埃
まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百八十回)
第二十九話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま
〈その6>奈良の仏像盗難ものがたり
(2/10)
【目次】
はじめに
1. 各地の主な仏像盗難事件
2. 奈良の仏像盗難事件あれこれ
(1) 法隆寺の仏像盗難
・パリで発見された金堂阿弥陀三尊の脇侍金銅仏
・法隆寺の仏像盗難事件をたどって
・法隆寺の仏像盗難についての本
(2) 新薬師寺・香薬師如来像の盗難
・失われた香薬師像を偲んで
・香薬師像盗難事件を振り返る
・その後の香薬師像あれこれ
(3) 東大寺・三月堂の宝冠化仏の盗難事件
・宝冠化仏盗難事件の発生
・宝冠化仏の発見・回収と犯人逮捕
・三月堂宝冠化仏盗難事件についての本
(4) 正倉院宝物の盗難事件
・正倉院の宝物盗難事件について書かれた本
(5) その他の奈良の仏像・文化財盗難事件をたどって
2.奈良の仏像盗難事件あれこれ
さて、そろそろ奈良の古寺で起こった仏像盗難事件について、振り返っていくこととしたい。
ここでは、冒頭でふれたように、昭和の奈良での二大仏像盗難事件、
■東大寺三月堂・不空羂索観音の宝冠化仏の盗難事件
■新薬師寺・香薬師像の盗難事件
を採り上げることとしたいが、それに加えて、
■パリ・ギメ美術館で発見された、法隆寺金堂西の間・阿弥陀三尊像の脇侍・勢至菩薩像流出の謎と、法隆寺の仏像盗難事件
■正倉院宝物盗難事件の歴史
についても、併せて振り返ってみたい。
(1)法隆寺の仏像盗難
【パリで発見された金堂阿弥陀三尊の脇侍金銅仏】
平成元年(1989)、パリのギメ博物館の収蔵庫に保管されていた小金銅仏が、あるフランス人研究者の眼を惹いた。
パリ・ギメ美術館
調査の結果、この小金銅仏が、法隆寺金堂の西の間に安置されている金銅・阿弥陀三尊像の失われていた右脇侍、勢至菩薩像に間違いないことが判明した。
|
ギメ美術館展示の勢至菩薩像
|
この阿弥陀三尊像は、運慶の子息・康勝が寛喜3年(1231)に制作したもので、重要文化財に指定されている鎌倉前期の名作だ。
「大変な、大発見!!」であった。
この「ギメ美術館所蔵の金銅勢至菩薩像」、
いかにして法隆寺から失われたのであろうか?
法隆寺から盗み出されたものなのであろうか?
法隆寺の現長老の高田良信氏は、この金銅仏が発見された際、
法隆寺の金堂の主尊である阿弥陀三尊像の脇侍を、明治の廃仏棄釈の折と雖も、法隆寺自身が売却するということは考えにくく、いつの日か法隆寺から盗まれた仏像のうちの一躯なのではないかと思われる。
このように考えを示している。
まずは、ギメ美術館での小金銅仏像発見の顛末と、この像が「法隆寺金堂西の間の阿弥陀三尊像の脇侍」であることが判明したいきさつをたどってみたい。
|
ベルナール・フランク
|
この金銅勢至菩薩像を、ギメ美術館の収蔵庫から発見したのは、ベルナール・フランク教授(コレージュ・ド・フランス教授、フランス学士院会員)であった。
フランク教授は、1989年、この年、西武デパートで開催されることになった美術展
「甦るパリ万博と立体マンダラ展〜エミール・ギメが見た日本のほとけ信仰〜」
への出展準備で、収蔵庫を調査していた時、「この小金銅仏」に目を惹かれた。
この像は、「中国製の観音」として登録されていた。
フランク教授は、この像を検討するため、奈良六大寺大観の図版を見ていた処、法隆寺金堂阿弥陀三尊の左脇侍・観音菩薩像と「瓜二つ」であることに気が付いたのであった。
法隆寺金堂西の間・阿弥陀如来像
法隆寺では、この阿弥陀三尊像の右脇侍・勢至菩薩がいつの日か失われてしまい、身代わりの金銅菩薩像が安置されるようになっていたのであった。
身代わり像は、白鳳時代の小金銅仏で、観音菩薩の像容のものであり、失われた勢至菩薩を補ったものであることは、明らかであった。
失われた勢至菩薩の代わりに安置されていた 身代わり観音像(白鳳)
フランク氏は、
「ひょっとしたらこの像は、本来の右脇侍の勢至菩薩像なのではないか?」
との疑問をもった。
日本から、仏教美術史学者の久野健氏がパリに赴いた折に調査したところ、阿弥陀如来の脇侍である可能性が極めて高いとの調査結果となり、1992年「文化財審議会」で、この小金銅仏が、法隆寺金堂阿弥陀三尊の脇侍であることが認められたのであった。
その後、このギメ美術館の勢至菩薩像は、平成6年(1994)に、一時的に日本に里帰りすることになった。
奈良国立博物館をはじめ全国巡回展となった「国宝法隆寺展」に出展された。
その折、法隆寺金堂西の間に、阿弥陀如来像、左脇侍・観音菩薩像と共に、当初の阿弥陀三尊像の形にして安置された。
. ギメ美術館蔵・勢至菩薩像 法隆寺金堂・阿弥陀如来脇侍観音菩薩像
当初の安置に復元された法隆寺金堂・阿弥陀三尊像(勢至は模像)
一時的であるが、往時のそのままの姿を偲ぶことが出来たのであった。
なんと百年余を経て、この両脇侍は再会することが叶い、本来の三尊像として祀られたのであった。
この里帰りの折、ギメ美術館像を原形とした金銅模造(お身代わり像)が造られ、現在では、法隆寺金堂西の間には、「模像のお身代わり像」を右脇侍として、阿弥陀三尊像が安置されている。
ところで、
・この勢至菩薩像は、何時頃法隆寺から失われたものであろうか?
