〈その5−9〉
【2017年10月11日〜10月20日】
〔四川省 古仏探訪の旅〜旅程地図〕
【目 次】
T.はじめに
U.古仏探訪の日々
10/11(水) : 成田⇒上海⇒広元
10/12(木) : 広元 皇澤寺 千仏崖 (広元造像概観)
10/13(金) : 広元→巴中 南龕・西龕 (巴中造像概観)
10/14(土) : 巴中→中 中大仏 中故城
10/15(日) : 中→綿陽 碧水寺 綿陽博物館
10/16(月) : 綿陽→梓潼臥龍山千仏崖→綿陽
10/17(火) : 綿陽→成都 四川博物院
10/18(水) : 成都→蒲江飛仙閣・龍湾→成都
10/19(木) : 成都 四川大学博物館 成都市博物館
10/20(金) : 成都⇒成田
V.四川の仏教造像について
1.ロケーションと文化の伝播ルート
2.造像の変遷について
W.旅行を終えて
≪ 10月17日 ≫
@旅行も7日目。
巴中以降は雨にも遭わず、ここまでは順調である。
今日は列車での移動でバスと比べ何かと気楽な感もある。
中国の駅ではいつもそうだが列車が到着してから改札が始まるので、発車時間が迫る中荷物を抱えてホームまで走り、ホームでも指定の号車がれていれば座席に着くまで慌ただしいことこの上ない。
指定の号車に乗ったら乗ったで車内は大混雑。
人をかき分けようやく席に辿りついたら既に他の人が坐っている。
我々の席には一見奥地から来たような親子3人連れが坐っていたがどいてもらう他ない。
ようやく席に落ち着きあとは気楽な列車の旅となる。
旅慣れたKさんは早速前の席の高齢の3人連れと会話を始め話が弾んでいる。
A成都へは11時過ぎに到着。
駅を出てまずはホテルに向う。
成都はさすがに大都会。
広元からここまで南下してきたこともあり確かに少し暖かく感じるが、街の空気はあまり良いとはいえない。
成都はいわずと知れた四川省の省都で人口約1600万人、中国西南エリアでは重慶と並ぶ代表的な都市である。
古くから気候温暖で物産豊かな「天府の国」と称される四川盆地の中心地で、現代でも産業、技術、情報、人材などが集中し経済発展を遂げている大都市である。
Bホテルで荷物を預けた後、まずは本日のメイン四川博物院へ。
今回の旅行の目的の一つはここで開催されている「梵天東土展」と常設展示の「成都万仏寺出土仏像群」の見学。
「梵天東土展」は西暦400〜700年のインドと中国の仏教彫刻の変遷をたどる展覧会で、本日のメインというより今回旅行のメインの一つでもある。
【 四川博物院 】
四川博物院
・旧名四川省博物館。
2009年市内西部の青羊区に新設移転された、省内考古発掘品、伝世品を中心に展示する総合博物館。
入場無料は有難い。
青銅器、漢代墓出土品、陶器、書画など多くの展示があるが、それには目もくれずまずは「梵天東土展」へ。
(1)「梵天東土展」
・前半はインドの仏像展示。
時代的にはクシャン朝初期段階からパーラ朝に至るまでの多くの仏像が並んでいる。
ここでは一つ一つ取り上げる紙幅もなく詳しくは省略するが、最も目を奪われたのがグプタ期のマトゥラー仏である。
[如来立像]
頭部と手先を欠くが、通肩に纏った衣の襞が体全体に波状に広がり、薄い衣を通して壮健な肉体が表現されている。
マトゥラー如来立像
グプタ期マトゥラー仏を代表する美仏で、2011年インド旅行の際訪れたマトゥラー博物館で見た完好像は、端正で瞑想的な顔立ちとともに深い精神性、見事な体部の表現に感じ入ったが、その記憶が甦りあらためてその凄さを実感する。
・インド仏を一通り見た後は中国の仏像展示である。
この特別展のために国内各地から代表的な仏像を集結させただけに見所いっぱいで見入った像は数多いが、自分なりに気になった像を中心に以下記述。
A.南朝の仏像
・まずは南朝、南斉期の仏像から3体。
1.[茂県:永明元年(483)造像碑]
永明元年造像碑
成都から北へ岷江を遡った茂県出土の造像碑で、銘から西涼の比丘釈玄高によって造られたことがわかっている。
一方の面に無量寿仏、もう一面に弥勒仏を浮き彫り状にあらわすが、この像は紀年銘のある中国式着衣の最古例として知られている。
また、既に衣の裾を前面に垂らす裳懸坐形式があらわされている。
2.[西安路:永明8年(490)弥勒三尊像]
永明8年弥勒三尊
上記の像とほぼ同時代のこれも貴重な作例。
茂県はやや北のはずれにあるが、この像は成都市内の西安路から出土したもの。
「比丘釈法海…造弥勒成仏石像一躯…」との銘文があり、中尊弥勒仏に呼応するように背面にも兜率天上の交脚弥勒菩薩が中国式建物の中にあらわされる。
