埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二百十一回)

   第三十一話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その9>明治の仏像模造と修理 【修理編】

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【目次】


1.はじめに

2.近代仏像修理の歴史〜明治から今日まで

(1)近代仏像修理の始まるまで
(2)近代仏像修理のスタートと日本美術院
(3)美術院への改称(日本美術院からの独立)
(4)美術院〜戦中戦後の苦境
(5)財団法人・美術院の発足から今日まで

3.明治大正期における、新納忠之介と美術院を振り返る

(1)新納忠之介の生い立ちと、仏像修理の途に至るまで
(2)日本美術院による仏像修理のスタートと、東京美術学校との競合
(3)奈良の地における日本美術院と新納忠之介

4.明治・大正の、奈良の国宝仏像修理を振り返る

(1)奈良の地での仏像修理と「普通修理法」の確立
(2)東大寺法華堂諸仏の修理
(3)興福寺諸仏像の修理
(4)法隆寺諸仏像の修理
(5)明治のその他の主な仏像修理
(6)唐招提寺の仏像修理

5.新納忠之介にまつわる話、あれこれ

(1)新納家に滞在したウォーナー
(2)新納の仏像模造〜百済観音模造を中心に〜
(3)新納の残した仏像修理記録について

6.近代仏像修理について書かれた本

(1)近代仏像修理と美術院の歴史について書かれた本
(2)新納忠之介について書かれた本
(3)仏像修理にたずさわった人たちの本



1.はじめに


腕が何本も折れて亡くなっている、興福寺・阿修羅像。



興福寺・阿修羅像の明治の修理前古写真(工藤精華撮影)



こんな痛ましい姿の古写真を目にされたことのある方も、いらっしゃるのではないかと思います。

この写真は、明治時代の奈良の古美術写真家、工藤精華が撮影したものです。


腕や手先が亡くなってしまっている、東大寺戒壇堂の四天王像。







明治修理の前に撮影された東大寺戒壇堂・四天王像の姿
(上段:広目天像、下段:増長天像)


広目天像は両腕がありません。
他の像も、手先がなくなってしまっていたり、心木が露出して、塑土の部分が落ちてしまったりしています。
明治の修理前にとられた写真です。

「こんなに痛ましく、無残な姿だったのか!」
「今では、想像もできそうにないね。」

そのように思われたのではないでしょうか?

今では、美麗で、パーフェクトな造形に、誰もが讃嘆の声を上げる天平古仏たちですが、明治初年から半ばごろは、欠けたり朽ちたりして、このような姿になっていた像が結構多かったのだと思われます。



現在の興福寺・阿修羅像の姿


 

現在の東大寺戒壇堂・広目天像、増長天像の姿


これらの仏像の痛ましい姿は、「廃仏毀釈の嵐の中で壊された」というのではなくて、江戸時代以来、このような姿のままで伝えられてきたようです。


一方、維新以降の廃仏毀釈の嵐の中で、数多くの仏像などが、打ち捨てられたり、破壊されたりしました。
ご存じのとおり、興福寺は、一度は廃寺となってしまいました。
興福寺に祀られてきた古仏も、多くが打ち捨てられたり、焼かれたりしたと伝えられています。

興福寺の破損仏や、仏像を写した明治の古写真を見ると、当時の厳しく悲惨な有様が伺えます。






興福寺の廃仏毀釈による破損仏と、明治20年頃の興福寺中金堂内陣


これらの奈良の有名仏像、今では、そんな痛ましい姿であったことが誰も想像がつかないような美し姿で、我々を魅了しています。

いつ頃、今、我々が拝するような姿に修理・修復されたのでしょうか?
誰が、この古仏像の修理を進めたのでしょうか?

奈良の古仏像の修理は、明治34年(1901)から始められています。
最初は、東大寺法華堂の諸仏像の修理修復からスタートしました。

古写真をご覧にいれた、興福寺の阿修羅像の修理は明治35年(1902)に、東大寺戒壇堂の四天王像の修理は明治38〜39年(1905〜6)頃に行われています。

「意外と早い頃から」    「結構、遅くてゆっくり」

どのように思われたでしょうか?


