【その1】← →【その3】


 【行 程】 2010年9月3日〜10日

9月3日(金)  羽田空港→北京空港→大同(泊)
9月4日(土)  雲岡石窟→善化寺→九龍壁→大同(泊)
9月5日(日)  応県木塔→懸空寺→恒山→五台山(泊)
9月6日(月)  五台山諸寺→五台山(泊)
9月7日(火)  金閣寺→仏光寺→南禅寺→太原(泊)
9月8日(水)  天龍山石窟→晋祠→玄中寺→鎮国寺→平遥(泊)
9月9日(木)  双林寺→平遥古城→杏花村→太原(泊)
9月10日(金) 太原空港→北京空港→羽田空港 




【その2】




 
[第11窟]

この窟は塔廟窟(インドでいうチャイティア窟)であるらしいが内部には入れない。
入口下層に仏立像、外壁上部龕内には仏坐像がみえるが、龕の像は漢族の服装をした、なで肩、細面の穏やかな顔つきの像が多く、おそらく洛陽遷都以降のものであろう。
あまり印象に残っていない窟である。


[第12窟]

その隣は、9、10窟同様、外側に列柱のある華麗な装飾の窟である。
別名「音楽窟」といわれ、楽器を持ったカラフルな伎楽天が所狭しと並んでいるのが特徴。
今にも音楽が聞こえてきそうな賑やかな窟であるが、後世の彩色がきつく彫像そのものもチマチマとやや定形化してきた感があり、どちらかといえば煩雑でうるさい印象の方が強く、ここまでくれば食傷気味というのが正直なところ。
ところが、次の13窟へ移ると印象は一変する。


[第13窟]

大きな洞窟の中一杯に本尊交脚弥勒菩薩像が彫り出され、像高は約13mという巨大仏である。

第13窟 交脚弥勒仏
 
本尊バックの光背部は風化がみられるが、側壁、天井は風化も少なく多数の仏龕や火焔、双竜文が鮮やかな色彩で残されている。
面白いのが本尊右手の下にある小さな像。本来は施無畏印の本尊右手の重量の支えの役割を果しているものであるが、胸にX状の条帛を纏い4本の手で腕を支える力士像(?)の姿であらわされている。
ガイドのGさんによると当時の像との説明であるが、自分としては感覚的ではあるが雲岡期の像とはとても見えない。
唐代の作といわれれば抵抗はないが、いずれにしても後世の補作ではないかとの思いを強くする。

この他、Gさんから、明り窓東側の菩薩立像が見どころとの説明があり、かなり高い位置にある像でもあり外の広場よりズームで写真をとる。
体に密着した薄い衣を浅い線刻で流れるようにあらわし、胸に変わった瓔珞をつける菩薩像で、確かに西域、インド風の趣きがあり、できれば間近で見てみたい像ではある。

この13窟は、後世の像も混在しているようだが、こういう造形をみるとかなり早い時期に作られた窟ではないかとも思う。
13窟を過ぎたあたりから一旦崖が途切れ、14窟から先にまた断崖が続いている。


[第14、15窟]

14窟は外に二本の石柱があり内部をのぞくも、風化か破壊か不明だが特段関心を惹かれる像もなく次に移る。

15窟は痛ましい窟である。外部に露出している龕は残念なことに人為的に破壊され無残に穴が開いている。
内部の西側の壁も一部破壊され隣の16窟まで貫通している箇所もみえる。
海外に持ち出された像もあるようであるが、幸い日本ではなさそう。
1937年日本軍が大同を支配下に置いた時も雲岡石窟は保護されたようで、ここでは日本の悪評を聞くこともなくホッとする。


[第16〜20窟]

ここから、前述の曇曜が460年に建議し文成帝が発願、造営した初期の大石窟群、所謂「曇曜5窟」が始まる。
5つの石窟は、当時の「皇帝即如来」思想のもと、北魏の初代皇帝道武帝から、明元帝、太武帝、景穆帝、文成帝の5人の皇帝を模して、五尊の大像を掘り出したものという。


