埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百六十七回)

   第二十八話 近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 思いつくまま

〈その5>仏像の戦争疎開とウォーナー伝説

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【目次】


1.仏像・文化財の戦争疎開

(1)東京帝室博物館の文化財疎開

(2)正倉院と奈良帝室博物館の宝物疎開

(3)博物館と正倉院の宝物疎開・移送について書かれた本

(4)奈良の仏像疎開

・興福寺の仏像疎開
・東大寺の仏像疎開
・法隆寺の仏像疎開

(5)奈良の仏像疎開について書かれた本

2. ウォーナー伝説をめぐって

(1)ウォーナー伝説の始まりと、その拡がり

(2)ラングトン・ウォーナーという人

(3)「ウォーナー伝説」真実の解明




1.仏像・文化財の戦争疎開


この写真をご覧になったことがある方は、結構おられることだろうと思う。

東大寺三月堂に疎開から戻ってきた仏像
東大寺三月堂の四天王像などが、疎開先から戻ってきて、お堂に搬入されるところの写真だ。
入江泰吉が撮影した、大変貴重な写真である。

昭和20年11月のことであった。

三月堂の多くの仏像たちは、太平洋戦争の空襲、戦災による罹災を逃れるために、安全な円成寺や正暦寺に疎開していたのだった。

入江は、大阪空襲で焼け出され、生まれた奈良の地に引揚げていた時、終戦となり、たまたま二月堂の裏参道で、疎開先から戻される仏像を運ぶ一行を目撃した。
この写真は、入江が
「せめて写真に記録しておこう」
と、シャッターを切ったものだそうだ。

入江泰吉は、このことがきっかけの一つとなり、奈良の仏像の写真の撮影をはじめるようになる。
疎開から戻る仏像たちに遭遇したことが、入江に仏像写真を撮影させることになり、そのことが、仏像写真家、奈良の写真家としての途を歩ませることになったのだった。

この時の衝撃的な思い出を、入江は自伝「大和路に魅せられて」にこのように綴っている。
ちょっと長くなるが、ご紹介しておきたい。


「こうした日々の中で、私は暇をみては古寺遍歴を続けていたが、師走に入ったある日、東大寺の三月堂を訪れた。
(筆者注:師走は入江の記憶違いで、記録によると11月のことであったと考えられる。)

今にも雨が降り出しそうな曇り空の日で、風が冷たかった。
石段を上りつめ、一息入れながら何気なく二月堂の裏参道のあたりに目をやると、異様な列がぞろぞろとこちらへ向かってくるのである。
よく見ると、うす汚れた青い詰襟服にゲートル姿の一行は、四つの担架を担いでいて、その担架には白布にくるまれた人間らしい姿が横たわっていた。

一瞬、息をのんだが、近づいてくるのを見ると、人間よりはるかに大きく、やっとそれが三月堂の仏像であることに気づいた。
四天王像が、疎開先の山城のさる山寺から帰ってきたのである。
担いでいたのは囚人たちだった。
うす暗い三月堂礼堂の床に、白布にくるまれたまま寝かされた四体のみ仏の姿は痛ましかった。
虚空をつかむかのように腕を伸ばした多聞天などは、いかにもその姿が人間のように見え、いっそう痛々しく感じられた。
戦禍はみ仏の世界にまで及んでいたのである。

堂内の詰所に立ち、行列につき添ってきた監視員と、堂守りとが話すのを聞くともなく開いているうちに、私は愕然とした。

『アメリカが京都や奈良を爆撃しなかったのは、わが国の古美術品が欲しかったからで、おそらくこの仏さまたちも、いずれはアメリカに持ち去られるだろう。
無条件降伏である以上、日本は拒むわけにはいかないのだから、仕方がない』

というのであった。

実に意外な話であり、単なる噂にすぎないのではと思う半面、歴史の浅い国であるアメリカとしてはほんとうかもしれないと思い、呆然とした。
私にとって心の拠りどころ、安らぎであったばかりでなく、日本人全体にとって欠けがえのない文化遺産である仏像が国外へ持ち去られることになどなったら、たいへんなことだ。

