21年度を完成目標年度としている復元事業も本格化することになる。
 この日承認された基壇を持つ木造二重構造の建物規模は、最大で東西約44メートル、奥行き約20メートル。基壇を含む高さは約29メートルに達し、屋根には本かわらが葺(ふ)かれる。
 同建物については、奈良国立文化財研究所が平成7年度に基本計画、同10年度から今年度にかけて実施計画を担当してきた。その中で、建物の構造や色彩は、奈良時代の国内外の古代寺院の様式と比較検討の上で決定。基壇については発掘成果をもとに決められた。
 同事業では工事関係費として来年度の政府予算に4億9000万円が計上されていて、新年度には建設のための設計図を作成。基礎や基壇部の建設工事が着手されることになっている。
 第1次大極殿は、奈良時代前期に天皇が執務や国家儀式に使用した施設。復元される同建物は、平成22年に予定されている平城遷都1300年記念のイベントの象徴として期待されている。

 

●首長級の墓の証拠か 弥生中期の細形銅剣が出土−−佐賀・吉野ケ里遺跡 (毎日新聞 2月7日)

 

  佐賀県神埼郡の吉野ケ里遺跡最南端で、弥生中期初頭(紀元前2世紀後半)とみられる細形銅剣(長さ30センチ、最大幅3・8センチ)1本が出土した。同遺 跡出土の銅剣では最古。6日発表した佐賀県教委は「これまで8本の銅剣が出土した北墳丘墓よりさらに古い首長墓が存在した証拠」とみて、一帯の調査をさら に1年間続ける。
 銅剣は遺跡最南端の「祭壇」と推定されている盛り土遺構の東側で出土した甕棺(かめかん)内に、二つに折れた状態であった。表面に絹とみられる布が付着していた。
 甕棺内には赤色顔料が残り、県教委は「身分の高い首長級の人物の顔面に塗って葬った」とみている。人骨はなかった。
 同遺跡は最北端に首長級の墓とされる墳丘墓(紀元前1世紀後半〜中ごろ)がある。今回の銅剣があった甕棺は墳丘墓のものより半世紀ほど古いという。
 ◇高島忠平・佐賀女子短大教授(考古学)の話
 銅剣が出たのは吉野ケ里一帯が発展する前の、この地域の集落の首長の墓ではないか。遺跡南部は今後の発掘でほかにも古い時代の墓や遺物が出土する期待が持てる。

 

吉野ケ里で細型銅剣出土 (佐賀新聞 2月7日)

  国の特別史跡・吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡)を調査している佐賀県教委は六日、遺跡南端で弥生時代中期初頭(紀元前二世紀後半)のかめ棺から、細形銅剣一 本が見つかったと発表した。この時代、銅剣は首長クラスの副葬品とされることから、出土した場所は遺跡北端の墳丘墓(紀元前一世紀前半|同一世紀中ごろ) を約半世紀さかのぼる、吉野ケ里で最も古い有力者の墓とみている。
 出土場所は遺跡南端の環壕(かんごう)内側で、祭壇とみられる盛り土遺構の東側約五十?の地点。銅剣は成人用の長さ約一・六?のかめ棺に副葬され、長さ 約三十cm、最大幅約三・八cm。剣の表面には絹とみられる布片が付着し、かめ棺断面には朱色の顔料が塗られていた。
 銅剣は中央部で二つに割れていたが、剣先からたもとまで完全な形で出土した。かめ棺の形状などから弥生時代中期初頭のものと断定した。
 吉野ケ里ではこれまで十本の銅剣が出土。このうち有柄銅剣(国重要文化財)などが出土した北側墳丘墓が最古の首長墓とみられていたが、さらに四、五十年さかのぼることになる。
 これまで有力者の墓は墳丘墓だけしか確認されおらず、県教委は、丘陵の南端は吉野ケ里最初の集落形成地と推定。「ムラからクニへと集落が拡大していく過程を知る上で重要な資料となる」として注目している。