中尊は大きな光背に両脇侍を従え、中国式服装、施無畏与願印で笑みをたたえ、前面に裳懸坐をあらわすが、この形式はまさに法隆寺の釈迦三尊像を連想させる。
釈迦三尊といえば龍門石窟の賓陽中洞が引き合いに出されることが多いが、この像こそ真っ先にいわれるべきであろう。
3.[商業街:建武2年(495)仏三尊像]
建武2年(495)仏三尊像
市内商業街出土。
上記2とほぼ同形式の三尊像で光背上部と左脇侍を欠く。
背面の銘文では「荊州道人釈法明…敬造観世音成仏像…」とのことだが、中尊は明らかに如来形につき「観世音成仏像」とは阿弥陀を指すものか。
上記1と2の像に「西涼の比丘」銘や“交脚弥勒”の表現などから北の影響が窺われるのに対し、本像では銘の前半部の記述で「長江中流域出身である(首都建康の僧)釈法明が造像…」とみられるように当時の建康(南京)の情報が入った像と思われるので、南斉代は双方の影響が微妙に混交した時期であったのであろう。
・続いては南朝、梁代の仏像。
以下、ほとんどは南朝仏教美術の最盛期、武帝代のものである。
4.[商業街:天監10年(511)釈迦五尊像]
天監10年(511)釈迦五尊像
一つの光背に1仏4菩薩の五尊像をあらわす。
銘により「仏弟子王州子による釈迦像」であることがわかる像。
中尊釈迦はいわゆる秀骨清像スタイルで、胸前から結び紐を垂らし衣の裾を左右対称に開く。
頭には螺髪をあらわすが、螺髪の像としては早い作例であろう。
菩薩はX字状の天衣をつけ、また光背頂上部には三重の塔がみえる。
5.[万仏寺:中大通元年(529)釈迦立像]
万仏寺出土の単独像。
中大通元年釈迦立像
頭部を欠くが、ほぼ等身大の体にあらわされた流麗な衣の線が美しい。
薄い衣が体に貼り付き胸から腹にかけての体躯の起伏もよくあらわされ、インド仏のコーナーで展示されていたグプタ期マトゥラー仏を思い出す。
山東省龍興寺址から出土した像の中にも類似の像があり関連性が気になるところ。
なお、この像の銘文には「 陽王世子西上於安浦寺敬造釈迦像…」とあり、益州刺史に任じられた 陽 (はよう)王の世子に付き従い西上した道猷 (どうゆう)母子による造像とのことで、これも建康での最新様式を踏襲した像とみるのが自然であろう。
・さて、ここからは梁代の、背塀式といわれる一光(背)多尊型の仏龕が続く。
今回の旅行で見たかった仏像の一つである。
大きさはいずれも高さ30〜50pくらいで想像していたより小さい印象。
6.[西安路:中大通2年(530)釈迦諸尊像]
中大通2年諸尊像
光背を背に、前列中央に釈迦、2列目に4菩薩、最後列に半肉彫りの4弟子、両サイドに2力士と、左右対称の構成。
銘文には「比丘晃蔵が亡父母のために釈迦像を造る」旨の記述。
中尊の隣り、向って左の菩薩は両手で球状のものを持つが何であろうか。
光背上部には宝塔をあらわすが、この形式の宝塔は法隆寺救世観音の光背上部にもあり興味深い。
7.[万仏寺:諸尊像]
万仏寺:諸尊像
如来坐像を中心に2弟子2菩薩2力士が並ぶ。
中尊の尊格は銘がないので不明。
服装は大衣を何枚か着けた上から右肩にもう1枚衣を掛ける。
台座前に垂れた裳裾の先にはフリル状に衣の襞がみえ、龍門賓陽中洞や麦積山133窟の龕を思い出させる。
像、光背ともほぼ完好に残された貴重な仏龕である。
8.[西安路:大同11年(545)二仏諸尊像]
大同11年二仏諸尊像
二仏並坐像を中心に2弟子4菩薩2力士が立つ。
インド以来の満瓶表現とみられる、壺から茎が伸びた蓮華座上に坐る如来は褒衣博帯式の着衣ながら内衣はV字状にあらわされ、法隆寺釈迦三尊中尊の内衣に似た形。
菩薩はここでも手に球状の持物を持つ。
なお、銘文には「仏弟子張元…敬造釈迦、多宝石像…」とある。
・四川特有の珍しい像の展示もあった。
9.[西安路:太清5年(551)阿育王像]
太清5年阿育王像
背面造像銘に記される「育王像」は、古代インドのアショカ王(阿育王)のこと。
中国では信仰の対象となり各地に阿育王塔が建てられたという。
体のわりに頭が大きく、髪は螺髪でもない瘤状の大粒の髪で、顔はガンダーラ風に口髭をつけ、通肩の衣は短く脛の下辺りから足を出す、という独特の姿。
この像は光背の一部や金箔も残る貴重な像といえる。
なお、銘の「太清5年」は正式にはない(太清は3年まで)が、時期的には武帝没後の混乱期に当たるようである。
10.[万仏寺:仏像台座]
半円形の台座断片。
5〜6人の守護神のような小人物(天部?)があらわされるが、異国風の巻き毛や象頭の人物などインド的雰囲気が感じられる。
梁代も後半期のものか。
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