埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百一回)

  第二十一話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その4〉  仏像の素材と技法〜木で造られた仏像編〜


 【21−5】

 2.貞観木彫〜平安初期木彫誕生の謎

 神護寺薬師如来立像の前に佇み、あの森厳でデモーニッシュな迫力、歪みの造型ともいえるほどのデフォルメ表現、鋭い彫り口の翻波衣文を見ている と・・・・・、
 新薬師寺の薬師如来像の前に立ち、あのどぎついような大目玉の顔、マッシーブなボリューム感、はちきれんばかりの量感を見ていると・・・・・、
 
神護寺 薬師如来像           新薬師寺 薬師如来像

 「なぜ、どうして、こんな表現の仏像が造られるようになったのだろうか?」
 「それも、突然といっても良い程に、異形の仏像が出現するのは、どうしてだろうか?」
 不可思議だな、という思いがこみ上げてくる。


 それまでの奈良時代には、三月堂の日光月光菩薩とか、興福寺阿修羅とか、聖林寺や観音寺の十一面観音とか、秋篠寺の伎芸天とか、写実的で抒情的、人間の 理想美や穏やかな情感を求める、心やすまる仏像が造られていたではないか。
  
東大寺 日光菩薩像       秋篠寺 伎芸天像         興福寺阿修羅像

 さらには、二つの薬師像ともに純粋な木彫で、彩色を施さない白木、素木の仏像だ。
 奈良時代の仏像は、塑像、乾漆仏で、金色か極彩色に彩られていた。

 「何故、平安初期彫刻は誕生したのだろうか?」というテーマを考えていくと、
*仏像の主要素材が、塑像・乾漆 から、なぜ木彫に大転換したのか?
*古典的写実、均整、理想美、抒情性を求める表現から、なぜ森厳、デフォルメ、塊量性など精神性や迫力を求める表現に大転換したのか?
*金色、極彩色に彩られた仏像から、なぜ白木・素木の仏像へと大転換したのか?
という、三つの大きな疑問にぶつかる。

 佛教美術史の世界では、これまで「平安初期木彫発生の謎とか、誕生の秘密」などと称され、一大テーマとして議論が重ねられてきた。

 神護寺像、新薬師寺像に代表されるような平安初期木彫が生まれ、木彫の時代に転換した事由については、主なものとして、次のような説が挙げられてきた。

*奈良時代に盛んに造立された、 塑像や木心乾漆像の心木が発達したという説。
*鑑真来朝に伴って、唐招提寺木彫群に代表される表現の木彫像が造られるようになり、中国からの新たな様式や彫像技術が影響を与えたという説。
*中国からもたらされた檀像の影響によるという説。
*木彫民間発生説とも称される説で、日本霊異記には8世紀後半に民間で造られた木彫像の説話が多く語られており、このような民間で活動していた僧侶が造立 していた木彫像から発展したという説。
また、これらの事由に加えて、次のような背景も云われている。
*天平末期に至り、経済的事由もあり大規模に多額の費用をかけ、仏像、堂塔を造ることが困難になり、金銅、乾漆など高価な材料を使用した仏像製作が出来な くなってきた。
また仏像の大量生産に適した乾漆像、塑像などの技法も、その必要性が薄れてきた。
こうしたなか、造東大寺司が解散するなど、造像技術者が民間に散り、少人数でも制作可能で安価な木造が主流となって行った。
*そもそも日本は森林の豊富な木の文化の国であり、金銅、乾漆、塑像というような素材よりも、日本人の感性に最も合致し、最も彫刻に適した素材である木彫 が主流を占めていくのは、日本独自の芸術文化が確立されていくなかでは当然の帰結である。

 ここで、このような諸説が展開されてきた歴史を、少々振り返ってみたい。

 平安木彫の成立について、最初に論じたのは丸尾彰三郎であった。
 「木心乾漆・心木発展説」とでも云うもので、長らく有力視されてきた説である。
 丸尾は、大正11年「日本彫刻史上に於ける木彫の発生」(国華388)という論考で、次のように論じた。
 脱乾漆像の構造材としての木骨 部が発展して天平後期に木心乾漆像を生み、さらに木心乾漆像の木心部制作が徐々に木彫技法へ発展して、平安木彫の誕生を見 るにいたった、即ち木心乾漆像の乾漆が次第に薄くなり、平安木彫が生まれた、というものである。

 その後、平安初期木彫と唐招提寺講堂木彫群との様式的関連を強く主張する説が出された。
 金森遵が述べた説である。
 金森は、昭和19年「唐招提寺様木彫像に就いて」(唐招提寺論叢)という論考の中で、伝薬師・衆宝王・獅子吼の三像は貞観様式との関連性が極めて濃厚 で、それ以前のわが国彫刻の様式展開の跡から理解し得ない彫刻理念が見出されるとし、様式的に平安初期彫刻の淵源とみなすとともに、これら木彫像の制作に 唐工の関与を想定し、木彫技法の面でも重要なきっかけを与えた、と解釈した。
  
