埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百九十九回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

(11/13)


【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




■和辻哲郎「古寺巡礼」


この本をご存じない方はいないでしょう。

和辻は、大正7年(1918)5月、原三渓の長男、原善一郎夫妻等と奈良の古寺を旅します。
和辻、29歳の時のことです。
この時のことを綴った紀行文が「古寺巡礼」で、奈良・大和路を愛する人々にとっての必読の古典になっています。

この時、和辻達は、奈良ホテルに滞在します。

「古寺巡礼」では、本の冒頭から少し進んだあたりに、ホテルのことが綴られています。
ちょっと、ご紹介します。

和辻哲郎
「奈良についた時はもう薄暗かった。
この室に落ち着いて、浅茅ヶ原の向ふに見える若草山一帯の新緑(と云ってももう遅いが)を窓から眺めていると、いかにも京都とは違った気分が迫ってくる。
奈良の方がパアッとして、大っぴらである。

・・・・・・・・・・

食堂では、南の端のストオヴの前に、一人の美人がつれなしで坐っていた。
黒味がかった髪がゆったりと巻き上がりながら、白い額を左右から眉の上まで隠していた。
眼はスペイン人らしく大きく、頬は赤かった。

・・・・・・・・・・

奈良の古寺巡礼に来てかういふ国際的な風景を面白がるのは、少しおかしく感じられるかも知らぬが、自分の気持ちには少しも矛盾はなかった。
われわれが巡礼しようとするのは『美術』に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。

・・・・・・・・・・・・・・・

食後T君と共にヴェランダへ出て、外を眺めた。
池の向ふの旅館の二階では、乱酔した大勢の男が芸妓を交へてさわいでいる。
興福寺の塔の黒い影と絃歌にゆらめく燈の影とが、同じ池の面に映って若葉の間から見えるのも、面白くはなかった。
われわれはそれを見下すような気持になって、静かに雑談に耽った。

(5月18日夜)」


「乱酔客が芸妓と騒ぐ、池の向こうの旅館」とは、「菊水楼」のことでしょう。

この和辻の文章を読んでいると、大正時代の知識人の感性や価値観が伺われるようです。

「われわれが巡礼しようとするのは『美術』に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。」

と語り、国際的雰囲気の奈良ホテルでくつろぐことと、古寺・古仏をめぐることが矛盾しないとわざわざ強調しているのが、印象的です。

「奈良ホテル」に泊まり、ある種、高踏的な空気感のなかに身を置きながら、この一節を綴ったのでしょうか?


「古寺巡礼」 和辻哲郎著 (T8) 岩波書店刊 







■林芙美子「私の好きな奈良」、「早春」


林芙美子も、奈良ホテルのことを綴っています。

小説「放浪記」で知られる林芙美子です。
昭和6年(1931)3月に書かれた「私の好きな奈良」という随筆には、このように綴られています。

林芙美子
「また、奈良ホテルにも泊まったことがあります。
終日池に面した部屋から、笹薮のゆさゆさするのを眺めていた事があります。
奈良ホテルに泊まるような、心おごった豊かな気持ちも捨てがたく有難いのに私はホテルを出ると、友人と二人で町のうどん屋に這入って狐うどんをたべたりもしました。」

