埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百八十九回)

   第三十話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その7>奈良の宿あれこれ

(1/13)


【目次】

はじめに

1. 奈良の宿「日吉館」

(1) 日吉館の思い出
(2) 単行本「奈良の宿・日吉館」
(3) 日吉館の歴史と、ゆかりの人々
・日吉館、その生い立ち
・日吉館を愛し、育てた会津八一
・日吉館のオバサン・田村きよのさんと、夫・寅造さん
・日吉館を愛した学者、文化人たち
・日吉館を愛した若者たち
・日吉館の廃業と、その後
(4)日吉館について書かれた本

2.奈良随一の老舗料亭旅館「菊水楼」

(1)菊水楼の思い出
(2)明治時代の奈良の名旅館
(3)菊水楼の歴史と現在
(4)菊水楼、対山楼について書かれた本

3.奈良の迎賓館「奈良ホテル」

(1)随筆・小説のなかの「奈良ホテル」
(2)奈良ホテルを訪れた賓客
(3)奈良ホテルの歴史をたどる
(4)奈良ホテルについて書かれた本




はじめに


「奈良の宿」といえば、皆さん、どんな旅館やホテルの名を思い浮かべるでしょうか?


泊まりはもっぱらビジネスホテル、という方も多いことでしょう。
奈良の古寺古仏をめぐっても、宿は京都、という方も結構いらっしゃるようです。
かく云う私も、奈良泊まりは、最近ビジネスホテル専門で、奈良の文化の歴史を感じるような宿に泊まるということなど、すっかり縁遠くなってしまっています。

そこで、せめてこの「近代奈良と古寺・古文化をめぐる話」の中だけでも、近代奈良の歴史を象徴するような宿を振り返ってみることとしました。

古寺・古仏の話から、少々脱線することになりますが、奈良での観仏を終え、宿で風呂に浸かって疲れを癒すような、リラックス気分でお付き合いいただければ有難いと思います。


さて、「近代奈良の歴史を象徴する宿」というと、いずれになるのでしょう?

あれこれ、いろんな宿の名前が挙がってくるかもしれませんが、ここでは3つの「奈良の宿」を採り上げてみることとしました。


一つ目は、古寺を愛する学者や文化人、学徒たちに、愛された「日吉館」

二つ目は、奈良随一の料亭旅館、和の迎賓館といえる「菊水楼」

三つ目は、皇室も御用達の迎賓館ホテルで知られる「奈良ホテル」


やはり、奈良の宿を語るとなれば、この3つの宿をおいてはないように思います。



昭和55年(1980)頃の日吉館




料亭旅館・菊水楼




奈良ホテル


この三つの宿、随分タイプが違うのですが、それぞれの宿を訪れた人々や、その歴史を振り返って、明治、大正、昭和の奈良を偲んでみることにしましょう。



1. 奈良の宿「日吉館」


(1) 日吉館の思い出


私と同世代の奈良好きな人で、「日吉館」の名を知らない人はいないでしょう。

「奈良で日吉館を知らないヤツは、モグリだ!!」

と、本気、真顔で云われたものです。

日吉館(昭和52年・1977)
学生時代には、(もう、45年も前のことになりますが)

「日吉館」は、奈良を愛する者にとってみれば、それほどの名物旅館でありました。

日吉館は、近鉄奈良駅から登大路を東大寺の方へ向かって歩いてゆくと、奈良国立博物館の北側、登大路沿い、飛鳥園の並びにありました。

この日吉館、歌人で書家、美術史家として知られる会津八一が、奈良の定宿とし、最も贔屓にした旅館でした。
奈良にかかわる学者たちを中心に、文人、芸術家、またこうした世界を志す学徒達の溜り場、一種の文化的サロンとして、知られたものです。
足立康をはじめ、聞けば誰でも名を知るような学者たちが長期に滞在するなど、いわゆる文化人たちが入り浸っていた宿と云えるのでしょう。