前話「明治の仏像模造と修理【模造編】」で記したとおり、帝国博物館展示を目的とした仏像模造が進められたのが、明治24〜26年(1891〜3)頃です。
古仏像の修理は、その後7〜8年経った頃からということになります。

以来、現在に至るまで、文化財、美術品としての仏像の修理修復への取り組みは、紆余曲折を経ながらも続けられ、今日に至っています。

お蔭で、我々は、美しい姿に修理修復された古仏像の姿を拝し、愉しむことが出来ています。

この古仏像の修理修復への取り組みをプランし、推し進めたのは、岡倉天心でした。
そして、実際に仏像修理にあたったのが、日本美術院であり、新納忠之介(にいろちゅうのすけ)でした。

明治以来の「古仏像の修理修復」の歴史を振り返る時、

「岡倉天心」   「美術院」   「新納忠之介」

この3つのキーワード無くしては、語ることが出来ないと思います。


それでは、そろそろ、明治の古仏像の修理修復への取り組みの歴史を振り返っていきたいと思います。




〈「はじめに」を書き終えてから生じた一つの疑問〉

【戒壇堂四天王像〜その手は本当に亡くなっていたのか?】

冒頭で、東大寺戒壇堂の四天王像の腕や手先がなくなっている、明治の修理前写真をご覧にいれました。

ところが、本当に、
「腕や手先がなくなった姿のままで、安置されていたのか?」
疑問が生じてきました。

この稿を書き終えてから、明治の仏像の古写真を書架から取り出して眺めていたら、腕や手先がちゃんとついた四天王像の写真を見つけました。

「大和国宝帖」という仏像写真集で、明治28年(1895)8月に出版され、川井景一という人が編集発行人になっています。
撮影写真家は誰なのかは判りません。
この本に掲載された四天王像は、腕や手がちゃんとついています。
先にご覧にいれたのと同じ、広目天、増長天像の写真をご覧ください。

 

「大和国宝帖」明治28年刊掲載戒壇堂四天王写真(左・広目天像、右・増長天像)



戒壇堂の四天王像が、日本美術院の新納忠之介により修理されたのは、明治38〜39年(1905〜1906)のことです。
この写真は、間違いなく、それより10年以上前に撮られた写真です。


ご覧にいれた腕や手先の亡くなった写真は、
「日本美術院彫刻等修理記録X」(1978年・奈良国立文化財研究所刊)
に「修理前」と注記され掲載されている写真です。



戒壇堂の四天王像の腕・手先の無い「日本美術院彫刻等修理記録X」収録写真
修理前〜と注記されている


この「日本美術院彫刻等修理記録」は、新納忠之介が残した当時の修理記録を復刻した本です。

また、近年出版された
「奈良時代の塑像神将像」(2010年奈良国立博物館編集・中央公論美術出版社刊)
という本にも、この写真が転載・掲載されています。
その注記には「戒壇院四天王立像 旧状 (明治38〜39年実施の修理前に撮影)」と記されています。

私は、これらの写真・解説を見て、
「修理される前は、このような痛ましい姿であった。」
とご紹介したわけです。

明治28年以前の「大和国宝帖」の写真と、腕・手のない修理前写真を見比べて、良く考えてみると、
ご紹介した修理前写真は、
「後世の拙劣な補修部分を除去して、奈良時代の当初部分を残した状態の写真」
ではないかと思われます。
修理にあたって、当初部分だけを残して、まさにこれから当初の奈良時代の造形に倣い、新たに腕や手を制作しようとする直前の写真なのだと思われます。

「大和国宝帖」の写真をよく見ると、例えば広目天像の左腕先などは、いかにも後でとってつけたような拙劣なものになっているようです。
また、修理後の左腕は、腕を屈した形に改められています。


念のために、東京国立博物館・古写真データベースを検索してみました。
ここには、小川一真が明治21年(1888)に撮影した戒壇堂四天王の古写真が収録されていましたが、この写真も、「大和国宝帖」の写真と同じ姿でした。

 

明治21年、小川一真撮影・戒壇堂四天王像写真(左・広目天像、右・増長天像)



以上のようなことを総合してみると、

「戒壇堂の四天王像は、明治の修理以前は、腕や手先の亡くなった痛ましい姿で祀られていたわけではなく、後世の拙劣な修理ではあるが、手先までちゃんと備わった形で祀られていた。

明治38〜9年の修理時に、後世の修理部分が除去され、奈良時代当初の腕・手先に復元された。

手のない写真は、後補部分除去後、復元修理に取り掛かる直前に撮影されたものであろう。」

といって良いのだと思います。


細かいこととは言いながら、東大寺では、戒壇堂・四天王像を破損した痛ましい姿のままで、お祀りしていたということではなかったということなのだと思います。


 


       

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