埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第十九回)

  第六話 近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本《その1》(2/6)

《その1》 近代法隆寺の歴史と宝物の行方

2.近代法隆寺の歴史をたどる本

 法隆寺の拝観料1,000円。
 「えらく高いように思うが、これはものすごく安い」と、ある人がいった。
 「あれだけ沢山の国宝、重要文化財など、古代仏教美術の至宝の数々が、一堂に鑑賞することが出来る。それで1,000円は安い。」

 確かに、新潮社刊「国宝」(H4)でみると、法隆寺所蔵の国宝は38件、献納宝物も含めると45件。
 因みに、東大寺28件、興福寺26件、東寺24件であった。
 これらの寺は、それぞれ何箇所か別々に拝観料を取られるから、法隆寺は実質大変安いのかもしれない。

 閑話休題、法隆寺は古代仏教美術の殿堂。
 古寺古佛の解説書・研究書も、法隆寺についての本が群を抜いている。
 我が家にある、法隆寺をテーマにした本だけでも、200冊弱もある。

 今や、世界文化遺産の指定まで受けた法隆寺であるが、維新後は廃仏毀釈のあおりを受け荒廃し、その後、幾多の困難をようやく乗り越え、今日にまで至っている。

 その間仏教美術に興味ある人なら、忘れることできぬ数々の出来事があり、これがまた、上代仏教美術史研究レベルアップの源泉にもなった。

 そんな近代法隆寺の歴史とその周辺を、さまざまな本のなかから辿ってみたい。

 近代法隆寺の歴史と出来事を、編年風に纏められた本は次の4冊。
 共に、高田良信(法隆寺長老〜前管長〜)の著。
 近代法隆寺復興の歴史については、高田良信の独壇場。数多くの自著に、諸々のエピソードなどを採り上げ記しており、先人の苦難や事跡を世に注目させた功績は大きい。

 「近代法隆寺の歴史」高田良信著(S55)同朋社出版刊

 本書は、明治時代の法隆寺の主な出来事について語られている。大正以降は「続近代法隆寺の歴史」として刊行予定となっているが、未刊のようだ。

 高田良信は、はしがきに「法隆寺の秘められた歴史を発表する第一段階として、明治時代の寺僧たちがいかに苦労してその護持につとめたかを正しく後世に伝えたいという一念から、私はあえて筆をとることとした。」と記している。

 「法隆寺日記をひらく〜廃仏毀釈から100年〜」高田良信著(S61)日本放送協会刊

 日々の出来事が綴られた「法隆寺日記」。
 明治初年来の日記の欠本が見つかったのを機に、法隆寺日記を舞台回しに、近代法隆寺史を一般にわかりやすく説き起こした本。読み物風で楽しく読める。 明治以降の法隆寺の事を知るには、一押し必読本。
 先の明治期だけを記した「近代法隆寺の歴史」の、大正・昭和編の役割も兼ねている。

 「法隆寺の歴史と年表」高田良信著(S60)ワコー美術出版刊

 著者高田良信が、大学院終了当時の昭和40年頃、それまで集めた史料をもとに作成した「法隆寺年表をもとに公刊したもの。飛鳥時代早々当時より現代までの編年だが、近代の歴史についても記されている。
 法隆寺の歴史をやさしく綴った本
 維新後の近代法隆寺の歴史と出来事についても丁寧に記されており判りやすい。

 「法隆寺の歴史と信仰」高田良信編著(H18)法隆寺刊
 法隆寺の歴史をやさしく綴った本
 維新後の近代法隆寺の歴史と出来事についても丁寧に記されており、判りやすい。

 近代法隆寺の歴史と出来事を、これらの本から、年表風に記すとこのとおり。

西暦
年号

出来事

1873
明治6

真言宗の所轄へ

1874
明治7

寺禄千石の廃止

1876
明治9

千早定朝住職就任

1878
明治11

宝物献納、恩賜とし1万円下賜

1882
明治15

法相宗へ独立

1884
明治17

フェノロサ、天心夢殿救世観音開扉

1887
明治20

この頃から再建非再建論争起こる

1903
明治36

佐伯定胤住職就任

1907
明治40

維持資金捻出のため百萬小塔、屏風一双売却決定

1913
大正2

聖徳太子奉賛会創立

1926
大正15

五重塔空洞より舎利容器発見

1934
昭和9

昭和大修理起工式

1939
昭和14

若草伽藍跡塔心礎返還さる。石田茂作伽藍跡発掘

1940
昭和15

金堂壁画模写事業始まる

1949
昭和24

金堂炎上、壁画焼損

1950
昭和25

法相宗より独立、聖徳宗開宗

1967
昭和42

金堂壁画再現事業開始

1980
昭和55

法隆寺昭和資材帳作成発願

1985
昭和60

昭和大修理完成

1993
平成5

世界文化遺産指定

 【近代法隆寺の歴史を振り返る】

 ここで、記憶に残る出来事のエッセンスを、紹介本の飛ばし読み、走り書き風に振り返ってみよう。

 江戸末期、何とか千石の寺禄と寺地で運営維持していた法隆寺。
 明治維新により廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるなか、明治4年には境内地の上地が命ぜられ、7年には社寺の禄が全廃・逓減されることとなり、困窮の道を歩む。
 また、従来学問寺の性格であった法隆寺は、一定の宗派を名乗ることが無かったが、太政官布達により大宗派への併合を余儀なくされ、独立本山認可願いの甲斐なく、心ならずも「真言宗」所轄となる。

