埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百十六回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その9>明治の仏像模造と修理 【修理編】

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【目次】


1.はじめに

2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで

(1)近代仏像修理の始まるまで
(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院
(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)
(4)美術院〜戦中戦後の苦境
(5)財団法人・美術院の発足から今日まで

3.明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る

(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで
(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合
(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介

4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る

(1)奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立
(2)東大寺法華堂諸仏の修理
(3)興福寺諸仏像の修理
(4)法隆寺諸仏像の修理
(5)明治のその他の主な仏像修理
(6)唐招提寺の仏像修理

5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ

(1)新納家に滞在したウォーナー
(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜
(3)新納の残した仏像修理記録について

6.近代仏像修理について書かれた本

(1)近代仏像修理と美術院の歴史について書かれた本
(2)新納忠之介について書かれた本
(3)仏像修理にたずさわった人たちの本



4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る


(1) 奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立


この【模造編】の冒頭で、腕が何本も折れている興福寺・阿修羅像の姿や、腕や手先がなくなってしまっている、東大寺・戒壇堂の四天王像の姿の写真を、ご覧にいれました。

こうした奈良の国宝仏像達は、いつ頃、どのように、新納忠之介たちの手によって修理修復されたのでしょうか?

奈良の古寺の仏像修理が始められたのは、明治34年(1901)からの事です。
それから、明治41年(1908)までの7年間で東大寺、興福寺、法隆寺の諸仏像が、大正5年(1916)には、唐招提寺の国宝仏像が続々と修理されていきます。

先に記したように、奈良の主要な古建築が、関野貞を責任者として修理されたのが、明治29〜34年(1896〜1901)の事ですから、古建築修復事業と入れ替わるかのように、主要仏像の修理が始められたことになります。

近代仏像修理が始められたのは、明治31年(1898)ですが、奈良の国宝仏像の修理に着手するまでの3年余は、和歌山県、滋賀県、大阪府、広島県の仏像の修理にあたっていました。


どうして、最も重要で優れた仏像が数多くある奈良の古寺の仏像修理からスタートしなかったのでしょうか?

どうも、この間が、奈良の仏像修理に着手するまでの、仏像保存修理技術のテスト期間、トレーニング期間であったようなのです。

新納をはじめ近代仏像修理の草分けとなった人たちは、東京美術学校の彫刻科卒という経歴であっても、仏師であったわけではありません。
古代の仏像制作の技法や構造の知識はもとより、修理修復の技法、どのように修理を進めるかなどについても、これまでの蓄積があるわけではなく、まさに白紙の状態からというか、手探りで進めていくという状況だったのに違いありません。

奈良の名作国宝仏像に手を付けるまでには、どうしても、それなりの修理技術の習得期間、テスト期間が必要であったのです。

後に美術院国宝修理所・所長を務めた西村公朝氏は、このように語っています。

「古社寺保存法による第1号の修理として着手したのが、高野山の仏像であった。
しかし今日のわれわれからみれば、この当時の修理は、いわば保存修理技術のテスト期間であったと思う。

仏像の修理は歴史的にみても、すでに古くから盛んに行われていた。
しかしこれらは、あくまで信仰的な立場からなされた修理法であって、これを国宝とし、保存を目的とする修理は全く初めてのことである。
どのような方法が正しいか、またどの程度まで行うべきかさえわからない時代であった。

そこで新納先生は、事務所を設立すると同時に、まず奈良在住の寺出入りの仏師、当時の名工といわれた漆工、木工、金工や、模造師たちを集めた。
そしてその人たちの技術を結集し、これを整理統一しながら、天心先生の考えである『現状維持修理』を目的として研究した。