また、昭和8年3月に書かれた「早春」という随筆には、

「ホテルへ泊って窓を開けると、三笠山の麓にはもう灯がつきそめて、昔ながらのたそがれだ。

・・・・・・・・・・

ホテルはひっそりしているので、まるでフォンテンブロウのサボイに泊ってゐるやうな静けさであった。
夜更けてスチームのなる音は巴里の色々な宿屋を憶ひおこす。」

と綴っています。

林芙美子は、奈良ホテルに泊まると、パリを旅した日々を思い出し、その佇まいや雰囲気を、随分気に入っていたようです。



「林芙美子紀行集〜下駄で歩いた巴里」 林芙美子著 (H11) 岩波文庫


随筆「私の好きな奈良」が収録されています。



「林芙美子全集 第10巻」 林芙美子著 (S55) 文泉堂刊


随筆「早春」が収録されています。




■山口誓子「炎昼」


山口誓子
「ホトトギス」同人の著名な俳人・山口誓子の俳句の紹介です。

誓子は、句集「炎昼」で、「奈良ホテル」という表題で、3句を収録しています。


花楓(はなかえで)新婚のふたり椅子に揺れ


花馬酔木(はなあしび)雨はうつぼ柱に鳴れる


けふも奈良ホテル春雨に樋(とひ)鳴れり



「炎昼」 山口誓子著 (S13) 三省堂刊







■志賀直哉「寂しき生涯」


文豪、志賀直哉は、昭和16年(1931)発表の短編「寂しき生涯」の結びに、奈良ホテルを登場させています。

志賀直哉
「此春、奈良ホテルで、久しぶりに大宮君の絵を見た。
『高円山』といふ題の百号程の絵だった。

例の如く、実際の高円山とは似もつかぬ山に変わっていたが、大宮君として、悪くない方の絵だった。
大宮君が画室で此絵を描いてゐるのを見に行った事を憶ひ出した。

然し、此絵はホテルの余り客の行かない廊下の端にかけてあるばかりでなく、私が見た時には真前に大きな棕櫚竹の鉢が台にのせて、画面とすれすれに置いてあった。」

「寂しき生涯」は、この文章で、結ばれています。

この短編は、利己的で嫌な画家・大宮のことを語ったもので、志賀は「つまらぬ人を克明に描いてみようと思った」と回想している作品です。
奈良ホテルは、たまたま登場する付けたりのようです。


「豊年虫」 志賀直哉著 (S21) 座右宝刊行会刊

短編「寂しき生涯」が、収録されています。






■堀辰雄「大和路・信濃路」


奈良をめぐる多くの人に読まれ、愛された本です。

堀辰雄は、昭和12年(1937)から昭和18年(1943)にかけて、計6回奈良を訪ねています。
33歳から39歳にかけてのことです。

堀辰雄
この奈良旅行についてのエッセイを、婦人公論に連載しましたが、堀の没後、これをまとめて出版したのが「大和路」です。
この抒情的、感傷的に綴られた奈良紀行随筆の虜という堀辰雄ファンの方も、数多いことと思います。

昭和16年(1941)10月、第三回目の奈良訪問のとき、堀は「奈良ホテル」に滞在しました。
この時のエッセイには、奈良ホテルのことがあちこちに出てきます。
堀は「静かで落ち着いた良いホテル」と感じたようです。

エッセイには、「十月」という標題が付されていますが、その冒頭は「奈良ホテルにて」で始まります。

出だしの処を、少しご紹介します。


【一九四一年十月十日、奈良ホテルにて】

「くれがた奈良に著いた。僕のためにとっておいてくれたのは、かなり奥まった部屋で、なかなか落ちつけそうな部屋で好い。
すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に没頭している最中のような気もちになって部屋の中を歩きまわってみたが、なかなか歩きでがある。

これもこれでよかろうという事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛けに手をかけたが、つい面倒になって、まあそれくらいはあすの朝の楽しみにしておいてやれとおもって止めた。
その代り、食堂にはじめて出るまえに、奮発して髭ひげを剃そることにした。」


【十月十一日朝、ヴェランダにて】

「 けさは八時までゆっくりと寝た。

あけがた静かで、寝心地はまことにいい。やっと窓をあけてみると、僕の部屋がすぐ荒池あらいけに面していることだけは分かったが、向う側はまだぼおっと濃い靄もやにつつまれているっきりで、もうちょっと僕にはお預けという形。

なかなかもったいぶっていやあがる。

さあ、この部屋で僕にどんな仕事が出来るか、なんだかこう仕事を目の前にしながら嘘みたいに愉たのしい。
きょうはまあ軽い小手しらべに、ホテルから近い新薬師寺ぐらいのところでも歩いて来よう。」


