埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百九十八回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

(10/13)


【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」


「奈良を代表するホテルと云えば、奈良ホテル」

誰もが、そのように言うように思います。
奈良の迎賓館として高い格式を誇るホテルです。



奈良ホテル・正面玄関



「奈良ホテル」という名を聞くと、単に高級というのではなくて、何処かハイソな雰囲気が漂っているような気がします。
高級ホテルは沢山ありますが、「奈良ホテル」は、それとはちょっと違うムードを漂わせています。

私も何度も「奈良ホテル」に泊まったことがありますが、他の高級ホテルに泊まった時の気分と違って、ここに泊ると、少々気持ちが高揚するというか、なにやら知識人の一員に、わずかに近づいたような気分になってしまうのです。


奈良ホテルは、明治42年(1907)に開業して以来、奈良の迎賓館、関西の迎賓館として、内外の賓客を迎えてきました。
現在でも、皇族の方々が奈良で泊られる時は必ず奈良ホテルです。
外国のロイヤルファミリーや元首級の要人が奈良に滞在するときも、奈良ホテルに決まっています。

奈良の地で、別格の格式を誇るホテルとして、明治以来現在に至るまで、誰もが名前を知る要人、有名人を迎えてきました。
小説家をはじめ文化人と云われる人たちも、多くが奈良ホテルに滞在しています。



奈良ホテル・遠望



それだけの格式を誇る迎賓館ホテルですが、皆さんご存知のとおり、豪華というよりは、趣のある年輪を感じさせるクラッシックホテルです。
玄関のある本館は、辰野金吾の設計による桃山御殿風、木造檜造りの和洋折衷建築で、明治時代に時間を引き戻されたような感じになります。

建物は、開業当時から大幅な改変が行われていないので、フロントやロビーは、今では手狭で、少々せせっこましい感じです。
廊下やラウンジも狭くて年季が入っており、部屋も設備も少々古くさいと云わざるを得ません。
決して、迎賓館へやってきたという気分にはなりませんが、明治の伝統をそのまま伝えるクラシックホテルにやってきたという実感は、ひしひしと伝わってきます。
時間という年輪が培ってきた落ち着き、荘重さというものを、肌で感じる空気が漂っているホテルです。


ホテルの雰囲気については、いろいろな写真を載せておきますので、いろいろ書き綴るより、それをご覧いただいた方が、よく判ると思います。


  

奈良ホテルのエントランスと入口ロビー






  

奈良ホテルのラウンジ・レストラン








奈良ホテルの宿泊室(上段はスイートルーム)



現在、奈良ホテルは、「クラシックホテルアソシエーツ」に属しています。
ホテルニューグランド(横浜)、富士屋ホテル(箱根)、日光金谷ホテル(日光)、万平ホテル(軽井沢)と、奈良ホテルの5ホテルが、創業70年以上で現在も創業時の建物を利用しているホテルとして、アソシエーツを結成しているとのことです。

これらのホテルは、上流階級や知識人、文化人に利用され親しまれてきたホテルです。
奈良ホテルも、その仲間に入るのでしょう。


奈良ホテルには、

「奈良を訪れる要人、賓客のための、公的性格を持った迎賓館としての役割」
と、
「奈良の古社寺、仏像を巡る上流階級、知識人たちが、ゆっくり滞在する宿(ホテル)」

という、
二つの性格を備えたホテルであったのだと思います。

いずれにせよ、「奈良ホテル」は、明治以来、奈良の看板迎賓館として、上流階級、文化人たちの滞在宿として、近代奈良の歴史と共に歩んできたホテルだと云えるのでしょう。



(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」


この連載は「近代奈良と古寺・古文化をめぐる話」がテーマです。

奈良ホテルの開業からの歴史の話しの前に、まずは、

「小説家や評論家たちが描いた奈良ホテル」

をご紹介したいと思います。


古都奈良に滞在した文人たちが書きのこした「奈良ホテルの話」から、はじめましょう。

数え上げればきりのないほどの多くの文人、文化人が奈良ホテルに滞在していますが、随筆や小説作品の中で、奈良ホテルについて綴っているのは、次のような人たちです。

高浜虚子、和辻哲郎、林芙美子、山口誓子、
志賀直哉、堀辰雄、谷崎潤一郎、

いずれも、大正〜昭和10年代の戦前に書かれたものですが、当時が偲ばれ、なかなか興味深いものです。
戦後に、奈良ホテルについて書かれたものもあるのかもしれませんが、よく判らないので、ここでは採り上げませんでした。


