埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二十二回)

  第六話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本《その1》(5/6)

《その1》 近代法隆寺の歴史と宝物の行方

【6−5】

【百済観音・宝冠の発見と呼称の由来】

 「法隆寺の仏像の中で、一番好きな仏像は何ですか?」
と質問すると、数多くの人が迷わず「百済観音」と答えるだろう。
 百済観音ほど、多くの文人や美術評論家から「心に残る仏像、我が愛する仏像」といった風に、称賛され綴られた仏像は無いように想う。
 和辻哲郎は「奇妙に神秘的な清浄な感じ」(古寺巡礼)、井上政次は「浅春の清楚」(大和古寺)、矢代幸雄は「美しき魂」(歎美抄)、そしてカール・ヴィットは「夢のような情緒、柔らかな空想、温和な真摯さ」(日本仏教彫刻)と、百済観音の美を表現した。
 平成10年秋には、【百済観音堂】が完成。法隆寺を代表する仏像として、人々を魅了している。

 ところで、この百済観音の【宝冠】をつけていない写真を、見たことがおありだろうか?
 実は、百済観音の宝冠は明治44年、偶然寺内の土蔵から推古式の金具が発見され、その中に本像の宝冠と思われるものが見つけられた。
 それまでは、法隆寺では本像を「虚空蔵菩薩」としていたが、この宝冠に弥陀の化仏があることから、観音像であったことがわかり、呼称が変えられたのである。
 明治時代の【宝冠無し】の写真を見ると、ちょっとムードが違っていて、やや緊張感が欠けるような感じがする。

 記録を遡ると、この像は、江戸時代・元禄11年(1698)の「諸堂仏体数量記」に始めて紹介されている。
(天平〜鎌倉期の諸記録には本像に記述が無いことから、法隆寺古来の仏像ではなく客仏と考えられている。)
 この元禄の記録には「虚空蔵菩薩 百済国より渡来 但し天竺の像なり」と記されており、古くから「虚空蔵菩薩」と称されてきた。
 また、枠框の裏には、「虚空蔵菩薩台輪」の墨書まであった。

 それでは、どうしてその「虚空蔵菩薩」が「百済観音」と呼称されるようになったのだろうか?

 そのいきさつの考究については、
 『百済観音の伝来と名称起源の考察』高田良信著 「百済観音」(H4)法隆寺発行・小学館刊所収 
 に詳しく述べられている。

 本像は、明治17〜8年ごろまでは、元禄以来「虚空蔵菩薩」と呼称されていた。
 明治19年、岡倉天心らが国の調査を実施した時の記録には、本像を「朝鮮風観音」と記している。
 「朝鮮風観音」と称したのは、諸記録に「百済国より渡来」「天竺より渡来」「異朝将来の像」などと記されている事、その像容によるものだろう。

 「百済観音」という呼称が始めて記録に見出されるのは、大正6年発行の「法隆寺大鏡」(第40集)解説で

 「本像寺伝一に百済観音といひ、また台座に虚空蔵菩薩の銘記あるに依りて、一に此称を正しとするが如くにも伝へられたり。・・・・・・」

 とあり、初めてここに「百済観音」という〈言い回し〉が出てくる。

 「百済」という言葉は、元禄の「諸堂仏体数量記」に使われているだけで、その後は全く記録に現れていないので、高田良信は、この頃に近い時期に「百済観音」という〈呼称〉が創作されたものだと、述べている。

 ところが、この「百済観音」の呼称、美称としての語感がよかったのか、急速にポピュラーになっていく。
 その訳を考えると、
 「大鏡」発行の2年後の大正8年、和辻哲郎はその著「古寺巡礼」の奈良博物館のところの文頭に、
 〈数多き観音像、観音崇拝―写実―百済観音〉

 という標題をつけ、本像の正式名称が「百済観音」であるかのように記した。
 本書が多くの人に愛読されたことから、それ以来、本像は「百済観音」と呼ばれ親しまれるようになったのであろうと、高田は論じている。

 ほほゑみて うつつごころに ありたたす くだらぼとけに しくものぞなき

 歌人会津八一は、大正13年刊行の歌集「南京新唱」に、百済観音をこのように詠んでいる。

 「自註鹿鳴集」では、この歌について、

 「百済観音の名が、一般的に固定するに至りしは、恐らく明治時代の中期以後なるべく、作者のこの歌も、或は何程かこの固定に貢献し居るやも知るべからず。ことに亡友濱田青陵君が、大正15年に出したる美術随筆集を『百済観音』と名づけ、その赤き表紙に、作者の自筆なるこの歌を金文字にて刷り込みたることなど、この場合として思ひ出さるることなり。」

 と、「百済観音」呼称の流布について、記していることも興味深い。

 「百済観音」濱田青陵著(T15)イデア書院刊

 本書は濱田青陵の美術随筆、紀行集。赤色の瀟洒な装丁の本。
 冒頭に美術誌「仏教美術第一冊」所載の論文「百済観音」を載せている。
 なお、昭和44年、本書の抄選編が東洋文庫(平凡社)から刊行されている。

 百済観音の清楚な美しさは、洋の東西を問わず、人々を魅了するようだ。
 そのことを物語るかのように、海外の2つの美術館からの要望で、百済観音の模刻が造られている。

 これまで、百済観音の模刻は、3体とその半身像が1体、造られた。

 一体は、現在、ドイツ・ベルリンのダーレム博物館に所蔵されている。
 明治38年、ドイツ帝室博物館から陳列のため模刻像を造りたいという要請が寄せられ、法隆寺も同意、京都の仏師・田中文弥によって一ヶ月余で完成している。
 当然に宝冠をつけていず、明治の大修理直前に造られたもの。資料的には貴重だが今は随分痛んでいるという。

 もう一体は、大英博物館のジャパニーズギャラリーに安置されている。
 昭和5年、大英博物館のローレンス・ビニヨンから、百済観音模造の要請が英国大使館を通じ寄せられた。
 そこで、美術院初代院長・新納忠之介が、その制作にあたることになった。新納は、薩摩島津家から裏山にある樹齢三百年余のクスノキの提供を受け(新納は鹿児島出身)、約一年かかって2体の模刻像を完成した。
 一体は英国に送られたが、一体は東京国立博物館の所蔵になっている。

 この時、模刻像制作の試作品として、その「半身像」が造られており、現在名古屋市の龍興寺に安置されている。
 この「半身像」の話については、先に「第三話〜古佛の修復修理に携わった人々の本」のところで、
 「百済観音半身像を見た」野島正興著(H10) 晃洋書房
 とともに、紹介したとおり。

 本年(H16)11月、新納忠之介の生誕地、鹿児島市立美術館で、
 「没後五十年 新納忠之介展〜仏像修復にかけた生涯〜」
 が開催され、東博所蔵の「模刻像」、龍興寺安置の「半身像」がともに展示された。
 私も鹿児島まで出かけ、二体の模刻像をはじめて眼にすることが出来たが、なかなかの圧巻であった。

 「百済観音」の宝冠発見や模刻像の話は、次の本に詳しい。
 「法隆寺の謎」高田良信著(H9)小学館刊
 百済観音の謎〜宝冠発見秘話、百済観音の分身たち、明治38年の修理とは〜という章が設けられている。
 「没後五十年 新納忠之介展」図録(H16)鹿児島市立博物館刊
 模刻写真のほか、「百済観音像模刻をめぐって」と題する解説文が掲載されている。

   

      

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