堀の夫人・多恵子宛ての手紙の形式をとっており、心静かに思索にふけりながら奈良をめぐる繊細な感性の知識人という雰囲気が良く出ています。




奈良ホテル滞在中、堀辰雄が妻・堀多恵子に宛てた絵葉書
「此処で僕が小説を書いているのだよ」という、堀の書込みがある



2か月後には太平洋戦争が始まるという戦時下ですが、奈良ホテルには外国人も多く泊っていたようで、世俗とは別の世界であったのかもしれません。


余談ですが、昭和14年5月、二回目の奈良旅行の時には、堀は「日吉館」泊っています。

その時の葉書には、

「きのふは奈良の町で一日を過ごした
三月堂や新薬師寺といふのを見て歩いた
けふからいよいよ郊外を歩く  ハイキング靴を買った
けふは秋篠寺や西の京を歩く
毎日宿屋でビフテキなんぞ食はしてくれるので元気だ」

と、書かれています。


「大和路・信濃路」 堀辰雄著 (S29) 人文書院刊 【217P】550円

この本は、堀辰雄が昭和28年に48歳で没した一年後に、友人・神西清を中心に、奈良、信州の紀行エッセイ7編をまとめて単行本とし、追悼の意味を込めて出版されたものです。

ですから、有名な「大和路・信濃路」という本の題名は、堀辰雄が名付けたものではありません。
しかし、いかにも堀好みの、瀟洒な本に仕上がっています。







■谷崎潤一郎「細雪」


最後に、谷崎潤一郎の名作「細雪」を紹介します。

谷崎潤一郎
「細雪」下巻(昭和23年完成)の中に、奈良ホテルが登場します。

谷崎は、ここで奈良ホテルのことを徹底的にこき下ろしています。
この話の中で紹介するのは、相応しくないのでやめようかと思ったのですが、奈良ホテルを描いた作品は、すべて採り上げてみるということで、ご紹介することにしました。

「6月上旬の土曜日曜に、貞之介は留守を雪子に頼み、悦子をも彼女に預けて、幸子と二人だけで奈良の新緑を見に出かけた。

・・・・・・・・・・・

土曜の晩は奈良ホテルに泊まり、翌日春日神社から三月堂,大仏殿を経て西の京へ廻ったが、幸子は午頃から耳の附け根の裏側のところが紅く脹れて痒みを覚え、鬢の毛が触るとその痒さがひとしほであるのに悩んだ。」

(この後、薬屋にかゆみ止めを買いに行ったりします。
貞之介にも痒みが出て来て、きっと奈良ホテルの寝台で、南京虫にやられたに違いないという話になります。)


『ほんとに、さうやわ。
あのホテル、ちょっとも親切なこともないし、サアヴィスなんかも成ってない思うたら、南京虫がいるなんて、何と云うひどいホテルやろ』

幸子は、折角の二日の行楽が南京虫のために滅茶々々にされたことを思ふと、いつ迄も奈良ホテルが恨めしく、腹が立って仕方なかった。」

このように、徹底的にこき下ろしています。
谷崎は、よほど奈良ホテルのことが嫌いであったようです。
奈良ホテルにとっては、営業妨害と云える程の書かれようで、ちょっと可哀想です。
奈良ホテルで、何かあったのでしょうか?


「細雪」(上・中・下巻) 谷崎潤一郎著 (S21〜23) 中央公論社刊 







以上が、小説、随筆などに描かれた、「奈良ホテル」のご紹介です。


谷崎のように、徹底的にこき下ろしたものもありますが、和辻哲郎や堀辰雄の紀行文を読むと、ちょっと高踏的な奈良ホテルの雰囲気が伝わって来るようです。

当時の文士、知識人と云われる人達にとって、「奈良ホテル」は独特の高踏的、文化的香りがする場所であったのではないでしょうか。


 


       

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