辺境の仏たち

高見 徹

 

第三話  兵庫・達身寺、京都・威徳寺の平安仏

 

 京都府の福知山は、明治時代に県制が敷かれる迄は、現在の兵庫県多紀郡、氷上郡を含めた丹波国の主要都市であった。この地域は、今でこそ、丹波笹山と歌われるように交通の便も悪く、文化的にも取り残されたように思われているが、かつては、京都・奈良・大阪の都文化と山陰地方の日本海文化を結ぶ交通の要地であり、若狭地方の日本海文化と京都・大阪の中央文化の両方の影響を受け、独自の文化を育ててきた。

 陵墓参考地となっている篠山町の車塚古墳や、大和朝延とのつながりを示す彷製鏡を出土する氷上町の親王塚古墳をはじめとした考古遺跡や、白鳳期の礎石や瓦を出土する三ッ塚廃寺廃寺などの古代寺院も多く造営された。

 平安時代には、氷上盆地の南東に位置する 三岳山が、修験道の進場として開かれ、かつては大峯山に匹敵する程に隆盛したと伝えており、多くの山岳寺院が築かれた。

 平安時代の遺品としては兵庫県氷上郡清住の達身寺に伝わる平安仏の一群が知られる。達身寺には、兜跋毘沙門天像を中心として、重文12体、県文34体を含め、百体近い平安時代の木彫が安置されており、中世に隆盛を誇った大寺であったことがわかる。いずれの像も彩色は剥げ木肌を表わしているが、兜跋毘沙門天立像は、足下の地天女(ちてんめ)を含め、上膊部まで一木で彫出するなど、平安初期の様式を示している。 聖観音立像は、腰を捻り、右足を遊足とする洗練されたプロポーションを持ち、肩から下げる天衣も一木から彫出するなど見事な造形を示す。

 その他の天部像も、いずれも精悍な面相とバランスのよい動的な姿勢をもち 彫りは簡素ではあるが深く明瞭で、堂々たる量感を持つ。また、薬師如来坐像等の如来群も面相は意志的で、安定感のある造形を示している。

 しかし、やや幅広の鼻梁や形式的な面相、及び下腹部を大きくせり出した独特の姿をもつことから、これらの像は当地での制作と考えられ、達身寺様式と名付けられている。

 達身寺から北10Km位置する福知山市・威徳寺にも多くの破損仏が残されている。達身寺の像が比較的様式が似たものが多いのに対し、尊名や様式もバライティーに富んでおり、いつの時代にか、廃寺となった近隣の寺々から集められたものと思われる。本尊として安置される千手観音立像は、肉付きのよい体躯をもつが、巾広い面相や大振りな造作など、達身寺の諸像に比較すると制作年代は降る。堂内に所狭しと並べられた無数の破損仏は圧倒されるが、ほとんどが内刳もない小さな像であり、このような姿になっても厚くお守りしてきた村人心情を考えると頭が下がる思いがする。

 この地方に、これほどまでに多くの造像がなされたのは、 兜跋毘沙門天などの天部が多いことを見ても、修験に深く関わっているものと考えられる。

 

 

兜跋毘沙門天立像            十一面観音立像

威徳寺・如来坐像        木像群  

 

 達身寺 兵庫県氷上郡氷上町清住  JR福知山線柏原駅から三方行きバス、清住下車徒歩10分

 威徳寺(岩戸観音堂)京都市福知山市字宮垣  JR福知山駅から夜久野行きバス、池ノ内下車徒歩40分

 


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