埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第七回)

  古佛の修復、修理に携わった人々の本 (1/2)

 「皆さん、中宮寺の弥勒菩薩と広隆寺の弥勒菩薩(宝冠)を見てどちらが素晴らしいと思いますか?・・・・・・・・では、朝田君どうですか」「ウーン・・・、どちらかといえば広隆寺の顔のほうが好きです」

 中学二年の時(S37)の美術の時間のことであった。若い女の先生が飛鳥美術の説明のなかで、こんな質問をした。

 この先生は、実技ばかりではなく、美術史の授業にも結構時間をさいていた。まだ20歳代だったと思うが、自作の洋画が日展に入選して、それを観に行った記憶がある。

 「飛鳥の古代史跡を一日歩いて周り、亀石や猿石を見てきた」とか「京都の古寺、古佛めぐりをして、南禅寺そばで湯豆腐を食べてきた」などという話を、授業の中で話してくれた。私の仏像への興味も、辿ってみればこんなことがきっかけになっているのかも知れない。

 ところで、「私の答え」は残念ながら彼女の期待に添ったものではなかったらしい。

 広隆寺弥勒は、美術的に見れば上半身と下半身のモデリングがアンバランスで、胸も扁平、指も異常に細く、目鼻の造りも鎬立ち過ぎている。美術作品として二つの像の現在の姿をそのままに比べれば、中宮寺弥勒のほうがトータルとして良くできている。

 今考えれば、彼女はそんなことが言いたかったのかも知れない。

 この広隆寺弥勒の現在の姿が、当初のものと随分違うと考えられることを知ったのは大学へ入ってからだった。中学の先生もその事を識っていれば、どのように観たろうか?

 その復元への試みなどをテーマにしたのが

 「美の秘密〜二つの弥勒菩薩像〜」シンポジウム(S57)日本放送協会

 この本は、NHKテレビで広隆寺弥勒の顔部を、造られた当時の姿にスタジオで復元する番組を放送したのを機に、そのルーツといわれるソウル徳寿宮の金銅弥勒像との関連などをテーマに掘り下げたもの。

 復元したのは美術院国宝修理所長・西村公朝で、昭和三十五年、一大学生が折った『弥勒菩薩の指』の修復にあたった仁。

 この像は、材が(クスノキでなく)赤松であることから朝鮮渡来佛と考えられるのに、顔の表情は朝鮮風というより日本的な感じがするのが気になる像。

 明治37〜8年ごろ、美術院の手で修復・修理が行われている。

 モデリングの状況を再検証し、修理前の写真や、残されていた石膏マスク参考に復元すると、飛鳥の造立当時は、胸から顔に相当厚く木屑漆が盛り上げられ(顔で4〜5ミリ、胸は厚手に)、いまより随分ふっくらしていたと思われる。〜明治修理で木屑漆をはがしたというのではない〜

 西村復元の顔は、ふっくらしてソウル金銅弥勒にそっくりである。
 本書は「今の現代人好みのあんな病的な感覚が、実際に飛鳥時代にもあったということになると、これは美術史上の大きな問題だろうと思う。」と記す。
 明治の修理をしたのも「美術院」の新納忠之介、昭和の修理、顔の復元の試みも「美術院」の西村公朝。

 我々は、数多くの古佛探訪に赴くが、そこで巡り合う仏像のほとんどは、間違いなく彼等、美術院の修理・修復の手を経たものである。
 彼等の足跡なしには、古佛の美の鑑賞は現実にはありえない。しかし、その名が語られることが少なく、労苦の割りにスポットライトが当たらぬ仏像修復に携わる人々。
 そんな、仏像修復に打ち込んできた人の著書や、その人生について書かれた本を追ってみたい。

 明治以来、近代仏像修復の歴史は即ち「美術院の歴史」といっても良い。

 『美術院の歩み〜美術院小史〜』西村公朝「秘仏開眼」(S51)淡交社所収
 美術院の今日に至る歩みが、10頁の小論ながらよく纏められている本。行間ににじむ厳しく苦難の有様には、心を撃たれる。

 その内容を簡単に紹介する。
 美術院は、明治31年、岡倉天心が東京美術学校を辞して創立した日本美術院の第二部に始まる。第一部は、大観、雅邦などの美術工芸制作で、現院展・日本美術院の礎。
 第二部は、古美術保存を目的とし、顧問・高村光雲、監督・新納忠之介(東京美術学校助教授)、主任・菅原大三郎。
 責任者新納は、奈良東大寺勧学院に事務所を置き、古社寺保存法による修理第一号として高野山の仏像修理に着手する。(自伝をよむと、高野山は奈良にくる前と書いてある?)
 新納は、ボストン美術館東洋部長をやった天心に呼ばれ渡米、仏像修理にあたったりするが、天心死去を機に、第二部を「美術院」(通称奈良美術院)と改名、初代院長となる。
 経済的には苦境に立ち、工芸模造品を作り愛好家に販売するなど、修理・新作模造に分かれて、活動。

