〈その1−9〉



【2017年10月11日〜10月20日】




〔四川省 古仏探訪の旅〜旅程地図〕


【目 次】

T.はじめに

U.古仏探訪の日々

10/11(水) : 成田⇒上海⇒広元
10/12(木) : 広元     皇澤寺 千仏崖  (広元造像概観)
10/13(金) : 広元→巴中  南龕・西龕    (巴中造像概観)
10/14(土) : 巴中→中  中大仏 中故城
10/15(日) : 中→綿陽  碧水寺 綿陽博物館
10/16(月) : 綿陽→梓潼臥龍山千仏崖→綿陽
10/17(火) : 綿陽→成都  四川博物院
10/18(水) : 成都→蒲江飛仙閣・龍湾→成都
10/19(木) : 成都     四川大学博物館 成都市博物館
10/20(金) : 成都⇒成田

V.四川の仏教造像について

1.ロケーションと文化の伝播ルート
2.造像の変遷について

W.旅行を終えて




T.はじめに



@中国の主要石窟を訪ねる旅も幸いここ数年で回数を重ねることができ、次第に空白のエリアが少なくなってきた。

偶々、インド・中国の大規模な仏像展『梵天東土展』が(未知のエリアである)四川省成都市で9月より開催されるとの情報を得たので、いつも中国旅行に同行いただくKさんと相談のところ、Kさんも数年来の足元不安が解消したとのことで急きょ話が纏まり実現する運びとなった。

旅行プランとしては四川省内の唐代を中心とする石窟と博物館の見学をメインターゲットとし、2014年の河北・山東旅行の際にご一緒いただいた大連在住のCさんにも参加を呼び掛けることとした。


A四川といえば一般的には四川料理、パンダ、三国志などが連想され、通常我々が抱く中国のイメージに近い感はあるが、現代の日本人にとっては経済発展著しい東部沿海エリアほど身近な存在ではない。

中国西南の内陸部で大きな経済・文化圏を持つ四川省を知る機会としても大いに楽しみな旅行である。


B今回我々は、主に南北朝〜唐代の石窟が残存する都市を、北から順に成都まで南下する10日間の行程で計画を組んだが、成都市内を除けばそのほとんどが情報少なく場所も不案内なところばかりである。

中国在住のCさん同行は心強い限りだが、果たして目指す石窟ポイントに辿りつけるか、また辿りつけたとしても見学が可能かなど不安を抱えたまま、やや運任せのような旅が始まる。





U.古仏探訪の日々



≪ 10月11日 ≫


@成田からMU272便でまず上海へ。
上海でCさんと合流し、夕刻「上海→広元」直行便で広元(こうげん)に向う。
約3時間のフライトで夜遅くなっての到着となる。
小雨が降る中、タクシーでこの日のホテル「利州大酒店」へ。


Aいよいよ明日から観光がスタート。 ホテル内のレストランは既に終了していたが、Cさんがどこからか調達してきてくれたビールで前途を祝し乾杯。



≪ 10月12日 ≫


@前夜の雨はあがっていたが曇り模様。
広元は四川盆地の北部にあり北は陝西省と甘粛省に接し、地理的には古来西安(長安)から蜀の中心地成都へ至るルート上の四川側の玄関口にあたる重要な位置にある都市。
このエリアは古くから「利州」として知られ、女帝則天武后生誕の地といわれている。


A初日の予定は市内の「皇澤寺」(こうたくじ) と「千仏崖」の見学である。



【 皇澤寺 (こうたくじ)


@皇澤寺は市街地の西約1km、市内を南北に流れる嘉陵江の西岸にある。
嘉陵江は秦嶺山脈から流れ出る長江の支流の一つだが、支流とはいえ川幅もかなりの大きさである。




皇澤寺 入口


Aこの寺は北魏末期頃の創建と伝えられるが、唐代に則天武后が「皇澤寺」と改名し今に伝えられている。
我々の目当ては寺内に残されている古い時代の窟龕である。


B入口で入場料を支払い現地ガイドを依頼する。
入ってすぐに「二聖殿」と書かれた建物があり、そこから奥の少し上がったところに崖を背にした大きな楼閣が見える。
これがメインの「大仏楼」であろう。

まず、その手前にある第45窟から順に案内を受ける。


[45 中心塔柱窟]
 
・約2.5m四方に開かれた窟龕で中央に方形の塔柱が立ついわゆる中心柱窟。


中心塔柱窟
・柱を囲む三つの側壁には仏龕が彫られ、各面とも中尊坐仏に小ぶりな2弟子2菩薩が付き従う5尊形式の龕。
向って左の中尊は頭部を欠くが、正面と右の中尊頭部はよく残されている。
いずれも双領下垂の大衣に右肩にもう1枚衣を掛ける形式の中国式服制。