盗まれたものだろうか?
・また、エミール・ギメは、どのようにしてこの仏像を入手したのであろうか?
|
エミール・ギメ
|
エミール・ギメはフランスの実業家であるが、古美術の収集家で旅行家でもあった。
ギメは、1876年(明治9年)、日本、中国、インドの宗教調査旅行へと旅立つ。
この時、日本では神仏像600体余り、300点以上の宗教画、和漢の文書1000冊以上を収集している。
勢至菩薩像も、この時入手したものだろうと思われている。
ギメは、この時の東洋旅行で収集したコレクションをベースに、「宗教博物館」を設立する。
1928年には国立美術館に編入され、現在のパリに在る「国立ギメ東洋美術館」となっている。
1945年には、ルーヴル美術館東洋部のコレクション全体がギメ美術館に移され、アジア以外で最大の東洋美術コレクションを誇る美術館として知られている。
ギメ美術館
問題の小金銅仏「勢至菩薩像」は、背中に古い紙で美術館創設時のカタログ番号を記したシールが貼られており、美術館創立の1879(明治12年)以前に入手されたものであることが確認されている。
そのことから、ギメが明治9年(1876)に来日した時に入手したことは、間違いないと考えられるそうだ。
|
仏像コレクションを手に取るギメ
|
ただ、法隆寺がこの金銅仏を、ギメに(直接)売却したということは考えにくいらしい。
高田良信氏は、
ギメは、明治9年8月下旬に横浜に到着し、11月初旬に神戸から出国しているが、その間鎌倉、日光、東海道、伊勢、京都などは訪れたが、法隆寺に立ち寄った形跡は全くないこと。
また、法隆寺が金堂の阿弥陀三尊脇侍という信仰上重要な仏像を、廃仏毀釈の嵐のなかと雖も、わざわざ選んで売却することも考えられないこと。
から、そのように考えられている。
ギメは、関西滞在時に、いつの頃か法隆寺から失われたこの金銅勢至菩薩を、古美術商などから購入してコレクションになったものではないだろうか?
それでは、この金銅勢至菩薩は、いつ頃法隆寺金堂からから姿を消したのであろうか?
残念ながら、
「この勢至菩薩像が法隆寺から失われた」
という記録は残されていない。
ただ、天保7年(1836)から明治21年(1888)の間に、法隆寺金堂から失われたことは間違いないようだ。
本像の発見紹介論文を記している久野健氏は、その論文上で、
天保7年(1836)に撰述された「斑鳩古寺便覧」の記述によると、法隆寺金堂西の間に観音・勢至菩薩像が間違いなく存在していたと思われるが、
明治21年(1888)に作成された「法隆寺伽藍仏像及び什宝番号牒」の記述では、阿弥陀如来像の脇侍が木像に変わっている
(「ギメ美術館の金銅勢至菩薩像」仏教芸術202号1992)
ことから、そのように考えられると述べている。
結局のところ、ギメ美術館の金銅勢至菩薩像が、法隆寺から失われた事由は、解明できていない。
法隆寺の宝物や仏像は、たびたび盗難に遭っていたという記録は多く残されており、この勢至菩薩像も、江戸時代の末から明治初年にかけて盗難に遭ったものなのではないだろうか。
その仏像が売りに出されて、明治9年(1876)、たまたま来日中のエミール・ギメの手に渡り、ギメ美術館のコレクションとして現在まで伝えられたと考えるのが、一番穏当な見方のようだ。
この勢至菩薩像は、結果として海外に流出してしまったということになるのだが、ギメの手に渡りコレクションに加えられていなかったら、国内にあったとしても現在まで伝えられたかどうか危ういところと思われ、法隆寺とギメ美術館に離れ離れになってしまっているとしても、長らく大事に収蔵保管されてきたことを喜ぶべきなのであろう。
法隆寺金堂・阿弥陀三尊像
|