埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百七十七回)

   第二十八話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その5>仏像の戦争疎開とウォーナー伝説

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【目次】


1.仏像・文化財の戦争疎開

(1)東京帝室博物館の文化財疎開

(2)正倉院と奈良帝室博物館の宝物疎開

(3)博物館と正倉院の宝物疎開・移送について書かれた本

(4)奈良の仏像疎開

・興福寺の仏像疎開
・東大寺の仏像疎開
・法隆寺の仏像疎開

(5)奈良の仏像疎開について書かれた本

2. ウォーナー伝説をめぐって

(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり

(2)ラングトン・ウォーナーという人

(3)「ウォーナー伝説」真実の解明




(3)「ウォーナー伝説」真実の解明


「ウォーナー伝説」は、真実であったのだろうか?

いよいよ、その真実の解明についての話を紹介する時が来た。


ここで、
「ウォーナー伝説」と
「アメリカは、奈良や京都の爆撃を回避し文化財を守った」
という話が、どんなストーリーであったのかを、もう一度整理しておきたい。

矢代幸雄氏の調査などによると、このように言われている。

・アメリカは第二次大戦下において
「戦争によって災害を受けてはならない貴重な文化財をすべての戦争地域にわたって保護する」
ことを目的に、学者、知識人を中心とする組織(委員会)を組成した。

・その委員会は
「戦争地域における芸術的歴史的遺跡の保護・救済に関するアメリカ委員会」
というもので、委員長の名をとり、通称「ロバーツ委員会」と呼ばれた。

・ロバーツ委員会の委員であったウォーナー博士は、日本の文化財についてのリスト(通称ウォーナーリスト)を政府に提出したうえで、
「少なくとも京都や奈良だけは爆撃しないように」
との建言、懇請を行った。

・その結果、政府や軍を動かして、「日本の歴史的古都を空爆目標から除外すること」に成功したのだ。

これが「ウォーナー伝説」のストーリーである。


この伝説が、本当に真実であるのかに疑問を抱き、徹底的な調査解明に取り組んだ人がいた。

吉田守男という研究者(樟蔭女子短期大学教授)だ。

吉田氏は、平成4年(1992)に一年間の自由課題の国内研修の機会を得た時に、母校・京都大学で、アメリカから情報公開資料などの関係資料を取り寄せるなどして、その真実の解明にあたった。

その研究によって得た結論は、

「ウォーナー伝説は真実ではなく、米軍は日本の歴史的古都保存の観点から奈良・京都の爆撃回避を行ったという事実は、全く無い。」

というものであった。


研究内容は、平成7年(1995)、

「京都に原爆を投下せよ〜ウォーナー伝説の真実」

という題名で、単行本として出版された。

私は、一読して、これまでの常識を覆す「驚きの内容、真実」にびっくりしてしまった。
しかし、詳細な調査研究、解明に基づく労作で、これは間違いのない事実のようだ。


吉田氏は、次の4つの観点から、「ウォーナー伝説」の真実の解明を行っている。

@「ロバーツ委員会」の真実の目的、役割性格は、何であったのか?

Aウォーナーリスト(日本の文化財リスト)は、何のために作成されたのか?

B奈良や京都が、空襲爆撃されなかった真の事由は何か?

C終戦後、何故「ウォーナー伝説」が生まれ、世に喧伝されていったのだろうか?



詳しくは、吉田氏の著作を読んでもらうしかないが、ここで、その結論のエッセンスを紹介しておきたい。


@先ず、「ロバーツ委員会」の真実の目的、役割性格については、


ロバーツ委員会の報告書
このロバーツ委員会の最大の目的は、ヨーロッパ戦線において

「ドイツなど枢軸国が、連合国から略奪した文化財を如何に安全に取戻し、元の所有者に返還するか」

というもので、極東戦線向きにはほとんど人材が向けられていない。(230人中7人のみが極東担当)

日本の文化財については、さほどの関心事ではなかった。

委員会の目的の一つに謳われている「占領地域での文化財の保護」とは、例えばドイツ領土の炭鉱やトンネルなどに隠されている(略奪)美術品などの文化財を、安全な場所に移転して、返還に備えて保管することを指している。
決して、敵国の歴史的古都や文化財を守ろうという主旨ではなかった。

と、述べている。

要するに、略奪された文化財を、保護して取り戻すために組成されたのが「ロバーツ委員会」なのだということだ。



ロバーツ委員会の発足を報じるニューヨークタイムズ(1943.9)



A次に、いわゆる「ウォーナーリスト」については、

通称ウォーナーリストの表紙
「ロバーツ委員会」は、各国別の文化財リストを40種類も作成している。
「ウォーナーリスト」(日本の文化財リスト)も、それらの中の一つであった。

こうした文化財リストが作成された真の目的は、文化財保護のためではなく、

・占領地域において枢軸国が隠匿した文化財を発見した時、どの美術館から略奪され、どの国に返還されるべきものかを識別するため

・略奪文化財の紛失、破損などに対して、これを弁償するための等価値の文化財の検証用リストを作成しておくため

というものであった。

ウォーナーリストを見ると、リストアップされた文化財が、*印の数により4等級に区分されて、重要度ランク表示がされている。
これは、日本が略奪した文化財が紛失、破損していた場合に、それに匹敵する等価値の文化財を弁償用に選び出すためのランク付けあった。





