埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二十回)

  第六話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本《その1》(3/6)

《その1》 近代法隆寺の歴史と宝物の行方

3.宝物献納と売却〜廃仏毀釈の嵐のなかで〜

【宝物の献納〜法隆寺献納宝物〜】

 東京国立博物館の正門をくぐり左に暫らく行くと、噴水のある池に囲まれるように、現代ギャラリーのような洒落た建物が見えてくる。静かに開く自動ドアに導かれるように中へ入っていくと、薄暗く調光された展示室に角柱のガラスケースが林立。ケースの中には、旧御物法隆寺献納四十八体仏が展示されている。2階への階段の吹き抜けに吊り下げられた、金銅潅頂幡は見事で眩いばかり。

 平成9年に新築された法隆寺宝物館。
 法隆寺宝物館には、明治11年、皇室に献納された法隆寺献納宝物の殆んど、三百余点が所蔵されている。戦後帝室博物館が国に移管された際、東京国立博物館蔵となったものである。

 これだけの飛鳥白鳳の仏教美術を、まとまって一気に鑑賞できる殿堂はここを置いてない。丙寅銘半跏像、辛亥銘菩薩像の前などでは、学生がノートを手に真剣に見入っている姿を眼にすることもある。

 これらの古代小金銅仏や工芸品の名品を、このように鑑賞できるのは、明治の昔、これらの宝物の皇室への一括献上を決した、当時の「法隆寺管主、千早定朝」のお陰である。
 この献納なかりせば、廃仏毀釈の嵐の中、これらの宝物が流出・散逸していたに違いなく、我々は、当時の千早定朝の大英断に、大いなる感謝をしなければならぬのだろう。

 ただこの法隆寺宝物館には、献納宝物の大目玉とも言える名品「聖徳太子及び二王子像」、「聖徳太子筆法華義疏」が所蔵されていない。

 法隆寺献納宝物のなかで、世の中によく知られているものは「聖徳太子及び二王子像」。
 「聖徳太子」といえば、古くは千円札、一昔前は壱万円札の代名詞。この聖徳太子の顔は、法隆寺献納宝物「聖徳太子及び二王子像」から採られている。恐らく最もポピュラーな聖徳太子像で教科書でもお馴染み。
 誰もが知っている古画、奈良時代の作で日本最古の肖像画ともいえるもの。

 これが法隆寺宝物館にないのは、帝室御物から戦後の国への移管時、「聖徳太子像」「法華義疏」などは特に皇室とゆかりある品として、そのまま宮内庁所管に留め置かれることとなったことによる。

 ところで、この「聖徳太子像」や「法華義疏」国宝?重要文化財?
 いやいや、これらは実は、文化財としては無指定ということになるらしい。
 いわゆる「御物」と呼ばれるもので、天皇家の蒐集品。御物には他にも「蒙古襲来絵詞」等々、数々の名品があるが、どれも無指定。
 なんとなく不可思議で割り切れないような気がするが、文化財保護法の保護、規制下に無いと言うことになるんだろうか?
 図録等には、「御物・宮内庁」と記されている。正確には、天皇家の個人所有品という扱いなのだろうか?

 もちろん、法隆寺宝物館所蔵の宝物は、殆んどが、重要文化財、国宝に指定されている。

 御物の歴史と物語は

 「皇室をめぐる名品物語」芸術新潮S61年11月号新潮社刊

 に採り上げられている。

 明治の昔、法隆寺が皇室に献納した「法隆寺献納宝物」。
 その献納のいきさつはどのようなものであったのだろうか?

 法隆寺宝物献納について知るには次の本に詳しい

 「近代法隆寺の歴史」高田良信著(S55)同朋社出版刊
 「法隆寺日記をひらく〜廃仏毀釈から100年〜」高田良信著(S61)日本放送協会刊
 共に、一章が設けられ、献納の経緯が要領よく纏められている

 法隆寺献納宝物とは、明治11年に法隆寺所蔵の宝物332件を皇室に献納したものをいう。

 明治初年は、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、南都の多くの大寺から貴重な宝物が流出した。
 法隆寺では、寺の財政維持と宝物流失の危機を何とか乗り越えようと、当時の千早定朝管主のリーダーシップの下、皇室への宝物献納を決することとなる。