[第16窟]


第16窟主尊 釈迦立像
  入口の柵より上を見上げてみる。
中央部に高さ13.5mの釈迦立像が右手を胸に上げ左手は垂下して立っているが、腰から下の体部は損傷が激しい。
顔つきは面長で鼻筋が通り、頭髪はガンダーラ風の波状、着衣は中国風の褒衣博帯式で胸前に一見ネクタイのような衣を垂らす。
雲岡初期の像とは明らかに服装が違っており何らかの事情で後期あるいは龍門期の頃に補作されたものか。
ネクタイのような衣というのは、内衣を縛った紐を結び目から外に垂らしたもので、昨年訪れた龍門賓陽中洞の本尊も垂らしていたがそれよりも長い。
この着衣をガイドのGさんは朝鮮族の女性の服装に似ていると評したが確かにそういう印象はあり。


[第17窟]

正面中央に高さ15.6mの交脚弥勒仏がほとんど窟いっぱいに彫り出され、頭は天井についているのではないかと思われるほどである。

宝冠を被り身体に瓔珞、釧をつけている菩薩形式の像で、左手の肘の下には13窟本尊のケースと同様腕を支える支柱が残っているが、手の先は失われ顔面、体部とも全体に風化が進んでおり痛々しい。
この窟は入口に下へ降りる階段がありそのすぐ前に巨大な足がみえるので、他の窟より基底部が1〜2m低くなっているようである。
上から掘り進めた際、下半身が寸詰まりになってしまったためであろう。
これだけの巨像をピッタリ床面に納める方がかえって難しいのかもしれない。


[第18窟]

この窟も内部へ入ることはできないが、入口の上の明り窓が大きめに開き外から本尊の上半身、下半身の一部がよく見える。

    
第18窟本尊                         同 脇侍仏


釈迦と思われる立像で高さは15.5m。
偏袒右肩で袈裟を身につけ、右手は垂下、左手は胸前に挙げ衣の端を持っているようにみえる。
左手で衣の端を持つスタイルはガンダーラ、西域でもしばしばみられる形。
目鼻立ちのはっきりしたややきつい顔だが堂々とした体躯の像で、袈裟には小さな仏像が多数彫りこまれ「千仏袈裟」と呼ばれている。
入口の柵より窟内を見渡すと、本尊の左右の壁に通肩の大きな脇侍仏が立っており、その間に脇侍菩薩を配する構成。
そして、菩薩の上部に比丘姿の十大弟子が彫り込まれている。

ただ残念なことに脇侍菩薩、十大弟子とも体部の損傷激しくほとんど頭部しか残っていない。
雲岡の風化は石窟の背後から滲み出してくる湧水の影響が大きいとのことで、体部は高浮彫とはいえ岩壁に付いているのに対し頭部はほぼ丸彫りに近いため残ったのであろう。
さて、この菩薩・十大弟子であるが、菩薩の宝冠といい比丘の顔の表情といいリアルな表現で、あるいは唐代の工人の手が入ったかと思うほど彫刻技法的に優れた彫像である。
この窟は本尊も含めなかなか見ごたえのある窟である。


[第19窟]

19窟は外側左右に小型の脇洞を持つ三窟一組の構造で、雲岡最大規模の石窟。本尊は像高17mの巨大坐像。

右手を胸前に挙げ左手は膝上に置いて衣端を持つ、たくましく量感あふれる像である。
下から見上げると顎の部分が大きく欠損しており、なんとなく昔のブリキのロボットを連想させるような顔つき。
右肩にも衣がかかる偏袒右肩(涼州式偏袒右肩)で衣の線は浅く体に密着しているよう。
内部の壁面に薄い衣を通肩に着るグプタ期マトゥラー様式の釈迦立像があるとのことで期待していたが、入口柵の左側南壁裏にあるとのことで見ることができず誠に残念。