書かれた年代順に、ご紹介します。


■高浜虚子「奈良ホテル」


大正5年(1916)に書かれた、高浜虚子の「奈良ホテル」です。

高浜虚子は、明治〜昭和期の俳人・小説家として著名で、俳誌「ホトトギス」と主宰した人です。
法隆寺傍の旅館・大黒屋を題材とした短編、「斑鳩物語」を読まれたことのある方もいらっしゃるのではないかと思います。


高浜虚子
この高浜虚子が、「奈良ホテル」と題する読み物を、国民新聞に9回にわたって連載しているのです。

大正5年11月29日〜12月8日付けの紙面に掲載されています。
当時、虚子は国民新聞に籍を置いていたようで、新聞の記者として滞在し、そのときの印象記を綴っています。

文学作品に類するものでは全くなく、奈良ホテルという西洋式の一流ホテルを利用した感想を、写生文という形に纏めた「体験記」です。

今で云うと、旅行雑誌の
「普段は泊まれない超一流ホテル!マル秘体験レポート!」
といった処でしょうか。

この時、虚子は38歳で、初めて泊った迎賓館ホテルで「ちょっと腰が引けながら、おっかなびっくり」で、2泊3日を過ごした有様を、庶民感覚でざっくばらんに語っています。


大正時代の奈良ホテルの様子が、大変よく判る面白い連載読み物です。
少々詳しくご紹介したいと思います。

奈良駅に着いた虚子は、人力車で奈良ホテルに向かいます。

「車夫は、羽織袴の私の風采と、粗末に古びた旧式の皮鞄とを等分に見て、私の口から出た、奈良ホテルという言葉を、一寸不審するような表情を示したが、別に何とも云わず梶棒を上げて、公園の中を引いて入った。

・・・・・・・・・・

車夫が怪しんだ如く、この服装やこの皮鞄の具合では、矢張其古風な宿屋に泊る方がふさわしいのであろうが、ふとしたことから今回は奈良ホテルに泊まってみることになったのであった。」

と、記しています。

車夫に、
「お前のようなものが行くところではない」
という顔で、見られたようです。



国民新聞に連載された高浜虚子「奈良ホテル」第1回(大正5年)



奈良ホテルに到着すると、直ぐの広間で珈琲が出されます。

「そこにしつらえられているストーブの外郭は、赤い鳥居であった。」

とあり、
今も玄関にある赤鳥居のあたりは、ラウンジとなっていたようです。




開業初期の玄関ロビー風景(現在の売店の処にロッキングチェアーが置かれている)




今も奈良ホテルに在るラウンジの赤い鳥居



ここから、部屋の様子や案内のボーイに有様などが、綴られています。

面白かったのはトイレの描写です。

虚子には、バスルームにトイレが一緒にあるのは驚きであったようで、水洗トイレを見たのも初めてだったようです。
長々とトイレ描写が続きますが、ピックアップしてご紹介します。

「その(バスタブ)片隅には、同じく白い瀬戸物の便所があって、その便所の底には岩間にたたえられている水のような美しい清水が顔を見せている。」

そこで、用を足して紐を引くと、水洗で流れ去る有様に感心して、

「自分の小便が、かかる贅沢なる仕掛けののもとに取り扱われることを、不思議なように思いながら、暫くその装置を眺めていた。」

そして、

「西洋人ばかりの居るホテルに、何も心得のない気怯れ勝ちの番カラが、一人泊ったことは滑稽だ。」

と書いた手紙を、2〜3人の友人に出しています。


こんな調子で、奈良ホテル体験記が続きます。

このまま、虚子の文章の引用を続けていると、何時まで経っても終わりませんので、後は要約して紹介しますと、

食堂へ行くと、メニューが英語で読めなかったとか、
給仕の少女は、和服でつつましく物腰静かであるとか、
泊り客は、外国人8割、日本人2割であるとか、
ボーイが、都度用事を聞きに来てくれ、ルームサービスで食事をとることが出来るとか、
番茶を頼んで、カバンから梅干を取り出して梅干渋茶にして飲んだら、ボーイが大層びっくりしたとか、
チップというものがあって、凡そ払いの1割が目処であるとか、
宿賃は6円で、きわめて高価だが、ここで享受する快楽や贅沢には代えられないとか、

こんな、ある意味くだらないとも思える話が、ダラダラと連載で続きますが、当時の読者には、目新しい驚きの話であったのでしょうか?

さすが高浜虚子の文章、といった文学的な味のあるところは全くありません。
まさに、当時の西洋式迎賓館ホテルの紹介ガイドそのもの、という感じです。


どうしてこんな連載記事が、国民新聞に掲載されることになったのが判りませんが、大正5年当時、奈良ホテルは、それほどに一般庶民には想像もつかない、雲の上の西洋式迎賓館ホテルであったということを、物語っているのだと思います。


 


       

inserted by FC2 system