私は動転しながらも、その時ふと、

(そうだ、自分はカメラマンではないか。
せめて写真に記録しておこう。
いや、そうすることが私の使命ではないか)

と意を決した。

まず撮影機材を調えなくてはならない。

・・・・・・・・・

しかし、仏さまをいつ持ち去られるかしれない、という懸念があり、ともかくも撮影にとりかかった。
最初に手掛けたのは、忘れもしない東大寺戒壇院の四天王像であった。」


今でも、ジーンと心の底に響く、味わい深い文章だ。

私は、この入江の撮った写真を見るまでは、また入江の自伝を読むまでは、奈良のお寺の仏像たちが、戦災を避けるために疎開をしていたなどということは、全く知らなかった。

・奈良は、戦災に遭わなかったと思っていたけれども、仏像は疎開したのだ。

・どこの寺も、興福寺や法隆寺といった寺も皆、仏像疎開したのだろうか?

・国宝と云われるような仏像は、ご本尊でもなんでも全部疎開したのだろうか?

・奈良の博物館にあった仏像や文化財は、どうしたのだろうか?

・仏像もそうだけれども、正倉院の貴重な宝物はどうしたのだろうか?やはり疎開したのだろうか?

こんな疑問と興味が、むくむくと頭をもたげてきた。
誠に興味津々の話であった。


終戦前後の「仏像疎開」のエピソードなどは、奈良の著名寺院についての本の中でも、ほとんどと云って良いほど、採り上げられていない。
仏教美術の話の本筋から外れているから、当然と云えば当然だろう。

ただ、奈良の寺々や仏像の「近代、現代の歴史」のなかで、「仏像疎開」に話は、しっかり振り返っておくべき大事なテーマという気がして、是非、この「近代奈良と古寺・古文化をめぐる話」シリーズの中の「一話」に入れてみたいものと思った。

ちょっとその気になって、「仏像疎開」のことに触れた本や執筆文を、腰を入れて探してみた。
そうしてみると、余り知られてはいないが、「文化財の戦争疎開」や「仏像の戦争疎開」について綴られた本や文章がいくつかあるのを、見つけ出すことができた。
見つけ出した資料を読み進んでいくと、奈良の「文化財疎開、仏像疎開」は「このような形で、このように進められた」ということが、おぼろげながら知ることができた。

私の知ることができた限りということで、博物館の文化財や奈良の仏像の戦争疎開の話を、これからご紹介してみたい。



(1)東京帝室博物館の文化財疎開


奈良の仏像たちが、空襲に備えて戦争疎開をするのは、太平洋戦争最末期のことである。

記録をたどると、興福寺の仏像の疎開が始まったのが、昭和19年(1944)3月末のこと。
だが、多くの仏像が疎開したのは、もっと後のことで、昭和20年(1945)6〜7月にかけてのことだ。

ご存じのとおり、終戦は、昭和20年(1945)8月15日。

アメリカの本土空襲が始まったのは、日本の敗色が濃厚になる昭和19年(1944)からのことで、東京大空襲は昭和20年3月10日、大阪大空襲は昭和20年3月13日と6〜7月にかけてのことであった。

奈良の仏像疎開は、空襲、戦災が緊迫の度を加え、切羽詰まったギリギリのタイミングで行われたようだ。 空襲が少なかった奈良でも、終戦間近になって、戦災遭遇リスクが深刻化、現実化し、「仏像疎開」に踏み切ったということなのだろうか?

こうした戦争末期に至るまで、貴重な文化財を、戦災のリスクを避けて疎開させるということは、何処でも全く行われなかったのだろうか?

首都東京では、どうだったのだろうか?

