【掲載にあたって】← →【その2】


 【行 程】 2010年9月3日〜10日

9月3日(金)  羽田空港→北京空港→大同(泊)
9月4日(土)  雲岡石窟→善化寺→九龍壁→大同(泊)
9月5日(日)  応県木塔→懸空寺→恒山→五台山(泊)
9月6日(月)  五台山諸寺→五台山(泊)
9月7日(火)  金閣寺→仏光寺→南禅寺→太原(泊)
9月8日(水)  天龍山石窟→晋祠→玄中寺→鎮国寺→平遥(泊)
9月9日(木)  双林寺→平遥古城→杏花村→太原(泊)
9月10日(金) 太原空港→北京空港→羽田空港 




【その1】



  T.はじめに

中国三大石窟といえば、甘粛省敦煌莫高窟、山西省雲岡石窟、河南省龍門石窟であるが、5年程前に敦煌を訪問しその素晴らしさに魅せられて以来、残る二つの石窟への訪問機会を窺っていたが昨年偶々龍門石窟への訪問が実現。
今年は残る雲岡石窟をぜひ訪れたいとのことで昨年の旅行にも同行のKさん、Iさんとも幸い意見が一致し、この度雲岡を中心に山西省を巡る旅が実現する運びとなった。

山西省は、北京から見て西南の位置にあり、太行山脈の西にあることからその名がつけられた。
(対して東にあるのが山東省である。)
いわゆる黄土高原の上にあり、全体の80%が平均標高800〜1500mの山地という山がちな内陸部の省である。
北は内蒙古自治区に接し、地理的な位置関係から北の遊牧民族と南の漢民族の争奪が繰り返された地で、古くから文明が栄え、また近世でも清代には山西商人として豪商を輩出した土地柄でもあるが、中華民国以降保守的な地域政策をとったこともあり、現在の中国では沿海部と比べるとやや開発の遅れた地域となっているようである。

ただ、地下資源には恵まれており、中でも石炭の大産地として知られている。
中国は世界一の石炭産出国であるが、その四分の一は山西省で生産されているらしい。
石炭産業は近年の急速な経済の膨張で引続き活況を呈しているようであるが、反面、大気汚染の問題や、最近ではエネルギー転換に伴う国有企業の改革、統廃合が進められる中で失業問題も抱えているという。
また、この資源もあってか、日本との関係では1937年の盧溝橋事件をきっかけに日本軍が早くから進駐し、その軍事的圧力により相当な犠牲を強いられた地とのことで、この辺りの事情は最近の日本では知る人も少なくなっているのではないかと思う。


U.9月3日(金)

1.朝、羽田を発ち昼頃北京空港に到着。
この日は雲岡石窟のある大同まで移動する予定である。

大同は北京より西へ400kmの地にあるので鉄道ルートが早いかと思えば、列車では6時間かかるのに対しバスなら5時間程度とのことにつき、空港よりタクシーで市内西部の長距離バスターミナルへ向う。
北京市内は街の規模が大きい上に高速道路の混雑もあり移動に1時間半程度はかかったであろうか、ようやく六里橋ターミナルに到着しここからバスに乗ることになる。
予めKさんが切符を手配してくれていたお蔭でスムーズに乗車でき、2時40分ほぼ定刻の時間に発車する。

バスは市内を抜けるのに時間を要したが、これを抜けると巡航スピードとなり、暫くして前方に山が見えてきたかと思えばすぐに山中に入っていく。
そのうち居庸関長城の楼閣が前方に見え左右に長城が山の上まで続いている。
更に20分位して右手に有名な八達嶺の長城横を通過する。古来北方からの脅威に絶えずさらされ市内からかくも近いところに長城を築かざるを得なかった北京の(地政的)ロケーションに驚く。
道路はトラックが圧倒的に多く途中渋滞にも出会うが、それを抜けるとスピードアップし快適な高速走行となる。
バスの進行方向正面に太陽が傾き始め西へ向っていることを実感。
夕方の沈む太陽を追いかける如く黄土高原を延々と走るが、さすがに大同へ着いたのはとっくに日も暮れた夜の7時45分頃で、約5時間のロングドライブであった。