 

入魂開眼 玄奘三蔵像 (奈良新聞 2月6日)

 唐僧・玄奘三蔵の命日にあたる5日、奈良市の薬師寺で、修復が完了した木造の伝玄奘三蔵坐像(鎌倉時代)の開眼法要が営まれた。
 収蔵庫で保管されていた仏像の部材を組み上げたところ、右手の印相や衣の表現、目尻のしわなどが画像に見られる玄奘三蔵の特徴と一致。これまで鎌倉期の 玄奘三蔵の彫刻作品例がなく、平成9年から欠けていた頭の上部や左手先の補作、はく落止めなどの修復作業が進められてきた。
 写経道場に安置された像を前に、松久保管主が特大の筆を顔の前で動かして入魂開眼した。隣接の玄奘三蔵院には、年頭に日本画家・平山郁夫氏による玄奘三蔵求法の旅の壁画が奉納されたばかり。

 

●玄奘三蔵像を奈良で初公開 薬師寺、5日から (産經新聞 2月2日) 

  奈良・薬師寺は三十一日、寺の収蔵庫に安置されていた鎌倉時代の玄奘三蔵像を、唐僧・玄奘三蔵の命日の二月五日から初公開すると発表した。日本ではこれま で、鎌倉までさかのぼる玄奘三蔵の彫刻はなく貴重な作例。玄奘三蔵院伽藍では、日本画家の平山郁夫氏が玄奘をテーマに描いた「大唐西域壁画」も公開されて おり、寺は改めて玄奘の精神を顕彰していく。
 玄奘三蔵像はヒノキの寄せ木造りの座像で、像高約八七・六センチ。体や衣に彩色が施されている。平成九年ごろに、収蔵庫に収められているのが確認され た。鼻からあごにかけての顔面と、左手首の先、胸の一部などが破損していたため、美術院国宝修理所で修理が行われてきた。

 

県教委「蘇民祭」記録保存へ (岩手日報 2月1日)

  岩手県教委は本年度から3カ年計画で「岩手の蘇民祭」の調査資料の作成と映像による記録保存に乗り出した。蘇民祭は時代の流れとともに規模の縮小や廃絶な どを余儀なくされ、伝承が困難になりつつある。岩手独自の文化としての価値を見詰め直し、記録保存することで衰退に歯止めをかけ、地域の貴重な文化財産と して後世への伝承を目指す。
 蘇民祭は「備後風土記」の説話に由来し、半裸の男衆が「蘇民将来」と書かれた護符を奪い合う勇壮な行事。
 県内の伝承地は水沢市の黒石寺など現在も祭りが行われている八カ所と断絶した七カ所を含む合計15カ所が確認されている。県教委は本年度、調査委員六人 と現地調査員、県教委、関係市町村教委などで構成する調査会議を設置。来年度にかけてすべての伝承地を回り、祭事本番の取材や地域住民からの聞き取りなど 現地調査を実施。2002年度中をめどに映像記録の作成を目指す。
 祭りシーズンの1月は黒石寺(30日)をはじめ、江刺市の伊手(21日)、金ケ崎町の永岡(同)など八カ所を調査員が開催日当日を中心に現地入りし、祭 礼の様子や事前の準備などを調べた。ほかに、祭りの名称の由来から開催日の選定理由、祭りの担い手や社寺とのつながり、祭礼の進行など祭りの全体像を明ら かにし、関連資料をそろえる。
 今月は前沢町の八雲神社や一関市の菅原神社など廃絶した伝承地も回り、地域の古老を訪ねたり、関連文献を調べるなどして祭りの歴史をたどる。
 伊藤学司文化課長は「蘇民祭は岩手独特の祭りであり、岩手の歴史文化を理解する上でも後世に残していく必要がある。現在進めている保存記録の取り組みは国も注目している」と話す。
 県教委はこれまでに1969年の鹿踊りを最初に、山伏神楽やチャグチャグ馬コなど本県の無形民俗文化財10件について文書や写真、映像などによる記録作成に取り組んでいる。

