埃
まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第八十五回)
第十八話 仏像を科学する本、技法についての本
〈その1〉 仏像を科学する
【17−4】
【木彫仏用材の樹種の調査研究】
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広隆寺宝冠弥勒像 |
京都太秦、広隆寺の国宝、「宝冠弥勒菩薩像」。
飛鳥時代に造られた仏像の傑作だ。
シャープに鼻筋の通った瞑想の表情と共に、木の素地の肌をそのままにした「飾らぬ美しさ」が、多くの人々の心を魅了してやまない。現代人の悩みや苦しみ
を吸い取ってくれるような哲学的な美しさを感じる人も多い。
「心に残る美しい仏さま」として親しまれている、日本を代表する国宝仏像である。
この宝冠弥勒菩薩像は、実は「朝鮮半島で造られた仏像であろう」というのが、今では定説となっている。
この弥勒像は、韓国国立中央博物館の金銅弥勒菩薩半跏像の姿にそっくりであること(広隆寺弥勒像が、当初木肌の上に乾漆が盛り上げられていた姿を想定す
ると、もっと酷似しているといわれている)などから、朝鮮作か渡来帰化人作ではないか、といわれていた。
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韓国国立中央博物館菩薩半跏像
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朝鮮半島作の決め手になったのは、
「広隆寺弥勒像が、アカマツで造られていることが判明した」
ことであった。
飛鳥白鳳時代の木彫仏は、全て例外なく「クスノキ」で造られているが、この弥勒像だけが唯一「アカマツ」で造られている。
「クスノキ」は、朝鮮半島では原則として分布していない。
このことから、この像は「朝鮮半島からの渡来仏であることは間違いない」といわれている。
(なお、朝鮮半島からアカマツの霊木が我国に請来され、日本で作られたという説もある)
私は、この話を久野健著「仏像」で読んだとき、「仏像の調査研究にこんなアプローチもあるのだ」とその面白さに惹き込まれ、「科学の力はたいしたもん
だ」と感心した思い出がある。
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小原二郎
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広隆寺、宝冠弥勒菩薩像の用材が「アカマツ」であることを実証したのは、小原二郎である。小原二郎は、広隆
寺弥勒像の用材断片を顕微鏡撮影し、その組織
をみると用材が「アカマツ」であることを明らかにした。
小原は、我国で初めて仏像用材の科学的調査研究を体系的に行った学者である。
小原二郎は、仏教彫刻史学者ではなく、木材工学、人間工学学者で農学博士、現在千葉大学名誉教授。
この小原は、広隆寺弥勒像の用材調査をきっかけに、「古代における彫刻用材の研究」を研究分野の一つとするようになった。
小原二郎は、広隆寺弥勒像の用材調査を行った、きっかけ、いきさつについて、このように述べている。
小原が京大学生であった頃(昭和17年)、京大の美術史学者・源豊宗に同行し広隆寺を訪れたとき、源からこんな話を聞く。
| 広隆寺宝髻弥勒像 |
「広隆寺には宝冠、宝髻の二体
の弥勒像がある。泣き弥勒と呼ばれる宝髻弥勒像のほうが古様で朝鮮渡来という説が有力だが、宝冠弥勒のほうが朝鮮風に思える。誰かそれを科学的な方法で証
明する人はいないだろうか。
玉虫厨子も、古くは朝鮮渡来という定説であったが、京都大学昆虫学教室の山田保治が、装飾に使われている玉虫の羽根を調べて、この玉虫は朝鮮には棲んで
いないと発表。それによって日本で作られたことが分かった」
戦後の混乱期、自分にできそうな研究テーマを探しているとき、ふと「そのときの源の話」を思い出し、広隆寺の弥勒像の用材の調査を試みようと考えた。
小原は、昭和23年12月に広隆寺を訪れ、「髪の毛ほどでよいから破片をいただけないか」と願い出たところ、住職は宝冠・宝髻両像の内刳りの中に手をい
れて、ほんの爪楊枝の先端程のささくれを頂戴することが出来た。