一階の瓦屋根の上には、木製の大看板があがっています。

その扁額には「旅舎 日吉館」と大書されています。
会津八一の筆によるものです。



日吉館の屋根の上にかかっていた会津八一揮毫の「旅舎 日吉館」の扁額



こう綴ってゆくと、日吉館をご存じない方々は、

「どんなに瀟洒で、落ち着いた宿だったのだろうか?」

という思いを巡らせるのかもしれません。

ところが、現実の日吉館は、

「これが旅館?」

と思わずつぶやきたくなるような、粗末な古びた宿だったのでした。

私が、日吉館に泊ったことがあるのは、昭和40年代のことです。
当時は、学者さんがゆっくり泊るというよりは、大学の古美術研究会の学生たちが団体で泊る宿、というふうになっていたように思います。

結構ガタビシで、建物は傾き加減。
2階へあがる階段や廊下は、老朽化のためミシミシと泣き、冬にはすきま風が、容赦なく吹き込む。
部屋はほとんど小部屋で、四畳半に煎餅布団を敷き詰めて5、6人はあたり前の相部屋。
風呂は狭く、男女兼用で時間交代制。
手洗いは水洗ではなく旧式で、結構臭う。

こんな感じで、旅館というよりは、木賃宿、下宿宿といった方があたっていたように思います。

「これが、学者や文人が集った、あの『奈良の宿 日吉館』なのか?」

と、素直にそう思いました。

昔は立派な造りだったのかというと、そうでもなくて、ずっとこんな感じの粗末な宿で、五十歩百歩であったようです。


そんなみすぼらしい宿でも、「日吉館」が、学者や文人からこよなく愛されたのは、日吉館の女主人、田村きよのさん、その人に負うものといって過言ではありません。
旅館業で儲けるといったことなど全く眼中になく、奈良を愛する人々、学徒を支援するためだけに旅館を営んでいるという人でした。



日吉館の名物女将・田村きよのさん



日吉館の名物は、何と言っても夕食の「すき焼き」です。

大量に肉と、大盛りの野菜がでました。
皆で、いくつものカンテキ(カンテキは関西弁で、七輪のこと)を運んで鍋をかけ、たらふくすき焼きを食べることが出来たのを思い出します。
当時(昭和45〜6年頃)の宿代は、たしか2000円ぐらいだったような記憶があります。

「2000円やそこいらで、このすき焼きの肉が本当に変えるのだろうか?」
「こんな宿代で大丈夫なのだろうか?」

と、学生気分の私でも、ちょっと心配になったほどです。
これでは、宿の改修に回る金などあるわけなく、ガタビシのままでも仕方ないと、私でも納得しました。

夕飯が済むと、名物女将の田村きよのさんから、著名な学者の名が並んだ昔の宿帳や、会津八一の歌の色紙などを、直に手に取って見せてもらい、当時の話を聞かせてもらいました。

「こんな大事なもの、私などが手に取ってもいいのだろうか?」

と、おっかなびっくりでしたが、

「オバサン」は気さくに取出し、私たちを感激させてくれました。
きよのさんのことは、皆、「オバサン、オバサン」と呼んでいました。
「オバサン」と呼んでも、何の違和感のない、人柄なのです。


実は、かく云う私は、日吉館に2度しか泊ったことがあいません。

関西在住であったので、奈良は日帰り、奈良で宿に泊まるということは、まずなかったからです。
その程度の者は、云ってみれば「モグリ」で、日吉館常連だった皆さんからは、

「語る資格なし」

と断じられても仕方ありません。

関西人で奈良に泊まる必要のない私などにとっても、「日吉館」は、何としてでも一度は経験してみたい「憧れの奈良の宿」でした。


「奈良の宿・日吉館」は奈良を愛する人たちの宿として、折々、多くの随筆などで語られているのは、ご存じのとおりです。

日吉館が登場する「平城山を越えた女」
なんと、こんなミステリーにも登場します。

前話で紹介した、新薬師寺香薬師盗難事件を題材にしたミステリー、「平城山を越えた女」にも、「日吉館」が登場するのです。

主人公・浅見光彦が奈良へ出かけたのは、「日吉館が消える(廃業する)」という特集記事の取材のため、という設定でした。
香薬師像を盗んだ学徒5人も「日吉館」に泊まっていたというストーリーになっています。