 

厳寒の中祭りファン魅了〜水沢市で黒石寺蘇民祭 (岩手日日新聞 2月1日)

  岩手県水沢市黒石町の黒石寺蘇民祭は一月三十日夜から翌朝にかけて、同寺境内で行われた。雪が散らつく厳しい寒さの中、下帯姿の男たちが「ジャッソウ、 ジョヤサ」の掛け声も荒々しく、蘇民袋をめぐって激しい肉弾戦を繰り広げ、全国から集まった多くの祭りファンを魅了した。【写真グラフ】

 同寺の蘇民祭は、日本の祭りの原点とも言われ、千年以上の歴史を持つ。東奥の奇祭と称され、毎年、旧正月の七日夜から八日朝にかけて行われている。
 祭りは午後十時、厄払いと五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する「裸参り」でスタート。角燈を手にした厄年の男たちや一般祈願者らが、近くを流れる瑠璃壺 (るりつぼ)川=山内川で水をかぶり身を清め、「ジャッソウ、ジョヤサ」と威勢の良い掛け声を上げながら、薬師堂などを巡り災厄消除を祈願した。
 本堂前に高々と積まれた井げたに火が放たれる柴燈木登(ひたきのぼり)では、血気盛んな男たちが舞い上がる火の粉をかぶりながら、山内節を高らかと歌い上げた。
 その後、護摩(ごま)をたき、別当(住職)が本堂に入る「別当登(べっとうのぼり)」「鬼子登(おにごのぼり)」と続いた。
 クライマックスの蘇民袋争奪戦では、男衆が本堂でもみ合う中、小間木(こまぎ)の入った蘇民袋が持ち込まれると、格子戸によじ登った下帯姿の男たちの掛 け声も一層高まり、祭りは最高潮に。袋目掛けて肉弾戦の真っただ中に次々と飛び降り、荒々しく袋の結び目を奪い合った。
 さらに争奪戦の群衆は、本堂そばを通る国道343号沿いの水田まで達し、東奥の奇祭は夜明けまで繰り広げられた。

 

水沢・黒石寺蘇民祭で男衆躍動 (岩手日報:盛岡市)

 岩手県水沢市の黒石寺蘇民祭は30日午後10時から、同市黒石町の同寺で繰り広げられた。厳寒の中、裸の男衆が気勢を上げながら裸参りや蘇民(そみん)袋争奪戦を展開、五穀豊穣(ほうじょう)、無病息災を祈願した。
 裸参りの幕開けとともに、境内に「ジャッソウ ジョヤサ」の掛け声が響き渡り、厄年連や一般祈願者は山内川で身を清め、角燈(かくとう)を手に薬師堂と 妙見堂を巡った。本堂前では柴燈木登(ひたきのぼり)が繰り広げられ、男衆が燃え上がる井げたに登り気勢を上げた。
 メーンの蘇民袋争奪戦は31日午前5時半から開始。男衆や一般参加者らが堂内で、災厄を免れる小間木(護符)を入れた蘇民袋を激しく奪い合い、熱い肉弾戦を展開した。
 1000年の伝統を誇り国の無形民俗文化財に指定されている同蘇民祭は、毎年旧正月の7、8日に行われている。今年は若者の参加が目立ち、祭りを盛り上げた。

 

水沢市で30日夜に奇祭「黒石寺蘇民祭」〜蘇民袋争奪は翌朝 (岩手日日新聞 1月31日)

