埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第二回)

  「奈良通」「古佛通」になれる本 (1/2)

 「通」という言葉には、どこかしら人をくすぐる快感がある。
 「さすが、通ならではですね」などと言われると、お世辞半分と判ってはいてもワルイ気はしない。

 蕎麦通、歌舞伎通、いまどきはラーメン通まで・・・・・
 これら「通人」は、『この蕎麦屋の親父は、東大出だ』『この店の割り箸は、何処其処に特注で創らせたものだ』など、何故か詳しい。
 興味の無い人には、『そんなこと知っててどうなるの?知っていると蕎麦が美味くなるとでも言うのか』と馬鹿にしたくなるが、愛好家にとってみれば、これぞワクワクする知識に違いない。
 「通」ならずとも、こんなネタは聞いていて愉しい。もし面白いなと感じたときは、あなたも「蕎麦通」への第一歩を踏み出してしまっているのかも知れない。

 我々、奈良の古寺や仏像好きの場合は、この手の世界に倣い言うのであれば、「奈良通」「古佛通」とでも呼ぶのだろうか。

 天平彫刻の精華「東大寺三月堂」を訪れてみたとしよう。

 和辻の「古寺巡礼」や亀井の「大和古寺風物誌」をひもといて三月堂を訪れた人は、日光月光菩薩のリリカルな美しさに心をうたれ、天平のいにしえに想いを致すことであろう。
 仏教美術史に造詣のある人と共に訪れれば、こんな話しを教えられるかも知れない。
 「日光月光菩薩は客佛で、本来本尊と一具ではなかったんですよ。像高のバランスも取れていないし・・・・・」
 「像高といえば、不空絹索観音の光背は、像の頭の位置より随分下がったところにあるでしょう。これは本尊の八角台座を後世に作ったから、ズレたようになってしまった・・・・・・・その光背を造るのに要したと思われる鉄二十挺申請の記事が「金光明寺造物所解」にあり製作年は天平19年という説が有力なんだ。」等など。

 さて、今回のテーマたる「奈良通・古佛通」といわれる人からは、こんな「こぼれ話やエピソード」を愉しく聞かせてもらえるに違いない。

 「本尊不空絹索観音の頭にかぶっている、見事な宝冠の銀の化佛や瓔珞幾房かは、昔(昭和12年)窓から忍び込んだ泥棒に盗まれたんだよ。どうやってあんな高いところに登ったんだろう。大変な騒ぎになって・・・・
 それが盗られたままなかなか見つからなくって、6年ほどたってから、いろんないきさつがあって、大阪堺方面に隠されていることが判ってきて、最後は大軌電車(近鉄)のなかで捕り物、無事銀佛も戻ってめでたく元どおりとなったんだよ。残念ながら、新薬師寺の香薬師はとうとう戻ってこなかったけどね。」

               (参考  島村利正『宝冠』霧のなかの声S57所収)

 「北面秘仏の執金剛神像は、あれだけ厳重にお守りされているはずなのに、右手の指が昔欠けてしまっていて、こともあろうにその指が寺外に流出したらしい。
 某氏が所有していたのだが、昭和27年頃文化財研究所の久野健氏にその話しがあり、調べてみたらなんと間違いなく本物の欠失した指だということが判って、氏の仲立ちで無事にもとの指に修復され戻された。不思議な因縁話のようだねえ・・・・」

             (参考  久野健『執金剛神の神秘』仏像S36所収)

 「お堂の巨大な脱乾漆像、梵釈二天や四天王も実はこのお堂から外へ出たことがあるんだよ。
 一昔前の戦時中(終戦直前)のことになるけれども、この奈良でも空襲に備えて文化財をなんとしてでも守らなければならないという事になって、ここの仏様も円成寺、正暦寺に疎開させることになった。当時は男手も無いので、囚人を動員して横持ちにして運んだということだ。
 結局はウォナーのお陰かどうかは知らないけれど、奈良は空襲に遭わず取り越し苦労だったんだけれどね・・・・・・・」等など

                     (参考  吉村昭『焔髪』脱出(S63)所収)