2. 大同市は山西省北端の位置にあり、ここでも20〜30kmすぐ北方に長城壁が残っているとのこと。
そのすぐ北は昨今話題のレアアースの産地である内蒙古自治区で、ここまでくればフフホトまで眼と鼻の先ともいうべきところにある。
ホテルへは8時過ぎに到着するが、ロビーではKさん事前手配の通訳兼ガイドが我々の到着を待っていてくれたようで、挨拶もそこそこに明日以降の旅行スケジュールにつき打合せを行う。
現地ガイドはGさんという40才台の女性で、予めKさん下打合せの通り男性運転手とともに5日目の太原まで同行してくれることになった。


V.9月4日(土)

1.この日は、いよいよというか、いきなりというべきか、今回の旅行のメインである雲岡石窟見学の日である。

朝から快晴で、幸い天候の心配はないようである。
雲岡へ向う途中、Gさんから大同市の概要につき説明を受ける。
大同市は山西省の省都である太原に次ぐ省内第2の都市で人口約300万人。
石炭産業従事者も多く石炭による火力発電で北京などへも送電されているとのこと。
市内が埃っぽいのもそのせいであろうか。
歴史的には、南北朝時代398年から494年まで北魏の都「平城」として栄え、雲岡石窟を開くなど北方仏教文化の中心ともなった。
因みに、日本に仏教が伝えられるのは6世紀に入ってからのことで、飛鳥〜奈良時代初期の仏教は北魏の影響を強く受けたもの。奈良の都が「平城京」と称せられたのも北魏の都「平城」に因んでのことといわれている。


2.さて、雲岡石窟は、大同市から西へ15〜16kmの地にあり、北魏の時代に武州山の南崖地に東西1kmにわたり穿たれた仏教大石窟で、2001年に世界遺産に登録された。

雲岡石窟開鑿に至る北魏の歴史をガイドブックでみてみると、

@北魏は北方遊牧民鮮卑族拓跋氏の建てた国で、初代皇帝道武帝が398年河北を支配し平城(大同)に遷都。
A第3代太武帝が439年涼州(河西回廊)を平定し涼州の人民を平城に強制移住。
B太武帝はのち道教に傾倒し仏教を弾圧するが、後を継いだ孫の文成帝の時に仏教復興。
C460年、涼州より平城に連れて来られた僧の一人曇曜の建議により雲岡石窟の造営がスタート

の流れとなる。

以来、主要な窟は、494年6代孝文帝が都を洛陽に移すまでの34年の間に造営が進められ、洛陽遷都以降も規模を小さくして掘り続けられたとのこと。


3. 朝9時過ぎにGさんの案内で入口前の広場に到着。

雲岡石窟入口前広場
 
この日は土曜日ということもあってか広場には大勢の観光客が集っているが、ほとんどは中国人のようである。
入り口正面奥に武州山の断崖と楼閣の屋根が見え、念願の地に「遂にやってきた」ことに気持ちも高まる。

Gさんには、充分時間をとって見て回りたいことと、通常の見学ルートの他に特別(有料)窟があれば入って見たいことを依頼するが、主要窟のうち内部まで開放されているのは第5、6窟のみで、敦煌のように別途料金を支払えば中まで拝観できる窟はないようである。

入口内部正面の景観
  さて、いよいよ入場である。入場料は130元であったか、最近以前の60元から値上げされたようだが、近々更に値上げが予定されているとのこと。
入口より寺院の中庭のようなところを抜けていくと視界が開け、断崖に石窟の入り口が並び正面には木造四層の楼閣が建っている。

第5窟の外部を覆う建物で清代に修築されたものとのこと。まず、この5窟よりGさんの説明を受けながら見学していくことになるが、この窟と隣の6窟は内部へは入れるが写真撮影は厳禁とのことで、Gさんからも念を押される。


[第5窟]


