埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第十五回)

  第五話 近代日本の仏教美術のコレクターたちの本《その2》(3/5)

《その2》  我が国のコレクターたちをたどって

 

 《耳庵・松永安左ェ門》

 「釈迦金棺出現図」

 平成13年東博で開催された【松永耳庵コレクション展】で、私はこの仏画をはじめて見た。さすがに見事な一幅。原三渓に「此種の画に於て、殆んど類を断ち、群を絶す、・・・実に稀世の宝たり」(三渓帖草稿)と言わしめただけのことはあると、独り納得した。

 「電力の鬼、最後の数寄者」と称された松永耳庵は、この稀代の名品「釈迦金棺出現図」を昭和36年に入手した。
 入手のいきさつは、次の本に詳しく語られており、ドキュメント仕立てで面白い。

 「耳庵 松永安左ェ門(上・下)」白崎秀雄著(H2)新潮社刊
 昭和34年、松永出入りの美術商・井上康弘が、「釈迦金棺出現図」購入の話を持ち込む。
 この大名品、京都郊外長岡・長法寺蔵で古くから京博に寄託されている。
 昭和30年頃か、あるいきさつがあり、一千万円で綾場紡績社長・河本嘉久蔵が正規の所有権移転手続き無しに購入していた。
 松永は、購入意思の固さを示し相手を信用させるため、一千万円の小切手を仲介者に見せに行くなどの折衝を重ねた結果、三千七百万円で購入することとなる。
 まさに一世一代の名宝買い入れであった。
 余りの高額に、松永も幾度か逡巡し所蔵品も処分したようだ。その後、正式な所有権移転に至るまで紆余曲折を経て、漸く昭和36年4月寄託先京博から小田原の松永記念館に移されたという。

 『最後の大茶人・松永耳庵荒ぶる侘び』芸術新潮特集(H14・2月号)新潮社刊
 松永の足跡・古美術蒐集を写真と文で、愉しく知ることが出来る。
 「釈迦金棺出現図」を扱った古美術商、井上康弘が「耳庵こぼれ話〜《釈迦金棺出現図》を獲れ!古美術商が見た素顔の耳庵〜」という回顧文を掲載している。

 松永安左ェ門は、明治8年長崎壱岐の素封家の生まれ。慶応義塾に学んだ後、三十代で九州の一角に電力会社を創設、その後電力業界に君臨するようになる。70歳を越えた戦後、電力界再編成の中心人物として活躍「電力の鬼」と称された。
 茶の湯、数寄の世界へは、益田鈍翁、原三渓に導かれ、美術品蒐集にも没入、「最後の数寄者」とも敬称された。

 昭和46年6月、松永耳庵97歳にて没。
 棺は、松永記念館2階広間に安置され、床には縦5尺5寸幅7尺の大幅「釈迦金棺出現図」が掛けられたという。

 「釈迦金棺出現図」は、松永記念館に置かれていたが松永個人の所有であった。没後、養嗣子安太郎の所有となるが、昭和55年、松永記念館解散直後、安太郎独自の英断によって、文化庁に完全無償で寄贈された。
 そして、明治40年以来の古巣である京都国立博物館に、再び戻ったのである。

 松永耳庵没後30年を記念して、平成13年9月東博で「松永耳庵コレクション展」が開催された。
国宝「釈迦金棺出現図」のほか、重要文化財21点、重要美術品12点が出品された。「最後の数寄者」と呼ばれただけのことあるコレクションであった。

 「松永耳庵コレクション展図録」(H13)福岡市美術館刊
 図録には、尾崎直人(博多市美術館学芸員)の充実した松永評伝、年譜、松永著作文献が掲載されている。是非読んでみたい評伝。

 

 《川崎正造、上野理一、大蔵喜八郎》

 東博所蔵の院政期仏画、国宝「千手観音像」
 川崎家から東博に入っている。
 多分、川崎造船所創立者である川崎正造のコレクションだったのであろう。
 神戸布引に私立美術館を設けていたが、昭和初期財界動揺のあおりを受け、昭和3年主要所蔵品の売り立てが大阪美術倶楽部で行われている。

 京博所蔵の鎌倉仏画、国宝「山越阿弥陀図」
 上野理一旧蔵で、子息上野精一から京博に入っている。

  

 上野理一は、嘉永元年(1848)生まれ、村山龍平と共に朝日新聞社の経営にあたり、新聞史上の巨人として知られる人物。
 有竹斎と称し、茶の湯、美術品蒐集にも傾倒、日本を代表する美術研究誌「国華」の刊行・運営資金の殆んどを、村山と二人で援助するなど美術研究にも大きな貢献をした。

