埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第十三回)

  第五話 近代日本の仏教美術のコレクターたちの本《その2》(1/5)

《その2》  我が国のコレクターたちをたどって

 

 「e−国寳」という、インターネットサイトがある。

 仏像に関する情報を検索していたら、たまたまこんなサイトがあるのに気がついた。
 国立博物館が作成しており、東京・京都・奈良の3国立博物館所蔵の全「国宝」、94作品が掲載されている。
 画像の部分拡大が可能で、自分が見たい部分の詳細な拡大映像を見ることが出来、なかなか便利で面白い。

 ところで、これら博物館(国)所蔵の国宝。
 仏像仏画の伝来や旧蔵者はどうなっているんだろうか?
 今まで、そんなこと考えたことはなかったが。

 3国立博物館が所蔵している「国宝」仏画仏像は、わずかに10点。
 仏画9点仏像1点と、びっくりするほど少ない。(経巻類は除く)
 その伝来、旧蔵者は、資料をあたって私が確認できた限りでは、次のとおり。

作品名

現所蔵

伝来寺社

旧蔵者

仏画

普賢菩薩像

東博

明治11年十何円かで海外流出の瀬戸際、帝室博物館・一吏員山辺某が買い取ったという

虚空蔵菩薩像

東博

井上馨、三井合名

十一面観音像

奈良博

伝燈寺→法起寺

井上馨、益田孝、日野原節三

孔雀明王像

東博

高野山某寺

井上馨、原富太郎

千手観音像

東博

川崎家(川崎正造?)

十二天像

京博

東寺

釈迦金棺出現図

京博

長法寺

松永安左ェ門

山越阿弥陀図

京博

上野理一

十六羅漢像

東博

聖衆来迎寺

仏像

薬師如来像

奈良博

若王子社

松田福一郎

 ここに出てきた旧蔵者の名前を見ると、流石に「国宝」仏教美術を所蔵したという人達だけに、近代日本のビッグコレクターそのもの。

 茶の世界で好まれる陶磁器や画幅と比べれば、眼の色を変えて追い求めるコレクターも少なくなる仏画仏像。
 それも国宝になるような仏画仏像を所有できる人物となれば、並みの財力では無理であろう。よほどのコレクターということになるのだろうから、当然といえば当然なのかも知れない。

 ことのついでに、国宝となっている仏像仏画で、博物館、美術館、個人が所蔵しているものは他にどんなのがあるんだろうかと、調べてみた。
 なんと大倉集古館所蔵〜大蔵喜八郎旧蔵〜普賢菩薩像1体だけであった。

 これで全部だとすれば、現国宝の仏画仏像を所蔵した著名人、はっきりと確認できるのは、ほんの8人程度ということになる。(これ以外の人物の手も経ているかも知れぬが、個人コレクションの世界は、なかなか良くわからない)

 

 1.国宝仏画仏像を所蔵したコレクターたち

 「近代日本の仏教美術コレクターたちの話」は、この「国宝」を所蔵した人々をたどる本から始めたい。

 なかでも、井上世外、益田鈍翁、原三渓の三人は、明治来の近代日本資本主義形成期を共に歩んだ、我が国3大ビッグコレクターといえる人物。
 「この三人を知らずして、古美術蒐集の世界を語ることなかれ」といっても良いのかも知れない。
 三人の足跡は、近代日本の古美術名品の蒐集、移動そのものを物語るといえよう。

 

《世外・井上馨》

 井上馨という名は、学校の教科書でも眼にしたことがあるだろう。
 明治維新の功臣、松下村塾に学んだ長州藩士。大蔵大臣・内務大臣を務め、後に元老として遇された明治の元勲。

 実はこの井上馨、大変な古美術コレクター。
 平安時代の国宝仏画、「虚空蔵菩薩像」「十一面観音像」「孔雀明王像」の三幅を自ら所蔵した。
 現在博物館国宝となっている仏画9点のうち個人所蔵家の手を経たのが6点だから、なんと、その半分を所蔵していたこととなる。
 また、よく知られている東山御物、国宝「徽宗皇帝筆〜桃鳩図〜」も井上旧蔵であった。

 井上は明治維新後の早いうちから、古美術蒐集に眼を向けた、数少ない日本人。まさに我が国古美術蒐集の先覚者で、突出したビッグコレクターといえるだろう。

 【国宝「十一面観音画像」の入手】

 さて、前記の仏画三幅のうち「十一面観音像」については、劇的な入手のエピソードが今に伝えられている。

 国宝「絹本着色十一面観音画像」は、平安仏画の白眉ともいうべき素晴らしい名品。元大和龍田の伝燈寺にあり、龍田神宮の本地仏であったが、後法起寺の有に帰していた。
 松田延男著「益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち」には、井上がこれを入手するに至るいきさつについて、次のように述べられている。