第19窟と左隣の第20窟
 
一方、左右の脇洞はともに地面より5m位高いところに掘られており、外から眺める他ない。
向って右側の洞は前面に壁がありよく見えないが、左側の洞は外壁が崩れているのでよく見える。
高さ7〜8mはあろうかという大きな仏椅坐像である。
顔つきは雲岡仏形式にも拘らず着衣が(本尊と違い)中国式であることから後に捕刻されたものか。


[第20窟]

さて、いよいよ雲岡といえば写真でも必ず出てくる有名な大仏との対面である。


第20窟 露坐大仏


もとは他の窟(16〜19窟)と同様に入口や明り窓を備えた洞窟内にあったとのことであるが、かなり早い時期に外壁が崩壊し現在は露坐の像となっている。
両膝等下半身は当初の姿を伝えないが胸より上部はほぼ完全な形で残っている。
顔はふくよかで、眼は大きく開きしっかり前方をみつめ生きているような感じ。
両耳を肩まで垂らし肩幅も広くガッシリとした体格でなかなかに威厳がある。
像高は約14mと、昨年訪れた龍門石窟奉先寺の盧舎那仏の17mには及ばないが東大寺の大仏とほぼ同じ高さである。
着衣はやはり涼州式偏袒右肩で、手は定印を結ぶ形。比較的厚手の衣に衣褶を刻み、胸前等衣の端部はジグザグ状の模様が明快な彫りであらわされ、これが特徴となっている。

本尊の向って右にやや胴長短足、通肩姿の脇侍仏が立っているが、三尊を構成していたはずの左側の脇侍は崩れたのであろう、姿を見ることができない。
この窟は露座で風雨にさらされていた割に保存状態が良く、特に本尊の光背はよく残っている。
光背は所謂火焔光背で頭の後ろに蓮華紋を置き火焔帯や小仏坐像が取り囲み、その外側に供養者像や飛天が刻され、これだけでも充分見ごたえがある。

第20窟横のテラスより
 
ひとつひとつ間近でみたいものであるが、かなり高いところにあるので遠くから双眼鏡で眺める他はないが、幸いにして大仏の左側に観光客のための絶好の写真撮影ポイントになっている高台のテラスがあり、ここに昇って再度注視してみる。
ここからは本尊の横顔もよくみえ肩に届こうかという長い耳が否が応にも目につく。
ふっくらとした顔立ちには薄く口ひげもみえ、眼には黒い鉱石のようなものを後に嵌め込んだような跡もよくみえる。
細部はともかくとして全体にボリューム感、存在感充分で、この像の悠揚迫らぬ風貌、両肩を張った堂々とした体躯は北方遊牧民の素朴な(王者としての)逞しさをあらわすものであろう。

流石に雲岡石窟のシンボルにふさわしい力強さあふれる像で強く印象に残った。

一同記念撮影して、この後少し自由見学の時間をもらう。


[第21窟以降]

20窟から先には、続いて中小型の窟が並んでいるが、いずれも孝文帝の洛陽遷都以降のもので見るべきものに乏しいとのGさんの話で、窟番号は不明だが内部に塔が建てられた窟を見る程度にとどめる。

この日は天候にも恵まれ、空気も乾燥しているので暑さを全く感じさせない。
時間は昼過ぎになっていたが、立ち去り難く再度13〜20窟の窟前をウロウロし、暫く余韻に浸った後20窟前方の出口に向う。

見るべきものは一通り見たつもりであったが、後からよく考えてみると第5窟から入ったので第1〜4窟へは行っていないことに気付くが時既に遅く、特に雲岡最大の窟で初唐期の三尊像がある第3窟を見ることができなかったのが唯一心残り。