 関東大震災(T12)後、鎌倉・関東佛の修理急増、国宝指定の全国への拡大などの需要対応で、新作模造を中止、修理に専心。その後、昭和12年から32年まで 京都三十三間堂・千躰佛修理の大事業に従事することとなる。
 戦時中戦後は最大の危機。終戦後、給与を払うため奈良水門町の事務所を処分、三十三間堂内の修理所を根拠地に「美術院国宝修理所」と改名。昭和29年新納死去のときも、「最高の功労者に対して、何も報いることもできず恥ずべき見送りだった」という。
 昭和37年京博構内に修理所の地を得るまで、妙法院境内に世話になるなど、「帰る家」なき有様の厳しき道程であった。
 その後、文化財保護への世の関心も高まり、昭和43年日本美術院創立70周年を機に文化庁所管「財団法人美術院」の設立許可が下り、51年には、有形文化財として団体指定され現在に至っている。

 「美術院七十年の沿革」西村公朝(S44)美術院紀要創刊号所収
 本書にも、美術院の歴史が記されているが、前記の「美術院の歩み」とほぼ同じ内容。

 

 《新納(にいろ)忠之介》 

 初代美術院院長・近代仏像修理の最大功労者についての本を見てみよう
 新納は、著作物をほとんど残しておらず、わずかに講演、談話速記録が残されているだけ。

 「奈良の美術院」新納談 奈良叢記(S17)駸々堂所収
 自伝的小文
 新納は明治元年生まれ鹿児島藩士、海軍に入るつもりで18歳で上京。府立一中の成績もよくないので油絵を習うつもりになり、創立二年目の美術学校に入ったという。
 彫刻科を卒業して27歳で助教授、明治30年中尊寺金色堂修理委託を受け、仏像主任となったのが実地修理のはじめ。(建築主任は伊東忠太)
 明治31年、岡倉天心に三月堂の仏像修理をやれといわれ「到底私のような無経験のものには出来ません」「私を殺す気ですか」と激した、という思い出話は、近代文化財修理草創期の朋芽的苦しみを伺わせる。関わった修理は二千六百体余という。

 昭和29年没85歳。

 ほかに新納関連本を挙げると
 『仏像修理と奈良』新納談 「奈良の本」松本楢重・森川辰蔵共編(S27)大和地名研究所所所収
 最初の仕事、三月堂諸仏の二年がかりの修理について、その技法や苦労話を印象深く語っている。
 「大和百年の歩み〜文化編〜」大和タイムス社には「明治初年の保存状態」「新納忠之介」「美術院」の項で、新納の業績や、奈良美術院の主要メンバーの「人と仕事」が紹介されている。

 

 ちょっと面白い本を一冊

 「百済観音半身像を見た」野島正興著(H10)

 新納が模刻を造った百済観音像二体(大英博物館・東博所蔵)の試作像の半身像の所在を追い、制作のいきさつを探るルポ的作品。新納の業績、足跡を調べ、工藤精華の「日本精華」の同像修理前写真を探す旅などを舞台回しに、回顧している。
 新納の雑司町自宅にウォーナーが下宿していたとか、円城寺大日如来の台座運慶銘を新納が見つけたという話も記されている。
 NHKアナウンサーの著作で、やさしく気楽に読める。

 

 《明珍恒夫》

 二代目美術院長(S10〜)、明治15年生まれ、東京美術学校卒業後、36年から美術院、明珍の兜で有名な家柄。

 著名な著作は、

 「佛像彫刻」明珍恒夫著(S11)大八州出版

 一昔前の彫刻史の論文には、よく「明珍の『仏像彫刻』によると云々・・・」という記述に出
う。修復技術者の眼・立場から、きちっと実証的かつ体系立って論述されたものは、本書をおいて無かった。
 本文、写真解説共に、実技者ならではの技術解説、修理の実見記録が豊富で、重用された本。
 『明珍恒夫氏の急逝』高田十郎「奈良百題」(S18)青山出版社所収では、学術的にも多大な功績を残した明珍の急逝が惜しまれている。東寺食堂千手観音、四天王寺五重塔扉八天が最後の作品であった。

 昭和15年没、58歳。

  −続く−

 

 

百済観音半身像を見た          仏像彫刻  

  野島正興              明珍恒夫  

    晃洋書房刊             大八州出版刊   

      

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