 識っていたとて、鑑賞力が増すわけではないだが、他の高邁な話しは忘れても、この手の話しだけは、なぜか後々までも覚えている。
 仏像好き、奈良美術好きにとっては、理屈抜きにどんどん惹きこまれて、もっともっと「奈良通」の話しが知りたくなるではないだろうか。
 「奈良通・古佛通」といわれる人の書いた本は、こんな話しが一杯散りばめられていて愉しい限りである。

 そろそろ本の紹介へ・・・・

 思い出話になるが、今を去る三十余年、私も学生で仏像好きの仲間入り途上、奈良通い始めた頃。
 安藤更生「南都逍遥」(S45) という本が出た。
 この本は、奈良美術にかかわる随筆集、研究外史的読み物と言うべきもの。
 仏教美術に興味が出始め、奈良のことをもっと知りたいと思っていた私は、ここに登場する、飛鳥園、日吉館、工藤精華、観音院・上司海雲、高畑・志賀直哉、青山茂などの事をはじめて知り、『白鳳時代は存在するか』『国宝修理譚』などの項に、好奇心をそそられた。
 またたく間に読み終え、奈良学といわれるものや、奈良美術文化サロン的雰囲気に、なにやら判らぬながらも、強い憧憬を感じたものであった。

 安藤更生は、早稲田会津八一門下で美術史学を学び鑑真和上の研究をライフワークとした仁。
 飛鳥園発行美術雑誌「東洋美術」の編集者として奈良に在ったこともある。また「銀座細見」なる銀座遊曳本を出し、師会津八一から破門されかかったりする洒脱なところもあり、その薀蓄と文学的軽妙さは、なかなか。
 「奈良通」への入り口に、もってこいの本ではないだろうか。

 美術史学者が書いた奈良美術随筆も、体験談や興味溢れるいろいろな話しが豊富で愉しい。
 なかでもお薦め本は、町田甲一「古寺辿歴」(S57)、「大和古寺巡歴」(S51) 直木孝次郎「法隆寺の里」(S59)、「秋篠川のほとりから」(S60)
 高い学識に裏打ちされた良書と思うが、知られた本でもあり先を急ぐこととしよう。

 こうして、段々と奈良・古佛こぼれ話本を猟渉しているうちに、神田の古書店で見つけたのが次なる本。

 古びて日焼けして、棚の隅で長らく埃をかぶっていた様子。

 「奈良百題」 高田十郎著(S17)
 昭和初期の「奈良通」といわれる人の書いた随筆本。
 戦前の奈良の文化・美術のエピソードを知るには、中身の興味深き面白さや、気楽に読ませる語り口で、この本の右に出るものは無いと思う。
 「奈良百題」の題名のとおり、百番までのインデックスを掲げて「こぼれ話」などを短文で綴っている。

 古佛に縁ある題目をいくつか拾ってみよう。
 『藤原時代在銘佛の出現』『我国最古の誕生佛出現』
 『古佛頭と佛手の出現』『日本美術史の発祥地』
 『古美術写真草分けの翁』『大佛の体内と頂上』
 『細谷氏発見の法隆寺吉祥天』『五拾円の五重塔』『明珍恒夫氏の急逝』
 『土から出た金銅佛版』『南向きでない佛達』
等々

 奈良古佛通ならではの題目が目白押し、奈良好きの興味をそそる。
 以下少しばかり内容の紹介。

 『わが国最古の誕生佛出現』は、白鳳小金銅佛で知られる悟真寺誕生佛の発見物語。昭和12年3月史跡顕彰会で筆者が美術院明珍恒夫、田村吉永らと共に大和宇陀郡史跡踏査に赴いた際の発見したいきさつが記してある。
 そのありさまを「明珍氏は、人も知る斯道の第一人者、現に所謂『国宝製造人』の一人でもある。このとき明珍氏の談話が出ると、一行についていた新聞記者は、忽ちあとの見学をすてて電報取扱いの郵便局に走った。・・・・・・・・・・とにかく是程の尤物が、明治の新時代以来幾十年、いびきの声一つ立てないで寝ており、今ごろになってひょっこり目を覚ましてくるなど、『やっぱり大和ですネ』と・・・・魚住惣五郎氏も、人に向かって漏らしたそうである。」と綴っている。