 「上野理一傳」朝日新聞社史編集室編(S34)朝日新聞社刊
 上野の評伝。古美術蒐集には余りページ数は割かれていないが、『上野有竹斎と古美術』という項立てがあり、美術史学者・春山武松が「山越阿弥陀図」を名品として採上げ、解説している。

  

 大倉集古館所蔵の藤原仏、国宝「木造普賢菩薩像」
 ホテルオークラに隣接する大倉集古館、伊東忠太設計の重厚な東洋風建築を入ると、大きな象の背に坐した優美な普賢菩薩像が眼に入ってくる。
 大蔵喜八郎は天保8年(1837)新潟生まれ。明治維新前夜、神田に銃砲店を開いたのを皮切りに、軍需品御用商人として明治政府の海外進出政策と共に歩み、貿易・土木・鉱山・ホテルなど多方面に事業を興し、大蔵財閥を築いた。
 早くから古美術の蒐集をはじめ、大正6年には大倉集古館を設立展示したが、関東大震災のため陳列品はすべて焼失。
 わずかに残ったのが「普賢菩薩像」など今の展示収蔵品である。

 「大蔵喜八郎の豪快なる生涯」砂川幸雄著(H8)草思社刊
 この本は、実業人としての評伝が中心。コレクターとしての大倉は、一項が割かれているのみ。

  

 

 《不空庵・松田福一郎》

 松田福一郎という人の名前を聞かれたことがあるだろうか。
 これまで紹介した7人が、政財界人として著名なのに比べて、余り知られていないと思う。
 私も良く知らないのだが、自著カバーの略歴によると、明治8年生まれ、神奈川電気株式会社社長とある。
 推古会同人・日本国宝全集刊行会会長とも記されている。

 「奈良博・薬師」と通称される、檀像風の平安仏「国宝薬師如来坐像」。
 〈私の好きな仏像〉ランキングを募集すれば、必ず上位に入るだろうと思われるほどファンの多い像である。
 この「奈良博・薬師」を所蔵したのが松田福一郎、その後、松田から奈良博に入っている。

 松田は、大変な仏教美術愛好家コレクターであったようで、89歳当時、コレクションは4300点を越え、新国宝2点、重要文化財十数点を数えると自ら記している。
 仏像の蒐集、鑑定に関する自著を幾冊か出版しており、私の持っているものは次の3冊。

 「古仏象の蒐集と鑑定」松田福一郎著(T10)東亜堂刊
 「実験仏教芸術の鑑賞」松田福一郎著(S3)不空庵出版部・日本国宝全集刊行会刊
 「古美術街道〜歩み方集め方〜」松田福一郎著(S39)東京書房刊
 それぞれに、仏像コレクターとしての蒐集譚、薀蓄、真贋鑑別法などが語られていて、なかなか面白い。
 この人は、本当に仏像のコレクションの世界にのめりこんでしまって、嵌ってしまった人という気がする。
 「実験仏教芸術の鑑賞」には、余程に自慢の所蔵だったのだろうか、『私の薬師佛について』という一項が設けられ、薬師坐像の大判写真が8ページにも及び掲載されている。
 これによると「本薬師如来は、維新の当時神仏分離問題の厄に遇うて、京都洛東若王子社より民間に伝わったものである。・・・・・兎にも角にも維新以前迄は、本薬師が若王子の御神体であったことは確定の事證であって疑を容れ得ないのである。」と記されている。

 

《訂正補記》

 〜「奈良博・薬師」松田福一郎から奈良博にはいっている〜と記しましたが、春秋堂文庫・加藤春秋氏より、次のとおり、これが誤りであることをご教示いただきました。

「本像は、松田から奈良博にはいったのではなく、昭和8年頃、兵庫県の小河謙三郎に売却され、昭和11年、〈わかもと〉長尾欽彌の所有となり、昭和32年に国の所有、昭和36年奈良博へ管理換になり現在に至っている。」

 早速、松田著の「古美術街道〜歩み方集め方〜」をあわてて見直してみたところ、同書【大銘品の去来〜国宝薬師如来坐像因縁記〜】の項に、「自分の手を離れたのには、いろいろないきさつがあり、数年を経て〈わかもと〉長尾氏の手に帰し、その後千二百萬円で国立博物館に売り込まれたと聞く」旨、はっきり記されておりました。

 初歩的な確認不足での記述、汗顔の至り。何卒お許し願います。

 

  

      

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