埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百十回)

  第二十一話 仏像を科学する本、技法についての本
  〈その4〉  仏像の素材と技法〜木で造られた仏像編〜


 【21−4】

 話を貞観木彫に戻そう。
 「貞観の素木・一木彫の森厳、デモーニッシュな迫力は、単にその造型力、表現力だけによるのだろうか」
 「あれは、仏師の造形力のみでなされる技ではなく、素材である『木(樹木)の発する精気、霊気』のなせるものではないか」
 私は、そのように感じることがある。
 神護寺薬師如来像や新薬師寺薬師如来像など、デモーニッシュな仏像を拝していると、その材となった樹木(カヤ)に内在する精気、霊気といったものを、仏師が仏像という姿かたちに表出した、そんな気持ちになってくるのである。
まさに、「神宿る木、仏の宿る木」から、神仏を彫り出したとでもいえるのであろうか。
 信仰の対象となっている霊木で造仏するというのは、飛鳥の古来より始まっている。
 日本書紀には、欽明14年(553)に「大阪湾の西方から流れてきた、光を発するクスノキの大木で仏像を造った」という記録が残っているし、霊木で造られた仏像に違いないと思われる仏像は、飛鳥時代からいくつも存在する。
 この「日本古来の木への信仰の文化」が、平安初期に至り、仏像の世界で「素木一木彫」という大きな力となって現れたのだろう。

 「霊木化現仏」という造仏概念を唱える井上正は、霊木による造仏についてこのように述べている。


霹靂木(へきれきぼく)〜落雷で神が
降臨したとされる〜京都下賀茂神社
 「日本においては、・・・・・・太古から存続している神の信仰と結びついた霊木がそれである。神が依り憑き給う神木に、異国の神の信仰である仏が依り憑き、やがて姿を現わし給うという、霊木化現仏の観念が生まれた。・・・・・・・
  山野に長い生命を保っている巨樹古木に、言い知れない敬仰と畏怖の念を覚えるのは、人間の持つ自然な感情である。積年の風雨に多くの枝をもがれ、落雷を 蒙っては主幹の梢を失い、内には虚を生じつつ、根張りを着実に拡げてゆく巨樹古木の風采は、永年にわたる人々の霊木畏怖の心に守られつつ造り成されてきた ものである。霊が宿ると考えられるような古木が、形なき神の依り給う代になって神木となり、人々は祈りによってこの神木に神を招き、神の声を聞い た。・・・・・・・・
 やがて、この神木に仏が宿る時期が到来する。まず形ある仏が化現し、ほとんど時を同じくして、それまで姿かたちのなかった神も姿を現わすようになった。」(井上正著「7〜9世紀の美術」)


 最近、牧野和春という人が書いた、「日本の巨木」についての本を数冊読んだ。

 「本朝巨木伝〜日本人と、大きな木のものがたり」「巨樹と日本人〜異形の魅力を尋ねて」「桜伝奇〜日本人の心と桜の老巨木めぐり」という題名の本だ。
結構、巨木が持つ不思議な力、威力に魅せられるものがあった。
 「巨樹と日本人」の本の紹介文は、このように記されている。


加茂大クス(徳島県三好郡)
「数 百年、数千年の歳月、同じ場所で根を張り、枝を拡げ、梢を伸ばしてきた巨樹は不思議なまでの生命力で人々を圧倒する。長い間の風雪に耐えて獲得した異形の 姿は神とも魔物とも映り、信仰の対象となっているものも多い。また歴史の目撃者として、巨樹にはさまざまな物語が託されてきた。現在では地域の文化遺産と しての意義も大きい。巨樹は常に人々の暮らしと共にある。」


 これらの本を読んでいると、巨樹・巨木という存在が、日本人の信仰と生活に深く根ざした、神宿る木として、霊気を発しつつその地の人々の暮らしと共に活きていたのだ、という感慨を深くする。
 「加茂の大クス」「屋久島の縄文スギ」「苦竹のイチョウ」「根尾の薄墨ザクラ」など、辺りを圧する威圧感、存在感は物凄い。
 紹介されている巨樹写真を眺めているだけでも、こうした気持ちに惹きこまれていく。
 
縄文杉(屋久島)               根尾 薄墨桜(岐阜)

 そして、これらの霊木、神木が朽ちた時、その巨樹から仏像を彫り出そうとした当時の人々の信仰に、当然のように共感を覚えてしまう。

 私が、平安初期〜前期の(素木)一木彫に、引き込まれるような魅力を感じるのは、
「神・仏やどる霊木から、鋭い鑿と冴えた彫技で彫りだされ、白木・素木の清らかな木肌のままで仕上げられる」
 こうした要素の凝縮したものによるからであろうか。


 そこには、「森厳、デモーニッシュ」という深い精神性を求める美と、「日本の木の文化」を強く感じるのである。



観心寺 如意輪観音像
 もちろん平安初期〜前期が、素木一木彫一色に塗りつぶされていたわけではない。
東寺講堂の諸仏や観心寺如意輪観音像に代表される、真言密教系の仏像を中心に、木屎漆モデリングの乾漆系像や、黒漆仕上げ漆箔像も併行して造られていたことも事実である。