 「フェノロサが最初に見つけていた平安仏画を、後からやって来た(井上)世外がその場で代金を支払い、さっさと持ち帰ってしまったという話もある。
 その一幅とは、十二世紀制作の十一面観音像で、平安前期を代表する名品として今日よく知られている。・・・・・この仏画も、奈良法隆寺近くの法起寺にボ ロボロになって見捨てられていたのを、(フェノロサが)探訪の折に見つけ、二百円で買い取る約束をする。・・・・・この時生憎と持ち合わせがなく口約束に 止まっていたようだ。
 この一幅を、後から訪ねてきた世外が発見する。『フェノロサが何か言ったら、井上が持ち去った、そう言えばよい』とその場で三百円置いて失敬したのだと いう。この話は後日、この画幅を世外から譲り受ける益田鈍翁が『自叙益田鈍翁伝』のなかでそんな風に触れている」〜明治13〜4年頃の話〜

 明治の初期ならではの、古美術品入手譚である。

 維新後、明治20年頃までの、井上などの美術愛好家について、正木直彦は
 『鈍翁と古美術保護』正木直彦 「大茶人益田鈍翁」(S14)学芸書院刊 所収
 において、次のように述べている。

  「維新直後に美術愛好家の一団があった。東京では町田久成、青木信寅、井上馨、田中光顕、小室信夫、大江卓、柏木貨一郎、益田翁等々であり、京阪では_飼 徹定、藤田伝三郎、税所篤満等であり、幕末から引き続いた先覚者有識者であって、維新後のていたらくを見ては勿体なくて耐らんという人々である。廃仏毀釈 の大嵐で擯出された仏像仏画経巻仏具の類のソコイラに捨てられてあるものを拾い集めた。又、時勢の変転の為に旧大名家や分限者の処分品が、二束三文で掻き 集められた。」

 井上は天保6年(1835)生まれ、明治維新のときは33歳。
 井上も、フェノロサやビゲロー同様、今では信じられぬ二束三文の値で、古美術名品を蒐集したのであろうが、当時こうした古美術に眼を向けた見識と、国宝 仏画三幅を蒐集した鑑識眼、審美眼は大したもので、優れた美術蒐集家として、もう少しその名を知られても良いかも知れない。

 井上世外について書かれた本、伝記には
 「世外井上公伝」全5巻(S8)同伝記編纂会刊
 という本がある。

 まさに井上馨伝の集大成本、古美術蒐集の話にも触れられているらしい。しかし、この本は古書価が10万円近くもする。残念ながら私は未読。

 美術コレクターとしての井上世外を採り上げた本としては、次の3冊が詳しい。
 3冊とも、その書名のとおり、明治以降の数寄者といわれた茶人コレクター十数人の、小伝・古美術蒐集のエピソードなどを、綴った書。
 それぞれ、『井上馨』について一項が設けられている。

「近代数寄者太平記」原田伴彦著(S46)淡交社刊
 雑誌「淡交」に連載。著者原田伴彦が日本経済史の学者でもあるだけに、採り上げた数寄者達の茶人コレクターとしての側面だけでなく、実業家・資本家として果たした役割・功績がきっちりと述べられている。
 井上馨についても、『明治資本主義の勧進元〜井上馨と東都財界』という項立てとなっており、西郷隆盛に「三井の番頭さん」と揶揄された所以など、その金権政治的性格が語られている。

 「美術話題史〜近代の数寄者たち〜」松田延夫著(S61)読売新聞社刊
 「益田鈍翁をめぐる9人の数寄者たち」松田延夫著(H14)里文出版刊
 この2冊は、著者松田延夫が読売新聞文化部出身であり、これら数寄者達の茶人としての交友、蒐集をめぐる駆け引きやエピソードとそのコレクションなどを、大変興味深く面白く読ませる。

 明治45年、77歳の春、井上は『世外庵鑑賞』という一書を、大日本国華社から出版している。世外蒐集品の画幅名品53点を厳選した、当時最上の美術写真集であったようだ。
 仏教美術を中心に掲載され、今日、10点以上の国宝、重文指定の名画類が数えられるという。

 本書出版の4年後、大正4年、81歳で没。
 没後10年目の大正14年、井上世外の道具入札会が行われ341点が出品された。「十一面観音」「孔雀明王」は、井上生前にそれぞれ益田鈍翁、原三渓に譲渡されていたが、「虚空蔵菩薩」は入札に付された。
 入札総額は実に245万円という巨額に達した。

 国宝「虚空蔵菩薩」は、5万3910円で落札、三井家に入った。

   

絹本着色孔雀明王像        絹本着色虚空蔵菩薩像

 

 

 

      

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