4. 全体を見たところで、自分なりにおさらいを兼ねて雲岡石窟全体を概観してみたい。

造営された時期と造像の特徴でみると、通常大まかに三期に分けて語られることが多いようである。

[第一期]雲岡初期の、第16〜20窟

初期の特徴は何といっても圧倒されるような巨像の窟。

北魏の5人の皇帝を模したといわれる如く、堂々とした体格で遥か前方を見据える、
まさに王朝の権威をみせつける造像である。
ただ、何故か各窟とも主尊は(一部開口部を除き)壁の中にあり、外部を威圧するというよりはなんとなくオリの中にいる猛獣のような印象を受けなくもない。(見る側も下から見上げるが接近しすぎて全体像がやや掴み難い。)

洞内で仏像=皇帝を見上げ足元にひれ伏させるためのものか意図は不明であるが、あえて推測すれば、開鑿直前の時期に排仏の嵐が吹き荒れ仏像・仏典が徹底的に破壊された曇曜のいわばトラウマにより容易に破壊されない巨大仏を前壁にガードされた窟内に掘り出したものか。
(当否はともかく、その後の歴史の変遷にも耐え奇跡的に残されてきたのも事実。)
彫刻、造像面での特徴は、いずれもダイナミックな巨像で、16窟を別にすれば、着衣は偏袒右肩(涼州式偏袒右肩)で体に密着、一部に通肩の像を配す。頭に螺髪をあらわさず、顔は丸顔だが彫りが深く鼻梁高く耳は長い、当時の中央アジアから河西回廊で流行した造形か。


[第二期]洛陽遷都までの、第5〜13窟

第一期が彫像本位のシンプルな窟であったのに対し、第二期に入ると、窟全体が装飾的となってくる。

柱、天井、壁面装飾に建築様式が取り入れられ、ガンダーラ的モチーフの仏伝図が出てくるのも特徴。
造像面では、13窟を除き巨像はみられず、多くの仏龕に釈迦、交脚・半跏弥勒像の他に釈迦・多宝の二仏併坐像、文殊・維摩等多様な仏が彫り出され、顔つきはやや平面的、温和な表情で全体に力強さがなくなり、初期の曇曜5窟のように強烈な印象を残す像もなかった。

服装については、窟にもよるがインドマトゥラー風の着衣が体に密着した像から、次第に中国化の傾向が出てくる。
インド、西域的要素が強い窟は、シヴァ神、ビシュヌ神、天井の飛天群に驚かされた7、8窟とそれに続く9、10窟で、これらは第二期でも早い時期と思われ、後期の窟は5、6窟とみられる。
6窟も西方色の濃い圧巻の窟であるが、ここで一部出てきた褒衣博帯式の中国服が洛陽遷都後の龍門石窟賓陽中洞へ続き、そして大きくはこの北魏様式が法隆寺釈迦三尊像へと繋がっていくことになる。

なお、13窟の造像時期については定説をみていないようだが、曇曜5窟に匹敵する巨像窟であり、16窟の右隣(15,14窟のある辺り)には大きな岩山がないので、更にその右の13窟の位置に何らかの事情で16〜20窟に次いで皇帝を模した窟を造ったと考えるのが自然のような気もする。


[第三期]洛陽遷都以降の、第4,14,15窟、第21窟〜

洛陽遷都以降では(第4窟をみていないので何ともいえないが)窟内外の小龕で見る限り、痩せ気味の顔、長い首、なで肩で褒衣博帯式服装の、まさに龍門石窟古陽洞の本尊を思い起こさせるような造像が目に付いた。