 『古佛頭と佛手の出現』は、これこそ有名な発見物語で知られる興福寺山田寺佛頭の東金堂からの出現のいきさつ。
 昭和12年10月30日の事「・・・今度の解体工事で、其台座の背面の板が剥がされると、中にまた一個の木箱があって、上に問題の佛頭が正面向きに置かれ、さらに其木箱が二重になっていて、内箱の中に銀の佛手がおさまっていた。夢にも想像のつかないことであった。・・・・」
 現在では、この佛頭は、興福寺の僧達が、治承兵火で失われた東金堂本尊とするため、豪腕で奪ってきた元山田寺の本尊で、天武年間造立が確かな白鳳の基準作例とされているが、発見当時は白鳳から奈良・平安・鎌倉の擬古作まで諸論あったらしく、「そこへ・・・明珍氏が出て、独壇場たる純様式の立場から無条件で白鳳期の製作と断定し、様式上の論議は、このところ鳴りを鎮めた形である。・・・・・・・・近頃奈良らしい人騒がせである。」と結んでおり、即座に製作年が確定した訳ではなかったようだ。

 もう一つだけ面白話の紹介。

 『細谷氏発見の法隆寺吉祥天像』は、食堂の天平木芯塑像吉祥天立像を見つけ出した話の聞き書。
 昭和9年の事、細谷氏が食堂にいると「其の隅にヘンな仏像がいったいあるのに目がついた。・・・・・・・腰以下のバカに太い不恰好この上も無い品、・・・少し指先でめくるようにしてみると確かにナニかある。さては何か古像のバケ物ではないか・・・・・・次々上皮をメクっていくと、文字通りの『バケの皮』が見事に剥げて、・・・・・・・・
 一見まがいの無い天平彫刻である。
 作者も由来も一切わからないが、天平の傑作とは誰の眼にも疑いない。
 発表すれば、明日にも国宝になるべきものである。しかし、そうなった上では事も面倒だからというので、菅主(佐伯定胤)は、便宜細谷氏に自由の修理を委託し、霊像は一時人目の少ない山内の、上之堂に移された」との事。
 修理は一年余を経て成り供養が行われ、まもなく旧国宝となった云々と述べている。

 細谷氏とは、美術院の細谷而楽のことで、新薬師寺の国宝十二神将塑像のうち、一体だけ当初のものが失われ後補で安置の、波夷羅大将の作者。
 今では、全く信じられない、大胆かつ鷹揚な対応で、あの佐伯定胤ならそういうこともあろうかと思うものの、さすがに戦前は思い切ったことが出来た時代よと、妙な感心をせざるを得ない。

 この本は、古佛のみならず、奈良の町、人、考古などについて、こぼれ話風、実話風に採り上げており、奈良美術好きの人は、きっと「えっこんな事もあったのか、知らなかった、なるほど・・・・・・」と一気に読み進み、自分の「奈良通ランク」がドンとグレードアップした気分に浸れるに違いない。

 高田十郎という人は、明治14年播州赤穂生まれ。27歳のときから奈良に在住、奈良郷土会の会長を長く任めた郷土史家で随筆家。
 他に、寄稿集「奈良叢記」(S17)という本にも、短文ながら『奈良百話』という一口話を書いている。

 このスタイルと同タイプの本には、寄稿集「奈良の本」(S27)、
 松本楢重「奈良物語」(S50)、北野徳俊「奈良閑話」(S63)
などがある。

 「奈良物語」は、著者松本楢重が朝日新聞奈良支局長、美術記者出身だけあって、愉しく読ませる筆力は流石。
 興福寺阿修羅像等の戦争疎開の話、白鳳石仏で著名な桜井石位寺の古佛十数体が、明治42年に長野清水寺に売却された話、盗まれた宝物の話なども盛り込まれている。

 新聞記者といえば、毎日新聞奈良支局美術記者であったのが、青山茂
 最近の出版が多いので、よく読まれ知られていることと思うが、今やその薀蓄は,「現役奈良通」第一人者であろう。
 宮大工・西岡常一との法隆寺・薬師寺対談、仏像修復・辻本干也との対談集など、読み手を奈良・古寺・古佛の世界へ引き込ませる。   −続く−

 

奈良市内の写真は、西大寺在住の石川裕章氏撮影によります。 

  

奈良百題            奈良物語

青山出版社           国書刊行会

      

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