| 広隆寺宝冠・宝髻弥勒像の用材顕微鏡影像
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その断片の顕微鏡撮影により用材を調査したところ、果たして、宝冠弥勒像は「アカマツ」、宝髻弥勒像は「クスノキ」であることが判明したのであった。
その後、小原は十数年をかけて、飛鳥時代から室町時代までの木彫仏約750体の樹種を識別し、彫刻用材の移り変わりの軌跡の調査研究に取り組む。
そして用材変遷の流れ図を作り、その流れ図に源流であるインド、中国、韓国の材料を加えて,日本の木彫仏の用材の変遷の考察に大きな研究業績を残した。
その研究結果は、
昭和26年に「上代彫刻の材料史的考察〜木材の日本彫刻史に及ぼせる影響について〜」(仏教芸術13号)、
昭和38年に「日本彫刻用材調査資料」(美術研究229号)
などに発表され、大きな反響を呼び起こした。
仏教美術の門外漢でありながら、「日本木彫仏の用材調査研究」という、ユニークかつ先駆的研究に大きな業績を残した小原二郎であったが、研究の歴史を振
り返って、
「あのとき広隆寺の住職さんから
いただいた破片が、脚の部分から取ったものだったら、私は彫刻用材の調査など続けることはなかったと思います。なぜなら、脚の部分は後に補修されていたか
らです。(脚部は後世の修理でクスノキが使われていた)・・・・・・・・・
私の『木の文化』の研究はこの宝冠弥勒から始まりましたが、この偶然は私にとって天命だったかもしれないと思うことがあります。」
と、感慨深げに語っている。
私は、広隆寺弥勒の用材の話から、小原二郎の仏像用材調査研究について興味を持ち、仏教芸術13号掲載の「上代彫刻の材料史的考察〜木材の日本彫刻史に
及ぼせる影響について〜」読んで、初めて知る興味深い事実がたくさん書かれているのに驚いた。
特に印象に残っていることは、次のようなことであった。
◆古代においては、材木の種類別用途については、その特性に応じて厳格に守られていた。
◆日本書紀には、「ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺に使え」という主旨の記述があるが、現実にもそれが厳格に守られている。
◆飛鳥時代の木彫仏像は、全てクスノキが使われている。
◆飛鳥時代には、彫刻用材にはクスノキ、建築用材にはヒノキとされていた。
法隆寺金堂釈迦三尊の台座の主体はヒノキだが、付帯する蓮弁には、わざわざクスノキを使っている。玉虫厨子や橘夫人厨子も同様になっている。
◆飛鳥時代の彫刻にクスノキが使われたのは、ビャクダンの代用材として選ばれたと考えられる。
◆平安時代に入ると、中央・近畿地方ではヒノキに時代に入る。その傾向は後の時代もずっと続く。
関東では針葉樹材のカヤ、東北地方では広葉樹材カツラが中心材となり、多様な広葉樹材が使われるが、鎌倉時代に入るとヒノキ・カヤなどの針葉樹のシェ
アーが地方でも高まってくる。
このほかにも、カツラ系、サクラ系の用材の系譜や、清凉寺釈迦像、東寺兜跋毘沙門天像の2像は魏氏桜桃という中国特有材を使っており、間違いなく渡来仏
であることなどが記されており、興味津々の内容であった。
ここで、小原二郎の著作を紹介しておきたい。
「古代木彫
用材の調査資料(1)」 小原二郎著 (S35) 【16P】 ガリ版印刷・私家版
小原が調査した大和地方、関東地方、東北地方の仏像313躯の用材調査結果を収録している。
ガリ版刷りの簡素な資料で、他の地方については後報するときされているが、出されたかどうかはわからない。
小原の研究調査の道程を知る資料として興味深い。
「木の文
化」 小原二郎著 (S47) 鹿島研究所出版会刊 【217P】 780円
「日本人と木の文化」 小原二郎著 (S59) 朝日新聞社刊 【239P】940円
ともに、小原二郎の「我国の木の文化についての研究」について、わかりやすくまとめた本。
広隆寺の弥勒像をはじめ、小原自身が調査した仏像についての話や、クスノキの時代、ヒノキの時代、広葉樹の流れなどの項立てで、仏像彫刻の用材の変遷に
ついての研究結果などがしっかりと記されている。