唐招提寺講堂 伝薬師如来像    伝衆宝王菩薩像       伝獅子吼菩薩像     

 その後は、平安初期木彫の成立を、木心乾漆像と唐招提寺木彫群におくこの二つの解釈が、広く行われていた。

 戦後、昭和32年に、新たなるセンセーショナルな説が発表された。
 久野健の「大仏以後〜平安初期彫刻の一考察〜」(美術史26)という論考である。
 「木彫民間発生説」というべきユニークな説の登場となる。
 久野は、「日本霊異記」の記述に着目した。
 「日本霊異記」には、地方の山寺や民間の私寺において聖武朝の終わりころから、木彫制作が私度僧や優婆塞、あるいは行者といった官営仏所の工人でない民 間人の手によって行われていたことを伝え、また、その木彫には素木像らしきものが含まれていたことがうかがわせる。
 そこで久野は、わが国の木彫が経済的に恵まれない私寺等において独自に誕生したと想定し、さらに当時の不穏な社会的情勢が、民間人の信仰態度にいっそう 呪術的・祈祷的宗教意識を増長させ、神護寺像のような神秘的表現を加味した木彫像が生み出された、と主張したのである
 これまでの木彫発生の事由とされた説には、それぞれ次のような理由で異議を唱えた。
*乾漆像木心発展説に対しては、
 木心乾漆像のX線調査の結果、木心部は一木彫式のものから木寄せ式のものまで多種多様なものが確認され、その構造に一律的発展が認められない。木心乾漆 像と純粋木彫像が併行して出現していることなどから、木心乾漆像の一木彫式木心部が一木彫に発展したとは考えられない。

法隆寺 九面観音像(中国渡来檀像)
*唐招提寺木彫群の影響説に対し ては、
 神護寺像、新薬師寺像が、木肌を十分に生かした白木の像で、神護寺像では荒いノミ跡まで残しているのに対して、唐招提寺木彫群(3木彫)は、もともと極 彩色ないし金箔押し像で、技術的にも相違するし、当時、私寺であった唐招提寺の造仏が、次世代の木彫を生み出すほどの影響力をもったかは疑わしい。
*中国渡来檀像影響説に対しては、
 檀像は本来小さな像であるのに対し、神護寺像、新薬師寺像は巨像であること。造形的にもプロポーションが大きく違うし、にぎやかな胸飾りをつけ、なめら かな仕上げの檀像にたいして、簡素で荒ノミ跡を残す木彫が、天平の檀像彫刻から
生まれてきたとは考えにくい。

 この説は、まことにセンセーショナルなもので、平安初期木彫の特異な造型の秘密を探るものとして大いなる波紋を投じたが、現実には、なかなか積極的な支 持を得るにはいたっていない。
 この久野説に対しては、その後、
*天平時代に民間人が制作したと 認めうる木彫遺品が伝存せず、その彫刻史的展開が論証されていない。
*民間で生まれた木彫が、中央へ受け入れられたという文化の逆流現象が、この時代にあり得たと考えるのは難しい。
 などの指摘、批判が、多くの研究者からなされてきたのであった。

 結局のところ、「平安初期木彫誕生の謎・秘密」の決定的決め手は無く、先にあげた、いろいろな事由、即ち乾漆像の木心部発展、唐招提寺木彫群の影響、檀 像の影響、民間の木彫造像などという要素が、多面的・総合的に絡み合って、平安初期木彫が誕生したという、あいまいなところに着地しているという状況に あった。

 ところが、近年、衝撃的でセンセーショナルな研究発表が公にされた。
 平成10年にミュージアム555号に発表された「日本古代における木彫像の樹種と用材観〜7・8世紀を中心に」という論考である。
 これまで、「ヒノキ材」とされていた、唐招提寺木彫群像(伝薬師・衆宝王・獅子吼)、大安寺木彫群像、神護寺薬師像、元興寺薬師像の用材が、すべて「カ ヤ材」であることが判明したのである。
  
大安寺 不空羂索観音像     大安寺 楊柳観音像      元興寺 薬師如来像

 それぞれの木彫像の微細片から、新たに科学的分析調査を行った結果、判明したのである。
 この研究は、金子啓明、岩佐光晴、能代修一、藤井智之の共同研究であるが、その後に発表された調査結果、論考等を総合すると、平安初期木彫の誕生につい て、次のような発見と重要な問題を提起するものとなった。