こんなミステリーの題材になるほど、奈良の名物旅館として知られていたということなのでしょう。


この「日吉館」の話に、相槌を打ち懐かしむ方々は、還暦前後より年配の人たちかも知れません。

一度、泊まりに出かけてみようかと思っても、残念ながら「日吉館」は、今はもうありません。

日吉館は、女将・田村きよのさんが高齢となり、昭和57年(1982)にいったん廃業します。
その後、ボランティアのサポートで、会員制で営業を再開したましたが、田村きよのさんの体調悪化のため、平成7年(1995)、完全に廃業となりました。

日吉館の建物は、廃業後も残されていましたが、老朽化した建物が危険な状態になり、平成21年(2009)6月に取り壊されました。

今は、この地に新しい建物が建てられており、昔の「日吉館」を偲ぶことはもう叶いません。


この奈良の名物旅館「日吉館」の歴史やエピソードなどを、これからたどってみることとしたいと思います。



(2)単行本「奈良の宿・日吉館」


一冊の本があります。

「奈良の宿・日吉館」という単行本です。


「奈良の宿・日吉館」 太田博太郎編 (S55) 講談社刊 【242P】 1500円





本の帯には、このように書かれています。

「『奈良の芸術院』といわれ、多くの学者、文人墨客の心の柱とまで讃えられる日吉館の夫妻の、人間味溢れる人生記録」

この本は、日吉館のオバサン、田村きよのさんが、70歳の古稀を迎えた記念に出版された本なのです。



古稀(70歳)を迎えた、田村きよのさん



田村きよのさんが古稀を迎えられたのを機に、「日吉館のオバサンに感謝する会」が設けられました。

会の代表は、日本建築史学界の大御所、太田博太郎氏です。

太田博太郎氏
本書の巻末に、会の賛同者378名の氏名が列記されており、その篤志によって、この本が出版されることになったのだと思います。

378名の氏名を眼で追っていくと、誰もが知る名だたる学者、文士、芸術家などなどの名が目白押しに並んでいます。

入江泰吉、大岡實、大橋一章、小川光三、香取正彦、亀田孜、草柳大蔵、久野健、小杉一雄、島村利正、杉本健吉、鈴木嘉吉、須田剋太、竹田道太郎、田澤坦、辻惟雄、西川新次、藤本四八、松田権六、などなど

こんな名前が、眼に入ってきます。

奈良の美術文化にかかわりのある著名人の名を、全部列記したような有様で、こうした人々にとって、如何に日吉館が「思い出の奈良の宿」であったか、「オバサン」が親しまれ愛されていたのかが、よく判ります。


本の内容は、二部構成になっています。

青山茂氏が執筆した「日吉館の星霜〜田村キヨノ半生記」と題する読み物と、各界著名人が「日吉館の思い出などを綴った随筆、寄稿文」で構成されています。

随筆・寄稿文の目次と執筆者を、ご覧に入れておきます。







執筆者の面々と、その題名をご覧になってもまた、著名な学者、文化人が、日吉館とオバサンの大ファンであったことが偲ばれます。

この本をじっくり読んでいただければ、「奈良の宿・日吉館」のことは、完全マル判りの一冊だと思います。
日吉館の歴史や、日吉館を愛し育てた学者や文化人たちのエピソード、名物女将のオバサン・田村きよのさんの人柄や魅力が、ふんだんに盛り込まれています。


これからの「奈良の宿・日吉館」の話も、この本に書かれていることのつまみ食いを中心に、綴らせていただきたいと思います。


 


       

inserted by FC2 system