第5窟入口より
  前室を経由して後室に入ると、大きな洞窟の中央に巨大な仏が座っておりいきなり度肝を抜かれる。
雲岡で最大といわれる釈迦坐像で高さは17m。
堂々とした重量感のある像であるが、両肩を覆う中国風の服を着て金色に輝き、頭も螺髪姿で青く着色されている。
一見して雲岡期の仏ではないと思われGさんに早速質問。
やはり後世の泥粘土と彩色の上塗りでもとの姿が隠されているとのこと。膝下のあたりをよく見るとかなり厚く粘土が盛られているようである。後ろの壁には 火焔光背がこれまた彩色され高い天井まで達している。

周囲の壁には小ぶりの仏龕、装飾がかなり高いところまでビッシリと彫られ彩色されている。
また、本尊と向い合う入口側の壁の両角に五重の塔を背負う象の姿もみえ、全般に周囲の壁面は流石に雲岡の雰囲気を漂わせている。本尊の左右の壁には高さ7〜8mはあろうか、大きい如来像が各一体立っており本尊とともに三世仏を構成している。
Gさんの説明によれば、過去仏としての燃燈仏、現世の釈迦、未来仏弥勒の三尊とのこと。
日本で三世仏といえば、通常、阿弥陀(過去)、釈迦(現在)、弥勒(未来)ということになるが、Gさんによると、それは「ヨコ三世仏」であり雲岡での組合わせは「タテ三世仏」との説明。
いずれにしても、窟内は雲岡造像期の仏と後世に手が加えられた仏とが混在しやや不釣合いの感は否めない。

文革直後に訪れたフランスのポンピドーが周恩来の許可を得て上塗りを剥がし北魏仏を蘇らせたという話があるのもこの窟で、この本尊も泥粘土をとったところをぜひ見てみたいものである。


[第6窟]

第6窟は第5窟と対として造られた、これまた大きな窟だが、後室内部は中央に塔柱を配し周囲を回廊状に掘り出した形の、インド、西域でもしばしば見られる所謂チャイティア窟である。

塔柱は高さは15mもあり、四面各々の上層部に仏立像、下層部に仏坐像を配している。
上層部は見上げてもよくわからないが下層部の四面には、正面の南から右回りに、釈迦と思われる坐像、椅坐仏像、釈迦・多宝の対坐像、交脚弥勒菩薩像が配され、どれが本尊かよくわからないが、いずれも丸彫りに近く彫り出され立体感がある。
ただ、入口すぐ正面の(釈迦)坐像は後世の補修のためか5窟の本尊同様周りの雰囲気とマッチせず残念。

とはいえ、この窟は「雲岡第一の偉観」と称される如く、窟内には仏菩薩のみならず飛天、供養天像をはじめ、瑞鳥、神獣、西方文様等が、塔柱及び周りの壁という壁に隙間なく彫刻されており見る者を圧倒する。
造形上のテーマとしては、ガンダーラでよく見られる仏伝図のレリーフが柱と周囲の壁に帯状に表現されており、各々の場面につきGさんの丁寧な説明を受ける。

    
(参考図版)第6窟内部


仏像の変遷という点で注目されるのは、所々の仏龕の如来像の着衣にそれまでの時代のものと違う中国式服制が新たに導入されている点。
大衣といわれる厚手の衣で通肩に体全体を覆い袂と裾を外側に開く形で、これはまさしく昨年訪れた洛陽龍門石窟賓陽中洞の三世仏の着衣形式に繋がるもの。
この窟が孝文帝の洛陽遷都直前に完成されたといわれる所以である。

この他、入口上の屋形状の龕には、維摩・文殊が釈迦を挟んで対坐する珍しい形であらわされるなど、ひとつひとつ見ていけばキリがないほど見どころに事欠くことはない。
やや装飾過多の感なきにしもあらずであるが、窟の完成度は極めて高く相当綿密な設計図のもとに制作されたものであろう。
仏伝図、西方文様をはじめインド・中央アジア風造形表現の中に中国化の流れが入り込み、更に龍門への繋がりという視点もあり実に興味深く、また保存状態も良好で流石に雲岡第一の窟といわれる素晴らしい窟である。塔柱の周りを何度となく回り次の窟へ移る。


[第7窟]