 明治期、法隆寺復興の最大の貢献者は住職・千早定朝。

千早定朝(真中)他明治初年

 千早が、言い知れぬ労苦のうえ興福寺と協力し「法相宗」への念願の独立を果たしたのは、明治15年のことであった。

 一方、寺の維持運営は益々ままならず、明治8年、塔頭寺院の殆んどを取り畳み、寺僧たちは西円堂御供所で合宿生活を送るなど、倹約に努めたという。
 こうしたなか、宝物の多くを売りに出す大和の古社寺も少なくない有様であったが、法隆寺では、貴重な宝物類を皇室に献納し、末永く保存されることを願うこととしたのである。寺僧協議を重ねた末、何某かの下賜金あることを期待してのことであった。

 明治11年献納の儀が決定、1万円が下賜され、当面の維持基金とすることが出来た。
 これが、御物四十八体佛などと称された献納御物で、現在その殆んどが、東博法隆寺宝物館に展示されている。

 古社寺、古仏の保存研究への動きも明治中期頃からは見られるようになった。
 明治17年には、フェノロサ、岡倉天心が夢殿秘仏・救世観音を、強引に開扉させた話は余りに有名。(この時期には異論もある)
 明治20年代には、法隆寺天智9年焼失問題が論じられるなど、後に大論争に発展する再建非再建の論議が始められている。

 近代法隆寺の祖とでもいうべき千早定朝は、明治32年没。
 早くから後継者と目されていた佐伯定胤が住職に就任したのが、明治36年、37歳の時であった。
 佐伯定胤は、法隆学問寺と伽藍の復興に情熱を燃やし、修理復興資金を得るため、明治40年、百萬塔3千基などを4万円余で処分、上御堂・聖霊院太子像をはじめ多くの修理を行う。

 またそのころ、岡倉天心が法隆寺研究と保存の必要のため「法隆寺会」設立を提案、これが大正2年の「聖徳太子(千三百年御忌)奉賛会」設立に至る。
 「奉賛会」は、各種法隆寺研究をはじめ、護持団体として、御忌法要、防災施設工事、伽藍修理などに多大の援助を与え、今日の法隆寺の基盤を築くこととなる。

 昭和にはいり、法隆寺建築世界的価値の国家レベルでの認識も高まり、百万円の巨額を投じて十カ年計画で伽藍の保存修理を行うことを決定する。
 昭和9年から始まる「昭和大修理」の始まりである。

 「昭和大修理」は、その後長きに亘り、昭和29年五重塔、金堂の解体修理落成で一区切りをつけ、第一次昭和大修理完成に至る。

 その後も、東室、大湯屋、東院回廊などの修理が継続され、昭和60年に至り、漸く「昭和大修理」無事完成を祝う法要が執り行われた。
 この修理と併行し、昭和14年には、寺外に流出し野村家に有った若草伽藍心礎石が返還されたのに伴い、石田茂作、末永雅雄等により、若草伽藍跡の発掘調査が行われた。
 この結果、世紀の大論争とも言われた法隆寺再建非再建論争も、再建説が決定的になる。

 もう一つ、昭和大修理の歴史のなかで忘れられない出来事は、「五重塔心礎中の秘宝」発見と調査であろう。
 大正15年、塔心礎のなかに舎利容器が納置されているのが発見されたが、極秘の調査が行われたのみであった。昭和24年五重塔解体修理に際し、研究者からその公開を迫る声が高まった。寺側は信仰上の立場から断固拒否、社会問題化。
 妥協案による実質調査の結果海獣葡萄鏡が確認され、再建説の裏付たるものとなった。

 昭和大修理中に多くの発見や副産物的収穫があり、法隆寺研究に多大な成果もたらし、法隆寺学の発展を見たのは云うまでもない。研究書も多く発刊されている。

 「ああ惜しや、世界的至宝。建物、壁画もろとも烏有に、模写画家たちの目ににじむ涙。」

 昭和24年1月26日未明、金堂から出火、世界的至宝といわれた壁画焼損の惨事に見舞われる。新聞見出しは、このように報じた。
 昭和15年から、日本画家による模写事業が進められていたが、その途上での痛恨事であった。
 その後、昭和42年から壁画再現が始まり、翌年完成・落慶法要が行われ、現在再現壁画が金堂壁に納められている。

 昭和25年、長老佐伯定胤は、「聖徳宗樹立法相宗からの独立」を声明する。
 法隆寺を聖徳太子の精神に返すと言うことであったが、賽銭の帰属等の財政的事由ではないかと物議をかもした。

 昭和56年には、五十年余の長きに亘った昭和大修理も完成間近になったのを機に、寺宝の大調査と整理に挑む「法隆寺昭和資材帳」の編纂が企画され、「編集委員会」が組成発足する。
 平成6年には、調査完了記念展が開催された。

 そして、平成5年12月、法隆寺地域の仏教建造物群(法起寺三重塔を含む)が我が国で初めて世界文化遺産に指定される。
 「木造の文化」を代表する世界遺産として、国際的存在として広く認知されたと言えるのであろうか。

 どうも事典の解説文のような、単調な話が続いてしまい、詰まらぬこと夥しいという風になってしまった。

 最後に、近代法隆寺の歴史を写真でビジュアルに愉しめ、平明な語り口で気楽に読める本を紹介してこの章を終えたい。

 「法隆寺千四百年」高田良信著(H6)新潮社とんぼの本

 芸術新潮の特集再編集本。近代法隆寺の出来事に関する写真が豊富に掲載されている。
 「明治5年の法隆寺」と題し、写真師・横山松三郎撮影の「壬申の調査」(町田久成等による政府の宝物調査)の時の写真が載っているのも珍しい。

   

      

inserted by FC2 system