ウォーナーリストに挙げられた文化財一覧



ウォーナーは、リストの序文で、

「日本の図書館一般に関連して、中国の図書館が略奪され、その資料が東京帝国大学図書館やおそらく他の同様の倉庫に運び込まれたことを、念頭に留めるがよい。

失われた資料が返還せれるために・・・・・・・・その内容がそのまま残っていることを確かめる必要がある。」

このように、述べている。

ウォーナーリストが作成されたのは、略奪文化財調査と弁償用文化財選定が目的であった。
本当だろうかと、驚いてしまう話だが、リストに、東洋文庫や東京帝大図書館、早大図書館、慶応大図書館などが挙げられている。
そのことからも、略奪文化財調査用の意味があった、というのもうなずける話だ。

また、敗戦後の一時期、法隆寺が解体されてアメリカに持ち去られるとか、法華堂の疎開仏像などもアメリカに持って行かれるといったうわさが流れたことがあったのも、まんざら、全くのデタラメ話ではなかったのかもしれない。



B何故、奈良や京都が爆撃されなかったのかという事由には、衝撃的ないきさつが語られている。


まず、奈良の爆撃については、次のとおり。

アメリカ軍は、中小都市の爆撃をする優先度として、建物の密集度、軍需工場の有無、年の大きさと人口、レーダー爆撃可能か、などを挙げていた。
そして、都市爆撃の目標として180都市がリストアップされ、人口の多い順に並べられてていた。

奈良は80番目、鎌倉は124番目に位置付けられていた。
奈良、鎌倉が爆撃されなかったのは、爆撃優先度が劣位にあったからで、文化財を多く有する歴史的古都であったからではなかった。
奈良爆撃の順番が回ってくるまでに終戦になったということで、そろそろ危なかったと思われる。


次には、最大の謎とも云える、京都爆撃の問題だ。

京都が、本格的な爆撃に遭わなかったのは、「原爆の投下目標の都市」の一つに指定されていたからであった。

日本への原爆投下都市候補が最初に決められたのは、1945年(昭和20年)5月のこと。
この時、京都をはじめ、横浜、小倉、広島の4都市が候補地に指定され、その後横浜が外されて、新潟が追加された。

京都は、最高ランクのAA級目標とされ、選定事由としては、

「人口100万を有する都市工業地域である。日本のかつての首都であり・・・・・
心理的観点から言えば、京都は日本の知的中心地であり、そこの住民は、この特殊装置のような兵器(原爆)の意義を正しく認識する可能性が比較的大きいという利点がある。」

というものであった。

そして、原爆投下候補都市には、原子爆弾の威力を出来るだけ正確に測定するため、
「原爆投下までは空襲爆撃を回避する」
ことにされたのであった。

こういう観点から調査すると、原爆投下目標となった都市は、候補にラインアップされていた期間中は空襲爆撃を受けていない。
その証左に、
京都は、候補都市とされる昭和20年(1945)5月までは、散発的な爆撃に遭っていたが、それ以降は全く爆撃を受けていない。

京都は、原爆投下の最有力候補都市であり、広島、長崎への投下の直前期まで、投下予定都市となっていたのだ。

吉田氏は、このように解明し、

「京都が歴史的文化財を有する古都だから温存する」

といった観点の議論がなされた形跡はないと主張している。


それでは、最終的に、京都への原爆投下が回避されたいきさつは、どうだったのだろうか?

吉田氏の調査研究によると、このような事情によるということだ。

「マンハッタン計画」(原爆開発投下計画)の総指揮官として、開発と投下の現場責任者であったグローブス少将は、投下直前期まで、京都への投下を強く主張していた。
グローブス少将

これに反対して、京都への投下を回避したのは、グローブスの上司であった陸軍長官・スティムソンであった。
グローブスとスティムソンの間には、京都投下をめぐって、かなりの意見対立があり軋轢が生じたようだ。

相当期間の議論があったのち、原爆投下命令(7月25日)の数日前、スティムソンが京都を投下都市から外すよう、有無を言わせずに「命令」したというのだ。

スティムソンは、何故、意見対立の中で強引に京都を外したのであろうか?


こうしたいきさつから「スティムソン恩人説」というものが唱えられたこともある。

このことについて吉田氏は、

スティムソンは、京都の歴史的遺産や文化財保護の観点から、そこまでの意見対立を超えて、京都原爆投下を回避したのではない。
スティムソン陸軍長官
スティムソンは、終戦後に展開される占領政策を展望して、京都爆撃を回避したのだ。
米ソ対立が進行しつつあった国際情勢の中では、日本のアメリカ単独占領が国際的非難を受けることなく、円滑統治を実現する必要がある。

それは、日本人の協力なしには考えられない。

「スティムソンは、京都を原爆によって全滅させた結果、生ずる恐れのある日本人の反発が、間接統治下の占領政策の円滑な遂行を妨げ、ひいてはその失敗が戦後アメリカの歴史的地位にとって汚点になることを恐れていた。」

それ故に、京都への原爆投下回避を決断したのだ。

このように、述べている。


まさに、文化財保護という観点ではなく、極めて政治性、戦略性の強い、冷徹な意思決定によるものであったということだ。



 


       

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