  東奥の奇祭と称される岩手県水沢市の黒石寺蘇民祭は、三十日夜から翌朝にかけて同寺境内を中心に繰り広げられる。二十八日には、祭りの準備もピークを迎 え、境内周辺の雪かきや小屋掛け作業が急ピッチで進められた。呼び物の蘇民袋争奪戦は、三十一日午前五時ごろに始まり、血気盛んな男衆が、麻袋や小間木 (護符)を激しく奪い合う。
 千年以上の歴史を持ち、日本の祭りの原点とも言われる蘇民祭は、裸の男達が繰り広げる神道的行事に、水や火など修験者的要素が加わった荒祭り。厄除けや 五穀豊穰(ほうじょう)などを祈る行事として、国の記録保存に指定されており、旧正月の七日夜から八日朝にかけて毎年開かれている。
 祭りは、三十日午後十時にスタート。角燈を手にした厄年連中や一般祈願者が、瑠璃壺川(山内川)で身を清める裸参りを皮切りに、火の粉を浴びる柴燈木登(ひたきのぼり)、別当登、鬼子登などの順で繰り広げられる。
 メーンの蘇民袋争奪戦では、小間木の入った麻袋を求めて下帯姿の男衆が夜明けまで激しい肉弾戦を繰り広げる。当日は、同寺近くに整備した百台分の駐車場 のほか、藤橋緑地公園に臨時の駐車場を設置(午後七時から利用可能)。同公園から、無料のシャトルバス(午後八時半−翌朝七時)を運行する。

 

●国の重要文化財「木造観音菩薩立像」焼失−−愛知・甚目寺の寺を全焼 (毎日新聞 1月21日)

  20日午後8時15分ごろ、愛知県甚目寺町甚目寺東門前の寺院「法花(ほっけ)院」=岡部快晃住職=から出火、木造平屋建ての寺院兼住宅約510平方メー トルを全焼した。岡部住職によると、同院には国の重要文化財の「木造観音菩薩(ぼさつ)立像」(通称・聖(せい)観音像)と、県の重要文化財の掛け軸「不 動明王画像」が収蔵されていたといい、愛知県警津島署は、文化財はともに焼失したとみている。
 同署の調べで、焼け跡から木像の燃え残りが見つかったという。出火当時、法花院には岡部住職の妻と長女がいたが、逃げ出し無事だった。同署は、21日に消防と合同で実況見分して出火原因を調べる。
 法花院のある甚目寺は、6世紀の創建と推定され、鎌倉時代には約3000人の僧がいたという。町名の由来ともなっている。境内の南大門や東門、三重塔が重文に指定され、仏像や絵画の宝物も多い。
 焼失したとみられる重文の木造観音菩薩立像は、平安時代初期の造像と推定され、高さ150センチの一木造り。左手に蓮華(れんげ)を持って直立する。頭 には中国・唐式の古風な花冠を彫る。胴や腰がほぼ同じ太さで全体的に太めの造りで穏やかさがあり、重厚な威圧感を漂わせている。1937年に重文に指定さ れた。

 

●甚目寺観音で火事 国重文の菩薩立像など焼失 (中日新聞:名古屋市)

http://www.chunichi.co.jp/news/20010121/shk1003.shtml

 二十日午後八時十五分ごろ、愛知県甚目寺町甚目寺東門前一、甚目寺観音内にある法花(ほっけ)院=岡部快晃住職(48)=の本堂兼庫裏から出火、木造平屋約五百十平方メートルを全焼した。
 この火事で、仏間にあった国指定重要文化財「木造観音菩薩立像」と県重文の「不動明王画像」(掛け軸)を焼失した。約二十メートル離れて国重文の三重塔があったが無事だった。出火当時、庫裏にいた岡部住職の妻と長女にけがはなかった。
 津島署などによると、南側にあった住職の義母の部屋から出火したらしい。義母は外出中だったが、戻って来る前に部屋を温めておこうと、妻がガスストーブに火をつけて目を離したという。
 甚目寺観音は六世紀末に創建されたと伝えられ、江戸時代には尾張四観音の筆頭に数えられた。別名鳳凰山甚目寺。法花院は末寺の一つ。
 焼けた木造観音菩薩立像は、一九三七(昭和十二)年に重文に指定。十世紀末から十一世紀前半にかけて制作され台座を合わせて高さ一六三センチ。同寺の関 係者によると、下ぶくれの顔立ちで、藤原時代の特徴を伝えているという。甚目寺観音内にあった末寺の成就院の本尊だったが、一九六五年前後に同院が廃寺と なるとともに、法花院に移された。画像は室町時代初期の作で縦約一・一メートル、横約四十センチの墨絵。