7窟と8窟も一対の窟で、開鑿初期の第16〜20窟(曇曜5窟といわれる)に続き造営された比較的早い時期の窟といわれている。

ここも前室後室に分かれているが、さほど奥行きは深くない。
後室入口に柵があり中へ入ることはできないが、正面の北壁上段に三体の仏が並んでいるのが見える。
暗くて見づらいが、中央に交脚弥勒菩薩、両脇に椅坐の如来の珍しい三尊形式で、その左右に半跏像が、そして下の段には釈迦・多宝二仏併坐が配されている。
ただ、いずれも風化が激しい。
半跏像は日本でも金銅仏、広隆寺木彫像等、朝鮮半島系の像によく見かけるが、交脚像は不思議に伝わってきていない。
足をX状に組む交脚の坐り方は西域の遊牧民の王者の坐り方ともいわれ、中国の習慣にもなかったようである。

ガイドブックによると後室南壁に美しい供養天像、流麗な交脚菩薩像等いくつか見どころがあるようであるが、南壁を見るためには後室の内部より入口を振返ることが必要であり中へ入れない以上残念ながら見ることはかなわず。
ただ、ここの天井は見事である。洞内をひとつの建物(仏堂)と想定しているのであろう、天井を格子形に仕切り、格間には蓮華を中心に回る飛天の浮き彫りがよく見える。
彩色が施されているので生き生きとして躍動感があり、高い天井を見上げているとレリーフと絵の違いはあるが、バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画を連想させるような感あり。


[第8窟]

7窟と同形式の奥行きの浅い窟で仏像の風化が激しいが、ここの見どころは天井と後室入口門のレリーフ。

天井は7窟同様豪華な格天井形式で、やはり大きな蓮華の周囲を飛天が優雅に舞う見事なもの。
そして、興味深いのは何といっても後室入口のアーチに彫られたインド神のレリーフで、東側に水牛に乗る三面八臂のシヴァ神、西側にガルーダに乗る五面六臂のヴィシュヌ神があらわされている。
柔らかな身体表現でヴィシュヌ神の髪はカールしている。
ともに手に日月、半弓を掲げ、シヴァ神は葡萄房を、ヴィシュヌ神は小鳥を胸前に持ち、まさにインド的な像そのもの。
ヒンドゥーの神が仏教の守護神として取り入れられたものであろうが、中央アジアならともかく中国の中心部にまで古代インドの神がそっくりそのまま表現されていることに驚きとともに感動。
7窟のアーチにも類似の図像があったが状態はこちらの方がよいので、ここは写真撮影OKを確認し何枚かカメラに収めることができた。

  
第7窟アーチ門         第8窟 シヴァ神           同 ヴィシュヌ神

 
 
[第9、10窟]

9、10窟は7、8窟に続いて造営されたこれも双子の窟。

外観は入口に列柱が立ち並ぶのが特徴でインドの石窟を思い出させる。
柱から中へは入れないが、前室の一見してカラフルな装飾に眼を奪われる。
前室の壁から明り窓、天井に至るまで夥しい仏龕、飛天、供養天、諸文様に溢れ、あまりの装飾に見る側も焦点が定まらない。
注目されるのは、10窟正面の後室入口開口部の上にある須弥山のレリーフと左右に配される護法神と思われる多臂の像。
興福寺の有名な阿修羅の中国でのルーツのひとつという説もあるらしいが、見た感じでは8窟のシヴァ神、ヴィシュヌ神をコピーして置き換えた像という感じの方が強い。

    
第9・10窟全景                         第9窟前室


前室の装飾は清代後期に補修、彩色されたとのことで当時の雰囲気は窺い知れないが、地面に近い下層部では剥落しているところも多い。
その部分の壁に小さな穴が沢山開いているところを見ると、粗々に岩を削った上に漆喰を盛り造形したのではないかと推測され、穴はそれを岩に杭で留めていた跡ではないか、そのためこれだけの細かいある意味執拗な装飾ができたのではないか、とも勝手に想像するが、この辺りは彫刻面を実際に触ってみないとわからないところ。


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