こうして何点かの修理を進めるうちに、仏像の造形技術や内部構造を知ることができ、またその像が過去に修理が行われている場合、その修理箇所の状態に与てその技法の良し悪しを知ることが出来、さらにいろいろのテストから得た知識と技術を組み合わせた結果、ついに新しく、国宝修理法としての技法を生み出したのである。
この技法が完成されるに至るまで、何年を要したか不明であるが(数年らしい)、完成後は、美術院の秘法として門外不出とされた。
しかし内部では、これを「普通修理法」と称していた。

さて、このようにして修理法が定まり、奈良・京都の有名仏の修理に着手することになって、一層古美術の研究も深まり、修理にも自信が出来たのである。」
(「美術院のあゆみ」西村公朝著【秘仏開眼】・1976年淡交社刊所収)


仏像修理の考え方、方針を確立するのは、大変な苦労と困難であったと思われます。
新納等は「現状維持修理」目的とした、「普通修理法」という技法を確立しました。
「普通修理法」という呼び方は、何の変哲もないありきたりの呼称ですが、今日現在に至っても、美術院国宝修理所では、この「普通修理法」という呼称が使われ、その修理方針が継承されています。


「普通修理法」の原則は、

・現在遺されている造像時の良い姿を、これ以上損傷しないようにし、出来るだけ長く後世に伝える。

・制作当初の部材や彫刻面、彩色、漆箔を尊重し、これを傷つけないようにして、修理部分の仕上げは当初仕上げを生かして、出来るだけ控え目にする。

・欠損部の復元や追補は、最小限にとどめる。

などというものです。

この基本方針は、今では当たり前のようですが、近代仏像修理草創期に、

「仏像を文化財として捉え、芸術作品、美術品として保存するためには、いかなる修理修復を行うべきか?」

という課題を、実現しようとしたものだと思います。

岡倉天心と新納忠之介等とが、真剣に議論し協議して、この方針を創り出したのでしょう。

単に仏像を、「礼拝する信仰の対象」として考えていたなら、江戸時代に行われていたような、全面的塗り替えや、造り変えが行われ、当初の姿をとどめないような修理が行われ、金ぴかになった仏像を、「立派なお姿に還られた」と賞していたということになっていたのかもしれません。

お陰様で、我々は今、当初制作された姿を偲びながら、仏像の美しさを鑑賞することが出来ます。
明治中期に、天心、新納等が確立した「普通修理法」という仏像修理方針に、心より感謝すべきといっても過言ではないのかもしれません。



(2) 東大寺法華堂諸仏の修理


明治34年(1891)、東大寺法華堂の諸仏の修理が始められます。
この修理が、奈良の古寺の仏像修理のスタートとなりました。


東大寺法華堂・堂内

奈良での仏像修理に先立って、岡倉天心は新納を呼び、奈良へ赴き東大寺法華堂の諸仏の修理を行うよう、命じます。
新納は、この命令の難しさに困り果てて峻拒しますが、天心の強い説得に会い、最後は引き受けて奈良に向かいます。

その時の天心とのやり取りは、新納にとって大変に思い出深いものとなりました。
新納の仏像修理の途への人生を決定づける出来事となったのです。
有名なエピソードですので、ちょっと長くなりますが、ご紹介します。


新納は、その時の天心とのやり取りの様子について、このように感慨深く語っています。

「是より先、ある日岡倉先生は私を呼んで、ひとつ三月堂の仏像修理をやってくれないかと云はれる。
突然である。

そんなむつかしい仕事は、到底私のやうな無経験な者には出来ませんと答へると、
『むつかしい事をやるのか、研究家の仕事ぢゃないか。』
いつになく激烈な口調で一喝し、古社寺保存の仕事は、研究を眼目としてやらねばならない、職人になってはだめだ、随って君等にやって貫ふ仕事は、研究的なものでなくてはならないのだ、と説かれる。

併し、私は猶のみこめない。
研究もよいが、三月堂のやうな大物を引受けて、もしウマく行かなかった場合には、二度と奈良に足踏みが出来なくなる、奈良に(ママ)離れては我々の立つ瀬がない。

