埃まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第十一回)

  近代日本の仏教美術のコレクターたちの本 (3/4)

 

《古美術商 山中商会》

 フェノロサ、ビゲローが、そのコレクション蒐集のため、最も数多く古美術品を購入した美術商は、起立工商会社と山中商会だといわれている。

 起立工商会社は、政府が出資した国産工芸品輸出の国策会社で、明治7年開業。
 多くの古美術品の販売もしていたようで、古社寺を回って文化財を発掘し、積極的に外国人コレクターに売りつけていたようだ。
 起立工商だけをテーマにした本は知らないが、このパリ支店に明治13年に入社したのが、国際的大美術商として著名な林忠正。

 この、林忠正の評伝、その時代が書かれた本は次の三冊。
 ヨーロッパのジャポニズムと浮世絵の海外流出、その立役者林忠正のことが、主として書かれたものであるが、紹介しておきたい。

 「画商林忠正」定塚武敏著(S47)北日本出版社刊

 「海を渡る浮世絵〜林忠正の生涯〜」定塚武敏著(S56)美術公論社刊

 「林忠正とその時代」木々康子著(S62)筑摩書房刊

 三人のコレクターと美術商という関わりの中で、最も忘れがたい人物は、山中商会山中定次郎であろう。

 山中定次郎は、日本中国美術の古美術商として、ニューヨーク・ボストン・ロンドン・シカゴ・北京などに支店を有した、国際的大美術商。慶応二年(1866)生まれ。
 明治12年(1879)山中吉兵衛商店の丁稚に入ったが、モース、フェノロサ、ビゲローに多くの美術品を納入しただけでなく、親交深く、信頼も篤かった。
 明治27年、はじめてニューヨークに出店できたのは、この三人の助力と斡旋によるものである。こうした縁から、ボストンにも出店することになる。
 その後、山中商会は、日本東洋古美術では、世界ナンバーワンといわれる国際的古美術商となり、山中定次郎の名は世に知られる。

 「山中定次郎傳」(S14)故山中定次郎傳編纂会刊

 山中定次郎の唯一の伝記。
 評伝、年譜と、多くの各界関係者の回顧寄稿文からなる大冊。山中の偉業と、その誠実で信義に厚い人柄と徳望が、随所に偲ばれる。

 山中定次郎は、明治42年11月、その年の9月に園城寺法明院に埋葬されたフェノロサの一周忌法要を、自らの手で開いている。
 また、フェノロサの墓のそばに眠るビゲローの、墓石、灯籠、玉垣の築造費は、山中定次郎がこれを出資した。
 少々、胸にジーンとくる話。
 昭和11年(1936)没、71歳。

 

《ボストン美術館》

 「名品流転〜ボストン美術館の日本〜」堀田金吾著(H13)NHK出版刊

 国外最大規模の日本美術コレクションを誇るボストン美術館。
 その日本美術コレクション蒐集の人と歴史をたどるには、この本が最適。
 約百年間のコレクションのエピソード、関わった人々の話が、次々と興味深く語られる。

 この本はNHKの特集番組「よみがえる日本の至宝〜ボストン美術館東洋部の百年」「アーネスト・フェノロサ−日本美術再発見者の素顔」「幻の絵巻」「名品流転」など、6年間7つの特集番組の資料をもとに、書かれた本。
 文化教養担当プロデューサーの著作だけに、読みやすく面白く書かれているが、その内容は大変充実しており、必携必読本といえる。

 吉備大臣入唐絵詞

 これまでふれた、モース、フェノロサ、ビゲロー、天心にまつわる記述のほか、有名な「吉備大臣入唐絵詞購入事件」の詳しい、いきさつも記されている。

 この絵巻物は、大正12年若狭酒井家売立てに出され、古美術商戸田弥七が十八万八千九百円で、手張りで落札する。春日光長筆、世に知られた国宝級平安絵巻物の大名品であったが、その年関東大震災がおこり、美術品どころではなくなってしまう。
 誰も買い手が無く持ち越していたものを、ボストン美術館の富田幸次郎(昭和6年から東洋部長)が、大正13年に日本にきた際、これを購入する。
 日本にあるはずのこの絵巻が、ボストンにあることが知られるのが昭和8年。
 国内ではマスコミも大騒ぎになり、富田は、当時の美術界の重鎮、滝精一から《国賊呼ばわり》されたという。
 急遽「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」が成立。重要美術品として認定された美術品の輸出には許可を要することとなった。
 現在でも、「重要美術品」と冠せられたものが存するのは、この時の産物である。

 「日本では誰も買わない。早く安住の地を見つけてやらなければ、あれだけの名品に気の毒だ。そう思って引き取った途端に、けしからんと国賊呼ばわりされた。」
 と、富田はその後長く口惜しがったという。

 

《岡倉天心》

 ここまでに登場したコレクターたちと、最も縁の深い日本サイドの代表選手といえば、誰もが「岡倉天心」の名を挙げるだろう。

 文久2年(1862)生まれ、東大卒業後文部省に出仕。
 フェノロサ、ビゲローとの交友も深く、古美術の復興と日本美術(日本画)の発達をはかり明治前半期の美術界の中心として活躍した。
 日本美術との係わり合いでいえば、東京美術学校創設・校長、「国華」創刊、帝室博物館美術部長、古社寺保存法制定、日本美術院創立、ボストン美術館東洋部長と、枚挙の暇がない。
 「東洋の理想」「茶の本」などの著作(岡倉の著作は全部英文で書かれた)で、アジア文化宣揚のビジョンが国際的に知られた人物であった。

 功績、足跡などはよく知られており、ここで今更触れるまでもない。伝記、評論等も数えれば、キリ無き程に多数出版されている。
 ここでは、天心と古美術についてよく知ることが出来る本と写真集、それぞれ一冊だけを紹介するに留めたい。

 「岡倉天心」宮川寅雄著(S47初版S31)東京大学出版会刊
 著者宮川は、早大卒会津八一の門に学んだ、美術評論家、和光大教授。

 「岡倉天心アルバム」茨城大学五十浦美術文化研究所監修(H12)中央公論美術出版社刊
 天心の仕事と生涯を、写真資料でたどった本。

 「古社寺調査、来日したアメリカの友人たち、奈良の美術院、ボストンでの日々」などの項に、興味深い写真が数多く載せられている。

 続く

 

      

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