 

●ストーブが火元? 愛知・甚目寺の重文「観音像」が焼失 (毎日新聞 1月21日)

 20日夜に愛知県甚目寺町甚目寺東門前の寺院「法花(ほっけ)院」=岡部快晃住職=が全焼した火災で、同県警津島署などの21日の実況見分で、ガスストーブを置いてあった岡部住職の義母の部屋が最も燃えていたことが分かった。同署は、火元とみて原因を調べている。
 この火災では、法花院の仏間に保管されていた国の重要文化財の「木造観音菩薩(ぼさつ)立像」(通称・聖観音像)と、県の重要文化財の掛け軸「不動明王画像」が焼失した。
 調べでは、外出していた住職の義母の帰りが遅くなったため、岡部住職の妻がストーブに点火して室内を暖めていたという。

 

●消防訓練直前に…法花院全焼住職、檀家らに謝罪 (朝日新聞 1月22日)

  愛知県甚目寺町甚目寺の甚目寺観音の境内にある法花(ほっけ)院(岡部快晃住職)と、その本堂に置かれていた国の重要文化財などが全焼した火災現場では一 夜明けた二十一日、焼け跡の現場検証が本格化するとともに、火災のお見舞いや片付けなどをする人たちが慌ただしく動き回った。二十六日には、同観音で文化 財防火デーにちなんだ消防訓練がある。町教育委員会は二十二日に臨時の教育委員会を開き、火災の経緯や今後の対応などについて協議する。
 午前中の津島署や消防関係者による現場検証では、岡部住職の義母の部屋に置いてあったストーブ近くの燃え方が、最も激しいことがわかった。
 甚目寺町誌などによると、真言宗智山派の法花院は五九八年の創建という。
 同町には、国の指定重要文化財が六点、県の指定文化財は七点あり、今回焼けた「木造観音菩薩立像(ぼさつりゅうぞう)」をはじめ、同観音の南大門や三重塔、東門など、火災があった甚目寺観音周辺に集中している。
 同町では、文化財防火デーの今月二十六日、消防署員や消防団など約百人が参加する甚目寺観音消防訓練を控えていた。浅野文夫助役は「非常時に貴重品を持 ち出す訓練などを毎年やっていた。今回は、火の勢いが強くてどうにもならなかったようだ。三重塔など、ほかの重要文化財に延焼しなかったのがせめてもの救 いだ」と話している。
 岡部住職と親しい「七寺」=名古屋市中区大須二丁目=の蟹江良輝副住職は、「岡部住職はスリランカに何度も行き、ボランティアで子どもたちの幼稚園をつくる活動をしていた。熱意があり、献身的な活動をしている方で、早く元気を取り戻し、再建してほしい」と語った。

 

中門や講堂の確認調査開始 伽藍配置解明に期待 (奈良新聞 1月17日)