両書ともに、巻末に、美術研究229号に「日本彫刻用材調査資料」として発表された、682体の古代木彫用材の調査資料一覧が収録されている。
小原の業績を知るには、格好のわかりやすい本で、是非とも一読をお勧めする。
「法隆寺を支えた木」 西岡常一、小原二郎著 (S53) 日本放送協会刊 【226P】 600円
本書は、長年法隆寺の修復に携わってきた宮大工・西岡常一が、木について語った話しに、小原が木の文化の研究者の立場からの解説を加えたもの。
「ヒノキと日本人」の項では、仏像をはじめ古代の用材の各種の用途について、丁寧に解説されている。
さて、仏像用材の樹種判定については、その後も、この小原二郎の仏像用材の調査資料に基づいて論じられてきた。
ところが、平成9年(1998)に、従来の古代仏像の用材概念を大きく覆す調査研究結果が発表された。
「日本古代における木彫像の樹種と用材観〜7・8世紀を中心に〜」「同左」(東京国立博物館研究誌「MUSEUM」555号、583号)という調査研究
論文で、金子啓明、岩佐光晴、能城修一、藤井智之の共同執筆である。
この論文によれば、これまで小原の調査によって「ヒノキ」と判定されていた古代木彫のうち、本調査では「カヤ」と判定されたものが多く有り、小原未調査
で新たに調査した平安前期彫刻も「カヤ」が圧倒的に多いことが明らかになったのである。
象徴的であったことは、小原がヒノキと判定した、唐招提寺講堂木彫群の多くの像、大安寺の木彫諸像、神護寺薬師如来像、元興寺薬師如来像が、すべて「カ
ヤ」であることが明らかになったことだ。
唐招提寺講堂伝薬師如来像 元興寺薬師如来像
本論文の骨子は、大体以下のようなものである。
◆ 飛鳥時代、仏像用材に専らクスノキが用いられたが、これはインド、中国、朝鮮の用材観にはなく我国特有
のものである。
我国でクスノキを用いたのは、仏教伝来以前から培われた民俗的、神話的問題を考慮する必要があり、古代のクスノキは神仏習合の精神的支柱にふさわしい材
として尊重されたと思われる。
◆ 8世紀に入り仏像の用材は「ヒノキ」ではなく「カヤの時代」にはいる。
「カヤ」が用いられるようになったのは、奈良時代に請来された「十一面神呪心経義疏」という経典に、「十一面観音を作る場合は【白檀】を用いよ、もしない
国では 【栢木】を用いること」と説いている事などの影響があり、我国では「栢木」に「カヤ」を充てることとなった可能性が強い。
即ち、飛鳥から平安初期、藤原への用材の中心的変遷は、クスノキ→カヤ→ヒノキという変遷をたどっていく。
小原二郎は、この調査結果について、次のようにコメントしている。
「唐招提寺の仏像がほとんどカヤ
で彫られているのに、私の記録ではヒノキと書いたものが多い、これは誤りではないかという質問を受けました。私が直接試験片を入手したあの有名なトルソの
菩薩立像はカヤでしたから、流れ図の中にもカヤの存在を書いてあります。その他の試料は西村氏ほかからいただいたものですから、それが本体の破片であった
か、台座の破片であったか、光背の一部であったかは不明です。顕微鏡で見ればカヤは特徴がありますから、ヒノキと間違えることはありません。私も貞観仏に
カヤが多く使われたであろうことは想像していましたから、唐招提寺の諸仏の本体はカヤで彫られているであろうと思います。しかし光背や台座までのすべてが
カヤであったかどうかには疑問が残ります。」
小原が木彫仏の識別するにあたって、調査木片が、自らその仏像のものであることを確認したのはごく一部で、後は識別依頼のあった試料を引き受けて、調査
したものだそうで、当時の状況をこのように語っている。
「調査した中の約150体は自分
で集めましたが、あとの120体は西村公朝氏からいただいたもの、90体は久野健博士から、その他は未知の方々から依頼を受けたもので、全部を集めるとこ
んな数字になりました。数は多いが内容は玉石混合です。私が弥勒像を調べた話を聞いて未知の方々から封筒に入れた地方の仏像の破片がたくさん送られて来ま
した。」
たかが、「仏像の木の種類」という話ではあるが、されど、なかなかに奥深く、興味深いテーマである。
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