余談ながら、この時代にこれだけ多様な文化が流入し造形に反映された背景としていわれるのが、各地から集められた工人の存在である。
記録によると、北魏の初代皇帝道武帝は山東省、遼寧省の36万人、工人10余万人を、三代皇帝太武帝は平定した涼州(河西回廊)の僧侶、官吏、工匠等の人民3万余家(10〜20万人?)を、各々平城(大同)に強制移住させたという。
前述の通り曇曜もこの時涼州より来たもので、彼が北魏の強力な国家権力を背景に、中国の伝統的工人と西方の文化に染まった涼州の工人を指揮して造らせた、いわば東西文化融合の記念碑的な造形作品ということもいえようか。
インドから中央アジアを経て河西回廊で流行し、中国で徐々に定着あるいは変化していく過程の意匠が随所に見られ実に興味深い。


これで中国三大石窟を一通り訪れることができたことになる。

各々特徴があり趣きが違うものの、あえて対比すれば、

@敦煌では仏像は比較的少なく壁画が主体なだけに素人の印象としては一つ一つのインパクトはさほど大きくないが、時代の幅が広くとてつもなく奥が深い感はあり。

A龍門は雲岡に続く時代の石窟であるが急速に西域色が薄くなり、いかにも“中国の仏像石窟”という感じ。石窟の規模は雲岡より大きいかと思うが、奉先寺洞以外は内容的にややダイナミックさに欠ける感。
ただ、断崖の石質が、雲岡が砂岩であるのに対し龍門は硬い石灰岩質であり掘削に相当の苦労があったことは想像に難くない。

B雲岡については印象が新鮮なこともあるが、西から来た仏教と北方から来た遊牧民鮮卑族との出会いがいわば強烈なエネルギーを産み、造像の雄大さと内容の豊富さ、濃密さという点では群を抜くのではないか、と思う。


多様な文化が渾然一体となって溶け込んだ「石刻芸術の世界的遺産」として芸術的価値は極めて大きいものがある。
よくぞ今日まで継承されてきたとの思いを強くする。
はるばる訪ねてきた甲斐があったというものである。感動しつつ雲岡を後にする。


5.この日はこの後大同市内にある、遼、金代の建物、仏像が残る華厳寺(上華厳寺・下華厳寺)に行きたかったが、華厳寺は現在大改修工事中で当分の間拝観不可とのことで、善化寺、九龍壁に案内される。

下華厳寺については出発前より薄迦教蔵殿にある遼代仏像の逸品といわれる塑像群を楽しみにしていたが残念である。

市内南部にある善化寺はあまり期待していなかったが、遼、金代の建築様式が残る大雄宝殿と金代初期(12C)に建てられた三聖殿は、規模も大きくなかなか立派な建物である。

善化寺三聖殿
  軒を支える斗きょうと呼ばれる木組みが花弁状に造られており意匠として面白い。
但し、各建物内の仏像については、雲岡の素晴らしい仏像を見た直後でもあり、どうしても浅薄な感じを受けるのも致し方ないことか。

善化寺の前の広場は賑やかで、トランプや賭け事に興じている人や、何やら京劇役者風の衣装を身に着けた男を多勢の人が取り囲んでいる様子も見える。
また、広場の前方には、その昔市街地を取り囲んでいた城壁の復元工事が行われている。市街中心部の華厳寺近辺でもかなりひろい範囲で大々的な工事が行われており、そういえば郊外の雲岡石窟の入口周辺でも時代村を思わせるような公園の造成中であった。

ともかく至るところで再開発が行われ、街中が埃っぽいのもそのせいか。街全体が工事ラッシュとなっている背景について聞くところによると、市長の夫人?が胡錦濤主席側近と学友であった縁で資金の優先配分を受けているためとか。
いかにも中国らしいが、ただ資金は全て借入になっているとのこと。(この辺りは交付金主体の日本の方が甘いか。)
おそらくはリーマンショック後の景気刺激策の一環であろうが、バブルを経験した日本人の感覚としてはアクセルの吹かし方が尋常ではない。
果たしてこれで引締めに転じる際のブレーキが利くのであろうか。

このあと、明代(約600年前)に建てられたという現存最大の九龍壁を見学してホテルに戻る。


【その1】←     →【その3】

 


inserted by FC2 system