  奈良国立文化財研究所は、国内初の官営寺院「百済大寺」とみられる桜井市吉備の吉備池廃寺で、中門や講堂の確認調査をスタートさせた。同寺では、飛鳥時代 最大の金堂や塔、回廊の存在が確認されている。しかし、平成11年の調査では、伽藍(がらん)の中軸線上で中門が見つからず、左右非対称の異例の伽藍配置 だった可能性が浮上。同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部は、中軸線東側の金堂をはさんで中門と講堂が南北に並ぶ前例のない伽藍配置を想定しており、遺構の発 見が期待される。
 調査面積は約730平方メートル。金堂前の南面回廊付近と未確認の北面回廊、講堂推定地を発掘する。3月末までの予定。
 回廊はこれまでの調査で、南、西、東の3面で出土。中心伽藍は東西約165メートル、南北約105メートルと考えられている。
 金堂と塔の基壇が東西に並んで見つかったことから、同研究所は当初、典型的な法隆寺式と推定した。伽藍の中軸線は金堂と塔の中間点を通り、中門も検出できるはずだった。
 ところが、平成11年に行った中門推定地の調査では、回廊の柱をすえた礎石の跡や石組みの雨落ち溝が出土。南面回廊が途切れることなく続いていることが分かった。
 残る候補地は金堂南側で、同研究所は、中門と金堂、講堂が伽藍の東寄りで南北一直線に並ぶと想定している。『日本書紀』などによれば、百済大寺の塔は九重。平成9年の調査で見つかった基壇規模などから、90メートル級の巨大な塔が想定できる。
 同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部の松村恵司・考古第2調査室長は「塔があまりに大きいため、西側にずらして建立した可能性がある。当時の主流は中軸線上 に中門、塔、金堂、講堂が並ぶ伽藍配置(四天王寺式)だが、固定化はしておらず、多様性を持っていたのだろう」との考えだ。舒明天皇の勅願で百済大寺が建 立されたのは639年。出土した瓦(かわら)の年代は、2年後の641年に蘇我石川麻呂が造営に着手した山田寺に近い。同寺の主要施設は中軸線上で一直線 に並ぶ。
 一方、兵庫県伊丹市の伊丹廃寺(7世紀後半)は法隆寺式の伽藍配置を基本としながらも、講堂が金堂の後ろ(中軸線の東側)にある。

 

滑石製の玉杖形石製品出土 儀式用つえの頭飾り (奈良新聞 1月10日)

  多くの祭祀(さいし)施設が見つかった奈良県天理市櫟本町の前方後円墳、赤土山古墳(史跡、4世紀末〜5世紀初め)の後円部墳丘すそから、儀式用のつえの 一部を飾ったとみられる滑石製玉杖(ぎょくじょう)形石製品などが多数出土し、調査していた天理市教育委員会が9日、発表した。滑石製の玉杖形石製品が見 つかったのは国内では初めて。また、副葬品とみられるつえの頭飾りの出土例は少なく、同市教委は「周辺を拠点とした豪族・和邇(わに)氏との関連などや、 墓の被葬者を考える上で貴重な資料になる」としている。
 玉杖形石製品は、被葬者の権威を示すためにつえを模して作られる石製品。見つかった滑石製のものは、杖の頭部に取り付ける頭飾りで、長さは約8.7セン チ。上部の角状突起の左側は欠落していたが、左右対象とみられ、勾玉(まがたま)をあしらった装飾が施された珍しい形状。
 つえや指揮棒を模した石製品は、本来は碧玉(へきぎょく)や緑色凝灰岩でつくられている。滑石製だったことについて同市教委は、「より加工や細工がしやすい滑石の普及がし始めた頃につくられたものでは」と推察している。
 調査は、赤土山古墳の整備事業計画に伴うもので、昨年7月から12月にかけて後円部南側約150平方メートルを調査。墳丘のすそに転落していた葺(ふき)石や堆(たい)積していた粘土のなかから石製品約60点が見つかった。
 見つかった石製品はほかに、緑色凝灰岩製鍬形石や滑石製勾玉、緑色凝灰岩製管玉(くだたま)、滑石製刀子(とうす)、滑石製太刀などが出土している。これら石製品は26日まで、天理市役所のロビーで展示される。
 赤土山古墳は、東大寺山古墳群のなかの1つで、残存する墳丘の長さは103.5メートルの大型前方後円墳。過去の調査で、家形埴輪11個が出土するなど、和爾(わに)氏の祖先の有力者の墓と考えられている。平成4年度に国の史跡に指定された。

 

 

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