 きっかけをたどってみると、明治維新の混乱も一応の平静を取り戻しつつあった明治8年、東大寺大仏殿回廊や旧興福寺当金堂などで、正倉院や法隆寺の宝物を集めて古美術展覧会が開催される。この展覧会を機に、寺宝を皇室に献納し下賜金により法隆寺復興を進めようという機運が高まる。
 そして、明治9年法隆寺は、堺県令・税所篤宛に「古器物献備御願」を提出。11年献納の儀が決定し、酬金として一万円が下賜される。
 当時の1万円は巨額大金だったようで、困窮の極みであった法隆寺も息を吹き返し、8千円で公債を購入、金利年6百円を運営維持費に充て、2千円を伽藍諸堂の修理費に充てたという。
 この献納と下賜金がなかりせば、法隆寺も他寺と同じく、多くの宝物、仏像などが流出売却されたであろうことは想像に難くなく、当時の管主千早定朝の大英断であった。

 この宝物献納、初代帝室博物館長・町田久成が、博物館新設に際して所蔵品を物色していたことにも関連しているようで、献納宝物の選定もこの町田と法隆寺の大御所といわれた北畠治房とで話し合いが進められたようだ。
 町田久成は、政府の社寺宝物検査「壬申検査」(明治5年)や明治8年の東大寺回廊古美術展に関わっていた人物、このとき調査・展観した宝物で献納可能なものを、一絡げにバサッと献納宝物に選定したらしい。

 面白いことに、まだ献納が裁可されていない明治9年に、法隆寺から「宝物一部返還願い」が提出されたりしており、選定に寺の意思が尊重されたとは到底思えない。
 それらは、寺になくてはならぬ、聖霊院「聖徳太子像」前に置かれる「漆塗りの御沓」、金堂四天王の「七曜剣」、五重塔「露盤覆鉢」等々であった。

 

 現代感覚からすれば、事情勘案すぐに返還という風に思うが、現実には「一旦献納願い目録に載せた品」という建前からか、なんと返還は認められなかった。
 その後も幾度か返還を願い出るが、叶わず。
 この三つの宝物が、ようやくの事で法隆寺に返還されたのは、実に70年後。
 法隆寺積年の念願が叶ったのは、昭和22年献納宝物が帝室御物から国へと移管、国立博物館蔵となる際であった。

 献納宝物選定の経緯や、その後の法隆寺からの「宝物返還願い」の顛末については、次の本に詳しい。

 「法隆寺の謎を解く」高田良信著(H2)小学館刊

 本書によれば、
 法隆寺は宝物献納来、再度の「返還願い」が容れられなかったので、明治40年「七曜剣と御沓」の模造を創って対処していた。
 終戦後、献納御物の国立博物館への移管に際して、法隆寺は「宝物は皇室に献上したので国へ差し上げたのではないから返上してもらいたい」旨の返還要求書を宮内省に提出したという。
 この時、博物館長・安部能成の請託を受けた石田茂作が、管長・佐伯定胤を訪ね、博物館移管を認めてもらうよう膝詰で求めたところ、

 「石田くんナァ、露盤伏鉢・七曜剣・御沓、あれだけ返してくれ。そしたら後は君にまかせるわ。」

 との佐伯管長の返事をもらい、やれやれと胸を撫で下ろした。
 そんな、回顧エピソードが紹介されている。

 また、献納裏話などついては、この本が必読本。

 「追跡!法隆寺の秘宝」高田良信・堀田謹吾著(H2)徳間書店刊

 本書は、昭和63年NHK特集で放送された「追跡・聖徳太子の秘宝」をもとにまとめられた本。ドキュメントタッチで法隆寺宝物の流転について、面白く書かれている。
 「明治天皇に献納した宝物」〈宮中に残った10件の御物・秘宝『聖徳太子と二王像』〉、「法隆寺宝物の行方」〈宝物献納と御下賜金〜宝物献納の真相〜・法隆寺の復興を助けた献納御物〜献納宝物選定の謎の解明〜〉

 などの項立てが設けられ、献納ストーリーの真相とドキュメントが生々しく知れ、誠に興味深い。

      

inserted by FC2 system