・中心柱は上下三段に区分され、中段、下段の各面に仏龕を開く。中〜下段の小仏龕は破損が激しくわかりづらいが、最上段は四隅に相輪を立てた小塔がレリーフ状に残されているのがみえる。

この中心柱で目を惹くのが各層の境部分に表わされた文様で、なかでも垂れ幕状の文様は法隆寺金堂の天蓋にそっくりである。
その上部にみえる卍崩しの欄干文様とともに法隆寺のデザインルーツを感じさせ興味深い。

・側壁の造像は南北朝後期頃のものかと思われるが、中心柱は古様で北魏期の影響も感じられる。


[28 大仏窟]
 
・7C後半、初唐代に造られたという皇澤寺を代表する石窟。
龕の大きさは幅6m、高さ7m、奥行3.6mと楼閣内いっぱいに広がり、想像していた以上の大きな窟龕である。




大仏窟


・龕内に高さ5mの如来を中心に2弟子、2菩薩が立ち並ぶ様は壮観。
主尊は、頭部に螺髪、二重顎の重厚な顔つきに、如来像ながら耳飾りをつけ、壮健な体つきで直立。
手は施無畏与願形だが、左手には宝珠のようなものを持つ。


 

大仏窟屈内の2弟子、2菩薩像


・両側に立つ弟子、菩薩も高さは約4m。
菩薩はX字状の豪華な瓔珞を着けリアルな造形だが体の動きには乏しい。
 
・更に、ここの見所は後壁のレリーフで、壁上部に天龍八部衆が表わされている。




大仏窟 阿修羅像(中央左)


このうち中央寄りの4体は残りがよく、向って右から摩羅迦、阿修羅、龍王、迦楼羅かと思われる。
視線はどうしても阿修羅に行くが、三面六臂の六本の手のうち上方二手で日、月を、中二手で曲尺とコンパス(鋏?)を持ち、手前の二手は胸前で合掌する姿にあらわされている。
いうまでもなく胸前の合掌は興福寺の阿修羅像と同じ形である。

・楼閣には中二階のようなところがあり、ここから全体像を再確認。
造形的には初唐代、則天武后が関与した7C後半頃の作と思われるが、あらためてほぼ完好に残されてきた貴重な造像群に感じ入る。
中二階から外に目を向ければ、嘉陵江のゆったりとした流れと広元の街並みが眺められ、この寺がロケーシュンを選んで建てられたことを実感する。


[38 三壁三龕窟]

・大仏窟より下に降りた階に横長の大きなガラスケースに仕切られた窟龕があった。
前面の壁が崩壊したためケースで保護しているものという。
この中央にあるのが38窟である。

・三壁三龕の石室で、各龕内は1仏2菩薩の三尊形式のようだが一見して古さを感じさせる。




三壁三龕窟


正面龕の中尊坐仏は後壁に頭光から外へ雲気のようなものを発する彩色が目立つ。
頭部に螺髪、肩幅広く、腰を絞り、脚部が薄い特徴的な体つきだが、惜しいことに面部は後世の手直しが入っている感。
服装は、三壁中尊とも双領下垂に右肩にもう1枚の衣を掛けるもので、45窟の如来と同様の形式である。
なかでも、向って左の如来はガッシリした体つきでなかなかに存在感がある。

・案内表示板には北魏晩期の作とあるが、印象としては南北朝後期(西魏〜北周)頃のものか。
いずれにしても45窟とともに四川での貴重な南北朝期の造像であろう。


[51 五仏亭]

・その名の通り1仏2弟子2菩薩の五尊像。
残念ながら頭部を欠く。
後壁に双樹と天龍八部衆のレリーフ。







五仏亭


・中尊如来は等身大の像で薄い衣で体をつつみ衣の襞が美しい。
隣に立つ弟子像とともに右足を軽く前に出す。
菩薩は瓔珞が腹前で交差し全体に残りがよい。
頭部を欠くのが惜しい。

・後壁にはマンゴー系の双樹とその左右に天龍八部衆各4体をレリ−フ表現。
ここの阿修羅も三面六臂。
後方の手で日、月を持ち、前方の手は合掌しており、28大仏窟同様興福寺の阿修羅とよく似た形制。

・全般にバランスよく洗練された初唐代の造像と思われ、印象に残った。



Cこの後、「写心経洞」という巨石3面に彫られた龕や、「則天殿」で金箔に覆われた「武后石刻真容像」などを見学し、出口に向う。

続いて千仏崖石窟を目指す。



                    



inserted by FC2 system