どういっても岡倉先生かきかれないものだから、私も遂に少々激した。
『一体先生は、私を殺すツモリですか。』
『ウム、殺すツモリだ、芸術の上では君を殺すツモリだ。』

先生は飽くまで強い。それで私も心が動いた。

『なるほど死より恐ろしいものは有りません、そこまで先生が云はれますなら、私も一つ死を賭して行きませう。』
『オウいけ、いッて死ね。』

是が私の奈良に根をおろす基であった。」
(昭和16年11月新納談話「奈良の美術院」・【奈良叢記】1942年駸々堂刊所収)

新納は、三月堂諸仏の修理を手掛けることを、何故ここまで頑迷に峻拒したのでしょうか?

最大の事由は、脱活乾漆像や塑像の修理は、全くの未経験であったことだったと思われます。
新納たちは、それまで数年間、仏像修理に携わってきたものの、木彫仏像ばかりで、乾漆、塑像の世界は未体験ゾーンであったのです。
日本を代表する国宝である東大寺三月堂の不空羂索観音像などの諸仏の修理を手掛けるなどということは、乾漆、塑像の修理経験の全くない、未だ34歳の新納にとっては、想像もつかないことだったのでしょう。



東大寺法華堂〜不空羂索観音像・日光月光菩薩像

新納にとってみれば、まさに

「そこまで先生が云はれますなら、私も一つ死を賭して行きませう」

という、決死の決意であったのだと思われます。

天心の負託を受けた新納は、本当に悩み苦しんだようです。

「ところで問題は三月堂の名宝群だ。
あすこの天平彫刻はご存知のとほり乾漆と塑像なのだが、そのころはまだ、さうした造像材料について専門に研究した人がゐなかった。
どうして手をつけてよいやら、とうすればうまく行くのやらまるで見当がつかない。

そこでまづ本堂内に床を張り、ぢっと坐りこんで、ああでもないかうでもないと三ケ月の間考へこんだものだ。
をかしさうに君は笑ふが、なかなか以って笑ひごとぢゃない。

あんな貴重な名宝をやり損ふものなら、二度と再び奈良に来られるものではない。
日本美術史界の恨みを一手で引受けねばならないからナ。」
(松本栖重「古拙翁懐旧談叢」【仏像修理五十年】2013年美術院刊所収)

新納は、このように回想しています。


もう一つ興味深いのは、天心が、

「古社寺保存の仕事は、研究を眼目としてやらねばならない、職人になってはだめだ、随って君等にやって貫ふ仕事は、研究的なものでなくてはならないのだ。」

と語っていることです。

この研究的伝統は、新納ばかりではなく、今も美術院の仏像修理の伝統に、脈々と受け継がれています。
美術院による仏像の構造や技法についての調査記録や研究成果が、これまで数多く発表され、仏教美術史学の発展に寄与しています。


   
東大寺法華堂〜増長・多聞天像 修理図解


かくして、法華堂の不空羂索観音像ほかの脱活乾漆像、執金剛神などの塑像の諸像の修理が始められました。
不空羂索観音像は解体修理されたとされていますが、どの程度の修理が施されたのかの記録は残されていないようです。

新納は、不空羂索観音をいったん吊り上げて横に寝かして移動した時の苦労や、秘仏執金剛神を自ら背中におんぶして厨子から出してきた時の話などの思い出を、感慨深く語っています。


苦労の甲斐あって、無事、法華堂諸像の修理は完成しました。

明治36年(1903)5月、竣工記念の法要が営まれ、日本美術院長・岡倉天心が出席し、新納忠之介が報告文を読みあげました。
36名のスタッフが、この大修理に参加したことが報告されています。



東大寺法華堂諸仏修理者名簿(手控え)

その後、明治年間の、法華堂以外の東大寺の主要仏像の修理は、次のような時期に行われています。

明治36年:良弁上人像、僧形八幡神像、千手観音像

明治38年:戒壇堂・四天王像


 


       

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