奈良の文化財・仏像疎開の話に入る前に、首都東京に在った、「東京帝室博物館」の文化財疎開について、振り返ってみることとしたい。


【奈良帝室博物館への疎開移送 S16/8〜】

首都、東京の東京帝室博物館の文化財の戦争疎開について調べてみて、その始まりの時期を知って驚いた。

東京帝室博物館
びっくりするほど早くから「文化財を戦災から守る対策」が進められていたのだ。
なんと、昭和16年(1941)8月から11月にかけて、法隆寺献納宝物をはじめとして東京帝室博物館の最優秀館蔵品の一部を、奈良帝室博物館へ移送(疎開)させていたのであった。

この頃は、まだ日中戦争の頃で、アメリカとの太平洋戦争は始まっていない。
太平洋戦争は、昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃で開戦となる。

奈良帝室博物館へ疎開決定、開始の頃は、国内はごくごく平穏であったはずだ。
日本本土が戦災に巻き込まれるとか、空襲に遭うとかいうことは、一般国民にとっては、全くと言っていいほど想定外であったのではないだろうか?

東京帝室博物館が、「有事の際」(有事とは、「空襲其他戦闘行為」を指した)に備えて、「御物ならびに保管美術品等」の処置について協議を開始したのは、昭和16年2月のこと。
太平洋戦争開戦の10か月も前のことであった。

「昨今国際情勢の緊迫に鑑み、万一の有事の際、空襲その他戦闘行為による之が毀損又は滅失の危険を避くる方法をあらかじめ考慮」

しておく必要があるからだとされた。

具体策として、
・上野附近の崖地に横穴式の倉庫を作る。
・御料地内に百二十坪の耐震耐火の倉庫を建てる。
という案が出された。

ところが、保管適性や実現性の問題から取りやめとなり、博物館の構内に深さ20尺・300坪の木造防空地下室を造ることになった。
この計画も、結局のところは、ズルズルと繰延べられ、実現には至らなかった。

奈良帝室博物館・本館収蔵庫
こうしたなか、8月には、とにかく最優秀品を、奈良帝室博物館の鉄筋コンクリート倉庫に移送することになった。
移送されたのは、
「館蔵中の最優秀品227点と、お預かり中の法隆寺献納御物108点の合計337点」
であった。
8月18日から11月8日にかけて、4回に分けて疎開移送されている。

奈良帝室博物館への移送関係書類
疎開地に奈良が選ばれた理由は、

「軍部調査によれば、奈良は宮内省関係地方として、防空上第一位に属する安全地帯なり」

とされたことによる。

何ゆえ、奈良が防空上の安全地帯とされたのだろうか?
奈良には軍事施設・軍需工場など攻撃目標になるものが少なかったからであろうと云われている。

それにしても不思議なのは、神がかり的な戦意高揚がはかられ、日中戦争では戦勝の連続と喧伝されていたこの時期に、極めてリアルな状況判断、決断がなされていることである。

紀元2600年記念・正倉院御物展目録
前年、昭和15年11月には、皇紀2600年にあたり、正倉院の秘宝が東京で初めて公開されることとなり、41万を超える未曾有の大盛況の参観であった矢先の頃だ。

世の中では、誰も本土空襲など頭になかった時期に、宝物疎開を決断しているのだ。
軍部は、館蔵品疎開などというと「敗北主義的だとか、必勝決意に欠ける」といった言い掛かりをつけて、これを阻止しなかったのだろうか?

当時の博物館総長・渡部信は、「アメリカと戦争すれば負ける」と、秘かに語っていたと云われる。
リスク対処策を、先手で売ったということなのだろうか?

それにしても、あまりに早すぎると思われるほどの宝物疎開が実現したのは、

・「皇室の御物を何があっても安全にお守りする」という金科玉条が、何をおいても優先したこと。
・軍部も帝室御物の前には頭を下げるということ。

が、背景にあったのではないだろうか。

但し、疎開移送にあたっては、戦時下の世間の人々にいたずらに不安感を与えぬようにとの要請から、このことを内密とし、なるべく目立たぬように何回にも分けて静かに移送されたとのことだ。

その後、太平洋戦争開戦となり、戦況も厳しくなる中、東京帝室博物館からの館蔵品疎開は、次々と諸方面に行われていくようになる。



 


       

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