埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百二十回)

  第二十二話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その5〉  仏像の素材と技法〜木で造られた仏像編(続編)〜

(4)鎌倉時代の木彫仏

【玉眼のはじまり】

 鎌倉時代に入ってからも、寄木造りの技法がそのまま継承されていく。
 鎌倉時代の特徴をあげると、運慶作品に見られる上げ底式内刳りや、頭部と躰部とを割り首にせず、はじめから別材で造り、首ほぞで接合する方法が多くなるなど、技巧化が進むようになる。
 
【浄楽寺阿弥陀如来坐像】         構造模式図〈西川〉
運慶作の寄木造り像。運慶は、上げ底式内刳りの手法を多く用いている。
像の内部構造の強化の狙いがあったものと思われる。


 また、仁王像などダイナミックで激しい動きの表現や、巨大像が造られるようになり、これに対応して、木寄せの方式は、より多くの部材を複雑に寄せる方式となる。
 興福寺西金堂の金剛力士像は、強く上半身をひねった激しい動勢を示すため、上半身と下半身を上下で矧ぎ合わせる「積み木式木寄せ」を行なっている。
  
【興福寺西金堂金剛力士像】積み木式木寄せ模作  【東大寺南大門仁王像・吽形像】木寄せ模造写真

 東大寺南大門の仁王像などは、8メートルを超えるダイナミックな動きの巨像を造るため、夥しい数の部材を寄せ合わせて造っており、部材総数は阿形で2987材、吽形で3115材を数えるそうだ。

 鎌倉時代に入って、新たに始められた画期的技法といえば、何といっても「玉眼」の技法だ。
 眼を彫る(彫眼)のではなく、水晶を嵌め込んでリアルに表現する技法を「玉眼」という。



 高野山金剛峯寺の八大童子像。運慶作と伝わる像だ。
 あの生き生きとしたみずみずしい童子たちの表情には、たまらない魅力を感じる。
 その若々しい顔に、「玉眼」で造られたつぶらな瞳が輝いている。
 たとえば、制多迦童子の眼は爛々と輝き、はちきれんばかりの顔の膨らみ、引き締まった顎の造形と呼応して、充実した気力を発散している。
 まさに、見事に玉眼が効果的に使われ、自家薬籠中のものとしているようだ。

 玉眼は、如来形像のみならず、僧形像、仁王像、童子像などに、写実的な生命感の息吹を吹き込んだ。
 玉眼表現が生々しすぎて、私にはちょっと引いてしまうような時もあるが、木彫の写実的表現という意味では、画期的技法といってよいのだろう。

 仏像の瞳に異材をいれて、眼力の表現をしようとする技法は、奈良時代からみられる。
 塑像では、戒壇院四天王像には黒曜石が、新薬師寺十二神将像には黒色ガラスが瞳にはめ込まれている。
 平安期に入っても、東寺兜跋毘沙門天や講堂四天王像、宝菩提院菩薩半跏像などにも瞳に黒光りのする異材が嵌め込まれている。

 
【東大寺戒壇院四天王像】         【宝菩提院菩薩半跏像】


 「玉眼」嵌入の技法は、鎌倉期に入る直前、12世紀中葉から始められたようだ。
最古の現存例は、仁平元年(1151)作の長岳寺阿弥陀三尊像。
 そのほかにも、峰定寺毘沙門天像(1154)、川端家毘沙門天像(1162)、七寺観音勢至像(1168)などがある。

 鎌倉時代に入ると、玉眼が当たり前というように盛期を迎えるが、すべての仏像が玉眼というわけではなく、運慶仏を見てみても、如来・菩薩の眼は、円成寺大日如来を除いては彫眼で造られており、天部・明王・肖像などに玉眼を用いている。
 玉眼のもたらす効果、性質を良く考えて、都度、効果的に用いられていたようだ。

 玉眼の技法は、どのようにしていくのであろうか?
 まず、木彫像の眼瞼(まぶた)を内刳りまで掘り抜いておいて、そこに水晶を凸レンズ状に磨いて造った眼を内側から嵌め込む。
 この水晶の裏側に瞳を描き、白い綿、または和紙を当て、木片で固定する。
 そうすると、表から見ると、眼瞼の内側のレンズを通して瞳や白眼が、輝きリアルに見えるようになるのである。

 
【玉眼技法の工程模式図】          【玉眼の製造技法、模式図】(西川)
  山崎隆之「仏像の秘密を読む」から転載

 


       

inserted by FC2 system