 まず判明した事実とその解釈を挙げると、以下のとおりであった。
*奈良時代〜平安前期、即ち8〜 9世紀の木彫像は、ほとんどが「カヤ材」で造られている。(前記の像だけでなく、古保利薬師堂、羽賀寺、浮嶽神社像なども カヤ材)
*これは、素木像か、彩色・金箔像であるかによっての違いはない。
*飛鳥白鳳期・7世紀の木彫像は、「クスノキ材」を用いている。
*乾漆像、塑像の構造材、木心部の用材は、奈良・平安期共に「ヒノキ材」が中心である。
*古代の木彫用材選択は、無作為に行われたのではなく、構造材と木彫材は明確に区別されるなど、はっきりとした用材観に基づいている。
*天平15年(743)に書写された「十一面神呪心経義疏」に、仏像用材には「白檀を用いよ。白檀のない国では栢木を用いよ」と「白檀」の代用材として 「栢木」が説かれている。わが国で、この「栢木」にあたる材について、過去「ヒノキ」等の議論があったが、「カヤ」が充てられていたと見てよい。
*わが国8〜9世紀木彫材に、カヤが用いられたのは、この「十一面神呪心経義疏」の解釈に則ったことによるものである、と考えられる。

 即ち、木彫用材に、わが国で最も豊富に産し彫刻に適する「ヒノキ」を用いず、わざわざ数の少ない「カヤ」を選び出して仏像を造っているのである。
 この事実を踏まえると、乾漆像木心部発達説、木彫民間発生説は、どうしても影が薄くなってしまう。
 そして、従来、小原二郎の調査結果に基づき、「ヒノキ材」と判定されていた唐招提寺の伝薬師・衆宝王・獅子吼の3像が、「カヤ材」であることが判明した ことは、誠にインパクトのある新事実であった。
 鑑真と共に渡来した唐の工人の関与による作と考えられる、唐招提寺講堂木彫群の存在が、俄然注目を浴びてきたのである。

 この事実から
*鑑真及びその工人が、日本にあ る樹種の中から、「栢木」材として「カヤ」を選択したのではないか。
 そして、一木彫用材として「カヤ材」が多く採用されていく思想的背景として、鑑真が大きな役割を果たしたのではないか。
*「白檀」の代用材として「栢木」即ち「カヤ」が選択されてきたことは、一木彫の成立に、檀像認識が強く反映されていたと考えられる。

*「クスノキ」は、古来、霊木・神木とされる神話的・民俗的世界に結びつく樹木であり、「カヤ」にも、魔除け的性格があるとも言われる。
 こうした、神仏習合、霊木信仰という観点も、平安初期木彫の誕生に重要な意味を持ってくるといった面も考えられる。
 という、考え方を展開した。
 そして、金子啓明、岩佐光晴は、木彫仏の用材観と日本古来の神木・霊木信仰との関わり合いについて、平成18年に開催された「一木彫展」の図録解説で、 それぞれこのように述べている。

クスノキの巨木(鹿児島県蒲生)
「クスノキは古代日本ではとくに 重要な樹木であり、魂ふりの力をもち、あるいは神木、霊木とみなされていた。神と仏はクスノキを介して交わり、ゆるやかに 融合したものと思われる。・・・・・・・・・・
 また、材の選択と同時に、唐招提寺旧講堂のように洗練された唐時代の木彫像の表現が日本で展開したことの意味はきわめて大きかった。・・・・・・・
 一方、木彫像が新たな形で展開したことにより、日本古来の樹木の観念、神木や霊木の意識と仏像制作が交わるきっかけが作られた。

 これは、乾漆像や塑像では期待できないことである。麻布や漆液や塑(土)には神は宿らないからである。
 また飛鳥・白鳳文化期のクスノキの彫刻では神木、霊木の意識が形の表現にまで及ぶことはなかった。
 しかし奈良時代からのカヤの一木彫では
 それが革新的な表現になってくる。・・・・・・・神護寺像は、木に神が宿るというアミニズムを吸収しているのである。」(金子啓明「木の文化と一木 彫」)
 
松尾大社 男神像            薬師寺 女神像

カヤの巨木(静岡島田市上相賀)
 「(神宮寺である大御輪寺での造像〜聖林寺十一面観音、法隆寺地蔵菩薩〜、東寺・松尾大社・薬師寺の神像彫刻の造立という動きを踏まえて)このように一 木彫は、仏教のみならず、神道の考えも加わることにより、日本の土壌に深く根ざしていったのではなかろうか。木を介して神と仏が交流する場が与えられ、そ の中から、一木彫が生まれ、神像が生まれたともいえるだろう。・・・・・・・・


 『霊異記』に語られる木彫像に 関する説話は、ややもすると一律に一木彫成立と関連する史料として読まれがちであるが、むしろ木彫像のあり方にはいろいろ な造像環境において多様な状況が存在していたと見るほうが、当時の社会状況をより幅を持って捉えることができるように思われるのである。」(岩佐光晴「初 期一木彫の世界」)

 この新たなる視点は、大いに注目され、平安初期木彫誕生への展開論として、現在、大いなる支持を得ているといえるのではないだろうか。

 


       

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