 そして、平安後期、藤原時代に至り、寄木造の技法が開発完成されていくと、神木・霊木にこだわるという精神性はどんどん薄れ、木彫仏は、大型化、分業化、大量生産に適した造像方式に、転換していくことになるのである。



 ここで、これまでの話のなかで関連する本の紹介をしておきたい。

 「日本人と木の文化」 小原二郎著 (S59) 朝日新聞社刊 【239P】940円
 「木の文化」 小原二郎著 (S47) 鹿島研究所出版会刊 【217P】 780円

 小原二郎は、「日本の木の文化の伝統と現代のインテリア」というフィールドを研究し、多くの著書を残している。
 著書紹介文に、
「日本人は、木とどう関わってきたのか。建築から彫刻、工芸品までの、木の文化に込められた古来の叡智を見直し、人間中心の偏狭な考えを超えて自然と共に生 きる方途を探る。何百年経っても生き続ける、木という生物材料の不思議な魅力と特性を縦横に語る。」

 とあるように、「日本人と木の文化の歴史」を、知ることができる好著。
 大変楽しく読める本。
 小原は、日本の木彫仏の用材樹種の調査研究で、先駆的業績を上げたことでよく知られている。
 本書でも、木彫仏用材樹種の調査研究成果について、詳しく語られているが、このテーマについては、後で詳しく採り上げるつもりであるので、ここでは触れないこととしたい。


 「浄土への憧れ」 佐藤昭夫構成 (S58)平凡社刊 【138P】 1800円

 藤原貴族たちの浄土への憧れ、阿弥陀来迎の疑似体験などの雰囲気を味わうことができる本。
 「太陽〜仏の美と心シリーズ」のムック系本。
 平等院をはじめとする、著名な阿弥陀堂建築と阿弥陀仏の数々が、阿弥陀来迎を思わせる美しい効果の写真で綴られている。
 極楽浄土を地上に再現しようとする「仏様と堂の建築ぐるみの金色の世界」、「金色の木の文化」を感じるには、なかなかのお勧め本。
 藤原彫刻についての本は数多くあるが、あえて一冊紹介させてもらった。


 「奇想の系譜」 辻惟雄著 (S45) 美術出版社刊 
 文庫版 (H16) ちくま学芸文庫 【275P】 1365円

 「近世絵画史の殻を破った衝撃の書」といわれている。
 著者、辻惟雄は、当時新進気鋭の30歳代。
 狩野派、土佐派、文人画を主流とする近世絵画のなかで、エキセントリック、グロテスクとして傍系という評価しかされていなかった画家達(岩佐又兵衛、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪など)を、異端ではなく「主流の中の前衛」と位置付け、大いなる評価をした。
 刊行時、絵画史を書き換える画期的著作としてセンセーションを巻き起こし、その後これらの画家達の展覧会が、にわかに活発に催されるなど、再評価の火付け役となった著作。

 辻は、本書の冒頭、岩佐又兵衛を語るにあたり、このように記している。

「絵巻物の生命は、ふつう、室町時代に終焉をとげたとされる。・・・・・・・・・
それらは、平安や鎌倉の優美な古典絵巻を至上とする審美眼にとっては、何度も卑俗で、アクが強く、反発と嫌悪を感じるのがせいぜいのしろものだが、現代美術の表現性に馴染んだ眼にとっては、誠に興味をそそる対象なのである」

 結局、「美のものさし、尺度」というものは、時代時代で移ろい行く。
 「芸術的価値あるもの、美しきもの」というのは、創られた時代の人々にとってではなく、現代人の眼からみて、その美的感性にフィットするもの。


 そして時の流れの中で、さまざまに変化していく宿命にある。
 今更ながらに、このように感じる。


「本朝巨木伝〜日本人と大きな木のものがたり」 牧野和春著 (H2) 工作社刊 【234P】 2200円
「巨樹と日本人〜異形の魅力を尋ねて」 牧野和春著 (H10) 中公新書 【221P】 700円
「桜伝奇〜日本人の心と桜の老巨木めぐり」 牧野和春著 (H6) 工作社刊 【304P】 2800円

 牧野和春の本は、最近はじめて読んだ。
 日本の巨樹・巨木が持つ不思議な力、威力に魅せられるものがあり、一気に三冊読破してしまった。
 牧野和春の略歴には、次のようにある。
  「1933年、鳥取県生まれ。慶應義塾大学文学部卒。ジャーナリストをへて1968年、牧野出版を創立。精神医学関連を中心に出版。併せて日本人の心を関 心事に執筆活動を続ける。桜と巨樹への思い入れは深い。『樹齢千年』(1979年、牧野出版)は巨樹ブームの導火線となった。日本の巨樹・巨木研究の第一 人者。」
 巨樹・巨木関係の本だけでも、20〜30冊の著書がある。
 古来より今に息づく、木の文化、巨木信仰、巨樹の数々を知り、霊仏化現などに思いを致すことができる本。

    


 


       

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